女性天皇・女系天皇論議は、なかなか俎上にのぼらない。というのも、世論の動向がはなはだしく、女性天皇容認に傾いているからだ。産経新聞とFNN(フジテレビ)が昨年5月に行なったアンケートによると、女系天皇(単に女性天皇ではなく、女性天皇の子女が皇位に就く)に賛成が62.3%、女性宮家の創出は67.8%だった。朝日新聞の世論調査(昨年4月)では、女性天皇に賛成が76%、女系天皇74%の賛成だった。毎日新聞の調査でも、女性天皇の賛否は、賛成が68%、反対は12%にとどまった。2017年のデータになるが、共同通信による女性天皇賛否の調査では、じつに86%が賛成だった。

世論の圧倒的多数は、女性天皇・女系天皇に賛成しているのだ。それゆえに、安倍政権はみずから呼びかけてきた「国民的な議論」を封じるかのごとく、国会でもこの議論を避けている。たとえば「週刊朝日」(3月6日号)に掲載された「有識者会議の座長代理を務めた2人が皇位継承問題を語る」において、園部逸夫(元最高裁判事・外務省参与)と御厨貴(東大名誉教授・人サントリー文化財団理事)は、国民の圧倒的な女性天皇支持、女性宮家創出賛成の世論を怖れて、安倍晋三総理が議論を封印したと批判している。

つまり国民的な議論をしてしまえば、あっさりと女性天皇が認められてしまいかねない。これは自衛隊合憲論(9条加筆案)と同じく、国民投票にかけることによって、自衛隊の非合憲が決定されかねない、政権にとってはアンビバレンツな問題だということなのだ。

いっぽう、女性天皇賛成論について、左翼系の天皇制廃絶論者からは「天皇制をみとめることになる」「女性天皇賛成ではなく、天皇制の廃絶を」という批判がある。これは本土移転による沖縄基地の撤去論(沖縄米軍基地引取り運動)に対する「基地の存在をみとめるのか」という批判にかさなる。議論はおおいに尽くすべしというのが私の立場だが、天皇制廃絶や米軍基地撤去を、ただ念仏のように唱えていても何も動かないのは、戦後の歴史が教えるとおりであろう。

むしろ保守系の論者の中から、第三皇位継承権を持つ悠仁親王の帝王教育を、自由主義的な秋篠宮家に任せていていいのか。「昭和天皇の杉浦重剛や上皇陛下の小泉信三のような外部の教育掛(教育係)が必要なのではないか」(宮内庁関係者、週刊文春デジタル)という矛盾すら生まれている。その自由主義的な秋篠宮家においてすら、眞子内親王の自由恋愛結婚において矛盾が生じているのだ。すなわち、皇室と天皇制の民主化がそれ自体の危機につながる、ということにほかならない。したがって女性天皇の実現は、単に女権拡張的なフェミニズムの課題だけでなく、天皇制がほんらい持っている矛盾、つまり擬制の身分制・封建制が象徴天皇のアイドル化という自由化のなかで、崩壊をもたらす危機をもたらすのだ。このような視点のもとに、女帝論をめぐる議論のために史料研究が必要である。

◆女帝議論の動向

保守系の論者は「歴史上の女帝は中継ぎにすぎない」「皇統は歴史的に男系男子である」というが、じつは史実はそうではない。意志的に皇位を獲得し、あるいはみずからの皇位を冒す者を排した古代の女帝たち。そして女系女帝(母親が天皇の女帝)すら存在したことを、史実を知らない者たちが議論しているのが現状なのだ。

そこで、あらためて一次史料と最新の研究書・論考を読み込みんだレポートを送りたい。さらには大学や学会など、研究機関の研究者にはとうてい成しえない大胆な仮説をもとに、古代の女帝たちからの証言を明らかにしていこう。あなたも目から鱗が落ちる、衝撃的な歴史体験をともに味わってほしい。

◆神託の巫女

 「元始、女性は実に太陽であった」(『青鞜』平塚らいてう)。

わたしたちが知る神話世界では、天照大御神が母なる神であって、皇祖は女性神ということになる。これは現実の歴史(持統天皇の時代)を、神話の物語に反映したものであろうか。日本神話の世界は謎にみちている。神話をなぞりながら、史実に近づいてみよう。

そこで神話から現実の歴史に降り立つと、史実の女王が卑弥呼と呼ばれた文献に行きあたる。卑弥呼という蔑称は、魏史の編纂者による当て字であろう。おそらく日巫女(ひみこ)、もしくは姫皇女(ひめみこ)、姫子(ひめこ)などが本来の呼び名だと考えられる。

よく「卑弥呼」という名前が好きだという方もいるが、ひらたく訳せば「卑しいとあまねく呼ばれている」というのが「卑弥呼」の語意なのである。「魏志」篇者の悪意すら感じられる。

その「魏史」の「倭人伝」につたわる邪馬台国の女王は、卑弥呼から台与に代をかえて、三十余国からなる連合国家の統治を行なった。いずれも男王のもとでは「相誅殺し」「相攻伐する」状態になった結果、和平のために女王が共立されたのである。

卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆をまどわす」と、倭人伝に記述されている。鬼道については諸説あるが、呪術であり神のお告げ。すなわち神託であろう。
そう、巫女の神託こそが、古代国家統合の背骨だったのだ。神のお告げをつたえる女性は、その意味では国家(共同体)の太陽だったといえよう。その太陽はしかし、王国の実権者だったのだろうか。

魏史倭人伝はこう伝える「夫婿なく、男弟あり、たすけて国を治める。女王となっていらい、姿を見た者は少なく、婢(ひ)千人を仕えさせている。ただ男子あり、飲食を給し辞をつたえ居処に出入りする」

どうやら弟が政治を行ない、給仕をする男性が彼女の神託を宮殿の外につたえていたようだ。倭国は三十余国からなる連合国家なので、諸国王たちが合議したものを卑弥呼に占なってもらい、その神託を決定事項とした。このような統治形態が考えられる。

その場合、卑弥呼は女王でありながら、呪術をもっぱらとする祭司ということになる。つまり太陽ではあったが、政治的な実権者ではないようだ。にもかかわらず、千人の婢(女性奴隷)を使い、その死にさいしては径百歩(歩いて百歩の大きさ)の塚がつくられ、百余人の奴婢が徇葬(殉死)した。祭司の権力が、政治的な実権者に劣らない証しである。

卑弥呼・台与のつぎに巫女の神託が政治舞台に登場するのは、古代王朝最後の女帝・孝謙(称徳)天皇の世になる。それまでしばらくは、古代王朝の辣腕女帝たちの活躍を紹介しよう。保守系の論者が「歴史上の女帝は中継ぎにすぎない」「皇統は歴史的に男系男子である」というのが、いかに史実を知らない主張であるかを、明らかにしていこうではないか。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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保守系の論者や天皇主義者のみなさんは「ひとつの民族、ひとつの王朝」と、ことさらに日本史を「美化」するのが好きだ。なんと狭い島国根性であろうか。日本の歴史はもっと汎アジア的であり、心を躍らせるほどダイナミックなのである。今回は万世一系とされる天皇家に断絶(王朝交代)があり、しかもその断絶が朝鮮半島からの「血」によって行なわれた史実を明らかにしよう。

あまりにも高齢であるがゆえに、神代の天皇たちは神話のフィクションであろうと考えられている。しかし中国の史書や日本の「記」「紀」に事蹟が明確に残されている天皇たちを、居なかったことにするわけにもいかない。そこには天皇家のルーツが秘められているに違いないのだから。

実在したとされる十代崇神天皇をはじめ、応神天皇ら事蹟の明白な天皇たちにおいてもしかし、困ったことに干支と年号(大化以前は、天皇の名前が元号)でしか、編年がたどれないのである。

第十四代仲哀天皇は「古事記」では、52歳で亡くなったとされる。在位は9年間であり、その末年に息子の応神帝が生まれたとされる。ところが、没年の干支(壬戌の年)を西暦に換算してみると、おかしなことになってしまうのだ。仲哀の崩御年を302年とし場合、応神の生誕年は330年ということになる。元号と干支の不便きわまりない点である。そこで、神話物語の脈絡から、ナゾを解いて行こう。

三韓征伐の神話では、西(朝鮮半島)に行けば「金銀をはじめとして、目燃えかがやく珍宝の国あり」という神託があったとされる。神功皇后はそれを信じたが、仲哀帝は「熊襲を討つべし」と主張した。仲哀は神の祟りに遭い、熊襲に討ち取られてしまう。神功皇后は熊襲を討ったのちに、朝鮮半島に三韓征伐をおこなう。半島の陣中で臨月を迎えるものの、そこはグッと我慢して(石を腰に巻いて)九州に帰還してから応神を産んだ。半島で2年ほど過ごしたとすると、神功皇后は半島で身ごもったことになる。そこで「応神の父親は誰だ?」ということになるのだ。

応神が九州で生まれたことから、応神王朝は九州の勢力だとする説が有力である。なぜならば、神功皇后は故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺しているのだ。これは王朝交代劇である。九州の勢力が大和にのぼり、旧王朝を打ち倒す。三韓征伐の神話は、半島出兵と畿内への帰還という二つの物語で構成されているのだ。ここから明らかになるのは、神功皇后が朝鮮半島で妊娠したこと、九州の勢力が「東征」したという暗喩だ。神武東征の再版であろうか?

この神話を、現実の史実(ナゾの四世紀)と照らし合わせてみよう。三世紀の卑弥呼が死んだのは248年とされている(倭人伝)。そして男性王のもとで乱があり、台与が女王として邪馬台国を統(す)べた。ここで倭人伝は「倭国」の様子を伝えるのをやめる。中国も大乱の時代となったからだ。

四世紀の記録としては、366年に倭国が百済に使者をおくり、369年ごろに任那(日本府)が成立したことが明らかになっている。そして381年と404年に倭国が百済と新羅を攻めているのだ(広開土王碑)。これが神功皇后の三韓征伐であろう。そしてこの時期から巨大な前方後円墳が造られ、馬の埴輪が出現する。卑弥呼の時代には「倭には馬がいない」(魏志倭人伝)とされていたのに、日本に馬があらわれたのだ。どこからか? 

大陸もしくは半島からであろう。銅鐸が作られなくなり、鉄器が盛んに造られる。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった勢力で、大和に攻め上ったのであろう。江上波夫氏の「騎馬民族説」である。おそらく百済および任那にいた、馬と鉄器をあつかう人びとが日本にやって来て、大和王朝を創ったのであろう。応神天皇は朝鮮半島系である、ということになるのだ。天皇家のルーツの少なくとも半分は、朝鮮半島だったことになる。

◆天皇家が認めた朝鮮半島の血

もうひとつは、平安遷都で知られる桓武天皇の母親が、百済人の末裔だった史実である。その史実は、平成上皇の天皇時代に日韓ワールドカップのときの所見(お言葉)としてマスコミに報じられ、保守派のとりわけ嫌韓派に衝撃をあたえたものだ。引用しておこう。

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(平成天皇談)

桓武天皇の母親は、高野新笠(たかののにいがさ)という女性である。光仁天皇の側室となり、山部王(のちの桓武帝)と早良王(のちに藤原種継事件に巻きこまれ自殺する)を生んでいる。父親は和乙継で、百済系の渡来人である。平成上皇が言うとおり、武寧王の子孫とされる。百済人がふつうに貴族の高官だった時代から、200年ほどを経た時代のことだ。日本の皇室が中国王朝と朝鮮王朝とふたたび交差するのは、清朝および李朝の時代である。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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かつて日本人は、仏壇と神棚を同じ部屋に飾っていた。生活にもっとも近い場所に仏壇があり、その上に神棚が飾られ、さらに天井近くに御真影。すなわち天皇皇后の写真という祭壇の構成が、明治以降の一般的な家庭の風景であった。それ以前、江戸時代の日本人は神社を訪ねては、そこにある絢爛たる寺院の本堂にある阿弥陀如来像に、あるいは弥勒菩薩像、不動明王像や毘沙門天像に手を合わせていたのだ。その寺院を「神宮寺」という。古代いらい連綿と続いてきた、神仏習合の風景である。

われわれ日本人は、結婚式や七五三を神社および神道形式で祝う。お正月には三社参りをして、一年の平安と健康を祈願する。まるで宗旨は神道のようだ。しかるに、末期のことは菩提寺である寺院にまかせる。死んで仏になる日本人は、まちがいなく仏教徒であろう。仏式で結婚式を挙げる人は、お寺さんはともかく、あまり一般的ではない。ぎゃくにお葬式を神式で行なう家は、代々が神道信仰の家しかないはずだ。これらはすべて、明治以前の生活習慣のなごりなのである。

祭の神輿は、神社ゆかりの氏子会や崇敬会が中核で、町内会(自治会)と重なっている。盆踊りはお寺と町内会のコミュニティをもって成立する。この町内会こそ自民党の支持母体の基礎なのだが、今回はふれない。クリスマスはいかにも盛大に街を飾るが、そもそも信仰の範囲ではないはずだ。にもかかわらず、われわれ現代の日本人は神道と仏教、キリスト教の三つの宗教に等距離をたもち、何ら矛盾を感じていない。これはしかし、あまりにも信仰に深みのない、不信心であるがゆえの宗教生活の空白とは言えまいか。われわれ日本人にはキリスト教における安息日、あるいはイスラム教における日々の礼拝やラマダンなどの習慣がない。じつは明治維新による廃仏毀釈および国家神道化こそ、日本人から宗教心を抜き去ったと言っても過言ではないのだ。

◆そもそも、神仏習合とは何なのだろうか?

六世紀なかばに伝来した仏教は、大陸の先進文化として受け容れられた。単に経典だけではなく、渡来人による建築様式や美術をはじめ、仏教はさまざまな技術とともに受容された。

いっぽう、わが国には自然崇拝としての古神道があり、仏教の受容に反対する勢力も少なくなかった。物部守屋・中臣勝海(かつみ)らがその急先鋒で、仏教を庇護する蘇我馬子と激しく対立した。とくに守屋は、わが国最初の僧侶である善信尼ら三人の尼僧の袈裟を剥ぎとって全裸にし、公衆の面前で鞭打ちの刑に処したという。やがて仏教支持派と廃仏派は朝廷を巻き込んだ政争にいたり、その争いは軍事衝突に発展した。丁未(ていび)の乱である。この戦いで物部氏が滅びると、仏教は蘇我氏と推古天皇および聖徳太子のもとで隆盛をきわめた。

仏教が急速に受け容れられたのは、神道の弱点である死や病気(穢れ)への対処があることだった。古来の神道においては、神といえども死ねば黄泉の国に行かねばならない。現世の穢れをいくら祓い清めても、仏教のように高度な悟りには到達できない。ましてや極楽浄土には行けない。このことに気づいたのかどうか、道に迷った神々が仏教に帰依するようになるのだ。桑名の多度神宮寺には、つぎのような縁起が残されている。奈良朝の天平宝字7年(763年)のことである。

「われは多度の神である。長いあいだに重い罪業をなしてしまい、神道の報いを受けている。願わくば長く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」

聖武天皇による大仏建立が行なわれ、国分寺・国分尼寺が全国に建てられていた時期だから、本朝が仏教国家に生まれ変るのに合わせて、多度の神も仏道に入ったのであろう。

これら神道から仏教への宗旨変えは、つぎのように解釈されている(『神仏習合』美江彰夫)。大規模な土地や荘園を持つことで、神を祀る立場だった「富豪の輩(ともがら)」に罪の意識が芽生えたが、その罪悪感は神道では癒せない。なぜならば、彼らは神を祀ることで私腹を肥やしてきたからだ。そこで彼らは神々を仏門に入れることで、救済をもとめたのである。やがて平安時代になると、仏が仮に神の姿で現れるという、本地垂迹説で神仏習合が理論づけられる。神社のなかに寺が建てられていたのは、およそこのような事情である。

具体例をふたつほど紹介しておこう。大分の宇佐八幡神宮は、渡来系の辛島氏が女性シャーマンを中心に支配してきたが、六世紀の末に大神氏が応神天皇の神霊として「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を降臨させる。これが僧形の八幡神(のちに八幡大菩薩)である。

やがて大神氏は宇佐神宮内に弥勒寺を営み、宇佐神職団の筆頭に躍り出る。奈良の大仏建立に協力し、朝廷の庇護を受けたからだ。そして宇佐神宮が豊前一帯を配下に置いたのは、弥勒寺が周囲の寺院を通じて民衆を支配したからにほかならない。しかしながらその弥勒寺の伽藍は、明治維新によって破壊された。破壊された跡地には、料亭や土産物屋が甍を並べたという。宇佐神宮弥勒寺の信徒たちは、寄る辺をうしなったのである。明治四年の太政官布告によって、宇佐神宮は官幣大社となり、内務省の統制下に入る。八幡神社の総本山宇佐神社は、戦時中は神都と呼ばれた。

いっぽう藤原氏の氏寺である興福寺は、伽藍こそ壊されなかったものの、僧侶たちは同じく藤原氏の氏神である春日大社の神職団に編入させられている。しかし宇佐神宮では失われたものが、いまも春日大社と興福寺には残っているのだ。神職と僧侶が相互に祝詞を唱え、読経するシーン。すなわち神仏習合の原風景である。

◆かくして国家神道は、宗教であることを否定した

明治新政府出発のマニフェストは、木戸孝允の主導で定められた「五箇条の御誓文」だといえよう。天皇みずからが公家諸侯の前で「天地神祇」を祀り、公家を代表して三条実美が御誓文を読み上げたのが慶応4年3月15日。その13日後に「神仏判然令」が布告されたのである。のちに大日本帝国憲法に「万世一系ノ天皇ノ統治ス」とされるのものが「御誓文」には「大いに皇基を振起すべし」とある。天皇が治める国の基礎を奮い起こすべきだ、という意味だ。

その「五箇条の御誓文」の発布の翌日、一般庶民にむけて「五傍の高札」が掲げられた。高札の第三札には「切支丹邪宗門の厳禁」とある。じっさい岩倉使節団が訪米する直前(明治四年)に、伊万里(佐賀)県のキリスト教徒67人が捕縛されている。すぐに諸外国の抗議で撤廃されたものの、豊臣秀吉いらいのバテレン追放令をそのまま継承せざるをえなかった、明治政府の異教への恐怖と国際感覚のなさが露呈したかたちだ。これ以前(明治二年)にも、長崎の大浦天主堂に出入りするキリスト教徒3400人が逮捕されている。

かように、明治政府の宗教政策は、太政官府および内務省による強引な統制であった。法的には憲法第二八条の「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」つまり、安寧と秩序を妨げるようであれば、いつでも弾圧される「信教の自由」なのである。その宗教統制のなかで、神道のみが行政化されたのだった。

行政上は、神祇官(のちに神祇省)の復活が行なわれた。この神祇官は職階こそ太政官よりも上位だが、位階は従五位の下と低い。とても天皇を頂点にいただく新政府の中枢として、耐えられるものではなかった。やがて神祇省は廃止されて教部省となり、のちに内務省社寺局に統合される。そして宮中において、天皇をいわば最高神祇官とする体制がつくられたのだ。天皇祭祀の業務はしたがって、宮内省式部寮が執り行なうことになる。祭祀が役所から禁裏に移され、ここに神代天皇制への復帰が行なわれたのである。

明治33年になると、内務省の社寺局が神社局と宗教局とに分離された。これは官幣社および国幣社などの神社が、行政的には宗教ではないという意味である。

いっぽうでは小さな神社や民間信仰の祠などが統廃合され、神道は国家の行政機関に組み込まれたのである。国家の行政組織になることを拒否する民間神道(教派神道)はすくなからず弾圧の憂き目をみている。

祭祀は伝統的な行事であり、神道教育は道徳を教育するものであって、宗教ではないというのが政府の立場である。そして天皇の地位は政治から相対的に分離され、大元帥となり、「政権」からは分離された「統帥権(兵権)」が憲法に明記される。これが軍部ファシズムへの法的な根拠となったのは周知のとおり。その意味では本来、議会政治から分離された「神国」の政体こそ、天皇を中心にした「国体」と呼ぶべきものであろう。

こうした皇室神道(儀式)は戦後も国家(国事行為)と分離されることなく、その一方では政治権力とは分離(政治的権能の排除)されることで、統合の象徴(アイドル化路線)をひた走ることになったのである。だがアイドル(人間)であることと、国体(象徴)という形式のあいだには、かならず亀裂が生じる。この欄でも何度か明らかにしてきたが、皇族の叛乱(三笠宮家・秋篠宮家)は、その崩壊のきざしなのである。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇
〈06〉日本人はなぜ武士道が好きなのか?

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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明治いらいの近代天皇制は、神道の復権と武士道と両輪の関係にあったと、わたしは思っている。天皇のために命をささげ、そして天皇の国(皇国)のために死ぬ武士こそ「臣民」なのである。

◆「外から」もたらされた武士道

武士道はもともと、江戸時代においては武士階級(総人口の5%)だけのものだった。明治時代において、はじめて日本人全体の道徳観のなかに根をおろしたのである。いまもスポーツシーンでは「侍ジャパン(野球のナショナルチーム)」や「なでしこジャパン(女子サッカーナショナルチーム)」などと、もとをただせば武士道および男尊女卑の時代錯誤なネーミングに、われわれは違和感なく馴染んでしまっている。

あるいは戦場に乗り込んで、不幸にも拉致されたジャーナリストに「自己責任論」をもって、バッシングがくり返される。国家と社会に「迷惑」をかけたのだから、死んで詫びろとでも言いかねない風潮である。これら偏狭な武士道の倫理観はしかし、われわれ日本人の精神史からいえば明治以降につくられたものにすぎない。
この近代の武士道はある人物によって、じつは「外から」もたらされたものだ。お札の肖像画にもなった新渡戸稲造である。

 

新渡戸稲造=著/山本博文=翻訳『現代語訳 武士道』(2010年/ちくま新書)

キリスト(クエーカー)教徒であった新渡戸稲造が、宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったという(『武士道』)。その紹介の仕方はしかし、あまりにも錯誤に満ちたものだ。新渡戸はこう書いている。

「仏教が武士道に与え得なかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、祖先への崇敬、さらには孝心などが神道の教理によって教えられた。そのため、サムライの倣岸な性格に忍耐がつけ加えられたのである」

「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした」(いずれも前掲書)。

そうではない。新渡戸が仏教研究について何ら業績がないことから、神道と仏教を心的な効果として対比する論旨の粗雑さは明白である。新渡戸が「神道」と措定している内容も江戸時代に成熟した儒教の解釈であり、そこから生じた近世国学の流れにすぎないのだ。武士道が「外からもたらされた」というのは、新渡戸がアメリカ(カリフォルニア)で静養中であり、なおかつ英文で書かれたものが邦訳されたからだ。少なくとも近代武士道の源流は、アメリカ産(クエーカー教徒によるカリフォルニアでの執筆)だったといえよう。神道もその内部にあった仏教的な要素を排除されることで、本来のものとは似つかわないものになってしまったのだ。

神道はほんらい、神の分身としての人間が清浄に立ち返る儀式であって、古代から江戸時代にいたるまで、その宗教行為の実態は神宮寺(神社内にある寺院)の仏教によって行なわれてきた。古代神道を仏教が包摂したのは、神道の儀式(形式)にたいして仏教が修行(教義の実質)を持っていたからにほかならない。そのような史実を捨象して、新渡戸は切腹の奥儀やサクラの散り際のよさを、武士道に通じるものと讃える。国家に対する忠誠を、切腹と散華にたとえて美化しているにすぎないのだ。

それでも新渡戸の知性は「日本人が深遠な哲学を持ち合せていないこと」「激しやすい性質は私たちの名誉観にその責任がある」として、愛国主義を称揚しながら、その危うさにも触れている。『武士道』は日清戦争で日本人が愛国心を発揮した明治33年に書かれたものだが、大日本帝国が日清戦役の延長にアジアを侵略した歴史、あるいは世界大戦の一角の主役を果たして国を焦土にした風景をみれば、新渡戸は何と言ったであろうか。

そもそも宗教教育のない日本とは、1862年生れの新渡戸にとっては、江戸時代までの神仏習合の知らざる宗教生活であったはずだが、この点については後述する。豊かな日本人の宗教生活は、じつは強引に改変された歴史があるのだ。輪廻からの解脱と浄土への悟り。迷える古代の神をも救済した菩薩(修行)の思想。仏教の精神世界においてこそ「日本人が深遠な哲学を持ち合わせ」ていたことに思いを馳せるべきであった。

前述したとおり、新渡戸稲造がアメリカで『武士道』を著したのは明治33年、邦訳は明治41年のことである。キリスト教のような統一した宗教教育のない日本で道徳教育をするにさいして、思い至ったのが武士道だったのだ。しかるに、わが国民が仏教に精神世界を根づよく持ってきたのも、まぎれもない史実である。新渡戸はなぜ、日本精神を仏教で捉えようとしなかったのだろうか。古代天皇制は仏教国家をその土台としてきた。その歴史を知らない新渡戸ではなかったはずだ。

新渡戸稲造が生きた時代に、すでに日本人の宗教観に大きな変化をもたらしていたものがあるとすれば、それは廃仏毀釈であろう。飛鳥・奈良・平安の古代いらい、われわれ日本人のなかに根づいていた仏教信仰は、ある契機から壊滅的な打撃を受けることになる。近代国家神道の勃興である。

明治国家は天皇を頂点に、神の国をめざした。現人神である天皇が祭祀を行なうことで神道は儀式となり、ふつうの宗教ではなくなったのだ。そのためには、神道と渾然一体となっていた仏教を排除する必要があった。それが廃仏毀釈である。典型的な事件から、その態様をみてゆこう。

 

近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社(wikipedia)

◆日吉山王社の仏像破壊事件

前代未聞の事件が起きたのは、ある法令が発布されてから、わずか4日後のことだった。近江坂本の日吉(ひえ)山王権現社に、神威隊と称する100人ほどが武器を持って乱入したのだ。神威隊は日吉社にある仏像や仏具を破壊し、ことごとく焼却した。彼らは罪に問われることはなかった。ちなみに日吉山王権現社は、比叡山延暦寺の守護神社である。

彼らの暴挙を合法化したある法令とは、慶応4年(明治元年)3月28日に発布された「神仏判然令」(神仏分離令)である。そして神威隊なる荒くれ者の正体は、じつは彼らが仏具を破壊した日吉山王権現社の神職たちである。つまり日吉社の神職たちが、自分たちの神社に祀られている仏像や仏具を壊したのだ。明治の新政とともに発動された廃仏毀釈は、このようなかたちで始まった。

この廃仏毀釈を上からの宗教統制とみる考え方もあるが、必ずしもそうではない。明治政府は廃仏運動への反発が政府批判につながるのを、神経質なまでに危惧している。むしろ徳川幕府の仏教優遇政策に反発していた神社、あるいは幕末期の水戸学や平田国学が過剰な尊皇思想をあおり、維新とともに廃仏に走らせたと言うべきであろう。現実に廃仏毀釈は官憲によるものではなく、下からの苛烈な運動だった。それにしても、神職たちがみずからの神社に飾られている仏像と仏具を破壊するという、異常な事態が起きたのである。そもそも神社になぜ仏像や仏具があったのかという、現代を生きるわれわれにはピンと来ない史実から説明をはじめる必要があるかもしれない。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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◆中世・近世の公武合体

公武合体という名称は、幕末の幕府と雄藩の協調運動の代名詞である。幕末の尊王運動を幕藩体制のなかに取り込み、外圧に対する挙国体制を意味している。天皇を報じて夷敵を撃つ、尊王攘夷運動とは相容れない、しかし当時は斬新な提案であった。

現在の天皇制も、武力をそなえた政権と結合することで、公武政権の発展した形態とみなすことが可能だ。皇室および皇族が純粋な文化的な存在として、京都に逼塞すべきだとわたしが思うのは、現在のあり方が伝統的な禁裏ではないと考えるからだ。どうしても日本人が天皇および皇室を必要とするならば、現在のような政治権力に振りまわされ、利用される様式は美しくないばかりか、かならず矛盾をきたして崩壊するだろう。

武士

それはともかく、鎌倉府が成立した中世以降、公武合体は何度も試みられてきた政体である。最初は後鳥羽天皇の時代に、親幕府派の九条兼実が行なった鎌倉幕府との提携である。天皇を頂点に貴族が伝統的な有職故実を踏襲しつつ、武家政権が軍事的に補完する。その理想は九条兼実の弟である慈円の『愚管抄』にくわしい。

後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位したが、失われた神剣を補完するものこそ鎌倉府だとしている。そこでは朝廷と鎌倉幕府は政権を分担する役割に過ぎず、位階の執行者としての天皇の権威が尊重されるいっぽう、武家の軍事的な役割も明白だ。公武が協調しようというのだから。

それは幕府を開いた源頼朝にとっても同様だった。頼朝は征夷大将軍を拝領すると、政子との愛娘・大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁さしめようとした。そのために頼朝は、朝廷とのパイプ役であった九条兼実ではなく、平氏政権・後白河政権・源氏のあいだを鵺のように振舞ってきた源(土御門)通親(みちちか)および後白河院の寵姫だった丹後局こと高階栄子(えいし)に接近し、公武の結びつきを強めている。この頼朝の政治選択は、彼の中央貴族出身ゆえの限界だと評価されている。しかも大姫は二十歳の若さで夭折してしまう。幼いころに木曽義仲の子・義高と結婚し、頼朝と義仲の関係が破綻したのちに、大姫は父に夫を殺されている。心の傷は癒えてなかったのであろうか。

いっぽう上皇となった後鳥羽帝は、政体の形式的な役割性だけを見ているわけではなかった。政権の実質が荘園の支配権にあることをリアルに感じ取っていたのである。承久の変とは、西国の荘園支配権をどうするのか。鎌倉府の支配権を削ぎ落すことにこそ、上皇の関心はあったのだ。その結果は、このシリーズの第4回「武士と戦った天皇たち」を参照されたい。

◆和子入内

朝廷との結びつきを強くすることで、政権基盤を安定させようとしたのは江戸幕府も同様だった。秀忠とお江のあいだに和子が生まれたころから、家康は公武合体の構想を抱いていたようだ。

後陽成天皇が譲位すると、家康は天皇の弟の八条宮智仁親王が秀吉の養子になったことがあるので、その即位に反対した。天皇の子である政仁親王、すなわち後水尾天皇を推したのである。3年後の慶長19年には朝廷から和子入内の内旨がくだる。後水尾天皇に別腹の皇子(賀茂宮)と皇女(梅宮)が生まれるなど、幕府を不快にさせる経緯はあったものの、史上はじめて武家の娘が入内した。

ちなみに平清盛の徳子(建礼門院)の場合は後白河法皇の猶子としての入内であるから、先例とはならない。のちに後水尾天皇と幕府の間には紫衣事件や春日局の参内など、穏やかならぬ出来事がつづき、突如として譲位することになる。天皇が皇位を譲ったのは、幕府の神経を逆なでするように女帝(明正天皇)だった。女帝は結婚できないから、徳川家の血は皇統に入ることはなかったのだ。

いっぽう、家光の御台所が鷹司孝子であることは、あまり知られていないかもしれない。というのも、婚儀してまもなく中の丸(吹上)に軟禁されるように移され、生涯を通じて家光と会うことはなかったからだ。鷹司家は藤原氏北家流の五摂家のひとつである。

◆和宮降嫁

皇女和宮(かずのみや)

ここまで見たとおり、公武合体は政権の基盤を盤石にするための政策である。その意味では、本人たちの意志とは無関係に企図され、強引に実行される。それはしばしば悲劇を生むものだ。十四代将軍徳川家茂に嫁いだ和宮親子の場合も、婚約者から引き離される縁談だった。

頼朝の娘・大姫は無理やり後鳥羽天皇のもとに入内させられそうになったが、皇女和宮の場合は熾仁親王と婚約していた。兄の孝明天皇は婚約を理由に和宮の降嫁を断るが、幕府側は執拗だった。京都所司代の酒井忠義を通じて、再三の奏請があった。侍従の岩倉具視が考えた策は、幕府にアメリカとの条約を破棄させ、攘夷を断行させるのを、和宮降嫁の条件とするものだった。ところが和宮が昇殿して、徳川家との縁組をかたく辞退した。

和宮の反応に困った孝明天皇は、以下のとおり宣言する。和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。この乱暴な通告は久我建通の策を容れたものだった。和宮が折れて、攘夷と挙国一致をめざす公武合体が成立した。

降嫁した和宮は家茂と仲睦まじく、家茂が上洛したおりにはお百度を踏むなど愛情をしめしている。幕末の騒乱のなか、和宮は家茂亡きあとも江戸城にとどまり、天璋院とともに和平に奔走したのはつとに知られるところだ。

ちなみに、明治天皇の皇妃は一条美子(昭憲皇太后)だが子はなく、大正天皇は柳原愛子(公家)が母親である。大正天皇の皇妃・九条節子(貞明皇后)も公家の出身であり、昭和天皇の皇妃・香淳皇后は母方が島津家の血筋を継いでいる。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇

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編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故

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◆武士とは何者なのか

奈良王朝の貴族の叛乱をみると、彼らがほとんど独自の兵力を持っていないことがわかる。橘奈良麻呂の乱や恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は、兵を動かす手続きの段階で露見している。あるいは自分の縁故がある国(仲麻呂の場合は八男が国司を務める越前)に拠点を構えようとして討ち取られている。つまり貴族たちは私兵ではなく、公的な兵士である軍団を動員しようとして失敗したのだ。それがよくわかる以下のような称徳帝の詔勅がある。

「王臣の私家の内に兵器を貯ふるは官に進ましめ、關国(関所のある伊勢国・美濃国・越前国)百姓及び餘国の有力人を王臣の資人に充つことを禁じたまふ」(『續日本紀』巻二十六)。

自宅に兵器を貯えたり、関所を設けている国の人々、およびその他の国の有力者を警護役にすることを禁じる。つまり独自の軍事力を持ってはいけないというのだ。律令制は厳格な官僚組織の規程であり、文書による手続きも煩雑だった。それゆえに、兵を動員しようとすると露見してしまうのだ。貴族たちの叛乱が未然に封じられたのは、独自の兵を持たなかったからにほかならない。平安京を遷都した桓武天皇は、兵役をともなう防人の軍団制を廃して健児の制のみとした。律令国家は禁裏と国府の警護いがいの軍事力を廃止したのだ。江戸時代と並んで、平安期は平和な世紀だったといえよう。

しかるに、院政を敷いた上皇たちは北面の武士という、独自の軍事力を持つようになる。当初は叡山など寺社の僧兵たちの強訴を警備するためだったが、やがて朝廷内部の政争・政変に使われるようになる(保元・平治の乱)。桓武天皇の系譜をもつ平氏、そして清和天皇の系譜をもつ源氏、および藤原氏の系譜が各地の国司や郡司、荘園の荘官となり、地元に勢力を貯えていく。これが武士の誕生である。有力な農民が一党をかまえて地侍となり、地頭などの職を得た武士の系譜はこれらとは異なる。

◆武家の勃興と政変

源氏物語

実力をたくわえた武士をあやつり、そしてその武力に翻弄されたのが後白河法皇である。保元の乱で天皇として実権をにぎり、荘園整理などに辣腕を振るうと、在位3年で譲位した。権謀術数に長けた法皇の治世は、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の五代30年にわたった。

源氏と平氏の力で勝ち得た皇位だったが、平氏(清盛)が台頭すると、一転して院政を停止されてしまう。源氏(義仲・義経)が平氏を京から追い落とすと、それに一味して院政を保つ。のちに源頼朝から「天下一の大天狗」と呼ばれたのは、つねに源平の間をゆれ動き、義経に頼朝追討の宣旨を出したかと思えば、頼朝が有利とみると義経追討を命じる。その一貫しない政治態度を評したものだ。ぎゃくに言えば、政治的なセンスに長けていたといえる。頼朝が熱望した征夷大将軍の職を、法王は死ぬまで与えなかった。

◆東西権力の激突

後鳥羽帝

後鳥羽天皇は安徳天皇が平氏とともに都落ちしたので、後白河法皇の詔により即位した。在位15年にして上皇となり、土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の三代23年にわたり院政を敷いた。そしてその院政は一貫して、鎌倉幕府との戦いであった。上皇は『新古今和歌集』(隠岐本)の撰者として名高く、蹴鞠、管弦、囲碁、双六と多芸な、いわば百科全書的な人物だった。そして武芸もその嗜みのひとつで、新たに西面の武士を設けて武芸の習いとした。激しい性格で、盗賊捕縛の第一線に立ったこともあるという。

後鳥羽上皇は当初、三代将軍の源実朝と縁戚になって、幕府との提携を模索していた。後白河院から継承した荘園群について、地頭が徴税を怠るなど思うに任せない領地支配を、鎌倉幕府の力で解決を図ろうとしていたのだ。

しかしこの策は、北条氏をはじめとする有力御家人の抵抗に遭った。そして頼みの実朝が暗殺されると、幕府との提携に陰りがさす。上皇は尼将軍北条政子の求める宮将軍宣下、すなわち鎌倉四代将軍に皇族を就ける上奏を退けた。ぎゃくに上皇は、院に近い御家人の処分の撤廃。あるいはみずからの寵姫・亀菊の所領の地頭を罷免するよう求めるのだった。御家人の賞罰や地頭の任免権は鎌倉幕府の武家統率の根幹であり、ここに朝廷と幕府の対立は決定的となったのである。かくして後鳥羽上皇は倒幕計画を練ることになる。

上皇は幕府呪詛の祈祷を始めるとともに、親幕派の西園寺公経らを捕縛し、京都守護職の伊賀光季を射ち滅ぼした。ついで執権北条義時(政子の弟)追討の院宣が発っせられ、院宣に従うならば褒美は望み次第とされた。承久の変の勃発である。これにたいして、北条政子が東国武士団の前で演説をした。かつて都の平氏に仕え、惨めな思いをしていた過去を思い越した東国武士団は結束し、19万という大軍で上皇軍を破る。後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。天皇の時代から、武士の時代に変わった瞬間である。

◆天皇親政の実現

後嵯峨天皇が後継を明らかにしないまま崩御したことから、後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の系譜から、天皇が交代で即位することになった。これが皇統を分かつ両統迭立である。

ところが第九十四代・後二条天皇と第九十六代・後醍醐天皇の代に、大覚寺統において後二条系と後醍醐系の皇位順序で紛争が起きる。後宇田上皇の「処分状(譲り状)」である。皇位決定者である治天の君になれないことに不満を感じた後醍醐天皇は、卓抜した能力を発揮して有力な人材を集めた。訴訟処理機構の整備や諸税をはじめとする経済政策、関所の廃止などを実施など、朝廷そのものの権益を拡大するものとなった。それはたちまち幕府の規制と衝突した。

両統迭立をふくむ既存の政治システムの破壊が、武力でしか達せないことに思い至った後醍醐は、後宇田上皇の死を待っていたかのように、倒幕計画をめぐらせる。だがこれは事前に漏れてしまう(正中の変)。7年後の元徳3年、天皇の倒幕の意志を知った幕府は、長崎高定らを派遣して討幕派を取り締まる。後醍醐は三種の神器を持って笠置山に逃れた。のちに隠岐に配流となる。

いったん倒幕運動はついえたかにみえたが、嫡男の護良親王が吉野で兵を挙げ、楠木正成が河内で挙兵すると、幕府軍は窮地に立った。幕府の命令で西上していた足利尊氏が後醍醐側に付くと、京都は討幕派が六波羅探題を陥れた。さらに新田義貞が鎌倉を攻めて、ついに鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇の「建武の中興」である。

しかしながら、親政を実現した後醍醐天皇の政権運営は貴族政治への回帰だった。倒幕に参加した武士団が離反し、とくに足利尊氏が鎌倉で反建武政権派となったのは決定的だった。京都を追われた後醍醐は吉野で南朝をひらき、ここに南北朝争乱が始まるのだ。南北朝の騒乱は、室町時代のなかばまで尾を引きずる。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
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◆殺されるヨーロッパの王たち

シーザー

平安後期から始まる院政という政治形態は、世界史的にみても日本にしかない。古代ヨーロッパにおいては、宗教的な価値観から王を殺害する習慣があったとされている。王権が宇宙の秩序をつかさどる存在であるから、その能力を失った王を殺害し、新たな王のもとに秩序を回復しなければならないという思想である。

たとえば歴代ローマ皇帝七十人のうち、暗殺された皇帝が二十三人、暗殺された可能性がある皇帝は八人である。ほかに処刑が三人、戦死が九人、自殺五人。自然死と思われるのは二十人にすぎない。政争と戦争に明け暮れていた皇帝たちの末路は悲惨だ。

やがて中世・近世に至って王権神授の思想が確立すると、王を殺害することはタブーとなったものの、近代の市民革命は旧制度(アンシアンレジーム)の破壊とともに王を処刑している。イギリスでは清教徒革命におけるチャールズ一世の斬首、フランス大革命におけるルイ十六世は断頭台に露と消えた。ロシア革命でもニコライ二世とその家族が処刑されている。

◆院政が誕生した秘密とは

ではなぜ、日本において天皇は殺されなかったのだろうか。いや、第三十二代の崇峻天皇は、蘇我氏およびそれとむすぶ皇族(推古・厩戸皇子ら)によって弑逆されている。蘇我馬子が罰せられていないことから、皇族が了解した宮廷クーデターであったのは確実だ。奈良朝の称徳(孝謙)女帝も、藤原氏の陰謀で殺されたとわたしは考えている。乙巳の変(大化の改新)や壬申の乱も皇族同士の殺し合いである。血なまぐさい古代王権に終止符を打ったのは、藤原氏の摂関支配である。ここにおいて、天皇は実権を奪われたのである。

孝謙女帝

そしてなぜ、日本において院政という独自の政体が敷かれたのだろうか。三つの理由が考えられる。ひとつは摂関家からの政治的な自由の確保である。若くして即位し、摂関家の執政のもとで操り人形を演じさせられ、政治的な経験を積む歳になると譲位させられる。ある日、上皇となった前(さき)の天皇は気がついたのだ。上皇として仙洞御所に君臨すれば、院宣をもって朝廷に政治的影響力が行使できることを――。

もうひとつは、兄の皇位を弟が継ぐ大兄制度からの離脱である。すなわち自分の子への譲位で、皇統を自分に近いものにしたい。そこには動物的な本能を感じさせるものがある。

いまひとつは、天皇と貴族たちのあいだに横たわる、大きな利権についてであろう。それは律令制の根幹である公地公民制と、それを掘り崩す墾田永年私財法、すなわち荘園の存在である。

そもそも荘園は、東大寺の大仏および国分寺・国分尼寺の建立資金を捻出するために、聖武天皇が開墾地を私有してもよいと許可したものだった。その聖武天皇が推進した仏教政策を受け継いだ孝謙女帝は、弓削道鏡や円興・基信ら仏教勢力を登用して、大仏の開眼を実現する。そして天平神護元年(七六五年)に、墾田私有禁止太政官令および勅命を発するのだ。

勅今聞墾田縁天平十五年格自今以後任爲私財無論三世一身咸悉永年莫取由是天下諸人競爲墾田勢力之家駈役百姓貧窮百姓無暇自存自今以後一切禁断勿令加墾但寺先来定地開墾之次不在禁限又富土百姓一二町者亦宜許之(『續日本記』巻第二十六天平神護元年三月五日『日本紀略』にも同文あり)

勅命である。いま聞くに天平一五年の三世一身の法を改めて永年私財法となって以来、人々が競って開墾を行ない、勢力のある家が百姓を開墾に動員している。そのために百姓たちが自分の土地を耕す暇もなく、困窮しているという。今後一切、開墾は禁じます。ただし、寺の先来に定める開墾は許します。富士百姓の十二町は開墾を許します。

おもてむきは庶民が困っているという理由だが、国土を私物化するなという天皇の意志は明白だ。この勅命が道鏡排除の宇佐神宮神託事件に発展し、やがて藤原氏による政権転覆につながっていく。孝謙天皇(称徳帝)の死後、荘園はますます拡大の一途をたどり、平安京遷都とともに摂関政治の全盛期を迎えることになる。

◆荘園をめぐる天皇と藤原氏の争闘

わが世の春を謳歌する藤原氏に、荘園の見直しをふくむ規制で対抗したのは後三条天皇である。この後三条帝は苦労人である。三十四歳で即位するまで、さまざまな屈辱に耐えなければならなかった。藤原道長の子である頼通(よりみち)・教通(のりみち)兄弟に、たび重なる嫌がらせを受けていたのだ。たとえば立太子のさいに、東宮の守り刀である「壺切りの剣」を渡してもらえなかった。大極殿再建用の費用を藤原氏が宇治平等院などの氏寺用に使ってしまったものだから、即位式も太政官庁を使わなければならなかった。

帝位に就いた後三条天皇が最初に着手したのは、荘園整理令であった。藤原氏をはじめとする貴族が「記録が残っていないのでわからない」と抗弁すると、天皇は記録荘園券契所を設けて調査をはじめた。さらには新たに延久宣旨枡を用いて、私升による徴税のごまかしを禁止する。かように天皇執政の熱意に満ちていた後三条天皇だが、譲位後に四十歳の若さで亡くなってしまう。後継した嫡子貞仁親王こそ、本格的な院政を始めた白河天皇である。藤原宗忠は白川天皇を評して「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」つまり白河天皇は専制君主だと語っているのだ。後鳥羽天皇に至り、院政は頂点をきわめる。崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の三代にわたり、息子たちを操る院政を敷いたのである。

爾後、平安末期から鎌倉前期の天皇は上皇となり、仏門に入って法皇として院庁に君臨するが、独自の兵力を北面の武士として蓄えたことから、武士の勃興をまねく。武家の時代における院政は、もはや無力な存在となった。

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◆神話のなかの天皇たち

権力闘争をなくすために、実力よりも血統に皇統の根拠がもとめられたこと。そしてそれは天の命令でなければならないがゆえに、ある壮大なフィクションが創られた。皇統が天から下ったという神話である。じっさいに、初期の天皇たちはその大半が『古事記』『日本書紀』にしか記録がない。

古事記

その神話のなかの天皇たちは、どこまでが真実なのだろうか。神話が過去の伝承をなぞり、伝承のなかの大王たちの事績を仮託したものだとしても、歴史学はどこまで史実に迫っているのだろうか。

わが国最古の公式な史書である『古事記』と『日本書紀』は、天武天皇の命で編纂され、持統天皇の末期に完成した。『古事記』は舎人の稗田阿礼という記憶力のすぐれた人物が口述し、太安万侶がそれを筆記した。『日本書紀』は川島皇子ら12人のプロジェクトチームによるもので、舎人親王が最終的に編纂した。

いずれも乙巳の変で焼失した帝記・旧辞という史料を諳んじる稗田阿礼の口述がもとになっているが、『日本書紀』においては豪族の墓記や個人の覚書、百済の文献なども参考にしている。編纂の目的は天皇による国家統一の偉業を讃えるものだ。皇祖を女性にすることで女帝(持統天皇)の正統性を描き、あるいは藤原氏をリスペクトするなどの編纂意図も随所にうかがえる。

神武天皇137歳

神代の記述はこうだ。皇祖とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天原から日向の高千穂に降り、大山祇神(オオヤマツミ)の娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と結婚して、山幸彦=火遠理命(ホオリノミコト)が生まれた。山幸彦が海神の娘である豊玉姫と結婚して生まれたのが、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズミコト)。その四男が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、すなわち神武天皇である。天照大御神から数えて五代目ということになる。神武以降の天皇たちはおそらく、伝承にいろどられた神話のなかの神々とかさなっている。

じつは『記紀』には明らかに、捏造と思われる記述もあるのだ。たとえば歴代天皇がきわめて高齢である点だ。崇神天皇の168歳をトップに、垂仁天皇153歳、神武天皇137歳、孝安天皇137歳、景行天皇137歳、応神天皇130歳と超高齢なのである。

高齢だからといって、その存在自体が捏造というわけではない。崇神天皇には王朝交代説もあり、事実上の初代天皇という説がある実在の天皇だ。応神天皇も朝鮮半島との外交業績や『宋書倭国伝』にある倭王「讃」に比定されるなど、あきらかに実在の天皇である。

実在を証明するには、考古学的な裏付けが必要となるわけだが、架空の人物ではと思われる欠史八代(二代綏靖天皇以下、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇)の各天皇にも、陵(みささぎ)が治定されている。ところがこの治定(じじょう)は、大半が江戸時代に行なわれたものなのだ。それを宮内庁が追認しているにすぎない。天皇の治世と陵の建築年代が、大きくずれていると、研究者たちから指摘されている。

現在の考古学的な知見で埋葬された天皇と陵が一致するのは、奈良王朝の天智・天武・持統陵など数か所にすぎないとされている。調査が期待されるところだが、宮内庁は学術的信頼度について「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」と、治定見直しを拒絶している(『天皇陵論──聖域か文化財か』外池昇、新人物往来社など)。

雄略天皇

天皇陵が考古学的な裏付けにならないとしたら、われわれはどう考えればよいのだろうか。文献史学および考古学的な成果によるものを挙げておこう。文書と遺物である。

たとえば雄略天皇の場合のように、行田市の船山古墳出土の刀剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」とある遺物は、記紀の「若健命(ワカタケルノミコト)」に符合する。

世界でも最大級の古墳である仁徳陵の被葬者、仁徳天皇はどうだろう。『古事記』にはオオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御し、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』にも、仁徳天皇は87年(399年)正月に崩御し、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。平安時代の『延喜式』には仁徳陵が「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟」の規模だと記述されている。敷地が群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が仁徳陵を指していることは間違いない。陵の大きさから、仁徳天皇の実在性は明らかなのである。これで仁徳帝の存在は、陵と文献から証明されたことになる。

◆ねつ造された理由

前述した欠史八代の各天皇は系譜のみの記載であって、事績が伝わっていないことから不在説がつよい。八代とも兄弟相続ではなく父子相続になっていることも、『記紀』が編纂された天武・持統時代の嫡系相続を反映したものと考えられる。あるいは、辛酉の年に天命が改まる1260年に一度の辛酉革命にちなんで、神武天皇の即位を推古9年(辛酉)から1260年前(西暦紀元前660年)にするために、八代を編年したという説もある(那珂通世「上世年紀考」)。

時代が新しくなれば、実在の可能性が高いというわけではない。王朝交代が指摘される継体天皇の前の25代・武烈天皇の場合は、残忍な逸話ばかり記述されている。恋敵を山に追い詰めて殺し、その一族を館ごと焼き殺す。妊婦の腹を裂いて胎児を見る、生爪を剥がして山芋を掘らせるなど、思いつく限りの残虐さが伝わっている。おそらく王朝交代にさいして、悪行を尽くした皇統が断絶したと解釈する歴史思想の反映であろう。したがって、創作された悪逆の天皇と考えられるのだ。

◎《連載》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか〈01〉天皇の誕生

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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天皇の存在は、わたしたち日本人にとって「喉に刺さった骨」、あるいはその反証として「ホッとさせられる文化の根源」なのかもしれない。「刺さった骨」というときには、政治権力と結びついた支配の要であり、「文化の根源」と考えた際には、御所や神社仏閣といった歴史的建造物、そこにある皇室御物、および叙位叙勲などの伝統的権威によるものであろう。

日本の近代化にとって、国民統合の思想的な要として作用してきた天皇制イデオロギーは、戦争の根拠となったとして批判される。身分制の差別の根源として、廃止せよという意見も少なくない。

いっぽうで、皇室そのものも変化にさらされてきた。天子(神)から人間へ、皇室離脱の自由をもとめる皇族、制度や慣習にとらわれない自由恋愛の希求、そして政治的な発言。皇室のありようはそのまま、天皇制(政治権力との結びつき)を左右すると同時に、われわれ国民にも議論を求めている。そこで、天皇および天皇制とは何なのか、歴史的な視座からわたしなりに解説してみた。横山茂彦(歴史関連の著書・共著に『闇の後醍醐銭』『日本史の新常識』『天皇125代全史』『世にも奇妙な日本史伝説』など)

狩猟採集社会

◆狩猟から農耕へ

大王(おおきみ=天皇)という存在は、なぜ生まれたのだろうか。はるかなる古代に成立した王権、それは偶然ではないはずだ。

狩猟によって日々の糧を得ていたころ、人類は集団で流浪する弱い存在だった。猛獣から身をまもるために石の武器をつくり、獲物を得るために獣の骨で弓や釣り針をつくっていた。おそらく集団のリーダーは、体力と判断力のある人物だったはずだが、まだ彼は王とは呼ばれていなかった。集団には分業がなく、必死に助けあう絆が唯一のものだった。

やがて気候の温暖化により、食糧である鹿や牛が北に移動した。多くの人々は獲物を追ったが、狩猟のために移動するよりも、定住して食糧を得ようとする集団がいた。かれらは野に実っていた麦を畑で栽培し、貝や木の実を採取して村落をつくった。村の誕生である。

稲作農耕社会

栽培で食糧を得た人々は、安定した生活をいとなめるようになった。まもなく食糧の備蓄ができるようになり、人々のあいだに役割の分担が生まれてくる。農耕経験の豊かな村長(むらおさ)が指示を出し、人々はそれに従う。牛などを家畜として飼う役割、農耕具をつくる役割などの分業がはじまった。狩猟のための武器は、もう必要なくなったのだろうか?

かつて狩猟をするために発揮されていた戦闘力はしかし、封印されることはなかった。肥沃な土地や水の利用をめぐって、村と村の争いが起きてしまったのだ。戦争のはじまりである。小さな村が争いと征服によって大きくなり、村々にまたがる権力は、国という単位になった。その国を統率する者こそ、古代の王である。知力と腕力に秀(ひい)で、すぐれた統率力を兼ねそなえた、彼こそ王と呼ぶにふさわしい。やがて国は相争ううちに平和共存の道をえらぶ。やはり自然の猛威から自分たちを守るためには、争うよりも平和共存が必要だった。そから連合国家が模索される。

◆王と天子はどう違うのか?

ここまでわれわれは、国と王の誕生をみてきた。国は集団をひきいる装置に違いないが、王は国という装置にとって入れ替えが可能なものではないだろうか。そう、力があれば取って代わられるのが、王という存在だったのである。それゆえに騒乱はくり返され、魏志に云う「倭国争乱」が起きたのだ。そこで、一計を案じた倭の諸王たちは、連合国家である邪馬台国に卑弥呼という女王を立てた。その結果、女王をいただく連合国家は軌道に乗った。

しかし、この段階では王権の継承は、まだ血統によるものではなかった。卑弥呼の没後に男性の王を立てたところ、ふたたび倭国は争乱に陥ったのである。倭の諸王たちは台与を女王に立てて、内乱の危機を乗りきった。この台与は卑弥呼の宗女である。

卑弥呼には子はなかったから、台与は一族の娘ということになる。倭国の初めての統一政権である邪馬台国において、血族から王が選ばれたのだ。実力よりも血筋が正統とされるには、天の命令が不可欠である。王権を実力支配する王ではなく、天命によって天下を治める天子の原型が出現したのである。天子と天皇は同義である。

じっさいの皇統は、皇太子制度が始まってからだとされている。つまり帝位の継承者が天皇の嫡子や皇族の中から選ばれることで、王権は不可侵のものとなったのだ。その王権を正統化する神話がつくられ、血統による秩序が顕(あら)われる。こうして天皇は、律令制という法制度の頂点に君臨したのだ。天皇の本質は、血統の唯一性である。それは帝位の争奪を防止する叡智であっただろうか、それとも王権を維持する秘密を発見した誰かが、ひそかに考案したものか――。

とはいえ、頂点に君臨する天皇も批判にさらされる。天子の所業は自然現象によって裁断されるのだ。悪政がつづけば、天変地異によって裁かれた。これを天子相関説という。したがって悪政を行なう天子は退けられ、あるいは政争で弑逆されることもある(第三十二代・崇峻天皇)。

wikipedia「崇峻(すしゅん)天皇」項より

とくに古代においては、皇族が臣下にくだらなかったことから、帝位継承はかならずしも嫡系ではないことが多い。前の天皇から、はるかにかけ離れた血筋が皇統に就く場合、これを王朝交代という。第十代・崇神天皇、第十六代・仁徳天皇、第二十六代・継体天皇において、王朝交代があったとされている。文献のうえで皇太子と確認されているのは、第四十五代・聖武天皇である。厳密な意味での皇統の確立はしたがって、奈良王朝で確立されたといえよう。聖武帝即位は724年のことである。

◆朝廷が衰退しても、なくならなかった理由

平安王朝になると、天皇は摂関政治に翻弄される。娘を入内させた藤原氏が外戚となり、幼い天皇をさしおいて権勢をふるう。これに対して天皇は退位後に院政を布いて対抗するようになるが、ときはすでに武家の世になっていた。栄光の古代王朝はすでにはるか彼方のこと、やがて天皇は経済的にもひっ迫してゆく。

にもかかわらず、天皇の権威は地に堕ちることはなかった。位階と職制、そして氏姓制度において、天皇の権威が必要とされたのだ。たとえば戦国時代には、武将たちの受領名(国司・守護職)の裏付けとして、位階・職が朝廷から下賜された。血筋と身分が重んじられた江戸時代には、ますます位階と職は大名の権威を裏付けるものとなった。そして幕末において、天皇の権威は尊王攘夷思想として爆発的に作用し、その勢いが討幕を果たさせる。爾来、天皇の権威は近代国家の軸心となるのだ。象徴天皇制となったいまも、その権威は叙位叙勲としてわれわれの生活に生きている。権威は必要とする者によって、しかるべく存続するのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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