明治元年(1968)10月12日に即位したとき、天皇は14歳であった。孝明天皇の第二皇子、母親は権大納言中山忠能の娘中山慶子とされている。中山慶子は典侍(ないしのすけ=側室)であるから、女御(正室)の九条夙子(英照皇太后)を実母と公称した。

女児のごとき祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王から、後年の男性的な明治天皇となった落差。この落差ゆえに「明治天皇はすり替えられた?」(前回掲載記事)とする説が生まれたのである。それほど落差が感じられるのを、ゆえなしとはしない明治天皇の「雄々しさ」とは、どのようなものなのだろうか。

 

明治天皇

◆調停機関から大元帥へ

20歳になった天皇の事績はすぐれて明快である。

征韓論をめぐって起きた明治6年政変では、勅旨を発して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ、政権内部の対立を調停している。

同時期に全国で起きた自由民権運動に対しては、漸次立憲政体樹立の詔を出してこれを慰撫。これらの背景に三条実美、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允ら政権主流派の動きがあったのは明白だが、政権調停機関としての役割をそこに見出すことができる。

明治15年には軍人勅諭を発し、大元帥としての性格を明確にしていく。さらに明治22年2月11日、大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇大権を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった。

翌明治23年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を明記する。殖産興業・富国強兵政策の先頭に立つ、近代天皇の姿を明確にしたのである。

そして、いよいよ明治27年(1894)、日本は大元帥のもと日清戦争に踏み切る。このとき天皇は大本営において、直接戦争指導に当たっている。

明治37年(1904)の日露戦争も同様に、大本営にあって戦争を指揮している。

日露戦争後は韓国併合と満州経営をすすめ、日本を植民地支配する帝国主義に押し上げた。ぎゃくにいえば、侵略と併呑、寄生性と腐朽化への道(レーニン)である。これらの「偉業」をもって、天皇は後年「明治大帝」「明治聖帝」と呼ばれる。

だが、その覇業は古代いらいの帝としての皇統継承事業、すなわち子づくりにおいても発揮された。いや、近代天皇制を古代的な親政において実現する志向は、子づくりや華族の縁戚化、そしてのちには皇族の拡大という宮中第一政策において実行されてゆくのだ。

 

一条美子

◆片っ端から女官に手をつける

とにかく、女には手が早かった。皇后は一条美子という、のちに昭憲皇太后と称せられる女性だが、この人との子はなかった。

以下、側室となった女性たちである。

葉室光子は19歳のときに宮中に入り、翌年には天皇の第一子を出産するも死産。光子も産後に亡くなった。

橋本夏子も17歳のときに女子を身ごもったが死産、自身も産後の経過不良のため死去。

千種任子も二人の女子をもうけるが、夭折する。

のちに大正天皇を生む柳原愛子も二人の男子と一人の女子を幼くして失っている。こうなると、側室とその子供たちの地獄というべきか。

じつはこの事態には、日本社会を覆った感染症の影響があったと考えられる。天然痘とコレラである。

孝明天皇は1866年12月11日に発熱し、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、親王(明治天皇)に完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこしたという。

 

柳原愛子

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」(中山忠能日記)という最期であった。いったん快方に向かい、そこから再度悪化したことで、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介しているのだ。

これが前回紹介した毒殺説であるが、ともあれ天然痘による疱瘡が確認できることから、これ以降も種痘を受けなかった幼子、女官たちが相次いで感染し、命を落としたことは容易に想像される。

多産だったのは、園祥子という女官である。彼女はわずか13歳で女官となっている。明治18年、19歳の時に初産に失敗(女子死亡)し、翌年も女子を失っているが、21歳の時に天皇の11子を生むと、6人の子をつくり(うち2名死亡)、合計8人もの皇子を身ごもったことになる。

明治天皇最後の女は、小倉文子(伯爵家)という女性だったが、子をなさなかったことから公式の記録には残っていない。

けっきょく、明治天皇は5の皇子と10人の皇女をなしたのである(成人したのは5人、男子は大正天皇のみ)。慧眼なる読者諸賢は、男子5人、女子10人という比率の中に、近代天皇家における男子出生率の低さを読み取るであろう。しかし大正天皇には4人の皇子はあっても、女子はいなかった。昭和天皇においては、男子2人、女子5人である。平成天皇は男子2名、女子1名、令和天皇は女子1人である。

もっとも、伊藤博文や松方正義など、明治の元勲とよばれる人たちの女好きは有名で、明治天皇がとりたてて女癖が悪かったというものでもない。

◆60歳の若さで崩御

当時はじゅうぶんに生きた年齢だったのかもしれないが、享年60であった。

晩年は歩行も困難なほど体調を崩し、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いていたという。じっさいに糖尿病だったようだ。枢密院の会議中に、寝てしまうことも多かったという。

写真撮影を極度に嫌ったので肖像画でしか往時を偲べないが、べつに西洋文明を否定したり「写真は魂を抜き取る」などの明治人に特有の迷信ではない。食事は西欧風の肉食や牛乳を奨励し、明治6年にはみずから断髪して、国民に西欧風の生活習慣を率先垂範している。

天皇は酒をたしなみ、乗馬や和歌、刀剣蒐集、レコード鑑賞を好んだという。それにしても、60歳は若すぎる。相当なストレスに見舞われる日々があったのだろう。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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この表題はまことに荒唐無稽ながらも、明治政府の歴史観を左右する幕末ミステリーである。もしもそれが史実ならば、驚愕するような事実よりもさきに、われわれは明治維新という「革命」の内実を知ることになる。その内実が謀略であると。そして、南朝史観とよばれる維新政府の歴史観に、こんどは生々しく触れることになる。

仮説はこうである。幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたというのだ。その名は長州田布施出身の大室寅之祐、長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという。

最初にこの説をとなえたのは、鹿島昇(弁護士・歴史研究家)だった。その云うところをトレースしてみよう。

南朝・後醍醐天皇の皇統は、後村上天皇──長慶天皇──後亀山天皇の正系のほかに、尊良親王(東山天皇)から正良親王(松良天皇)にいたる傍系がある。正良親王の皇子のひとり、光良(みつなが)親王が南朝崩壊後に長州の麻郷に落ちのびたのが、大室天皇家であるという。室町時代の長州は守護大名の大内氏が支配するところで、南朝勢力が西日本に落ちのびるのは、懐良親王が九州を拠点とした例から考えて不思議ではない。

わたしは薩長両藩の主家が関ヶ原で没落した島津と毛利であり、明治維新は一面において268年の歳月をへて徳川打倒に燃える両家の意趣がえしであると考える。長州藩において、大室天皇家はその切り札だったのだろうか。

鹿島昇(弁護士・歴史研究家)によれば、幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたという。それが長州田布施出身の大室寅之祐(写真左)。長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという

◆将軍家茂・孝明天皇暗殺

鹿島昇は幕末の政治情勢から、暗殺者たちの動機を精緻に解読する。将軍徳川家茂と孝明天皇の死(1866年)がそのキーワードである。すなわち、皇女和宮の降嫁によって従兄弟となったふたりは、公武合体の体現者であった。ふたりは長州征伐の実行者であり、天皇のもとに徳川家を中心にした連合政権を構想していた。

この政権構想はしかし、尊皇攘夷と倒幕をねらう薩長連合にとって容れられるものではなかった。とくに京都から排除され、その勅命によって征討までされた長州藩にとって、ふたりは目の上のたんこぶだったのである。

たとえば「(和宮降嫁によって)尊攘派は肝心の天皇を幕府に奪われてしまった。すなわち、幕府が『玉をとった』のである」「薩長密約の際に家茂と孝明天皇の暗殺はすでに謀議されており、これに公武合体派から尊攘派に鞍替えした岩倉具視が荷担したのであろう」と、鹿島昇は解読する(「明治天皇は二人いた!!」『天皇の伝説』メディアワークス)。

それもまったくの推論というわけでもない。鹿島が謀殺の論拠とするのは、作家の山岡荘八が独自にしらべた事実である。すなわち、宮中からさし回された正体不明の医師が、風邪で伏せっていた徳川家茂に薬を処方したところ、それから三、四日目に亡くなったとする。

「将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引きとった」(山岡荘八「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和43年11月号)というのだ。蜷川という御小姓頭は蜷川京都府知事の祖父にあたり、おそらく将軍家茂の死にぎわは事実なのであろう。
孝明天皇の最期もまた、謀殺めいたシーンに彩られている。

明治天皇の外祖父(生母の父親)中山忠能の『中山忠能日記』によると、やはり天皇は天然痘の潜伏期で、12月11日には「不眠・発熱・食欲不振・ウワ言の病状を経て」「十六日朝には顔に吹き出物が出始めた。だが、十七日から便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医も『まづ順当』と診断している」

快方に向かったというのだ。

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」という最期であったという。

当時、宮中においても毒殺説が飛びかい、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介している。

これを裏づける説をとなえたのは、瀧川政次郎である。中国人医師の菅修次郎が夜半に呼び出され、目かくしをしたまま連れて行かれたという。そこで診療させられたのは、わき腹を刺された、ひん死の人物だった。じつは菅医師が連れて行かれたのは御所ではなく、堀河紀子(孝明天皇の愛妾)の広大な屋敷だったというものだ(「皇室の悲劇」)。

中山忠能が日記に書いた「御九穴より御脱血」というのは、刺し傷だったのだろうか。

この説を、作家の南条範夫は「孝明天皇暗殺の傍証」『人物往来』昭和33年7月号)において、母方の祖父・土肥一十郎の日記を読んだ記憶として書いている。

「白羽二重の寝衣や敷布団はもちろんのこと、半ばはねのけられ掛布団に至る迄、赤黒い血汐にべっとりと染まっている人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下しようもない程甚だしい出血に衰弱し切って、ただ最期の呻きを力弱くつづけているに過ぎない」

何ともなまなましい、暗殺現場に立ちあったかのような描写であることか。こうして、尊皇攘夷派・倒幕派にとって邪魔な存在だった将軍と天皇が暗殺されたのだ。その暗殺者たちは、みずからの政権を盤石なものにするために、つぎなる暗殺に手を染める。16歳の陸仁親王(明治天皇)暗殺である。

◆なぜ吉野朝時代なのか

陸仁親王(明治大帝)暗殺について、孝明天皇暗殺ほどの生々しい証言や伝聞があるわけではない。鹿島昇が「証言」と称するものは、ことごとく伝聞であり、亡くなられた人々が反論できない、したがって根拠のわからない「証言」なのである。誰がいつどこで、どうすり替えたのか、詳細がよくわからない。

いわく、昭和4年に三浦天皇(三浦芳堅=南朝傍系)が、元宮内大臣・田中光顕に獄秘伝の『三浦皇統系譜』を持参したとき、田中は「じつは明治天皇は孝明天皇の息子ではない」「明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の息子満良親王の御子孫」だと証言したという。

いわく、元宮中顧問官で学習院院長も務めた山口鋭之助が、大正9年に「明治天皇は北朝の孝明天皇の子ではない。山口県で生まれて維新のときに京都御所に入った」と言ったという。

いわく、岸信介元総理は元中政連幹事長だった鎌田正見に、いまの天皇家は明治天皇のときに新しくなった、と語ったという。

いわく、陸仁親王と明治天皇が別人であることは、鹿島昇自身が清華家の当主である廣橋興光から聞いたことがあるという。

いわく、中川宮(前出の東武皇帝・日光宮能久親王の兄)の孫娘である梨本宮家の李方子も、明治天皇は南朝の人だと証言したという。

いわく、鹿島昇の旧友・松重光雄は、中学生のときに担任の萩出身の教師から、明治天皇はすり替えられたと教えられたという。

ほかにも証言らしいものはあるが、もうここまでにしよう。鹿島昇の脳裡に根を張った推測・推論なのだ。もの言わぬ死者の証言よりも、われわれには問題にしなければならないことがある。なにゆえ明治政府が北朝の天皇をいただきながら、「吉野朝時代」などという歴史観で南朝を正統としたのか、である。そこにこそ、明治天皇がすり替えられたかどうかの「真相」が浮かび上がるはずだ。

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三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。

当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。

そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。

三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。

◆三島の円照寺取材

『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。

円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。

円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。

後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。

その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。

作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。

そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。

ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。

そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。

「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。

三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。

◆『豊饒の海』謎の結末の解釈

従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。

しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。

作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。

道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。

どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。

『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。

推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。

『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。

門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。

市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。

どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。

※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。

※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html

「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/

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正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

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鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

明治元年(1868年)のニューヨークタイムスは「北部日本が新しい帝を選んだので、現在の日本には二人の帝がいる」(10月18日)と報じている。根拠のない報道ではない。この「北部日本」とは言うまでもなく、徳川家主戦派を中心とする奥羽列藩同盟である。

1月の徳川慶喜追討令によって、賊軍とされた徳川家が帝としたのは東武皇帝、すなわち日光輪王寺能久親王(日光宮)だった。天下にふたりの天皇が並び立ったのである。国を二分する勢力が両帝をいただくのは、南北朝時代いらいのことである。

この日光宮能久親王は、伏見宮家の邦家親王の第九子である。日光宮とは、家康存命時の幕府黎明期に、後水尾天皇の第三子・守澄法親王が輪王寺の門跡となっていらい、東叡山寛永寺に従待してきた宮家である。徳川家が朝敵にされた場合のことを考えて、家康は皇室の血脈を確保していたのだ、徳川家の行く末をみすえた家康の深謀遠慮が、かたちの上では実ったことになる。もとは天海大僧正の献策であったという。

当初、日光宮能久親王の役割は、寛永寺に謹慎中の徳川慶喜を助命することだった。3月に官軍が駐屯する駿府におもむいて、東征大総督の有栖川熾仁親王・西郷隆盛らと面談したが、慶喜の助命こそ容れられたが、東征の中止は拒否されている。京都にいき参内する希望も拒否された。

もともと、薩長には徳川家を赦免する気などなかった。孝明天皇が徳川中心の攘夷を構想し、越前の山内容堂が道すじをつくった公議政体(天皇を元首に、徳川家を首班とする連合政権)も、薩長の徳川打倒の念願のまえには形をなさなかった。すでに王政復古のクーデター(小御所会議)が決行され、16歳の天皇や公卿の意志とは無関係に、徳川討伐は進行していたのである。

東北方面ではさしあたり、京都所司代を藩主松平容保が務めていた会津藩、および江戸警護役を務めた庄内藩の処分が問題となった。新撰組(会津藩管理下)および新徴組(庄内藩)の京都・江戸市中での乱暴が問題とされたのだ。そして当然のことながら、東北におけるこの問題の政治調停(仙台藩の斡旋)は不調に終わる。薩長軍には最初から和平の発想はなかったのだ。

たとえば長州の奇兵隊出身の参謀・世良修蔵(もとは周防島の農民)などは、仙台藩主伊達慶邦を罵倒して会津攻めを強要し、そこに交渉の余地はなかった。これを奥羽諸藩の藩士たちは「官軍とは名ばかりで、草賊の酋長である」と評したという。その後、東北諸藩は敵であるという密書が見つかったことから、世良は仙台藩士に斬殺されている。それというのも、わが国に共通語のなかった当時のことである。長州人と東北人の交渉ごとでは、ほとんど会話にならなかったのではないかと推察される。

いずれにしても薩長の会津征伐は既定方針であり、調停に行き詰まった奥羽各藩は4月にいたって建白書と盟約書を起草し、5月には31藩からなる奥羽越列藩同盟が成立した。東北地方がまるっと、新政府に叛旗をひるがえしたのである。追い詰められた鼠が、猫に牙を剥いたのである。

そのころ日光宮能久親王は江戸にあって、薩長軍と彰義隊(幕府残党)の上野戦争をまぢかに観戦していた。合戦は十時間ほどで彰義隊の敗北となり、いよいよ寛永寺の黒門が破られる。薩長軍が乱入するその寸前に、日光宮は浅草にのがれていた。その後、幕府軍艦の長鯨丸で仙台にいたり、「御所」のある白石城に入った。
仙台藩士の佐藤信(赤痢菌発見者・志賀潔の実父)が記録した「戊辰紀事」には「錦旗を青天に飄し、仇討ちし恥辱をそそぎすみやかに仏敵、朝敵を退治したいと思う」との、日光宮の書き置きが記されている。

◆なぜ天皇ではなく、皇帝だったのか

日光宮が皇帝として即位したのは、この年の6月15日である。家康の思惑どおり、徳川家を護る帝となったのである。

「東武皇帝閣僚名簿」には「東武皇帝諱睦運(むつとき)」とある。即位とともに、元号は「慶応四年(明治元年)」から「大政元年」に改元された。これらの史実は「蜂須賀家史料」「旧仙台藩士資料」「菊池容斎史料」などに明らかで、法制史家の瀧川政二郎(法博)が最初に発表したものである(昭和25年「日本歴史解禁」)。

日光宮東武皇帝は7月に入ると、「世情静謐天下泰平」の祈祷をおこない、仙台城で令旨を発する。

「賊は久しく兇悪を懐き残暴をほしいままにしている。大義を明らかにして、これを遠近の各方面に説いて回り、あらゆる力を尽くし、速やかに兇逆の主魁を滅ぼし、それをもって上は幼主の憂悩を解放し、下は百姓の塗炭を救うべきである」などと。

しかるに令旨には「幼主」とあり、奥羽越公議府が「日光宮は今上の叔父である」と海外諸国への令旨で公言したとおり、正統の帝を名乗ってはいない。皇帝として皇位を主張するならば、京都の帝(明治天皇)は廃帝とするべきではなかったか。

奥羽越列藩同盟が瓦解への道をあゆむのは、この不徹底によるものだった。令旨が発せられた7月には、はやくも秋田藩が同盟から脱落した。もともと秋田藩は関ヶ原の合戦において、上杉氏に内応していた疑いから、茨城の地から移封された佐竹氏である。薩長両藩とおなじく、徳川打倒の念願がその底流にあった。

秋田藩兵が仙台勢を襲撃した翌日には、弘前藩が同盟から離脱した。8月に入ると、仙台藩の内部も「抗戦派」と「降伏派」に分裂し、九月にはあっけなく降伏した。徹底抗戦した会津若松城も九月には落城。月末までには、優勢だった庄内藩も降伏した。

北白川宮能久親王

さて、東武皇帝はどうなったか。彼は京都伏見宮邸に謹慎させられていた。翌々年、罪をゆるされてドイツに留学。帰朝ののちは、亡き弟が継いでいた北白川宮を相続し、北白川宮能久親王として新政府に迎えられた。宮様将軍である。明治28年には台湾におもむき、台湾征討近衛師団を指揮したが、マラリアを罹患して薨去、享年48であった。贈陸軍大将。

それにしても、いったんは皇帝を名乗り令旨を発した者に、何とも寛大な処置である。同時代の世界では、67年にメキシコ皇帝マキシミリアン一世が、軍の反乱で銃殺されている。68年にはスペイン女王イザベル二世が、やはり軍部の反乱でフランスに亡命。レオポルト・ホーフェンツォレルコのスペイン王位継承をめぐり、プロイセンとナポレオン三世が対立し、70年に普仏戦争に発展している。ために、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)はプロイセン軍の捕虜になっている。

ヨーロッパ・ハプスブルク家の王権支配をめぐって、あるいはパリコミューンのプロレタリア革命の胎動によって、かの地は激動期を迎えていたのだ。アメリカもまた、血で血を洗う南北戦争のさなかだった。

ところが、日本では旧政権たる徳川慶喜は殺されなかったし、徳川家にくみした東武皇帝も朝廷に迎え入れられたのだ。なんと穏和的で、親和性のある政治風土であろうか。ただし、下々の者たちが悲惨な末期をあゆんだのは史実である。明治維新が「血の革命」であるのは、まごうことなき事実だ。

ところで、孝明天皇に暗殺説があるように、幕末のわが朝の政局も穏やかならぬシーンをくぐっている。明治天皇が殺されたという説があるのをご存知だろうか。歴史マニアでも一笑に付せないのが、この暗殺説の厄介なところだ。

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

119代光格(こうかく)天皇は、近代の天皇権力を強く主張した天皇である。30年以上も在位し、退位後の院政をふくめると、幕末近くまで50年以上も権力を握っていた人物である。博学にして多才。朝儀再興にも尽くし、その事蹟は特筆にあたいする。

光格(こうかく)天皇

なかでも有名なのは、寛政の改革期に松平定信と争った尊号一件と呼ばれる事件であろう。自分の父親(閑院宮典仁親王)に太上天皇号の称号を贈位しようとしたところ、松平定信がそれに猛反対して争った事件である。父親の典仁親王が摂関家よりも位階において劣るため、天皇は群議をひらき参議以上40名のうち35名の賛意をえて、太上天皇号の贈位を強行した。皇位を経験しない皇族への贈位に、先例がないわけではなかった。

ところが、老中松平定信はこれを拒否した。議奏の中山愛親、武家伝奏の正親町公明を処分し、勤皇派の浪人を捕縛する事態に発展した。この事件の裏には、十一代将軍徳川家斉が実父・一橋治済に大御所号を与えようとしていた事情があり、治済と対立関係にある定信は贈位を拒否するしかなかったのだ。そして勤皇派の台頭を背景にした公武の対立が、徐々に煮詰まりつつあった。

光格天皇の行動の基底には、彼が傍系であったことが考えられる。閑院宮家からいきなり天皇家を継ぐことになった光格天皇は、血統としては傍系であって、後桃園天皇の養子になることで即位している。天皇としての立場も当初は微妙な位置にあり、そのことから自己のアイデンティティを持つために、天皇の権威を強く意識したのではないかと考えられる。

孝明(こうめい)天皇

◆孝明天皇と幕末の激流

その子・仁孝天皇もたいへんな勉強家で、朝儀の再興につとめ、漢風謚号の復活や学習所の設立を実現する。この学問所(のちに京都学習院)には、気鋭の尊皇攘夷派が集うことになる。そして仁孝天皇の崩御後、幕末のいっぽうの大立役者、孝明(こうめい)天皇の即位へといたる。

学究肌の祖父・光格天皇、実父・仁孝天皇にたいして、孝明帝は政治的かつ意志的な天皇であった。一貫して強行な攘夷論をとなえ、しかしその政治方針は佐幕・公武合体派だった。幕末動乱における孝明天皇の役割り、決定的なシーンをふり帰ってみよう。

ペリー来航に先立つ弘化3年(1846年)、孝明天皇は父帝崩御をうけて16歳で即位した。この年、アメリカの東インド艦隊司令官・ビッドルが来航したほか、フランス・オランダ・デンマークの船舶があいついで来航し、通商をもとめてきた。

16歳の孝明帝は幕府にたいして、対外情勢の報告と海防の強化をうながしている。まさに少壮気鋭の君子である。朝廷内部に口出しをする幕府に反発していた、歴代の天皇とはおよそ次元がちがう。国のすすむべき指針を、みずから口にしたのである。

いよいよペリー艦隊が来航すると、天皇はさらなる海防強化を幕府にもとめ、参勤交代の費用を国防費にあてるよう提案している。そして幕府がむすんだ日米和親条約には「開港は皇室の汚辱である」と、断固反対の意志をあらわす。老中堀田正睦の調印許諾の勅許を、天皇は断乎として拒否したのである。

けっきょく、幕府は大老井伊直弼が勅許を得ないまま欧米各国と通商条約をむすび、ここに日本は開国する。その一報をうけた孝明天皇は激昂した。もはや今の幕閣は頼りにならない。尊皇攘夷派の重鎮である水戸斉昭に、幕政改革の詔書を下賜するのだった(戊午の密勅)。ここにいたって、幕府と朝廷の外交方針をめぐる対立は極限にいたる。それは当然ながら、すさまじい反動をもたらした。

すなわち、幕藩体制が崩壊させかねない朝廷のうごきに激怒した井伊直弼による安政の大獄、尊皇攘夷派にたいする熾烈な弾圧がおこなわれたのである。そして日本は、局地的ながら、流血の内乱に陥った。

桜田門外の変によって井伊直弼が殺害されると、京都市中は尊皇攘夷派の活動が活発になり、それを弾圧する寺田屋事件(薩摩藩による粛清)。8月18日の政変による、長州派公卿の追放(七卿の都落ち)。さらには禁門の変において、長州勢を一掃する事態となる。尊皇攘夷をとなえる長州を、攘夷をねがう朝廷が排除するというアンビバレンツな事態は、ひとえに幕府との関係をめぐる落差である。そこに孝明天皇の悲劇があった。この「落差」については、くわしく後述する。

天皇は公武合体を促進するために、妹宮の和子内親王を14代将軍家茂に嫁さしめようとした。有栖川熾仁親王と婚約中であった和宮がこれを拒否すると、生まれたばかりの寿万宮をかわりに降嫁させるなどと、妹を相手にほとんど脅迫である。和宮の降嫁が実現しなければ自分は譲位する、和宮も尼寺に入れるなどと、無茶なことを言いつのっての縁組強行だった(「公武合体の悲劇」参照)。

しかしながら、幕府とともに攘夷を決行するという天皇の政治指針は、開国・倒幕の情勢に押しつぶされていく。諸外国の艦隊が大坂湾にすがたを見せると、さすがに通商条約の勅許を出さざるをえなかった。慶応2年には薩長同盟が成立し、世論は「開国」「倒幕」へと傾いていくのである。

孝明天皇と薩長の「落差」を解説しておこう。近代的な改革・開明性を評価される明治維新は、じつは毛利藩(長州)と島津藩(薩州)による徳川家打倒の私闘でもあった。関ヶ原の合戦いらい、徳川家の幕藩体制のまえに雌伏すること268年。倒幕は薩長両藩の長年の念願であり、ゆるがせにできない既定方針だったのだ。

天皇は形勢逆転をはかって、一橋慶喜(水戸出身)を将軍に擁立するが、その直後に天然痘に罹患した。いったん快方に向かうものの、激しい下痢と嘔吐にみまわれてしまう。記録には「御九穴より御脱血」とある。この突然の死には暗殺説があり、長州藩士たちによるものとも、岩倉具視らの差し金によるものともいわれる。いずれも明確な証拠があるわけではないが、傍証および証言はすくなくないので後述する。

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◆博識の女帝

江戸期のもうひとりの女帝は、後桜町(ごさくらまち)天皇である。彼女の即位は、幕府と朝廷の対立ではなく、公家社会の大きな変化によるものだった。

後桜町(ごさくらまち)天皇

江戸期の朝廷の課題は、朝儀(皇室行事)の復活という、貴族社会の伝統文化を取りもどすことにあった。明正天皇の異母弟で俊英の後光明帝が最初に手をつけ、幕府も徐々に予算を付けるようになっていた。名君のほまれが高い八代将軍徳川吉宗による享保の改革は、奢侈をいましめる反面、朝廷に対しては理解があり、この時期には朝儀の復興も行われている。

こうして朝儀というかたちは整いつつあったものの、その担い手である摂関家は衰亡の危機にあった。摂関家では若年の当主ばかりとなり、朝儀の運営も満足にできない状況に陥っていたのだ。これに対して政務に関与できない位階の低い、若い公家のあいだで不満が高まりつつあった。

徳大寺家の家臣で、山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、その急先鋒となった。竹内は大義名分の立場から、桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ、久我敏通、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸、今出川公言、中院通雅、西洞院時名らに神書や儒書を講じるようになっていく。幕府の介入と摂関家による朝廷支配に憤慨していた若手の公家たちは、桃園天皇にも竹内式部の学説を進講させることに成功した。宝暦6年(1756年)のことである。 やがて、竹内の講義をうけた若手公家の中に、雄藩の勤皇有志を糾合して、徳川家から将軍職を取り上げる計画を広言する者まで現れるにいたる。

これに対して、摂関家がうごいた。幕府との関係悪化を憂慮する関白一条道香は、近衛内前、鷹司輔平、九条尚実とはかって、天皇近習7名(徳大寺、正親町三条、烏丸、坊城、中院、西洞院、高野)の追放を断行したのである。ついで一条道香は、武芸を稽古したことを理由に、竹内式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。竹内式部は京都所司代の詮議を受け、宝暦9年(1759年)に重追放に処せられた。

この事件で幼いころからの側近を失った桃園天皇は、一条道香ら摂関家の振舞いに反発を抱き、にわかに天皇と摂関家の対立が激化する。すでに幕末の反幕勤皇派と旧守派公卿との対立が、ここに胚胎していたといえよう。

宮中が混乱するうちに、桃園天皇は22歳の若さで急逝した。皇子の英仁親王はまだ五歳である。代わりに桜町天皇の娘・智子が後桜町天皇として即位した。新しい女帝は22歳、宝暦12年(1762年)のことである。
 
8年後の明和7年(1770年)、13歳になった英仁親王が後桃園天皇として即位する。31歳で上皇となった後桜町は、新天皇のことをとても心配していたようだ。後桃園の即位直後に、前関白近衛内前に、「をろかなる われをたすけの まつりごと なをもかはらず たのむとをしれ」という和歌を書き送っている。翌年の歌会始めでは、「民やすき この日の本の 国のかぜ なをたゞしかれ 御代のはつ春」と詠んでいる。女帝の日記には、幼い皇太子に教え、詩歌を添削する記録がのこされている。

かように後桜町天皇は、古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。筆にもすぐれ、宸記、宸翰、和歌御詠草など、美麗な遺墨が伝世している。彼女は『禁中年中の事』という著作を残し、和歌の他にも漢学を好み、譲位後には院伺候衆であった唐橋在熙と高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。まさに博識、学者天皇と称するにふさわしい女帝であった。

安永8年(1779年)11月、女帝が薫陶をたくした後桃園天皇も、父と同じ22歳で急逝してしまう。今度は亡き帝の生まれたばかりの娘(欣子内親王)が一人いるだけで、また帝の弟で伏見宮家を継いでいた貞行親王も、7年前に12歳で亡くなっていた。

そこで、後桃園天皇の死が秘されたまま、公卿諸侯、幕府などと調整が行われた結果、閑院宮家六男の兼仁親王を後継にすることになった。その兼仁親王は、亡帝の後桃園天皇から見れば父の又従兄弟ということになり、血筋はまったくの傍系であった。これが光格天皇である。

この即位以前に、後桜町上皇は貞行親王(光格天皇)の和歌を熱心に添削している(日記)。ことあるごとに光格天皇の相談に乗り、さながら影の女帝のごとくであった。朝廷の教育者として君臨し、あるいはのちに「近代への国母」と呼ばれる女帝は、やはり独身で生涯を終えている。

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古代の6人の女帝たちは、慌ただしい政治情勢に翻弄されながらも、大王(おほきみ)としての強権政治をもって政局を乗りこえた。その態様はおよそ「中継ぎ」という飾りではなかった。

蘇我・物部両氏の権力闘争を、そのいっぽうで体現した推古女帝。政争と戦争に身を投じた皇極(斉明)女帝。壮大な藤原京造営を実現し、古代律令制国家の天皇権力の頂点をきわめた持統女帝。女系天皇として君臨した元明女帝・元正女帝。そして藤原氏との仏教政策をめぐる暗闘ののちに、古代巫女権力の最後を飾った孝謙(称徳)女帝。

三十三代推古から四十八代称徳までの十五代(207年間)のうち、女帝の在位はじつに六人八代(80年間)におよんでいる。その天皇権力の全盛時代、女帝は男性天皇と天を二分していたのである。

武家の時代には将軍家の北条政子や日野富子、今川氏の寿桂尼など、政治に辣腕をふるう女性たちが歴史をかざった。戦国期の井伊直虎、立花誾千代、北条氏姫など、武家の当主として名を残した女性たちもいる。そのいっぽうで、逼塞する禁裏には女性が活躍する場はなかった。それは朝廷が政治的な求心力をうしなっていたからだ、と見るべきであろう。

皇統の中にふたたび女帝が現れるのは、儒教的な男尊女卑の気風がつよくなった江戸期においてだった。徳川幕府の禁中並公家諸法度によって、朝廷が政治的な権能をうしなっていたからこそ、新たなパワーが公武の緊張感をつくりだしたのではないか。それは公武の軋轢でもあり、新しい時代への萌芽でもあった。具体的にみてゆこう。

称徳(孝謙)天皇いらい、じつに八五九年ぶりに女性として帝位についたのは、明正(めいしょう)天皇である。「和子入内」でもふれたとおり、幕府の公武合体政策によって生まれた皇女である。

明正天皇

◆孤独の女帝

践祚したとき、女帝はわずか七歳だった。彼女の即位は、実父・後水尾天皇の突然の譲位によるものだ。この天皇交代劇には、三つの事件が背景にある。

そのひとつは、後水尾天皇に将軍秀忠の娘・和子を嫁さしめようとしていたところ、女官の四辻与津子とのあいだに子があることが発覚したのである。幕府は天皇の側近をふくむ六名の公卿を「風紀紊乱」の名目で処罰し、四辻与津子の追放をもとめてきた。後水尾天皇に抵抗のすべはなかった。禁中並公家諸法度がただの空条文ではなく、幕府の強権であることに禁裏は震えあがった。

幕府の政治介入はつづく。後水尾天皇はこれまでの慣習どおり、沢庵ら高僧十人に紫衣着用の勅許をあたえた。だが、これが幕府への諮問なしに行なわれたため、法度をやぶるものとして勅許は無効とされる。これにたいして沢庵宗彭(そうほう)、玉室宗珀(そうはく)らが意見書をもって抗議するや、幕府は高僧たちを流罪としたのである。怒ったのは後水尾天皇である。

さらに幕府は和子の入内にあたって、春日局(斎藤ふく)を参内させる。前例のない暴挙と受けとめられた。無位無官の女房が昇殿したことに、宮中は大混乱となる。怒り心頭にたっした天皇は突如として譲位し、七歳の少女を帝位に就けたのがその顛末である。

この譲位はまた、幕府からの血である皇后和子の娘・明正を帝位に就けることで、皇統から排除しようというものでもあった。朝廷は徳川家が外戚になることを嫌ったのである。女帝が生涯婚姻できず、したがってその血脈は独身のまま絶えてしまうのだから──。

在位中の明正天皇はまったくのお飾りであって、後水尾上皇の院政はその後に生まれてくる皇子を後継とするものだった(中和門院の覚書)。じっさいに女帝は二十一歳で退位し、異母弟である後光明天皇が即位する。

この譲位の直前に、将軍徳川家光は四か条からなる黒印状を、新しい院となる明正天皇に送付した。すなわち、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止。および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第一条)。

血族は年始の挨拶のみ対面を許し、他の者は摂関・皇族といえども対面は不可とする(第二条)。

行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合は、新院の伝奏に届け出て、表口より退出すること(第三条)。

両親のもとへの行幸は可。新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は、両親いずれかの同行ならば可。新院のみの行幸は不可とし、行幸の際にはかならず院付の公家が二名同行するべきこと(第四条)であった。これら上皇の院政を寸分もゆるさない、徳川幕府の異様に強権的な命令で、女帝は駕籠の鳥となったのである。院政をみとめない幕府の方針は、時代は前後するが霊元天皇の項でみたとおりである。

のちに明正は得度して太上法皇となり、仙洞御所で72歳の孤独な生涯をすごす。手芸や押し花が趣味だったという。まことに、政治の犠牲となった生涯であった。

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◆逆境にたち向かう天皇たち

わが皇統は政治的衰退の中でたびたび、英明で剛胆な帝を輩出してきた。古代王朝が崩壊したあとの天皇は、平安期には摂関家藤原氏に、鎌倉期には武家政権の伸長に圧迫された。南北騒乱後の室町期には経済的な逼塞に、そして江戸期にいたると形式的な権能すらも奪われた。

にもかかわらず、豪腕な君子はあらわれるのだ。たといその権能が武家の権勢に虐げられたものであろうと、傑出した人物はかならず業績を残す。平安後期に後三条帝が貴族との戦いのすえに、院政を確立する過程をわれわれは見てきた。鎌倉末期には後醍醐帝の建武の中興に、武家から政権を奪還するこころみを知る。衰退いちじるしい江戸期においても、霊元帝が朝儀を復興させるめざましさに出会う。

京都御所

霊元天皇を語るまえに、その父・後水尾天皇にいたるまで、戦乱期の天皇たちの労苦をたどってみよう。南北合一朝の後小松天皇いらい、朝廷は室町幕府という公武政権のもとで衰亡してきた。後小松から二代後の後花園天皇の時代になっても、南朝の残党が内裏を襲撃して神器を奪う事件が起きている。そして応仁・文明の大乱が京都を焼きつくす。後土御門・後柏原・後奈良の三代にいたり、即位や葬儀の費用も幕府に頼るほど、皇室財政は窮乏する。

武家の戦乱によって荒廃した京都と朝廷を救うのは、やはり武家の権勢であった。織田信長、豊臣秀吉の天下平定の過程で、天皇は戦国大名の調停者としての地位を確立するのだ。足利義満いらいの幕府「院政」からの、それは相対的な独立性をもたらすものだったともいえよう。

戦国大名間の調停という独自性を獲得した正親町天皇、後陽成天皇をへて、後水尾天皇は即位した。すでに徳川幕府は大御所家康、二代将軍秀忠の時代で、豊臣家を滅ぼす計画に入っていた頃である。後陽成天皇が家康との不和から潰瘍をわずらったすえに譲位、弱冠15歳の即位であった。その当代および院としての「治世」は、戦国末期から霊元帝が即位するまで、70年の歳月をかさねている。晩年に造営した修学院離宮にみられるよう、学問と芸術を愛したことでも知られる。

その生涯は、禁中並公家諸法度をもって禁裏を統制する徳川幕府との戦いだった。後述する徳川和子の入内にかかる公卿の処分、紫衣事件など幕府との軋轢のうちに、突然の退位をもってその意志をしめした。徳川家の血をひく娘・明正帝をへて、その意志は息子たちに引きつがれる。嫡男の後光明帝は天才の名をほしいままにした俊英で、十代で儒学に精通する。そして久しく行なわれていない朝儀の復活に取り組んだが、22歳の若さで亡くなる。

弟の後西帝は識仁親王(霊元天皇=後水尾天皇の十九皇子)への中継ぎとしての即位だったが、在位中に火災や地震にみまわれた。とくに明暦の大火にさいして、幕府はこれを天皇の不行状によるものと断じた。ために後西帝は、十歳の霊元帝に譲位する。何という言いがかりであろうか。江戸で起きた火災の責任を、京都の天皇が取らなければならなかったのだ。実際の失火元であった老中阿倍忠秋はその非を問われないばかりか、日蓮宗妙本寺に責任が帰せられている。

霊元天皇の業績として数えられる大嘗祭の復活は、33歳で朝仁親王(東山天皇)に譲位してからのものだが、それこそが院政を敷いた深謀遠慮によるものといえる。というのも、院は朝廷の法体系の枠組みの外側にあり、したがって禁中並公家諸法度による幕府の統制が効かないのである。平安期の摂関政治との戦いとは、また違った意味で江戸期の院政は独自性をもっていた。幕府は院政を認めない方針を通告するが、霊元上皇はこれを黙殺した。

在位中の霊元帝は、後水尾法皇の遺命で決定していた第一皇子(済深法親王)を強引に出家させ、それに反対した小倉実起を佐渡に流刑にする小倉事件を起すなど、荒っぽい行動をためらわなかった。親幕派の左大臣近衛基熙を関白にさせないためには、右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓人事を行なっている。また、若いころには側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こし、これを諌める公卿を勅勘の処分にする。武家伝奏正親町実豊を排除するなど、やりたい放題である。

この時期の歴代天皇にみられるのは、後光明天皇のごとき儒教や朱子学への傾倒、あるいは神仏分離を唱える垂加神道への接近であろう。霊元天皇が一条冬経を関白にしたのも、冬経が垂加神道派だったからである。ライバルの近衛基熙はといえば、神仏習合を唱える吉田神道を支持していた。江戸期の朝廷において古神道への回帰志向が顕著になるのは、徳川幕府の仏教優先政策への反発ともいえる。やがてそれは、幕府も奨励する儒教と結びついた国学として、幕末の尊皇思想に結実していくのだ。

いよいよ近代の天皇を語るところまで歩を進めたわれわれは、その前に二人の女帝を記憶にとどめるべきであろう。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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ここまで六人・八代の古代女帝を紹介してきた。女性天皇は江戸期の明正帝(興子・一〇九代)と後桜町帝(智子・一一七代)をふくめて「八人・十代」ということになっている。

神功皇后(じんぐうこうごう)(歌川国芳『名高百勇伝』より)

ところが飛鳥王朝以前にさかのぼると、あと二人の女帝を歴代の史書はみとめているのだ。その一人は有名な神功(じんぐう)皇后である。この連載の08回「朝鮮半島からの血が皇統を形づくっている」でもふれた仲哀帝の皇后であり、応神帝の母親ということになっている。

「歴代の史学はみとめている」と、ことわったのは「記紀」の神話的な部分がその典拠だからである。神話的な記述をどこまで史実とするかは、同時代の文献や伝承・記録で証明する以外にないので、関連記事のない神功皇后の実在性はとぼしいと言わざるをえない。

いちおう触れておくと、「日本書紀」であるという説もある「王年代紀」に、彼女の即位が記録されている。この「王年代紀」が中国に伝わり、痘代の「新唐書」(列伝一四五東夷日本)と「宋史」(列伝二五〇)にも記述されている。中国に記録が伝わったのは、十世紀末のことである。

だが、中国の史書にあるから史実だと言えないのは、出典が神話世界に仮託されたものだからだ。神功皇后のモデルは卑弥呼説、朝鮮出兵の陣(九州)で亡くなった斉明女帝(皇極天皇)とする説(直木孝次郎)がある。じっさいに江戸時代まで、神功皇后は天皇という扱いだった。

もうひとり、一般の人はほとんど知らない「幻の女帝」がいるのだ。ふつうの歴史解説本には載っていない。いや、幻の女帝というのは語弊があるだろう。その女帝は実在性がきわめて高いうえに、同じ「日本書紀」の記述とはいえ具体的な(粉飾されない)エピソードの持ち主なのだ。その名を飯豊(いいとよ)天皇という。

皇極(こうぎょく)天皇

◆女帝は処女でなければならなかった

「日本書紀」の清寧天皇時代の記録に、飯豊女帝は「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」とある。飯豊青皇女は第一七代履中天皇(405年没)の娘とされている(「記紀」)から、清寧帝の時代には、少なくとも74歳になっているはず(このあたりが古代天皇史のいい加減なところで、やたらと天皇たちが長寿)だが、彼女は初めて「女の道を知る」(日本書紀)のだ。70歳をこえて「初体験」をしたというのだ。女は骨になるまで、とはよく言ったものだ。

別伝では履中帝の息子(市辺押磐皇子)の娘という記述があり、その場合は「70代で初体験」ではなくなる。20歳前後(雄略時代・清寧時代で27年間)ということになるから、記事の真実性が増す。

「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交(まぐはい)したまふ、人に謂りて曰く『一女の道を知りぬ、また安(いづく)にぞ異(け)なるべけむ、終(つい)に男に交はむことを願(ほり)せじ』とのたまう(※ここに夫有りといえること未だ詳らかならず=日本書紀編者注)」

「わたくし、初体験をして女になりましたが、どこか違うのではないかと感じました。また男とやりたいと願ってはいません」と訳してみた。初体験を語るとは、かなり明け透けな性格だったことがうかがえる。

文中に角刺宮(つのさしのみや)とあるのは、奈良県葛城市の忍海に実在する(現在は角刺神社=近鉄忍海駅下車徒歩4分)飯豊皇女の居住地である。

「日本書紀」の編者はおそらく、飯豊皇女が帝位を嘱望される存在だから、彼女がセックスをしたことに愕き、この記事を残したのであろう。帝位に就く女性は、独身でなければならなかったはずだからだ(卑弥呼・孝謙女帝などの例)。

そこで「※夫有りといえることは未だ詳らかならず」とあるのは、「彼女がセックスをしたからといって、その相手が夫になったとは限らない」なぜならば「彼女はもう逢わないと言っている」というふうな文意と注釈になる。なので、皇位に就くのに差し障りはない、ということだろう。古代においても、女系天皇は敬遠されていたのだ。

女性天皇は六人・八代の古代女帝に江戸期の明正帝(興子・109代)と後桜町帝(智子・117代)を加えて「八人・十代」ということになっているのだが……

◆第二四代天皇、飯豊女帝

いっぽう「陸奥国風土記」には「飯豊青尊が物部氏に御幣を奉納させた」とあり、飯豊青皇女が「尊(みこと)」すなわち天皇になったことを示唆している。飯豊女帝の即位の事情は、ハッキリしている。第二二代の清寧天皇が亡くなり、皇太子候補だった二人の皇子(大脚皇子=仁賢天皇と来目皇子=顕宗天皇)がお互に譲り合ったので、やむなく立てられた女帝と記録にある。

「日本書紀」における即位の記述は、顕宗天皇の「即位前紀」に「天皇の姉飯豊忍海角刺宮に臨朝秉政(りんちょうへいせい=ミカドマツリゴト)したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称(なの)りたまふ」とあり、上述の「陸奥風土記」を裏づけている。

平安時代の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、室町時代の「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されている。いずれも女性天皇(女帝)という記録である。

明治維新後、昭和20年までは宮内省において「歴代天皇の代数にはふくめないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。戦後、宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。これは「不即位天皇」としての扱いである。

宮内庁が「不即位天皇」にしようと、史実は別物である。飯豊青皇女、すなわち飯豊女帝の即位と執政は疑いない。したがって、わが国の女帝の数を「九人・十一代」としても差しつかえないのだ。日本史の新常識が、またひとつ増えた。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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