『砂のクロニクル』(1991年11月毎日新聞社)
「本文からではなく、解説から読む癖のある読者諸兄姉のために、ひとこと申し上げる。あなたの身は間違いなく本書の放つ劫火(ごうか)に焼かれ、その力に薙ぎ倒されるであろう。勝利者たちのこしらえる『正史』に激しく抗う者たちの瞋恚(しんに)の炎が、頁という頁にめらめらと燃えているからだ。真実の『外史』が、虚偽の正史を力ずくで覆しているからである。しっかりと心の準備をしておいたほうがいい。備えが済んだら、ひとつ深呼吸をして『飾り棚のうえの暦に関する舌足らずな注釈』から、目を凝らして、ゆっくりと読み進むがいい。熱くたぎる中東の坩堝に(るつぼ)に足もとから徐々に呑みこまれてゆくだろう。そして、読破した時、あなたの見る世界はそら恐ろしいほどに色合いを変えているはずだ。以上のみを言いたい。以下は蛇足である」
船戸与一代表作『砂のクロニクル』の解説に辺見庸が寄せた文章の書き出しである。
辺見のこの絶賛に誇張はない。大方の船戸作品の解説にも援用できそうな比類ない名解説だと思う。
とうとう船戸与一が鬼籍に入ってしまった。いつかこの日が来ることは覚悟はしていたけれども、ニュースサイトで船戸の訃報に接したとき、「え!」と声を上げてしまった。
◆船戸の内部に横たわっていた絶対的な物差し
私は船戸に何度も思いっきり殴られた。喧嘩の仕方も教わったし、語学習得のコツも教わった。気が付けば銃器の扱いの基礎も船戸から教わっていたので初めて自動小銃に触れた時も思いのほか違和感がなかった。
船戸は私にとって歴史、政治学、地理学、人類学の教師でもあった。意外かもしれないが「倫理学」も時々示唆してくれた。どちらかと言えば「左巻き」の私の思考傾向をいつもハンマーでぶち壊してくれた。船戸の内部には「正義」などなかった。もちろん「革命」への幻想など持ち合わせていなかった。でも船戸は「正義」を信じ行動する人間や「革命」に命を懸ける人間を決して軽蔑しなかった。
船戸の内部に横たわっていた絶対的な物差しがある。それは船戸が(自身がそうであるように)「硬派」を一貫して支持つづけた姿勢だ。「硬派」は右にも左にも国家の中にも国家の滅亡を目指すものの中にもいる。船戸の着眼は常にそういった「硬派」へ向けられていた。
◆「彼らを日和らせたくないから、そのためには殺すしかない」
『蝦夷地別件』(新潮社1995年のち新潮文庫、小学館文庫)
船戸作品にあっては主たる登場人物は必ず死ぬ。私自身勝手に「船戸ファイナル」と名付けていた極端も過ぎるダダイスティックな結末が必ず準備されている。不謹慎ながら読者としては愛すべき「硬派」達が最後には破局に向かうのが必定と解りながらもそわそわしながらページをめくる。
そしていざ導火線に火が付けば、それこそ書籍の中から戦場が立ち上がって来る。ありもしないヘモグロビンの血生臭さや、硝煙が生のように感じられるから不思議であることこの上ない。
あるインタビューで船戸は最後に登場人物を何故殺してしまうのか、と問われて答えていた。
「生きていると人間は日和るんです。彼らを日和らせたくない。その為には語らせないように、つまり殺すしかないわけです」
随分と恐ろしことを平気で言ってのける。さすが船戸だと感じいった。
船戸の中にはよって立つべき「主義」や「主張」など一切なかった。ただ船戸自身の皮膚感覚と常人を逸した取材力の賜物が奇跡を可能にせしめたのだろう。
「私は船戸に何度も思いっきり殴られた」と書いたが、勿論実際に殴られたわけではない。書物を通しての一方的受信しかなかった。
ただ一度だけ船戸と短い時間電話で言葉を交わしたことがある。講演を依頼しようと思い自宅に電話をかけたのだ。講演の趣旨とに日程を伝えると船戸は、
「その時は日本にいません」
とだけ語り電話を切った。
船戸に語らせるなど、無粋に過ぎる。断られてよかったと思っている。前出の辺見庸が『屈せざる者』(角川文庫)で船戸に人生論を語らせようとして、見事に失敗している。読んでいて心地よい失敗は珍しい。
船戸は自身の時代認識を時折登場人物に語らせる。
『炎流れる彼方』(集英社文庫)で元ブラックパンサー活動家が語る。
「1960年代の終わりから70年代のはじめにかけて、1日たりともぐっすり眠る暇なくおれたちは動きまわった。燃えさかる炎のようにな。状況は厳しかったが、精神は躍動していたんだよ。ところがいまはどうだ?80年代は最低だ。ほとんどだれもが健康のことしか考えていない。ジョギングと禁煙、ライトビールだけの時代だ。それで百歳まで生き延びたから何だというんだ?もうすぐ90年代にはいるが、それがどういう時代になるのかわからねえ。だがな、あのころのようにはなるまい。おれたちがめまぐるしく動きまわったあの頃みたいにはな」
『炎流れる彼方』の中で「最低だ」と言われた80年代から20余年、船戸は私の勘ではたぶん自覚的に人生の集大成として『満州国演義』(新潮社)を10年がかりで昨年完成させ力尽きた。『満州国演義』を読み進むうちに私は懇願にも似た気分になった。
「分かった。情熱は痛いほどわかった。でも船戸与一にはもっともっと世界を書いてほしい。
『満州国演義』こんなに入れ込んだら次書けるのだろうか」
懸念が現実になってしまった。もう新しい船戸作品は読めない。悲しい。
2015年3月18日、日比谷の帝国ホテルで開かれた第18回「日本ミステリー文学大賞」贈呈式に車椅子姿で出席した船戸与一氏。(撮影=ハイセーヤスダ)
『満州国演義』全9巻(新潮社2007-2015年)の広告コピー文(新潮社HPより)
【1巻】『風の払暁―満州国演義1』2007年4月20日(383頁)あの地が日本を、俺たちを狂わせた――。四兄弟が生きざまを競う冒険大河ロマン! 第二次大戦前夜。麻布・霊南坂の名家に生れながらも外交官、馬賊の長、陸軍士官、劇団員の早大生と立場を全く異にする敷島四兄弟が、それぞれの運命に導かれ満州の地に集うとき……中国と朝鮮、そして世界を巻き込む謀略が動き出そうとしていた。相克する四つの視点がつむぎだす著者渾身の満州クロニクル、いよいよ開幕!
【2巻】『事変の夜―満州国演義2』2007年4月20日(415頁)※1巻と同時発売
【3巻】『群狼の舞―満州国演義3』2007年12月20日(420頁) 国家を創りあげるのは、男の最高の浪漫だ――昭和七年、ついに満州国建国。 国際世論を押し切り、新京を首都とする満州国が建国された。関東軍に反目しながらも国家建設にのめりこんでゆく太郎、腹心の部下だった少年と敵対する次郎、国のために殺した人間たちの亡霊に悩まされる三郎、ひとり満州の荒野を流浪する四郎……二十世紀最大の浪漫と添寝を始めた男たちの、熾烈な戦いは続く。白熱の第三巻。
【4巻】『炎の回廊―満州国演義4』2008年6月20日(462頁) 希望に満ちた未来は消え、恐怖と狂気が大地に滲む――帝国の終焉が始まる最新刊。 「増殖する反乱分子を防ぐ方法はただひとつ――“恐怖”しかない」。脅威を増す抗日連軍、二・二六事件に揺れる帝都、虎視眈々と利を狙う欧米諸国。夢と理想に隠されていた、満州の真の姿が明らかになる。混沌が加速するなか、別々の道を歩んだはずの敷島四兄弟の運命も重なり、そして捩れてゆく……怒濤の書き下ろし850枚!
【5巻】『灰塵の暦―満州国演義5』2009年1月30日(470頁) 「見たんですよ、この世の地獄を」日支全面戦争に突入! 戦火は上海、そして南京へ――。 満州事変から六年。理想を捨てた太郎は満州国国務院で地位を固め、皇国に忠誠を誓う三郎は待望の長男を得、記者となった四郎は初の戦場取材に臨む。そして、特務機関の下で働く次郎を悲劇が襲った――四兄弟が人生の岐路に立つとき、満州国の運命を大きく動かす事件が起こる。「南京大虐殺」の全容を描く最新刊。
【6巻】『大地の牙―満州国演義6』2011年4月28日(428頁) 国家に失望したとき、人々が縋ったものは――現在をも読み解く待望の最新刊! この国はもはや王道楽土ではなく、関東軍と日系官吏に蹂躙し尽くされた――昭和13年。形骸と化した理想郷では、誰もが何かを失っていく。ある者は志を、または情を、あるいは熱意を、そして反抗心を。虚無と栄華が入り混じる満州に、北の大国が襲い掛かる。未曾有のスケールで紡ぐ満州全史、「ノモンハン事件」を描く第6巻。
【7巻】『雷の波濤―満州国演義7』2012年6月22日(478頁) バルバロッサ作戦、始動――日本有史以来の難局を、いったい誰が乗り越えられるのか。 昭和十六年。ナチス・ドイツによるソビエト連邦奇襲攻撃作戦が実施された。ドイツに呼応して日米開戦に踏み切るか、南進論を中断させて開戦を回避するか……重要な岐路に立つ皇国を見守る敷島四兄弟がさらなる混沌に巻き込まれていくなか、ついにマレー半島のコタバルに戦火が起きる。「マレー進攻」に至る軌跡を描く待望の最新刊!
【8巻】『南冥の雫―満州国演義8』2013年12月20日(430頁) 追ってくるのは宿命か、自らの犯した罪の報いか――完結へのカウントダウン。 昭和十七年。南方作戦の勝利に沸く満州に、米軍による本土襲撃の一報がもたらされる。次々と反撃の牙を剥く大国、真実を隠蔽する大本営、無意味な派閥争いに夢中の司令官たち……敗戦の予感に人々が恐慌するなか、敷島次郎はあえて“死が約束された地”インパールへと向かう??唯一無二の満州クロニクル、いよいよ終焉へ。
【9巻】『残夢の骸―満州国演義9』2015年2月20日(476頁) 満州帝国が消えて70年――日本人が描いた“理想の国家”がよみがえる! 今こそ必読の満州全史。 権力、金銭、そして理想。かつて満州には、男たちの欲望のすべてがあった――。事変の夜から十四年が経ち、ついに大日本帝国はポツダム宣言を受諾する。己の無力さに打ちのめされながらも、それぞれの道を貫こうとあがく敷島兄弟の行く末は……敗戦後の満州を描くシリーズ最終巻、堂々完結。
▼田所敏夫(たどころ としお)兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ
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