明治いらいの近代天皇制は、神道の復権と武士道と両輪の関係にあったと、わたしは思っている。天皇のために命をささげ、そして天皇の国(皇国)のために死ぬ武士こそ「臣民」なのである。

◆「外から」もたらされた武士道

武士道はもともと、江戸時代においては武士階級(総人口の5%)だけのものだった。明治時代において、はじめて日本人全体の道徳観のなかに根をおろしたのである。いまもスポーツシーンでは「侍ジャパン(野球のナショナルチーム)」や「なでしこジャパン(女子サッカーナショナルチーム)」などと、もとをただせば武士道および男尊女卑の時代錯誤なネーミングに、われわれは違和感なく馴染んでしまっている。

あるいは戦場に乗り込んで、不幸にも拉致されたジャーナリストに「自己責任論」をもって、バッシングがくり返される。国家と社会に「迷惑」をかけたのだから、死んで詫びろとでも言いかねない風潮である。これら偏狭な武士道の倫理観はしかし、われわれ日本人の精神史からいえば明治以降につくられたものにすぎない。
この近代の武士道はある人物によって、じつは「外から」もたらされたものだ。お札の肖像画にもなった新渡戸稲造である。

 

新渡戸稲造=著/山本博文=翻訳『現代語訳 武士道』(2010年/ちくま新書)

キリスト(クエーカー)教徒であった新渡戸稲造が、宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったという(『武士道』)。その紹介の仕方はしかし、あまりにも錯誤に満ちたものだ。新渡戸はこう書いている。

「仏教が武士道に与え得なかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、祖先への崇敬、さらには孝心などが神道の教理によって教えられた。そのため、サムライの倣岸な性格に忍耐がつけ加えられたのである」

「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした」(いずれも前掲書)。

そうではない。新渡戸が仏教研究について何ら業績がないことから、神道と仏教を心的な効果として対比する論旨の粗雑さは明白である。新渡戸が「神道」と措定している内容も江戸時代に成熟した儒教の解釈であり、そこから生じた近世国学の流れにすぎないのだ。武士道が「外からもたらされた」というのは、新渡戸がアメリカ(カリフォルニア)で静養中であり、なおかつ英文で書かれたものが邦訳されたからだ。少なくとも近代武士道の源流は、アメリカ産(クエーカー教徒によるカリフォルニアでの執筆)だったといえよう。神道もその内部にあった仏教的な要素を排除されることで、本来のものとは似つかわないものになってしまったのだ。

神道はほんらい、神の分身としての人間が清浄に立ち返る儀式であって、古代から江戸時代にいたるまで、その宗教行為の実態は神宮寺(神社内にある寺院)の仏教によって行なわれてきた。古代神道を仏教が包摂したのは、神道の儀式(形式)にたいして仏教が修行(教義の実質)を持っていたからにほかならない。そのような史実を捨象して、新渡戸は切腹の奥儀やサクラの散り際のよさを、武士道に通じるものと讃える。国家に対する忠誠を、切腹と散華にたとえて美化しているにすぎないのだ。

それでも新渡戸の知性は「日本人が深遠な哲学を持ち合せていないこと」「激しやすい性質は私たちの名誉観にその責任がある」として、愛国主義を称揚しながら、その危うさにも触れている。『武士道』は日清戦争で日本人が愛国心を発揮した明治33年に書かれたものだが、大日本帝国が日清戦役の延長にアジアを侵略した歴史、あるいは世界大戦の一角の主役を果たして国を焦土にした風景をみれば、新渡戸は何と言ったであろうか。

そもそも宗教教育のない日本とは、1862年生れの新渡戸にとっては、江戸時代までの神仏習合の知らざる宗教生活であったはずだが、この点については後述する。豊かな日本人の宗教生活は、じつは強引に改変された歴史があるのだ。輪廻からの解脱と浄土への悟り。迷える古代の神をも救済した菩薩(修行)の思想。仏教の精神世界においてこそ「日本人が深遠な哲学を持ち合わせ」ていたことに思いを馳せるべきであった。

前述したとおり、新渡戸稲造がアメリカで『武士道』を著したのは明治33年、邦訳は明治41年のことである。キリスト教のような統一した宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったのだ。しかるに、わが国民が仏教に精神世界を根づよく持ってきたのも、まぎれもない史実である。新渡戸はなぜ、日本精神を仏教で捉えようとしなかったのだろうか。古代天皇制は仏教国家をその土台としてきた。その歴史を知らない新渡戸ではなかったはずだ。

新渡戸稲造が生きた時代に、すでに日本人の宗教観に大きな変化をもたらしていたものがあるとすれば、それは廃仏毀釈であろう。飛鳥・奈良・平安の古代いらい、われわれ日本人のなかに根づいていた仏教信仰は、ある契機から壊滅的な打撃を受けることになる。近代国家神道の勃興である。

明治国家は天皇を頂点に、神の国をめざした。現人神である天皇が祭祀を行なうことで神道は儀式となり、ふつうの宗教ではなくなったのだ。そのためには、神道と渾然一体となっていた仏教を排除する必要があった。それが廃仏毀釈である。典型的な事件から、その態様をみてゆこう。

 

近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社(wikipedia)

◆日吉山王社の仏像破壊事件

前代未聞の事件が起きたのは、ある法令が発布されてから、わずか4日後のことだった。近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社に、神威隊と称する100人ほどが武器を持って乱入したのだ。神威隊は日吉社にある仏像や仏具を破壊し、ことごとく焼却した。彼らは罪に問われることはなかった。ちなみに日吉山王権現社は、比叡山延暦寺の守護神社である。

彼らの暴挙を合法化したある法令とは、慶応4年(明治元年)3月28日に発布された「神仏判然令」(神仏分離令)である。そして神威隊なる荒くれ者の正体は、じつは彼らが仏具を破壊した日吉山王権現社の神職たちである。つまり日吉社の神職たちが、自分たちの神社に祀られている仏像や仏具を壊したのだ。明治の新政とともに発動された廃仏毀釈は、このようなかたちで始まった。

この廃仏毀釈を上からの宗教統制とみる考え方もあるが、必ずしもそうではない。明治政府は廃仏運動への反発が政府批判につながるのを、神経質なまでに危惧している。むしろ徳川幕府の仏教優遇政策に反発していた神社、あるいは幕末期の水戸学や平田国学が過剰な尊皇思想をあおり、維新とともに廃仏に走らせたと言うべきであろう。現実に廃仏毀釈は官憲によるものではなく、下からの苛烈な運動だった。それにしても、神職たちがみずからの神社に飾られている仏像と仏具を破壊するという、異常な事態が起きたのである。そもそも神社になぜ仏像や仏具があったのかという、現代を生きるわれわれにはピンと来ない史実から説明をはじめる必要があるかもしれない。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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◆中世・近世の公武合体

公武合体という名称は、幕末の幕府と雄藩の協調運動の代名詞である。幕末の尊王運動を幕藩体制のなかに取り込み、外圧に対する挙国体制を意味している。天皇を報じて夷敵を撃つ、尊王攘夷運動とは相容れない、しかし当時は斬新な提案であった。

現在の天皇制も、武力をそなえた政権と結合することで、公武政権の発展した形態とみなすことが可能だ。皇室および皇族が純粋な文化的な存在として、京都に逼塞すべきだとわたしが思うのは、現在のあり方が伝統的な禁裏ではないと考えるからだ。どうしても日本人が天皇および皇室を必要とするならば、現在のような政治権力に振りまわされ、利用される様式は美しくないばかりか、かならず矛盾をきたして崩壊するだろう。

武士

それはともかく、鎌倉府が成立した中世以降、公武合体は何度も試みられてきた政体である。最初は後鳥羽天皇の時代に、親幕府派の九条兼実が行なった鎌倉幕府との提携である。天皇を頂点に貴族が伝統的な有職故実を踏襲しつつ、武家政権が軍事的に補完する。その理想は九条兼実の弟である慈円の『愚管抄』にくわしい。

後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位したが、失われた神剣を補完するものこそ鎌倉府だとしている。そこでは朝廷と鎌倉幕府は政権を分担する役割に過ぎず、位階の執行者としての天皇の権威が尊重されるいっぽう、武家の軍事的な役割も明白だ。公武が協調しようというのだから。

それは幕府を開いた源頼朝にとっても同様だった。頼朝は征夷大将軍を拝領すると、政子との愛娘・大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁さしめようとした。そのために頼朝は、朝廷とのパイプ役であった九条兼実ではなく、平氏政権・後白河政権・源氏のあいだを鵺のように振舞ってきた源(土御門)通親(みちちか)および後白河院の寵姫だった丹後局こと高階栄子(えいし)に接近し、公武の結びつきを強めている。この頼朝の政治選択は、彼の中央貴族出身ゆえの限界だと評価されている。しかも大姫は二十歳の若さで夭折してしまう。幼いころに木曽義仲の子・義高と結婚し、頼朝と義仲の関係が破綻したのちに、大姫は父に夫を殺されている。心の傷は癒えてなかったのであろうか。

いっぽう上皇となった後鳥羽帝は、政体の形式的な役割性だけを見ているわけではなかった。政権の実質が荘園の支配権にあることをリアルに感じ取っていたのである。承久の変とは、西国の荘園支配権をどうするのか。鎌倉府の支配権を削ぎ落すことにこそ、上皇の関心はあったのだ。その結果は、このシリーズの第4回「武士と戦った天皇たち」を参照されたい。

◆和子入内

朝廷との結びつきを強くすることで、政権基盤を安定させようとしたのは江戸幕府も同様だった。秀忠とお江のあいだに和子が生まれたころから、家康は公武合体の構想を抱いていたようだ。

後陽成天皇が譲位すると、家康は天皇の弟の八条宮智仁親王が秀吉の養子になったことがあるので、その即位に反対した。天皇の子である政仁親王、すなわち後水尾天皇を推したのである。3年後の慶長19年には朝廷から和子入内の内旨がくだる。後水尾天皇に別腹の皇子(賀茂宮)と皇女(梅宮)が生まれるなど、幕府を不快にさせる経緯はあったものの、史上はじめて武家の娘が入内した。

ちなみに平清盛の徳子(建礼門院)の場合は後白河法皇の猶子としての入内であるから、先例とはならない。のちに後水尾天皇と幕府の間には紫衣事件や春日局の参内など、穏やかならぬ出来事がつづき、突如として譲位することになる。天皇が皇位を譲ったのは、幕府の神経を逆なでするように女帝(明正天皇)だった。女帝は結婚できないから、徳川家の血は皇統に入ることはなかったのだ。

いっぽう、家光の御台所が鷹司孝子であることは、あまり知られていないかもしれない。というのも、婚儀してまもなく中の丸(吹上)に軟禁されるように移され、生涯を通じて家光と会うことはなかったからだ。鷹司家は藤原氏北家流の五摂家のひとつである。

◆和宮降嫁

皇女和宮(かずのみや)

ここまで見たとおり、公武合体は政権の基盤を盤石にするための政策である。その意味では、本人たちの意志とは無関係に企図され、強引に実行される。それはしばしば悲劇を生むものだ。十四代将軍徳川家茂に嫁いだ和宮親子の場合も、婚約者から引き離される縁談だった。

頼朝の娘・大姫は無理やり後鳥羽天皇のもとに入内させられそうになったが、皇女和宮の場合は熾仁親王と婚約していた。兄の孝明天皇は婚約を理由に和宮の降嫁を断るが、幕府側は執拗だった。京都所司代の酒井忠義を通じて、再三の奏請があった。侍従の岩倉具視が考えた策は、幕府にアメリカとの条約を破棄させ、攘夷を断行させるのを、和宮降嫁の条件とするものだった。ところが和宮が昇殿して、徳川家との縁組をかたく辞退した。

和宮の反応に困った孝明天皇は、以下のとおり宣言する。和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。この乱暴な通告は久我建通の策を容れたものだった。和宮が折れて、攘夷と挙国一致をめざす公武合体が成立した。

降嫁した和宮は家茂と仲睦まじく、家茂が上洛したおりにはお百度を踏むなど愛情をしめしている。幕末の騒乱のなか、和宮は家茂亡きあとも江戸城にとどまり、天璋院とともに和平に奔走したのはつとに知られるところだ。

ちなみに、明治天皇の皇妃は一条美子(昭憲皇太后)だが子はなく、大正天皇は柳原愛子(公家)が母親である。大正天皇の皇妃・九条節子(貞明皇后)も公家の出身であり、昭和天皇の皇妃・香淳皇后は母方が島津家の血筋を継いでいる。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇

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◆武士とは何者なのか

奈良王朝の貴族の叛乱をみると、彼らがほとんど独自の兵力を持っていないことがわかる。橘奈良麻呂の乱や恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は、兵を動かす手続きの段階で露見している。あるいは自分の縁故がある国(仲麻呂の場合は八男が国司を務める越前)に拠点を構えようとして討ち取られている。つまり貴族たちは私兵ではなく、公的な兵士である軍団を動員しようとして失敗したのだ。それがよくわかる以下のような称徳帝の詔勅がある。

「王臣の私家の内に兵器を貯ふるは官に進ましめ、關国(関所のある伊勢国・美濃国・越前国)百姓及び餘国の有力人を王臣の資人に充つことを禁じたまふ」(『續日本紀』巻二十六)。

自宅に兵器を貯えたり、関所を設けている国の人々、およびその他の国の有力者を警護役にすることを禁じる。つまり独自の軍事力を持ってはいけないというのだ。律令制は厳格な官僚組織の規程であり、文書による手続きも煩雑だった。それゆえに、兵を動員しようとすると露見してしまうのだ。貴族たちの叛乱が未然に封じられたのは、独自の兵を持たなかったからにほかならない。平安京を遷都した桓武天皇は、兵役をともなう防人の軍団制を廃して健児の制のみとした。律令国家は禁裏と国府の警護いがいの軍事力を廃止したのだ。江戸時代と並んで、平安期は平和な世紀だったといえよう。

しかるに、院政を敷いた上皇たちは北面の武士という、独自の軍事力を持つようになる。当初は叡山など寺社の僧兵たちの強訴を警備するためだったが、やがて朝廷内部の政争・政変に使われるようになる(保元・平治の乱)。桓武天皇の系譜をもつ平氏、そして清和天皇の系譜をもつ源氏、および藤原氏の系譜が各地の国司や郡司、荘園の荘官となり、地元に勢力を貯えていく。これが武士の誕生である。有力な農民が一党をかまえて地侍となり、地頭などの職を得た武士の系譜はこれらとは異なる。

◆武家の勃興と政変

源氏物語

実力をたくわえた武士をあやつり、そしてその武力に翻弄されたのが後白河法皇である。保元の乱で天皇として実権をにぎり、荘園整理などに辣腕を振るうと、在位3年で譲位した。権謀術数に長けた法皇の治世は、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の五代30年にわたった。

源氏と平氏の力で勝ち得た皇位だったが、平氏(清盛)が台頭すると、一転して院政を停止されてしまう。源氏(義仲・義経)が平氏を京から追い落とすと、それに一味して院政を保つ。のちに源頼朝から「天下一の大天狗」と呼ばれたのは、つねに源平の間をゆれ動き、義経に頼朝追討の宣旨を出したかと思えば、頼朝が有利とみると義経追討を命じる。その一貫しない政治態度を評したものだ。ぎゃくに言えば、政治的なセンスに長けていたといえる。頼朝が熱望した征夷大将軍の職を、法王は死ぬまで与えなかった。

◆東西権力の激突

後鳥羽帝

後鳥羽天皇は安徳天皇が平氏とともに都落ちしたので、後白河法皇の詔により即位した。在位15年にして上皇となり、土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の三代23年にわたり院政を敷いた。そしてその院政は一貫して、鎌倉幕府との戦いであった。上皇は『新古今和歌集』(隠岐本)の撰者として名高く、蹴鞠、管弦、囲碁、双六と多芸な、いわば百科全書的な人物だった。そして武芸もその嗜みのひとつで、新たに西面の武士を設けて武芸の習いとした。激しい性格で、盗賊捕縛の第一線に立ったこともあるという。

後鳥羽上皇は当初、三代将軍の源実朝と縁戚になって、幕府との提携を模索していた。後白河院から継承した荘園群について、地頭が徴税を怠るなど思うに任せない領地支配を、鎌倉幕府の力で解決を図ろうとしていたのだ。

しかしこの策は、北条氏をはじめとする有力御家人の抵抗に遭った。そして頼みの実朝が暗殺されると、幕府との提携に陰りがさす。上皇は尼将軍北条政子の求める宮将軍宣下、すなわち鎌倉四代将軍に皇族を就ける上奏を退けた。ぎゃくに上皇は、院に近い御家人の処分の撤廃。あるいはみずからの寵姫・亀菊の所領の地頭を罷免するよう求めるのだった。御家人の賞罰や地頭の任免権は鎌倉幕府の武家統率の根幹であり、ここに朝廷と幕府の対立は決定的となったのである。かくして後鳥羽上皇は倒幕計画を練ることになる。

上皇は幕府呪詛の祈祷を始めるとともに、親幕派の西園寺公経らを捕縛し、京都守護職の伊賀光季を射ち滅ぼした。ついで執権北条義時(政子の弟)追討の院宣が発っせられ、院宣に従うならば褒美は望み次第とされた。承久の変の勃発である。これにたいして、北条政子が東国武士団の前で演説をした。かつて都の平氏に仕え、惨めな思いをしていた過去を思い越した東国武士団は結束し、19万という大軍で上皇軍を破る。後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。天皇の時代から、武士の時代に変わった瞬間である。

◆天皇親政の実現

後嵯峨天皇が後継を明らかにしないまま崩御したことから、後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の系譜から、天皇が交代で即位することになった。これが皇統を分かつ両統迭立である。

ところが第九十四代・後二条天皇と第九十六代・後醍醐天皇の代に、大覚寺統において後二条系と後醍醐系の皇位順序で紛争が起きる。後宇田上皇の「処分状(譲り状)」である。皇位決定者である治天の君になれないことに不満を感じた後醍醐天皇は、卓抜した能力を発揮して有力な人材を集めた。訴訟処理機構の整備や諸税をはじめとする経済政策、関所の廃止などを実施など、朝廷そのものの権益を拡大するものとなった。それはたちまち幕府の規制と衝突した。

両統迭立をふくむ既存の政治システムの破壊が、武力でしか達せないことに思い至った後醍醐は、後宇田上皇の死を待っていたかのように、倒幕計画をめぐらせる。だがこれは事前に漏れてしまう(正中の変)。7年後の元徳3年、天皇の倒幕の意志を知った幕府は、長崎高定らを派遣して討幕派を取り締まる。後醍醐は三種の神器を持って笠置山に逃れた。のちに隠岐に配流となる。

いったん倒幕運動はついえたかにみえたが、嫡男の護良親王が吉野で兵を挙げ、楠木正成が河内で挙兵すると、幕府軍は窮地に立った。幕府の命令で西上していた足利尊氏が後醍醐側に付くと、京都は討幕派が六波羅探題を陥れた。さらに新田義貞が鎌倉を攻めて、ついに鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇の「建武の中興」である。

しかしながら、親政を実現した後醍醐天皇の政権運営は貴族政治への回帰だった。倒幕に参加した武士団が離反し、とくに足利尊氏が鎌倉で反建武政権派となったのは決定的だった。京都を追われた後醍醐は吉野で南朝をひらき、ここに南北朝争乱が始まるのだ。南北朝の騒乱は、室町時代のなかばまで尾を引きずる。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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◆殺されるヨーロッパの王たち

シーザー

平安後期から始まる院政という政治形態は、世界史的にみても日本にしかない。古代ヨーロッパにおいては、宗教的な価値観から王を殺害する習慣があったとされている。王権が宇宙の秩序をつかさどる存在であるから、その能力を失った王を殺害し、新たな王のもとに秩序を回復しなければならないという思想である。

たとえば歴代ローマ皇帝七十人のうち、暗殺された皇帝が二十三人、暗殺された可能性がある皇帝は八人である。ほかに処刑が三人、戦死が九人、自殺五人。自然死と思われるのは二十人にすぎない。政争と戦争に明け暮れていた皇帝たちの末路は悲惨だ。

やがて中世・近世に至って王権神授の思想が確立すると、王を殺害することはタブーとなったものの、近代の市民革命は旧制度(アンシアンレジーム)の破壊とともに王を処刑している。イギリスでは清教徒革命におけるチャールズ一世の斬首、フランス大革命におけるルイ十六世は断頭台に露と消えた。ロシア革命でもニコライ二世とその家族が処刑されている。

◆院政が誕生した秘密とは

ではなぜ、日本において天皇は殺されなかったのだろうか。いや、第三十二代の崇峻天皇は、蘇我氏およびそれとむすぶ皇族(推古・厩戸皇子ら)によって弑逆されている。蘇我馬子が罰せられていないことから、皇族が了解した宮廷クーデターであったのは確実だ。奈良朝の称徳(孝謙)女帝も、藤原氏の陰謀で殺されたとわたしは考えている。乙巳の変(大化の改新)や壬申の乱も皇族同士の殺し合いである。血なまぐさい古代王権に終止符を打ったのは、藤原氏の摂関支配である。ここにおいて、天皇は実権を奪われたのである。

孝謙女帝

そしてなぜ、日本において院政という独自の政体が敷かれたのだろうか。三つの理由が考えられる。ひとつは摂関家からの政治的な自由の確保である。若くして即位し、摂関家の執政のもとで操り人形を演じさせられ、政治的な経験を積む歳になると譲位させられる。ある日、上皇となった前(さき)の天皇は気がついたのだ。上皇として仙洞御所に君臨すれば、院宣をもって朝廷に政治的影響力が行使できることを――。

もうひとつは、兄の皇位を弟が継ぐ大兄制度からの離脱である。すなわち自分の子への譲位で、皇統を自分に近いものにしたい。そこには動物的な本能を感じさせるものがある。

いまひとつは、天皇と貴族たちのあいだに横たわる、大きな利権についてであろう。それは律令制の根幹である公地公民制と、それを掘り崩す墾田永年私財法、すなわち荘園の存在である。

そもそも荘園は、東大寺の大仏および国分寺・国分尼寺の建立資金を捻出するために、聖武天皇が開墾地を私有してもよいと許可したものだった。その聖武天皇が推進した仏教政策を受け継いだ孝謙女帝は、弓削道鏡や円興・基信ら仏教勢力を登用して、大仏の開眼を実現する。そして天平神護元年(七六五年)に、墾田私有禁止太政官令および勅命を発するのだ。

勅今聞墾田縁天平十五年格自今以後任爲私財無論三世一身咸悉永年莫取由是天下諸人競爲墾田勢力之家駈役百姓貧窮百姓無暇自存自今以後一切禁断勿令加墾但寺先来定地開墾之次不在禁限又富土百姓一二町者亦宜許之(『續日本記』巻第二十六天平神護元年三月五日『日本紀略』にも同文あり)

勅命である。いま聞くに天平一五年の三世一身の法を改めて永年私財法となって以来、人々が競って開墾を行ない、勢力のある家が百姓を開墾に動員している。そのために百姓たちが自分の土地を耕す暇もなく、困窮しているという。今後一切、開墾は禁じます。ただし、寺の先来に定める開墾は許します。富士百姓の十二町は開墾を許します。

おもてむきは庶民が困っているという理由だが、国土を私物化するなという天皇の意志は明白だ。この勅命が道鏡排除の宇佐神宮神託事件に発展し、やがて藤原氏による政権転覆につながっていく。孝謙天皇(称徳帝)の死後、荘園はますます拡大の一途をたどり、平安京遷都とともに摂関政治の全盛期を迎えることになる。

◆荘園をめぐる天皇と藤原氏の争闘

わが世の春を謳歌する藤原氏に、荘園の見直しをふくむ規制で対抗したのは後三条天皇である。この後三条帝は苦労人である。三十四歳で即位するまで、さまざまな屈辱に耐えなければならなかった。藤原道長の子である頼通(よりみち)・教通(のりみち)兄弟に、たび重なる嫌がらせを受けていたのだ。たとえば立太子のさいに、東宮の守り刀である「壺切りの剣」を渡してもらえなかった。大極殿再建用の費用を藤原氏が宇治平等院などの氏寺用に使ってしまったものだから、即位式も太政官庁を使わなければならなかった。

帝位に就いた後三条天皇が最初に着手したのは、荘園整理令であった。藤原氏をはじめとする貴族が「記録が残っていないのでわからない」と抗弁すると、天皇は記録荘園券契所を設けて調査をはじめた。さらには新たに延久宣旨枡を用いて、私升による徴税のごまかしを禁止する。かように天皇執政の熱意に満ちていた後三条天皇だが、譲位後に四十歳の若さで亡くなってしまう。後継した嫡子貞仁親王こそ、本格的な院政を始めた白河天皇である。藤原宗忠は白川天皇を評して「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」つまり白河天皇は専制君主だと語っているのだ。後鳥羽天皇に至り、院政は頂点をきわめる。崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の三代にわたり、息子たちを操る院政を敷いたのである。

爾後、平安末期から鎌倉前期の天皇は上皇となり、仏門に入って法皇として院庁に君臨するが、独自の兵力を北面の武士として蓄えたことから、武士の勃興をまねく。武家の時代における院政は、もはや無力な存在となった。

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◆神話のなかの天皇たち

権力闘争をなくすために、実力よりも血統に皇統の根拠がもとめられたこと。そしてそれは天の命令でなければならないがゆえに、ある壮大なフィクションが創られた。皇統が天から下ったという神話である。じっさいに、初期の天皇たちはその大半が『古事記』『日本書紀』にしか記録がない。

古事記

その神話のなかの天皇たちは、どこまでが真実なのだろうか。神話が過去の伝承をなぞり、伝承のなかの大王たちの事績を仮託したものだとしても、歴史学はどこまで史実に迫っているのだろうか。

わが国最古の公式な史書である『古事記』と『日本書紀』は、天武天皇の命で編纂され、持統天皇の末期に完成した。『古事記』は舎人の稗田阿礼という記憶力のすぐれた人物が口述し、太安万侶がそれを筆記した。『日本書紀』は川島皇子ら12人のプロジェクトチームによるもので、舎人親王が最終的に編纂した。

いずれも乙巳の変で焼失した帝記・旧辞という史料を諳んじる稗田阿礼の口述がもとになっているが、『日本書紀』においては豪族の墓記や個人の覚書、百済の文献なども参考にしている。編纂の目的は天皇による国家統一の偉業を讃えるものだ。皇祖を女性にすることで女帝(持統天皇)の正統性を描き、あるいは藤原氏をリスペクトするなどの編纂意図も随所にうかがえる。

神武天皇137歳

神代の記述はこうだ。皇祖とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天原から日向の高千穂に降り、大山祇神(オオヤマツミ)の娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と結婚して、山幸彦=火遠理命(ホオリノミコト)が生まれた。山幸彦が海神の娘である豊玉姫と結婚して生まれたのが、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズミコト)。その四男が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、すなわち神武天皇である。天照大御神から数えて五代目ということになる。神武以降の天皇たちはおそらく、伝承にいろどられた神話のなかの神々とかさなっている。

じつは『記紀』には明らかに、捏造と思われる記述もあるのだ。たとえば歴代天皇がきわめて高齢である点だ。崇神天皇の168歳をトップに、垂仁天皇153歳、神武天皇137歳、孝安天皇137歳、景行天皇137歳、応神天皇130歳と超高齢なのである。

高齢だからといって、その存在自体が捏造というわけではない。崇神天皇には王朝交代説もあり、事実上の初代天皇という説がある実在の天皇だ。応神天皇も朝鮮半島との外交業績や『宋書倭国伝』にある倭王「讃」に比定されるなど、あきらかに実在の天皇である。

実在を証明するには、考古学的な裏付けが必要となるわけだが、架空の人物ではと思われる欠史八代(二代綏靖天皇以下、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇)の各天皇にも、陵(みささぎ)が治定されている。ところがこの治定(じじょう)は、大半が江戸時代に行なわれたものなのだ。それを宮内庁が追認しているにすぎない。天皇の治世と陵の建築年代が、大きくずれていると、研究者たちから指摘されている。

現在の考古学的な知見で埋葬された天皇と陵が一致するのは、奈良王朝の天智・天武・持統陵など数か所にすぎないとされている。調査が期待されるところだが、宮内庁は学術的信頼度について「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」と、治定見直しを拒絶している(『天皇陵論──聖域か文化財か』外池昇、新人物往来社など)。

雄略天皇

天皇陵が考古学的な裏付けにならないとしたら、われわれはどう考えればよいのだろうか。文献史学および考古学的な成果によるものを挙げておこう。文書と遺物である。

たとえば雄略天皇の場合のように、行田市の船山古墳出土の刀剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」とある遺物は、記紀の「若健命(ワカタケルノミコト)」に符合する。

世界でも最大級の古墳である仁徳陵の被葬者、仁徳天皇はどうだろう。『古事記』にはオオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御し、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』にも、仁徳天皇は87年(399年)正月に崩御し、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。平安時代の『延喜式』には仁徳陵が「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟」の規模だと記述されている。敷地が群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が仁徳陵を指していることは間違いない。陵の大きさから、仁徳天皇の実在性は明らかなのである。これで仁徳帝の存在は、陵と文献から証明されたことになる。

◆ねつ造された理由

前述した欠史八代の各天皇は系譜のみの記載であって、事績が伝わっていないことから不在説がつよい。八代とも兄弟相続ではなく父子相続になっていることも、『記紀』が編纂された天武・持統時代の嫡系相続を反映したものと考えられる。あるいは、辛酉の年に天命が改まる1260年に一度の辛酉革命にちなんで、神武天皇の即位を推古9年(辛酉)から1260年前(西暦紀元前660年)にするために、八代を編年したという説もある(那珂通世「上世年紀考」)。

時代が新しくなれば、実在の可能性が高いというわけではない。王朝交代が指摘される継体天皇の前の25代・武烈天皇の場合は、残忍な逸話ばかり記述されている。恋敵を山に追い詰めて殺し、その一族を館ごと焼き殺す。妊婦の腹を裂いて胎児を見る、生爪を剥がして山芋を掘らせるなど、思いつく限りの残虐さが伝わっている。おそらく王朝交代にさいして、悪行を尽くした皇統が断絶したと解釈する歴史思想の反映であろう。したがって、創作された悪逆の天皇と考えられるのだ。

◎《連載》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか〈01〉天皇の誕生

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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田所さんから1月27日付「反論」への「反批判」をいただいた。ありがたいことである。論争というものは、テーマと論点を鮮明にするのみならず、自分の論述にも厳密さを求めるようになる。文章修行には良いものだと思う。

とはいえ、田所氏の所論である「山本太郎の独裁体質」については、感覚的にそう感じる以上のものではない、政治論ではないことがほぼ了解できた。山本太郎の政策の変遷については、選挙戦術論と回答した以外の答えは当方にはない。それが選挙政治の現実だからだ。その他、細かい部分は後段にまわして、核心部から検証してみよう。天皇制と元号についてである。

前回の「反論」においてわたしは、
「個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい」と要請してみた。田所氏がいったいどのような理解において、元号を批判するのかを知りたかったからだ。

なにしろ「わたしはその党名(れいわ新撰組)を書けない」つまり、元号を書くことが出来ないというのだから、それ相応のディープな批判内容があるものと期待したのである。しかるに「いちいち学者や研究者著作からの引用を持ち出さなくとも、元号が天皇制と直結していることに争いはない」と至極あたりまえの回答しか得られなかった。せっかく挑発しているのに、いや、ぜひともと誘っているのだから、元号にかんする独自の論証があるものと期待したが、残念ながらそうはならなかった。

たとえば昭和天皇の重大な罪業らしきものを匂わせ、書けない理由を、
「それをここで書きたい。が、書けない。なぜか。いくら『タブーなき』鹿砦社のメディアであっても、『そのこと』を書けば、『そのこと』が事実であっても、鹿砦社業務に支障が出たり、わたし自身の身に危険が及ぶ可能性があるからだ」としている。ぜひともメールで、わたしにお知らせ願いたいものだ。何も心配する必要はない。前科(政治犯歴)のあるわたしには失うものはないし、日本には闘うべき言論の自由があるのだから、わたしの責任において本欄に公表しよう。

ちなみに、わたしは昭和天皇の戦争責任は戦犯として訴追され「処刑に値する」と考えるが、死刑廃止論者なので禁固刑がいいところだろう。田所さんは東アジア反日武装戦線の「虹作戦(爆殺未遂)」を評価しておられるが、これにもわたしは反対だと述べた。国民・人民がみずから天皇制を廃絶するのでなければ、イデオロギー装置としての天皇制は廃絶しないからだ。

◎[関連記事]NHKがキャンペーンする「昭和天皇の反省」 田島道治ノート「天皇拝謁録」(2019年8月19日付横山茂彦論考)

それにしても、、田所さんが書いている昭和天皇の戦争責任の法的な脈絡は、あまりにも粗雑に過ぎると指摘しておこう。大元帥としての道義的な責任(最高責任者)ということならば理解できるが、太平洋戦争中の昭和天皇の具体的な行動を論証する必要がある。

たとえば「生きて虜囚の辱めを受けず」(陸軍戦陣訓、東条英機)を、昭和天皇が兵に直接命じた事実があるのだろうか? あるいは「天皇制とみずからの命乞いのために、マッカーサーに泣きついた」とは、どの史料にあるのか、ぜひとも教えて欲しい。文献史学は史料に基づいてこそ、初めて立論となるのだ。

◆天皇制と元号について

田所氏はわたしに、こう問われている。
「元号と天皇制は結び付いていませんか?」(田所氏)と。元号が天皇制そのものであることは、誰もが自明のこととして了解しているであろう。この原初的で平易な問いかけはしかし、じつに好感を持てる。

そこで、あえて田所さんの平易な「疑問」に応えよう。元号と天皇制は必ずしも不可分ではない。天皇制と元号が機能しない歴史もあったのだと。

すなわち多くの時代において、元号(天皇)は、その時代の政治権力と結びつかなかったのだ。広義の天皇制においては、元号が単なる飾りにすぎなかったことを、わが国のながい歴史はおしえている。だからこそ、天皇制の廃絶は不可能と絶望する田所さんには意外なことかもしれないが、天皇制を崩壊させる展望もあると言いたいのである。

はて、天皇制には広義のものと狭義のものがあるのだという、わたしの概念設定に読者は驚かれるかもしれない。その区分に意味はあるのか? いや、そもそも天皇制の定義は、それでは何なのだろうか、と。そこで、まずは「天皇制」という言葉の定義から始めるべきであろう。

天皇とはそもそも、律令制(法律)の頂点に君臨する位階職制の認定者(人事権掌握)であり、その意味で政治権力である。天皇が政治権力と結びいて機能することを「天皇制」というのだ。これは天皇が自然な在り様であって、畏敬の念やその象徴的な具現である神事・祭祀が、単に伝統行事にすぎないとみる天皇崇拝者にとっては、左翼が云う「政治規定」ということになる。

つまり「天皇制」とは、天皇と政治が結合した政体であり、もともと左翼用語なのだ。天皇主義の右翼は、けっして天皇制という言葉をつかわない。安易に「天皇制」なる言葉を使う右翼は、左翼文化を刷りこまれた似非右翼と指弾されるはずだ。だがこのさい、左翼か右翼かはどうでもいい。政治権力と結びつくかぎりで、天皇(禁裏)と政治の結合こそが、天皇制権力(狭義の意味での天皇制)なのである。

しかしながら、天皇制権力は古代飛鳥王朝(乙巳の変以降)から奈良王朝(称徳帝)に健在であったものが、平安末期の院政、南北朝(建武の中興)を除いて近代にいたるまで、ほぼ完全に骨抜きにされてきた歴史がある。元号が連綿と続いてきたにもかかわらず、広義の天皇制は権力を失っていたのである。

平安前期は摂関権力に牛耳られ、鎌倉時代には承久の変によって天皇権力は京都から放逐された。初めての公武政権である室町幕府において、天皇家は日本国王の名称すら簒奪され(足利義満の外交文書)、江戸時代の幕藩体制によって禁裏は家職への逼塞を余儀なくされた。これら日本史の大半の時代において、天皇制は権力を喪失していたのである。

これで回答になっているだろうか。天皇制と元号は結びついている、どころか本来は一体のものである。にもかかわらず、かならずしも天皇制権力を体現してきたわけではないのだ。したがって、元号が天皇制そのものとはいえない。いまや元号は事件や事変の歴史的呼称として、日本史研究の道標になるという評価が妥当なところだろう。

田所氏は「その元号を書けない」というのだから、代わって令和という元号への批判をわたしの過去の投稿から紹介しておこう。『新元号「令和」には「法令の下に国民を従わせる」という意味もある』これを参考にして欲しい。

◆議論のためには、論証をしなければならない

ところで、最初の反批判で横山の「テーゼ」に同意したという田所氏は、しかし以下の質問には答えてくれていない。1月27日のわたしの疑問を再録しよう。

「『わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。』(田所氏)というのだが、その中身がまったく展開されていないのだ。なぜ『(横山の)テーゼが無効化され』て「現在の状況』があり、それを『前提とし』なければならないのか、これではよくわからない。」

田所氏においては、文脈をとらえずに、論旨を理解できないまま書かれることが多い。具体例を天皇制批判の核心的な部分から引いてみよう。

「《むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)》と仰天するような評価を披歴なさっている。仰天するとい(う)のは、横山さんが『情況』という雑誌の編集長だからだ。個人の意見としてそのように考える人がいるであろうことは知っているが、『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない。天皇制のどこに「国民的親和性」があると横山さんは主張なさるのであろうか。」

ここでは、天皇制の融和性と民族排外主義が相反するという論旨を捉えそこなっているうえに、語意の「国民的親和性」も理解できていない。

天皇制が「汎アジア主義」であるがゆえに、侵略戦争の思想的な背景になったことは、田所氏が云うとおり「アジアへの侵略」である。しかし天皇制を背景にした五族協和――大東亜共栄と民族排外主義、あるいはヘイトクライムのレイシズムは、そもそも相反する思想なのだ。

ネトウヨが平成天皇の汎アジア主義的(親韓的)な発言に対して「明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇日本の敵 天皇死ね!」と罵倒するのは、いったいなぜなのだろうか。両者が相反するからなのである。この論旨を無視して、田所氏は「汎アジア主義」という言葉だけを取り出してしまうのだ。その汎アジア主義にも主戦論(侵略主義)と非戦主義(大アジア主義)があり、中国革命に尽力・寄与した宮崎滔天らの日本人義士、あるいはそれを受け皿に孫文ら中国の革命家たちが来日(留学や亡命)していたことを、田所氏は知らないのであろうか。

「国民的親和性」については、これを理解できないのではちょっと困る。国民に親しく和するからこそ、天皇制は「この島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている『理由なき精神性』」(田所氏)なのである。これは戦後象徴天皇制の本質であろう。

しかし、排外主義の民族主義右翼は天皇が国民的な常識で自由に行動することを、けっして許さない(天皇夫妻の外交志向、三笠宮家の皇室離脱、秋篠宮家の婚姻問題)。ここに戦後天皇制崩壊のカギがあるのだ。

◆『情況』について

『情況』の編集長という話が出てきたので、これにも回答しておこう。田所さんは「『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない」という。ここでも、どういうふうに「雑誌の性質」を理解し「誤解していた」のかを例証していない。それは誤解なのだから、いいとしよう。

前回の反論で「左翼であれば」というフレーズで山本太郎を批判していたことから察するに、雑誌『情況』を左翼雑誌と理解しておられたのであろう。それはあながち間違いではない。しかし『情況』は運動体の雑誌、例えば反天連と旧べ平連系の『ピープルズ・プラン』や新左翼系の『変革のアソシエ』、廃刊した『インパクション』のような運動情報誌ではない。小なりといえども、『文藝春秋』や『世界』と伍する論壇誌(雑誌のキャッチは、オピニオンのステージをひらく変革のための総合誌)である。岩波書店の『思想』や青土社の『現代思想』とともに、学術誌として大学図書館に合本保存される性格もあわせ持っている。

したがって、誌面構成は天皇制反対の論考ばかりではなく、たとえば一水会代表の木村三浩氏や『月刊日本』編集長の坪内隆彦氏にも寄稿いただいたことがある。彼らはれっきとした天皇主義者だが、議論に資するから論考を掲載してきたものだ。論壇誌の議論というのは、左右の思想傾向ではなく、内容ありきなのだ。左翼雑誌なら天皇を批判するのが当然で、天皇制批判には何も論証がなくてもいいだろうと考える浅薄さこそ、ネトウヨに何でも反対する内容のない「パヨク」「ブサヨ」などと侮られるのではないか。ちょっと言いすぎか(苦笑)。

上記につづく文脈で、田所氏は「『ゲルニカ事件』や『日の丸君が代処分』事件などを引き合いに出すまでもなく!…」と天皇制批判を論証しかかって、そこでやめている。「いや、もうやめたほうがいいのかもしれない。わたしは頭が悪いので、迂遠な表現が使えない。」と。頭が悪かろうが良かろうが、書く以上は論証しなければならない。

ゲルニカ事件も日の丸君が代処分も思想・表現の自由にかかわることであって、そもそも表現の自由は天皇制だけに固有のものではない。中国で毛沢東主席の画像に唾を吐けば罰せられる。朝鮮民主主義人民共和国で共和国旗を汚せば罰せられるだろうし、金日成主席の写真を踏みにじれば、悪くすれば機関銃で処刑されるかもしれない。ぎゃくに日本やアメリカでは、国旗を焼いても罰せられない(国旗および国家に関する法律よりも、表現の自由が上位にある。国旗冒とく法よりも、憲法第1条=自由権が上位にある)。天皇の写真を焼いても、火事にならなければ罰せられることはない。この違いは、たんに法律の違いなのである。

ゲルニカの絵を通じて平和を訴えたい学童たちの希望が奪われたこと、君が代を歌いたくない教師や生徒の思想表現の自由が奪われたことをもって、天皇制こそが諸悪の根源などという粗雑な論理では、天皇制の本質から逸れるばかりではないだろうか。日の丸君が代を義務化する教育現場の指導要領、それを企図した政治家・官僚にこそ原因があるのだ。

というのも、田所氏においては論証を抜きに、やや短絡的に書き飛ばしてしまう傾向があるからだ。本欄でそれを指摘するのは憚られると考えてきたが、わざわざ文中に『情況』誌の編集長というわたしの肩書を持ち出されたので、もはや触れないわけにもいかないだろう。

わたしが依頼した大学特集号(『情況』2019年冬号)の記事「『エンターテイメント』の観点からみた関関同立と近畿大学」(田所氏執筆)に対して、小波秀雄氏から「福島の現実は差別や偏見との闘いである――田所敏夫氏の浅薄な開沼博論」という記事が寄せられたことがある(同年春号掲載)。

誌上論争というものはテーマが鮮明となり、読者に論点を提示するという意味で大歓迎であるから、わたしは田所氏に当該の批判記事原稿をメール送信したうえで、掲載の了解と反論原稿のお願いをして諒解を得た。※小波氏の批判は雑誌を参照されたい。

しかしながら、現在にいたるも田所氏からの反批判は本誌編集部にとどいていない。小波氏が云う「雑駁なエピソードの羅列」「脈絡もなく結んで」「本誌の特集テーマである『壊れゆく大学』の分析や批判になっているのだろうか」。あるいは「『こういう教員がいるからこの大学はおかしい』というのは、大学というものを知らない人のすることである」などという批判はどうでもいい。問題なのは、ほかならぬ山本太郎の「トリックにまんまと引っかかっている」(小波氏)という批判である。

山本太郎が云う甲状腺がん1000人(福島県)は、小波氏によれば毎年200人の症例から異常な数字(5年間の累計)ではないという。これは過剰医療か原発被害かという論点で、国会でも取り上げられてきた。読者は知りたがっているに違いない。

「事実の検証もせずに他人に拡散させてしまうというのは、SNSでも常に見られるやっかいな行動」とまでこき下ろされているのだから、反証せずばなるまいと思う。ここで山本太郎の言辞がソースという小波氏の指摘を引用して、本欄の論点を混乱させる意図はない。けれども、これこそ記述には論証が必要という一例である。

そのいっぽうで、田所氏はせっかくみずから引いた引用(論証)について、自分のものではないと強調する。

「まず《田所さんは「左翼」をこう定義するという》と横山さんは勘違いしておられるが、わたしは自分の定義ではなく、一般的な理解に近いものとして「Wikipedia」からその定義を引用していると明示している。左翼の定義はわたしの定義ではない点はまずご確認いただきたい。」

ウィキからの引用であれ何であれ、定義のために引用論証されたのだから何の問題もないし、強いて言えばウィキに書いたのが誰かわからないのでカッコ悪いというほどのものだ(文責のない引用は、学術論文では認められない)。しかしこのような引用で論証することこそ、論文作法の基本なのであると評価しておこう。

◆天皇制を廃絶するロードマップを

田所さんは最後にこう述べておられる。

「『絶望』は横山さんが意味するような『あきらめ』ではない。『絶望』が深ければ深いほど、光明への渇望もまた強くなるのであり、わたしは強くなるのであり、わたしは『なにもかもあきらめようあきらめよう』などと主張しているのではまったくない。逆だ。」かなり観念的で抽象的だが、その意気やよし。

しかし、田所さんが「『皇室の民主化』が横山さんによる『賭け』の持ち札と想像されるが、わたしには見当違いとしか思えない。」というのであれば、具体的に天皇制を廃絶するロードマップを示す必要がある。日本の「左翼」がそれを持っていないことはすでに述べた。

田所さんは前の反批判で「田原総一朗の『対案を示せ』と同じだ」と反論されたが、対案をもとめるのは何も田原さんの専売特許ではない。論争には立論(論理構成)のための道筋、すなわち解決のための論拠をしめす必要があるのだ。田所敏夫さんのさらなる研鑽に期待したい。

[関連記事]
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◎田所敏夫-山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈前編〉
◎田所敏夫-山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈後編〉

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

天皇の存在は、わたしたち日本人にとって「喉に刺さった骨」、あるいはその反証として「ホッとさせられる文化の根源」なのかもしれない。「刺さった骨」というときには、政治権力と結びついた支配の要であり、「文化の根源」と考えた際には、御所や神社仏閣といった歴史的建造物、そこにある皇室御物、および叙位叙勲などの伝統的権威によるものであろう。

日本の近代化にとって、国民統合の思想的な要として作用してきた天皇制イデオロギーは、戦争の根拠となったとして批判される。身分制の差別の根源として、廃止せよという意見も少なくない。

いっぽうで、皇室そのものも変化にさらされてきた。天子(神)から人間へ、皇室離脱の自由をもとめる皇族、制度や慣習にとらわれない自由恋愛の希求、そして政治的な発言。皇室のありようはそのまま、天皇制(政治権力との結びつき)を左右すると同時に、われわれ国民にも議論を求めている。そこで、天皇および天皇制とは何なのか、歴史的な視座からわたしなりに解説してみた。横山茂彦(歴史関連の著書・共著に『闇の後醍醐銭』『日本史の新常識』『天皇125代全史』『世にも奇妙な日本史伝説』など)

狩猟採集社会

◆狩猟から農耕へ

大王(おおきみ=天皇)という存在は、なぜ生まれたのだろうか。はるかなる古代に成立した王権、それは偶然ではないはずだ。

狩猟によって日々の糧を得ていたころ、人類は集団で流浪する弱い存在だった。猛獣から身をまもるために石の武器をつくり、獲物を得るために獣の骨で弓や釣り針をつくっていた。おそらく集団のリーダーは、体力と判断力のある人物だったはずだが、まだ彼は王とは呼ばれていなかった。集団には分業がなく、必死に助けあう絆が唯一のものだった。

やがて気候の温暖化により、食糧である鹿や牛が北に移動した。多くの人々は獲物を追ったが、狩猟のために移動するよりも、定住して食糧を得ようとする集団がいた。かれらは野に実っていた麦を畑で栽培し、貝や木の実を採取して村落をつくった。村の誕生である。

稲作農耕社会

栽培で食糧を得た人々は、安定した生活をいとなめるようになった。まもなく食糧の備蓄ができるようになり、人々のあいだに役割の分担が生まれてくる。農耕経験の豊かな村長(むらおさ)が指示を出し、人々はそれに従う。牛などを家畜として飼う役割、農耕具をつくる役割などの分業がはじまった。狩猟のための武器は、もう必要なくなったのだろうか?

かつて狩猟をするために発揮されていた戦闘力はしかし、封印されることはなかった。肥沃な土地や水の利用をめぐって、村と村の争いが起きてしまったのだ。戦争のはじまりである。小さな村が争いと征服によって大きくなり、村々にまたがる権力は、国という単位になった。その国を統率する者こそ、古代の王である。知力と腕力に秀(ひい)で、すぐれた統率力を兼ねそなえた、彼こそ王と呼ぶにふさわしい。やがて国は相争ううちに平和共存の道をえらぶ。やはり自然の猛威から自分たちを守るためには、争うよりも平和共存が必要だった。そから連合国家が模索される。

◆王と天子はどう違うのか?

ここまでわれわれは、国と王の誕生をみてきた。国は集団をひきいる装置に違いないが、王は国という装置にとって入れ替えが可能なものではないだろうか。そう、力があれば取って代わられるのが、王という存在だったのである。それゆえに騒乱はくり返され、魏志に云う「倭国争乱」が起きたのだ。そこで、一計を案じた倭の諸王たちは、連合国家である邪馬台国に卑弥呼という女王を立てた。その結果、女王をいただく連合国家は軌道に乗った。

しかし、この段階では王権の継承は、まだ血統によるものではなかった。卑弥呼の没後に男性の王を立てたところ、ふたたび倭国は争乱に陥ったのである。倭の諸王たちは台与を女王に立てて、内乱の危機を乗りきった。この台与は卑弥呼の宗女である。

卑弥呼には子はなかったから、台与は一族の娘ということになる。倭国の初めての統一政権である邪馬台国において、血族から王が選ばれたのだ。実力よりも血筋が正統とされるには、天の命令が不可欠である。王権を実力支配する王ではなく、天命によって天下を治める天子の原型が出現したのである。天子と天皇は同義である。

じっさいの皇統は、皇太子制度が始まってからだとされている。つまり帝位の継承者が天皇の嫡子や皇族の中から選ばれることで、王権は不可侵のものとなったのだ。その王権を正統化する神話がつくられ、血統による秩序が顕(あら)われる。こうして天皇は、律令制という法制度の頂点に君臨したのだ。天皇の本質は、血統の唯一性である。それは帝位の争奪を防止する叡智であっただろうか、それとも王権を維持する秘密を発見した誰かが、ひそかに考案したものか――。

とはいえ、頂点に君臨する天皇も批判にさらされる。天子の所業は自然現象によって裁断されるのだ。悪政がつづけば、天変地異によって裁かれた。これを天子相関説という。したがって悪政を行なう天子は退けられ、あるいは政争で弑逆されることもある(第三十二代・崇峻天皇)。

wikipedia「崇峻(すしゅん)天皇」項より

とくに古代においては、皇族が臣下にくだらなかったことから、帝位継承はかならずしも嫡系ではないことが多い。前の天皇から、はるかにかけ離れた血筋が皇統に就く場合、これを王朝交代という。第十代・崇神天皇、第十六代・仁徳天皇、第二十六代・継体天皇において、王朝交代があったとされている。文献のうえで皇太子と確認されているのは、第四十五代・聖武天皇である。厳密な意味での皇統の確立はしたがって、奈良王朝で確立されたといえよう。聖武帝即位は724年のことである。

◆朝廷が衰退しても、なくならなかった理由

平安王朝になると、天皇は摂関政治に翻弄される。娘を入内させた藤原氏が外戚となり、幼い天皇をさしおいて権勢をふるう。これに対して天皇は退位後に院政を布いて対抗するようになるが、ときはすでに武家の世になっていた。栄光の古代王朝はすでにはるか彼方のこと、やがて天皇は経済的にもひっ迫してゆく。

にもかかわらず、天皇の権威は地に堕ちることはなかった。位階と職制、そして氏姓制度において、天皇の権威が必要とされたのだ。たとえば戦国時代には、武将たちの受領名(国司・守護職)の裏付けとして、位階・職が朝廷から下賜された。血筋と身分が重んじられた江戸時代には、ますます位階と職は大名の権威を裏付けるものとなった。そして幕末において、天皇の権威は尊王攘夷思想として爆発的に作用し、その勢いが討幕を果たさせる。爾来、天皇の権威は近代国家の軸心となるのだ。象徴天皇制となったいまも、その権威は叙位叙勲としてわれわれの生活に生きている。権威は必要とする者によって、しかるべく存続するのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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《わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである》

いきなりの引用で恐縮であるが、横山茂彦さんのわたしに対する天皇制観のご意見である。横山さんは「賭けてみたい」と表現されている。わたしの根本的な疑問は、これまで達成された試しもないことに、どう考えても窮屈さを増す言論状況の中で、「なにをどう賭ける」と横山さんが主張なさっているのか。まったく訳が分からない。「賭ける」ときには持ち札なり、持ち手が必要だ。文脈からすると「皇室の民主化」が横山さんによる「賭け」の持ち札と想像されるが、わたしには見当違いとしか思えない。

それから1月27日の横山さん稿は、随分広範囲に議論が展開されている。そのなかではわたしがまったく主張していないことが、あたかも私の主張のように展開されている(一度に多くの論点を詰め込むと議論がわかりにくくなるのではないだろうか)。まず《田所さんは「左翼」をこう定義するという》と横山さんは勘違いしておられるが、わたしは自分の定義ではなく、一般的な理解に近いものとして「Wikipedia」からその定義を引用していると明示している。左翼の定義はわたしの定義ではない点はまずご確認いただきたい。

そのうえで、横山さんの元号への親和感と天皇制についての諸議論に移るのであるが、どうしてわざわざこのような問題で、わたしが取り上げてもいない、議論にまったく関係のないネット上の、どうしようもない書き込みなどを引用なさるのであろうか。

《「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇 日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが》「便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが」ではなく、本通信での議論とまったく無関係な「便所の落書き」(横山さんの表現)を持ち出す必要がどこにあるのだろうか。かとおもえば、急に、《天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう》

と、至極真っ当な指摘が出てくるので、わたしは混乱する(読者も混乱するのではないだろうか)。わたしは天皇制専門の研究者でもないし、限られた命の時間をこれ以上無駄に使おうとは思わない。わたしなりに天皇制や元号については一定の結論が出せている。

《昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた》

総論違います。昭和天皇の戦争責任議論については、このような曖昧な濁しかたでは到底浅すぎる。横山さんは昭和天皇の戦争責任についてはどのようにお考えなのかをまず明確にして頂きたい。わたしは「生きて虜囚の辱めを受けず」と大元帥の立場から下級兵士に強制し、侵略戦争敗戦の挙句、天皇制とみずからの命乞いのために、マッカーサーに泣きついた、極限的に無責任で許されざる人物としか理解できない。横山さんは皇室に親和感を持っていらっしゃるので、それに続く人物の評価が上記のようになるのかもしれないが、極めて重大な事実誤認(あるいは横山さんが事実を御存知ないのかもしれない)がある。

それをここで書きたい。が、書けない。なぜか。いくら「タブーなき」鹿砦社のメディアであっても、「そのこと」を書けば、「そのこと」が事実であっても、鹿砦社業務に支障が出たり、わたし自身の身に危険が及ぶ可能性があるからだ(横山さんのメールアドレスは存じていますので、「そのこと」が「なに」を指すかを私信でお伝えするのはやぶさかではありません)。

そして「左翼は軍備を否定しない」との主張でずいぶんいろいろなことを論じていらっしゃる。違う。左翼であろうが右翼であろうが、日本国憲法を小学生程度の日本語力で読めば日本国は軍備を持てないのだ(一般に左翼が軍備や軍隊を否定しないどころか、革命にはほぼ「実力部隊」が必要であることを知ったうえで申し上げる)。だから財政問題を論じるのであればどうして軍事費(防衛費)削減に言及しないのか、との疑問がわくだけのことだ。蛇足ながら憲法9条をもう一度確認しよう。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。》

天皇制が1条から8条までで規定されている次の9条が、いわずもがな上記の文言だ。横山さんの、
《わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう》

には賛成できない。なぜならば、現状はもっとひどい「違憲状態」であるけれども、横山さん案だって「早期哨戒と地対空ミサイル部隊」を認めている点で「違憲」であるからだ。簡単なことだ。けれども日本人(日本人だけではないかもしれない)は、成文の最高法規があって(小学生程度の読解力があれば理解できる簡易なことばであらわされて)も、平気でそれを無視し、正当化する不思議な思考の持ち主だということである。この点わたしは深く「絶望」し続けているし、横山さんの主張にまたがっかりさせられた。

横山さん。わたしは、なまじ根拠のない「希望」を語るより、事実を見据えてしっかり絶望しているほうが、小なりといえども意見を発する者の態度として真摯であると考える。しかし「絶望」は横山さんが意味するような「あきらめ」ではない。「絶望」が深ければ深いほど、光明への渇望もまた強くなるのであり、わたしは「なにもかもあきらめよう」などと主張しているのではまったくない。逆だ。

だから「左翼は軍備を否定しない」の論旨はわたしにたいするものであるとしたら、ひどく筋違いである。わたしはいま、この国の法的規定を前提に議論しているが、わたしの考えと法体系はかすりもしないほど相いれない。いずれにしても論点を絞りましょう。

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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きょうは『建国記念日』だ。どうしてこの日が『建国』の記念日なのだろうか。本原稿がこの日に(予定したわけではないが)掲載されることを契機に、その理由をお調べいただくと(御存知の読者が多数であろうと拝察するが)、以下の文章をおわかりいただく一助になるかもしれない。

本通信で横山茂彦さんから数度にわたりご教示を頂いている。勉強すべき点と、なかなか理解ができない点、あるいは明らかにわたしと意見が違うであろうと思われる点などが混在しているので、いま一度わたしの考えを整理して生産的(?)な議論となるように、方向が誤っているのであれば修正を試みたい。

まず横山さんは、わたしが「議論を逸らしている」と指摘されている(1月27日付け横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える)。議論を逸らすつもりは毛頭ないので、わたしの思考が浅いか文章表現力が不充分である可能性もあるが、再度この箇所を確認する。横山さんは、

《わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる》

と指摘されている。そうだろうか。わたしは自分の見解を明らかにする前段の説明として、横山さんが安倍晋三の演説力を例示なさったので、それには同意できなかったから、小泉純一郎と橋下徹を挙げたまでで、これが主張の中心部分ではない。横山さんは、

《なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない》

と評されている。わたしが指摘したのは「演説力」の持ち主として橋下を挙げたまでで、政権を取る人物かどうか(そうでないことを願うが)はまったく念頭になかった(横山さんも「政権を取る人物か否か」ではなく「政治」を論じておられたと思うので、わたしに対する「的外れ」の指摘が、しっくり理解できない)。余計なことかもしれないが、橋下は「政治家引退」を表明しながらいまだに明らかな影響力を持ち、とくに大阪(大阪だけではなく関西といってもいいかもしれない)においては、いったん否決された「都構想」の住民投票が再び行われること、そして前回は反対に回った公明党も実質大阪維新に乗り換えたことは、横山さんも御存知だろう(ちなみに大阪市議会・府議会の「維新」、「自民」、「公明」三党の議席占有率が9割を超える事態である)。

さて、議論の中心となっている山本太郎評についての部分である。横山さんは、

《「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ》

と解釈なさる。意味は理解できる。しかし表現のありようは文字で現わされるものばかりではない。山本太郎はもう「普通の政治家」ではないとわたしは感じる。「それなら俺に権力をくれよ!」と怒鳴っている姿は、「意味」としては「政権を任せてほしい」と解釈可能でもあるが、映像を見る限り、その怒気と発語するタイミングなどは、かつての彼を知る身からすると、随分と違和感を感じざるを得ない。これはわたしの率直な「感想」だ。あの変容ぶりに「政治の本質はゲバルト」であるにせよ、薄気味悪い危険性を感じる。

それから横山さんが主張された「政治は独裁である」とのテーゼに反論しない、というわたしの意見は、「プロレタリア独裁や現実の政治で『独裁』が歴史的にも行われた」ことを了解するが、それをもって「民主主義」を掲げる今日の日本で堂々たる「独裁」は具合が悪くはないか、という疑問である。実態は既に「独裁」だ。自公政権などといっても、野党に明確な反対勢力もなく、小選挙区制度を続けている以上、この国の政治風土上「独裁」は既成化しているし、この先も続くだろう。選考制度の変更なしに「独裁」から抜け出す道はないだろうし、わたしは「独裁」をまったく好感しない。

そして、わたしが山本太郎は「左翼ではない」と主張したことに、横山さんは違和感をお感じのようである。わたしは、中核派まで選挙運動に参加させ「脱被ばく」を掲げて当選した山本太郎氏の当初の主張を「左翼」(日共に象徴的な「旧」左翼か新左翼かは別にして)あるいは「左派」であろうと考えていた。その後彼の主張は徐々に変化するのである。変化するのは仕方ない。

しかし変化したのであれば、過去の主張のどこがどう間違っていたのかくらいは、平易な言葉で話す山本太郎氏であれば、わかりやすく解説してくれよ(「総括」という言葉はあえてつかわない)と思う。なぜならば、わたしは、山本太郎氏が公約に掲げた「脱被ばく」はいまでも喫緊の課題であると考えるし、それを後退させる理由がまったく見当たらないからだ。

少しわき道にそれる。自覚してわき道にそれる。山本太郎氏に限らず、わたしたちにとって、議論や討論するうえで(つまり「政治」の場において)、もっとも優先順位を高くおかれるべきテーマは、どのような課題であろうか。わたしは「命にかかわる問題」だと認識する。原発4機爆発という人類史上初の事故(事件)は、政府ですらが「首都圏から3000万人の避難を迫られる可能性」を試算していた。その危険性は横山さんも、かねてより御存知の通りである。地震の活動期に入ったこの島国において、原発停止(廃止)は、理性的に考えれば、あらゆる政治課題に優先するとわたしは感じる。もちろん、消費税廃止にも、奨学金支払い免除も悪い政策ではないが、それらはすべて「この国が存続する」ことを前提にした議論ではないのか。

繰り返すが、考えが変わったのならばそれでよい。山本太郎氏は「わたしは昔のわたしではありません」とひとこと宣言すべきではないか。彼は当選直後の記者会見で述べている。

「裏切るなんてあり得ないですよ。この人たち(選挙事務所に詰めかけたボランティア)に殺されますよ」

少なくとも人柄ではなく「政策」に賛同したひとびとに「変わったのであれば、変わった」と説明する必要があることを彼は知っていたのだ。その程度の要求でも不当だろうか。

さて、元号や天皇制についてである。横山さんとわたしは「感覚」がまったく違うようだ。横山さんは、
《元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる》そうだ。

わたしは感覚的には一部理解できなくもないが、元号と天皇制の近代史で果たした意味を知れば知るほどに、嫌悪の念が増すばかりだ。幼少の頃、あるいは、ろくに世の中の成り立ちを知らない頃には、わたしも平気で元号を使っていた。それは「無知」であったからだ。わたしは元号に対して、少なくとも横山さんのように寛容にはなれない。次の横山さんの問いかけに、正直言えば「大丈夫ですか」と言いたいぐらいにびっくりもしている。

《個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい》

いちいち学者や研究者著作からの引用を持ち出さなくとも、元号が天皇制と直結していることに争いはないだろう。わたし個人の思いではなく、客観的事実として「元号は天皇制と結びついている」。これは間違いなのだろうか? 天皇制について横山さんは、

《むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)》

と仰天するような評価を披歴なさっている。仰天するといのは、横山さんが『情況』という雑誌の編集長だからだ。個人の意見としてそのように考える人がいるであろうことは知っているが、『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない。天皇制のどこに「国民的親和性」があると横山さんは主張なさるのであろうか。「汎アジア主義」とはアジアへの侵略以外にどう理解すればよいのでしょうか?「ゲルニカ事件」や「日の丸君が代処分」事件などを引き合いに出すまでもなく!…いや、もうやめたほうがいいのかもしれない。

わたしは頭が悪いので、迂遠な表現が使えない。横山さんの主張を全力で理解しようと努力したが、やはり完全に無理だ。出来うることであれば安易な言葉でわかりやすく、ご教示いただければ幸甚である。今回の問いは1つにする。

「元号と天皇制は結び付いていませんか?」

(後編へつづく)

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◎横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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