前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。
72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。
71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)
三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。
『われわれの革命』表紙
そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。
以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。
前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。
9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。
6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。
71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)
「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。
沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。
さて、学費闘争に話を戻しましょう。──
11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。
「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)
「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)
ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。
一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。
当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。
そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。
正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。
まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。
「賽は投げられた!」── もう後には引けません。
毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。
入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。
2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)
2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕
さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。
2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘
2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘
1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。
120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。
連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。
「被告団通信(準)」
裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。
起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。
明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。
ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文
M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。
有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。
実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。
被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。
ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。
(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)
松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』