1963年4月、日本音楽事業者協会(音事協)が設立された。音事協では、加盟社同士でタレントの引き抜きを禁止する協定を結び、独立阻止で結束を固めた。だが、結成されたばかりの音事協は加盟社も少なく、引き抜きトラブルは収まらなかった。
1965年に起きたのが、歌手として、橋幸夫、舟木一夫とともに「御三家」と呼ばれた西郷輝彦の独立事件だった。
◆10ヶ月で2億円を稼いだ「御三家」西郷の月給は2万8000円
鹿児島県生まれの西郷輝彦は、高校を中退後、歌手を目指して、大阪に行き、ロカビリーバンドを主催していたゲイリー石黒に拾われてバンドの雑用をしていたところ、1963年、当時、龍美プロダクションという芸能事務所を経営していた相澤秀禎(後のサンミュージック創業者)に見出され、上京。
だが、龍美プロは稼ぎ頭だった歌手の松島アキラなどが去ったことで経営が左前となり、当時、勢いのあった東京第一プロダクションに吸収されることとなり、西郷も移籍することになった。
西郷は東京第一プロに在籍してから売れ始め、1964年2月発売のデビュー曲『君だけを』がヒットし、130万枚も売れ、その年のレコード大賞新人賞を受賞することとなった。ところが、東京第一プロでは在籍していた10ヶ月ほどの間に2億円を稼ぎながら、西郷の月給は2万8000円と薄給だったという。東京第一プロと対立した西郷と相澤は1965年1月、独立した。
独立といっても、西郷と相澤には資金も力もなかった。そこで、頼ったのが、太平洋テレビジョン社長の清水昭だった。太平洋テレビは、もともとテレビ映画を海外から買い付け、日本語版を制作し、日本のテレビ局に配給する会社だったが、当時は芸能プロダクション事業にも進出し、大勢のタレントをかき集めていた。西郷と相澤は、太平洋テレビ、所属レコード会社のクラウンレコードなどとの共同出資という形で日誠プロダクションという事務所を立ち上げた。
◆西郷輝彦の幸運──「音事協」独占途上期だった1960年代の芸能界
当時はすでにタレントの引き抜き禁止じる音事協は設立されていたが、太平洋テレビによる西郷の引き抜きは阻止されず、干されることもなかった。
『週刊現代』(1965年4月15日号)によれば、「西郷をとりまく大人たちも悪いが、もとをたどれば彼のまいたタネさ。育ての親であるプロダクションを一年たらずで裏切った西郷だが、本来なら事業者協会に提訴されて、芸能界をほされたかもしれない(中略)西郷はオトナの欲につられて、芸能界から抹殺されることは助かった」というプロダクション関係者のコメントを紹介している。
では、なぜ西郷は干されなかったのか。
音事協発行の『エンテーテイメントを創る人たち 社長出番です。』所収の第一プロダクション社長、岸部清のインタビューによれば、音事協の創立メンバーは、次の8人だった。
渡辺 晋(渡辺プロダクション社長)
木倉博恭(木倉音楽事務所社長)
西川幸男(新栄プロダクション社長)
堀 威夫(堀プロダクション社長)
岸部 清(東京第一プロダクション社長)
永野恒男(ビクター芸能社長)
新鞍武千代(日本コロムビア文芸部長)
宇佐美進(キングレコード)
東京第一プロの岸部清は音事協に加盟していたものの、太平洋テレビは加盟していなかった。太平洋テレビはテレビ映画の輸入会社ということもあって、音事協加盟の芸能プロダクションとは流派が異なるのである。できたばかりの音事協は、カルテル組織としては未熟で芸能界全体ににらみを利かすだけの力がなかったのだろう。
(星野陽平)
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