◆被差別部落の歴史、起源を学ぶということ

部落差別が謂(いわ)れのない差別であること、人為的なつくられた身分制の残滓であることを知るには、その起源を知る必要がある。そしてこれも前提になることだが、部落差別は顕在化することでその本質が明らかになり、差別に反対する人権意識をもって、はじめて差別をなくす地点に立つことができる。そのためにも、部落の起源と歴史を学ぶことが必要なのである。

『紙の爆弾』9月号において、差別を助長する表現があったと、部落解放同盟から指摘された。※詳細は同誌11月号、および本通信2020年10月7日《月刊『紙の爆弾』11月号、本日発売! 9月号の記事に対して解放同盟から「差別を助長する」と指摘された「士農工商ルポライター稼業」について検証記事の連載開始! 鹿砦社代表 松岡利康」》参照

解放同盟の指摘、指導とは別個に、本通信においても表現にたずさわる者として大いに議論することが求められるであろう。差別は差別的な社会の反映であり、われわれ一人ひとりも、そこから自由ではないからだ。まさに差別は、われわれの意識の中にこそある。そこで不肖ながら、多少は部落解放運動に関わった者として、議論の先鞭をつけることにしたい。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号より

月刊『紙の爆弾』2020年11月号より

◆被差別部落の起源はいつだったのか?

 

井上清『部落の歴史と解放理論』(1969年田畑書店)

わたしの世代(70年代後半に学生時代)は、部落問題の基本文献といえば井上清(日本史学・当時京大教授)の『部落の歴史と解放理論』(田畑書店)だった。

井上清は講座派マルクス主義(戦前の共産党系)の学者だが、思想的には中国派と目されていた。したがって、共産党中央とは政治見解を同じくせず、政治的には部落解放同盟に近かった。全共闘運動、三派系全学連を支持したことでも知られる。

その歴史観は階級闘争史観であり、部落の起源を近世権力(豊臣秀吉・徳川家康)の政策に求めるものだった。もともと産業の分業過程で分化していた地域的な集団や職能集団、あるいは漂泊していた集団を、政治権力が戦略的に配置することで被差別部落が発生した、とするものだ。

国境防衛(区分)のいっぽうで、領主権力と農民一揆の相克を外化(外に転嫁する)する「階級闘争の沈め石」として、被差別部落が必要とされたとする。このあたりが階級闘争史観の真骨頂であろう。土地と民衆は一体であり、それゆえに土地の支配が身分制と結びつく。

それゆえに、部落の本質は政治権力によって人為的に作られたとするものだ。なるほど身分社会の形成は、武士と百姓の分離は秀吉の刀狩にはじまり、家康の儒教的統制によって完成する。この儒教的統制とは、世襲による身分の固定化である。したがって身分社会の完成は江戸時代の産物であり、このかぎりで井上理論は間違っていない。穢多身分の集団が牛馬の処理を専業とする、職能と身分、居住地の固定が行なわれたのだ。

 

柳田国男『被差別民とはなにか 非常民の民俗学』(2017年河出書房新社)

いっぽうで、被差別部落を主要な生産関係からの排除とする、経済的な形成理由も明白だ。近世権力は民衆の漂泊をゆるさず、上記のとおり戦略的に土地に縛り付ける「定住化」をうながした。漂泊していた集団が新たに定住化するには、しかし農業耕作に向かない劣悪な土地しか残されていない。おのずとその集団は貧窮するのだ。貧窮が差別につながるのは言うまでもない。この立論は柳田国男によるものだ。柳田は賤民の誕生を「漂泊か定住にある」とする(『所謂特殊部落ノ種類』)

ただし、職業の分化は古代にさかのぼる。律令により貴族階級の職階、およびそれに従属した職能集団(部民)の形成である。

中世には民衆の職業分化も、流動的な職能集団の中から発生してくる。流民的な芸能集団や工芸職人集団、あるいは神人と呼ばれる寺社に従属する集団。なかでも仏教全盛時代に牛馬の遺体の処理、すなわち穢れにかかわる職能が卑賎視されるのは自然なことだった。その意味で、部落の起源を中世にさかのぼるのは必然的であった。

これらの職能集団が江戸期に穢多あるいは非人として、百姓の身分外に置かれるようになるのだ。ちなみにここで言う「百姓」は、今日のわれわれが考える農民という意味ではない。百の姓すなわち民衆全体を指すのである。百の姓とは、さまざまな職業という謂いなのだ。つまり農民も商人も、そして手工業者も「百姓」なのである。

◆非人は特権層でもあった

ところで「士農工商」という言葉は、現在では近代(明治以降)の概念だとされている。少なくとも文献的には、江戸時代に「士農工商」は存在しないという。したがって「士農工商穢多非人」という定型概念も、明治以降のものであろう。

じつは江戸時代には、士分(武士)と百姓(一般民)の違いしかなかったのだ。人別帳外に公家や医師、神人、そして穢多・非人があった。この人別帳とは、宗門改め人別帳(宗門台帳)である。最初はキリシタン取り締まりの人別帳だったが、のちには徴税の根拠となり、現代の戸籍と考えてもいいだろう。

そしてその人別帳外の身分は、幕府によって別個に統制を受けていた(公家諸法度・寺院諸法度など)。

穢多・非人が江戸時代の産物でなければ、どこからやって来たのだろうか。穢多・非人の語源をさぐって、ふたたび中世へ、さらには古代へとさかのぼろう。

 

網野善彦『中世の非人と遊女』(2005年講談社学術文庫)

一般に非人は、非人頭(悲田院年寄・祇園社・興福寺・南宮大社など)が支配する非人小屋に属し、小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。いわば寺社に固有の集団だったのだ。神社に固有の「犬神人」と同義かは、よくわかっていない。

網野善彦の『中世の非人と遊女』(講談社学術文庫)によれば、非人の一部は寄人や神人として、朝廷に直属する特殊技能をもった職人集団でもあった。これを禁裏供御人(きんりくごにん)という。朝廷に商品を供給する職人だったのだ。

その意味では、一般の百姓(公民)とは区別されて、朝廷に仕える特権のいっぽう、それゆえに百姓から賤視(嫉妬?)される存在でもあった。この場合の賤視は、少なからず羨(うらや)みをふくんでいただろう。

非人はそのほかにも、罪をえて非人に落とされるものがあり、非人手下と呼ばれる。無宿の者は、野非人や無宿非人と呼ばれる。江戸時代は無宿そのものが罪であり、江戸市中に入ることは許されなかったのだ。

笹沢佐保の「木枯らし紋次郎」で、紋次郎が江戸に足を踏み入れてしまい、夕刻に各辻の木戸が閉まる前に脱出しようと焦るシーンがある。笹沢佐保は時代考証にすぐれた人で、無宿者が夜間の江戸市中に存在できないことを知っていたのだ。


◎[参考動画]木枯し紋次郎 食事シーン

◆「餌とり」が語源だった

さて、近世部落の起源とされるのは、非人(広義の意味)のうち、穢多と呼ばれる集団である。江戸期の穢多は身分制(儒教的世襲制)の外側にある存在で、上記の非人とは異なり幕府および領主権力の直接統制を受けていたとされる。かれらは検断(地方警察)や獄吏など、幕藩体制下の警察権の末端でもあった。

穢多が逃亡農民や古代被征服民という俗説もあるが、史料的な根拠にとぼしい。なかでも異民族(人種)説は部落解放同盟から批判され、ゆえに「部落人民」という表現ではなく「部落大衆」「被差別部落大衆」という表現が適切とされる。われわれ日本人全体が、古代からの先住民と渡来人の混在、混血した存在であると考えられているように、人種的には部落民も同じである。異民族説を採った場合、そもそも日本人とは何なのかということになる。上記のとおり、日本人も「異民族の雑種」である。それでは、穢多の語源は何なのだろうか。

 

辻本正教『ケガレ意識と部落差別を考える』(1999年解放出版社)

文献的には『名語記』(鎌倉期)に「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑたとなつく、如何」「ゑたは餌取也。ゑとりをゑたといへる也」と記されている。

同時代の『塵袋』には「根本は餌取と云ふへき歟。餌と云ふは、ししむら鷹の餌を云ふなるへし」とある。ようするに「餌とり」から「えとり」そして「えた」である。

この「餌とり」とは、律令制における雑戸(手工業の集団)のひとつ、兵部省の主鷹司(しゅようし)に属していたとされる。

つまり、もとは鷹などの餌を取る職種を意味していたのだ。それが転じて、殺生をする職業全般が穢多と呼ばれるようになったものだ。『塵袋』にあるとおり、狩猟文化と密接な関係を持つ人々を指して「えた」と呼ぶようになったのである。

そしてそれが、穢れが多い仕事をする「穢多」という漢字をあてたと考えられる。

穢多の語源については、別の考察もある。辻本正教は『ケガレ意識と部落差別を考える』(解放出版社)において、穢(え)は戉(まさかり)で肉を切るという意味で、「多」がその「肉」という意味であるとしている。

いずれにしても、古代・中世の穢多は職業分化に根ざすものといえよう。近世において、定住化による差別が顕在化する。人為的につくられた分断と反目、政治的に仕掛けられた差別というとらえ方を前提に、近代における差別構造を考えていこう。(つづく)

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造
〈前編〉  〈後編〉

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

最新刊!『紙の爆弾』12月号!

119代光格(こうかく)天皇は、近代の天皇権力を強く主張した天皇である。30年以上も在位し、退位後の院政をふくめると、幕末近くまで50年以上も権力を握っていた人物である。博学にして多才。朝儀再興にも尽くし、その事蹟は特筆にあたいする。

光格(こうかく)天皇

なかでも有名なのは、寛政の改革期に松平定信と争った尊号一件と呼ばれる事件であろう。自分の父親(閑院宮典仁親王)に太上天皇号の称号を贈位しようとしたところ、松平定信がそれに猛反対して争った事件である。父親の典仁親王が摂関家よりも位階において劣るため、天皇は群議をひらき参議以上40名のうち35名の賛意をえて、太上天皇号の贈位を強行した。皇位を経験しない皇族への贈位に、先例がないわけではなかった。

ところが、老中松平定信はこれを拒否した。議奏の中山愛親、武家伝奏の正親町公明を処分し、勤皇派の浪人を捕縛する事態に発展した。この事件の裏には、十一代将軍徳川家斉が実父・一橋治済に大御所号を与えようとしていた事情があり、治済と対立関係にある定信は贈位を拒否するしかなかったのだ。そして勤皇派の台頭を背景にした公武の対立が、徐々に煮詰まりつつあった。

光格天皇の行動の基底には、彼が傍系であったことが考えられる。閑院宮家からいきなり天皇家を継ぐことになった光格天皇は、血統としては傍系であって、後桃園天皇の養子になることで即位している。天皇としての立場も当初は微妙な位置にあり、そのことから自己のアイデンティティを持つために、天皇の権威を強く意識したのではないかと考えられる。

孝明(こうめい)天皇

◆孝明天皇と幕末の激流

その子・仁孝天皇もたいへんな勉強家で、朝儀の再興につとめ、漢風謚号の復活や学習所の設立を実現する。この学問所(のちに京都学習院)には、気鋭の尊皇攘夷派が集うことになる。そして仁孝天皇の崩御後、幕末のいっぽうの大立役者、孝明(こうめい)天皇の即位へといたる。

学究肌の祖父・光格天皇、実父・仁孝天皇にたいして、孝明帝は政治的かつ意志的な天皇であった。一貫して強行な攘夷論をとなえ、しかしその政治方針は佐幕・公武合体派だった。幕末動乱における孝明天皇の役割り、決定的なシーンをふり帰ってみよう。

ペリー来航に先立つ弘化3年(1846年)、孝明天皇は父帝崩御をうけて16歳で即位した。この年、アメリカの東インド艦隊司令官・ビッドルが来航したほか、フランス・オランダ・デンマークの船舶があいついで来航し、通商をもとめてきた。

16歳の孝明帝は幕府にたいして、対外情勢の報告と海防の強化をうながしている。まさに少壮気鋭の君子である。朝廷内部に口出しをする幕府に反発していた、歴代の天皇とはおよそ次元がちがう。国のすすむべき指針を、みずから口にしたのである。

いよいよペリー艦隊が来航すると、天皇はさらなる海防強化を幕府にもとめ、参勤交代の費用を国防費にあてるよう提案している。そして幕府がむすんだ日米和親条約には「開港は皇室の汚辱である」と、断固反対の意志をあらわす。老中堀田正睦の調印許諾の勅許を、天皇は断乎として拒否したのである。

けっきょく、幕府は大老井伊直弼が勅許を得ないまま欧米各国と通商条約をむすび、ここに日本は開国する。その一報をうけた孝明天皇は激昂した。もはや今の幕閣は頼りにならない。尊皇攘夷派の重鎮である水戸斉昭に、幕政改革の詔書を下賜するのだった(戊午の密勅)。ここにいたって、幕府と朝廷の外交方針をめぐる対立は極限にいたる。それは当然ながら、すさまじい反動をもたらした。

すなわち、幕藩体制が崩壊させかねない朝廷のうごきに激怒した井伊直弼による安政の大獄、尊皇攘夷派にたいする熾烈な弾圧がおこなわれたのである。そして日本は、局地的ながら、流血の内乱に陥った。

桜田門外の変によって井伊直弼が殺害されると、京都市中は尊皇攘夷派の活動が活発になり、それを弾圧する寺田屋事件(薩摩藩による粛清)。8月18日の政変による、長州派公卿の追放(七卿の都落ち)。さらには禁門の変において、長州勢を一掃する事態となる。尊皇攘夷をとなえる長州を、攘夷をねがう朝廷が排除するというアンビバレンツな事態は、ひとえに幕府との関係をめぐる落差である。そこに孝明天皇の悲劇があった。この「落差」については、くわしく後述する。

天皇は公武合体を促進するために、妹宮の和子内親王を14代将軍家茂に嫁さしめようとした。有栖川熾仁親王と婚約中であった和宮がこれを拒否すると、生まれたばかりの寿万宮をかわりに降嫁させるなどと、妹を相手にほとんど脅迫である。和宮の降嫁が実現しなければ自分は譲位する、和宮も尼寺に入れるなどと、無茶なことを言いつのっての縁組強行だった(「公武合体の悲劇」参照)。

しかしながら、幕府とともに攘夷を決行するという天皇の政治指針は、開国・倒幕の情勢に押しつぶされていく。諸外国の艦隊が大坂湾にすがたを見せると、さすがに通商条約の勅許を出さざるをえなかった。慶応2年には薩長同盟が成立し、世論は「開国」「倒幕」へと傾いていくのである。

孝明天皇と薩長の「落差」を解説しておこう。近代的な改革・開明性を評価される明治維新は、じつは毛利藩(長州)と島津藩(薩州)による徳川家打倒の私闘でもあった。関ヶ原の合戦いらい、徳川家の幕藩体制のまえに雌伏すること268年。倒幕は薩長両藩の長年の念願であり、ゆるがせにできない既定方針だったのだ。

天皇は形勢逆転をはかって、一橋慶喜(水戸出身)を将軍に擁立するが、その直後に天然痘に罹患した。いったん快方に向かうものの、激しい下痢と嘔吐にみまわれてしまう。記録には「御九穴より御脱血」とある。この突然の死には暗殺説があり、長州藩士たちによるものとも、岩倉具視らの差し金によるものともいわれる。いずれも明確な証拠があるわけではないが、傍証および証言はすくなくないので後述する。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

◆博識の女帝

江戸期のもうひとりの女帝は、後桜町(ごさくらまち)天皇である。彼女の即位は、幕府と朝廷の対立ではなく、公家社会の大きな変化によるものだった。

後桜町(ごさくらまち)天皇

江戸期の朝廷の課題は、朝儀(皇室行事)の復活という、貴族社会の伝統文化を取りもどすことにあった。明正天皇の異母弟で俊英の後光明帝が最初に手をつけ、幕府も徐々に予算を付けるようになっていた。名君のほまれが高い八代将軍徳川吉宗による享保の改革は、奢侈をいましめる反面、朝廷に対しては理解があり、この時期には朝儀の復興も行われている。

こうして朝儀というかたちは整いつつあったものの、その担い手である摂関家は衰亡の危機にあった。摂関家では若年の当主ばかりとなり、朝儀の運営も満足にできない状況に陥っていたのだ。これに対して政務に関与できない位階の低い、若い公家のあいだで不満が高まりつつあった。

徳大寺家の家臣で、山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、その急先鋒となった。竹内は大義名分の立場から、桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ、久我敏通、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸、今出川公言、中院通雅、西洞院時名らに神書や儒書を講じるようになっていく。幕府の介入と摂関家による朝廷支配に憤慨していた若手の公家たちは、桃園天皇にも竹内式部の学説を進講させることに成功した。宝暦6年(1756年)のことである。 やがて、竹内の講義をうけた若手公家の中に、雄藩の勤皇有志を糾合して、徳川家から将軍職を取り上げる計画を広言する者まで現れるにいたる。

これに対して、摂関家がうごいた。幕府との関係悪化を憂慮する関白一条道香は、近衛内前、鷹司輔平、九条尚実とはかって、天皇近習7名(徳大寺、正親町三条、烏丸、坊城、中院、西洞院、高野)の追放を断行したのである。ついで一条道香は、武芸を稽古したことを理由に、竹内式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。竹内式部は京都所司代の詮議を受け、宝暦9年(1759年)に重追放に処せられた。

この事件で幼いころからの側近を失った桃園天皇は、一条道香ら摂関家の振舞いに反発を抱き、にわかに天皇と摂関家の対立が激化する。すでに幕末の反幕勤皇派と旧守派公卿との対立が、ここに胚胎していたといえよう。

宮中が混乱するうちに、桃園天皇は22歳の若さで急逝した。皇子の英仁親王はまだ五歳である。代わりに桜町天皇の娘・智子が後桜町天皇として即位した。新しい女帝は22歳、宝暦12年(1762年)のことである。
 
8年後の明和7年(1770年)、13歳になった英仁親王が後桃園天皇として即位する。31歳で上皇となった後桜町は、新天皇のことをとても心配していたようだ。後桃園の即位直後に、前関白近衛内前に、「をろかなる われをたすけの まつりごと なをもかはらず たのむとをしれ」という和歌を書き送っている。翌年の歌会始めでは、「民やすき この日の本の 国のかぜ なをたゞしかれ 御代のはつ春」と詠んでいる。女帝の日記には、幼い皇太子に教え、詩歌を添削する記録がのこされている。

かように後桜町天皇は、古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。筆にもすぐれ、宸記、宸翰、和歌御詠草など、美麗な遺墨が伝世している。彼女は『禁中年中の事』という著作を残し、和歌の他にも漢学を好み、譲位後には院伺候衆であった唐橋在熙と高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。まさに博識、学者天皇と称するにふさわしい女帝であった。

安永8年(1779年)11月、女帝が薫陶をたくした後桃園天皇も、父と同じ22歳で急逝してしまう。今度は亡き帝の生まれたばかりの娘(欣子内親王)が一人いるだけで、また帝の弟で伏見宮家を継いでいた貞行親王も、7年前に12歳で亡くなっていた。

そこで、後桃園天皇の死が秘されたまま、公卿諸侯、幕府などと調整が行われた結果、閑院宮家六男の兼仁親王を後継にすることになった。その兼仁親王は、亡帝の後桃園天皇から見れば父の又従兄弟ということになり、血筋はまったくの傍系であった。これが光格天皇である。

この即位以前に、後桜町上皇は貞行親王(光格天皇)の和歌を熱心に添削している(日記)。ことあるごとに光格天皇の相談に乗り、さながら影の女帝のごとくであった。朝廷の教育者として君臨し、あるいはのちに「近代への国母」と呼ばれる女帝は、やはり独身で生涯を終えている。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

古代の6人の女帝たちは、慌ただしい政治情勢に翻弄されながらも、大王(おほきみ)としての強権政治をもって政局を乗りこえた。その態様はおよそ「中継ぎ」という飾りではなかった。

蘇我・物部両氏の権力闘争を、そのいっぽうで体現した推古女帝。政争と戦争に身を投じた皇極(斉明)女帝。壮大な藤原京造営を実現し、古代律令制国家の天皇権力の頂点をきわめた持統女帝。女系天皇として君臨した元明女帝・元正女帝。そして藤原氏との仏教政策をめぐる暗闘ののちに、古代巫女権力の最後を飾った孝謙(称徳)女帝。

三十三代推古から四十八代称徳までの十五代(207年間)のうち、女帝の在位はじつに六人八代(80年間)におよんでいる。その天皇権力の全盛時代、女帝は男性天皇と天を二分していたのである。

武家の時代には将軍家の北条政子や日野富子、今川氏の寿桂尼など、政治に辣腕をふるう女性たちが歴史をかざった。戦国期の井伊直虎、立花誾千代、北条氏姫など、武家の当主として名を残した女性たちもいる。そのいっぽうで、逼塞する禁裏には女性が活躍する場はなかった。それは朝廷が政治的な求心力をうしなっていたからだ、と見るべきであろう。

皇統の中にふたたび女帝が現れるのは、儒教的な男尊女卑の気風がつよくなった江戸期においてだった。徳川幕府の禁中並公家諸法度によって、朝廷が政治的な権能をうしなっていたからこそ、新たなパワーが公武の緊張感をつくりだしたのではないか。それは公武の軋轢でもあり、新しい時代への萌芽でもあった。具体的にみてゆこう。

称徳(孝謙)天皇いらい、じつに八五九年ぶりに女性として帝位についたのは、明正(めいしょう)天皇である。「和子入内」でもふれたとおり、幕府の公武合体政策によって生まれた皇女である。

明正天皇

◆孤独の女帝

践祚したとき、女帝はわずか七歳だった。彼女の即位は、実父・後水尾天皇の突然の譲位によるものだ。この天皇交代劇には、三つの事件が背景にある。

そのひとつは、後水尾天皇に将軍秀忠の娘・和子を嫁さしめようとしていたところ、女官の四辻与津子とのあいだに子があることが発覚したのである。幕府は天皇の側近をふくむ六名の公卿を「風紀紊乱」の名目で処罰し、四辻与津子の追放をもとめてきた。後水尾天皇に抵抗のすべはなかった。禁中並公家諸法度がただの空条文ではなく、幕府の強権であることに禁裏は震えあがった。

幕府の政治介入はつづく。後水尾天皇はこれまでの慣習どおり、沢庵ら高僧十人に紫衣着用の勅許をあたえた。だが、これが幕府への諮問なしに行なわれたため、法度をやぶるものとして勅許は無効とされる。これにたいして沢庵宗彭(そうほう)、玉室宗珀(そうはく)らが意見書をもって抗議するや、幕府は高僧たちを流罪としたのである。怒ったのは後水尾天皇である。

さらに幕府は和子の入内にあたって、春日局(斎藤ふく)を参内させる。前例のない暴挙と受けとめられた。無位無官の女房が昇殿したことに、宮中は大混乱となる。怒り心頭にたっした天皇は突如として譲位し、七歳の少女を帝位に就けたのがその顛末である。

この譲位はまた、幕府からの血である皇后和子の娘・明正を帝位に就けることで、皇統から排除しようというものでもあった。朝廷は徳川家が外戚になることを嫌ったのである。女帝が生涯婚姻できず、したがってその血脈は独身のまま絶えてしまうのだから──。

在位中の明正天皇はまったくのお飾りであって、後水尾上皇の院政はその後に生まれてくる皇子を後継とするものだった(中和門院の覚書)。じっさいに女帝は二十一歳で退位し、異母弟である後光明天皇が即位する。

この譲位の直前に、将軍徳川家光は四か条からなる黒印状を、新しい院となる明正天皇に送付した。すなわち、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止。および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第一条)。

血族は年始の挨拶のみ対面を許し、他の者は摂関・皇族といえども対面は不可とする(第二条)。

行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合は、新院の伝奏に届け出て、表口より退出すること(第三条)。

両親のもとへの行幸は可。新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は、両親いずれかの同行ならば可。新院のみの行幸は不可とし、行幸の際にはかならず院付の公家が二名同行するべきこと(第四条)であった。これら上皇の院政を寸分もゆるさない、徳川幕府の異様に強権的な命令で、女帝は駕籠の鳥となったのである。院政をみとめない幕府の方針は、時代は前後するが霊元天皇の項でみたとおりである。

のちに明正は得度して太上法皇となり、仙洞御所で72歳の孤独な生涯をすごす。手芸や押し花が趣味だったという。まことに、政治の犠牲となった生涯であった。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

◆逆境にたち向かう天皇たち

わが皇統は政治的衰退の中でたびたび、英明で剛胆な帝を輩出してきた。古代王朝が崩壊したあとの天皇は、平安期には摂関家藤原氏に、鎌倉期には武家政権の伸長に圧迫された。南北騒乱後の室町期には経済的な逼塞に、そして江戸期にいたると形式的な権能すらも奪われた。

にもかかわらず、豪腕な君子はあらわれるのだ。たといその権能が武家の権勢に虐げられたものであろうと、傑出した人物はかならず業績を残す。平安後期に後三条帝が貴族との戦いのすえに、院政を確立する過程をわれわれは見てきた。鎌倉末期には後醍醐帝の建武の中興に、武家から政権を奪還するこころみを知る。衰退いちじるしい江戸期においても、霊元帝が朝儀を復興させるめざましさに出会う。

京都御所

霊元天皇を語るまえに、その父・後水尾天皇にいたるまで、戦乱期の天皇たちの労苦をたどってみよう。南北合一朝の後小松天皇いらい、朝廷は室町幕府という公武政権のもとで衰亡してきた。後小松から二代後の後花園天皇の時代になっても、南朝の残党が内裏を襲撃して神器を奪う事件が起きている。そして応仁・文明の大乱が京都を焼きつくす。後土御門・後柏原・後奈良の三代にいたり、即位や葬儀の費用も幕府に頼るほど、皇室財政は窮乏する。

武家の戦乱によって荒廃した京都と朝廷を救うのは、やはり武家の権勢であった。織田信長、豊臣秀吉の天下平定の過程で、天皇は戦国大名の調停者としての地位を確立するのだ。足利義満いらいの幕府「院政」からの、それは相対的な独立性をもたらすものだったともいえよう。

戦国大名間の調停という独自性を獲得した正親町天皇、後陽成天皇をへて、後水尾天皇は即位した。すでに徳川幕府は大御所家康、二代将軍秀忠の時代で、豊臣家を滅ぼす計画に入っていた頃である。後陽成天皇が家康との不和から潰瘍をわずらったすえに譲位、弱冠15歳の即位であった。その当代および院としての「治世」は、戦国末期から霊元帝が即位するまで、70年の歳月をかさねている。晩年に造営した修学院離宮にみられるよう、学問と芸術を愛したことでも知られる。

その生涯は、禁中並公家諸法度をもって禁裏を統制する徳川幕府との戦いだった。後述する徳川和子の入内にかかる公卿の処分、紫衣事件など幕府との軋轢のうちに、突然の退位をもってその意志をしめした。徳川家の血をひく娘・明正帝をへて、その意志は息子たちに引きつがれる。嫡男の後光明帝は天才の名をほしいままにした俊英で、十代で儒学に精通する。そして久しく行なわれていない朝儀の復活に取り組んだが、22歳の若さで亡くなる。

弟の後西帝は識仁親王(霊元天皇=後水尾天皇の十九皇子)への中継ぎとしての即位だったが、在位中に火災や地震にみまわれた。とくに明暦の大火にさいして、幕府はこれを天皇の不行状によるものと断じた。ために後西帝は、十歳の霊元帝に譲位する。何という言いがかりであろうか。江戸で起きた火災の責任を、京都の天皇が取らなければならなかったのだ。実際の失火元であった老中阿倍忠秋はその非を問われないばかりか、日蓮宗妙本寺に責任が帰せられている。

霊元天皇の業績として数えられる大嘗祭の復活は、33歳で朝仁親王(東山天皇)に譲位してからのものだが、それこそが院政を敷いた深謀遠慮によるものといえる。というのも、院は朝廷の法体系の枠組みの外側にあり、したがって禁中並公家諸法度による幕府の統制が効かないのである。平安期の摂関政治との戦いとは、また違った意味で江戸期の院政は独自性をもっていた。幕府は院政を認めない方針を通告するが、霊元上皇はこれを黙殺した。

在位中の霊元帝は、後水尾法皇の遺命で決定していた第一皇子(済深法親王)を強引に出家させ、それに反対した小倉実起を佐渡に流刑にする小倉事件を起すなど、荒っぽい行動をためらわなかった。親幕派の左大臣近衛基熙を関白にさせないためには、右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓人事を行なっている。また、若いころには側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こし、これを諌める公卿を勅勘の処分にする。武家伝奏正親町実豊を排除するなど、やりたい放題である。

この時期の歴代天皇にみられるのは、後光明天皇のごとき儒教や朱子学への傾倒、あるいは神仏分離を唱える垂加神道への接近であろう。霊元天皇が一条冬経を関白にしたのも、冬経が垂加神道派だったからである。ライバルの近衛基熙はといえば、神仏習合を唱える吉田神道を支持していた。江戸期の朝廷において古神道への回帰志向が顕著になるのは、徳川幕府の仏教優先政策への反発ともいえる。やがてそれは、幕府も奨励する儒教と結びついた国学として、幕末の尊皇思想に結実していくのだ。

いよいよ近代の天皇を語るところまで歩を進めたわれわれは、その前に二人の女帝を記憶にとどめるべきであろう。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

ここまで六人・八代の古代女帝を紹介してきた。女性天皇は江戸期の明正帝(興子・一〇九代)と後桜町帝(智子・一一七代)をふくめて「八人・十代」ということになっている。

神功皇后(じんぐうこうごう)(歌川国芳『名高百勇伝』より)

ところが飛鳥王朝以前にさかのぼると、あと二人の女帝を歴代の史書はみとめているのだ。その一人は有名な神功(じんぐう)皇后である。この連載の08回「朝鮮半島からの血が皇統を形づくっている」でもふれた仲哀帝の皇后であり、応神帝の母親ということになっている。

「歴代の史学はみとめている」と、ことわったのは「記紀」の神話的な部分がその典拠だからである。神話的な記述をどこまで史実とするかは、同時代の文献や伝承・記録で証明する以外にないので、関連記事のない神功皇后の実在性はとぼしいと言わざるをえない。

いちおう触れておくと、「日本書紀」であるという説もある「王年代紀」に、彼女の即位が記録されている。この「王年代紀」が中国に伝わり、痘代の「新唐書」(列伝一四五東夷日本)と「宋史」(列伝二五〇)にも記述されている。中国に記録が伝わったのは、十世紀末のことである。

だが、中国の史書にあるから史実だと言えないのは、出典が神話世界に仮託されたものだからだ。神功皇后のモデルは卑弥呼説、朝鮮出兵の陣(九州)で亡くなった斉明女帝(皇極天皇)とする説(直木孝次郎)がある。じっさいに江戸時代まで、神功皇后は天皇という扱いだった。

もうひとり、一般の人はほとんど知らない「幻の女帝」がいるのだ。ふつうの歴史解説本には載っていない。いや、幻の女帝というのは語弊があるだろう。その女帝は実在性がきわめて高いうえに、同じ「日本書紀」の記述とはいえ具体的な(粉飾されない)エピソードの持ち主なのだ。その名を飯豊(いいとよ)天皇という。

皇極(こうぎょく)天皇

◆女帝は処女でなければならなかった

「日本書紀」の清寧天皇時代の記録に、飯豊女帝は「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」とある。飯豊青皇女は第一七代履中天皇(405年没)の娘とされている(「記紀」)から、清寧帝の時代には、少なくとも74歳になっているはず(このあたりが古代天皇史のいい加減なところで、やたらと天皇たちが長寿)だが、彼女は初めて「女の道を知る」(日本書紀)のだ。70歳をこえて「初体験」をしたというのだ。女は骨になるまで、とはよく言ったものだ。

別伝では履中帝の息子(市辺押磐皇子)の娘という記述があり、その場合は「70代で初体験」ではなくなる。20歳前後(雄略時代・清寧時代で27年間)ということになるから、記事の真実性が増す。

「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交(まぐはい)したまふ、人に謂りて曰く『一女の道を知りぬ、また安(いづく)にぞ異(け)なるべけむ、終(つい)に男に交はむことを願(ほり)せじ』とのたまう(※ここに夫有りといえること未だ詳らかならず=日本書紀編者注)」

「わたくし、初体験をして女になりましたが、どこか違うのではないかと感じました。また男とやりたいと願ってはいません」と訳してみた。初体験を語るとは、かなり明け透けな性格だったことがうかがえる。

文中に角刺宮(つのさしのみや)とあるのは、奈良県葛城市の忍海に実在する(現在は角刺神社=近鉄忍海駅下車徒歩4分)飯豊皇女の居住地である。

「日本書紀」の編者はおそらく、飯豊皇女が帝位を嘱望される存在だから、彼女がセックスをしたことに愕き、この記事を残したのであろう。帝位に就く女性は、独身でなければならなかったはずだからだ(卑弥呼・孝謙女帝などの例)。

そこで「※夫有りといえることは未だ詳らかならず」とあるのは、「彼女がセックスをしたからといって、その相手が夫になったとは限らない」なぜならば「彼女はもう逢わないと言っている」というふうな文意と注釈になる。なので、皇位に就くのに差し障りはない、ということだろう。古代においても、女系天皇は敬遠されていたのだ。

女性天皇は六人・八代の古代女帝に江戸期の明正帝(興子・109代)と後桜町帝(智子・117代)を加えて「八人・十代」ということになっているのだが……

◆第二四代天皇、飯豊女帝

いっぽう「陸奥国風土記」には「飯豊青尊が物部氏に御幣を奉納させた」とあり、飯豊青皇女が「尊(みこと)」すなわち天皇になったことを示唆している。飯豊女帝の即位の事情は、ハッキリしている。第二二代の清寧天皇が亡くなり、皇太子候補だった二人の皇子(大脚皇子=仁賢天皇と来目皇子=顕宗天皇)がお互に譲り合ったので、やむなく立てられた女帝と記録にある。

「日本書紀」における即位の記述は、顕宗天皇の「即位前紀」に「天皇の姉飯豊忍海角刺宮に臨朝秉政(りんちょうへいせい=ミカドマツリゴト)したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称(なの)りたまふ」とあり、上述の「陸奥風土記」を裏づけている。

平安時代の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、室町時代の「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されている。いずれも女性天皇(女帝)という記録である。

明治維新後、昭和20年までは宮内省において「歴代天皇の代数にはふくめないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。戦後、宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。これは「不即位天皇」としての扱いである。

宮内庁が「不即位天皇」にしようと、史実は別物である。飯豊青皇女、すなわち飯豊女帝の即位と執政は疑いない。したがって、わが国の女帝の数を「九人・十一代」としても差しつかえないのだ。日本史の新常識が、またひとつ増えた。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

その事件の発端は、伊勢神宮の神官が慶雲を見たことにはじまる。

神官の尾張守は平城京の方角の空に、五色の瑞雲が浮かぶのを目撃した。五色の瑞雲とはおそらく、夕日に映えた雲の変色であろう。彼はその雲を絵に描いて、道鏡の腹心である習宣阿曽麻呂(すげのあそまろ)に伝えさせた。道鏡から善政の吉兆だと、これを見せられた女帝はおおいに喜んだ。

この道鏡と女帝は、よく男女の関係とみなされてきたが、史料的な裏付けがあるわけではない。宣命にのこる女帝の言葉、道鏡への賛美を挙げておこう。

「この禅師の行を見るに、居たりて浄く、仏の御法(みのり)を嗣ぎ隆(ひろ)めむと念(おも)はしまし、朕も導き護ります己が師」

道鏡は、わたしの偉大な仏の道の師である、というのだ。修行をおこない、徳を積むことこそ天子(帝)の進むべき途だと、女帝はこころの底から考えていたのであろう。

女帝が喜ぶのを見て、道鏡は習宣阿曽麻呂に命じた。宇佐神宮に行って、何か吉兆がないか問い合わせてほしいと。

なぜ宇佐神宮だったのだろうか。宇佐神宮は地方の神社ながら、そのころ八幡神の神託で売り出し中だった。大仏鋳造にさいして、聖武帝が新羅に銅と金をもとめようとしたところ、神託をもってこれを諌めたことがあった。ちょうど武蔵と陸奥で銅山と金山が発見され、宇佐神宮はおおいに面目をほどこしたのである。

その後、奈良の大仏が完成したおりに、大神杜女(おおがみもりめ)という尼僧が入京して八幡神を勧進した(石清水八幡宮)。なぜ大神杜女が尼僧なのかというと、彼女は宇佐神宮の禰宜でもあった。古代神道が仏教を受容した結果、神仏習合が行なわれていたからだ。その宇佐神宮では大神氏と宇佐氏が、それぞれ弥勒信仰と観音信仰の神宮寺を建てて派閥抗争をくり広げていたのだ。 ※「天皇はどこからやって来たのか〈07〉廃仏毀釈──そのとき、日本人の宗教は失われた」を参照。

そこにやって来たのが、道鏡の使者・習宣阿曽麻呂である。大神杜女はその求めをおもんぱかり、道鏡を帝位にとの偽託をもって応えたのだ。都でくり広げられている事態、すなわち道鏡を中心とした仏教勢力(吉備真備・道鏡の腹心である円興・基信ら)と藤原氏の政争を知っている大神杜女にとって、これは宇佐神宮を牛耳る上でも中央政界に進出する上でも、格好の政治テーマだった。

そこで「法王(道鏡)を帝位に就けよ」との八幡神の神託をねつ造する。

ところが、その目論見は察知されていた。女帝と道鏡を除かんとする藤原氏の謀略網が、待ちかまえていたのである。神託を手にした習宣阿曽麻呂が大宰府で上奏の手続きをしようとしたところ、半年も待たされることになった。太宰司の第弐(副長官)は藤原田麻呂で、弟の藤原百川から依頼されて神託を留め置いたのである。

というのも、大神杜女には藤原仲麻呂が健在のころ、橘諸兄一派の僧侶に誘われて厭魅(呪詛)に参加して追放された前科がある。呪詛は律令においては大罪である。そんな尼僧がたくらむことは、およそ底が知れているというわけだ。

しかし、謀略家の藤原百川は神託の写しをとった上で、習宣阿曽麻呂を平城京に帰還させた。つぎなる謀略が練られていたのであろう。

習宣阿曽麻呂が奏上した神託をきいて、愕いたのは道鏡だった。せいぜい吉兆があったという報告があればと思っていたところ、自分を帝位にとの神託がくだったのだ。女帝もこれを喜んだが、確認のために勅使を下向させることになった。女帝の侍僧・和気広虫の弟、和気清麻呂が宇佐に行くことになった。

こののちはご周知のとおり、宇佐八幡神は僧形で姿をあらわし「開闢いらい、臣下の者が帝位に就いた例はない。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇族を立てよ」とぞ、のたまへり。

道鏡は下野に左遷され、女帝は急速に求心力をうしなった。

◆太陽を堕した藤原氏の陰謀

じつはこの第二の神託は、藤原氏が大神杜女にねじ込んだものだった。その見返りは、宇佐氏に対抗できる宇佐神宮の宮司の地位だった。とばっちりを受けたのは和気清麻呂で、女帝の怒りを買って「別部穢麻呂」と改名されたうえ、大隅に流罪となった。清麻呂が復権するのは女帝の死後、桓武帝のもとで平安遷都の造都大夫となったときだ。

平安期に成立した『日本紀略』には、藤原氏が女帝の宣命を偽造したとの記述があり、だとすれば女帝は密殺された可能性が高い。その宣命には、藤原氏に近い白壁王を皇嗣にすると記されているからだ。

陰謀の理由も方法も、もはや明らかであろう。

藤原氏は聖武天皇いらいの大仏建立をはじめとする仏教政策、とりわけ全国で行なわれている国分寺・国分尼寺などの公共事業が民びとを苦しめ、国家財政を傾けさせている現実を肯んじえなかったのだ。そしてみずから経営する荘園禁止の法令を、一刻もはやく覆したかったのである。そのためには道鏡以下の仏教勢力の排除、そして女帝の退陣が何としても必要だったのだ。

同時にこれは、邪馬台国いらいの女王による呪術的な政治を、律令政治の中から排除することにほかならない。高度な官僚制を確立しつつある律令政権が、女帝の勝手気ままな政策(神託)で混乱をきたすのは、男性政治家たちにとって困る事態だったのであろう。

孝謙(称徳)女帝の死をもって、絢爛たる古代女性天皇の時代は終焉した。実務に秀でた男性貴族たちの陰謀によって、女性は太陽であることを禁じられたのだ。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

孝謙女帝は、奈良の廬遮那大仏の建立で名高い、聖武天皇の実の娘である。母は藤原氏の光明子(光明皇后)、この方は貧民救済の悲田院で知られる。藤原氏から初めての后だった。

女帝の名は阿倍内親王、生まれながらにして帝になる皇女であった。しかし、彼女の幼少のころから、王朝は政変と疫病で再三にわたって揺れた。

長屋王(天武帝の孫)は光明子立后に反対する反藤原派だったが、厭魅(呪詛の罪)を誣告によって邸を包囲され、自害に追いこまれた。

最大の政敵を排除した藤原不比等の四人の息子たちは、いままさに全盛をきわめようとしていた。ところが、天然痘の流行がその栄華をはばんだ。四人ともあえなく病没してしまうのである。

長屋王事件から十年ほどのち、大和守から太宰の次官に左遷された藤原広嗣が、都の仏教勢力を批判した。

藤原氏一門の衰退に危機感を持ったのであろうか、同時にそれは仏教政策を推し進める聖武帝への批判と映った。追討軍が組織されると、広嗣も隼人の兵をあつめてこれに対抗する。叛乱は鎮圧され、藤原氏に代わって台頭したのが橘氏だった。

しかし、橘諸兄・奈良麻呂父子も、じつは大仏建立反対派だった。彼らも仏教勢力と対立することになる。このような政局の中で、聖武帝が逝去した。女性皇太子だった孝謙が即位して、父の遺業を継ぐことになったのだ。それを援けたのが、藤原の仲麻呂だった。ふたりは従兄妹同士である。男女の関係であったという説もある(女帝が仲麻呂邸田村第にしばしば宿泊)。

いっぽう、貴族たちの政争は終わらなかった。橘奈良麻呂が兵を動かそうとして、事前に鎮圧された。事件関係者はいちばん軽いはずの鞭打ちの刑で、無残にも打ち殺されている。ついで、孝謙女帝と蜜月の時期もあった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、謀反の嫌疑で都を追われて近江に逃れようとするところ、琵琶湖で妻子もろとも殺された。

いずれの反乱も、仏教勢力に対する政争であり、その意味では孝謙女帝の仏教政策に対する批判でもあった。じつはその背景にあったのは、荘園の認可にかかわる律令制の根本問題だったのだ。「天皇はどこからやって来たのか〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体」を参照。

聖武帝は生前、東大寺大仏(および国分寺・国分尼寺)建立のために、墾田永年私財法をみとめていた。荘園からの税収を期待したのである。律令制の根幹である公地公民制の土台を掘り崩してでも、大仏と国分寺の建立が聖武の仏教国家には必要だった。

ところが、孝謙女帝は天平神護元年(765年)に、墾田私有禁止太政官令を発して、荘園を禁止してしまったのだ。孝謙女帝の背後には、太政大臣禅師・法王となった弓削道鏡の存在があった。仲麻呂の乱を機に、孝謙は称徳帝として重祚する。仲麻呂とともに道鏡を批判していた、淳仁帝を廃したのである。これは火種となって、道鏡事件へとつながる。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

われわれは古代女帝論(5)の「元明天皇と元正天皇」で、元正女帝が女系女帝(元明女帝の娘)であることを確認してきた。皇統男系論者の多くはそれでもなお、元明天皇が天智天皇の皇女であることをもって、男系の血筋だと強弁する。女帝の実娘である元正天皇もまた、男系の血脈のなかに位置づけられるのだと。いいだろう。それでは彼らが忌み嫌う、しかしいまや定説となった王朝交代に引きつけて、皇統が女系において血脈を保ったことを明らかにしておこう。

◆応神王朝は馬とともに渡来し、大和の皇女を娶った

まず神功皇后が朝鮮半島(三韓征伐)で身ごもり、九州において誕生した応神天皇(第十五代)である。

九州で成立したとされる応神王朝は、それまで日本にいなかった馬を半島からともなって王権を樹立した。百済との国交、およびかの地からの技術者の採用、とくに鉄の精製、土木技術や養蚕、機織りを導入した。

即位に先立って、神功皇后が故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺したのは、「朝鮮半島からの血が、皇統をかたちづくっている」で触れたとおりだ。旧王朝の後継者たちは応神の母・神功皇后の手で葬られたのだ。そもそも神功皇后とは架空の人物でありながら、皇統を左右する重大な役割を果たしている。壮大なフィクションを必要としたのだ。

この王朝交代劇には、じつは考古学的な裏付けもある。大和で銅鐸に代わって鉄器が盛んに造られた事実だ。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった強力な軍事勢力で、大和に攻め上ったのであろう。謎の四世紀、応神王朝こそ邪馬台国の末裔で、神功皇后こそ卑弥呼だったのかもしれない。

◆婿入りする天皇

この王朝交代という史実を、万世一系を謳う「記紀」が応神帝の正統な皇位継承としているのはいうまでもない。だがそこには、苦肉の策が用いられなければならなかった。打倒した旧王朝の娘を娶ること、応神帝が皇族に婿入りすることで、大和王朝の後継者としての資格を得たとしているのだ。

すなわち、景行天皇(第十二代=崇神王朝三代目)の曾孫である仲姫命(なかつひめのみこと)を娶ることで、応神が皇位の正統性を確保したというのである。
景行天皇の没年は130年と考えられているから、270年に即位した応神帝とは140年間の時間的な距離がある。この間に三代が生きたとすると、50歳前後の子供としてギリギリ成り立つ計算だが、それは置いておこう。

仲姫命は品陀真若王(五百城入彦皇子の皇子)の娘である。五百城入彦皇子と同一人物とされる気入彦命が、応神帝の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえた功績によって御使(みつかい)連の氏姓を賜ったとされていることから、前大和王朝の内応者とみていいだろう。仲姫命の同母姉の高城入姫命、同母妹の弟姫命も応神天皇の妃として、応神帝の正統性を三重に担保したのが注目される。すなわち女系の血脈において、大和王朝の皇統は応神王朝に継承されたのである。したがって、応神の子・仁徳帝は女系男性天皇ということになる。

◆越前で育った継体天皇

もうひとり、明らかな王朝交代があったとされているのが、第二十六代継体帝である。継体帝は応神天皇の五世孫(彦人王の子)とされている(記紀)が、詳しいことはよくわからない。母の実家がある越前で育ったとされる。武烈天皇が崩御すると、大和王朝が混乱に陥り(約20年間の争乱が想定される)、そのかんに越前の勢力が畿内に進出したと考えられている。

その継体帝も、応神と同じように皇統の娘をめとっている。相手は仁賢天皇の娘で、雄略天皇の孫娘にあたる手白髪皇女(たしらかみのひめみこ)である。入り婿による皇位継承だったことは、ほかならぬ「記紀」の編者もみとめている。『古事記』には「手白髪皇女とめあわせて、天下を授かり奉り」とある。つまり、正統な皇女と結婚することで、皇位を授かったというのだ。

万世一系を謳うのもいいだろう。血筋の唯一性こそが天皇制の核心部分なのだから、史書のフィクションを信じ込むのも勝手である。だがその典拠である「記紀」において、女系天皇がすくなくとも二人、傍系をあわせれば膨大な数におよぶのだ。

※参考文献:『女性天皇論』(中野正志)ほか。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

終戦から75年目の夏がめぐってきた。

とはいっても、本欄の読者のほとんどが、75年前を直接には知らないであろう。わたしも直接は知らない。いまや日本の国民の大半が、敗戦(終戦)の日を、直接には知らない時代なのである。

しかしながら、祖母や両親から聞かされた戦時の苦労、当時の現実を伝聞されるかぎりにおいて、次世代につなぐ責任を負っているのではないだろうか。

わたしたちは75年前のこの日、国民が頭をたれて聴いた「終戦の詔勅」を、おそらくその一節においてしか知らない。

とりわけ、以下のフレーズ

「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の中から、「万世のために太平をひらかんと欲す」という結論部を「子孫のために、終戦(平和)にします」と読み取ってきたのではないだろうか。

だが、詔勅はこの部分だけではないのだ。

詔勅は広く天皇の意志を国民(臣民)に知らしめ、天皇の命令(勅)として、国民に命じるものである。そのなかに、当時の天皇と国民の関係が明瞭に見てとれるので、ここに全文を掲載してみたい。

真夏の一日、わが祖母や祖父、父母の時代に思いをはせながら、われわれの来しかたと将来を見つめなすことができれば。

と言っても、原文は以下のごとく読みにくい。書き下しのひらがな文になれたわれわれには、少々息苦しい漢文体である。原文は冒頭部だけにして、訳文を下に掲げてみました。

 * * * * * * * * * *

官報号外(1945年8月14日)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦 実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

【現代語訳】

わたし深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝ら帝国国民に告げる。

わたしは帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするのは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、わたしの常々心掛けているところだ。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことは、もとよりわたしの志ではなかった。しかるに交戦すでに四年を経ており、わたしの陸海将兵の勇戦、官僚官吏の精勤、一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば、わたしはどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。

わたしは帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五臓を引き裂かれる。かつまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、わたしの深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も、わたしはよく理解している。しかしながら時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平をひらくことを願う。

わたしは今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、わたしが最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、わたしの真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

裕仁 天皇御璽
昭和二十年八月十四日
   各国務大臣副署

 * * * * * * * * * *

詔勅における昭和天皇の国民に対するまなざしは、政治機関としての主権代行者(昭和天皇自身は、天皇機関説の支持者であった)として、忠良なる臣民に告げるもの(命令)である。その内容の評価は、それぞれの視点・立場でやればいいことかもしれないので、ここでの論評はひかえよう。

そしてそれを受け止めた国民が、どのように行動したのか。ここがわれわれの考えるべき点であろう。

その大半は「やっぱり負けたんだ」「軍部のウソがわかった」「明日から電気を点けて眠れる」であったり、「われわれは陛下のために、死んで詫びるべきだ」「鬼畜米英の辱めを受けるものか」との決意であったりした。

これらは父母から聴かされた話である。しかしその「感想」や「決意」も、すぐに生死にかかわることではない。しょせんは銃後のことである。

しかし最前線で終戦を迎え、どのように身を処するべきかという立場に立たされた者も少なくなかった。いや、前線の将兵の大半がそうだったのだ。

そこで二つだけ、わたしが知っている事実をここに挙げておこう。

そのひとつは、宇垣纒(うがきまとめ)海軍中将の終戦の日の特攻である。宇垣は海軍兵学校で大西瀧治郎(特攻攻撃の立案者とされる=8月16日に官舎で割腹自決)、山口多聞(ミッドウェイ海戦で空母飛龍と運命を共にする)と同期で、連合艦隊(日本海軍)の参謀長だった人である。

終戦時には第三航空艦隊司令長官の地位にあり、大分航空隊(麾下に七〇一海軍航空隊など)にいた。広島と長崎に原爆を受けたのちの8月12日に、みずから特攻作戦に参加する計画だった宇垣は、15日の朝に彗星(雷撃機)を5機準備するよう、部下の中津留達雄大尉らに命じた。

そして終戦の詔勅を聴いたあと、予定どおり出撃命令をくだす。滑走路には命令した5機を上まわる11機(全可動機)と22人の部下が待っていた。宇垣がそれを問うと、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたという。結果、宇垣をふくむ18人が帰らぬ人となった。

もうひとつは、年上の友人の父親の談(志那派遣軍)で、部隊名もつまびらかではない。南京の要塞に立てこもっていたところ、終戦の詔勅を聴くことになる。玉砕を主張する古参兵がいる中、部隊長の将校は兵たちにこう言ったという。

「お前たちは生きろ。生きて家族のもとに帰れ」「わが部隊は、ここで解散する」と。

その瞬間、それまで思考停止に陥っていた兵たちは、われ先に要塞から飛び降りた。三階建てほどの建物を要塞にしていたが、そこから無事に飛び降りていたという。どこをどう逃げ、引き揚げ船に乗ったのか、あまり記憶にないと語っていたものだ。

住民が巻き込まれる、悲惨な事件も起きている。

沖縄の久米島では、有名な住民スパイ虐殺(米軍の投稿勧告状を持ってきた住民を、海軍の守備兵がスパイ容疑で、軍事裁判抜きで処刑した事件=事件は6月以降、守備隊が米軍に投降したのは9月4日)も起きた。全島が戦場となった沖縄のみならず、満蒙開拓団のソ連軍からの逃避行も惨憺たるものだった。戦争はあらゆるものを巻き込んだのである。

あるいは生死が紙一重で死んだり、あるいは生き延びたりしたのであろう。悲劇なのかどうかも、すべては今にして言えることだ。合掌。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

« 次の記事を読む前の記事を読む »