《9月のことば》満月に 君を想う 鹿砦社代表 松岡利康

《9月のことば》満月に 君を想う(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

9月になりました──。

私事ながら、今月私は70歳になります。すでに黄泉の国に旅立った友人や、若い頃に出会い、今はどうしているか気になる人も少なからずいます。

あいつ、こいつ、あの人、この人……想い出とともに懐かしい顔が過(よ)ぎります。

いろいろな人たちに迷惑をかけて私は生きてきました。これから老い支度に入ります。後先さほど長くはありません。同世代ですでに亡くなった人もいるのに、これまで生き長らえてきたのが不思議です。

コロナ禍で思ったように身動きできず、故郷の友人はじめ会いたい人にも会いに行けず満月に想いをいたすしかありませんが。残りわずかとなったわが人生、これからもダメなことはダメと言い続ける、恥じない生き方をしたいと思っています。(松岡利康)

【管理人よりのお知らせ】
9月よりこの「デジタル鹿砦社通信」も新たな寄稿者を迎え、これまで以上に読み応えのあるものになると思います。新たな寄稿者は、森奈津子、黒薮哲哉、さとうしゅういち各氏です。ご期待ください!

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天皇制はどこからやって来たのか〈37〉女官たちの逆襲 横山茂彦

戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)
今こそ鹿砦社の雑誌!

8月9日長崎 青い空だけが変わらない 田所敏夫

わたしは知っている。奴らが「忘却」を武器に時間の経過を利用しながら、あのことを「なかった」ものにしようとたくらんでいることを。

わたしは、ずっと昔から気が付いている。どの時代でも「マスメディア」などは信用するに値せず、少数の例外を除いては、いつでも扇情的で、事実の伝達よりは、体制補完に意識的・無意識的に結果、熱心に作用していることを。

わたしは痛めつけられてきた。異端に対するこの島国の住人からのまなざしに。無言のうちに成立する不気味な「調和」、「規律」、「統一行動」。それから精神的に逸脱するもの、行動で逸脱するものへ、情け容赦なく加えられる、あの集団ヒステリアともいうべき、排他の態度に。目は血走り、殴り蹴飛ばすこともいとはないあの狂気。

わたしは見抜いている。「地球温暖化」を理由とした「脱炭素社会」の大いなる欺瞞を。「炭素」は人間の体を構成する元素じゃないのか。わたしたちは吐息をするごとに二酸化炭素を吐き出しているだろう。一酸化炭素を人間が吸いこめば、下手をすれば死ぬ。でも二酸化炭素がなければどうやって「光合成」は行われるのだ。「光合成」が止まってしまっても、人間や動物は生きていられるのか。「炭素」全体を悪者扱いする議論は、人間だけではなく生態系の否定に繋がるんじゃないのか。違うというのであれば、下段にわたしのメールアドレスを示しているので、どなたかご教示いただきたい。この議論は「地球温暖化」→「二酸化炭素犯人説」→「脱炭素」→「原発容認」→「核兵器温存」とつながる、実に悪意が明確でありながら、当面世界経済に新たな市場を生む分野として、末期資本主義社会には期待されている。わたしは資本主義を激烈に嫌悪し、早期に滅びてほしいと願うものである。

わたしは、激高している。76年前のきょう、灼熱に焼かれた、瞬時に焼き殺された、時間をかけて苦しんで死んでいった、長年被爆の後遺症に苦しんだ、体の記憶を、薄っぺらで限られた時間の中だけで扱えば、それで事足れりと始末してしまう、人々のメンタリティーに。

わたしは、半ばあきれながら軽蔑し、いずれは「矢を撃とう」と考えている。わたしが、被爆影響の可能性が高い症状であることを、明かしたことに対して、ろくな覚悟もないくせに、難癖をつけてくる、ちんけで気の毒な人間に。体の痛みがどれほどのことかもわからないくせに、軽々しくもわたしの体調をあげつらう人間。それは現象としてはわたし個人が対象であっても、そこから射程をひろげれば、被爆者(原爆・核兵器・原発)に対するある種の共通性を持った社会的態度と通じる。「黒い雨裁判」は高裁勝訴を勝ち取るまでに、どれほどの時間を要したことか。個人による侮蔑、行政による不作為または無視。わたしの価値観ではどちらも同罪だ。

2021年8月9日。毎年震度7クラスの地震が起き、原発4基が爆発し、ゲリラ豪雨により毎年河川氾濫は当たり前。世界中で感染症が波状的に襲ってきて、「軽症患者は入院させない」と棄民宣言を平然とのたまう政府。これは「地獄図絵」ではないのか。

わたしは、30年前にこんな「地獄図絵」は予見できなかった。大きな天災や人災の一つ二つはあるだろうとはおもった。人間の知性が総体として崩れゆくだろうとも予感した。毎日が「あたりまえ」のように流れてゆくゆえ、人間は鈍感になる。徹底的に鈍感になっていると思う。2021年8月9日は1945年8月9日と、表情は違うものの「地獄図絵」が展開されていることにかわりはない。

「地獄」におかれてもまだ「地獄」だと感知できず、高らかに乾いた笑い声をあげるひとびとは、さらにそぞろ寒い光景を際立させる。

青い空だけが変わらない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

*「祈」の書は龍一郎揮毫です。
下の「まだ まにあう」は、チェルノブイリ原発事故の翌年に、龍一郎と同じく福岡の主婦が、原発の危険性を説いて人々の自覚を促す長い手紙を書き、これが『まだ、まにあうのなら』という本になりました。佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』は、これに触発されて、福島原発事故後の2011年11月に急遽刊行されました。ご関心があれば、ぜひご購読お願いいたします。お申し込みは、https://www.amazon.co.jp/dp/4846308472/ へ。

龍一郎・揮毫
佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』

佐藤雅彦『まだ、まにあう! ―原発公害・放射能地獄のニッポンで生きのびる知恵』
https://www.amazon.co.jp/dp/4846308472/

 

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉
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1945年同様、2021年も惨禍を止められなかった ── 心底悔しく、怒りをもって迎える8月6日 田所敏夫

◆2021年の日本はあの時の狂気と同次元の無知性に陥っている

広島原爆の直撃によって亡くなったみなさん、その後被爆の後遺症でなくなったみなさん。命は落とさなかったものの長年放射性由来の後遺症に苦しむみなさん。そして世代をこえて被曝による健康被害が疑われるみなさん。

わたしは、2021年8月6日を心底悔しく、怒りをもって迎えます。原爆とはまったく形状も広がり、症状は違うけれども「防ぐことのできる」疫病を、無策な政府によって爆発的な感染を広げてしまいました。

原爆が落とされる前に、広島市民にはなんの防御策も、情報もなかったでしょうが、大日本帝国(とりわけその最高権力者である昭和天皇ヒロヒト)には、敗戦を受け入れる選択肢があったはずです。しかし、そうはならなかった。ヒロヒトはのちに米国による原爆投下を「戦争中であったので仕方なかった」とぬけぬけと記者会見で発言しました。

日本人はみずからの手で最高の戦争責任者に責任を取らせることができなかった。この事実は絶対に忘れてはなりませんし、その反省を胸に刻みながらわたしは生きます。統帥権を持つヒロヒトのもと、市民は1945年に最後は「本土で竹槍決戦だ」と本気で叫んでいました(あるいは叫ばされていました)。あの狂気と同次元の無知性に残念ながら2021年の、日本は陥っています。

◆76年を経てもなお、人間はなにも進歩していない

76年を経て人間は、なにも進歩していません。核兵器廃絶に日本政府は消極的です。驚くほど愚鈍です。そして、たった10年前に福島第一原発で原発4機爆発という人類史上初の大事故を経験しても、あろうことか原発の運転期間を40年から60年へ延ばし、それでも満足せずに60年超の運転を政府は検討しはじめました。冷静な科学者は誰もが「危険極まりない」、「無謀だ」、「事故発生確率は最大化するだろう」と懸念を示しています。その通りだと思います。

8月6日、本当はあの日に思いを巡らせ、犠牲になったみなさんに追悼の気持ちを、新たにするのが穏当な姿だと思います。でも待ってほしい。きょう行われる(おこなわれた)追悼記念式典は、形骸化していませんか。首相菅が発するコメントの中に注目すべき新たな具体的取り組みへの決意がありましたか。あるはずはない。

菅に限ったことでなく、この式典に出席する首相のコメントは、年中行事をこなすように、毎年大した変化はなく、内容も抽象的で凡庸なものばかりです。式次第も毎年変わらぬ進行で、原爆や核兵器への怒りや、どこにも向けようのない思いを発する場所になっていると、わたしには到底思えません。

他方、広島市内では各種団体がこの日に合わせて、各種のアクションを起こします。そちらの方が、生の声を聴くには適した場所かもしれません。

◆1945年と同様、2021年も惨禍を止められなかった

そして、「広島詣」の欺瞞にも一言触れておきます。他国の元首や国際機関の著名人がときに広島・長崎を訪れますが、数少ない例を除き、あのほとんどは演技であると断じます。

もっとも悪辣だったのは、米国大統領だったバラク・オバマが、わざわざ核兵器のスイッチを見せびらかし持参しながら広島を訪れた姿でしょう。平和記念資料館をわずか数分で駆け抜けて、謝罪を一切含まない無内容なスピーチをおこなった後、なぜか被爆者を抱きしめた。背筋が凍るほどの背理でした。最近も現在日本に惨禍を強いて、喜んでいる国際組織の最高責任者が広島を訪れたそうですが、これも広島や被爆者への唾棄すべき侮辱行為と評価するべきだと思います。

残念ながら1945年同様、2021年も惨禍を止められなかった。今年は悔しさと半ば落胆の中でこの日を迎えます。進歩しない人間の姿を原爆犠牲者に見せつけることほど、酷で無様な醜態はないはずです。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

*田所敏夫さんは広島被爆2世で、昨年原爆投下75年にしてカミングアウトされました。心からリスペクトします。田所さんとは、ここ数年、カウンター大学院生リンチ事件の被害者救済・支援と真相究明活動を共にしてきましたが、なぜ彼がこれほどまでに似非反差別主義者に対して厳しく対処するのかと思っていた所、じつは広島被爆2世という存在にあることが判りました。被爆の影響は、昨年春頃から表われ、ずっと体調(精神的にも)不良状態にあります。今後とも支え合って頑張っていきたいと思います。揮毫は龍一郎。(松岡)

龍一郎・揮毫
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号
『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉
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《8月のことば》行け! 風のように 自由に 鹿砦社代表 松岡利康

《8月のことば》行け! 風のように 自由に(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

とめどないコロナ禍と猛暑の中、8月がやって来ました。なかなか自由に身動きできません。

あまり危機感を煽るつもりはありませんが、この国は確実に地獄への道に突き進んでいるかのように感じます。

私たちは、こうした危機に対して、その都度抵抗し闘ってきました。負け続けてきたにしても、私たちは抵抗と闘いで逆流に抗してきました。そのことによって、反動化への歯止めになってきたことは確かです。抵抗や闘いをしなかったら反動の嵐はますます激しくなっていたでしょう。

今は、いろいろな意味で身動きできず風のように自由に行けませんが、一日一刻も早く風のように自由に行けるようになりたいものです。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

《7月のことば》Never Give Up! あきらめないこと つづけること ときどき やすむこと 鹿砦社代表 松岡利康

《7月のことば》Never Give Up! あきらめないこと つづけること ときどき やすむこと(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

龍一郎にしては珍しく英字ですが、意味は言わずもがなです。

今、コロナ禍で多くの方々が呻吟しておられます。

これまでの人生を振り返る歳になりましたが、私(たち)も決して平坦な道を歩んできたのではありません。むしろ苦しかったことのほうが多かったのではないでしょうか。

しかし、生来鈍感な性格もあってか、諦めることを知らないこともよかったのかもしれません。たしかに長い人生、一時的に「もうアカン!」と思ったことは何度もありましたが、「明日は明日の風が吹く」ってなもので、シンドさを翌日に引きずらないように努めました。

コロナ禍、まだまだ油断がなりません。なんとしても生き延びましょう! 人生、諦めたら終わりだ! と、自分に言い聞かせながら──。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

《6月のことば》一日一生 鹿砦社代表 松岡利康

《6月のことば》一日一生(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

1995年、阪神・淡路大震災が起き、オウム事件で震撼させられた年──鹿砦社は「日々決戦 一日一生」の社是を掲げました。

あれから四半世紀、私たちはまさにこの言葉どおり過ごしてまいりました。

いや、そう強いられたと言えるかもしれません。

いろいろなことが過(よぎ)ります。

私個人に立ち返っても、もうすぐ70歳、いよいよ後先も長くはなくなりました。

まさに「一日一生」、日々を悔いなく過ごしていきたいものです。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

《5月のことば》まっすぐ生きていれば 怖いものなどない 鹿砦社代表 松岡利康

《5月のことば》まっすぐ生きていれば 怖いものなどない(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

風薫る季節となりました。本来なら一年で一番過ごしやすい季節ですが、今年も昨年同様新型コロナが終息せず、先が見えない鬱々とした状態です。

5月の言葉は、龍一郎が師事し私も尊敬する中村哲医師の言葉です。

「まっすぐ生きていれば怖いものなどない」――果たして私たちはまっすぐ生きてきただろうか? これまではどうあれ、今関わっている問題、これからぶつかる問題に対してはまっすぐに対応していきたい。

少なくとも「見ざる、言わざる、聞かざる」といったずるい生き方はやめたいと、あらためて思う昨今です。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く  鹿砦社代表 松岡利康

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

 
花咲き乱れる季節となりました。
しかし、世相は暗い。
悠長に咲き乱れる花を眺めている余裕はないかもしれません。

鹿砦社のホームグラウンド・甲子園、一昨年までなら、今の季節は高校野球、これが済んだらプロ野球開幕──全国から多くの人々が駆けつける季節で、咲き乱れる花のように人の洪水で賑やかでした。なにしろ野球だけで年間400万人以上(阪神甲子園球場発表)の人々が押し寄せるのですから。

まだまだ厳しい世情が続きますが、「自由に生き」「自分らしく咲」いていきましょう!
 
 

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号
『NO NUKES voice』Vol.27《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

『NO NUKES voice』Vol.27発行にあたって

2011年3・11東日本大震災‐福島第1原発事故から10年が経ちました。長いようで速かった10年でした。

3・11後、私たちは本誌の前に書籍を数点出しましたが、福島の復旧・復興と共に、福島の想いをわがものとして福島現地からの生きた報告を中心に定期的に発行していこうという決意で後先顧みず本誌を創刊しました。3・11から3年半が経った2014年8月のことでした。

これ以前に、震災後の2011年暮れから福島を忘れないという決意で、魂の書家・龍一郎の力を借りて「鹿砦社カレンダー」を制作し、(当社、たんぽぽ舎への)本誌や『紙の爆弾』の定期購読者、ライターや書店の方々らに無料頒布してまいりました。好評で、当初1,000部から始め現在は1,500部、来年版は1,700部の予定です(内容は毎月1日の「デジタル鹿砦社通信」をご覧ください)。

本誌は、まだまだ採算には乗りませんが、何度も繰り返し申し述べているように、たとえ「便所紙」を使ってでも継続する決意です。

この10年にはいろいろなことがありました。私たちにとって最もショックだったのは、本誌の精神的支柱だった納谷正基さんが急逝されたことです。納谷さんは、お連れ合いが広島被爆二世で若くして亡くなり、その遺志を全うするために、生業の高校生進路指導と、この宣伝媒体のFM放送(仙台)を行っておられ、なんとこの場を使い原発問題を語っておられました。少なからずのバッシングがあったということですが、我関せずで持続しておられました。“志の頑固者”です。本誌の趣旨をも理解され2号目から連載を続けてくださり、毎号100冊を買い取り、学校やFM視聴者らに配布しておられました。

その納谷氏も3年近く前に亡くなられ、娘さんが遺志を引き継ぎ、放送枠を半減させたりして頑張ってこられましたが、矢も底を尽き、この2月、3・11から10年を前にして終了となりました。このかん、どんどんスポンサーは離れ、最後まで支えてくれたのは関東学院大学だけだったということです(あえて名を出させていただきました)。本誌は、そうした納谷さんの遺志を継続することを、あらためて誓います。納谷さんの言葉(警鐘)を1つだけ挙げておきます。──

「あなたにはこの国に浮かび上がる地獄絵が、見えますか?」

この10年の活動で、原発なしでも日本の社会や私たちの生活はやっていけることがわかりました。もうひと踏ん張り、ふた踏ん張りし続け、この国から原発がなくなるまで私たちは次の10年に向けて歩み続けなければなりません。本誌は小さな存在ですが、志を持って反(脱)原発運動や地域闘争に頑張っておられる皆様方の、ささやかな精神的拠点となっていければ、と願っています。

2021年3月
NO NUKES voice 編集委員会

『NO NUKES voice』Vol.27
3月11日発売開始 『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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