◆黒崎道場への憧れ

勝又厚男(かつまたあつお/1961年3月12日、東京都武蔵野市出身)は、藤原敏男がまだ現役時代の活気ある名門・黒崎道場に入門。凄味ある先輩方に揉まれ、新格闘術バンタム級1位まで上昇。キックボクシング業界低迷期に差し掛かった時代で輝かしいタイトル歴は残せなかったが、藤原敏男、斎藤京二に続く黒崎道場第三の男と将来を有望視された存在だった。

 

まだまだ戦いです。勝又厚男氏も完全燃焼を目指す人生(2024年3月2日)

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビ各局で放送されブームとなったキックボクシングと黒崎道場の存在だった。

勝又厚男は「タイの一流選手のヒザ蹴り、廻し蹴りに芸術的な魅力を感じ、日本の選手でも錦利弘選手のローキック、沢村忠さんの飛びヒザ蹴りと魅せられ、中でも黒崎道場の大沢昇さん、藤原敏男さん達多くの選手は勝負に対する真剣さ、リング上での立ち振る舞い、一挙手一投足に他のジムの選手とは違う“何か”を感じました。」と語る。

1979年(昭和54年)3月、高校卒業も大学受験に失敗し浪人生活に入って1年近く経ったある日、テレビで観たキックボクサーの闘い様に心揺さぶられ、いても立ってもいられなくなって黒崎道場の門を叩いた。

ジムの門(扉)をノックして開けて初対面となったのはテレビで観た齋藤京二選手だった。嬉しさと緊張の中、入門手続きを済ませた翌日にも斎藤京二氏に声を掛けられ、
「キミ、試合出る気あるの?」と問われ、「ハイ、やってみたいです!」応えると、
「ちょっとこっちに来い!」と外の郵便受けを開けて、
「鍵はここにあるから明日から好きな時に来て好きなだけ練習やって帰る時に鍵を元の位置に戻しておくように。来月から月謝は要らない!」と言われてキョトンとしてしまったという。浪人として金欠だったので有難い待遇だった。

翌日から毎日練習に通い、半年先に入門して熱心に練習に励んでいた杉山という先輩とよく時間を合わせての練習だった。

当時の黒崎道場は一人練習もあったが、誰か試合が決まると厳しい先輩方との練習が多かった。

◆辛い戦い

入門して半年ほどの1980年9月28日にデビュー戦を迎え、花澤道場の選手に判定勝利。メインイベントは藤原敏男先輩の新格闘術世界ライト級タイトルマッチ。その前座に出場することが嬉しかったという。

ファイトマネーはマネージャーから3000円チケットを10枚渡され、売れた分の半額だったが、高校時代の仲の良かった友人に1枚タダであげたのみで残りの9枚は売ることなく手元に残ったままだった。

試合の数日後、一人で練習していると藤原敏男先輩が現われ、「オイ、半額をジムにバックしたか?」と聞かれ、正直に1枚友人にあげただけのことを話すと、「しょうがねえなあ!」と自分の財布から千円札を数枚「ホレッ!」と渡された。

ジムへのバックは免除。初のファイトマネーは3.000円だったが、金額よりも憧れの藤原先輩から貰ったことが嬉しくて、封筒に入れて大事にしまっておいたが、結局使ってしまったという。

黒崎健時先生とはデビュー以降に度々事務所に呼び出されるようになっていた。1年半くらいは氣構え心構えを聞かされたという。
「勝又、キックボクシングは難しいか?」
「押忍、難しいです!」
黒崎先生は怖い顔でニヤッと……「難しくなんかないんだ。試合でもそうだけどね。練習でも一旦始めたら真面目だなんていう範疇じゃないんだ。傍で見ていてコイツは気が狂っているんじゃないかと。こんな選手とは二度とやりたくない。今度やったら殺されてしまうんじゃないかと思わせないと駄目なんだ。狂気を持つ、狂ってしまえ!ってことなんだよ。何かを真剣にやるっていうことは!」

確かに大沢昇先輩をはじめ、黒崎道場の選手の試合に漂う“何か”はこんなところにあったんだと実感したという。

入門当時に一緒に練習していた杉山先輩はデビューから6戦ぐらいまで連勝街道を走っていた選手で、ミット打ち、マススパーリングとよく教えてくれたとても面倒見の良い先輩だったが、暫くして日本系の目黒ジムに移籍してしまい、何と杉山先輩との対戦が組まれてしまった。

「最近まで一緒に練習や指導してくれた杉山先輩。その試合は辛いものがありました。ジムの看板に懸けて負ける訳にはいかないと強く感じつつ、相手を睨み付けることなど出来ず、目倉めっぽうに思いっ切り拳を振り回し判定勝ち出来たものの、いろいろと教えて貰った人間と殴り合うことの辛さ。同じ階級の選手とは絶対に仲良くならないとこの時、胸に固く誓いました。」と語る。

◆育ての神様

デビューから3年目の1982年に入ると黒崎健時先生からはトレーニング法、技についてアドバイスを頂く。

腕立て伏せ二千回、スクワットは20分で千二百回、三点倒立二時間とか、スクワットは先輩方は一万回やっていたと聞いたので自身もやったというかなりのキツさ。

そのキツさを乗り越え、亜細亜プロ拳法フライ級チャンピオンの紅闘志也(士道館)との対戦が決まった。“紅闘志也”とは梶原一騎氏作の劇画主人公の名前だが、このリングネームの使用許可を求めて現在まで三人ぐらい居たという。

当時の紅闘志也は士道館が売り込んでいた存在感があったが、勝又厚男は第4ラウンドにパンチで初のノックアウト勝利を収めた。試合2週間前に同門の柳田光廣先輩が「必ずKOで勝たせてやる!」と後押し。柳田氏は妻子を親戚に預け、柳田先輩宅に寝泊り合宿で、パンチの打ち方を本格的に教えてくれた恩人でもあった。しかし、試合が終わって数日後、ジムに入った電話に「柳田先輩が交通事故で亡くなった!」と連絡が入った。

ショックでそのままロードワークへ、止まらない涙と共に夜の河原をどこまでも走り抜けたという。

「リングに上がったら自分のコーナーポストで、ブッ殺してやる!ブッ殺してやる!ブッ殺してやる!と3回念じろ!」と叩き込んでくれたのは柳田先輩だった。

紅闘志也に勝って新格闘術バンタム級の王座挑戦は近くなったが、定期興行は安定しない時代でタイトルマッチは実現しないままだった。

紅闘志也戦、黒崎健時代表、梶原一騎氏の顔も見える。レフェリーはウクリットさん(1982年)

同年9月12日には初のタイ遠征を前に、丹代進(早川/後の日本バンタム級Champ)と引分け。蹴りもパンチもタイミングをずらされ、ベテランのしぶとい蹴りに苦戦した。

タイ遠征前の1ケ月は黒崎先生の御自宅で合宿しリビング、外の公園で練習に励み、「小便チビるまで帰って来るな!」と言われ激しく練習してもチビるには至らなかった。

「簡単じゃないことを黒崎先生はよく解っていた。やはり黒崎先生のアドバイスが心に火をつけた千差万別の指導、選手育成の神様だったと思います。感謝の氣持ちが湧いて来ます。」と懐かしく語る。

小俣洋戦、セコンドは斎藤京二氏(1983年6月17日)

小俣洋に左ストレートヒット、レフェリーは島三雄さん(1983年6月17日)

1983年6月17日、藤原敏男引退興行では藤原氏を盛大に送る好カード勢揃いの第1試合で小俣洋(士道館)と対戦。パンチで圧しての判定勝利も、これが国内では最後の試合だった。2ヶ月後にはタイでの試合でシャヤプーンという選手に判定負けでこれが事実上ラストファイトとなった。勝又厚男も小俣洋も大学生で就職活動に入った時期であった。

戦績17戦12勝(3KO)3敗2分

◆人生のラストファイトへ

引退後、東洋大学を卒業し、大手通信会社で営業、設計なども携わったが、就職後は目的ある人生ではなかったという。

1997年に13年ぶりに黒崎健時先生と再会。戸田市の格闘技スクールに汗を流しに行き、藤原敏男氏とも再会。若手と一緒に汗を流す中、フッと目に留まったのは、13年前に使っていた自分の赤いネーム入りのメキシコ製16オンスグローブとヘッドギアがピカピカに磨かれて棚に置かれていたという。

「眺めていると思わず頬擦りするほど、13年も俺の使っていたグローブを道場に置いてくれていたのかと胸にジーンと来る熱いものがありました。」と語る。

その日、黒崎健時先生の書斎の書物を読み、日本はすっかりアメリカンナイズされ、経済以外、特に精神が衰退したことに黒崎先生は危惧されていたことも有って本を読み漁り、諸々のセミナーを受けたりと勉強する中、自身でもセミナー講師を目指し、1年半ほどかけて実現に至った。

その後も講師業を続ける中、2019年には年老いた父母とも入院してしまい、1年7ヶ月の看病、介護も及ばず両親とも他界。

ここから更に予期せぬ不運が起こった。母の告別式から1週間後、2021年8月7日、今度は勝又厚男氏自身が脳梗塞に罹り入院となった。

理学療法士から「車椅子生活を考えてくれ!」と言われても、左半身が麻痺してしまっても、一度たりとも精神が落ち込むことはなかったという。

講演会で自身の脳梗塞からの復活を語る勝又厚男氏(2024年3月2日)

リハビリテーションの一環、椅子を使ったトレーニングを再現(2024年3月2日)

「ここで寝たきりなんかに、ましてや死ぬ訳にはいかないと心の奥底から込み上げて来ました。回復して社会の役に立ちたい。国の為に命を燃やし尽くしたいと強く願いました。」と語る。

5ヶ月後に退院した現在までの2年半、当初の車椅子生活を考えるところから座れるようになり、立てるようになり、歩けるようになり、生活独立も出来て社会復帰。そして今回の脳梗塞から回復までの自身の体験談の講演や、多くの研修活動に力を注いでいる。

講演は日本の食物の危機、戦後の日本の在り方など、今後の日本が進む道などテーマは多い。この勝又厚男氏の講演模様はまた掲載したいと思います。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

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◆NJKFの新エース、嵐とは

嵐(坂本嵐/2005年4月26日、東京都出身)は、今年2月11日にNJKFバンタム級王座決定戦で、甲斐元太郎(理心塾)を第2ラウンドにヒザ蹴りをボディーに炸裂させ倒し切るTKO勝利で王座獲得。興行MVPでNJKF(ニュージャパンキックボクシング連盟)のエース格へ頭角を現した。

チャンピオンとなって最高のチームと並ぶ(2024.2.11)

その評価で4月7日は初のメインイベンターとなったが、前日計量記者会見で語ったのは「そのうち全てのチャンピオンを倒していく。その最初の相手は桂英慈選手になる!」と宣言したが、その桂英慈に主導権を奪えない苦戦の引分け。早速壁にぶち当たった感のある中で、11月のNJKF祭り(総決算)に向けて、今年のエース格は担い続けなければならない。

桂英慈に苦戦の引分け、再戦があれば雪辱したい相手(2024.4.7)

3年前だが16歳の嵐。2戦目、悠戦(2021.6.27)

絆興行での5戦目、玉城海優に2ラウンドKO勝利(2022.4.24)

9戦目、倒れた相手に挑発、KAZUNORIに判定勝利(2023.6.4)

◆凶暴性ある心優しい子

嵐が5歳の時に入門したキングジムでは7人目のチャンピオン誕生となった中、3月17日に江戸川区のタワーホール船堀で嵐のNJKF王座獲得祝賀会が行われました。

嵐は御挨拶で「2月11日にはNJKFバンタム級チャンピオンと成っても全然こんなところで満足していないし、俺はNJKFをトップ団体に連れて行って、必ず最終目標である世界制覇を成し遂げ、キングジムという最高のチームと自分を応援してくれる最高の応援団に必ず日本のトップの景色を見せようと思っているので、御支援応援宜しくお願い致します。」と力強い宣言。

更にステージ上ではお母様に「生まれてから18年、非行に走ったり、格闘技をやりたいと言い出した時に、真剣に向き合って話し合って、見捨てることなくここまで育ててくれて有難う。」と感謝の言葉を述べた。

嵐のお母様は「チャンピオンベルト獲った時もそうなんですけど、想像も出来ないことやってくれるので、いつも胸が熱い想いをさせられています。とても心優しい子なんですけど、キックボクシングをやると決めて、今迄ずっと頑張って来てくれたので、これからも応援宜しくお願い致します。」と息子への想いを語った。

昨年11月12日のNJKF興行のセレモニーでは、今年2月11日興行の東西対決で対戦する甲斐元太郎(理心塾)と対峙し乱闘寸前の罵り合いを起こした。その東西対決の前日計量では「あいつを殺します!」と物騒なアピールをして一人先に退席する悪役っぷりを発揮。しかし試合はクリーンファイトで技量を見せ付け、「チャンピオンは俺を産んだ母!」と母の腰にチャンピオンベルトを巻いた親孝行ぶりを見せたのは、すでに試合レポートで述べたとおりである。

ここまで13戦11勝(5KO)2分……(不戦敗は加えません)

嵐と甲斐元太郎の舌戦(2023.11.12)

 

甲斐元太郎の心臓にヒザ蹴り炸裂(2024.2.11)

◆カオマンガイ嵐としてデビュー?

現・キングジム、羅紗陀会長が語る嵐について、ジムに入った5歳の頃、当時はまだ現役で、コーチでもあった羅紗陀氏に後方からカンチョーしたり、股間を殴って来たりの腕白坊主。でもキックボクシングの才能はピカイチで、同時に学校の成績も良かったが、キックボクシングに専念したいということで勉強しなくなった様子も、何をやるにも意志の強い子だったという。

NJKFで始まったアマチュア大会「EXPLOSION」で嵐は2015年の第一回から出場。大会実行委員長の米田貴志氏は、「この頃からすでに嵐選手は強くて上手いと思っていました。」と語る。

しかしアマチュア時代はトントン拍子で来た訳ではなく、小学校高学年になると、アマチュアのタイトルマッチで連敗喫して、次のタイトルマッチで負けたら辞めるという中、最後の最後でアマチュアのベルト獲った時には、嵐本人やお母さん、周囲の仲間らが皆泣いたという感動も懐かしいという羅紗陀会長。

(2018年2月4日、EXPLOSION第5代37kg級王座。2019年12月15日、第8代50㎏級王座獲得)

そしてプロに上がって試合を重ねていく毎に、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、それを融合したハイブリットな嵐に成長していった。

王座獲得祝賀会で貼られた4月7日興行ポスター、18歳がメインイベンター(2024.3.17)

プロデビューは2021年(令和3年)3月7日、3回戦で判定勝ち。リングネームは名前だけの“嵐”。

向山鉄也名誉会長(前会長)は、「嵐がデビューする前に、リングネームをどうするか、どうしたら名前が売れるかなと、『嵐、お前タイ料理で何が好きだ?』と聞いたら、『カオマンガイ』と言うから「カオマンガイ嵐」にしようと決めてエントリーしたのに、試合当日のプログラム見ると名前が替わっていて、この会長差し置いて連盟に直訴して“嵐”に替えていた」という。

キングジムは向山会長の趣味で、歴代からヘンなリングネームを付けられる慣習があった為、これを回避しようと先回りしたなら、嵐は試合のような相手の作戦を読んで先手を打つ才能を持ったキックボクサーであろう。

◆今後のストーリー

向山鉄也氏は続けて、

「嵐はこれからが本当の勝負で、世界平和? いや、世界制覇か、この最高峰を目指しているということで今、軽量級で世界一になっている奴、それが吉成名高(ムエタイ二大殿堂同時制覇、二階級制覇)。それがめっぽう強い奴なので、これに勝てば嵐の夢も達成出来ると思います。今はまだ早いんですけど、2~3年もすれば名高もバンタム級に上がって来るだろうと思うので、そこで名高との試合を観たいなと思いますね。そこで嵐が勝てば一番ですけど、そこまで行くのにこれから一日一日、本当に血の出るような努力が必要。まあこれから嵐は今からどんどん新たなストーリーが始まっていくので、皆さんもこいつの生き様を最後まで見届けてやって、後楽園ホールに応援に来て頂ければと思います。」

と実現可能ながらも険しい日々となるストーリーを語っていた。

キングジム前会長の向山鉄也氏とツーショット、孫の世代の歳の差(2024.3.17)

先日4月7日の桂英慈戦は格下相手かと思われる中、首相撲が強く、相手の持ち味を殺してしまう上手さがある選手だった。嵐はテクニックや圧倒的な攻撃力があるが、スタミナ的な不安が指摘された。今後はタイトルマッチを含め、ノンタイトル戦でも5回戦が増えて来る可能性も大いにあり、スター性も充分あるので我武者羅に練習して今後に繋げて貰いたいものです。

格闘群雄伝で現役選手を扱うのはプロアマ含め、嵐で二人目でした。現役選手という存在は今後の運命が全く分かりませんが、嵐はここから大きく飛躍すると見据えての御登場でした。

世界制覇にもいろいろな道程がある中、向山鉄也氏が期待する吉成名高戦の実現まで“チャンピオンの終わりなきトーナメント”を現役最後まで見届けたいものです。

祝会で披露したミット蹴りでコーチを圧倒(2024.3.17)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年5月号

◆導かれた野口ジム

ブルース京田(本名=京田裕之/1960年6月30日、富山県富山市出身)は、プロボクシング日本スーパーフェザー級4位まで上昇。チャンピオンには届かなかったが、勝った試合はすべてノックアウトで、逆転も多いアグレッシブな展開で人気を得た。

 

現役時代のプログラムに載ったブルース京田のクローズアップ

リングネームはブルース・リーが好きだったことの影響が大きいが、観客から「お前、アレクシス・アルゲリョに似てるな!」と言われたことから「アレクシス京田」も考えたという。

「とにかく目立つ名前にしたかった。ブルースでいいかな!」と思い付いたネーミングだった(4回戦時代は本名)。

昭和の殺伐とした時代で口数少ない選手が多い中、ユニークな感性を持っていたブルース京田。小学校3年生の頃からプロレスを観てアントニオ猪木のファンになり、その頃のプロボクシングでは西城正三、大場政夫、ガッツ石松、輪島功一らの世界戦に感動したことや、キックボクシングでは富山県で沢村忠の試合も観戦し、控室まで忍び込んでも、快くサインをしてくれた感動から、将来はいずれかの競技を目指していた。

しかし、「プロレスはヘビー級中心だし、目指すなら小さい身体でも出来る階級制があって世界的に競技人口多いプロボクシングの世界チャンピオン」と決めた。

高校時代、富山ではボクシングジムは存在したが、野口ジムの元・プロボクサーだった地元の先輩に野口ジムを勧められていた為、高校卒業後、上京してジム入門する計画だった。その為、一年生から続けていた陸上競技で基礎体力を付け、1979年(昭和54年)3月、卒業するとすぐに上京、野口ジムに入門。

高校時代は具志堅用高が一世を風靡していた時代。その協栄ジムに行きたかったが、先輩に対し、そんな我儘は言えなかった。入門後、練習中の肩の大怪我で長期療養し、プロテストは少々遅れることとなったが、1982年(昭和57年)春、C級を難なく取得。スパーリング審査では右クロスカウンター一発、相手を1分ほどで倒してしまった。観ていた輪島功一氏には「お前凄いなあ!」と褒められたことが嬉しく、強烈に記憶に残っているという。

◆勝利への魔力

デビュー戦は同年7月6日、平野直昭(本多)に第1ラウンドにフラッシュ気味ながらノックダウン喫し、第3ラウンドで逆転ノックアウト勝利。スリルある展開はデビュー戦から見せていた。

東日本新人王スーパーバンタム級予選トーナメントは1983年9月2日、島袋朝実(帝拳)に3ラウンドノックアウトで敗れ予選落ち。当時、野口ジムでは萩野谷さんというトレーナーが居たが、重病を患い入院してしまい、萩野谷氏が不在となると練習生は誰も来なくなってしまった。

その後、退院した萩野谷氏が三鷹市にある楠ジムを任される立場になって移籍した為、ブルース京田も楠ジムに移籍することになった(後の楠三好ジム)。

新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は島袋朝実に敗退(1983.9.2)

島袋朝実にKO負けの直後(1983.9.2)

移籍第1戦目は1984年8月2日、2度目の挑戦となった東日本新人王スーパーバンタム級トーナメント予選は、ランボー平良(京浜川崎)に第2ラウンドと第3ラウンドにノックダウン奪われた絶体絶命のピンチのインターバル中に野口ジム時代の先輩、龍反町さんがやって来て、「京田~!お前ふざけんじゃねえぞ、コラー!」とドスの利いたでっかい声で恫喝されたのが効いたか、第4ラウンドに逆転ノックアウト勝利。

楠ジムへ移籍第一戦目はランボー平良にKO勝ち(1984.8.2)

これで準決勝に進んで黒沢道生(鹿島灘)に敗れたが、ここまで7戦5勝(5KO)2敗。次戦は初6回戦だったが、スーパーバンタム級では減量がキツく、二階級上げてスーパーフェザー級でのB級6回戦スタートとなった。二階級上げるのはなかなか居ないが、フェザー級でもフラフラで、それだけキツかったという。

同年9月24日、初の8回戦でウルフ佐藤(日立/後のチャンピオン)と引分け。それまで4ラウンドを越えたことは無かったが、全然噛み合わない凡戦ながら初めて8ラウンド終了まで戦う貴重な経験をした。

同年12月5日、強打者・飯泉健二(草加有沢)に打ち合いで敗れた後、1986年7月14日は、これも強打者で、勝つも負けるもノックアウト決着の砲丸野口(川田)だった。この試合が決まる前、高校時代の友人だったテレビディレクターが企画した「今風ボクサーは目立ち屋さん」というテーマで、TBSのテレポート6での特集が組まれたが、いざ試合となった第1ラウンドに、二度ノックダウン奪われ、「テレビ企画どうなるんだろう?」とそちらに不安が向いてしまう試合だったという。

やがて砲丸野口が失速、第5ラウンドに逆転ノックダウン奪い、第6ラウンドに連打でノックアウト勝利して後日、友人プロデューサーから「番組の評判良くて電話が何本も入ってたよ!」と喜ばれたというこの勝利でランキング入りとなった。

更に1986年12月9日、前年度西日本ライト級新人王の久保田陽介(尼崎)も第6ラウンドで倒したが、1987年3月23日、元・日本スーパーフェザー級チャンピオンの安里佳満(ジャパンスポーツ)に第3ラウンド、ノーカウントのレフェリーストップ負け。安里は元・協栄ジムで名が売れた選手。メッチャ強く上手かったという。

安里佳満にノーカウントのレフェリーストップ負け(1987.3.23)

 

最後の勝利となった佐久間孝夫戦(1987.8.25)

◆ノックアウト必至の陰り

1987年、ランキング4位まで上がるも、同年10月22日、後に日本スーパーフェザー級チャンピオンとなる赤城武幸(新日本木村)に第5ラウンドのノックアウト負け。

ここから引退まで6連敗を喫してしまう。強打者とのハードな試合が続いたのは、マッチメイカーが持って来る依頼を断ったりすると試合が組まれなくなるから、三好渥好会長が全て受けてしまっていたようだ。

もう自分が描く動きが出来なくなっていた中のラストファイトは、1989年(平成元年)10月16日、高橋剛(協栄)に第1ラウンドのノックアウト負け。これで正式に引退を決意した。生涯戦績:20戦9勝(9KO)10敗1分。

「チャンピオンに届かなかったら1位も10位も全部負け組!」と語っていたブルース京田。引退後も汗を流すことが信条で、そんな青春の忘れ物を取り戻すかのように練習を続け、楠三好ジムと古巣の野口ジムには頻繁に足を運んでいた。

◆トレーナーとして開花

ブルース京田はデビュー前からキックボクサーと交流は深かった。その縁は、まだデビュー前の1981年7月当時、権之助坂にあったキックボクシングの目黒ジムが立ち退きになる危機があった。そこから路地を下った目黒雅叙園側にある野口ジムと合併になり、キックボクサーとの合同練習の毎日となった。当時は現役バリバリの伊原信一氏にはアドバイスを受けたり、食事に連れて行って貰ったりとお世話になったという。キックボクシングを勧められたのも言うまでもない。

引退間近、我孫子稔戦(1989.5.8)

野口ジムの他の練習生らはキックボクシングに興味は無かった様子だが、ブルース京田は元からプロレスファンだったり、小学生の頃、沢村忠さんに優しく接して貰った感動からキックボクシングに理解も深かった。後にはチャンピオンと成る鴇稔之や飛鳥信也らとは頻繁に食事に行ったり、キックボクシングの技を教わって練習したりと、彼らとの交流は長く続いていた。

そんな引退後の日々、目黒ジム野口和子代表から「力ちゃん(小野寺)を視てやって!」と指示を受け、パンチの指導が始まったことは新たな展開となった。他の選手も視ているうちトレーナーとして存在感が強まると、自分の練習時間は無くなり、指導一本の時間が増えていった。

選手らは皆礼儀正しく練習熱心だが、当時の新人の北沢勝は自ら「御指導お願いします!」と名乗り出て来て、教えたことをしっかり復唱して繰り返し、また疑問を問いかけて来る。この熱心さには、チャンピオンを獲らせてやりたくなる存在だったというブルース京田。実際に北沢勝が2002年1月に日本ウェルター級チャンピオンと成った時は自分のことのように嬉しかったという。

そうして選手を育てる達成感も積み重なってくると、声が掛かるのは目黒ジムだけではない、他のジムからも引っ張りダコ。トレーナーとして忙しくなる日々へ、ブルース京田の第二の人生は大きく移り変わっていくのであった。

トレーナーとして小野寺力を指導、目黒ジムで多くのキックボクサーを指導した(1995.12.2)

※写真はブルース京田氏提供

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年2月号

2017年3月5日掲載の、「埋もれた勇者 ── 足立秀夫という男」というタイトルで掲載していますが、格闘群雄伝版でもう少し踏み込んだ展開にしてみました。

短い期間だった渡邉ジムでの練習風景、上り調子の頃(1981.12.21)

◆自衛隊から突如転身

足立秀夫(あだちひでお/1957年5月21日、静岡県袋井市出身)は1979年(昭和54年)4月、名門・目黒ジムからライト級でデビューし6連勝。後に移籍後もチャンピオンには届かなかったが、強い蹴りと強面の荒々しい試合で存在感が増して行ったキックボクサーだった。

子供の頃から走ることが得意だった足立秀夫はマラソンでは常に一番になり、高校卒業後は船に興味があったことや基礎体力に自信があったことで海上自衛隊に入隊。そこでたまたまキックボクシングをやっていた隊員に誘われ目黒ジムを見学すると、キックボクシングの凄さを実感。本能的にいきなり自衛隊を辞め、その目黒ジムに入門した。

子供の頃からの走り込みや自衛隊で鍛え上げられたパワーとスタミナで勝ち進んだデビュー1年後に、小泉猛(現・ジャパンキックボクシング協会代表/市原)と引分ける試合があった。

「このままではこの先勝てなくなる。技術を磨かねば」と一層そんな欲求に苛まれ、1981年春に単身、タイ修行に臨んだ。

それまでの目黒ジムでは、野口ボクシングジムとの交流も多かった縁でパンチの戦法が活かされたが、このタイ遠征した際に出会った元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏の存在が大きく運命を変えた。

「タイ選手もビビるほどの強い蹴りを持てばタイのトップクラスでも通用する!」と言われた蹴り主体の戦法に変わり、帰国後は西川ジムに移籍し、磨きをかけた左ミドルキックは驚異的となった。

バンモット戦の試合直前、西川会長と出番を待つ(1982.1.4)

◆不憫な環境でも充実練習

足立秀夫が練習の場としていたのは西川ジムが間借りしていた、新小岩にあった渡邊ジムだった。この渡邊ジムとの縁は4ヶ月程だった様子。この年10月に発足した日本プロキックボクシング連盟が半年足らずで分裂が起きていることから大凡の事情は把握出来たものだった。

暫くは京成小岩駅近くにあった西川純会長宅前の路地を使って練習を続けていた。敷地内の二階建て木造アパートが合宿所となって、足立秀夫の他、数名の選手はこのアパートに住んでいた。流し台のある六畳一間でトイレ・洗濯場共同の風呂無しアパート。家賃五千円らしい。このアパートでは廊下でも会話が多い和気藹々とした雰囲気。当時の学生身分から見れば、充分住み易いアパートだった。

路地での練習は夕方の限られた時間しか集まれない為、選手が増え、賑やかになり過ぎた頃、近隣からの苦情で撤退を余儀なくされてしまった。すると夜の市場を借りたり、アパートの部屋の壁を撤去して二部屋分をジムにしてしまう工夫も見られたが、1982年12月半ばには国鉄小岩駅から200メートル程歩いたところの雑居ビルでジム開設に至った。港建設に支援され、暫く「港西川ジム」と改名されたのもこの縁である。開設披露日に業界関係者が祝福に訪れ、足立秀夫が藤原敏男氏とスパーリングを行なえたのも貴重な体験だったという。

バンモット戦の朝、計量前にフラッと散歩(1982.1.4 朝7時頃)

◆全盛期

足立秀夫は西川ジムに移籍後の1981年9月末、山梨県甲府市で日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)に挑戦したが判定負け。この時すでに日本キックボクシング協会(旧・TBS系)は内部分裂していた様子が窺え、クーデターと言われた革命の日本プロキックボクシング連盟発足に繋がっていった。

同年10月25日、その設立興行で足立秀夫は過去一度勝っている長浜勇(市原)に判定勝利。

長浜勇戦第2戦はパンチには苦戦も主導権奪って判定勝利(1981.10.25)

翌1982年1月4日にはタイの元ランカーで来日4戦4勝の、バンモット・ルークバンコー(タイ)にKO負けしたが、序盤はアグレッシブに攻め、日本人が対戦した中で最もいい試合したと評価を得た試合でもあった。

この年11月には画期的な1000万円争奪オープントーナメントが始まり、翌1983年2月5日には藤原敏男(黒崎)と62kg級準決勝戦を行ない、第3ラウンド、右ストレートで倒されたが、ジム開設パーティーで藤原敏男とのスパーリングで得た手応えから気力充実で全力で挑んだ試合だった。これが藤原敏男氏の現役最後の試合となったことも後々映像で振り返る機会多い試合となった。

藤原敏男戦は最も緊張し、気力も充実した試合だった(1983.2.5)

気合いが入るというのは強さ倍増する自信となった足立秀夫。藤原敏男と戦った乗りに乗ったモチベーションは10日後の香港遠征で、タイから選抜されて来た選手に蹴りでKO勝ちしたという結果はより一層自信に繋がったという。

同年5月28日には日本プロキック・ライト級王座決定戦を須田康徳と争い、右アッパー喰らって3ラウンド終了時TKO負けで雪辱成らずとなったが、翌6月17日、内藤武(士道館)に逆転の判定勝利。連戦の大物との激闘に疲れが見えていたのも事実だったが、この頃までが一番輝いていた時期だった。

ヘビー級の斎藤三郎とエキシビジョンマッチ、意外と人気で盛り上げた(1983.9.18)

◆下降の原因

翌1984年1月5日、過去2勝している長浜勇に2ラウンドKO負け。同年5月26日にはサバイバルマッチと言われた内藤武戦で借りを返される判定負け。同年10月13日にはバンモット・ルークバンコーとの二度目の対戦もアゴにハイキック喰らってKO負け。

上り調子だった長浜勇に倒された第三戦(1984.1.5)

11月30日には統合団体、日本キックボクシング連盟設立興行で新鋭・飛鳥信也(目黒)に序盤先手を打つペースを握りながら巻き返され逆転KO負け。減量失敗でフラフラの状態で現れた朝の計量時、「駄目だ、落ちなかった。グローブハンデでも何を課されても仕方無い!」こんな弱気な、か細い声の足立秀夫は初めてだった。

サバイバルマッチと言われた内藤武戦。返り討ち成らず(1984.5.26)

それまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活。しかし次第に巻き返された昭和59年という現役6年目、この先のメジャーに向かう華々しい新・連盟イベントを最後に引退を決意。太く短く戦った現役生活だった。

引退前だが、気合い充分、雪辱に燃えたバンモット戦(1984.10.13)

ラストファイトとなった飛鳥信也戦、力尽きた戦い(1984.11.30)

「強い奴とやり過ぎたんだ!」とは一緒に練習していたジム仲間の言葉。タイの強豪と戦い、敵わなかったことが「本人も周りも気付かないうちに自信を無くしていったんだろう。」という周囲の声だった。選手を育てるには「勝ち癖を着けることが大事」と言われる。下位には勝てるが上位には勝てないその壁を上手く乗り越えていくことが大事で、強い相手ばかりを続けて当てると敵わないことで伸び悩んでしまうと言われる。しかし、閑散とした日本のリングとキックブームの香港、戦う場が限られていては止むを得なかったかもしれない。

引退後は故郷、静岡の同級生と結婚し、後に地元に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立秀夫氏。焼肉店の隣に東大門ジムを開設し、2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で出場選手を連れて現れた。現役時代に無かった笑顔を振り撒き穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ!」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ!」と笑う足立秀夫氏。三人のお子さん(男の子)はいずれも立派に成人。

地方では練習生が少ないが、現在は焼き肉屋を若い者に譲渡し、ジムに顔を出す時間を増やし、そして現役時代のように自らも走り込む時間を送って鍛えることを楽しんでいるという。

現役時代、チャンピオンには届かなかったが、現在のような多乱立王座だったら、何らかのチャンピオンには成っていただろう。しかし、「須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン」と信じた現役生活に悔いは無く、「須田康徳さんとも藤原敏男さんとも戦えたのは幸せな現役生活だったよ!」と語っていた。

足立秀夫の現役時、1983年6月に西川ジムに入門した赤土公彦氏は「ジム見学に行った時に前髪が長い独特なスポーツ刈りをしていた足立さんが居て、試合前で気合いが入っていて、体型、風貌も含めてミットやサンドバッグを蹴っている姿がカッコイイと一目惚れで入会したのを覚えています。現在のようなYouTubeや過去の試合映像も無かった時代で、身近に良い見本になる先輩が居たのは自分にとって今も受け継いでいる財産です!」という一発入門を決めたのが足立秀夫の強い蹴りだった様子だった。

私(堀田)が出会ったばかりの頃、試合1週間前に「俺、減量したら凄く顔変わるからビックリしないで!」と言っていた足立秀夫氏。実際の試合当日の朝、他の選手より眼がくぼんで頬がこけた足立秀夫氏の顔があった。毎度の試合の度にこんな苦労しているのかと目の当たりにした減量の厳しさを感じたものだった。

現役の頃に私がお渡しした試合写真は今も大切に持っているという足立秀夫氏。あんなボケボケブレブレの撮影で申し訳なかったが、「それでも俺らにとっては貴重な写真だよ!」と言ってくれたことが嬉しいものである。

「西川純会長は自分を育ててくれた恩人で、また東京へ会いに行くんだ!」という足立秀夫氏。また東京で私とも会えたら、今度はデジタルカメラで高画質の撮影をしてあげたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

◆奇跡の運命

人には皆、奇跡がある。いろいろな人との出会いがあって、その縁がまた先に繋がっていく。そんな導かれた縁の繋がりで、その時代の皆さんの御陰で私は勝ち上がることが出来たのです。これは正に奇跡的な運命なのです(富山勝治談)。

アメリカの帰り、寄り道したハワイで撮った沢村忠さんとのツーショット

試合後の放送席でも竹を割ったような性格で多くを語っていた元・東洋ウェルター級チャンピオンの富山勝治さん。問われればしっかり応える姿は、こんな私ども素人相手の質問にもその姿勢は変わらなかった。

富山勝治大飛躍となった1972年(昭和47年)2月19日の花形満戦。そこから全国区の富山となってからの数々の試練。その都度立ち上がってきた不撓不屈の精神。かつて寺内大吉さんが語られた「人間性の勝利」があった。

富山勝治は子供の頃から気性が激しく、よく喧嘩沙汰になったというのは、腕白少年ならよくある話だが、進路についてはお袋さんが心配していて、「勉強しなくていいから学校だけは行きなさい!」と言われていたという。

そんな中学生時代に先輩の内田新一郎さんに気に入って頂き、「ウチの空手部に来い!」と誘われたことから1967年(昭和42年)4月、延岡商業高校へ入学した。内田新一郎氏はこの空手部主将、背は小さい人だがもの凄く喧嘩が強く、学校一の悪と言われるほどだったが、「この人の御陰で今があるんですよ!」と言うほど人生を変えた最初の転機だった。

空手部の顧問は甲斐和年さん。「鹿児島大学出身の先生で凄い人だったね。今の空手とは鍛えようが違う本物の武道だった。」という中で鍛えられた富山勝治は3年生までに基礎をしっかり学んだ御陰で二段まで取得、九州の高校選手権で優勝と実力発揮していった。

1967年(昭和42年)3月、高校卒業とともに佐世保の海上自衛隊入隊。卒業後は就職するところが無く、「父親が海軍上がりだったから俺は船乗りになりたかったが、半年間、家を留守にするような船の仕事では家庭が不安定になるからと『お前は自衛隊に行ったらどうだ!』と勧められて海上自衛隊に入隊しました。」と、小さい頃から口にすることはあった自衛隊の存在ではあった。

「まあそんな道しか無かったよ、勉強してないんだから!」。

九州は仕事が少なく、ヤクザか警察官か自衛隊と言われた。大手は八幡製鉄所、九州電力、旭化成があったが、勉強できない奴には縁の無い世界だった。

半年間、佐世保で教育隊に入るが、就職先が無かった悪い奴ばっかり来ていたという。喧嘩の絶えない自衛隊だった。

佐世保の米軍基地では常々空手の試合に出ていて、その時の上司・森嶋日出春(当時一等海尉)が、「お前なら沢村に勝てるぞ!」と言う語りかけからキックボクシング人生へ舵が切られた。

「今、東京ではキックボクシングというのをやっているからお前も東京に上れ!」と言われたが、「父親との約束で3年間は自衛隊を勤める!」ということで、3年満期で辞めて上京した。

[左]1978年10月のプログラム表紙より。[右]1979年2月9日プログラム表紙

◆キックボクシングを続けられた奇跡

1970年(昭和45年)3月31日、海上自衛隊を満期退職すると、その日の内に上京。知り合いに紹介して貰った渋谷のアパートに住み、導かれたとおり目黒ジムに入門。

練習と仕事の両立へ、新聞広告で見た神田青果市場で雇われると、朝5時に起きて1時間ロードワークした後、市場に向かった。夕方練習して、夜は割烹店で皿洗いのアルバイトもやっていたことがあったという。

「店の親父さんに可愛がられて、『チャンピオンに成れよ!』と応援してくれて、他の従業員には普通の飯だったけど、俺にはトンカツとか豪華なものを食わせてくれたなこと思い出すよ!」

「他に道路のライン引き工事の仕事もやったこともある。俺は引けないから道路のゴミを取り除く仕事。石ころなんかあってはライン引けないから、延々2キロメートルほど蜂起で掃いたな。」

「お世話になった人多くて可愛がられたけど、そういう風に可愛がって貰わないと上に行けない社会。親父の教育が良かったから、どこに行っても目上の人には可愛がられたね。」

1981年5月9日プログラム表紙。負けた試合がポスターやプログラムになったのは初めてという

◆私も関門海峡渡れんよ!

人生の分岐点となった名勝負、1972年2月19日の花形満との日本ウェルター級王座決定戦は、その前年6月26日に花形満との最初の対戦があった。それも花形満のパンチで3度ノックダウンしている富山勝治だが、左ハイキックで逆転ノックアウトしている好ファイトだった。そして迎えた王座決定戦。前年を上回る逆転の激闘で、富山勝治の名は全国に広まった。「50年経っても花形さんには感謝しています!」という熱い想いは変わらない。

「稲毛忠治へのリターンマッチ(3度目の対戦)の前、12月末にお袋が宮崎から来たんですよ。ある朝、お袋がリンゴ擦って俺のロードワークから帰って来るの待ってて飲ませてくれた後、『今度負けたら私も関門海峡渡れんよ!』と言われて、いや~、これはあんまり攻めてばかりではマズいな。パンチでもいいから勝たなきゃいけないな。という気持ちになってのあの試合でした。」

「勝つ為の試合。皆、勝つ為にリング上がっているけど、どうしても勝たなきゃいかん試合ってあるんですよ。それがヒットアンドアウェイという戦法。俺は本来ああゆう性格じゃないよ。アグレッシブにダァーっといく、そういう性格だから!」
そのアグレッシブさが出たのは最終第5ラウンド、蹴りからパンチ、ヒザ蹴りで稲毛を下がらせ、2-0の僅差ながら王座奪還した。KO負けをKO勝ちで返す、ファンの期待は叶わなかったが、何はともあれ苦節一年、逆境を乗り越えることが出来た。

◆沢村忠さんから託されたもの

「沢村さんから一回だけ褒められたことがある。
『富山くん、前から飛び上がって蹴るのも大変だが、キミはよく一回転して蹴れるな!』
これは沢村さんが俺を認めてくれた言葉だった。」

「その沢村さんから、現役最後の試合の後に譲り受けたものがあるんです。それは沢村さんが巻いていたチャンピオンベルト。『あとは頼むよ!』と、その意味は重く、それがメインイベンターを任された証だったんです!」

チューチャイ・ルークパンチャマを飛び後ろ蹴りでノックアウトして、TBSトップの森忠大さんに「やっと沢村を越えたな!」と言われてまずは第一歩目の責任を果たせた想い、スポーツニッポンのベテラン記者(布施さん)氏には、「富山くん、あなたの得意技は後ろ蹴りだから、ずっとやりなさい!」と励まされたのも自信に繋がった言葉だったという感謝の念は絶えない。

ここから更に日米対決へ新たなチャンピオンロードがあったが、後々TBS放送が打ち切られて、全国ネットから外れた時代に移った。

テレビで観れなくなって富山さんはその後どうなったか気になっていた全国の視聴者は多い。その後、主要ビッグマッチはテレビ朝日系に移ってからの日米大決戦だった。

「WKBA世界戦に至るまでは、もう闘争本能は無くなりつつあったな。メインイベンターとして戦い続けていたけど、ずっと維持するのは無理。30歳過ぎると気力も無くなっていく。野口修社長に「沢村忠が担った東洋王座から、富山は世界を担え!」と期待された世界戦で、沢村さんからの「あとは頼むよ!」とチャンピンベルトに託された責任があって精一杯頑張ったけど力及ばず、世界ベルトには手が届かなかった。」と、もう2年早く挑戦できていればと無念さは残る。

[左]1983年11月12日引退試合プログラム、関係者の語りが熱かった。[右]引退セレモニーでの語り「全国のキックボクシングファンの皆様……!」から始まった全国目線の語り口

引退試合、対戦者ロッキー藤丸に労われる

「がんがん石」新宿店の看板。綺麗なお店だったが、キック関係のオブジェは無かった

引退後はスパゲッティ屋「がんがん石」の継続と後援会などの支援で不動産業に進出したが、ビジネスでは上手くいったりいかなかったりでも、困った時は必ず助けてくれる兄弟とも言うべき仲間が居たという。

「私は自衛隊での上司の導きから始まって、沢村忠さんとの出会い、花形満戦があったように、いろいろな人に恵まれて今があると思います。」

「人間は心臓一つしか無いんだから。二つも三つもある訳じゃないから。死ぬときは一回のみ。悔いの無い日々を送って、その日その日の一日を乗り切ればいいんです。ジタバタしない。何があっても今日一日は乗り切る。そう思って頑張れば必ず奇跡は起こるといつも思っていますよ!」

現在、計画していることは「目黒ジムは何とか復活させたいんです!」という野望。

近年のキックボクシングの在り方について意見を求めると、
「今時の3回戦制なんて誰が決めたのか知らんが、あんなもん試合じゃないよ。アマチュアだね。プロ格闘技の意味が無いよ。キックボクシングは初期からの規定どおり3分の5回戦でやらなきゃ。復活しなきゃ面白くない。誰かが戻さなきゃ駄目ですよ!」

世間では忘れ去られようとしている昭和のキックボクシング。富山勝治さんが奇跡を起こすしかないかもしれない。

富山勝治さんの語り口はこれだけでは収まらない展開でした。

現役時代は理髪店には三日に一回。現在は毎日御自身で整髪、鏡越しにハサミでカットするとか。現在もプロ意識を持った語り口には感謝でした。またお会いする機会があれば諸々お尋ねしたいと思います。

TBSでは名コンビだった二人。「具志堅くんは今でも俺を立ててくれる、感謝を忘れない男ですよ」

今年9月24日の最新画像、藤原敏男さんと増沢潔さんと並ぶ、50年前に観たかったカードである

富山勝治さんが語る沢村忠さんとの出会い、花形満戦の想いは、舟木昭太郎トークショーに於いて語られた、2019年5月12日掲載、「元・東洋ウェルター級チャンピオン、富山勝治さん現る!」を御参照ください。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

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◆「お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

富山勝治(とみやまかつじ/1949年2月8日宮崎県延岡市出身)は4人姉弟の長男で、姉一人、妹二人。本名は富山勝博。キックボクシングの帝王、沢村忠の後継者として、飛び後ろ蹴りを必殺技に戦い続けたTBSキックボクシング全国ネットの代表的スター選手。花形満、稲毛忠治、サミー・モントゴメリーとの壮絶な戦いは今も語り草となっている。

初の回転バック蹴りヒットの姿、当時のプログラム裏表紙より

キックボクシングを始めた切っ掛けは、高校卒業後入隊した海上自衛隊での上司の森嶋日出春氏の言葉だった。

「富山くん、お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

九州では当時まだキックボクシングの放送は無く、「沢村って誰?」と思うほど、まだキックボクシングの存在も知らなかったが、広島の呉港に停泊した時、初めてテレビで沢村忠vsポンニット・キットヨーテン戦を観て、「これが沢村か、なーにこの野郎なんか一発だ!」と思ったという。

後々、3年間の海上自衛隊を満期退職し上京し、目黒ジムに入門。

「お前は目黒ジムじゃないと駄目だぞ。」と森嶋氏に言われていたとおり、「野球で言えば、巨人の王・長嶋のように大手のジムへ行け!」という忠告に従ったとおりだった。

入門後、朝は早いが夜練習できる環境を作る為、神田の青果市場で働いた。全日本系のトップ選手、錦利弘(協同)も働いていたという。

キックボクシングの選手を見付ける度に「よーし、いつかこいつを倒してやるぞ!」と思うばかりの粋がった新人時代だった。

◆関門海峡渡れない

デビュー戦は1970年(昭和45年)8月9日。山梨県甲府市でKO勝利。当時は目黒ジム隆盛期。「沢村さんっていつ練習しているんだろう。」と思うほど、ジムでは出会わなかったという。また400人ほど居たというほど練習生や選手も多く、同門対決も多かった。

同門の先輩、神田昭広戦では遠慮ない足踏みつける荒技を使いながらのローキックでのKO勝利。

「富山の野郎、汚い野郎だ!」と囁かれる反響の中、野口プロモーションの野口修社長には「根性ある!」と言われ、これで当時、アメリカ進出を狙っていた野口氏にロサンゼルスへ連れて行かれ、将来性を買われた一歩抜きん出た存在となった分岐点でもあった。

1972年1月2日、先輩の斎藤元助が東洋ウェルター級王座獲得すると、富山勝治は同年2月19日、空位となった日本ウェルター級王座を花形満(東洋)と争った。痛烈なノックダウンを何度も喫する劣勢の中、試合前に母親から「お前が負けたら関門海峡渡れないぞ!」と脅かされていた言葉を思い出し、何とか起き上がっての逆転KOは感動を呼び、TBSでは2週連続で同カードを放送される特例の事態。富山勝治は地方区から全国区へ飛躍した、更なる人生の大きな分岐点となる名勝負を残した。

日本系(野口プロモーション)復興で久々の後楽園ホール登場(1996.6.30)

◆絶望感漂う敗戦

1973年(昭和48年)1月2日、初防衛戦は急成長して来た稲毛忠治(千葉)と引分け、ライバルがすぐ後ろに迫っている危機感に圧されながら勝利を重ね、1974年1月2日、東洋ウェルター級王座決定戦でサネガン・ソーパッシン(タイ)を倒し、沢村忠と肩を並べる地位へ上昇。

しかし1975年1月2日、東洋王座初防衛戦となった稲毛忠治との2年ぶりの対決は、初回わずか76秒、パンチで倒された衝撃の展開。正月早々からキックボクシングテレビ放映史上最もショッキングと言われるほどの落城だった。

その稲毛忠治戦で最初のノックダウンの際、右足くるぶしを骨折した為の療養で、5ヶ月ほど戦線離脱。復帰後、空位の日本ウェルター級王座決定戦で飛馬拳二(横須賀中央)にノックダウン喫する逆転成らずの判定負け。これでポスト沢村は一層遠のき引退が囁かれた。

しかし、当初から決定していたとされる稲毛忠治へのリターンマッチへ再浮上を懸けた戦いへ進んだ。

「稲毛忠治に親父と御袋の前で倒された後、ちょっと弱気になったけど、姉に電話した時に『勝坊、もう宮崎に帰って来い!』と言われて涙が出たけど、その言葉でもう一回考えて、もう一回やろうと思った。もう一回復活せにゃならんと!」。

“このままでは終われない”と奮起した復帰。飛馬拳二に敗れても辞める気は無かったという。

翌1976年1月2日の稲毛忠治とのリターンマッチは、どうしても勝たねばならない土壇場からのヒットアンドアウェイ戦法で僅差ながら判定勝利。評価はともあれ復活にファンは安堵した。

東洋王座復帰後も思うように勝てぬスランプは続いたが、同年、沢村忠が7月2日の試合を最後にファンの前から突如姿を消すと、富山勝治のテレビ登場はより増えていった。ライバル的存在のタイのランカー、チューチャイ・ルークパンチャマ戦は1勝1敗の後、1978年1月2日、TBSのキックボクシング2度目の生放送で、乱闘で熱くなる中、飛び後ろ蹴りで第4ラウンドKO勝利。

TBSテレビ運動部長の森忠大氏が試合後の控室を訪れ、「富山くん、やっと沢村を越えたな!」と言ってくれたその言葉は嬉しく、今も耳に残っているという。

「後ろ蹴りは田舎の先輩で空手の達人が居て、高校時代から習った後ろ蹴りはずっと意識していた技で、まだランカーの頃、タイ選手との試合で後ろ蹴りをやった時、軸足を蹴り上げられたから、飛んで回ればいいと考えて飛び後ろ蹴りを始めたもので、ずっと続ければいつか閃くものです!」と語る。

旧ゴング誌編集長、舟木昭太郎さんのトークショーで久々にファンの前に登場(2019.4.20)

そうしてポスト沢村を手中にした富山勝治は、同年5月8日に日本武道館での、TBS放送500回記念興行が3度目の生放送として、全米プロ空手を迎え入れることになった最初の興行にメインイベンターとして出場。USKFAジュニアミドル級チャンピオンのサミー・モントゴメリーに、第2ラウンドに右ストレートを受け、右肩から落ちて脱臼骨折。大ピンチから5ラウンドまでローキックで逆転寸前に追い込むも判定負け。この大怪我でまたも戦線離脱となってしまった。

しかしそれも3ヶ月で復帰し、8月20日のラスベガス興行に臨んだ。キックボクシングが世界的メジャー競技になる為のアメリカ全土征服は野口修氏がキックボクシング創設当初から狙っていた野望だったという富山勝治。メインイベンターとしてエディ・ニューマンを第4ラウンドKO勝利で存在感を示した。

◆富山勝治は健在!

沢村忠引退後、全国ネットでお茶の間に君臨したメインイベンターは富山勝治が担ったが、TBSで10年半続いた月曜夜7時枠のゴールデンタイムを離れ、諸々の事情はあったものの、深夜放送に移った1979年4月以降と放送完全打ち切りとなった1980年4月以降、活躍する姿を全国に届けることは極めて難しい時代に入ってしまった。ここからテレビ放映復活へ試行錯誤を繰り返した野口プロモーションであり、メインイベンターとして戦った富山勝治であった。

後のテレビ朝日での3度の特別番組の中、1981年1月7日には日本武道館で、野口修氏が老舗の威信を懸けたWKBA世界二大タイトルマッチ(10回戦)を開催。ウェルター級で富山勝治がその大役を任された。やがて32歳を迎え、体力的なピークも過ぎての過去最高峰の戦いは過酷だった。ディーノ・ニューガルト(米国)に初回から右ストレートでアゴを打ち抜かれてダメージを引き摺りながら第9ラウンドまで踏ん張ったが2分41秒、テンカウントされても動けないKO負けで、今までのような怪我とは違う、身体的ダメージと体力的限界が感じられたことは否めなかった。

日米決戦、ロン・ホフマン(米国)戦、テレビ朝日放映3戦目(1981.5.9)

ジョー・ヒギンス(米国)戦、テレビ東京放映2戦目(1981.11.20)

後のテレビ東京に移ったレギュラー枠も1982年1月7日のエドワード・ラメッツ戦でKO勝利後、「テレビ東京からあと何年かやってくれと言われたけど、もう闘争本能が湧いて来なかったから、やらなかったですよ!」と語る。

エドワード・ラメッツ(米国)戦、テレビ東京放映3戦目(1982.1.7)

エドワード・ラメッツ戦勝利後、インタビューを受ける(1982.1.7)

この現役最後の頃からスパゲッティ屋「がんがん石」を展開。渋谷、新宿、自由が丘、高円寺、小倉に3店、博多、宮崎と全部で9店舗。「店を広げ過ぎたな!」と言うほど長くは続かなかったが、実業家としての第一歩はビジネス拡大への縁も深く繋いでいった。

1983年11月12日、後楽園ホールでロッキー藤丸(西尾)を相手に引退試合を行ないKO勝利で有終の美。これで富山勝治だけでなく、TBS時代からのキックボクシングは寂しい終焉を迎えた時代の流れだった。

ラストファイト、ロッキー藤丸戦のリングに入場(1983.11.12)

全力を尽くしたロッキー藤丸戦(1983.11.12)

引退後はジム経営、プロモーター、トレーナーといった何らかのキックボクシング運営に一切関わらなかった富山勝治氏。

「沢村さんが一切マスコミなどメディアにもキックボクシング関係にも出なかったから、その貫く意思を尊重しました。沢村さんあっての自分の存在があったから、沢村さんがやらないなら私もこの業界に残ることはしませんでした。」と語られています。

続編では富山勝治さんの経歴の裏側とその語り口をお話致します。

有終の美を飾って祝福を受け、記念のチャンピオンベルトを巻いた富山勝治

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

◆無名の新人から飛躍

渡辺明(わたなべあきら/1960年6月北海道出身)は1981年(昭和56年)4月、北海道から上京し、名門・渡邉ジムに入門。昭和50年代後半の、テレビレギュラー放映が終了したキックボクシング界氷河期に現れた。

渡辺明の素質に気付いた渡邊信久会長は厳しさ頑固さで有名な指導の下、同門の実力者、酒寄晃の後継者と見込まれ、翌年1982年4月デビュー。カウンターパンチに逆転KO負けの痛い黒星スタートだった。しかしこの敗戦の反省点はしっかり克服。素早い動きでローキックからパンチなど多彩に攻める連係技で14連勝(10KO)の後、1984年11月に、一時的ながら最も価値が高まった統合団体、現在のNKBグループとして存在する日本キックボクシング連盟での一番最初の興行で誕生したチャンピオンである。

この新団体での初代日本フェザー級王座決定戦では、葛城昇(習志野)をローキックで追い詰め、第3ラウンドにパンチで3度のノックダウンを奪ってKO勝利で王座獲得し注目される存在となった。徐々に優勢に立つ渡辺明に「こんないい選手が居たんだなあ。」と隠れた存在にファンの関心も増えていた。

ここからの輝いた時間は短かったが、当時の業界全体としても注目が集まった、新時代に相応しいスターだった。

青山隆戦、タイトルマッチで再戦が見たかった一つ(1983年9月10日)

[左]注目の王座決定戦、葛城昇を倒す、これも再戦が期待されていた(1984年11月30日)/[右]渡辺明、チャンピオンベルトを巻いた新スター誕生の日(1984年11月30日)

◆孤独な戦い

当時、渡辺明は両国駅近くの蕎麦屋に勤務。店から新小岩の渡邊ジムとアパートまで往復12kmを練習用具を入れたリュックを背負いロードワークを兼ねて走った。このエピソードは珍しく当時の新聞記事になり、職場を中心とした後援会の発足に発展した。

その王座獲得後第1戦目が1985年(昭和60年)3月の風吹竜(君津)を第3ラウンドKOで下した試合はローキックに威力が増し、パンチでも風吹竜を圧倒。更に強くなって風格が増していた。

王座獲得後第一戦目となった風吹竜戦、勢い増したKO勝利(1985年3月16日)

当時フェザー級ランカーは、かつて渡辺明が下した鹿島龍(目黒)、青山隆(小国)、葛城昇(習志野)の他、嵯峨収(ニシカワ)、山崎通明(東金)など選手層が厚かったが、「一歩抜きん出ている渡辺明の王座安泰は長く続くのではないか。」とさえ思われた。しかし、運命はファンの期待を裏切る方向へ進んでしまう。

期待された統合団体は同年4月、設立からわずか半年足らずで分裂してしまった。
内部事情はさておき、ここで渡辺明の運命も大きく変わった。初防衛戦で予定されていた鹿島龍(目黒)戦や分裂によって上位ランカーとの対戦はもう不可能と言われるほど遠のいてしまった。

1985年6月7日、高谷秀幸(当時=ロバート高谷/千葉)を1ラウンドKOに下し初防衛。更に磨かれたローキックとパンチはスピードと重量感を増していたが、渡辺明はライバルが全くいなくなり、何か寂し気に見えてしまう存在となってしまった。

初防衛戦、代打出場のロバート高谷に圧倒の勝利(1985年6月7日)

そこまでは順調だったチャンピオンロードも思わぬ不覚から下降線をたどる。同年9月7日、渡辺明は井志川雅志(伊原)戦でハイキックをアゴに食らい、負傷による4ラウンドTKO負け。「レフェリーの制止を振り切ってでも戦いたかった!」と言うが、入院せざるを得ない重症だった。

◆最後の大舞台

静養後、翌年1986年6月に復帰し2連勝。11月29日には黒崎健時氏が主催した「神秘のムエタイ」が両国国技館で開催。ムエタイ二大殿堂チャンピオン対決がマッチメイクされる中、日本から唯一、渡辺明が出場。タイから推薦されたデショー・ウォースントンノンは渡辺明にとって険しくも、強豪との対戦には相応しい存在だった。

結果は為す術もなく鋭いローキックで2ラウンドKO負け。渡辺明の切れ味良いローキックを上回る、本場の重いローキックに立っていることが出来なかった。ムエタイ路線の第一歩は無残にも打ち砕かれた。

ムエタイの壁は厚かった。デショーにローキックで倒される(1986年11月30日)

翌年1987年6月、上田健次(士道館)とのフェザー級トップ対決でも、何かおかしい渡辺明の動きの鈍さ、上田のスピードで圧されパンチで第2ラウンドKO負け。

「本能的に立ち上がったけど“これで終われるんだ”という弱気な気持ちが頭を過ぎった途端、立った時はテンカウントの後だった」という。渡辺明は復帰の道を考えつつも、5年間の選手生活に終止符を打つ決意をした。

選手の寿命はダメージも主な原因だが、モチベーションの維持も大きく占めるであろう。

渡辺明が長く戦えたかは分からないが、防衛戦で注目の対決を実現したかったであろう本人や、ファン、マスコミ関係者の想いは大きかった。今でも時代を越えた、戦わせてみたい夢のカードは尽きない。

◆消息は不明

渡辺明は静養から復帰後で、神秘のムエタイ出場前の1986年6月14日、この年の1月までラジャダムナンスタジアム・フライ級チャンピオンだった、サンユット・チャイバダンと対戦予定があった。日本キックボクシング連盟にしては、設立以来(その後も含めて)、極めて難しかった現役ムエタイチャンピオンクラスの招聘。ポスターとプログラムにも載ったが、来日が間に合わず夢と消えた。渡辺明は代打出場の李振興(韓国)をあっさり第2ラウンドKO勝利。

充実していた時期、チャンピオンとしてコールされる(1986年6月14日)

李振興に圧倒の勝利(1986年6月14日)

仮にサンユット戦が実現していたらどんな展開になっていたかは興味が尽きない。勝利を予想する者はいなかったが、その後に控えたデショー・ウォースントンノン戦への良い前哨戦になっていたのではないかという意見は多い。

今回の渡辺明氏に関して、触れておきたい私(堀田)の拘りの、昭和の業界低迷期を支えたキックボクサーとして、聞ける情報は少ない中、過去に新聞コラム用でインタビューしたジムトレーナーと、新たに渡辺明氏に接したことある関係者のお話を参考にさせて頂いた内容です。

私は、渡辺明氏が王座獲得後の翌年新春興行後の帰りだったか、水道橋駅に向かう橋の上で、後輩の手前、ちょっと粋がった感じで歩く姿を見かけたことがあり、「あっ渡辺さん!」と声掛けたら「ハイ!」と急に好青年に顔つきが変わって接してくれたことがありました。リング上でチャンピオンベルトを巻いた姿の写真にサインを求めると、「お名前は?」と丁寧にサインして頂いたことが懐かしい思い出である。この人はファンを大切にしっかり向き合う人だなと感じた、当時の水道橋の歩道でした。

渡辺明氏は引退した後に埼玉県内で、一軒家で犬を飼って一人暮らしをしていた様子。性格的に大人しく、多くを語らない渡辺明氏で、「当時は肉体労働系の職人をやっていたのでは?」と言う関係者のお話と、酒寄晃氏の場合同様に消息不明ながら「今は何しているのかなあ!」という渡邉信久会長でした。

[左]上田健次にも倒されてしまったラストファイト(1987年6月13日)/[右]幻のサンユット戦、表紙になった渡辺明(1986年6月14日用プログラム)※共にスポーツライフ社「マーシャルアーツ」誌面より。筆者撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年10月号

◆渡邊ジム初のチャンピオン

酒寄晃は1953年(昭和28年)4月、茨城県出身。第4代、第8代全日本バンタム級チャンピオン、第7代全日本フェザー級チャンピオン。現在も続く名門・渡邉ジム最初のチャンピオンとして、キックボクシング界黄金期から斜陽化時代に、強面でパワフルにKOを狙う負けん気の強さでチャンピオンの座に長く君臨した。

1972年(昭和47年)4月、19歳でデビューした酒寄晃は、元々プロボクシングの経験があったが、芽が出ずキックボクシングに転向してきた経緯があった。新人時代は伸び悩んだりジムから遠ざかったりと周囲から期待も小さかったが、それまでの下積みが基盤となって徐々に実力開花していった。

1974年11月6日に茨城県水戸市での全日本バンタム級王座挑戦では、所属する渡邊ジムが一丸となって酒寄晃をバックアップ。ジム設立5年目にして初のチャンピオン誕生を目指していた。そして俊善村正(烏山)をパンチで4ラウンドKOして王座獲得。当時の全日本・協同プロモーション系は日本テレビ系で放送されていた時代。現在と違い希少価値あるチャンピオンの名は全国に轟く効果があった。そんな全盛期、毎月の試合も志願した酒寄晃だったが、誰もが通る試練もやって来た。

◆スランプから開花

1975年7月7日、茨城県笠間市で俊善村正との再戦に薄氷の引分け初防衛したが、1976年4月24日、茨城県下館市で渡辺己吉(弘栄)に4ラウンドKO負けで王座陥落。

1977年6月17日、日本武道館で渡辺己吉と再び王座決定戦を争うが、判定負けで返り咲き成らずも、渡辺己吉の引退で1978年2月10日、酒寄晃は王座決定戦で隼壮史(栄光)に2ラウンドKO勝利して王座返り咲き(以後・後楽園ホール)。減量苦もあったが、スランプを脱したその勢いで同年7月22日、全日本フェザー級王座決定戦で、花井岩(雷電)に判定勝利して二階級制覇。第7代全日本フェザー級チャンピオンとなる。バンタム級王座は返上。

酒寄晃が更に自信を深めたのは1979年9月、タイの二大殿堂ジュニアライト級元・チャンピオンで、長江国政や藤原敏男も下している上位ランカーだったビラチャート・ソンデンをパンチでKOしたことだった。

渡邉信久会長も後に、「酒寄はごく普通の入門生で、気は強そうだったがムラッ気があって成長に時間が掛かったが、こんなに強くなるとは思わなかった。」と語るほどだった。

とにかくブン殴れば倒れない相手はいないと自信を深め、KOを狙う試合が増えていった。

翼五郎(東洋パブリック)、金沢竜司(金沢)、佐藤正広(早川)、少白竜(萩原)、甲斐栄二(仙台青葉)らを退けた中、1981年元日の挑戦者だった、当時まだ18歳の現・レフェリーの少白竜氏は、

「50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの酒寄さんはとにかく強かった。パンチ躱すのが速く、違うところから素早く蹴られ、重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」と恐怖?体験を語る。全日本フェザー級王座は5度防衛に達したが、当時はキックボクシング界が低迷期に入り、1981年は業界分裂・新団体設立が始まった年だった。

◆頂上決戦

1982年1月4日、日本プロキック・フェザー級王座決定戦で、玉城荒次郎(横須賀中央)に4ラウンドKO勝利で新王座獲得。

1982年7月、日本ナックモエ・フェザー級王座決定戦で、佐藤正広(早川)に判定勝利して新王座獲得。

細分化していく業界だったが、酒寄晃は分裂の度に王座決定戦を制し、常に頂点に君臨。現在のような、戦わずにチャンピオン認定など行わない正当な制度だった。
その実力を証明する1983年3月の1000万円争奪オープントーナメント56kg級決勝7回戦は事実上の日本フェザー級頂上決戦の構図となり、年齢もデビュー時期も近く、同時代を生きつつも戦うことは難しかった日本系(旧TBS系)で成長して来た松本聖(目黒)と拳を交えた。

初回、酒寄が先にフラッシュダウンはするものの、逆にパンチで三度のノックダウンを奪いながら、第2ラウンド以降、松本のパンチとローキックで酒寄はリズムを徐々に崩し、セコンドからの「お前の方がパンチ強えんだからパンチで行け!」という声も、解っているけど当たらない、もどかしい表情で松本に向かうが、歴史に残る名勝負となる激戦を残しながら5ラウンド逆転KO負けを喫した。松本よりパンチも蹴りも、打たれ強さも兼ね備えていながら敗れたのは、「慢心から来るものだった」と深く反省したという。

強いパンチと蹴りで松本聖を苦しめたがKOには繋げず(1983.3.19)

松本聖のローキックに苦しめられたのは酒寄晃(1983.3.19)

酒寄晃のパンチは重かった。第1Rには圧倒したが……(1983.3.19)

気が強い酒寄晃、心機一転、甲斐栄二戦に臨む(1983.9.10)

本領発揮、右ハイキックで甲斐栄二を苦しめる(1983.9.10)

強打者同士、鼻血を流したのは甲斐栄二(1983.9.10)

まだまだ全盛期、引退の陰りは無かったが……(1983.9.10)

◆昭和のレジェンド

その後、日本統一王座を決する計画が進められ、松本聖との再戦が浮上したが、組織の細分化は再集結には難しい不運な時期だったこともあり、統一戦は実現に至らず、1984年夏、長年のライバルの佐藤正広(早川)にKO勝利した試合をラストファイトとして引退を決意。

同年の1984年11月、業界が急好転し期待された4団体統合の日本キックボクシング連盟設立で、酒寄晃の再度の活躍が期待されたが、すでに31歳。長年の激戦からくる故障もあってモチベーションを高めるには至らなかったようだ。同門の新鋭・渡辺明がタイトルを争うまでに成長して来た影響もあっただろう。

そして翌年の6月7日、盛大に引退式を行ないリングを去った。

[写真左]引退セレモニーでの御挨拶、風貌に似合わず優しい口調で感謝の言葉を述べられた(1985.6.7)/[右]テンカウントゴングに送られる酒寄晃、13年の現役生活だった(1985.6.7)

 

引退興行の当日プログラムはポスターとともにインパクトがあった(1985.6.7)

強面顔の酒寄晃は、近寄り難いタイプながら仲間内では明るく振る舞うムードメーカー的だったとも言われ、渡邉会長の厳しい指導もあっただろうが、「性格は繊細でジムでも練習道具は整理整頓し、試合で使用するバンテージも鮮やかなほどキレイに巻いていた。」と言われるほど几帳面だった。

引退後は若い職人を従えての内装建築業を営み、その繊細な心で事業を展開していた様子。

「引退当時はジムによく来ていたよ。」という渡邊会長も、事業が忙しくなった様子で後には姿は現さなくなったという。「今は何しているのかなあ!」という古い時代の渡辺ジム関係者達である。

全日本系列では歴史上、藤原敏男、大沢昇、島三雄、岡尾国光、長江国政、猪狩元秀といった名チャンピオンが名を連ねる中、後に分裂で道は分かれたものの、酒寄晃は昭和の名チャンピオンに並ぶレジェンドだったと言えるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

「レフェリー、リー・チャンゴン~!」とリングアナウンサーにコールされ、文字にしてもカタカナ書きの方が馴染んだ響きである。昭和40年代にTBSテレビで放映されたキックボクシングの隆盛時代に、現在とは比べられないほどのレフェリーの威厳があったその姿と名前が全国に広まったのも事実でした。

「荒れる試合は俺が裁く」を貫いた李昌坤レフェリー(1981年5月19日)

ノックダウンからファイトを促す李昌坤レフェリー(1982年11月19日)

◆導かれた運命

昭和の名レフェリー、李昌坤(リ・チャンゴン/1942年6月20日東京都目黒区出身)は在日韓国人として永く活躍し、日本名は岩本信次郎。軽快なフットワークと適確な判断で試合を裁き続けた。

1966年(昭和41年)6月にレフェリーとしてデビューして以来、野口修氏が興したキックボクシングの表も裏も知り尽くし、1990年(平成2年)に第23回プロスポーツ大賞「功労賞」を受賞している人物である。

李昌坤氏は中学2年生の時、たまたま近所にあったボクシングの野口ジムに遊びに行くようになったのが格闘技との最初の出会いだった。当時は厚木基地や新橋駅前などで「ベビーボクシング」なるお祭りイベントが開催されていて、気が強いガキ大将だった李昌坤氏は中学生クラスの“ハビー級”として参加。試合後にはお菓子を貰っていたという。

そんな運命でジムに通い続け、高校三年生になるとプロボクシング4回戦でデビュー、新人王の準々決勝まで進んだが、腰を痛めて止む無く現役を断念した。

◆昭和のキックボクシング、レフェリーとして参加

高校卒業後は近所の板金屋で働きながら、野口ジムのトレーナーをしていたが、1966年1月(昭和41年)、野口進会長の長男・修氏が日本キックボクシング協会を設立された際、李昌坤氏はレフェリーとして導かれた。それまでは日本名を使っていたが、日本vsタイの試合に韓国人としてレフェリングすることで国際色豊かにしようという協会の思惑で、本名・李昌坤として参加することになった。

翌年2月26日、TBSがキックボクシング中継を始め、創生期からブームとなったスター沢村忠の多くの試合を中心に、首都圏の他、地方興行を転々としながらレフェリーとしてリングに上がり続けた。

名勝負として今も語り継がれる富山勝治vs花形満戦、富山勝治vs稲毛忠治戦や、後には藤原敏男の試合も裁いた経験を持ち、竹山晴友が活躍した昭和60年代でもメインレフェリーとして裁いていた。

富山勝治の試合担当は多かった李昌坤レフェリー(1983年11月12日)

勝者・富山勝治の手を挙げる李昌坤レフェリー(1983年11月12日)

長いレフェリー生活の中では多くのエピソードを持つ李昌坤氏。

「確か甲府での試合で、沢村が真空飛びヒザ蹴りを出したら、相手がロープまでふっとんで一番上のロープが切れてしまったんですよ!」といった忘れ得ぬ思い出や、更には自身に災難が降り掛かることもあった。空振りした沢村の蹴りが横腹に入り、悶絶の危機も何とか凌いだレフェリング。これが一番痛い思い出で、試合後の控室に沢村がやって来て、「リーさん身体大丈夫? ゴメンね!」とは沢村らしい気遣いがあって嬉しかったが、一週間ほどまともには動けなかったという。

テレビ放送が打ち切りになり、興行も不定期になってきた昭和50年代後半、多くの業界関係者が撤退していったが、李昌坤氏はそんな時代もレフェリーを辞めなかった。

それは「俺が試合を裁く。俺が判定を下す!」というレフェリーとしてのプライドを人一倍持って日本系レフェリーのほとんどを厳しく指導し、レフェリングの基礎を作ったことを無駄にせず、次の時代へ繋ぐ責任を感じていた。

キックボクシング創設以来、10年以上務めた功労者が表彰、李昌坤氏もその一人(1985年11月22日)

時代が流れた昭和60年代、勝者・向山鉄也の手を挙げる李昌坤レフェリー(1985年11月22日)

◆存在感に陰り

李昌坤氏から教わったレフェリーは皆フットワークが軽く、

「ファッションモデルみたいな動き」という批判的な関係者も居た中、時代の流れは徐々に李昌坤氏にとって窮屈な世界となっていった。ムエタイ崇拝者が増え、レフェリングもムエタイ式に移行してきた点から、各ジムからレフェリーに求められる裁き方の認識が変わって来たのだった。

首相撲でのブレイクアウトの早さ、崩しでの縺れ倒れ行く選手を支えない、軽く当たったパンチでのスリップやプッシュ気味でのノックダウン扱いなど、昔ながらのレフェリングが受け入れ難くなる傾向があった。名レフェリーたる存在が敬遠されがちになると、次第に出番が少なくなっていく中の1996年2月9日、最後の花道を作ってくれたのは士道館主催興行だった。最後のレフェリングとなったフェザー級5回戦、室崎剛将(東金)vs松田敬(目黒)戦の後、「李昌坤引退セレモニー」が執り行われた。李昌坤氏はリング上で奥さんと華やかなチマチョゴリ(韓国の民族衣装)を纏った三人の娘さんに囲まれ、最後のリングに華を添えた引退セレモニーだった。

李昌坤氏は「これで終わりなんだなと思った時、寂しさより、ここまでやって来れたんだなという思いの方が強かった。引退式をやって貰って本当にけじめがついたよ!」と語る。

時代とともに昔のレフェリーが一人ずつ消え、元々所属した日本系野口プロモーションの最後のレフェリングとしての締め括れた安堵感があったようである。

「本当に陰の人でしたね。沢山の名勝負を裁いて来たのにね!」とはキックボクシング創始者、野口修夫人・和子さんの当時の語り。

[左]試合直前の注意勧告する李昌坤レフェリー(1992年9月19日)/[右]最後のリングに上がる李昌坤レフェリー、裁いた試合は3000試合以上(1996年2月9日)

引退セレモニーで観衆の声援に応える李昌坤レフェリー(1996年2月9日)

自身のお店でインタビューを受ける焼き肉屋のオヤジ、李昌坤氏(1996年2月15日)

◆昔ながらの頑固レフェリーからの助言

李昌坤氏は、業界の中心的存在だった目黒ジムの選手に「目黒ジムには沢山強い選手が居て、練習が他のジムより充実しているんだから、試合で引分けなら実質は負けと同様なんだぞ!」と厳しい指摘を言われたこともあったという。また、「地方の選手には冷たく、反則ではないのに、“今度やったら減点取るぞ”とか言われて、だからリー・チャンゴンは嫌いだ!」という批判も聞かれるのは毅然としたレフェリングを行なうが故の嫌われ文句だろう。

後輩への指導では「レフェリーやジャッジ担当で、もしミスっても毅然と振舞って自分の裁定に自信持て!」と言うなどの忠告もあって、他団体のレフェリーでも「李昌坤さんのレフェリングはかなり意識していましたね!」という話は多い。

またレフェリーの振舞いや運営の不備など、他のスタッフが気付かなくとも李昌坤さんは気付いて動くという点は熟練者の視野の広さがあった。

「観衆の中で雑談はするな。必要以上に会場内をうろつかず待機場所に居ろ。裁いている試合に対し、同じ位置に3秒以上立ち止まるな。テレビカメラ側に極力立つな。身だしなみに気をつけろ!」といった振る舞いには、元々はプロボクシングから受けた指導が基礎となったものだった。古い体質ではあったが、威厳ある李昌坤氏ならではの存在感だった。

李昌坤氏は若い頃、板金屋やトラック運転手なども経験したが、後に目黒ジム近くで焼き肉屋「大昌苑」を経営。レフェリー引退後も継続し、かつての野口プロモーション関係者が集まることも多い賑やかさを見せて、良きキックボクシング時代を語り合う穏やかな晩年を過ごしていた。お客さんからの注文を語気強く受け応え、かつてのレフェリーの面影があったが、その接客は気さくで常連客が多い焼き肉屋のオヤジであった。

(取材は1996年2月当時のナイタイスポーツで取材したものと、後々に何度も大昌苑を訪れて李昌坤氏にお聞きしたエピソードを参考にしています。)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆無名に終わったボクシング時代!

ガルーダ・テツ(武本哲治/1970年7月5日、岡山県備前市出身)はアマチュアボクシングからプロを経て、キックボクシングに転向。対抗団体エース格、小野瀬邦英に倒されてはまた挑み、同時期に活躍した別団体の立嶋篤史、小野寺力らとは違った荒くれ者的存在でも、実は心優しい、大阪が拠点のキックボクサーだった。

我武者羅に向かった小野瀬邦英戦初戦(1995年10月21日)

腕白な幼少期を過ごした小学生4年生の時、8歳上の兄がボクシングでインターハイ出場し、「兄貴が出来るなら俺も出来る」と、プロボクシングの世界チャンピオン目指し、高校入学とともにボクシング部へ入部。

16歳でのアマチュアボクシング初戦がルール知らない為の失格負け。オープンブローは注意されても分からなかったという無頓着ぶり。「俺が負けるわけがない!」と思っていた天狗の鼻へし折られて、ここからしっかりルールを勉強。バンタム級で国体岡山県2位(準優勝)まで進出。アマチュア戦績14戦8勝6敗。

1989年(平成元年)3月、高校卒業すると大阪で就職と共にプロボクシングを始め、同年7月18日、陽光アダチジムからバンタム級でプロボクシングデビューするも判定負け。

1990年、デビュー戦で負けた相手との再戦となった西日本バンタム級新人王トーナメント決勝に進むも、またも判定負けでの準優勝には落胆した挫折を味わった。
更にお祖母ちゃん子で育った武本哲治は大好きだった祖母の死去もあって、半年ほどボクシングから遠ざかった日々を過ごしたという。プロ成績6戦2勝3敗1分。

◆ガルーダ・テツ誕生!

翌年、知人にキックボクシング観戦に誘われた大阪府立体育会館で、「あっ、オモロそうやな、これやったら一番に成れる。これからはキックボクシングや!」と天職への新たな決意。

小野瀬邦英戦第2戦のリングに上がった直後の表情(1996年2月24日)

プログラムの広告は、大阪では勢力あった北心ジムが大きく掲載されていたが、「こういう募集広告がデカいところは行かん方がいい」と考え、大阪横山ジム入門。プロボクシングで所属した陽光アダチジムは、ちょっと理想と違っていて、そんな警戒心が働いた。

プロボクシングと比べればキックボクシングは人気・知名度は落ちるが、「この団体で一番になったる!」と当時存在した大阪拠点の日本格闘技キック連盟で、目標持ってジムに通うようになった。

1992年1月23日、フェザー級でのデビュー戦はローキックを凌げずKO負け。いずれのデビュー戦も敗北からのスタートとなってしまった。更にパンチからキックへの連係はなかなか難しく、2戦目は引分け。

そんな頃に心機一転、リングネームを付けようと当時トレーナーで元・プロボクサーのアンチェイン梶さんに相談すると、昭和のキック漫画にもあった“ガルーダ”を提案された。

「インド神話に登場する神の鳥」と言う意味があるらしいが、期待した名前ではなく、しかし先輩の好意に拒否も出来ず、本名の一文字を加えたガルーダ・テツとなったが、ここから飛躍できたことで、後々アンチェイン梶氏に感謝の念は強いと言う。

組織が確立したプロボクシングでは、JBC管轄下のしっかりしたルール・システムで運営されているが、その実態を見ているガルーダ・テツは、キックボクシングは何といい加減かと思う事態も経験。計量は一般家庭用ヘルスメーターで、柔らかい床で量ったりと、しっかり調整して来たのにアナログの目盛りがちょっとオーバーになって文句言おうもんなら「そんなこと言うんか?みんな平等やからな!」で抑え込まれてしまった。

「理不尽なこと沢山あったけど、これも運命と全てのことを受入れて、ただひたすら一番目指して頑張りました!」と語る。

小野瀬戦第2戦、得意のパンチでクロスカウンター(1996年2月24日)/テンカウントアウトされた瞬間の表情、悔しさが表れる(1996年2月24日)

◆小野瀬邦英との抗争!

ここから7連勝した1994年12月、西日本キックボクシング連盟が新たに設立された(前身は日本格闘技キック連盟)。関西のジムが集まって設立された北心ジム中心の団体だった。

この設立興行で、ガルーダ・テツはムエタイの強者、ピーマイ・オー・ユッタナーコーン戦を迎えることとなった。

「あの立嶋篤史や前田憲作に圧倒勝利した超一流ピーマイがこんな大阪の弱小団体にホンマに来るんかいな?」と半信半疑だったというガルーダ・テツは、本物ピーマイと対面するまで信じられなかったという。

「ピーマイの偽者ぐらい簡単に用意出来るやろう」と過去のキックボクシング界の替え玉説も耳にしていたガルーダ・テツ。ところが計量で視界に入って来たのは本物ピーマイだった。相手が誰だろうと全力で倒すことを信念で戦って来たガルーダ・テツも、ちょっと緊張が走ると共に俄然気合いが入ったのも当然だった。

この設立興行を前に思わぬ知らせが入っていた。ジムにFAXで送られてきたのは「西日本ライト級チャンピオン、ガルーダ・テツ」の肩書きと名前だった。

当時、東京の日本キックボクシング連盟で、関東vs関西の対抗戦が企画される中の、チャンピオンに認定される興行の都合だった。団体枠ではあるが、ひたすら目指したチャンピオンの座はタイトルマッチを迎えることなく紙切れ一枚で達成されてしまった。

その肩書きで同年12月20日、対峙したピーマイは距離の取り方が上手く懐が深い。視界に入って来ないような鋭いハイキックや脚を潰しに来る重いローキック、接近すれば吹っ飛ばされる前蹴りに翻弄されて判定負けに終わったが、東京進出に先駆け貴重な経験を積むことが出来た。

引退前の神島雄一戦は圧倒の判定勝利、この後引退宣言(2000年6月4日)

東京での初戦は翌1995年4月の佐藤剛(ピコイ近藤)戦。この佐藤剛とは後に再戦して2戦2勝。後に日本キック連盟ライト級チャンピオンとなる小野瀬邦英に対しては雑誌に挑戦状を送り付けて公開アピールしていた。何か批難すればよりヒートアップする互いの発言も過激で、初戦は1995年10月21日、「何かムカつく存在で、本当に殺してやろうか、って言うぐらいの気持ちで迎えましたよ!」というも捻じ伏せられてKO負け。

対小野瀬戦3戦目までは作戦を立てないのが自己流だったが、倒されるには原因があると、4戦目でしっかり作戦を立て、ローキックで小野瀬を倒せそうな流れも、ヒジ打ちで切られて逆転負け。ドクターに「ちょっと待ってよ!」と言っても待ってはくれなかった。「あと2発蹴ってたら倒れただろうに!」と悔しい敗北。

小野瀬邦英と同門の大塚一也(同・連盟フェザー級チャンピオン)には倒し倒され1勝2敗。

2000年6月、神島雄一(杉並)に判定ながら完勝したリング上で引退を表明。

「最後はこの男と戦わないと辞められへんと思っていたので、マイクでアピールしました。」と最後の相手として小野瀬邦英を指名。

同年12月の引退試合でも特攻精神は変わらず。小野瀬の猛攻にヒジ打ちで額を切られ、4度のノックダウンを喫しながら立ち上がった判定負けで、最後まで前に出続けた壮絶な完全燃焼。5戦して一度も勝てなかったが、負けても悪態付く為、小野瀬がより一層対抗してくれたことが知名度アップに繋がった良きライバルに巡り合えた現役生活だった。

特攻精神で挑んできた現役生活で、入場テーマ曲は「勇ましくリングに向かおうぜ!」という意気込みで「出征兵士を送る歌」などの軍歌は会場が異様なムードに包まれたが、荒くれ者キャラクター、ガルーダ・テツらしさがあった。プロキック戦歴:34戦16勝(8KO)14敗4分。

引退試合の小野瀬邦英戦、最後も容赦なく攻められた(2000年12月9日)/引退セレモニーにて、小野瀬邦英から労いの言葉が贈られた(2000年12月9日)

引退テンカウントゴング後、仲間らに胴上げされたガルーダ・テツ(2000年12月9日)/戦い終えた控室、横山義明会長とのコンビも抜群だった(2000年12月9日)

◆日本列島テツジム計画!

今年、大阪から東京進出して、2月20日に葛飾区立石でテツジム東京をオープン。

引退後の、2001年8月、岡山県備前市で始めたテツジム時代から今年10月29日に森井翼がNKBバンタム級王座奪取するまで計5名のチャンピオンを輩出。

過去には、2006年9月に岡山でテツジム主催初興行「拳撃蹴破」を開催し、2013年1月には大阪市都島区にテツジム大阪開設。現在、東京を軸に国内9ジム、韓国に1ジムを開設。今後、中国四国、北陸、九州、北海道にも進出して日本列島テツジム計画を目論んでいる。

また、ジム経営とプロ興行に留まらず、2015年11月、オヤジファイトのキック版、オヤジ・オナゴキックをスタート。東京では2019年5月26日にゴールドジムで初開催。通算20回ほどの開催に達している。

「イベントは1~2回やるのは簡単なんです。でも世間に浸透させるには何回も繰り返していかないと駄目なんです!」と“継続は力なり”を実践してここまで活動範囲を広げて来たガルーダ・テツ。ここまで来れたのはガルーダ・テツの優しい人柄が表れ、支援者が多かったのも事実だろう。東京での物件探しもジム経営は難しい条件下でも京成立石駅間近に見付けることが出来たのも仲間の縁。現在、小学校一年生も通う53名の会員が居るという。

今後は、日本列島の各テツジムからプロ興行の更なる充実、オヤジ・オナゴキックの全国浸透を目指し、現役時代以上となる有言実行の活動が気になる今後の展開である。

チャンピオン4人誕生時の剱田昌弘とツーショット(2022年6月18日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

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