女性史研究において、女性差別の原典とされるのが「古事記」の国生み神話である。しょせんは神話だが、簡単におさらいしておこう。

天地開闢(てんちかいびゃく)のころの高天原の神々には、じつは性別がなかった。男女が生まれるのは、イザナギ(伊耶那岐)とイザナミ(伊耶那美)をふくむ神代七代(かみよななよ)の神々である。

さて、淤能碁呂島(おのごろじま)に宮殿を建てたイザナギとイザナミは、男女の交わりをして、ふたりで国を造ろうとする。ところが、水蛭子(ひるこ)が生まれてしまった。二神が別天津神(最初に生まれた造化の神)に訊いてみると、女のほうから誘ったからだという。

そこで、イザナギが先に声をかけてまぐあい、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま 本州)をはじめとする八つの島が生まれた。イザナギとイザナミは多くの神々を生み出したが、火の神カグツチを出産したときにイザナミが火傷で死んでしまう。

妻の死を悲しんだイザナギは、黄泉の国にイザナミをたずねる。古代の神々の、なんと感情ゆたかで人間臭いことだろう。しかし訪ねてみると、イザナミは変わり果てた姿になっていた。イザナギは雷鳴や風雨に追われて日向の阿波岐原(あわぎはら)まで逃げて、そこで禊ぎを行ない、祓え戸の大神たちが生まれ給う。

神道の基本的な祝詞である「祓詞(はらえことば)」は、その顛末を簡略に記したものだ。

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
(かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ)
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに)
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
(みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち)
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
(もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば)
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
(はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと)
恐み恐みも白す
(かしこみかしこみもまをす)

またこのときに、天照大御神(アマテラスオオミカミ)・月夜見尊(ツキヨミノミコト)・素戔鳴尊(スサノオノミコト)の三貴子も生まれている。

ニニギノミコト(邇邇芸命)は天照大御神の孫にあたり、天孫降臨のヒーローである。この男性神が地上に降り、木花之開姫(コノハナノサクヤヒメ)をめとって海幸彦・山幸彦らをなす。天孫は男性神であり、したがって地上の神話は男の物語になる。女性は太陽であることをやめたのだろうか──そうではない。

◆元明天皇と元正天皇

元明天皇は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹である。

草壁皇子と結婚して皇子(のちに文武天皇)を成したが、皇太子となった草壁が即位しないまま亡くなってしまう。

やがて息子の文武天皇が亡くなると、元明は中継ぎの女帝として即位した。そして平城京への遷都を行なう。執政をたすける右大臣藤原不比等が、最高権力者になった時期である。彼女に中継ぎを強いたのは、大政治家・不比等にほかならないが、彼女が操り人形だったかどうかはわからない。

この時期、国司のもとに郷里制が実施され、律令政治が地方の末端まで行きとどく。徴税と兵役が容易になったのである。元明天皇も各地の国司に詔を発し、荷役に従事する民びとを気遣うよう命じた記録が残っているのだ。

やがて元明天皇が譲位して、娘の元正帝が即位する。元正は結婚経験がなく、独身で即位した初めての女帝である。文武天皇の遺児・首皇子(のちに聖武天皇)がまだ幼かったので、ある意味では母とおなじく「中継ぎ」ということになる。藤原氏の血を引く帝が即位するまで、まだ時間が足りなかったのである。じつはこの連載の核心部分が、この「中継ぎ」とされる二人の女帝なのである。

よく言われることに、古代の女性天皇は中継ぎだったとの評価がある。しかし、すでに見てきたとおり、推古帝おける厩戸皇子(聖徳太子)が即位しなかったのはなぜか? 皇極帝においても、孝徳天皇は難波宮に孤立させられた。あるいは持統帝の後継者と目される草壁皇太子はすぐに即位しようとせず、あるいはなぜか即位しないまま亡くなっている。これらはおそらく、女帝たちの意志と無関係ではないだろう。

そして、保守系の歴史家が無視するか、直視したがらない史実がある。中継ぎの女帝(元正)は、女性天皇(元明)の実の娘なのだ。

元明天皇の夫である草壁皇子が即位しないまま、元明天皇の娘・元正天皇(女系)が即位した史実は、女系天皇反対論者には思いもよらないことであろう。草壁が天皇ではなかったかぎりにおいて、元正帝こそ女系女性天皇なのである。

元明・元正母娘はかならずしも実力派の女帝ではなかったが、古代女帝王朝は花盛りとなる。というのも、つぎの孝謙帝にいたっては立太子ののちに帝位に就き、貴族たちを相手に政争をかまえては、ことごとく勝利のうちに天皇親政を実現するかにみえるのだから──。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた中大兄皇子は、近江大津宮に遷都して天智天皇となった。唐・新羅軍の来寇に備えるいっぽう、近江令を発して律令制をととのえる。のちの公地公民制のもとになる戸籍も、このとき初めて作られた。

その天智帝が没すると、弟の大海皇子(天武天皇)と大友皇子(天智の第一皇子)が帝位を争う。壬申の乱である。大海皇子は吉野に隠棲し、東国の兵をあつめて近江京を攻めた。

乱に勝った天武天皇の后が、鰞野讃良(うののささら 持統)である。彼女は天武の吉野隠棲をともにし、このとき皇子たちに忠誠を誓わせている。天武とともに戦ったという印象がつよい。

その名は、小倉百人一首に収録された、この詠歌でよく知られる。

春すぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほしたる 天の香具山

やがて天武帝が病がちになり、皇后が代わって執政するようになった。そして夫が没すると、ただちにわが子草壁皇子のライバル・大津の皇子を謀反の疑いで捕らえ、自害に追いやっている。

この大津皇子は、じつは女帝が殺さねばならぬほどの傑物だったのだ。

「幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性(格)すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す」(懐風藻)と称賛されるほど、非の打ちどころのない人物である。持統天皇の治世で編纂された『日本書紀』にも同様の記述があるので、抜群の人物だったのは疑いない。

密告があったとはいえ、われわれはここに持統の果断さをみる。わが子のために、ライバルを死に追いやったのだから。

しかしながら、彼女が望んでいたわが子・草壁皇子は病に斃れてしまう。このとき天武の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ七歳だった。天武天皇の存命中も大極殿で政務をとっていた彼女は、ここに即位して持統帝となる。45歳のときだった。

持統天皇の事蹟として有名なのは、藤原京の造営であろう。藤原京はわが国ではじめての条房制をもった都城で、5キロ四方の規模だった。25キロ平方メートルは、平城京や平安京よりも広い。

たとえば現在の京都御所の北辺を一条として、京都駅が八条、東寺をさらに南へ、東光寺あたりが十条である。当時の都城の北から南まで、歩いて一時間では着かないだろう。いずれにしても、それまでの簡易な御殿を宮と呼んでいた時代とはちがう、本格的な大極殿をかまえた巨大都市である。造営が巨大な国家プロジェクトだったにもかかわらず、皇極(斉明)天皇の時のような、民衆に怨嗟される記録は残っていない。仁政だったのか、批判も許さない圧政だったのかはわからない。

いっぽうでは律令の完成が急がれ、史書も編纂された。『古事記』(稗田阿礼)『日本書紀』(舎人親王)である。これには能吏の藤原不比等が監修に当たった。

◆なぜ、天照大御神が皇祖なのか

持統天皇は夫の崩御後、三年間も帝位を空位にしている。

なぜ、すぐにも草壁皇子を帝位に就けなかったのか、これは古代史の大きなナゾとされてきた。ライバルの大津皇子を殺してまで、わが子の立太子を実現したというのに。

この時期、律令の編纂作業は、世に比べる者なしと呼ばれた天才藤原不比等の手で進められ、史書もまた順調に成りつつあった。かりに草壁が病弱だったからだとしても、すでに天武天皇の殯宮(もがりのみや)の喪主として、立太子を内外に明らかにしていたはずだ。形だけの即位でも不都合はなかった。

だが、三年間も空位にしているうちに、草壁は病死してしまう。あたかも持統は、わが子が死ぬのを待っていたかのようだ。

そう、持統は草壁が死んだから、やむなく中継ぎとして即位したのではない。草壁の死を待っていたのであろう。なぜならば、みずから編纂させた「記」「紀」において、天照大御神および神功皇后(気長足姫尊)の記述をもって、女帝の正統性を語らせているからだ。元明・元正と女帝が連続することに、その編集意図は明白である。やはり古代の女性は太陽だったのだ。

上山春平氏は『神々の体系』の中で、『日本書紀』の神話には重要なテーマがあるという。祖母から孫への皇位継承(天孫降臨)がそれだ。のちに持統は孫の文武天皇に譲位して、みずからは皇統史上はじめての太上天皇(上皇)となるのだから。
彼女は帝位にあって、父・天智が果たせなかった律令の完成をいそぎ、藤原京の造営に力をそそいだ。そして大宝律令十七巻の完成を、上皇の立場でたしかめてから、その2年後に薨去した。

果断さと深慮遠謀な立ち居ふるまいから、壬申の乱そのものが彼女の策謀だったとか、天武から天智系への王朝交代説、さまざまに謀略説が語られるほど、その治世は力づよいものがある。不比等の辣腕ぶりに藤原氏の勃興も明らかだが、持統時代において古代天皇権力は最高潮に達したとされている。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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◆乙巳(いっし)の変──王家独裁のためのクーデター

推古天皇のあとをうけた舒明天皇の后が、皇極帝(宝皇女たからのひめみこ)である。夫の舒明天皇が崩御すると、彼女は四十八歳で帝位に就いた。

もともと蘇我蝦夷が舒明帝を擁立したこともあって、蘇我氏の後見のもとに即位した女帝だったが、古代史上もっとも有名な政変劇が彼女の眼前でおきる。近臣の者たちが斬り合う、突然の惨劇だった。乙巳(いっし)の変(大化の改新のはじまり)である。

殺されたのは蘇我入鹿、殺したのは女帝の実の息子・中大兄皇子(のちの天智)である。

剣で斬られた入鹿は、女帝に「なぜだ?」と問う。女帝は「わたしは何も知らない」。

そして、わが子・中大兄皇子を叱責するが、息子は入鹿の悪行を並べ立てて弾劾するのだった。入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自邸に火をかけて自死する。

この政変は従来、専横をきわめる蘇我氏を排除するための改革とみられてきたが、どうやら天皇親政、端的に言うと王家独裁のためのクーデターだったと思われる。

というのも、律令制は蘇我氏を中心にした豪族の連合政体(官僚システム)をめざしていたからだ。蘇我馬子と聖徳太子が描いてきた政権構想である。律令のもとで豪族は位階のある貴族(公家)となり、天皇を頂点とした官僚制度がつくられつつあったのだ。

ところが、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、筆頭貴族の蘇我氏を排除することで、律令の官僚制を骨抜きにしたのである。のちに藤原氏の祖となる鎌足にとっては、当面する政敵の打倒にほかならなかった。

◆女帝によって築かれた古代王朝の全盛時代

なお、皇極が最初に結婚した相手とされる高向王が、蘇我入鹿である可能性を指摘する説もある(『日本の女帝』梅澤恵美子)。梅澤さんによれば、信州の善光寺には、皇極が地獄に堕ちたという伝承があるという。伝承の根拠は、殺された入鹿の呪詛だろうか。だとしたら、中大兄皇子は母親の不義、奸臣との癒着を断罪したことになり、事件は甚(はなは)だ生々しい気配をおびてくることになる。

政変ののち、皇極女帝は譲位して弟の軽皇子(孝徳天皇)が即位する。皇統史上はじめての譲位だった。孝徳天皇は大化と元号をさだめ、大化の改新がこのもとで行なわれた。中大兄皇子と中臣鎌足の独壇場である。遣唐使がもたらす書物によって、律令制はさらに整備されたが、なぜか政権は空中分解してしまう。

皇太子となった中大兄皇子・鎌足・皇祖母尊(皇極)の三人が、孝徳帝が遷都したばかりの難波宮から、飛鳥に引き上げてしまったのだ。天皇は失意のうちに亡くなった。蘇我氏から人材を得た孝徳帝を、中大兄皇子らが見限ったのだといわれている。してみると、大化の改新はやはり、蘇我氏をはじめとする豪族の官僚制を掘り崩す、古代朝廷権威の発揚とみるべきであろう。その古代王朝の全盛時代は、男性の帝によってではなく、歴代の女帝によって築かれたのである。

斉明帝として重祚(ちょうそ)した女帝は、巨大な公共事業をくり広げる。香具山の西から石上山まで水路を造り、二〇〇艘の舟で石を運ばせたという。水路の掘削に要した水工夫が三万人、石垣の造営に七万人の工夫が動員された。人びとはこれを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判した。近年、酒船石遺跡の石積みが発掘された。それが儀式のための施設なのか、城砦なのかをめぐって古代史の議論を呼んでいる。

いずれにしても、独裁的に進められた公共事業は、天皇の強権への意志を感じさせるものがある。そして韓半島の騒乱に軍事介入し、百済復興のために出兵したものの、敗退して権益をうしなった。そして女帝も、遠征先の九州朝倉の地で没した。

◆シャーマンと官僚の闘い

政治家としてはともかく、人物はいたって優しかったようだ。母・吉備津姫王が病をえたとき、女帝は母が亡くなって喪葬がはじまるまで、そのかたわらを離れなかったという。可愛がっていた孫の健王が八歳で亡くなったときは、挽歌でその気持ちをのこしている。

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れている、その水のように間もなく健王のことが思い出されることか)

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のなかは 忘らゆまじき
(山を越え海を渡って旅をしていても、健王の墓所のことが忘れられないでしょう)

女帝はまた旅行好き、温泉好きでもあった。有馬温泉、道後温泉、紀伊白浜の湯崎温泉に行幸したことが記録に残っている。

乙巳の変のまえのこと、蘇我入鹿が雨乞いをしても雨が降らなかったところ、女帝が跪いて四方を拝み天に祈ると、雷鳴とともに降雨があったという。シャーマンとしての資質もあったようだ。このシャーマンという女帝の特性を、読者諸賢はおぼえていて欲しい。古代王権をめぐる女帝と律令官僚の争闘はまさに、シャーマンと実務官僚の闘いとして帰結するのだから。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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やがて武力をともなう政争が、京の都を覆うようになる。

私兵をたくわえた、武士の発生である。われわれが最初の節でみてきた、奈良の都の政争も軍事力によるものだが、それらは律令制の兵役者の動員が焦点だった。国家の兵を動員しようとした手続きが漏れることで、反乱はいとも簡単に露顕してしまっている。奈良朝の貴族たちは、ほとんど私兵を持っていなかったからだ。

皇族の末裔である源氏と平氏が地方に土地をもとめ、あるいは武装した農民たちが荘園を押し取って地侍となったのが武士である。京都においては上皇の警護役として、北面の武士たちが、律令制下の検非違使庁や弾正台に取って代わっていた。

平安末期の保元・平治の乱をつうじて、まず平氏が中央政界に進出する。平氏の政権掌握は、藤原氏のそれと変わらない。娘を皇后や女御として天皇のもとに送り、外戚となることで実権をふるうものだ。平清盛の次女徳子(建礼門院)は、高倉帝の皇后となって安徳天皇を生んだ。武家の女性といえども、政治に関与できるのは子を産むことに限定されていた。

ところが武士の世となるにつれて、女性の政治への関与が大きくなってくる。男性的な戦乱が女性を表舞台に上(のぼ)せるという、一見して矛盾する現象が起きてくるのだ。あるいは女性たちを律令の位階・身分のくびきから、荒ぶる武士たちの時代が解き放ったというべきであろうか。

中世において際立つ女性政治家といえば、源頼朝とともに「鎌倉殿」と呼ばれ、夫の死後は「尼将軍」と呼ばれた北条政子であろう。彼女の荒々しくも情のある生きざまに、わたしたちは中世女性の逞しさを感じる。

政子が頼朝と恋愛関係になったのは、父の北条時政が京都大番役(警護)に出向いていた時期である。のちに政子は「暗夜をさまよい、雨をしのいであなたの所へまいりました」と、逢瀬の苦労を述懐している。父の反対にもかかわらず、頼朝を一途に想う大恋愛。最後は子(大姫)を宿し、堂々たるデキちゃった婚である。

したがって、気性の烈しい政子は嫉妬も並みではない。夫の頼朝も悪い。こともあろうに、彼女が妊娠中に頼朝は浮気をしていたのだ。相手は亀の前という女性だった。頼朝の側近・伏見広綱が彼女を屋敷に置いているのだという。

これを知った政子は、牧宗親に命じて亀の前が寄宿している伏見広綱の屋敷を打ち壊させた。これに怒った頼朝は、牧宗親の髻を(もとどり)を切るという恥辱を与える。牧宗親は北条時政の後妻の父親である。政子も黙ってはいない。

とうとう事態は、北条家と頼朝の対立にまで発展してしまった。北条時政は一族をひきいて鎌倉から伊豆にひきあげ、政子は伏見広綱を遠江に流罪にしてしまうのだ。武家の棟梁が何人も女性を囲うのは、後継者としての男子を得るための常識的な行為であるから、政子の嫉妬は並はずれていたというべきだろう。

そのいっぽうで政子は、義経を想う靜御前を哀れむなど、やさしい女性としての一面もみせている。静が生んだ男の子を、助命しようとしたのは有名な逸話だ。

頼朝亡き後の政子は、まさに尼将軍にふさわしい活躍だった。わが子で二代将軍の頼家は分別がさだまらない若武者で、きわめて独裁的な執政をおこなった。御家人の反発を抑えるために政子がしのんだ苦労はしかし、鎌倉が第一であってわが子のためにするものではなかった。

◆尼将軍

頼家の失政がつづき、さらに乳母の夫の比企能員を重用するにおよんで、北条氏と二代将軍頼家の対立は頂点にたっした。北条氏は政子の名で兵を起こし、謀叛の動きをみせた比企能員を討伐する。頼家は政子の命で出家させられ、伊豆修善寺に幽閉されたのちに暗殺された。それも政子の意志であっただろうか。

幕府を確固たるものにするために尼将軍政子の戦いは、実家の北条時政をも相手にせざるをえなかった。時政の後妻・牧の方という女性がなかなかの陰謀家で、三代将軍実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍にしようとしたのだ。政子はやむなく弟の義時とともに、父を出家させて伊豆に追放した。だが、わが子実朝は頼家の子・公暁に殺されてしまう。

一族が相撃つ悲劇に苦しむ政子は、後鳥羽上皇に使者をおくり、上皇の皇子を鎌倉将軍として迎えようとする。

ところが、上皇は皇子を下らせる交換条件として、みずからの側室の荘園の地頭の罷免をもとめてきたのだ。この上皇の要求は、征夷大将軍の専権事項をくつがえしかねないものである。ここに、幕府と朝廷は冷戦状態に入った。

承久三年、後鳥羽上皇は京都守護を攻めて挙兵した。義時追討の院宣が発せられたのである。承久の乱である。このとき政子は、御家人たちに頼朝への恩義を言い聞かせ、彼らに鎌倉への忠義をもとめた。『吾妻鏡』にある、政子の演説を掲げておこう。高校生の歴史の史料問題でおなじみの一文だ。

皆、心を一にして奉るべし。これ最期の詞(ことば)なり。
故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより、このかた、官位と云ひ俸禄と云ひ、
その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。
しかるに今 逆臣の讒(ざん)によって、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。
名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)、胤義(たねよし)らを討ち取り、
三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。
ただし、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。

※秀康は藤原秀康、胤義は三浦胤義で、三浦は亡き頼家の妻を娶っていた関係で、在京中に鎌倉に造反した。

政子の檄にしたがった東国の軍勢は、19万騎といわれている。帝の錦旗を前にしてもひるむことなく、軍勢は北陸と美濃(墨俣)で朝廷軍をやぶった。京都は関東勢に蹂躙され、後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。この乱に勝利することによって、鎌倉幕府の権威は全国に達することになったのである。

同時にそれは、天皇制が地に堕ちた時代の始まりである。所領(荘園)と座(専売権)を武士に押し取られた朝廷と公家は困窮し、受領名が勝手に名乗られるなど、天皇の権威は崩壊する。

ところで、承久の変は政子のように武家の棟梁となった人物の夫人であればこそ、果たすことができた女性政治家の壮挙なのかもしれない。それにしても、乱世のはじまりは、女性が家に籠って夫が通ってくるのを待つ受け身の状態から解放した。
女性たちは武器をとることも厭わなかったようだ。前述した二代将軍頼家が、建仁二年に修善寺に幽閉されたとき、警護したのは十五人の女騎だったと記録がのこっている(『日本の中世4』細川諒一)。

時代をくだって新田義貞が鎌倉を攻めたときに、材木座海岸で合戦になっているが、この合戦場跡地から249体の遺骨が発掘され、そのうち76体が女性のものだったと判明している(『骨が語る日本史』鈴木尚、『合戦場の女たち』横山茂彦、情況新書)。南北朝争乱の時期の記録『園太暦』(洞院公賢)にも、山名勢の残存兵は女騎ばかりだというものが残っている。中世は女性の時代だったのかもしれない。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

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5月20日に発表された宮司の死について、ここでは「怪死」としておこう。殺人など事件性のある「怪死」という意味ではない。おもて向きの発表が「病死」でありながら「自殺」が疑われているからだ。そしてじつは、そこにこそ宮司の死の真の原因が顕われているからである。

というのも、このかん神社本庁の実態を報じてきた「ダイヤモンド」(6月12日付/編集部・宮原啓彰)によれば宮司の死を、
「神社本庁は『存じていない』とし、岩手県神社庁は『心筋梗塞による病死と聞いている』とダイヤモンド編集部の取材に答えた。」
「だが、複数の神社本庁や岩手県神社庁、盛岡八幡宮の各関係者によれば自殺だったという。直前には、盛岡八幡宮の宮司を休職、神社本庁や神政連にも辞表を提出しており、覚悟の上での自死だったのではないかと見られている。」
としているのだ。もしも「自死」だとしたら、その原因は何なのだろうか?

 

岩手県神社庁長・盛岡八幡宮宮司だった藤原隆麿氏の訃報(2020年5月20日付中外日報)

「怪死」したのは藤原隆麿氏(岩手県神社庁長・盛岡八幡宮宮司・66歳)である。肩書のとおり岩手県神社界のトップであるとともに、藤原氏は全国7万9000社の神社を統括する神社本庁の理事、そして憲法改正を推進する神道政治連盟の総務会長なのだ。まさに大物宮司の謎多き「怪死」である。

だが、これを詳報した「ダイヤモンド」によれば、前出の宮司職の休職も、神社本庁や神政連への辞表にも、有力な動機がある。藤原氏を刑事告訴する動きがあったというのだ。したがって自殺である可能性が高い。

神社本庁といえば、不動産売買(職員用宿舎の売却)をめぐって、執行部(田中恆清総長・小野崇之総務部長=当時)の背任疑惑があり、内部告発が行なわれている。その告発者への処分も行われている。

◆三角不倫疑惑

藤原氏を刑事告訴する動きとは、それでは何だったのだろうか。その動きが明らかになるのは、3月に暴露されたスキャンダルにさかのぼる。

そのスキャンダルとは、神社本庁の秘書部長兼渉外部長の小間澤肇氏(57歳)とその部下の女性職員(51歳)の不倫疑惑である。ふたりは新宿歌舞伎町のラブホテルから出てきたところを、張り込んでいた取材陣に活写されたのだ。ふたりは焼き肉屋で飲食ののち、ラブホテルに2時間滞在したという。計画的な取材であることから、内部からのリークによるものであるのは明白だ。(2020年3月16日付『週刊ポスト)

そしてじつは、「怪死」した藤原氏を刑事告訴しようとしていたのは、ほかならぬこの不倫疑惑のある女性職員なのだ。藤原氏から何らかの被害を受けた彼女は、小間澤氏にラブホテルで「相談していた」というのだ。なぜ焼き肉屋で「相談」は終わらなかったのだろうか。三角不倫を想像させるが、それはともかく、事件の概要を整理してみよう。

藤原氏→何らかの犯行?→女性職員→相談?(焼き肉屋・ラブホテル)→刑事告訴の準備?→藤原氏→怪死(病気か自殺) という構造なのだ。

藤原氏と女性職員のあいだに何があったのかは、もはやわからない。だがたとえば、元テレビ局の記者で自称ジャーナリストによる昏睡レイプ事件が、民事では有罪になっても刑事では立件もされない現実を考えると、相応の事実があったのだろう。事実無根として戦う余地がなかったのだと考えられる。その意味では、藤原氏は神職者らしく恥を生きることを拒否して、帰幽(逝去の神道用語)されたのかもしれない。

不倫がいけないとか、神職でありながらけしからんとかの道徳者視点で批判をするつもりはない。しかるに、神社本庁およびその政治団体である神道政治連盟は、夫婦別姓に対して「家族崩壊」につながる。あるいは「不倫の温床になる」と批判をくり広げてきたはずだ。その意味では、死に値する事態だったのかもしれない。

 

ラブホテルから出て来る小間澤肇氏と部下の女性職員(2020年3月2日付地球倫理:Global Ethics)

◆その利権と内部抗争

そして問題なのは、小間澤氏が神社本庁不動産不正取引疑惑を告発した元総合研究部長の稲貴夫氏を懲戒免職処分に、同じく財政部長の瀬尾芳也氏を降格処分にした責任者であることだ。このことからラブホテルの一件(リーク)は、おそらく反執行部側の人物によるものであろうと考えられるのだ。不倫疑惑事件の背後に、明らかな内部抗争がみてとれる。

じっさいに、稲氏と瀬尾氏が処分無効等を求めて東京地裁へ提訴したさいに、小間澤氏は「処分は妥当」とする神社本庁側に立って陳述書を提出しているのだ。そうすると、今回の事件(ラブホスキャンダル・藤原氏の怪死)は、三角不倫と思われる三人のうごきをつかんだ反執行部派がリークした上に、執行部の重鎮でもある藤原氏を刑事告発するうごきがあったと考えるべきであろう。

ここで、上述した神社本庁不動産不正取引疑惑を解説しておこう。疑惑が露見したのは、2015年のことである。全国の神社から選出される評議員会において、神社本庁所有の「百合丘職舎」の売却が承認された。売却先はディンプルインターナショナルという不動産会社で、その額は1億8400万円であった。ところが、ディンプルは百合丘職舎を転売し、最終的には3億円をこえる物件として大手ハウスメーカーの所有となったのだ。

転売した売却益はどこへ行ったのか? いや、それよりも問題となったのは、基本財産目録に記された百合丘職舎は、簿価ベースで土地建物合わせ7億5616万円だったのだ。この一件をめぐって、背任との内部告発が行なわれ、告発者が処分されたのは前述のとおりだ。

民間の財団である神社本庁が憲法改正を掲げ、日本会議など右翼団体に大きな位置を占めているのは、一般にも知られるところだ。あるいは日本遺族会の一部とともに、天皇の靖国参拝を求めている。きわめて政治性の強い組織であるいっぽう、じつに穢れた利権抗争をその内部にはらんでいることが鮮明になってきた。継続して、神社本庁および神道政治連盟の実態を明らかにしていきたい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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ここまで呪術・神託などのシャーマンを媒介に、古代女性が祭司的な権力を握っていたことを探ってきた。その権力の基盤となっていたのは、日本が世界史的には稀な、母系社会だったことによる。われわれの祖先の社会全体が、母親を中心にした家族構成を認めていたからにほかならない。

万葉集の両親を詠った歌は、母親を主題にしたものがほとんどである。父親を詠ったものはきわめて少ない。そのいっぽうで、夫が来ないことを嘆く女性の歌は、おびただしい数にのぼる。ここに古代(明日香・奈良)から中世にかけて(平安期を中古ともいう)の、日本人の生活様式が明らかだ。

古代の日本は夫が妻のもとに通う、通い婚だったのである。庶民のあいだに家という単位はまだなく、集落で共同して労働に取り組んでいた。そして家族のわずかな財産は、母から娘へと受け継がれたのだ。女性が家にとどまり、男性は外に家族をもとめたからである。財産を継承するには、まだ男性の生産活動は乏しすぎた。母系社会とは集落の中の家を存続するためにはかられた、まさにこの意味である。

この婚姻形態は、平安時代にも引きつがれた。右大将藤原道綱の母による『蜻蛉日記』にはときおり、夫の藤原兼家が訪ねてくるくだりがある。彼女は『尊卑分脈』に本朝一の美女三人のうちの一人とされている。

のちに摂政関白・太政大臣に登りつめる兼家はしたがって、美人妻を放っておいたことになる。ちなみに他の美女二人は、文徳帝の女御・藤原明子(染殿后)、藤原安宿媛(光明皇后)であるという。光明皇后は前節でみた孝謙女帝の母だから、かの女帝も美人だったのだろう。

◆宮中文化も、もとは庶民の文化だった

それはともかく、平安の女性たちは奈良の都の女帝たちにくらべると、いかにも穏やかでおとなしい。彼女たちは実家にいて、夫が通ってくるのを待つのみだ。宮仕えをすれば、それなりに愉しいこともあったやに思えるが、道綱の母の姪にあたる菅原孝標の娘は「宮仕えは、つらいことが多い」(『更科日記』)と嘆いている。

この時代に、世界に冠たる女流文学『源氏物語』(紫式部)や名エッセイ『枕草子』(清少納言)が世を謳歌したけれども、女性の政治的な活躍は見あたらない。いや、それは政治の舞台に視線を定めているからであって、じつは詠歌こそが宮廷内の政治だったとすれば、平安の女性の活躍もめざましい。詠歌は今日も宮中歌会に引き継がれる、天皇制文化の根幹でもあるのだ。武家の花押が閣議の場に引き継がれ、和歌が宮中儀礼に引き継がれる。しかしいずれも、もとは庶民の文化であった。読み人知らずと呼ばれる庶民、もしくは名前を伏せられた詠歌は万葉集の圧倒的多数であって、君が代もまた読み人知らずなのである。天皇制を無力化するというのなら、庶民の対抗文化を創出・流行させないかぎり、擬制の「伝統」に勝てないのではないか。

◆平和とは何かを考える

三十六歌仙には小野小町、伊勢の御息所、その娘である中務、三条帝の女蔵人であった小大君、皇族では徽子女王(村上帝の女御)と、名だたる女流歌人たちがいる。和泉式部は『和泉式部日記』、赤染衛門は『栄華物語』の作者に擬せられる。

ほかに名前を挙げてみよう。佑子内親王家紀伊、選子内親王家宰相、待賢門院堀河、宜秋門院丹後、皇嘉門別当。しかし、いずれも仕えた権門の名、出身家の名前であって、彼女たちの本名がわからない。

そして、いずれもが下々の者だからわからないのだと言えるが、彼女たちが仕えた氏姓(うじかばね)も諱(いみな)もある女人たちは、これまたいずれも史料がなくてわからないのである。やんごとなき姫君たち、あるいは帝の后たちは、歌人としてはいまひとつだったようだ。

平安時代は江戸時代とともに、日本史史上きわめて平和な時代だった。死刑が廃された時代でもある。政治である以上は政争や暗殺もあったし、僧兵(学僧)の反乱はおびただしかったが、平和だからこその騒乱なのである。社会が安定しているからこその、あだ花の学生運動みたいなものだろう。防人の制度(徴兵制度と軍隊)も解散し、死刑もなく、戦争や紛争がなかったから女性の活躍があったはずなのに、それは歌道と小説・エッセイにかぎられていた。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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◆仏教・砂鉄・蘇我氏の時代

6世紀(500年代)は仏教が伝来し、他方では砂鉄から鉄器が精製される方法が確立した。いわば文化的な革新と技術の進歩に、社会が大きな衝撃をうけた。現代でいえば、IT革命や素材革命が起きたようなものだ。

そのような活力のある時代に、堅塩媛(推古天皇)は第30代敏達天皇の后となった。この時期、仏教を奉じる蘇我氏と、古神道の家柄である物部氏とのあいだに、政権をめぐる暗闘があったのは周知のとおり。その有力豪族である蘇我馬子の姪・堅塩媛が34歳のときに、敏達天皇が崩御してしまう。用明天皇が帝位を継承するも、これも2年後に亡くなる。

そのかん、蘇我氏と物部氏の抗争が勃発して、勝利した蘇我氏が崇峻帝を擁立した。その崇峻帝も、蘇我氏の手によって弑逆される。崇峻天皇は皇統史上ゆいいつ、暗殺された天皇ということになっているが、真相はよくわからない。背後には蘇我氏の政権運営と、それに反発する帝との確執があったとされる。

蘇我馬子の思惑はおそらく、聡明な厩戸皇子を皇太子に、すなわち聖徳太子にすることにあった。蘇我系の帝をいただき、仏教の保護と外交政策を継続する。そんな狙いが、姪の堅塩媛(推古)を即位せしめたのではないか。推古即位ののちに亡くなってしまう日嗣(ひつぎ)の皇子竹田(推古の実子)はおそらく、馬子にとっての本流ではなかっただろう。

◆なぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったか

蘇我氏のバックアップがある、安定した推古政権のもとで、摂政厩戸皇子はその能力を開花させた。十七条憲法、官位十二階など法令の整備、法隆寺の建立、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』を編纂したのがそれである。

しかしながら、待望された厩戸の即位は実現しなかった。推古30年、皇子は49歳で薨去。

ところで馬子と厩戸の影に隠れてみえる推古帝だが、伯父でもある実力者の馬子が葛城県を望んだ時に、私情をはさまない対応でこれを退けている。

それにしてもなぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったのだろうか。崇峻帝のように暗殺されるのを怖れたのか、あるいは摂政という立場で自由に政権を運営したかったのか。それとも、臣下の合議による政権運営という、律令国家の理想がすでに厩戸の政治構想のなかに胚胎していたのか。

もしかしたら推古こそが、馬子と厩戸を使いわけるように君臨した、実力派の女帝だったのかもしれない。「日本書紀」の推古記は、容姿端麗で身のこなしも乱れがなく美しかった、と伝えている。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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女性天皇・女系天皇論議は、なかなか俎上にのぼらない。というのも、世論の動向がはなはだしく、女性天皇容認に傾いているからだ。産経新聞とFNN(フジテレビ)が昨年5月に行なったアンケートによると、女系天皇(単に女性天皇ではなく、女性天皇の子女が皇位に就く)に賛成が62.3%、女性宮家の創出は67.8%だった。朝日新聞の世論調査(昨年4月)では、女性天皇に賛成が76%、女系天皇74%の賛成だった。毎日新聞の調査でも、女性天皇の賛否は、賛成が68%、反対は12%にとどまった。2017年のデータになるが、共同通信による女性天皇賛否の調査では、じつに86%が賛成だった。

世論の圧倒的多数は、女性天皇・女系天皇に賛成しているのだ。それゆえに、安倍政権はみずから呼びかけてきた「国民的な議論」を封じるかのごとく、国会でもこの議論を避けている。たとえば「週刊朝日」(3月6日号)に掲載された「有識者会議の座長代理を務めた2人が皇位継承問題を語る」において、園部逸夫(元最高裁判事・外務省参与)と御厨貴(東大名誉教授・人サントリー文化財団理事)は、国民の圧倒的な女性天皇支持、女性宮家創出賛成の世論を怖れて、安倍晋三総理が議論を封印したと批判している。

つまり国民的な議論をしてしまえば、あっさりと女性天皇が認められてしまいかねない。これは自衛隊合憲論(9条加筆案)と同じく、国民投票にかけることによって、自衛隊の非合憲が決定されかねない、政権にとってはアンビバレンツな問題だということなのだ。

いっぽう、女性天皇賛成論について、左翼系の天皇制廃絶論者からは「天皇制をみとめることになる」「女性天皇賛成ではなく、天皇制の廃絶を」という批判がある。これは本土移転による沖縄基地の撤去論(沖縄米軍基地引取り運動)に対する「基地の存在をみとめるのか」という批判にかさなる。議論はおおいに尽くすべしというのが私の立場だが、天皇制廃絶や米軍基地撤去を、ただ念仏のように唱えていても何も動かないのは、戦後の歴史が教えるとおりであろう。

むしろ保守系の論者の中から、第三皇位継承権を持つ悠仁親王の帝王教育を、自由主義的な秋篠宮家に任せていていいのか。「昭和天皇の杉浦重剛や上皇陛下の小泉信三のような外部の教育掛(教育係)が必要なのではないか」(宮内庁関係者、週刊文春デジタル)という矛盾すら生まれている。その自由主義的な秋篠宮家においてすら、眞子内親王の自由恋愛結婚において矛盾が生じているのだ。すなわち、皇室と天皇制の民主化がそれ自体の危機につながる、ということにほかならない。したがって女性天皇の実現は、単に女権拡張的なフェミニズムの課題だけでなく、天皇制がほんらい持っている矛盾、つまり擬制の身分制・封建制が象徴天皇のアイドル化という自由化のなかで、崩壊をもたらす危機をもたらすのだ。このような視点のもとに、女帝論をめぐる議論のために史料研究が必要である。

◆女帝議論の動向

保守系の論者は「歴史上の女帝は中継ぎにすぎない」「皇統は歴史的に男系男子である」というが、じつは史実はそうではない。意志的に皇位を獲得し、あるいはみずからの皇位を冒す者を排した古代の女帝たち。そして女系女帝(母親が天皇の女帝)すら存在したことを、史実を知らない者たちが議論しているのが現状なのだ。

そこで、あらためて一次史料と最新の研究書・論考を読み込みんだレポートを送りたい。さらには大学や学会など、研究機関の研究者にはとうてい成しえない大胆な仮説をもとに、古代の女帝たちからの証言を明らかにしていこう。あなたも目から鱗が落ちる、衝撃的な歴史体験をともに味わってほしい。

◆神託の巫女

 「元始、女性は実に太陽であった」(『青鞜』平塚らいてう)。

わたしたちが知る神話世界では、天照大御神が母なる神であって、皇祖は女性神ということになる。これは現実の歴史(持統天皇の時代)を、神話の物語に反映したものであろうか。日本神話の世界は謎にみちている。神話をなぞりながら、史実に近づいてみよう。

そこで神話から現実の歴史に降り立つと、史実の女王が卑弥呼と呼ばれた文献に行きあたる。卑弥呼という蔑称は、魏史の編纂者による当て字であろう。おそらく日巫女(ひみこ)、もしくは姫皇女(ひめみこ)、姫子(ひめこ)などが本来の呼び名だと考えられる。

よく「卑弥呼」という名前が好きだという方もいるが、ひらたく訳せば「卑しいとあまねく呼ばれている」というのが「卑弥呼」の語意なのである。「魏志」篇者の悪意すら感じられる。

その「魏史」の「倭人伝」につたわる邪馬台国の女王は、卑弥呼から台与に代をかえて、三十余国からなる連合国家の統治を行なった。いずれも男王のもとでは「相誅殺し」「相攻伐する」状態になった結果、和平のために女王が共立されたのである。

卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆をまどわす」と、倭人伝に記述されている。鬼道については諸説あるが、呪術であり神のお告げ。すなわち神託であろう。
そう、巫女の神託こそが、古代国家統合の背骨だったのだ。神のお告げをつたえる女性は、その意味では国家(共同体)の太陽だったといえよう。その太陽はしかし、王国の実権者だったのだろうか。

魏史倭人伝はこう伝える「夫婿なく、男弟あり、たすけて国を治める。女王となっていらい、姿を見た者は少なく、婢(ひ)千人を仕えさせている。ただ男子あり、飲食を給し辞をつたえ居処に出入りする」

どうやら弟が政治を行ない、給仕をする男性が彼女の神託を宮殿の外につたえていたようだ。倭国は三十余国からなる連合国家なので、諸国王たちが合議したものを卑弥呼に占なってもらい、その神託を決定事項とした。このような統治形態が考えられる。

その場合、卑弥呼は女王でありながら、呪術をもっぱらとする祭司ということになる。つまり太陽ではあったが、政治的な実権者ではないようだ。にもかかわらず、千人の婢(女性奴隷)を使い、その死にさいしては径百歩(歩いて百歩の大きさ)の塚がつくられ、百余人の奴婢が徇葬(殉死)した。祭司の権力が、政治的な実権者に劣らない証しである。

卑弥呼・台与のつぎに巫女の神託が政治舞台に登場するのは、古代王朝最後の女帝・孝謙(称徳)天皇の世になる。それまでしばらくは、古代王朝の辣腕女帝たちの活躍を紹介しよう。保守系の論者が「歴史上の女帝は中継ぎにすぎない」「皇統は歴史的に男系男子である」というのが、いかに史実を知らない主張であるかを、明らかにしていこうではないか。

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保守系の論者や天皇主義者のみなさんは「ひとつの民族、ひとつの王朝」と、ことさらに日本史を「美化」するのが好きだ。なんと狭い島国根性であろうか。日本の歴史はもっと汎アジア的であり、心を躍らせるほどダイナミックなのである。今回は万世一系とされる天皇家に断絶(王朝交代)があり、しかもその断絶が朝鮮半島からの「血」によって行なわれた史実を明らかにしよう。

あまりにも高齢であるがゆえに、神代の天皇たちは神話のフィクションであろうと考えられている。しかし中国の史書や日本の「記」「紀」に事蹟が明確に残されている天皇たちを、居なかったことにするわけにもいかない。そこには天皇家のルーツが秘められているに違いないのだから。

実在したとされる十代崇神天皇をはじめ、応神天皇ら事蹟の明白な天皇たちにおいてもしかし、困ったことに干支と年号(大化以前は、天皇の名前が元号)でしか、編年がたどれないのである。

第十四代仲哀天皇は「古事記」では、52歳で亡くなったとされる。在位は9年間であり、その末年に息子の応神帝が生まれたとされる。ところが、没年の干支(壬戌の年)を西暦に換算してみると、おかしなことになってしまうのだ。仲哀の崩御年を302年とし場合、応神の生誕年は330年ということになる。元号と干支の不便きわまりない点である。そこで、神話物語の脈絡から、ナゾを解いて行こう。

三韓征伐の神話では、西(朝鮮半島)に行けば「金銀をはじめとして、目燃えかがやく珍宝の国あり」という神託があったとされる。神功皇后はそれを信じたが、仲哀帝は「熊襲を討つべし」と主張した。仲哀は神の祟りに遭い、熊襲に討ち取られてしまう。神功皇后は熊襲を討ったのちに、朝鮮半島に三韓征伐をおこなう。半島の陣中で臨月を迎えるものの、そこはグッと我慢して(石を腰に巻いて)九州に帰還してから応神を産んだ。半島で2年ほど過ごしたとすると、神功皇后は半島で身ごもったことになる。そこで「応神の父親は誰だ?」ということになるのだ。

応神が九州で生まれたことから、応神王朝は九州の勢力だとする説が有力である。なぜならば、神功皇后は故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺しているのだ。これは王朝交代劇である。九州の勢力が大和にのぼり、旧王朝を打ち倒す。三韓征伐の神話は、半島出兵と畿内への帰還という二つの物語で構成されているのだ。ここから明らかになるのは、神功皇后が朝鮮半島で妊娠したこと、九州の勢力が「東征」したという暗喩だ。神武東征の再版であろうか?

この神話を、現実の史実(ナゾの四世紀)と照らし合わせてみよう。三世紀の卑弥呼が死んだのは248年とされている(倭人伝)。そして男性王のもとで乱があり、台与が女王として邪馬台国を統(す)べた。ここで倭人伝は「倭国」の様子を伝えるのをやめる。中国も大乱の時代となったからだ。

四世紀の記録としては、366年に倭国が百済に使者をおくり、369年ごろに任那(日本府)が成立したことが明らかになっている。そして381年と404年に倭国が百済と新羅を攻めているのだ(広開土王碑)。これが神功皇后の三韓征伐であろう。そしてこの時期から巨大な前方後円墳が造られ、馬の埴輪が出現する。卑弥呼の時代には「倭には馬がいない」(魏志倭人伝)とされていたのに、日本に馬があらわれたのだ。どこからか? 

大陸もしくは半島からであろう。銅鐸が作られなくなり、鉄器が盛んに造られる。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった勢力で、大和に攻め上ったのであろう。江上波夫氏の「騎馬民族説」である。おそらく百済および任那にいた、馬と鉄器をあつかう人びとが日本にやって来て、大和王朝を創ったのであろう。応神天皇は朝鮮半島系である、ということになるのだ。天皇家のルーツの少なくとも半分は、朝鮮半島だったことになる。

◆天皇家が認めた朝鮮半島の血

もうひとつは、平安遷都で知られる桓武天皇の母親が、百済人の末裔だった史実である。その史実は、平成上皇の天皇時代に日韓ワールドカップのときの所見(お言葉)としてマスコミに報じられ、保守派のとりわけ嫌韓派に衝撃をあたえたものだ。引用しておこう。

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(平成天皇談)

桓武天皇の母親は、高野新笠(たかののにいがさ)という女性である。光仁天皇の側室となり、山部王(のちの桓武帝)と早良王(のちに藤原種継事件に巻きこまれ自殺する)を生んでいる。父親は和乙継で、百済系の渡来人である。平成上皇が言うとおり、武寧王の子孫とされる。百済人がふつうに貴族の高官だった時代から、200年ほどを経た時代のことだ。日本の皇室が中国王朝と朝鮮王朝とふたたび交差するのは、清朝および李朝の時代である。

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かつて日本人は、仏壇と神棚を同じ部屋に飾っていた。生活にもっとも近い場所に仏壇があり、その上に神棚が飾られ、さらに天井近くに御真影。すなわち天皇皇后の写真という祭壇の構成が、明治以降の一般的な家庭の風景であった。それ以前、江戸時代の日本人は神社を訪ねては、そこにある絢爛たる寺院の本堂にある阿弥陀如来像に、あるいは弥勒菩薩像、不動明王像や毘沙門天像に手を合わせていたのだ。その寺院を「神宮寺」という。古代いらい連綿と続いてきた、神仏習合の風景である。

われわれ日本人は、結婚式や七五三を神社および神道形式で祝う。お正月には三社参りをして、一年の平安と健康を祈願する。まるで宗旨は神道のようだ。しかるに、末期のことは菩提寺である寺院にまかせる。死んで仏になる日本人は、まちがいなく仏教徒であろう。仏式で結婚式を挙げる人は、お寺さんはともかく、あまり一般的ではない。ぎゃくにお葬式を神式で行なう家は、代々が神道信仰の家しかないはずだ。これらはすべて、明治以前の生活習慣のなごりなのである。

祭の神輿は、神社ゆかりの氏子会や崇敬会が中核で、町内会(自治会)と重なっている。盆踊りはお寺と町内会のコミュニティをもって成立する。この町内会こそ自民党の支持母体の基礎なのだが、今回はふれない。クリスマスはいかにも盛大に街を飾るが、そもそも信仰の範囲ではないはずだ。にもかかわらず、われわれ現代の日本人は神道と仏教、キリスト教の三つの宗教に等距離をたもち、何ら矛盾を感じていない。これはしかし、あまりにも信仰に深みのない、不信心であるがゆえの宗教生活の空白とは言えまいか。われわれ日本人にはキリスト教における安息日、あるいはイスラム教における日々の礼拝やラマダンなどの習慣がない。じつは明治維新による廃仏毀釈および国家神道化こそ、日本人から宗教心を抜き去ったと言っても過言ではないのだ。

◆そもそも、神仏習合とは何なのだろうか?

六世紀なかばに伝来した仏教は、大陸の先進文化として受け容れられた。単に経典だけではなく、渡来人による建築様式や美術をはじめ、仏教はさまざまな技術とともに受容された。

いっぽう、わが国には自然崇拝としての古神道があり、仏教の受容に反対する勢力も少なくなかった。物部守屋・中臣勝海(かつみ)らがその急先鋒で、仏教を庇護する蘇我馬子と激しく対立した。とくに守屋は、わが国最初の僧侶である善信尼ら三人の尼僧の袈裟を剥ぎとって全裸にし、公衆の面前で鞭打ちの刑に処したという。やがて仏教支持派と廃仏派は朝廷を巻き込んだ政争にいたり、その争いは軍事衝突に発展した。丁未(ていび)の乱である。この戦いで物部氏が滅びると、仏教は蘇我氏と推古天皇および聖徳太子のもとで隆盛をきわめた。

仏教が急速に受け容れられたのは、神道の弱点である死や病気(穢れ)への対処があることだった。古来の神道においては、神といえども死ねば黄泉の国に行かねばならない。現世の穢れをいくら祓い清めても、仏教のように高度な悟りには到達できない。ましてや極楽浄土には行けない。このことに気づいたのかどうか、道に迷った神々が仏教に帰依するようになるのだ。桑名の多度神宮寺には、つぎのような縁起が残されている。奈良朝の天平宝字7年(763年)のことである。

「われは多度の神である。長いあいだに重い罪業をなしてしまい、神道の報いを受けている。願わくば長く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」

聖武天皇による大仏建立が行なわれ、国分寺・国分尼寺が全国に建てられていた時期だから、本朝が仏教国家に生まれ変るのに合わせて、多度の神も仏道に入ったのであろう。

これら神道から仏教への宗旨変えは、つぎのように解釈されている(『神仏習合』美江彰夫)。大規模な土地や荘園を持つことで、神を祀る立場だった「富豪の輩(ともがら)」に罪の意識が芽生えたが、その罪悪感は神道では癒せない。なぜならば、彼らは神を祀ることで私腹を肥やしてきたからだ。そこで彼らは神々を仏門に入れることで、救済をもとめたのである。やがて平安時代になると、仏が仮に神の姿で現れるという、本地垂迹説で神仏習合が理論づけられる。神社のなかに寺が建てられていたのは、およそこのような事情である。

具体例をふたつほど紹介しておこう。大分の宇佐八幡神宮は、渡来系の辛島氏が女性シャーマンを中心に支配してきたが、六世紀の末に大神氏が応神天皇の神霊として「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を降臨させる。これが僧形の八幡神(のちに八幡大菩薩)である。

やがて大神氏は宇佐神宮内に弥勒寺を営み、宇佐神職団の筆頭に躍り出る。奈良の大仏建立に協力し、朝廷の庇護を受けたからだ。そして宇佐神宮が豊前一帯を配下に置いたのは、弥勒寺が周囲の寺院を通じて民衆を支配したからにほかならない。しかしながらその弥勒寺の伽藍は、明治維新によって破壊された。破壊された跡地には、料亭や土産物屋が甍を並べたという。宇佐神宮弥勒寺の信徒たちは、寄る辺をうしなったのである。明治四年の太政官布告によって、宇佐神宮は官幣大社となり、内務省の統制下に入る。八幡神社の総本山宇佐神社は、戦時中は神都と呼ばれた。

いっぽう藤原氏の氏寺である興福寺は、伽藍こそ壊されなかったものの、僧侶たちは同じく藤原氏の氏神である春日大社の神職団に編入させられている。しかし宇佐神宮では失われたものが、いまも春日大社と興福寺には残っているのだ。神職と僧侶が相互に祝詞を唱え、読経するシーン。すなわち神仏習合の原風景である。

◆かくして国家神道は、宗教であることを否定した

明治新政府出発のマニフェストは、木戸孝允の主導で定められた「五箇条の御誓文」だといえよう。天皇みずからが公家諸侯の前で「天地神祇」を祀り、公家を代表して三条実美が御誓文を読み上げたのが慶応4年3月15日。その13日後に「神仏判然令」が布告されたのである。のちに大日本帝国憲法に「万世一系ノ天皇ノ統治ス」とされるのものが「御誓文」には「大いに皇基を振起すべし」とある。天皇が治める国の基礎を奮い起こすべきだ、という意味だ。

その「五箇条の御誓文」の発布の翌日、一般庶民にむけて「五傍の高札」が掲げられた。高札の第三札には「切支丹邪宗門の厳禁」とある。じっさい岩倉使節団が訪米する直前(明治四年)に、伊万里(佐賀)県のキリスト教徒67人が捕縛されている。すぐに諸外国の抗議で撤廃されたものの、豊臣秀吉いらいのバテレン追放令をそのまま継承せざるをえなかった、明治政府の異教への恐怖と国際感覚のなさが露呈したかたちだ。これ以前(明治二年)にも、長崎の大浦天主堂に出入りするキリスト教徒3400人が逮捕されている。

かように、明治政府の宗教政策は、太政官府および内務省による強引な統制であった。法的には憲法第二八条の「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」つまり、安寧と秩序を妨げるようであれば、いつでも弾圧される「信教の自由」なのである。その宗教統制のなかで、神道のみが行政化されたのだった。

行政上は、神祇官(のちに神祇省)の復活が行なわれた。この神祇官は職階こそ太政官よりも上位だが、位階は従五位の下と低い。とても天皇を頂点にいただく新政府の中枢として、耐えられるものではなかった。やがて神祇省は廃止されて教部省となり、のちに内務省社寺局に統合される。そして宮中において、天皇をいわば最高神祇官とする体制がつくられたのだ。天皇祭祀の業務はしたがって、宮内省式部寮が執り行なうことになる。祭祀が役所から禁裏に移され、ここに神代天皇制への復帰が行なわれたのである。

明治33年になると、内務省の社寺局が神社局と宗教局とに分離された。これは官幣社および国幣社などの神社が、行政的には宗教ではないという意味である。

いっぽうでは小さな神社や民間信仰の祠などが統廃合され、神道は国家の行政機関に組み込まれたのである。国家の行政組織になることを拒否する民間神道(教派神道)はすくなからず弾圧の憂き目をみている。

祭祀は伝統的な行事であり、神道教育は道徳を教育するものであって、宗教ではないというのが政府の立場である。そして天皇の地位は政治から相対的に分離され、大元帥となり、「政権」からは分離された「統帥権(兵権)」が憲法に明記される。これが軍部ファシズムへの法的な根拠となったのは周知のとおり。その意味では本来、議会政治から分離された「神国」の政体こそ、天皇を中心にした「国体」と呼ぶべきものであろう。

こうした皇室神道(儀式)は戦後も国家(国事行為)と分離されることなく、その一方では政治権力とは分離(政治的権能の排除)されることで、統合の象徴(アイドル化路線)をひた走ることになったのである。だがアイドル(人間)であることと、国体(象徴)という形式のあいだには、かならず亀裂が生じる。この欄でも何度か明らかにしてきたが、皇族の叛乱(三笠宮家・秋篠宮家)は、その崩壊のきざしなのである。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇
〈06〉日本人はなぜ武士道が好きなのか?

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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