正田美智子(平成上皇后)は日清製粉の令嬢だった。日清製粉は祖父正田貞一郎が創業者の中心人物であり、正田一族を中核とする企業と言ってさしつかえない。その意味では創業者の三男を父に持つ正田美智子は、生まれついてのお嬢様だった。

とはいえ、彼女は平民である。皇太子明仁との婚儀に、香淳皇后(良子皇后)や秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮(柳原愛子の親族)らが反対したことは、本連載〈35〉に書いたとおりだ。

学習院在学中の北白川肇子

もともとは、北白川肇子(はつこ=島津肇子)が皇太子妃候補として有力視されていた。

明仁の立太子に前後して、肇子は「お妃候補」として世間の注目を浴びている。1951年7月29日の読売新聞は「皇太子妃候補の令嬢たち」という特集記事で、肇子ら旧皇族の少女たちを紹介している。さらに1954年1月1日の読売新聞の「東宮妃今年中に選考委」という記事でも、肇子の名が報じられた。

当時の日記をみると、旧華族社会や宮内庁の侍従、女官たちのあいだでは、肇子が皇太子妃になるものと思われていた。

◆日本の旧公家社会

敗戦で皇室・皇族の縮小がはかられ、華族制度が廃止されてからも、日本の公家社会は生きのこった。表向きは一般社団法人霞会館として、霞が関ビル34階が所在地となっている。650家740人(当主)が会員で、年に4回の会合のほか各家間の親睦交際で、そのコミュニティを保っている。かれらの間ではふつうに「〇〇公爵のお嬢様」「□□子爵家のご長男」などという言葉が交わされるのだ。

ほかに旧公家(江戸時代以前)で構成される堂上家は「堂上会」として京都に拠点を置き、こちらは御所清涼殿に昇殿できる家格(公卿)にかぎられる。よく京都人が「天皇さんはいま、東京に行かれてはります」というのは、京都こそ公家社会のメッカであり、朝廷は京都御所にあるという意味だが、その実体はこの堂上会ということになる。

政治権力と結びついている「天皇制」を解体する契機があるとすれば、天皇が本来の居場所である京都に帰るときであろう。そのさいの皇室は、皇室御物や歴代天皇が庇護してきた神社仏閣およびその宝物とともに、文化的な存在になるであろう。天皇制を廃止するからといって、タリバンのように仏像を破壊するような主張が、現在の日本国民を占めるとは思えない。反日武装戦線の敗北や皇室ゲリラの衰退がそれを物語っている。

現実的には、以下のようなことが想像できよう。

本朝のながい歴史に照らして、天皇という存在は御所に逼塞して学問に打ち込む。そして政治には口を出さない。国事行為も政府がすべて引き受ける。どうしても位階が欲しい人には、歴代の天皇たちがやってきたように、高い値段で買っていただけばよい。明治いらいの伝統にすぎない叙勲(勲章)も、続けたければ有料にする。これがふさわしいのである。

神社仏閣・宝物・天皇陵墓(発掘が学問的利益になる)などの皇室文化というものに価値があるとすれば、最低限の生活を文部科学省が保証し、百害あって国民的な利益のない宮内庁は廃止してしまう。それがいいと思う。

1959年に成婚。世紀の婚姻で「ミッチーブーム」が起こされた

◆アイドル化こそ民主化の第一歩だった

さて、昭和30年代にもどろう。

北白川肇子嬢の世評もよく、婚約は時間の問題と思われていた。だが、戦後すぐに皇室をアイドル化することで「象徴」へとシフトした天皇制は、閉鎖的な公家社会の維持よりも、国民に開かれることを望んでいた。それが正田美智子の入内にほかならない。これには皇太子の側近、小泉信三(教育掛)の暗躍があったとされる。

1959年に成婚。世紀の婚姻は国民的な「ミッチーブーム」を生み、1964年の東京五輪とともに、高度経済成長の起爆剤となった。馬車と騎馬のパレードまで行なった主役は、あきらかに皇太子妃美智子であり、明仁皇太子は刺身のツマにすぎなかった。

人々の前でも物おじせず、堂々たる体躯に誰もがみとめる美貌。語学に堪能であり、聖心女子大時代にはプレジデント(自治会委員長)を務めた才媛。そんな女性が国民的な祝福を得て「プリンセス・ミチコ」となったのである。この時期に生まれた女性には「美智子」という名前が多い。

そのような社会現象になるほど、開かれた皇室の第一歩は成功した。戦争犯罪の血にまみれた昭和天皇さえ、この時期には神々しく感じられたという。

◆世紀の成婚の陰で

皇室に入る美智子に仕える女官長は、秩父宮勢津子の母松平信子が推挙した、勢津子の遠縁にあたる牧野純子である。前述のとおり勢津子と信子は、美智子の入内に猛反対した母子だ。

ちなみに松平信子は、女子学習院のOG会である常磐会の会長である。常磐会は、明治いらい皇族妃や元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子に対する反対運動が起きていたのだ。陰湿な陰謀さえはかられた。

それは、皇太子妃決定の記者会見でのことだった。正田美智子はVネックに七分袖のオフホワイトのドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところが、ドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかったのだ。

「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」

会見後、早くも宮中からクレームが入る。しかし、である。この手袋は正田家が用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだったのだ。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたというしかない。この手袋事件は、美智子妃イジメの第一幕ともいうべき出来事だった。

成婚後も隠然と、かえって陰湿な嫌がらせ・イジメとなって、それは顕われた。こういう証言もある。

「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)

思わぬクレームが入った美智子妃のドレス姿

イジメの第二弾は、成婚報告で訪れた伊勢神宮でのことだった。このときも美智子妃は白いアフタヌーンドレスで、正装の皇太子(燕尾服を着用)に合わせたものだった。一見して、ロイヤルカップルにふさわしい姿である。だが、これに思わぬクレームが入ったのだ。美智子妃(写真)のドレスのスカートが膨らんでいるのは判るであろうか? このフレアをふくらませるパニエがけしからん、伊勢神宮の参拝には馴染まないスカートだというのだ。

なぜ皇族の女性に相談しなかったのか、ということが問題にされた。いや、相談できるはずがなかった。この日の衣裳も、じつは宮内庁および女官たちが準備したものだったのだ。美智子妃は嵌められたのである。

誰かが、わたしを陥れようとしている? いや、美智子妃が疑心暗鬼になることはなかった。皇太子明仁との仲はむつまじく、懐妊をもってその立場は盤石なものになったからだ。

歓呼にこたえて車窓を開けた美智子妃を、にらみつける(?)牧野純子女官長

そして「国母」となった美智子妃は、思いきった行動に出る。

第一子浩宮が誕生し、そのお披露目に外出したときのことである。クルマの窓を開けて、国民の歓声と報道陣の写真撮影に応えようとする美智子妃を、となりに同乗している牧野女官長がにらみつけている(?)。これこそ、天真爛漫で美貌の皇太子妃が、守旧勢力の嫌がらせの中で、国民に訴えるように見せた笑顔である。

というのも、ここまでの道は極めてきびしく、とりわけ実家の正田家が守旧派からの、陰湿な攻撃を受けていたからだ。

「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」と語るのは、美智子妃の母堂・正田富美子である。亡き富美子は何も言わなかったが、凶器が郵送されてきたり、家を燃やすなどの嫌がらせ電話が掛かってきたという。ほんの一部とはいえ、皇室の敵・国民の敵と言わんばかりの反対運動が起きる。

今日のわれわれは、秋篠宮家の眞子内親王の恋人の母親に借金があることをもって、ふさわしくない。借金問題を解決してから、という世評を知っている。

本人たちの意志よりも「貧乏人のぶんざいで無理な学歴づくりをするのが怪しからん」という、それは変化の時代の憤懣ではないだろうか。もともと島国で育まれた日本人の国民性は、差別的なものなのである。

昭和30年代の日本はまさに、平民のぶんざいで皇室に嫁ごうなどと、許すことで出来ん! 畏れ多いことをする、非常識な一家。だったのである。

しかし美智子妃イジメの陰湿さ、激しさはまだ序の口だった。すなわちイジメの源泉が、夫の母親である光淳皇后・良子だったからだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆戦史は歴史観か、それとも史料になるのか

年々、新たになるのは古代史や中世史だけではなく、現代史においてもその中核である日中・太平洋戦争史でも同じようだ。今年の終戦特集番組はそれを実感させた。

 

『不死身の特攻兵(1)生キトシ生ケル者タチヘ』(原作=鴻上尚史、漫画=東直輝、講談社ヤンマガKCスペシャル2018年)

個人的なことだが、父親が予科練(海軍飛行予科練習生)だったので、本棚は戦史もので埋まっていた。軍歌のレコードもあって、聴かされているうちに覚えてしまい、昭和元禄の時代に軍隊にあこがれる少年時代であった。そういうわたしが学生運動にのめり込んだのだから不思議な気もするが、じつは両者は命がけという意味で通底している。

たとえば三派全学連と三島由紀夫へのシンパシーは、一見すると真逆に見えるが、三島研究を進めるにつれて、そうではなかったとわかる。自民党と既成左翼に対抗するという意味で、三島と三派および全共闘は共通しているのだ(東大全共闘と三島由紀夫の対話集会)。

つまり過激なことが好きで、戦争に興味があるのも、ミリタリズムへの憧れとともに、そこに人間の本質が劇的に顕われるからではないだろうか。およそ文学というものはその大半が、恋愛と戦争のためにある。

◆特攻は志願制ではなかった

戦史通には改めて驚くほどのことではないかもしれないが、テレ朝の「ラストメッセージ“不死身の特攻兵”佐々木友次伍長」は、戦前の日本人の死生観を考えるうえで興味深いものがあった。

その特攻隊は、陸軍の万朶隊という。日本陸軍は基地招集の単位で動くので、万朶隊は茨城県の鎌田教導飛行師団で編成され、フィリピンのルソン島リパへ進出した。そこで特攻隊であることを命じられ、岩本益臣大尉を先頭に猛特訓に励む。ときあたかもレイテ海戦で海軍が敗北し、フィリピンの攻防が激化していた。

最近の特集番組で明らかになったのは、特攻隊がかならずしも志願制ではなかったという事実だ。

従来、われわれの理解では部隊単位で各自に志願を問われ、全員が手を挙げて志願することで、特攻は志願者ばかりだった。と解説されてきたものだ。ところが、実態は「どうせ全員が志願するのだから、命令でいいだろう」というものだったようだ。

レイテ決戦のときの「敷島隊」の関行男中佐も「僕のような優秀なパイロットを殺すようでは、日本も終わりだ」と言い捨てたと明らかになっている。従来、敷島隊は「ぜひ、やらせてください」という隊員の反応(これも確かなのだろう)だけが伝わっていた。

 

大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫2018年)

さて、特攻を命じられた岩本隊長は、ふだんの温厚さをかなぐり捨てて、大いに荒れたが、部下には「大物(空母や戦艦)がいないなら、何度でもやり直せ。無駄死にはするな」と命じていた。特攻の覚悟はあったが、暗に通常攻撃を督励していたといえよう。

岩本は特攻機を改造もさせている。特攻機は爆弾をハンダ付けし、機体もろとも突入することで戦果が得られる。爆弾を内装する爆撃機仕様の場合は、起爆信管が機体の頭に突き出している。

その「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになったのだ。

これは番組では岩本の独断とされていたが、鉾田飛行師団司令の許可を得てあったのが史実だ。

だが、その岩本大尉は同僚の飛行隊長らとともに、陸軍第4航空軍司令部のあるマニラに行く途中に、米軍機に撃墜されてしまう。万朶隊の出撃を前に、司令部が宴会をやるので招いたというものだ。

クルマで来るように指示したのに、飛行機で来たからやられたとか、ゲリラがいるのでクルマで行ける行程ではなかったとか、これには諸説ある。

◆9回の特攻命令

雨に祟られた甲子園大会も、なんとか再開したが野球のことではない。

9回特攻を命じられたのは、下士官の佐々木友次伍長である。佐々木は岩本大尉の教えに忠実に、大物がいなかったから通常攻撃(爆弾投下)で戦果を挙げていた。つまり突入せずに帰還したのである。

ところが、大本営陸軍部は佐々木らの特攻で「戦艦を撃沈」(実際は上陸用揚陸艦に損害)と発表し、佐々木も軍神(戦死者)のひとりとされていた。軍神が還ってきたのである。

第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。

第4航空軍司令部にも帰還報告したところ、参謀の美濃部浩次少佐は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と命じた。

 

鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)

ようするに、天皇にも上奏した戦死なので「かならず死ぬように」というのだ。機体の故障、独断の通常攻撃、出撃するも敵艦視ず、また故障。という具合に、生きて還ること9回。正規の命令書に違反しているのだから軍規違反、敵前逃亡とおなじ軍法会議ものだが、なにしろ岩本大尉の「無駄死にするな」という命令も生きている。戦果も上げる(突入と発表される)から故郷では二度まで、軍神のための盛大な葬式が行なわれたという。詳しくは、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)を参照。
そうしているうちに、フィリピンの陸軍航空団もじり貧となり、第4航空軍の富永恭次中将が南方軍司令部に無断で台湾に撤退した。この富永中将は特攻隊員を送り出すときに「この富永も、最後の一機に乗って突入する」と明言していた人物である。

海軍の特攻創始者である大西瀧治郎は、敗戦翌日に介錯なしで自決。介錯なしの自決には、陸軍大臣阿南惟幾も。連合艦隊参謀長(終戦時は第5航空艦隊長官)の宇垣纏は、玉音放送後に17名の部下を道連れに特攻出撃して死んだ。

本当に特攻は有効だったのか、アメリカ海軍の記録では通常攻撃の被害のほうが大きかった。というデータがあり、従来これはカミカゼ攻撃の被害を軽微にしたがっているなどと解説されてきた。だが、海軍の扶桑部隊などの歴史を知ると、訓練不足の若年兵はともかく、ベテランパイロットによる通常(反復)攻撃のほうに軍配が上がりそうだ。ともあれ、特攻が将兵の自発的・志願制ではなく、日本人的な暗黙の強制だったことは明白となってきた。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)

今こそ鹿砦社の雑誌!

太平洋戦争の終盤、オーストラリアのカウラ第12戦争捕虜収容所には、日本人が1,104人いた。そのうち将校や入院患者以外が集団脱走「カウラ事件」を決行し、231名が死亡、負傷者も108名にのぼる。だが、これに対して戦後、生存者100人にアンケート調査を実施したところ、8割が本音としては脱走に反対していたことがわかっているのだ。

(C)瀬戸内海放送

ドキュメンタリー映画『カウラは忘れない』では、この、実は「自殺のための脱走事件」に触れ、捕虜を恥とする刷り込まれた文化に葛藤する生存者や周囲の人物の姿を描く。そして、近代戦史上最大とも言われる集団捕虜脱走事件の真実から私たちにさまざまな問いを投げかけている。

そこで、満田康弘(みつだやすひろ)監督に、作品の主旨や意図などを尋ねた。

(C)瀬戸内海放送

◆「小さなことでもいいので、自分の意思を通す場面を1つずつ増やしていくこと」

── 満田監督は、KSB瀬戸内海放送高松(岡山)本社にて報道・制作部門でニュース取材や番組制作に携わる立場から、日本軍1人ひとりの現場の姿を追うことを極めていらっしゃったのかなと考えましたが、本作を手がけるきっかけや流れをお伝えいただけますでしょうか。

満田 私の1作目は2016年のドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』で、1942年、日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に着手しました。2作目である『カウラは忘れない』は、このタイ側の拠点に陸軍通訳として勤務していた主人公・永瀬隆さんに教えていただいた話がもとになっています。1976年、彼はタイの元捕虜と日本軍関係者との和解と再会の事業を成功させました。でも、その裏面のように、日本人自身などが捕虜になることは軽蔑されるべきものとして捉えてきた歴史も当然あったのです。

── 『カウラは忘れない』では、複数の元捕虜の方々が登場しますが、特に印象に残った方がいらっしゃれば、教えてください。

満田 そうですね、やはり皆さん、印象的です。たとえば元陸軍伍長の山田雅美さんは、ガダルカナル島撤退作戦に参加の後、1943年、ニューギニア近海で輸送船が米軍の攻撃を受けて撃沈し、約1週間海上を漂流しました。でも、友軍に救助されて九死に一生を得、グッドイナフ島に上陸直後、オーストラリア兵に包囲されて捕虜になった方です。皆さん穏やかな表情ながら、大変厳しい状況のことを話してくれます。

元陸軍伍長の山田雅美さん(C)瀬戸内海放送

元海軍軍属の今井祐之介さんは43年、ニューギニア北部ウェワクで連合軍のすさまじい反攻を受けて撤退し、捕虜になりました。江戸っ子のインテリで、冷静。筋道を立てて分析をする方です。

元海軍軍属の今井祐之介さん(C)瀬戸内海放送

元陸軍上等兵の村上輝夫さんは中国戦線を経て、ニューブリテン島ラバウルの西端ツルブまで行軍。43年に米軍がツルブに上陸しましたが、彼はマラリアの高熱で苦しんでいたために戦闘には参加せず、ラバウルまで撤退途中に瀕死の状態で米軍の捕虜になった方です。純粋で、話しにくそうだったりして、生き残ったことへの憂いが全身から伝わってきます。

元陸軍上等兵の村上輝夫さん(C)瀬戸内海放送

元陸軍兵長の立花誠一郎さんは、鍛冶職人として修業後、43年、パラオを経てニューギニア北部ウェワクに上陸しました。44年、アイタペに連合軍が上陸し、洞窟に潜んでいたところを包囲されて投降、捕虜となりますが、ハンセン病と診断され、診療所脇のテントに隔離されてカウラ事件を迎えています。数奇な運命をくぐり抜けてきた、強く優しい方です。

元陸軍兵長の立花誠一郎さん(C)瀬戸内海放送

── 他の戦争証言に関するドキュメンタリーでも、日本兵の方の複雑な心境が伝わってきたりするものですね。本作でも、劇作家・坂手洋二さん率いる「燐光群」の演劇の後、オーストラリアの方のコメントが率直であるのと対照的であるように感じました。また、やはり日本兵はある種の死を選びます。これらについて、監督がお考え・お感じになったことをお聴かせください。

劇作家・坂手洋二さん(C)瀬戸内海放送

満田 日本人は状況に判断を合わせますね。本作では、食事・医療・娯楽が十分に与えられていた日本人捕虜が、投票によって集団脱走を決行し、「自殺」を選びます。投票とは本来、独立した個としての自らの意思を表明するものです。ところが、そのうえで自分の命がかかっている場面での投票で、彼らは周囲を忖度してしまいました。本来、集団脱走に賛成でも反対でもない人がほとんどだったが、大きな声に流されてしまったわけです。

戦後、民主的な制度を採り入れましたが、その投票時にも判断して投票する人は少なく、テレビのコメンテーターの意見や自らが所属する組織などに左右されがち。ワクチンの接種も同様で、周囲に合わせる傾向もみられます。

今回、登場する演劇もそうです。「馬鹿なことをやめろ」「命を大切にしよう」と言い出す人がいたとしても、結論は変わらない。悲しいことです。

── そして、まさに戦陣訓の一節「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」に象徴されるような、戦後に生まれた世代が皆一様に理解し得ないと口にする思いについて、どのようにお考え・お感じになりましたでしょうか。監督自身のご理解とともに、お伝えいただければ幸いです。

満田 やはり、日本人的という感じでしょうか。でも実は、戦陣訓を示達した陸軍大臣・東條英機自身は、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑されました。「虜囚の辱めを受け」てしまったわけです。

── 現在と未来とで引き継いでいくべき思いや、監督がお伝えになりたかったことなどをぜひ、教えていただけますでしょうか。

満田 せっかく命が助かったのに、死を選ぶ。このような酷い話はないと思うのです。この「カウラ事件」があまり日本で知られていないのは、日本人の問題点を見せつけられるからで、それを見たくないのではないかと思います。こんなことは二度と起きてほしくありません。そのために、1人ひとりが世の中をつくり、未来は自分の力で変えられると考えてほしいですね。差別やいじめも同様の構造にあって、それぞれの意思や自由を保障する制度を尊重すれば、もっと寛容な世の中になるのではないかと。

(C)瀬戸内海放送

── もう1つ重要なテーマとして、「平和」。「平和」といっても、個人的には権力に対して武装闘争が必要なことはあると考えています。国家権力が仕組む暴力であるところの「戦争」には反対ですが。この「戦争」と「平和」に関する監督の考えを、お伝えください。

満田 東條英機のように、権力をもつ人が、最も責任が重い。そのような考え方は当然、あると思います。ただし、その権力者を選ぶのは我々であり、それを支持するのも支持しないのも、すべて自分に返ってくるのです。また、権力者を打倒すれば、よいというものでもないでしょう。やわらかで寛容で、相手を責めるのでなく、自分の考えを伝える。そのようなことをしている個人が社会を動かしているのだと思います。

いっぽう、私が呆れるのは、「鬼畜米英」と皆で言っておきながら、終戦の3年後である1948年には「憧れのハワイ航路」という歌謡曲が発売され、その後ヒットしたこと。そのような流れに安易に乗るのでなく、「戦争と平和」についても根本の考えをもち、「平和の礎」について思いを馳せ、「大東亜共栄圏」が本当に正しいのかを自分の頭で考えなければなりません。現在でも、嫌韓本が書店に並ぶような状況について、考える必要があるはずです。

── ただし、時代や社会状況から完全に自由であることは困難なこと、この社会の人々の村八分をおそれて周囲に迎合しやすいとされる性質などについても、ご意見をお聞かせいただけますでしょうか。

満田 小さなことでもいいので、自分の意思を通す場面を1つずつ増やしていくことが重要でしょう。それしかありません。歴史学者・阿部謹也(あべきんや)氏は、日本にあるのは「世間」であり、西欧の「個人」を前提とした「社会」は近代以降に輸入された物だと『「世間」とは何か』(講談社現代新書)などで述べています。つまり、人間関係の中でいろんなことを決めていくのです。また、本作に登場する提灯を使い終われば、オーストラリアの人々は捨てます。でも、日本人は、そこに魂が宿ると考え、そのようなものを粗末にできません。そして、精霊流しや針供養をするわけですよね。そこも、とても興味深い。でも、キリスト教化が進む以前の12世紀頃までは、ヨーロッパも「世間」が中心で、小説でも名前のない多くの人物が登場します。その後は一神教となりますが、日本は現在でも、多神教・八百万の神で、アニミズム(さまざまなものに霊的存在を認めようとするおこない)。

(C)瀬戸内海放送

つまり、日本は現在でも、自立した個人があるという現在の西欧的な意識ではないと思います。日本人は流されやすい。ワクチンやオリンピックをみても、同様です。でも、きちんと事実・理屈を把握してそれを受け入れるための知恵をつける。論理的な生き方のようなものも身につける。行き過ぎたときにはバランスをとる。私は現時点では、そのようなことが大切なのではないかと考えています。

自由民権運動の指導者であった中江兆民は1901年(明治34年)に刊行された『一年有半』のなかで、「日本人は利害にはさといが、理義にくらい。流れに従うことを好んで、考えることを好まない」と記す。これが現在もなお真実であるかどうかはさておき、思い当たることがある人も多いかもしれない。暴走する政治や経済に関する報道を日々目にするにつけ、命や理義(道理と正義)を優先し、深く考えて選択することが今こそ必要だと感じる。


◎[参考動画]近代戦史上最大1104人に及ぶ日本人捕虜脱走事件の深層とは/映画『カウラは忘れない』予告編

【作品情報】
監 督  満田康弘
撮 影  山田 寛
音 楽  須江麻友
通 訳  スチュアート・ウォルトン/清水健
製 作  瀬戸内海放送
配 給  太秦
後 援  オーストラリア大使館
2021/日本/DCP/カラー/96分
公式サイト https://www.ksb.co.jp/cowra/
Twitter  https://twitter.com/cowra_wasurenai
8月7日(土)より東京:ポレポレ東中野、東京:東京都写真美術館ホールほか全国順次公開

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。映画評・監督インタビューなど映画関連としては、『neoneo』『週刊金曜日』『情況』『紙の爆弾』『デジタル鹿砦社通信』などに寄稿してきた。映画パンフレットの制作や映画イベントの司会なども。月刊『紙の爆弾』2021年9月号には巻頭「伊藤孝司さん写真展「平壌の人びと」から見えてくる〝世界?」、本文「朝鮮の真実(仮)」寄稿。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

前回は、皇太子明仁と美智子妃の婚姻がもたらした、平民出身妃殿下への皇族および旧華族の反発まで解説した。さらにここから、昭和・平成にいたる皇室と宮内庁を巻きこむ現代天皇制の矛盾を解読していきたいところだが、その前に戦前に立ちかえる必要がある。

昭和天皇を支配した女帝を紹介しなければ、現在の皇室がかかえる内部矛盾が、普遍的なものであることを明示し得ないからだ。

明治大帝いらいの天皇権力を、単に大日本帝国陸海軍の大元帥に措定してしまえば、その内実は軍隊をふくめた政治官僚組織と個人(天皇の個性)に、われわれの視点はかぎられる。それが立憲君主制としての天皇機関説であれ、王権の官僚的軍事独裁であれ、近代的な組織によるものだからだ。

しかし、われわれは官僚組織という形式、権力者の個性のほかに、もうひとつのファクターを視ることで、天皇制権力の真実のすがたにせまるべきではないだろうか。

そのもうひとつのファクターとは、皇室の中にある人間関係。すなわち天皇家の家族の肖像、わかりやすくいえば人間関係にほかならない。

◆近代天皇制権力を捉え返す

この連載では、昭和天皇の太平洋戦争における戦争指導の過剰さ、一転して戦局の悪化に直面すると投げ出してしまう、かれの個性のゆらぎを見てきた。

その感情の起伏に、家族というファクターが影響を与えていたとしたらどうだろう。天皇制研究に残されたフィールドが、そこにあるはずだ。

たとえば戦前の天皇制権力を「天皇制絶対権力」(講座派=君主制の近代的帝国主義)や「天皇制ボナパルティズム」(労農派=半封建制的国家独占資本主義に君臨する君主制)などと分析してきた。

これら左派研究者や共産主義運動の党派による分析が、それ自体として何ら国民的な議論に寄与しえなかったことを、戦前の反天皇制運動は教えている。戦後の運動もまた、単に「天皇制廃絶」を唱えることで、アイドル化した象徴天皇制の実体的な批判・国民的な議論に上せることはできなかった。

したがって、これまでの天皇制批判の限界を、われわれは皇室の人間関係のなかから確認できることになるかもしれない。

◆母親に頭が上がらなかった大元帥

いずれにしても、開戦当初からソ連もしくは中立国、バチカン法王庁を介した和平調停を前提にしていた昭和天皇において、そのオプションを後手に回らせたものがあったとしたら、太平洋戦争末期の沖縄・広島・長崎の災禍の原因も、そこにひとつのファクターがあったことになる。

その明確な原因が、ほかならぬ昭和天皇のマザーコンプレックスだったとしたら、愕かれる向きも多いのではないだろうか。そのマザコンの原因は、大正天皇皇后の貞明皇大后なのである。

貞明皇后

◆大日本帝国の国母として

貞明皇大后こと九条節子(さだこ)は、明治17年の生まれである。九条公爵家は平安後期いらい藤原一門の長者で、戦前の華族でも最上位(近衛・一条・二条・鷹司も五摂家藤原氏)といえよう。

節子は幼くして高円寺村の豪農に預けられ、農村育ちの健康さが評判だったという。彼女は野山を駆け回り、いつも日焼けしていたことから「黒姫」と呼ばれていたという。

学習院中等科在学中に皇太子妃候補となり、他の妃候補が健康面で不安視されるなか、満15歳で5歳年上の皇太子嘉仁親王(大正天皇)と婚約、結婚。翌年には迪宮裕仁親王(昭和天皇)を生んでいる。女子はいない。

爾後、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王を生み、国母として皇室に君臨する。とくに秩父宮を親しく接し、昭和天皇には厳しかった。

そのひとつは、2.26事件の時のことである。2.26の蹶起将校たちが、当時弘前の31連隊に大隊長を勤めていた秩父宮を当てにしていたのは知られるところだ(役割の具体性はない)。秩父宮は首謀者の西田税と陸軍士官学校の同期であり、蹶起将校たちと懇談することも多かったという。とくに第三連隊に所属していた頃は、首謀者の安藤輝三と親密だった。

その秩父宮は27日に上野に到着し、ただちに皇居に参内する。2.26将校たちのもとめる「天皇親政」を昭和天皇に具申し、ぎゃくに叱り飛ばされたのである。その後、秩父宮は貞明皇太后の御座所(大宮御所)に行き、そこで長い時間を過ごしている。秩父宮が皇太后から授かった策、あるいは非常時の「大権の趨勢」は何だったのであろうか。この事実は松本清張の未完の大作『神々の乱心』に詳しい。

2.26将校(とくに、皇居方面を担当した中橋基明)が宮城の諸問を押さえていたら、天皇と戒厳軍の連絡がとれず、クーデターは成功していたといわれる。そのさい彼らが掲げる「玉」が、秩父宮だったのだ。

貞明皇后が出産した3人の息子たち。 左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の光宮宣仁親王(高松宮)、次男の淳宮雍仁親王(秩父宮) (1906年頃撮影)

昭和天皇と秩父宮。この兄弟には、5.15事件を前後するころから、天皇親政をめぐる論争が絶えなかったという。すなわち、陸海軍大元帥として軍事政権を指導するべきという秩父宮と、あくまでもイギリス流の立憲君主として国務に臨む昭和天皇の、それは埋めがたい思想的相克であった。

戦争が始まると、昭和天皇との関係が、悪い方向に現出する。

太平洋戦争の戦況が悪化しても、貞明皇太后は昭和天皇が薦める疎開に応じなかったのである。そのために、昭和天皇も皇居に留まることになったのだ。昭和天皇が帝都に留まることで、最前線を指揮する気概が芽生えていたのだとしたら、戦争指導を煽ったのは貞明皇太后ということになるのかもしれない。

そればかりではない。戦勝祈願のために伊勢神宮に参拝するよう指示してもいる。すでに敗色が濃厚な時期である。昭和天皇の頭の中にあった「早期の講和工作」は、いつしか貞明皇太后の戦勝への熱望に感化され、かれもまた戦争指導に熱中し、あるいは敗戦に茫然として、なすすべを忘れたのであろうか。

◆昭和皇后をイジメる

貞明皇大后は姑として、嫁の香淳皇后良子(昭和皇后)には、何かにつけて厳しかったという。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女王)であった香淳皇后に対する、家柄の嫉妬(貞明皇大后は九条家の出身だが、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人々は感じていたという。

宮中で仕える女官たちがその衝突をまのあたりにしたのは、大正天皇崩御の数ヶ月前のこと。すでに摂政となっていた昭和皇太子夫妻が、療養先の葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。

皇太子妃良子(昭和皇后)が、姑である皇后節子(貞明皇太后)の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋を付けたまましぼったのだ。その結果、皇太子妃は手袋を濡らしてしまった。

「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、良子は何も言い返せず、ただ黙っているしかなかった。

幼いころから運動神経もすぐれ、頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后は、日ごろから目下の者を直接叱責することはなかった。それゆえ、この一件を目の前にした女官たちは驚いたという。

「お二人は、嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまったのだ。

そのいっぽうで、3人の弟宮の嫁たち。秩父宮・高松宮・三笠宮の各親王妃を、御所での食事や茶会を度々招いて可愛がった。とくに次男秩父宮の妃・勢津子はお気に入りだったらしく、毎年3月3日の桃の節句には、勢津子妃が実家からお輿入れしたときに持ち込んだ雛人形を宮邸に飾り、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であった。女子を生まなかった皇太后にとって、3人の親王妃は娘のような存在だったのであろうか。

明治天皇時代からの女官・山川三千子の『女官』には大正天皇の私生活、とりわけ貞明皇后との隙間風ともいえる裏話が明かされている。大正天皇崩御後の貞明皇太后があたかも、宮中において大権を振るったことも明らかだが、本稿のテーマから逸れるので参考資料として紹介しておくいにとどめる。山川のような女官たちもまた、天皇をめぐる人間関係の重要な位置を占めているのだといえよう。

いずれにしても、姑と嫁の普遍的な相克・桎梏は、近代天皇家にとって人間くさい逸話でありながら、やがて宮内省(宮内庁)や侍従、女官たちを巻きこんで、昭和・平成の時代まで持ち越されるのだ。まさに人間関係の渦巻く宮廷、愛憎が支配する禁裏である。

昭和天皇が動植物の観察・研究に没頭していくのも、家庭内紛争からの逃避がその動機のひとつではなかったのだろうか――。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆平民東宮妃

正田美智子は1957年(昭和32年)に、聖心女子大学の文学部外国文学科を首席で卒業した。在学中は合唱部や英語演劇部のほか、テニス部に所属していたという。スポーツと学業に秀でた、美貌の才媛という表現が似つかわしい。

卒業した年の8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会で、当時皇太子だった明仁親王と出会う。このときは美智子が明仁を負かしている(対戦はダブルス)。これがテニスコートの出会いとして知られ、その後もテニスを通して交際を深めた。

いったん、正田家に正規の婚儀申し込みがなされるも、正田家はこれを拒否。明仁親王の熱意によって、最終的に婚約が決まったという。

『入江相政日記』によれば、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者が正田美智子の入内に猛反対している。その意を受け、右翼を動かして結婚反対運動を起こそうとした者もいたという。

翌1958年11月には、皇室会議で結婚が了承される。反対論を押し切ったのは、明仁の熱意とそれをうけた、昭和天皇の理解だったとされる。

本格的な皇室民主化は、全国巡幸とともに皇太子の成婚によって始まったのである。これが皇室アイドル化、開かれた象徴天皇制の基本路線となった。

◆宮中某重大事件

じつは昭和天皇自身が、皇后良子(ながこ)の入内に反対された経緯がある。良子の実家である久邇宮家には、島津家との血縁関係があり、島津家には色覚異常の血統があるというものだ。いわゆる「宮中某重大事件」である。

元老の山縣有朋らがうごいて、久邇宮家に婚約辞退をせまるなど、一時は婚儀が危ぶまれた。このとき、裕仁親王に倫理学を教えていた杉浦重剛が、人倫論を訴えて婚約破棄論に抵抗している。

「婚約破棄という人倫にもとることが行なわれれば、今まで親王に倫理を教えてきたのが無駄になり、また良子女王は自殺するか出家するしかなくなる」と訴えたのだ。

ちなみに杉浦が言うとおり「婚約破棄が人倫にもとる行為」であるならば、現在の眞子内親王と小室圭の婚約も、同等に扱われなければならないであろう。

けっきょく婚約破棄という事態は避けられ、この事件はかえって山縣有朋の失脚につながる。

三島由紀夫は『豊饒の海』第一巻『春の雪』において、綾倉聡子と洞院宮治典王(閑院宮載仁親王と閑院宮春仁王の父子をアナライズした人物)の婚約(勅許済み)を解消させることで、聡子を月修寺に入山させる。おそらく三島は宮中某重大事件における杉浦の発言を知ったうえで、ヒロインの聡子を出家させたのであろう。この禁忌の王朝物語が、全編のテーマになる。

じつは宮中某重大事件の後のことになるが、皇族との婚約を破棄された女子がいる。その婚約破棄をした皇族とは、ほかならぬ久邇宮良子(香淳皇后)の兄なのだ。現在の眞子内親王婚約問題とある意味でかさなる、婚約破棄事件の顛末を明らかにしておこう。

 

久邇宮朝融王(あさあきらおう)

◆久邇宮朝融王の婚約破棄事件

久邇宮朝融王(あさあきらおう)が婚約したのは、酒井伯爵家の菊子という女性である。まだ学習院の生徒だった菊子を朝融王が見染めたのである。

『牧野日記』には「大正六年御婚約」とあり、大正天皇の勅許で朝融王と酒井菊子の婚約は整った。

ところが、この婚約を久邇宮家が破棄したいと言い出したのだ。朝融王も父親の邦彦王も「絶対に菊子とは結婚しない」「させない」と言い張ったという。

邦彦王がその理由としてあげたのは「婚約の女には節操に関する疑あり。此疑ある以上は如何なることありても之を嫡長子の妃となすことを得ず」

ようするに、菊子に節操(処女ではない)疑惑があるというものだ。

『牧野日記』には次のように記録されている。

「此れは道徳上の問題たるは勿論、殿下には今日となりては直接御縁続きの事なれば、本件の取扱如何に依りては御立場に非常なる困難を来しては、実に容易ならざる義」「皇室の尊厳、御高徳の旺盛に依って統一を保つ事も相叶ふ次第なり。其皇室に於て人倫道徳を傷つける様の出来事は、極力之を避けざる可からず」

ようするに、良子の婚儀で皇太子殿下の縁戚となった久邇宮において、このような人倫・道徳にもとるような行為(婚約破棄)は極力避けるべきだと。宮内省の首脳陣の苦渋が読み取れる。

けっきょく、宮内省内で調査を重ねた結果、上記の「節操に関する疑」は「根拠なし」と結論づけている。

この結論をうけて、邦彦王は「酒井令嬢品行問題は全く取消」と、節操疑惑を取り下げる。

しかし「両者到底円満の共同生活見込なきに付、可然(しかるべく)大臣におゐて配慮頼む」と婚約破棄を繰り返すのであった(『牧野日記』)。

ようするに、振り上げた拳の落としどころに困り、宮内省で何とか処置してくれ。先方から申し出たように破談にしてくれ、というのだ。

破談交渉が続いているにも拘らず、この騒動は新聞にすっぱ抜かれた。最初に関係記事を掲載したのは9月6日付の『万朝報』だった。追いかけ記事が世間をにぎわせる。

しかも朝融王は、菊子との婚約破棄を正当化する目的で「菊子は不治の肺病なので結婚できない」と、裕仁親王に重大なウソをついていた。

裕仁親王(昭和天皇)は朝融王の不誠実さにあきれ果て、菊子に大いに同情したという。後にこれを忖度した近衛文麿らが奔走して、菊子と前田侯爵家との縁談をまとめている。

破談交渉ののち、宮内省はつぎのような発表をおこなった。

「朝融王殿下酒井菊子と御結婚のこと予て御内定の処、今回酒井家に於て本御結婚の将来を慮り辞退を申出たる趣を以て、宮家より御内定取消御聰済の儀願出られたるに就き、其手統を了せり」

ここに、宮家の体面をまもりつつ、酒井家の側から破談にさせるという、宮家およびその御曹司のわがままが、まかり通ったのである。

のちに酒井菊子は、裕仁親王の同情を忖度した近衛文麿らが尽力し、旧金沢藩主家の前田利為侯爵との縁談がまとめられ、大正14年2月7日に結婚式を挙げた。彼女は前田菊子として四人の子宝に恵まれ、戦後はマナーやエチケットに関する評論家として活躍し、1986年まで生きた。

いっぽうの朝融王は、伏見宮博恭王の三女・知子女王との縁談が成り、大正14年1月26日に婚儀の礼が執り行われた。しかし結婚後も朝融王の素行は悪く、侍女を妊娠させてしまう。戦後は事業に失敗し、親族を頼るも零落したという。

なぜ朝融王が酒井菊子に「節操の疑い」を生じたのかは、推して知るべしであろう。

◆仕掛けられた出会い

平成天皇皇后の「世紀の出会い」「テニスコートの出会い」に、仕掛けがあったのは言うまでもない。教育係の小泉信三だとする説もあるが、そうではない。現在では聖心女子大が、その窓口だったと考えられている。

というのも、テニスコートの出会いの前年度に、正田美智子は三島由紀夫と歌舞伎座観劇で見合いをしている(観劇ののち、井上という料亭で歓談)。このときの仲介者は不明だが、在学中だった聖心女子大の推薦(縁談許可)がなければ、そもそも成立しない。

けっきょく、平岡家(三島の実家)がわから断ったことになっているが、三島は母といっしょに聖心女子大の卒業式を見に行っている。本人は乗り気だったのだろう。祖母のなつが「商家の娘など」と反対したのが有力説だ。

そしてもうひとつは、天皇側近の動きである。

当時のお妃選び取材班で、元朝日新聞顧問の佐伯晋によれば「歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳」の努力があったという。

「民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果がお2人のご婚約・ご成婚だ」(JCASTニュース)。

こうして皇太子ご成婚は、正田美智子の名をとってミッチーブームを起こすほど、国民を熱狂に巻き込む。

だがその裏側には、隠然たる民間東宮妃反対運動があった。上述したとおり、ほかならぬ香淳皇后良子が反対の急先鋒であり、皇室そのものが賛否両論に揺れたのだ。

皇后良子は静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き「東宮様の御縁談について、平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたという。

皇后とともに反対派にまわった、旧皇族の梨本伊都子の日記(婚約発表当日)を紹介しておこう。

「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」(11月27日)。

北白川肇子を東宮妃に推薦していた松平信子も、明仁が正田美智子との結婚を決めたことに「妃は華族すなわち学習院出身者に限る」という慣例を主張して反対した。

これらの反対派は昭和天皇の意向にしたがって、皇室会議の決定を了承したものの、隠然たる平民東宮妃反対派として宮中および旧公家社会に残存した。

そう、彼女たちとその末裔こそが、宮内庁の旧華族守旧派とともに、美智子妃を苦しめるのである。そんななかで昭和天皇裕仁は、生物学の研究に没頭してゆく。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

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保守派による昭和天皇の評価として「帝王学を修められた英邁」とするものが少なくない。その評価は君子にたいする形式的な賛辞であり、実質は激動の昭和史を国民の苦難とともに生きてきた共感であろうか。

かえりみて上記の賛辞をみたす内実があるとしたら、戦中の戦争指導の過多による講和工作の遅滞を別として、時におうじて適切な対応をこなした几帳面さであろう。大正天皇が女官制度(側室)を遠ざけ、昭和天皇において廃止したこと。人間宣言や皇太子への民主教育、これから取り上げる皇太子の民間人との結婚など、天皇制と皇室の民主化に果たした、一定の役割はみとめられるべきであろう。

だがそれにしても、中国戦争における和平工作の不徹底。太平洋戦争の開戦時における和平工作の不徹底、サイパン陥落を目途に講和へ転じることができなかった「戦争ギャンブル症候群」ともいうべき戦争指導へののめり込みは、その道義的責任や法的責任(形式)をこえて、戦争犯罪への責任が問われてしかるべきであった。

小野田寛郎が言うとおり、昭和天皇の責任の取り方における出処進退の不明確さが、戦後日本の無責任な風潮をもたらしたのは疑いないところなのだ。その昭和天皇の戦後をたどってみよう。

◆昭和天皇の戦後改革

昭和天皇の「人間宣言」は有名だが、原文(ほぼ漢文カナ書き下し)を知っている人はあまりいないのではないだろうか。正確にいえば、日本は神話の国ではなく、天皇も現御神ではないと言っているだけで、天皇が人間だとはひと言も書かれていない。

参考までに、原文の冒頭部と訳文(全文)を掲載しておこう。冒頭には「五箇条の御誓文」が引用され、わが国は近代化の「国是」として民主主義があった。とすることで、明治維新の精神に立ち返り、国家再建にいそしもう、というほどのものだ。

【原文冒頭】
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

【訳文=全文】
ここに新年を迎える。かえりみれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない
お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。

大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。

 

そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。

思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。

しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。天皇を現御神(あきつみかみ)とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。 私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。 そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。

一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心をひとつにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う。

以上のごとく、天皇の人間宣言は文言にはない。国民が「臣民」ではなくなったというのは、つぎのフレーズによるものであろう。

天皇と国民の絆は「信頼と敬愛」によって結ばれるべきで、わたしが任命した政府は国民のために万全の施策を準備しなければならない、と。

◆皇室現代化(民主化)の妙案とは?

さて、明治大帝の全国巡幸にならって、昭和天皇は国民との接点を親しくするいっぽう、皇室改革も具体化しなければならなかった。そのひとつは東宮(皇太子)の教育であり、その結婚もまた現代的(民主主義的)なものにしなければならない。皇統の継承とはつまり、皇位継承者の婚姻がその真髄なのである。

しばらく戦争にかかる暗いテーマがつづいたので、ここからは天皇家の唯一性という、皇統の正統性の根幹。すなわち婚姻をテーマにすすめていこう。そのことはまた、現在の秋篠宮家にかかる自由恋愛結婚にかさなるテーマでもある。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後に天皇の戦争責任が本格的に問われるのは、1975年を待たねばならなかった。しかし当の昭和天皇は、みずからの政治責任・戦争指導責任に敏感だった。昭和24年12月19日の拝謁では、田島道治宮内庁長官が当時の皇太子を早く外遊させるべきだという昭和天皇に理由を尋ねたところ、昭和天皇はこう語っているのだ。

【皇太子への譲位の意志】
「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ 又退位等ノ論が出テ イロイロノ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考ヘラルヽノデ ソノ為ニハ 東宮チャンガ早ク洋行スルノガ ヨイノデハナイカト思ツタ」と語ったと記されている。

これから自分の退位や譲位も考えられるが、そのためには皇太子(明仁)が海外訪問をして、即位するための準備をすることが必要なのだ、というのである。皇太子への譲位を考えているよ、という意味にほかならない。

ところが一方で、昭和天皇はこの直後にこうも語っている。

「東宮ちやんは大分できてゝいゝと思ふが、それでも退位すれば私が何か昔の院政見たやうないたくない腹をさぐられる事もある。そして何か日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」と述べ、

当時まだ若い皇太子に位を譲れば「院政」と言われ、日本のためにならないのではないか。というのだ。ようするに、退位や譲位はまだ早いと。退位を迷いながらも、皇太子の成長に頬をゆるめる。父親としてのまなざしも感じられるところだ。
いっぽう国民からの視線は、やはり隠忍自重を旨としているようだ。以下は静養に御用邸を使うこと、宮殿がうしなわれた宮城での住まいについてである。国民の苦しい境遇が「ひがみ」を持つのではないかと言うのだ。その「ひがみ」が自分の信用を落とすのではないかと心配している。

【別荘での静養】
昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論など唱へる人達、生活ニ困った人 特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「それは境遇上のひがみと思ふが、そういふ人のある事を考へても行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されている。

【住まい】
昭和24年8月30日の拝謁では、昭和天皇は御文庫(住居として使っている防空施設)の改築・新築について、こう述べている。
「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘リ(あま)皆ワルク思ツテナイ様デ 一部ニハ退位希望者アルモ 大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ 私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ 私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハ ツマラヌト思フ」

【終戦の詔勅の本意】
そして田中道治は、戦争責任に関する天皇の本音を聞いてもいる。昭和26年8月、静養先の那須御用邸で拝謁したさいに、昭和天皇は「長官だからいふのだが」と前置きしたうえで、終戦の日に放送された「終戦の詔勅」の内容に触れたというのだ。
「あれは私の道徳上の責任をいつたつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが、地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが、道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して 多少とも償ふといふ意味であるがデリケートである」と述べたとされる。

そのまま理解すれば、退位して楽な生活をするのもいいが、道義上の責任を感じるからこそ、天皇の地位にとどまって責任を償うのだ。ということになる。見た目はカッコいいが、かなり体裁を意識した発言という印象だ。

昭和26年12月13日の拝謁では、独立回復を祝う式典で述べるおことばの文案を検討する中で、昭和天皇はこう語っている。

「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」と述べ、田島長官が「それは織り込みますれば結構でございますが、余程六ケ(むつか)しいと存じますが、どこかに其意味ハ出なければならぬと存じます」と返している。じつは退位をしないかわりに、天皇と田島は、国民への公式の謝罪を検討していたことがある。

◆発見された天皇による、国民への謝罪(草稿)

天皇の「国民への謝罪詔書草稿」を、田島が起草していたのだ。書かれたのは昭和23年前後と推定されるが、それは東京裁判の判決が下った時期でもある。草稿が発見されたのは2003年のことだ。

 

【原文】
朕、即位以来茲ニ二十有余年、夙夜祖宗ト萬姓トニ背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ 勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能ク支フルナク、先ニ善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト 構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終ワリ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル。屍ヲ戦場ニ暴シ、命ヲ職域ニ致シタルモ算ナク、思フテ其人及其遺族ニ及ブ時寔ニ忡怛ノ情禁ズル能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或イハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ、剰ヘ一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時憂心 灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。身九重ニ在ルモ自ラ安カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ負荷ノ重キニ惑フ。
然リト雖モ方今、希有ノ世変ニ際會シ天下猶騒然タリ身ヲ正シウシ己レヲ潔クスルニ急ニシテ國家百年ノ憂ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸ムガ如キハ眞ニ躬ヲ責ムル 所以ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽ヘ敢テ挺身時艱ニ當リ、徳ヲ修メテ禍ヲ嫁シ、善ヲ行ツテ殃ヲ攘ヒ、誓ツテ國運ノ再建、國民ノ康福ニ寄與シ以テ祖宗 及萬姓ニ謝セントス。全國民亦朕ノ意ヲ諒トシ中外ノ形成ヲ察シ同心協力各 其天職ヲ盡シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ國威ヲ恢弘センコトヲ庶幾フ。

【訳】
 私が即位してこの二十数年、朝起きて夜寝るまで歴代の天皇や祖先、国民の期待を裏切るようなことがないよう、勉めてきたが、時勢の流れに支えきれず、周辺諸国との善隣平和な関係を失い、列強諸国と戦争状態となった。そして、遂に悲痛な敗戦となり、そして今日の見るに耐えない災難が甚だしい状況になってしまった。
 国民が死体を戦場にさらし、命をその職や受け持ちの範囲で散らしたが、そのかいもなく敗れてしまった。その本人やその遺族の皆さんのことを思うと、まことに憂いに痛む思いが止められない。
 戦闘で傷つき、戦災を被り、あるいは、身柄をまだ外国に抑留され、財産を外地で取り上げられたりする例もまた、数えきられない。おまけに、一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住が困窮して、膨大な苦痛は、日本が始まって以来の災難と言ってもいい、ひとり静かにこの事を思うと、憂い心が焼ける思いだ。
 私の徳が無い為にこのような結果となり、深く天下に謝罪するものです。身は皇居に在るのだけれども、とても落ち着いてはいられない。心を国民のもとに置き、責任の重さに心惑う。
 しかし現在まだ、歴史始まって以来の変化に遭遇して、世間はまだ騒然としている。自分だけ潔く退位することは、責任から逃れるだけで、逃げ出すことは責任をとることにならない。
 現在の国内世界情勢を考えると、国家国民の為に挺身し、その時代の難問題に当たり、徳を修めて禍を寄せ付けず、善を行って災いを掃い、国の再建国民の幸福に寄与することを誓い、それをもって、歴代天皇や国民に謝罪することにさせて下さい。
 国民の皆様、再び、私の誠の意思を理解し、国内国外情勢を察して、一致協力 それぞれの仕事に励み、この非常事態の世の中を乗り越え、国の力を広げ回復することをお願いしたい。

ここでも、退位して責任を投げ出すのは無責任であるから、国民のために挺身したい。国民も一致協力して国の再建に尽くしてほしい。というものだ。

◆原爆はしかたなかった

そのいっぽうで、昭和50年には「国民への謝罪」の内実が問われる事態も起きた。記者会見で「原爆は仕方なかった」と口をすべらせたのである。記者会見は昭和50年10月31日に日本記者クラブが主催し、皇居宮殿内の「石橋(しゃっきょう)の間」で行われたものだ。

このシリーズの冒頭に挙げた「(戦争責任という)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。」につづく答弁になる。

秋信記者 天皇陛下にお伺いいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。

昭和天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。

軍部および天皇が原爆投下を知っていた(テニアン方面への諜報活動)という説については、別稿に改めたい。戦後天皇制はやがて、皇太子(明仁)の民間人との婚儀という、幸福のオブラートに包まれながら、象徴として定着していくことになる。そのさいに始まった宮中守旧派との暗闘は、今日もなお皇室を覆っている。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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6月19日付け「デジタル鹿砦社通信」に横山茂彦氏の【《書評》月刊『紙の爆弾』7月号〈後編〉「【検証】『士農工商ルポライター稼業』は『差別を助長する』のか」(第九回)での鹿砦社編集部への批判に答える 】が掲載されました。

 

〈タブーなき言論〉月刊『紙の爆弾』7月号

鹿砦社ならびに「デジタル鹿砦社通信」、また月刊『紙の爆弾』は〈タブーなき言論〉を目指し、意見の相違があろうとも様々な立場を尊重する姿勢を保つべく、努力しております。横山氏の記事は「鹿砦社編集部の筆者への批判に答える」と表題が示されている通り、現在部落解放同盟と鹿砦社の間で、交わされている表現についての問題について横山氏の意見表明です。

その原稿の元になっている記事は『紙の爆弾』7月号に掲載された、鹿砦社編集部の文章です。関心のある方はぜひ『紙の爆弾』7月号の《「士農工商」は「職階性」か「身分制度」か 再考》をご一読ください。そこでは、私たちの基本的な疑問を、素直に問いかけ、この問題をどのように考えればよいのか?を解放同盟や読者にも問いかけています。黒薮哲哉氏のご指摘もその中で引用させていただいております。

権力者ではない、また社会的に力を持たない誰かを傷つける内容でない限り、また差別を助長する表現ではない限り、広く意見表明を行っていただく場所として存在したい。「デジタル鹿砦社通信」は〈自由な言論の場〉でありたいと考えますし、それはこれまでも実践してきました。意見表明にも「過ち」はあり得ますので、事実関係の誤認や、間違った理解があれば、私たち自身がこれまでも訂正を行ってきました。

私たちがここ5年余り関わって来ている「カウンター大学院生リンチ事件」についても「私たちの言っていることに誤りがあれば指摘してほしい」と公言しています(が、言論での反論らしい反論はありません)。

そして、敢えて付言いたしますが、6月19日掲載の横山氏の意見は、私たちと同じではありません。しかし、活発な議論喚起のためと、〈自由な言論〉確保のために横山氏に訂正や修正を押し付けたりはしません。当然です。

以上、短いですが、言論と個々の意見表明について、私たちの基本的な考えを、表明いたします。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

自身が批評されていることもあり、つい長くなった誌面紹介は、【検証】「士農工商ルポライター稼業」は「差別を助長する」のか(第九回)『「士農工商」は「職階制」か「身分制度」か 再考』である。

 

衝撃満載!タブーなき月刊『紙の爆弾』7月号

楽しみにしていた「伝説のルポライター竹中労の見解」は、昼間たかし氏の「士農工商ルポライター稼業」に関する部落解放同盟の中間報告がまだ、という事情から掲載延期となった。

「竹中労の見解」(差別事件)というのは、美空ひばりをリスペクトする記事の中で、「出雲のお国が賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」というものだ。

これを部落解放同盟が糾弾し、双方ではげしいやり取りがあったとされる。ここで言えることは、下層階級出身や下層労働者などが、竹中労において身分差別である部落差別と混同されていることであろう。部落差別は「貧困」や「地域格差」だけではない、貧富にかかわらず存在するものだ。富裕な人々でも「お前は部落民だ」と差別されるのである(野中広務への麻生太郎の差別的発言)。

◆そもそも黒薮氏のコメントは「批判」なのか?

さて、その代わりというわけでもないと思うが、わたしが本通信に掲載した下記の記事と、それに対する黒薮哲哉氏の松岡利康氏のFBでの批判コメントが取り上げられている。

◎横山茂彦「部落史における士農工商 そんなものは江戸時代には『なかった』」(2021年3月27日)

◎横山茂彦「衝撃満載『紙の爆弾』6月号 オリンピックは止められるか?」(2021年5月8日)

だが、本誌今号の引用記事を一読してわかるとおり、「差別の顕在化は近代的な人権思想によるもの」「これまでの差別がおかしいなと気づくのは、じつに近代人の発想なのである」というわたしの論脈と、黒藪氏の「搾取・差別の認識が生まれるのはおそらく次の時代でしょう」に、ほぼ内容上の異同はない。

その時代には顕在化しない差別も、つぎの時代の価値観で明らかになる。と、同じことを主張しながら、不思議なことに黒薮氏は、わたしを「批判」しているのだ。
自分と同じ内容で「批判」された相手に反論するのは、およそ不可能である。

それがなぜ「典型的な観念論の歴史観で、史的唯物論の対局(ママ)にあります」となるのか? そもそも黒薮氏には、どの文脈がどう「観念論の歴史観」なのか、そして氏が拠って立つらしい「史的唯物論」がどのようなものなのか、FBへの書き込みに何の論証もない。

したがって、わたしは本通信の記事を誤読されたものと「無視」してきた。だが黒藪氏にとっては不本意かもしれないが、今回活字化されたことで、氏の過去の記事にさかのぼって検証せざるをえない。

もうひとつ、今回活字化されて気づいたことだが、黒薮氏は江戸時代に「階級や階級差別が客観的に存在しなかったことにはならないでしょう」と述べている。鹿砦社編集部も「本誌の立脚点は、黒薮氏のこの意見に極めて近いといえます」という。身分差別を階級差別と言いなしているのだとしたら、大きな錯誤と言わざるを得ない。

階級とは生産手段の私的所有を通じた、所有階級とそれに隷属せざるをえない非所有階級の分化という意味であり、江戸時代においては武士階級と百姓・町民階級が身分制と相即な関係にあるのは間違いではない。

しかし、百姓と被差別部落民は身分において武士階級に分割支配されているのであって、そこにある差別を階級間とはいえないのだ。百姓の中にも名主(庄屋・肝煎)などの村役人、本百姓(石高持ち)、水呑百姓の階級区分を、もっぱら土地所有によって、われわれが「階級差」としているにすぎない。そこには貧富の差が階級差別とそれをふくむ身分差別でもあっただろう。

ひるがえって、被差別民の多くは寺社に従属しては死穢にかかる役割を得て、町奉行に従属しては刑務を役目とすることが多かった。これらの場合、寺社代官や武士階級に従属する「階級」とは言い得ても、百姓との関係では身分の違い、そこにおいて差別を受ける存在だったというべきである。これを逆に言えば、一般の百姓よりも富裕な被差別民もいたという意味である。つまり両者を分けるのは階級差ではなく、身分差ということになる。

身分差別と階級差別を混同する危険性は、その独自性(部落解放運動と労働者の階級闘争)を解消する、いわゆる左翼解消主義の思想的基盤となると指摘しておこう。これらのことについては、さらに稿を改めて歴史的な解消主義をテーマに詳述したいと考える。

◆論点は「士農工商ルポライター」である

黒薮氏の松岡氏FBにおける「批判」を無視していたのは上記のとおり、黒薮氏の論旨の混乱に反論したところで、議論すべき論軸から逸れる可能性が高かったからである。

この考えは今も変わらない。それよりも黒藪氏においては、12月号の「徒に『差別者』を発掘してはならない」において、「現在、江戸幕府などが採った過去の差別政策が誤りであったとする」世の中の認識があるから「士農工商ルポライター稼業」が「差別を助長する世論を形成させることはない」「差別表現ではない」とした認識は、そのままでよいのだろうか。

これ自体、わたしはきわめて差別的な見解だと思う。記事中に杉田水脈議員の差別的な言辞を例に、昼間たかし氏を擁護しながら展開される「意図しない差別は差別ではない」という論脈についても、撤回されないのだろうか。杉田議員擁護については、今回の事件の部落差別を助長する重大なテーマゆえに「論軸」をずらさないために「無視」してきたが、書いた責任はこれからも問われると予告しておこう。

わたしは「紙爆」1月号の「求められているのは『謝罪』ではなく『意識の変革』だ」において、身分差別は時の権力者の政策ではなく、われわれをふくめた国民・一般民の中にこそあると指摘してきた。それゆえに、部落差別は意図せずに起きるのだ。

差別的表現を「名誉棄損」と混同する点や「寝た子を起こすな」的な記述(ここに大半が費やされている)も、部落解放運動の無理解にあると指摘してきたつもりだ。これらへの反論・釈明・あるいは必要ならば自己批判こそ、黒薮氏の行なうべきことであろう。

◆論軸をずらさない議論

議論において「論軸」をずらし、戦線を拡大してしまうことについては、元新左翼活動家の悪い倣いで、わたしには論争相手を壊滅的に批判する作風の残滓がある。

いわゆる論争(批判・反批判)というものは論軸をしぼり、相互批判の方向を発展的な論点に導く必要がある。言いかえれば当該のテーマにおいて、論争それ自体が有益な議論を獲得するのでなければならない。

つまり、いたずらに相手をやっつける議論ではなく、議論の中から研究的な成果が得られる内容がなければならないのである。それに沿って、議論をすすめていこうと思う。

◆「職階制」は近代的概念である

ところで、鹿砦社編集部のいう「職階制」とは、どの文脈で出てきたのだろう?
そもそも、わたしは記事中に「『職分』(職階=職業上の資格や階級。ではない)」と、わざわざ鹿砦社編集部の誤用を指摘したつもりだった。

『広辞苑』によれば、職階は「経営内の一切の職務を、その内容および複雑さと責任の度合いに応じて分類・等級づけしたもの」となる。

わたしは「職分」(職業上の本分)とは書いたが、職階なる言葉・概念が江戸時代の歴史研究に馴染むものとは考えない。そもそも士農工商が「職階制」であるとの主張をしたつもりもない。

というのも、いまや江戸時代に「農民」という概念・呼称があったのかどうかという疑問が提出されているからだ。士農工商ばかりか、村人や農民という呼称すら史実にふさわしくないと、歴史教科書から消されつつあるのだ。

「士農工商」の「士」のつぎに「農」という概念が強調されるのは、幕末・明治維新の農本主義思想(平田国学)に由来すると、以前から指摘してきたところだ。つまり思想上の問題であって、それこそ重農思想がもたらした「観念論」、現実にないものを言語化したものなのである。

東京書籍の『新しい社会』のQ&Aから引用しておこう。

≪「百姓」とはもともとは「一般の人々」という意味でした。「百聞は一見に如かず」などと使われるように,「百」という言葉は「多くのもの,種々のもの」を意味します。やがて,在地領主として武士が登場すると,しだいに年貢などを納める人々を指すようになり,近世には武士身分と百姓身分が明確に区別されることになりました。百姓身分には,漁業や林業に従事する人々もおり,百姓=農民ということではありません。≫

◆差別は再生産される

議論すべき論点は、部落問題が江戸時代の「封建遺制」(日本共産党の見解)ではなく、現代もなお再生産されるもの、ということである。

すなわち、現代における部落問題の歴史的本質は、資本主義的生産諸関係の資本蓄積と、資本の有機的構成の可変にもとづく、景気循環における相対的過剰人口の停滞的形態(景気の安全弁、および主要な生産関係からの排除)。そこにおける封建遺制としての差別意識の結合による差別の再生産構造、生産過程とそれを補完する共同体が持つ同化と異化による差別の欲動(共同体からの排除)、そしてその矛盾が激しい社会運動を喚起する。帝国主義段階においては、金融資本のテロリズム独裁(ファシズム)が排外主義思想を部落差別に体現し、そこでの攻防は死闘とならざるを得ない。これらの実証的な検証という論点こそ、今日のわれわれが議論すべき課題なのだ。かりにも「史的唯物論」にもとづく分析方法ならば、部落問題に限っては、これらをはずしてはありえない。

これが70~90年代階級闘争の大半を、狭山差別裁判糾弾闘争をはじめとする部落解放運動に、部落民の血の叫びを間近に感じながら糾弾を支援し、またかれらに糾弾されながら経験してきた理論的地平である。

◆江戸時代に身分差別が存在したのは言うまでもない史実である

ひるがえって「『職階制』か『身分制度』か」という鹿砦社編集部の設問自体が、士農工商に即していうならば、論証不可能(史料で実証できない)ということになる。身分制はともかく、職階制はそもそも近代概念なのである。

士農工商の制度的な存否と、江戸時代における身分差別の存否は、もって異なるものなのだ。ここでも「論軸」は、士農工商の存否と身分差別の存否、として区別されなければ、議論の意味がない。

そして江戸時代に身分差別があったかどうかは、江戸時代がそもそも身分を固定する身分制社会(身分間の移動は可能だったが)であり、百姓身分のほかに差別的に扱われる「被差別民」が存在したことに明白である。くり返すが、士農工商が身分制度かどうか、とはまったく別の議論なのだ。

その「被差別民」も具体的には、各地方で呼称も形態も異なり、現代のわれわれが考えるほど単純なものではない。

たとえば東日本では「長吏」、西日本では「皮田(革多・河田)」、東海地方では「簓(ささら)」、薩摩藩では「四衢(しく)」、加賀藩では「藤内」、山陽地方では「茶筅」、山陰地方では「鉢屋」、阿波藩では「掃除」など。

高野山領では「谷の者」あるいは「虱村(しゃくそん)」、長州藩では「宮番」、と、地形と地域を表す呼び方もある。これらを総称して「穢多」といえるのは、家畜の死骸を処理する固有の「特権」があり、食肉・皮革産業に従事していた職業的な特徴である。家畜の遺骸を処理することが賤視につながったのは、百姓たちの共同体と仏教信仰を範疇に納めなければ理解できない。

ほかにも被差別民の存在は、中世いらいの伝承や慣習、地域的に劣悪な条件があいまって、中世的な「惣(村落共同体)」の排他性や地域的な検断や公事(裁判)などによって形成されたものであって、為政者が「公文書」で上意下達的に「差別」させたものではないのだ。

いっぽう、「非人」は罪刑によって非人とされた者、寺社に従属する職業身分、あるいは罪人を取り扱う職業、浮浪者を排除する非人番の者たちという具合に、「穢多」とは職業・地域の構成要件がちがう。

ただし、江戸にいたとされる非人数千人は、非人頭を介して穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下にあったというから、単純に線引きできるものではないようだ。
以上のごとく、江戸時代が身分差別のあった社会であることは、これで十分に納得いただけるものと考える。そして得られる結論は「士農工商……」が、江戸時代の身分差別の根拠ではない、という論点である。(了)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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