◆50年前の今日2月19日に始まったあさま山荘事件

あさま山荘事件(1972年2月19日)から50年である。当初から具体的な要求もなく、何が目的なのかも、さっぱりわからなかった事件だった。日本じゅうを注目させた、9日間にわたる山荘立てこもっての銃撃戦は、2名の警官の殉職と民間人1名の死、警備と報道にも27名の重軽傷者を出した。そして、のちに明らかになる同志殺しの山岳ベース事件(暴力的総括要求による殺害)。

これらの事件で、いまも不思議なことが「謎」として残されている。

◆ふたつの謎

そのひとつは、山荘で「人質」になった管理人の妻が、連合赤軍に同情的だったことだ。

これはのちに「ストックホルム症候群」※と呼ばれるもので、管理人の妻はメディアが希望する「怖かった」「犯人がゆるせない」などの想定問答に応じようとはせず、むしろ連合赤軍のメンバーへの同情を示したのだった。これは視聴率80%とも言われた視聴者の期待を裏切り、警備当局を困惑させた。じっさいに連合赤軍は管理人の妻を人質扱いしていなかった。

そしてもうひとつは、12人もの同志が殺された惨劇にもかかわらず、どうして逃げなかったのか、という「謎」である。

なぜ「人殺しはやめよう」と言えなかったのか、という疑問とともに、初めてこの事件を見聞する人々が感じる、大きな「謎」であろう。

いや、正確に言えば複数のメンバーが、山岳ベースから逃げていた。このうち、前澤辰昌と岩田平治のインタビューが『2022年の連合赤軍』(深笛義也、清談社)に収録されている。

ストックホルム症候群=1973年8月にストックホルムで起きた銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)。のちの捜査で、人質が犯人が寝ている間に警察に銃を向けるなど、警察に敵対する行動を取っていたことが判明した。解放後も人質は犯人をかばい警察に非協力的な証言を行なっている。ハイジャック事件の乗客などでも、しばしば同じ行動(犯人への同調)が見られる。

◆逃げた者と逃げなかった者

それでは、山岳ベースから逃げて生き残った者たちと、最後まで逃げずに殺された者たちを分かったものは何なのだろうか。

裁判では「革命運動とは縁もゆかりもない」と断じられたが、まぎれもなく革命運動という大義、革命戦士になりたいという志によってこそ、かれら彼女らの死は説明がつくのだ。

この点を、単に「狂気の集団」と簡単に片づけるならば、政治運動や宗教の大半は同じ位相であり、事件の深層が理解できない。問題は総括要求に暴力が用いられたことなのであって、その淵源が旧軍の暴力制裁を継承した戦後教育にあったと、ここまで連載で明らかにしてきた。

さてもうひとつ、さきに論を進めよう。逃げた者たちによって明らかにされた、山岳ベースと一般社会の落差をもって、はじめて明白になる事柄だ。それは革命を志す者にとって、共同体的な意識と個人的な意識の落差ということになる。組織と個人という古典的な命題だが、その先に思想的な呪縛が立ちはだかる。

簡単にいえば、山岳ベースの連合赤軍に結集しなくても、革命運動はできると思うかどうか、なのだ。

前述した岩田平治は、森恒夫をして「おれの若い頃によく似ている」と評価されていた人物である。森に山岳ベースでの展望を感じさせたものがあるとすれば、岩田のような若々しいエネルギーであったのだろう。

その岩田が山を下りて、都会の空気にもどった時。山岳ベースと一般社会の落差に初めて気付く。そして預かっていた連合赤軍のカネを女性同志に託して、組織から離脱を決意するのだ。

前澤辰昌の場合は、じつは初期の山岳ベースの段階で見切りをつけていた。男女の別もなく小屋で雑魚寝して、用を足すのも野っぱらという生活である。最初はキャンプ気分で参加できても、ずっとそれが続くのだ。前澤が離脱するだろうという空気は、植垣康博も気付いていたという。

ではなぜ、植垣康博は離脱しなかったのだろうか。彼自身の言葉で「目の前の困難(革命運動の困難)に負けられないという意識があった」という。その「負けられない意識」とは何なのか?

 

『情況』2022年1月号

◆共同幻想

岩田は連合赤軍の生活・軍事訓練・総括を、吉本隆明の『共同幻想論』から振り返っている(前掲書)。

これは慧眼というべきであろう。山岳ベースの党組織・軍隊的な規律から生じる集団的な意思に、自分も同調するというものだ。

赤軍派には7.6事件の初期から「(暴力への)集団的な同調圧力があった」(大谷行雄『情況』連合赤軍特集号)という証言もある。

吉本の「共同幻想」は、意識領域での国家・社会・集団への共同意識と措定できる。いっぽうで人間は自己幻想(自意識)・対幻想(恋愛感情)を持っていると、吉本は「幻想」を定義する。簡単にいえば、幻想とは意識のことなのである。

フッサールの間主観性、メルロ・ポンティの間主体性、廣松渉の共同主観性など、ほぼ同じ概念と考えてよい。

古典的な認識論では、デカルトの「われ思うがゆえに、われあり」と、主体が対象を自由に考えられるというものだ。しかしわれわれの認識は、他者との関係で成立している。他者とは社会であり、国家をふくむ共同体のことである。したがって、その他者を離れて自由に考えることなどありえず、たとえば文章を書くことひとつも、言語を媒介に共同幻想のなかで生起する。

これが身近な共同体である家族や地域、任意の集団においても個人の意識を束縛する。革命組織もまた政治的な共同体であり、その基盤が共同生活に根ざすものだとしたら、集団の共同幻想はほとんど個人を呑み込んでしまうことなる。

もはや「逃げなかった」者たちの意識は明らかであろう。革命組織連合赤軍のなかで、かれらは競うように共産主義化という幻の思想を獲得するために、個人ではなく共同幻想に支配されていたのだ。これが植垣の「負けられない」意識にほかならない。

したがって、山岳ベースと一般社会を相対化できた者たちだけが、地獄の組織からの離脱を果たせたのである。それでもなお、党(建党・建軍)という共同幻想は、かれらを縛るのであろうか。そうであるならば、党という幻想を地獄に追いやるほかにないのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆山岳ベースの魔女に仕立てられた永田洋子

8日間にわたる、あさま山荘銃撃戦のあとに同志殺しが発覚し、日本じゅうが驚愕の渦に叩き込まれた。そのとき、メディアが書き立てたのは森恒夫と永田洋子という、ふたりの指導者像についてだった。とりわけ、女性指導者という話題性から、永田洋子の個人的な資質について週刊誌は詮索したものだ。

おりしも日本社会はウーマンリブの台頭期であった。いまの若い人は知らないBG(ビジネスガール=売春婦を想起させる)という言葉がOLに改められ、女性の社会進出が世情を騒がしていた。

マスメディアの俎上に上げられた永田洋子はすこぶる悪評で、まるで殺戮の魔女のような扱いだった。そして法廷でもその資質が問題にされ、事件の本質が彼女と森恒夫の資質にあったかのごとく評されたのである。

1982年6月18日の一審判決(中野武雄裁判長)から見てゆこう。

「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である」

「被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである」

事件が革命運動とは無縁の、指導者個人の資質的欠陥によるものだったと、いわばとるに足らない凶悪事件と断じたのである。これ自体は、裁判官による永田と森への皮肉をこめた悪罵に近いものがある。

いっぽう、森は裁判の開始を待たずに獄中で自殺した(1973年1月1日)。そのとき永田は「森君、ずるい」と思わず口にしている。世間の非難を一手に引き受けることになった永田に、左翼陣営は同情的だった。

とくに、山岳ベースにおける処刑が革命運動自体に由来するものではなく、永田の個人的資質の欠陥、および森の木量不足に起因するという判決には、事件を個人的なものにしていると批判的なものが多かった。あくまでも、革命運動上の問題としてとらえるべきだという、ある意味では真っ当な批判といえる。

しかしながら、個人の資質に還元すべきではない、という論調のあまり、指導者の資質問題が軽視されてきたのも否めない。森恒夫が発議した体育会的な、暴力による総括援助がなければ、同志殺しが起きていないのは明らかである。そして永田洋子の総括発議と告発がなければ、共産主義化のための総括が始まらなかった可能性は高い。独裁的な指導部として、ふたりが事件の責めを一身に負わなければならないのは言うまでもない。

◆森恒夫の実像とは

判決で「実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家」と評された森恒夫は、しかしマスメディアでは「臆病者」と評されていた。

事件発覚から初期の段階で、明大和泉校舎事件(69年7.6)から「逃亡した」とされていたからだ(複数の週刊誌報道)。森が7.6事件の現場にいなかったのは事実だが、逃げたというのは事実の歪曲である。

森恒夫が行方をくらましたのは、7.6事件に先立つ6月27日の全逓合理化反対集会の司会役でありながら、現場に現れなかったというものだ。これが事実である(重信房子・花園紀男らの証言)。その後、森は大阪の工場で旋盤工として働いていたという。

それより前に、森恒夫はブントの千葉県委員長として三里塚の現地闘争責任者を務めている。のちに連合赤軍事件を知った反対同盟農民は「森がそんなこと(同志殺し)をするとは思えない」と感想を述べたという。

上記の「逃亡説」に基づいてか、週刊誌は「関東派のリンチに遭って、森はテロらないでくれと哀訴した」と報じている(角間隆の『赤い雪』に採録)。

アスパック粉砕闘争の過程で、赤軍フラクが「関東派」からリンチを受けたのは事実である(『世界革命戦争への飛翔』赤軍派編)。しかし「藤本敏夫といっしょにリンチを受け、藤本は古武士の風格で対応したが、森は自己批判した」(週刊誌報道)というのは誤報である。藤本は単独で毎日新聞記者を名乗る何者かに渋谷で拉致され、数日後に解放されている。そのかんの記憶があいまいで、生前もこの事件について何も語らなかったという(加藤登紀子)。

元赤軍派のS氏に聞いた、森恒夫の人物評を紹介しておこう。相手に対しては、きわめて厳格な物言いをしたという。「お前はどうなんだ?」が口癖だったとは、山岳ベースでの執拗な総括要求を思わせる。

そのいっぽうで、年下の者たちには「親父さん」と慕われていたことは、つとに知られるところだ。理論的には突出力があり、連合赤軍で森に対等の議論ができたのは、塩見孝也の秘書役だった山田孝しかいなかった。

◆残された謎

相互批判・自己批判が「銃と兵士の高次な結合」という「共産主義化論」に応用され、森の体育会的な「総括援助」が暴力の発動となったこと。その思想闘争は際限のない「総括地獄」へと堕ちていった。これらが連合赤軍事件の概略である。

だがそれにしても、犠牲になった「同志たち」がなぜ、山岳ベースから逃げなかったのか。修羅場と化していた「処刑場」から、なぜ逃避しなかったのか、という疑問が残るのだ。じっさいには下山(逃亡)したメンバーがいるので、逃げられなかったという解釈は成り立たない。次回はこれを考察していこう。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

◆共産主義化とは何か?

森恒夫によれば、各自の革命運動へのかかわりを問い質し、みずからの活動の総括(反省)をもとめる。その「総括」を達成することで、銃と高次な結合(共産主義化)が果たせるのだという。

これが、連合赤軍の指導者森恒夫の「共産主義化論」である。もともと赤軍派は、組織的に「相互批判・自己批判」を行なってこなかった。

この「相互批判・自己批判」は、中国共産党が延安への「長征中」に行なった、整風運動の方法である。お互いに批判し合い、自己批判することで政治的態度を改める。それを通じて党員の思想傾向を改め、党風を整頓する。いわば党内の思想闘争である。

 

『情況』2022年1月号

この思想闘争はもともと、赤軍派にはないものだった。思想闘争にもとづいた、精緻な組織活動。その違いは、両派が遭遇した「同志の処刑」で露呈したものだ。

革命左派が呻吟ののちに「処刑」を実行したのに対して、赤軍派は曖昧なまま実行できない組織だったのである。

植垣康博はその違いを「真面目な革命左派にたいして、われわれはいい加減だった。その違いだった」と語っている(『情況』2022年1月発売号)。

だからこそ、森は「革命左派は進んでいる」と感じたのだ。そして森は、革命左派の「進んでいる部分」を巧みに摂取する。

森はこう記している。

「赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化(共産主義化=引用者注)の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では『革命戦士の共産主義化』が中心軸として出されてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判・自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えた」(逮捕後の「自己批判書」)。

ところで、森の理論的な卓抜さに対抗できる指導者は、革命左派にはいなかった。

その結果、森の「共産主義化」の理論をそのまま受け容れることになるのだ。森は革命左派の組織内の相互批判を、上記の「共産主義化のための総括」に適用したのだった。
そこまでならば、山岳ベースで大量の死者が出ることはなかった。

いかに過酷な相互批判・自己批判であっても、討論をしているだけで人が死ぬことはない。同志たちが死んだのは、総括の「援助」として殴ったからなのである。食事を与えず縛り上げ、死ぬほど殴ったから死んだのだ。極寒の中で放置されたからこそ、かれら彼女らは死んだのである。

◆森の総括体験

その暴力は、どこからやって来たのだろうか。この連載の前回で、連合赤軍の「処刑」がどこから発想されたのは、いまも流布している「連合赤軍服務規律」(ニセ文書)を参考にしたのではないか、という公安当局の推測を批判してきた。それが共産主義政党の綱領的な部分に抵触するがゆえに、政治的な「服務規律」足りえないことも明らかにした。したがって、「処刑」は規約によるものではない。だがまぎれもなく、連合赤軍は「処刑」を実行したのだ。当初の「敗北死(総括をしきれずに、敗北することで死んだ)」から始まり、12名の同志が殺されたのである。

その「暴力的な総括支援」の思いつきは、じつは森恒夫の高校時代の体験にあった。高校時代の森恒夫は、剣道部の主将だったのだ。かれは剣道の稽古のさなか、転倒して後頭部を打ったことがある。脳震盪で意識をうしない、その後覚醒して「生まれ変わった気分だった」という。

剣道協会によれば、つばぜり合いのときに後ろ頭から倒れて脳震盪を起こす事故があるという。それを避けるために、倒れるときは腰を落として倒れるのが、事故防止のためには良いとされている。森はこの脳震盪を体験したのである。読者諸賢はいかがであろう、脳震盪の「意識喪失」の体験はありますか? 

ボクシングでダウンするのは、グローブでの打撃が脳を揺さぶり、脳震盪を起こすからだ。ラグビーもタックルで何度か、頭からぶつかるうちに脳震盪を起こす。かつては「魔法のヤカン」で頭に水を垂らすと、倒れていた選手が蘇生するシーンを見たものだ。あれはしかし、きわめて危険である。脳震盪をくり返すうちに、それがパーキンソー病の因子になる。

ともあれ、森恒夫は高校剣道部時代の体験から、気絶する(脳震盪を起こす)ことで、人間が生まれ変わると信じていたのだ。永田もそれを信じていた(『あさま山荘1972』坂口弘)。

◆「同志」を殺した戦後教育の体罰

じつは森恒夫をして、気絶させて蘇生させる「総括援助=体罰」は、戦後教育の遺産なのである。けっして戦前のものではない、戦後民主主義教育の体罰なのだ。

現在、60歳以上の男性なら記憶にあるはずだ。教室で早弁(お弁当を早めに食べる)しては、教師から往復ビンタを喰らい、野球部の部活では「ケツバット」の罰をお見舞いされた。昭和50年代までの日本では、体罰はふつうに行なわれていたのだ。

家庭でも同じだった。戦争(軍隊)を生き残った父親はすこぶる厳しく、ことあるごとに息子を殴ったものだ。筆者も同年齢を前後する3歳ほどの同輩の証言で「親父を殺したいと思ったことがある」というのを聞いたことがある。ちなみに、小学生のわたしを殴った父親は、片耳が聴こえなかった。予科練で教官に殴られたときに、鼓膜を失ったのである。

もともと野球やラグビー、サッカーなどの「外来競技」は、きわめて民主的でスポーツマンシップにあふれたものだった。少なくとも、戦前のスポーツはリベラルアーツ(教養主義)を体現したものであって、体罰などとは無縁のものだったのだ。

ところが、近代の市民革命を経なかった日本の軍隊は、上からの暴力的な畏怖をもって、農民兵(当時の国民の大半)を統制する必要があった。スパルタ式という体罰教育も、じつは旧軍由来のものなのだ。

陸軍における内務班暴力(公認された私的制裁)、海軍における精神注入棒。最も先進的とされた海軍兵学校ですら、上級生による問答無用の鉄拳制裁が容認されていたのである。

こうした旧軍における暴力が徴兵された男たちに叩き込まれ、戦後になって日本全国に伝えられたのだ。

それは息子を鍛える父親の家庭における教育、部活動の指導者の暴力的な指導であり、教室内でも教師の暴力制裁は行なわれた。運動会における軍隊式の行進、スポ根アニメの流行、応援団のシゴキ(内部リンチ)、そしてその暴力は左翼運動にも持ち込まれていた。
森恒夫の体育会的な「総括援助」はまさに、戦後教育がもたらしたものだったのだ。殴って教える、殴って総括させる……。

この森の総括援助は過酷な厳しさを求め、やがて食事を与えずに縛りあげ、極寒の山中で同志たちを死に至らしめたのである。連合赤軍の「同志」たちは、左翼の共産主義理論ではなく、旧軍隊ゆらいの暴力によって殺されたのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

革命左派において、連合赤軍以前に二人の同志が「処刑」されていたことは、この連載の〈4〉に記し、その淵源がまたそれ以前の「スパイ問題(冤罪)」にあったことを明らかにしてきた。

だがその「処刑」は、どこから誰が発想したものなのだろうか。じつは革命左派は上記の二人を処刑する前に、山岳ベースで座敷牢の設置を検討していた。そこまでかれらは迷っていたのである。

赤軍派において、指令された「処刑」が行なわれず、そのまま曖昧になったのも前述したとおり。処刑に踏みきるには、それ相応の決断をもとめられたのである。

ある意味で、処刑は軍隊に特有の命令権の担保である。

命令に従わない者は、指揮権において処罰する。その最高の処罰が「処刑」なのである。旧軍においても、陸軍刑法は一般の刑法とは別個に、敵前逃亡や私兵的指揮権発動への刑罰として「処刑」が設けられていた。現在の自衛隊でも、敵前逃亡には死刑の規定が必要だと議論されている(石破茂ら)。

その意味では、永田洋子らの相談に、森が「脱落者は処刑するべきやないか」と返したのは、軍事の常識でもあったのだ。

しかし、そのいっぽうで、党内で処刑を行なうということは「反革命」の烙印を押すことであり、そのことによって警察権力の弾圧(殺人罪)を招きかねない。

さらには革命党派である以上、綱領的な内容にもかかわってくる問題である。すなわち人間の変革をあきらめ、処刑を行なうことで将来の社会も「死刑を存置した」社会であることを明確にしてしまうのだ。

過去に内ゲバで殺人を冒してきた党派が、まがりなりにも「死刑反対」を云々するのはおかしい。革命党派の立ち居振る舞いは、まぎれもなく目指すべき革命、樹立すべき社会の将来像を顕わすからだ。その意味で「天皇を処刑に」などという天皇廃絶論者のスローガンは、死刑廃止運動と真っ向から対立するものと指摘しておこう。

◆「処刑」を推奨した地下文書

どこから「処刑」が出てきたのか、じつは公安当局をしてそれを「推察」させるものがあったのだ。

72年3月に連合赤軍の「粛清(同志殺し)」が明らかになったとき、警察(公安当局)はある文書に注目した。この文書をもとに、処刑が行なわれたのではないかと。

※遊撃インターネット(dti.ne.jp) http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/sekigun.htm

現在は「連合赤軍服務規律」として流布している「怪文書」のたぐいである。

出所不明、文責も不明の「服務規約」である。文面に「党員」とあることから、72年の公安当局は「連合赤軍に似た某党派」と、報道陣にコメントしたのであろう。

おそらく実体は、地下活動を奨励するグループ、あるいは個人の地下文章なのであろう。のちに有名になる「腹腹時計」(東アジア反日武装戦線)と同様、自主流通ルートで流布したものと思われる。この怪しい文書を連合赤軍が参考にしたのではないか、という公安当局の推察(談話)をもとにして、何者かが「連合赤軍服務規約」なる名称を付けたのであろう。原本(3節16章)と流通判(5節17章)は、若干構成が改変されている。

※↓当時の「週刊朝日」に記事化されている「服務規約」。
http://0a2b3c.sakura.ne.jp/renseki-b4bc.pdf

いずれにしても、この「服務規約」には「処分は最高死刑」という記述があり、そのいっぽうで、大会や中央委員会の運営規定がない。革命党の軍の服務規定である以上、政治委員(指導)の規定があってしかるべきだが、それも見られない。

たとえば中国の人民解放軍の「三大規律八項注意」のごとき、人民の財産を奪ってはならない、人を罵倒するな、などの原則的な禁止事項もない。下級は上級にしたがう担保としての「少数は全体(大会)に従う」民主集中制の原則すらない「規律」なのである。

この「連合赤軍服務規約」を批判して、連合赤軍の組織的限界を云々する者も少なくない。だがじっさいには、もともと捏造の「処刑」規程なのである。この点は連赤事件50年を期に、明確にしておくべきであろう。

当時の週刊誌に掲載された、連合赤軍事件の「処刑」シーン

ともあれ、赤軍派の女性活動家の指輪問題を機に、各人の革命運動へのかかわり方が問題にされる。総括(この場合は反省)をすることで、各員の共産主義化を成し遂げる。銃と兵士の高次な結合によってこそ、銃によるせん滅戦が準備されるというものだ。

このときの森恒夫の発言が、連合赤軍の方向性を決めた。

「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」「各個人の革命運動に対するかかわりあい方を問題にしなければならない」(森恒夫の発言『十六の墓標』永田洋子)

爾後、12名の同志がとるに足らない理由で「総括」を要求され、暴力的な「総括支援」によって、飢えと極寒のなかで命を落としていくのである。

このシリーズでは、怖いもの見たさの興味をみたすがごとき、残虐シーンを再現することは敢えてしない。

その代わりに、なぜ革命集団が「狂気の同志殺し」に手を染め、12名(14名)もの犠牲者が出たのか。その理論的・実践的な誤りの解明を披歴していこう。そのことこそが、志なかばで斃れた「同志たち」の供養になるであろう。

そしてまた、現実の組織や運動に教訓が供されるのではないか。それは社会運動にかぎらず、一般の会社組織や任意団体にも共通するテーマをはらんでいる。(つづく)

連合赤軍略年譜

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年2月号!

連合赤軍が凄惨な同志殺しに至った原因として、革命左派による離脱者処刑が挙げられる。赤軍派と革命左派が合同する以前に、革命左派は山岳ベースから離脱した男女ふたりを処刑しているのだ(印旛沼事件)。

その処刑に当たって、永田洋子(革命左派)は森恒夫(赤軍派)に相談をしていた。そのとき、おなじ問題(坂東隊に帯同していた女性が不安材料だった)を抱えていた森は、永田に「脱落者は処刑するべきやないか」と答えている。

これが永田洋子と坂口弘ら革命左派指導部の尻を押した。両派は「脱落した同志の処刑」という、きわめて高次な党内矛盾の解決をめざしたのである。この高次な党内矛盾の解決が、やがて党の組織的頽廃をもたらすことには、まだ誰も気付いていなかった。

◆いいかげんな赤軍派・真面目な革命左派

ところが、二名の処刑を実行した革命左派にたいして、赤軍派は処刑を実行できなかった。「行動をともにする中で解決していこう」という坂東國男のあいまいな方針のまま、ついに彼女を隊から追い出すことで「解決」したのである。処刑を「解決」方法と考えていた森は、しょうがないなぁという反応であったという。森は殺さなかったことで、明らかに「ホッとしていた」のである。

そうであれば、まだ「処刑」によって生起される深刻さ、組織的な頽廃を森は予見していた可能性がある。

いっぽう、革命左派は森の提案どおり処刑を実行した。この違いを、植垣康博は「いいかげんな赤軍派にたいして、革命左派は生真面目だった。その違いだった」と語っている(『情況』2022年1月発売号)。

◆印旛沼事件が最初ではなかった

連合赤軍事件(同志殺し)の呼び水が印旛沼事件だったとして、二人の処刑がアッサリと決まった。というのも、じっさいには事実ではない。

革命左派においては、この事件の前にも「処刑」を検討していたのだ。永田洋子のゲリラ路線に対して、公然と反対する同志がいたのだ。

この同志は職場で労働争議を抱えた女性で、労働運動を基盤とした党建設の立場から、党の戦術をゲリラ闘争に限定するのに反対していたのだ。もともと革命左派は、地道な労働運動を基盤にした組織である。川島豪-永田洋子ラインのゲリラ路線は、70年安保の敗北をうけた新左翼の過激化にうながされたものであって、従来の組織路線とのギャップが生じていたのだ。

この女性同志の原則的な異見に、永田洋子は「権力のスパイではないか」との疑念を持つのである。

前回の記事で、筆者は瀬戸内寂聴の言葉を引いて「可愛らしい女性だった」という評価を紹介した。そのいっぽうで、他人の心情を察する能力が彼女の特性でもあった。この「心情を察する能力」はオルグする能力であるとともに、相手を見抜く力、すなわち猜疑心が豊富であることを意味している。

のちに永田洋子は、夫である坂口弘を見捨てて、妻子のある森恒夫と結婚する。そのほうが「政治的に正しい」という理由を公然と表明して。これは猜疑心ではなく、するどい嗅覚をもった政治的判断である。元革命左派のY氏は、この永田の乗り移り主義を、指導者の川島豪から同輩同志の坂口弘へ、新しい指導者森恒夫へと、権力にすがっていく嗅覚であったと語っている。われわれは永田のこの変遷に、指導者の権力維持が粛清を生むという、連合赤軍事件のもうひとつの面を見せられる思いだ。

ともあれ、永田の猜疑心は女性同志がスパイではないかと、疑いを持たせることになる。坂口もこれに同調し、ひそかに処刑が検討されるのだ。

けっきょく、処刑の結論が出ないまま推移し、革命左派は真岡銃砲店猟銃奪取事件の弾圧で逃亡を余儀なくされる。のちにこの女性同志は、連合赤軍事件の公判を傍聴し、みずからへの「スパイ冤罪」と、当時の革命左派指導部の混乱を確認することになる。彼女もまた、きわめて真面目な革命左派らしい活動家だった。

◆森恒夫の動揺

じっさいに革命左派が二名の処刑を実行すると、森恒夫は動揺した。側近の坂東國男に「革命左派が同志殺しをやった。あいつらは、もう革命家じゃない」と語ったという。

くり返しておこう。革命左派においてスパイ疑惑が発生し、処刑を検討していた。革命左派も赤軍派も脱落者と不安分子を抱え、森が「処刑すべきではないか」と意見する。革命左派が二名の殺害を決行し、赤軍派は処刑を果たせなかった。

ここで森に革命左派への負い目、気おくれが生まれたのである。革命左派は進んでいるが、赤軍派は立ち遅れている。という意識である。

◆両派の組織的な交流

71年の秋から、赤軍派と革命左派の組織的な交流がはじまる。

婦人解放運動を組織のひとつの基盤にしていることから、革命左派には女性が多かった。家族的な団結を党風にしていたかれら彼女らは、山岳ベース(当初はキャンプ地のバンガローなどを使用)でも和気あいあいの雰囲気だったという。

爆弾製造に精通した赤軍派の植垣康博(弘前大学理学部)らが爆弾製造の講習をおこない、革命左派の女性活動家たちがそれを習う。しかしこのとき、キャンプに宿泊した植垣は、つい女性の体に手を伸ばしてしまう。のちに生活レベルの総括を要求され、男女の問題から個人の弱さが批判される素地がここにある。若い男女が狭い場所に、身体を押し合いながら寝泊まりしているのだ。性的な問題が起きない方が不思議というものだ。70年代後半に三里塚の団結小屋でも、この痴漢・女性差別問題は頻発している。

71年の12月に、両派は山岳ベースで本格的に合流する。当初は軍事部門だけの合同(合同軍事演習)だけだったが、森恒夫も永田洋子も銃を前提とした「せん滅戦のための建軍」をめざし、そのためには建党が課題としてされたのである。

ここにわれわれは、ひとつの岐路を見出すことができる。軍事を優先したがゆえに、組織的な統合をはからねばならない。そもそも軍事は高次な政治レベルにあり、そうであれば赤軍派でもなく革命左派でもない「新党」が必要とされるのだ。

その組織名はしかし、なぜか「連合赤軍」であった。理由は簡明である。世界革命路線の赤軍派と、反米愛国路線の革命左派は、そもそも政治路線の異なる組織の「連合」だったからだ。

後年、この「路線的野合」が、党の統合のための「思想闘争」を必要とし、なおかつ両派の主導権争いから粛清(同志殺し)が行なわれた。と、獄中指導部は批判(総括)したものだ。野合組織の路線的な破産であると。

たしかに、理論家の総括としてはこれでいいのかもしれない。しかし路線の不一致が解決されていたとしても、山に逃げるしかなかった指名手配犯だらけの組織は、脱落者を防止する「思想闘争」を必要としていたのである。

◆水筒問題

まず最初に、両派の合同段階で対立が生じた。赤軍派が新しい山岳ベースに革命左派を迎えたとき、かれらは水筒を持参していなかったのだ。山登りには水筒が必須である。

水筒が必要なのは山登りだけではない。もう10年以上も前になるが、洞爺湖サミットに自転車キャラバンで環境問題を訴える「ツーリング洞爺湖」を準備したおりのことだ。水筒(ボトル)を忘れてきた仲間に「連合赤軍は水筒問題から同志殺しの総括になったんだぞ」と笑い合ったことがある。長距離走やラグビーなどの球技でも、水分補給は勝敗にかかわる。

じつは革命左派が水筒を持参していなかったのは、かれらが沢登りを得意としていたからだ。沢を登っているかぎり、水に不自由することはない。だがこの水筒問題は、革命左派から主導権を奪う赤軍派(森恒夫)の格好の材料にされたのだった。

◆総括要求

数の上では少数の赤軍派(森恒夫)が、M作戦と爆弾闘争でつちかった力量をしめし、家族的で和気あいあいとした革命左派を、まるごと糾合してしまおうとする野心があったと、語られることが多い。

半分は当たっているが、のこりの半分は森の負い目にあったというべきであろう。脱落者を処刑できなかった赤軍派とはちがって、革命左派はすでに二人の同志を殺しているのだ。
いっぽう、水筒問題で批判された革命左派が逆襲する。

赤軍派の女性が指輪をしてきたことを「武装闘争の訓練をする山に、指輪は必要ない」と批判するのだ。その批判はエスカレートし、そもそも「どういうつもりで山に来たのか」という難詰に発展する。これが「総括要求」となったのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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