当欄で繰り返し冤罪疑惑をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件では、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。実を言うと、筆者は上告棄却の判決が出る少し前から広島拘置所で、湖山氏に事件当日からの経緯を振り返ってもらう取材を続けており、事件発生から丸4年になる昨年11月28日前後のタイミングでインタビュー記事を発表したいと考えていた。湖山氏が最高裁に上告を棄却されたという知らせは、くしくもその取材が佳境に入った時期にもたらされたものだった。
だが、湖山氏は雪冤をあきらめたわけではなく、再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。また、6歳の女の子を惨殺した真犯人がまだ野放しになっている可能性が高いことを考えれば、この事件は決して終わっていない。そこで湖山氏にこのほど、改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。
湖山氏は事件発生当時、別れた元妻と金銭問題の交渉をするために連日、所在不明の元妻を探していたのだが、事件当日の夜も元妻のいとこが住んでいるマンションに元妻が身を寄せていないか確認に赴いていた。このマンションと同じ敷地にあるマンションが事件現場となったマンションで、そこに湖山氏の元交際相手のMさんが娘である被害女児と一緒に暮らしていた。事件当日にこのマンションの敷地に赴き、タバコの吸い殻を捨てていたことが、裁判では湖山氏に大変不利にはたらいた。
以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記全文を今回から3回に分けて公開する。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。
◆「みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われた
事件があった日、元嫁を探しに出ていた僕が家に帰ったのは2時前後でした。2時半かその前に、自販機にジュースを買いに出て、その時に妹とすれ違いました。そして帰ってくると、父親がちょうどトイレに起きてきて、どういうことを言われたかは覚えていないですが、「どこ行っとったんか」みたいなことを言われました。それから2階の部屋に戻り、1時間ほどゲームをして、寝たのは3時半前後だったと思います。
そして朝、母親が部屋に上がってきて、「警察が来とるよ」と起こされました。それで僕は玄関のほうに行ったのですが、2、3人の刑事が来ていたので、「何ですか?」と聞きました。すると刑事は、「ちょっとMのところで火事があってのう。ちょっと聞きたいことがあるんじゃ」みたいなことを言いました。
火事?と驚きましたが、火事のことで、なんで自分に話があるのか? とも思いました。しかし、とりあえず話を聞いてみようと思いました。それで、かるく着替えて、家の近くの交番まで刑事と普通に会話をしながら歩いて行って、その交番に刑事が停めていた車で下関署まで行きました。
下関署では、取り調べ室に入る前、僕と同い年の知っている刑事が寄ってきて、「おい、湖山。大丈夫か」「何があったんか」などと言われました。その刑事は、僕が以前、Mを殴った容疑で逮捕勾留された際の担当だった刑事です。取り調べ室に入って、「あの後、どーなったんか」と話しかけてくるので、「子供(筆者注:別れた妻との間にもうけていた娘)は俺が引き取ったや」「やったやないか」などと普通に話をしました。
取り調べには、知能犯係の刑事もいました。その刑事は紙を持っていて、それをチラリと見たら、「殺」という字が見えました。そして、莉音ちゃんが死んだって聞かされたんですが、刑事は「どうも殺されたみたいなんじゃ」と言うんで、僕は「ホントですか?」みたいな感じになった。同い年の刑事の顔を見たら、同い年の刑事は言葉も出さず、僕は「マジか…」みたいになりました。
それから「事件があった時のことも聞かせて欲しい」みたいになって、同い年の刑事が調書を作ってくれました。僕はもうMと関わり合いたくなかったので、「一切そこ(筆者注:事件現場)へは行っていない」と言ったら、それで調書をつくってくれました(筆者注:このように湖山氏は事件当日、事件現場のマンションと同じ敷地に行っていたことは当初隠したが、のちに自ら警察に打ち明けている)。そうこうしていたら、父親が下関署に電話してきたらしく、「息子は今マジメにやっとるのに、どういうつもりか!」などと怒鳴り上げ、帰らすように言ったそうです。
僕も娘のことが心配だったんで、刑事たちと何時までかかるのかという話をしていたのですが、オヤジのおかげで、「帰らすけえ」となりました。そして帰りぎわ、取り調べ室で同い年の刑事と2人きりになったんですが、「オレは思ってないけど、みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われました。
警察の車で連れられて家に帰ると、親父に「何があったんか」と聞かれました。刑事からは「家族にはまだ言うな」と言われていたのですが、事件のことはニュースでバンバンやっていたので、親父は「このことやないんか」と言ってきました。そうだと認めると、「お前(が犯人と)違うんか」と言ってきて、「違う」と答えたんですが、家でも尋問されているようでした。
◆警察の内偵捜査はずっと続いた
その日以降も親父からは事件との関連について、「やってないんか」と聞かれ続けました。下関では、事件に関する噂が飛び交っていたのですが、親父の部屋に呼ばれ、「ベランダからお前の指紋が出たらしいぞ」と言われたこともありました。僕に関する噂が広がったのは、僕が下関ではそれなりの知名度があったからだと思います。
警察の呼び出しも事件当日のほか、2回くらいありました。たしか12月2、3日くらいのことだったと思います。下関タワーの近くに電器屋さんがあるんですが、その駐車場で落ち合おうという話になり、その駐車場に停められた警察車両に乗り、刑事から色々話を聞かれました。1回目は話だけで終わりましたが、2回目の時は口腔内細胞を採られています。
刑事の一人はこの2回会って話をする際、「タバコを吸ってもええぞ」としつこく何度も言ってきましたが、僕は断っていました。そして最終的に業を煮やしたのか、「口の中の唾液を採らせてくれ」と言われました。ある程度ほっぺの内側を綿棒でこすって渡そうとすると、「まだしっかりとこすりつけろ!」と語気強く言われ、これでもかというぐらいこすって渡しました。
それからは警察の内偵捜査が続きました。僕の住んでいる地域では、地域に馴染んでいる人と馴染んでいない人がすぐわかるんです。道に車が停められていても、「見ない車だな」とすぐわかります。それに、うちの前の通りは普通、地域に住んでいる人以外は通らないんです。ですから、家の近くなどに刑事や警察、マスコミの車がいると、すぐにわかりました。
たとえば娘、甥っ子、姪っ子を連れて公園に行った時など、僕が車で外出すると、外に警察のミニバンやスカイラインその他の警察車両がいて、僕の車をつけてきていました。ある日、仕事に行く時、僕の車のあとをスカイラインがずっとついてくるので、運転している人間の顔を見てやろうと徐行運転して横に並んだら、向こうはもっとスピードを落とし、逃げていったということもありました。逮捕されるまで、そういう内偵はずっと続いていました。
また、マスコミの記者もよく家の周りをうろついていました。記者は大体、小さいカメラを持って外にいるんです。僕が家から出た時に偶然ばったり会った記者が大慌てし、とにかくどこかへ隠れようと行き止まりの方向に歩いて行ったということもありました。
警察や記者に張りつかれても、僕の生活には、とくに害はなかったです。ただ、マスコミは最初のうち、とにかく僕に接触しようとしていて、母親が手伝いをしている、おば夫婦が経営する焼肉屋に行ったり、親父の会社に電話し、親父を怒らせたりしていました。親父は警察に電話して、「お前らのせいで、こうなっとるんやろうが! どねぇかせんか!」となどと怒鳴り上げていました。
当時、マスコミの取材は受けていませんでしたが、一度だけ、オグラっていう人が出ている番組の取材を受けたことがありました。この時は車の中で取材を受けたのですが、「Mはどういう性格?」「Mは家ではどういう感じだった?」と僕のことをほとんど聞かず、Mのことばかり聞いてきました。僕はこの時、「報道するな」と釘を刺していたんですが、番組ではこの時の僕の映像なのか、音声なのかはわかりませんが、とにかく話の内容が流れたらしいです。これにおじさんが怒って、テレビ局の記者に電話して、「どういう放送だったのか見せろ」と言っていましたが、はぐらかすようにされ、「もうおたくの取材は何も受けん」みたいになりました。
一方、警察は事件のすぐ後に電器屋の駐車場で話を聞かれて以降は、事件の半年後の翌年5月24日に任意同行されるまで直接接触してくることは一切なかったです。ただ、下関署には、運転免許証の更新のために電話でどうしたらいいのか問い合わせたり、免許証の写真を撮ったり講習を受けたりと2回足を運びました。写真撮影の時は娘と、講習の日は1人で行きました。[Ⅱにつづく]
【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。
[関連記事]
◎下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑
▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。