「たかが駐車場、されど駐車場」
今、駐車場を舞台にして、元赤軍派議長・塩見孝也が闘っている。
塩見孝也とは何者か? もはや今、説明が必要だろう。
学生運動の嵐が吹き荒れていた、1960年代後半、京都大学でブント(共産主義同盟)の活動家となり、幹部となると、武装闘争を唱えたのが、塩見氏である。

それまでヘルメットを被り、角材を持って機動隊とぶつかる、というのが先鋭的な学生運動のスタイルだった。そこに、火炎瓶の使用を強く主張したのが、塩見氏である。1968年10月21日の新宿騒乱の時だった。この時は、火炎瓶は用意されていたが、政治局内での激論の末、使用は見送られた。火炎瓶が使われるようになるのは、その後だ。

続きを読む