食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋と何をするにもいい季節ですね。ご飯は美味しいし、今年はスポーツ界も話題が満載です。

ラグビーのW杯では、いや腰を抜かしましたよね。まさか南アフリカに日本が勝つのを生きているうちに見られるなんて夢にも思いませんでした。それだけでなく、中3日で対戦したスコットランド戦以外(ラグビーは激しいスポーツで怪我が付き物なので中3日での対戦は国際レベルでは「無理」と言われています)は全て勝利の3勝1敗!この結果こそ驚嘆に値します。日本はこれまでW杯では1勝しかしていなかったんですから。それ以前にW杯に出場すら出来ない時代も長く続きました

文芸春秋『Number』特別増刊「桜の凱歌 エディー・ジャパンW杯戦記」表紙を飾った五郎丸歩選手(2015年10月23日臨時増刊号)

◆ラグビーは日本で稀なボーダレス・スポーツ──次のW杯は2019年、日本です!

日本人選手の実力アップは嬉しい限りですし、外国人選手を大胆に起用したのも勝因ですね。ラグビーに詳しくない方には「なんで日本代表チームなのに外人がたくさんいるの?」と思われた方も多いのではないでしょうか。ラグビーはその国の国籍を持っていなくても、一定の条件を満たせば代表になれる、素敵な意味で「ボーダレス」なスポーツなんです。

そしてW杯の次回開催は2019年日本なんですよ! 自国開催だから益々力が入ることは間違いなしです。今大会で3勝1敗なのにベスト8に残れなかったのはちょっと残念ではありましたが、それは次回2019年日本大会で実現してもらいましょう。大会はニュージーランドの2連覇で幕をとじました。でもベスト15になんと五郎丸選手が選ばれたのです。日本選手がベスト15に選ばれるのはもちろん初めてで世界からも五郎丸選手をはじめとした日本チームの力が認められた証ですね。本当に立派だったと思います。拍手!

◆フィギュアスケートは羽生選手の「限界演技」に要注目!

シーズンが幕を開けたフィギュアスケートW杯のカナダ大会ではソチ五輪で金メダルの羽生結弦選手が2位に入りました。残念ながら勝利は1年半休養していた地元カナダとパトリック・チャンに譲りましたが、フリー演技の構成は世界中で羽生選手しか出来ない難度の高い技の連続でした。フィギュアスケートは技ごとに決められた基礎点を加算した技術点と芸術点の合計で点数が決まりますが、技をいかにきれいに決めたか、によって加点される仕組みになっています。簡単な技でも完璧、綺麗にこなすと1点プラスという具合です。

今回のパトリック・チャン選手は4回転ジャンプを1回、3回転半も1回というプログラム内容だったのに対して、羽生選手は4回転3回、3回転半1回というチャレンジングなプログラム構成でした。回転ってすごく体力を使うそうです。とくにプログラム後半のジャンプは転倒の危険もあるから、自信のない選手は後半にジャンプは入れません。

でも羽生選手はジャンプ盛りだくさん(これ以上はルール上も入れられないギリギリ)の「限界演技」を選択したわけです。フィギュアの選手はシーズンを通して同じプログラムを滑り、完成度を高めていくのが一般的です。羽生選手のプログラムはまだまだ「加点」要素がたくさんあります。技と技のつなぎもこれからさらに磨きがかかるでしょう。怪我さえしなければ今シーズンの終わりごろにはトータルで300点近い点数をたたき出す可能性もある、期待に満ちたプログラムです。要注目!

◆そして我が阪神タイガースは金本監督時代へ──「バカボン」掛布二軍監督にも期待大!

そして我が阪神タイガース。真弓、和田と地味な監督の後を引き継いだのが「アニキ」金本監督!二軍監督には天才バカボンのパパのように太って顔もそっくりになった懐かしの掛布!しばらく見ない間にバカボンのパパのような好々爺になった掛布二軍監督は選手がエラーしても「これでいいのだ」なんて言わないでしょうね(笑)。

でも伝説のバックスクリーン3連発、甲子園でこの目で見た私にはあの雄姿が忘れられません。甲子園当時はまだ外野席はプラスティックの椅子がなく、セメントの階段でした。もちろん自由席です。だから入場者数を数えるのもいいかげんで、内野から外野の通路が見えれば5万人、通路が見えなえれば5万5千人というのが基準だったそうです。

その満員の外野席、バックスクリーンにバース、掛布、岡田が巨人槇原投手に3連発を浴びせました。85年優勝した年です。あの時の甲子園の騒ぎ方はもう優勝決定のような喧騒でした。そういえばあの頃は観客の喜怒哀楽が今よりもっと激しかったような気がしますね。槇原が何度もマウンドに座り込んでいたのが印象的でした(関係ありませんが槇原は愛知県の大府高校出身です。この高校は公立でそれほど強くないけど時々秀でた選手を輩出します。元阪神の赤星も大府高校出身です)。

金本監督は秋季キャンプで全開モードです。フルイニング出場の世界記録をもつ47歳はまだ現役時代と体が全く変化していません。打撃だけなら今でもクリーンアップを任せられそうな筋肉のはりがあります。阪神に来る前は広島で鍛え抜かれた金本監督。広島といえばキャンプで練習をさせ過ぎるから、スタートダッシュはいいけれども例年鯉のぼりが空を舞う頃には落下が始まると比喩されるほど、伝統的にきつい練習で有名です。若いころの日々を金本監督は忘れてはいないでしょう。キャンプ2日目には7時間の練習を敢行したそうです。若手選手は「死にそうです」と弱音を吐いている中、金本監督は、なんと練習終了後トレーニングルームで足と膝のトレーニングを始めたそうです。選手はビビりますよね。3日にはキャンプを見に来ている観客が多いので、急遽練習メニューを変更して「今日は予定を変更して紅白戦をやります」と金本監督みずからマイクでアナウンスしました。観客は大喜び。

金本、掛布に加えて、矢野、今岡も脇を固めます。ピッチングコーチが誰になるのかが注目ですが、もうこの首脳陣の名前だけで観客を呼べるでしょう。プレーをする選手も全く気が抜けないでしょう。

来年の公式戦が今から楽しみです。


◎[参考動画]阪神タイガース 秋季練習 最終日 2015年10月30日

(伊藤太郎)

◎何度死んでも本当は死なない「笑点」歌丸師匠の真顔話が遺言のようで気にかかる

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昔から歌舞伎町を知る飲食店の経営者に聞くと「最近のぼったくりは暴力団追放の流れと無関係ではない」という。

「もともと歌舞伎町には縁もゆかりもない不良連中が突然やってきては短期間で稼いで売り抜ける「ゲリラぼったくり」が多い」という。セノーテもそのひとつだった。これは大手を振って暴力団が仕切っていた頃はなかった現象だった。

「いまの歌舞伎町でのヤクザは他からの侵出にうるさくなくなった。酒と少々の金を持って挨拶されたら、その後にどんなひどい営業をしていても黙っているし、あいさつに来ない者を脅しに行くこともなくなっている」と経営者。

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影 小林俊之)

◆「セノーテ」のベテランキャッチが語るぼったくりの世界

ぼったくり店「セノーテ」のキャッチをやっていた山崎哲夫(仮名)はこの世界でのベテラン。30年以上もキャッチを続けている。

「昔は店の前に店員を立たせて『いらっしゃいませ』と通行人に呼びかける通称『ポーター』だったんですよ。でも、2006年にいわゆる『新風営法』ができて、客引きが禁じられ、独立したキャッチになったんです。俺らはいま店とは直接関係ない立場。客がキャッチに3000円ぽっきり飲み放題と聞いたと騒いでも、店側はそれは知らないと言い張ることになっている。ときどき店がキャッチを主犯に仕立てようとすることもあるけどね」

セントラルロードに立ち尽くし、客が望むならストリップ、キャバレー、カラオケ店、裏ビデオ店……。どこでも連れて行くのが山崎氏の仕事だ。たとえ1円の利益にもならなくても、客に信用されるために道案内をすることもある。

「ストリップ劇場はとり半(50%)、キャバクラは30%前後」
客を紹介すれば見返りに店からキックバックを受け取る。キャッチのがんばりに、店側も応えようとする。多くのぼったくり店は、キャッチが入れた客の売上げによって歩合を支給する。もし新人のキャッチの場合、だいたいは、売上げの2割前後とされる。

売上だけではない。入れた客の本数(人数)に賞金をつける店も多い。5本入れたらいくら、10本入れたら何万円など……。今や稼げないキャッチでも、1日2万円前後。稼ぐキャッチは1ヶ月で200万円以上の収入を手にするのだという。

◆不景気と『半グレ』進出で増えてきた悪質ぼったくり店

山崎氏はバブルの時代も歌舞伎町で稼いだ。オールバックで、一見してキャバレーの支配人風。こぎれいなグレーのスーツを着た男性は上品な顔つきだ。そんな人物でも悪質なぼったくり店に客を紹介したのは、近年の不景気のせいもあるという。
「セノーテを始めた経営者のTは、もともと池袋でやっていた水商売の業者。開店にあたっては資金のスポンサーを集めていました。その中で中国人の事業家から開店資金を引っ張っていた。そこで僕らキャッチにも連絡がきて、当初はぼったくりをやるということは聞いていなかったけど、すぐにそっち系だというのが分かった。僕らはぼったくりだから仕事を断るということはしたくないけど、昔より仕事は少ないからこれは仕方ない」

ゲリラぼったくり店は基本、公安委員会に必要な届け出を出していないことが多いという。許可が出ていない状態で2、3ヶ月で一気に稼いですぐ消えることもあるという。最近は『半グレ』と呼ばれる不良連中の進出も増えたという。

「揉めた客には路地裏で取り囲んだり、警察が呼べないようにうまくやっていた。でも、そういう連中のせいで、今の歌舞伎町は青パト(行政がパトロール用に巡回させている警備車)もかなり増えて、『キャッチはすべて違法です』という放送も流れるようになった。いまは何度めかのぼったくりブームだと思いますが、本来は『ゲリラぼったくり』があると困るのは我々。窮屈になっている」

山崎は、酔って『おい、きれいな姉ちゃんがいる店を紹介しろ』『ちゃんと案内しろよコラ』という傲慢な態度の客にはあえて「ぼったくり店」に案内する意地悪もあるという。

「態度が悪い客に、ぼったくりだったと文句を言われたら、『もう一度、案内させてください。チャンスをください』と懇願して、2軒目のぼったくり店に案内したこともあります。その客だけで10万円近くキックバックがあった」
この非情なキャッチの話は続く。

「僕自身は風営法が改正された直後の1991年に客の進路をふさいだという微細なことでヨンパチ(警察署で48時間勾留)を2度くらったことがあり、それで罰金を払ったことがあります。風営法違反で5万円の罰金は痛かったですが、長くやっていてもその程度」

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影 小林俊之)

◆ここぞとばかりに高い金を払う外国人観光客もいいカモ

外国人観光客もターゲットだ。韓国人や中国人の観光客にも声をかけるという。
「外国人はポールダンスをする店に引き入れることが多いです。追加料金を払えば女性を連れ出して『抜き』もできるんですが、観光客はここぞとばかりに高い金を払うのでいいカモです。だいたい、こっちには韓国人や中国人の仲介人もいますから、もはやなんでもあり。歌舞伎町には14歳の少年キャッチもいますよ」

キャッチになりたいという若者がやってくることもあると山崎。
「やりたいやつがいたら、30~40%の手数料をとってやらせます。成績が上がらないやつはダメでも内情を知ることになるので、暴力団とか身近なところで働かせて飼い殺しにするんですよ。ただ、今のキャッチになりたい若者は、『いつか歌舞伎町で店をもちたい』とか『こうしてのしあがる』というビジョンも野望もない。『ガソリンスタンドの仕事がおもしろくない』『営業の仕事はもう嫌』という『デモしか』キャッチしかいないような気がします」

中には山崎よりベテラン、40年以上もキャッチをしているおばあさんもいるという。
「彼女は通称マリアって呼ばれていて、伝説の人です。誰にもでもつきまとう。相手がヤクザだろうが警官だろうが気にしない。店を案内させたら天才的なうまさで、前に摘発されたときは裁判で『私はマリア様だと呼ばれている。ぼったくり店に案内するわけがない』と叫んだそうですよ」[つづく]

(小林俊之+影野臣直)

小林俊之+影野臣直!強力タッグの短期連載ルポ[全8回]
新宿・歌舞伎町ぼったくり裏事情──キャッチ目線で見た「警察の対応変化」
《1》「ぼったくり店」はどうやって生まれるのか?
《2》なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?
《3》メニューに金額明示があれば違法性はない?
《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動?
《5》御一人様51万円「クラブ・セノーテ」事件の衝撃
《6》ベテランキャッチが語る「ぼったくり」の世界
《7》「ガールキャッチ」復活と増えるプチぼったくり [近日掲載]
《8》警察の弾圧が盛り場の「食物連鎖」を増殖させる [近日掲載]

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「韓国人が卒倒しそうな写真」がここにある。これらに国際情勢は関係ない。韓国と日本の友好的なドラマがある。それは「軍人」同士にしかわからないドラマだろう。

10月15日、開かれた海上自衛隊観艦式予行での映像で、愛国韓国人が卒倒しそうなシーンを撮影した。旭日旗の向こうで、韓国国旗をかかげる韓国海軍最新鋭艦「テ・ジョヨン」の姿がこれだ。

旭日旗と韓国海軍の最新鋭艦「テ・ジョヨン」

「観艦式」は3年に1度、海上自衛隊が首相に艦と普段の訓練の成果を見せるいわば「洋上パレード」である。性質上、艦隊運動の連携を取る必要があり、事前に共同訓練が必要だ。また、実弾発射を含む場合もあり、危険も伴う。

観閲者は首相であるが、一人だけに見せるわけではなく、納税者である国民への公開サービスであり、将来の自衛隊員をリクルートするためのショーでもあり、観覧者は一般にも募集される。

海自ではそれぞれの基地祭や、艦艇公開を行っているが、観艦式は最大規模となる。

また、観艦式のない年は陸自の「観閲式」、空自の「航空観閲式」が行われる。これらは大抵、朝霞の基地で見る事ができる。

観艦式も一発勝負、というわけにはいかないので、本番を10月18日(日)とし、12日、15日を練習日としている。この写真を撮影したのは15日の予行であるが、予行、本番含めて3日間、同じ光景が出現するはずである。

◆反日や排他的な保守の考えとはまったく違うロジックで動いている日韓同盟

観閲式は観閲者に艦を見せるのが目的であるから、観閲者(この場合は安倍首相)の乗った観閲艦と、受閲艦がすれ違う事によって成り立つ。受閲艦もいくつかの艦隊を作る。外国艦は艦対列の中で「祝賀艦隊」を形成し、観閲艦とすれ違う際、乗員は登舷礼というスタイルで並び、マストには日本に対する礼として日章旗をかかげ、乗員は旭日旗をかかげる観閲艦に敬礼するのである。

つまり、韓国海軍の最新鋭艦である「テ・ジョヨン」が日の丸を揚げ、韓国人が「戦犯旗」と侮蔑する旭日旗に敬礼するのである。愛国韓国人が発狂しそうな光景である。

だが、外国艦が他国の旗かかげるのは、世界的に見てごく普通の光景である。今回の観閲式には外国艦として、アメリカ、オーストラリア、インド、フランスも参加しており、これらの艦もやはり日の丸を揚げ敬礼してくる。

逆に自衛隊の護衛艦、海上保安庁の保安艇も、外国の港に入港する際、あるいは外国の式典に参加する際、同じように外国旗をかかげ礼を取る。

それどころか、ある国の軍隊が他国軍と共同訓練をするのは、あらゆる面から見て望ましいのである。

軍と軍が共同訓練をすると、お互いに相手の実力、動きを理解できる。共同作戦を取るのであれば、友軍の実力や動き方を知っていれば、効率的な行動が取れる。

将来的に交戦するようになったとしても、相手の実力が判っていれば攻撃も効率的に実施できる。また、相手がきわめて強い、という認識があれば「逃げる」という選択もある。逃げるというと卑怯な手段に思えるかも知れないが、圧倒的と判っている相手にぶつかって無駄死にするよりは一度引いて態勢を整えるのが合理的である。あるいは降伏もあり得るだろう。

ましてや、日本と韓国は緩やかな軍事同盟にある。より緊密に連絡を取りあい、共同訓練を実施すべきなのだ。

少なくとも「韓国軍」は、旭日旗を敵視する朴大統領、あるいは韓国人差別をむき出しにする保守の考えとはまったく違うロジックで動いている。

韓国では国策として反日政策を採っているが、今回の「テ・ジョヨン」観艦式参加では、現場はより現実的な認識をしていると見るべきであろう。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

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現地時間11月13日の夜パリの劇場、レストラン、競技場などで起きた襲撃事件はオランド大統領が「ISによる戦争行為だ」と断定し、16日現在、犠牲者は130人を超えている。フランス全土に非常事態宣言が発せられ、主たる国境は封鎖されているらしい。

◎[参考動画]Terrifying Video Shows Shootout Between Police & Terrorists Outside Bataclan, Paris (2015年11月15日 付PrayForParis)

◎[参考動画]FRANCE 24 live news stream: all the latest news 24/7

このニュースの陰に隠れてほとんど見向きされないけれども、フランス北東部ストラスブール近郊で14日、高速列車「TGV」の試験車両が走行中に脱線し運河に転落、少なくとも11人が死亡し、37人が負傷した。1981年の開業以来、TGVの関連事故で死者が出たのは初めて。フランス公共ラジオが伝えた。

◆どこで、どんなふうに、誰が殺された(死んだ)かで命と事件の軽重は違うのか?

Cartoon of the day by Carlos Latuff

どこで、どんなふうに、誰が殺された(死んだ)のかによって、命と事件の軽重はメディアによって重量が決定される。同じフランスという国の中にあってさえそうだ。意地悪ないい方をすれば、「できるだけ惨く、劇的な殺戮が名立たる都市部」で発生することほど、メディアにとって貴重な報道資源はない。

それは同様の「惨く、劇的な殺戮」が注目を浴びない国・地域、あるいは紛争地帯で起こった時の何百倍もの情報資源(商品)となり、政治的・軍事的野心を抱く人々に本来、関係ない意味を付与され、大変便利な材料へと転化させられる。

殺戮による被害者は表面上の弔意と裏腹にとことん利用される。

各国の首脳が「フランスと共に闘う。ISを撲滅する。テロは許さない」と勇ましい言葉を吐く。東京タワーを三色に照らしたり、世界中でその情報を聞いた一般市民までが「フランスと共に」と態度表明することが、何か立派な行動のような雰囲気が蔓延している。

私の大いなる違和感は増すばかりだ。

本音を告白すれば気持ち悪いことこの上ない。

◆不平等極まりない世界は、言葉をも収奪して、意味を無化しようとしている

1月7日に起きた「シャルリー・エブド襲撃事件」の後に感じたのと似た感覚だ。あの時は世界中が「Je suis Chralie」(私はシャルリー)と発言したり、プラカードを持つ人がフランスだけでなく、世界に溢れた。私はこのコラムで「Je suis Chralie」に疑問を呈し、私はその立場ではないと表明した。

その後被害者や、敵を主語にした語感に馴染めないこのいい回しが流行した。日本においては「I am not Abe」のように。

ひねくれ者の私は「I am not Abe」にも軽い眩暈がした。「あべ」を苗字にする人以外は誰も「Abe」じゃないことは当たり前じゃないのか。こんな表現のどこに「反安倍」の怒りを詰め込めるというのだ。何百人、否何千人もの人が集会で「I am not Abe」のプラカードを頭上に掲げているようすに、何か違うの思いは増すばかりだった。

やはり、ごく初歩的な語法にのっとっても「Je suis Chralie」や「I am not Abe」はシニフィアンとシニフィエがあまりにも倒錯しているのではないか。それは権力者や抵抗者の意に沿いつつも、裏切りつつも。

パリ襲撃事件の分析や解説は専門家に譲る。それよりも今、現在において私がもっとも支配されている感情は事件の衝撃・背景や凄惨さ、ISの今後ではなく、語感と意味を歪曲された世界に生きている不快感と不安である。そのことを正直に語っておくことの方が、私の頭脳のレベルの低さを露呈するにしても、誠実というものだろうと感じる。

不平等極まりない世界は、言葉をも収奪して、意味を無化しようとしている。

こんな感想は不謹慎か。

▼田所敏夫(たどころ としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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法外の御代51万円を請求した「CLUB Cenote(セノーテ)」事件は、ぼったくり取り締まりの大きな引き金となった。事件のすさまじさはその金額だけでない。被害者がぼったくり店で働かせられ、恐怖のあまり富士山麓の樹海まで逃走するという衝撃の事件だったのだ。

2014年12月、大手居酒屋に勤務していた32歳の男性は、歌舞伎町でひとり酒を飲んで締めのラーメンを食べ、帰宅しようと歩いていたところだった。

そこへ現れたのが客引き。「1時間4000円ですよ」と声をかけ、男性は給料を受け取ったばかりとあって懐に現金約20万円があったため「気が大きくなっていた」と入店した。時間は深夜4時だった。

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影 小林俊之)

◆目が覚めたら、体格のいい従業員ら数名に囲まれ、監禁状態へ

入店すると、店員に勧められた1万円のシャンパンを注文してしまったが、このときすでに酔いは深く30分で居眠りをしてしまった。気付いたら、時間は正午になっていた。持っていた現金は見当たらず、この暗い店内にいた記憶も曖昧。そこにいたのは体格のいい従業員ら数名で「お客さん、51万円になります」と請求。驚いた男性が「そんな払えない」と断ると、男性を取り囲み、「金を払わなかったら帰れねえぞ」などと声を荒らげ、腹を殴り、「だったら、うちで働いて返すしかねえんだ」と威圧。監禁状態に陥り、勤務先の出勤時間も過ぎてしまった。

それまで無遅刻無欠勤だった男性には、心配した同僚から携帯電話に連絡があったが、従業員に「会社を辞めると言え」と強要され、退職を申し出た。

◆新宿区から富士山麓の樹海まで走って逃走したその距離70キロ

男性はその後、この店の職員寮だとする中野区の住居に引っ越しをさせられた。夜からはトイレ掃除や客引きを命じられたが、翌朝8時に寮に戻った男性は着替えてすぐに逃走。動揺して警察へ行くことより「富士山まで逃げれば追ってこないだろう」と思う一心だった。

到着したのは神奈川県山北町のJR東山北駅、ひたすら歩いて静岡県御殿場市に入ったが、持ち金もなく疲れ果てて座り込んでしまった。そこを静岡県警の警察官が通りがかって保護されたのだ。男性がいたのは山中で、追い詰められた人間の行動がいかに奇特なものになるかが分かった。新宿区からの逃走距離は70キロにも及んだのだ。

今年2月、警視庁は店の従業員ら5名を逮捕。「ぼったくりではない」と5人とも容疑を否認していたが、同店はオープンした昨年11月当初から高額請求などの相談が51件寄せられていた。「セノーテ」という名前は実は同じ場所で別の人間がやっていた名前で、そのまま同じ名前で営業をしていた。そのため、前の常連客も被害に遭っていたようだ。

◆セノーテのような事件は毎晩、起こっている

ぼったくり被害の情報サイトを運営する青島克行弁護士は「店側は自分から裁判を起こして請求額をとったりすることができないのを分かっていて、当日のうちにできる限り金を取りたいと思っているから過激な行動に出る」と説明する。

一方、客については「理屈では自分が正しいと分かっていても、店側の言いがかりや威圧が続くと、本当に自分が正しいのか分からなくなる。反論する気持ちも萎え、言いなりになる以外の選択肢がなくなっていく」という。

セノーテのような事件は毎晩、起こっている。法曹関係者は「とにかく店から出るのが一番。その場で金を払うのではなく、相手を刺激しないよう下手に出ながら交番に連れて行くことが大切。もしも店に交番に行くことを止められたら、何度でも『お願いです、交番に行かせてください』と懇願すること」と呼びかけているが、セノーテの極端にひどいケースのおかげで歌舞伎町への取り締まりは強硬策がとられ始めている。[つづく]

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影小林俊之)

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10月30日、19時から行われた「加川万博 新木場1stRING」 は、キャットファイトの団体、CPEがバックアップして、ニコニコ動画の人気配信者であるティロ・フィナーレ加川が格闘技を仕切るというもの。

MCパートナーにこれも人気配信者の石川典行を配して、しんやっちょ、 便所太郎、TJ、なあぼう、ももえり、杏音、みずにゃんなどの人気レスラーを集めてのイベントはおおいに盛り上がった。

「だが、一番盛り上がったのは、ももえりと杏音の『追いはぎデスマッチ』でしょう。この日に収録しているニコニコ動画は基本的にエロはNGだから、絶対に乳首ポロリや股間ポロリはNG。それでも、杏音は乳房が見えそうで見えない絶妙な脱がせかたをされていたし、股間を広げるのも格闘技に見える範囲で、まさしく『エロい格闘技』の神テクを見せつけました」(ファン)

ゲームや料理実況、雑談、アニメ批判などマシンガントークでたくさんのファンをかき集めた「ニコ生の神」の加川もバトルロイヤルに参加し、「か~が~わ~」のコールが鳴り響いた。
「ニコ生を見ていない人はなんのイベントかよくわからないでしょうね。それでも、金曜という忙しい夜なのに会場は超満員。そしてカップルも多く来場するという人気ぶりを見せてつけた。

要するに「素人あがり」が客を集める時代が到来したのだ。
「ニコ生ファンは、地下格闘技であるキャットファイトとうまく客層がリンクする。これからもニコ生とキャットファイトはコラボしていくのでしょう」(同)

それにしても最後に、全員の挨拶が終わっているにも関わらず、「唯我」という格闘技家が乱入して「おれと勝負しろや加川!」と叫んであと味の悪さを残した。これが「加川万博」の第2弾の予告だとしたら、演出もまさにプロ。素人っぽいイベントがプロのそれを陵駕する時代がやってきたといえるだろう。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

◎NJKF-DUEL.3「勝利に飢えた猛獣たちの決闘・第三章」報告
◎美しきムエタイ女子リカ・トングライセーンのど根性ファイトに大喝采!
◎日本のキックボクシングが情熱と音楽の大国アルゼンチンと繋がった日
◎川崎中1殺害事件の基層──関東連合を彷彿させる首都圏郊外「半グレ」文化

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「ヒジ打ち無し、首相撲(首を掴んでの崩し)無し、3回戦」こんなルールが21世紀に入った頃から蔓延し、キックボクシング界はいま、本来のルールが曖昧になってきています。それが時代の流れと言われていますが、本家のムエタイは、長い歴史の中で基本的ルールの大きな変動はありません。その競技の在り方にキックボクシングとの確固たる違いが表れています。

◆1969年「投げ技禁止」──「キックの鬼」沢村忠はボディースラムでKO勝ちしていた!

昭和41年(1966年)設立当時の老舗、日本キックボクシング協会(日本系)ではルールの制約が少ない時代でした。禁止技はサミング(目潰し)、股間への打撃、噛み付き、ダウンした相手への攻撃、ロープを利用した攻撃、レフェリーへの反発など競技として当たり前の範疇。それが昭和44年(1969年)に全日本キックボクシング協会(全日本系)が設立されて、ここではムエタイ・ルールを参考にしたルールが確立され、投げ技が禁止されました(日本系は投げ技可能)。

日本ヘビー級チャンピオン(当時)の斉藤天心(目黒)は首投げでKO勝ち、日本ミドル級チャンピオン(当時)の渡貢二(モリトシ)はバックドロップでKO勝ち、東洋ライト級チャンピオンの沢村忠(目黒)はボディースラムでKO勝ちするなど、それらの試合はテレビで放映されました。いずれもプロレスラーがやるような見え見えを狙って高々と抱え上げるものではなく、組み合ったりもつれあったりの流れでの展開。元々は、日本人が強いムエタイに勝つにはキックボクシングの独自のルールが必要という考えから、「掴んで投げてしまえ」という発想があったものと言われています。

WKA世界ミドル級チャンピオン田端靖男、マーシャルアーツスタイルの試合(1983.5.21撮影)

◆1976年「頭突き禁止」──禁止技が増える一方で競技の在り方も成長

更に昭和51年(1976年)9月から、日本系で頭突きが禁止されました。やっぱりテクニックの凌ぎ合いとは違う、危険な衝突だろうと言われています。こうして日本のキックボクシングが経験を積み、禁止技が増え、競技の在り方が成長していったのでした。他、日本系はフリーノックダウン制(ひとつのラウンド中、何度ダウンしても立ち上がってくれば続行)、ラウンド間のインターバル1分。全日本系は3ノックダウン制(ひとつのラウンド中3度ダウンすればKO負け)、ラウンド間のインターバルは2分でした(因みに昭和47年〔1972年〕3月まで、2系列とも“全日本キックボクシング協会”という名称で、同年4月よりTBS・野口プロモーション系が日本系に移行。それまでのラウンド間のインターバル2分を1分に変更。他、主要ルールは上記どおり)。

◆1984年の団体統合でルールが統一されるも、1987年に再びルールは多様化へ

武藤英男(伊原/右)vs 鴇稔之(目黒/左)画期的統合団体の日本キック連盟初戦での初タイトルマッチは武藤英男が勝利、日本フライ級タイトルマッチ(同連盟認定)(1984年11月30日撮影)

その後の低迷期で分裂や別競技に転向など、バラバラな団体の時代を経て、昭和59年(1984年)に統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟では、過去の各団体のルールから平均的な、また妥当なルールが決定しました。

主な点は、投げ技は禁止、ラウンド間インターバルは1分、3ノックダウン制。その後、昭和62年(1987年)7月、全日本系が復興。ここでは多様なルールが採用される時代になっていました。キックボクシングは基本ルールと呼ばれる当たり前のルールが存在しましたが、昭和52年(1977年)、旧・全日本系時代に、ベニー・ユキーデ(アメリカ)が初来日した頃からのアメリカで誕生したWKA(世界空手協会)はプロ空手ルール。1ラウンド2分の7回戦が基本的ローカルルールで、キックの5回戦に相当。長いパンタロン式のマーシャルアーツタイツを履き、1ラウンド中、腰より高い蹴りを8本以上蹴らないと減点ルールがありました(復興後からは国内では廃止)。これは、アメリカではボクシングが主流で、パンチだけの打ち合いの展開になりがちなことを防ぐ狙いがあったと言われています。更に、ヒジ打ちとヒザ蹴り禁止、足の甲にはパットの防具着用。骨が直接当たることが野蛮という解釈があるお国柄と言われています。昭和60年(1985年)には元日本ミドル級チャンピオンのシーザー武志氏がシュートボクシングを設立。投げ技も明確なポイントとなるルールでした。

鴇稔之(目黒/左)vs 赤土公彦(キング/右)=バンタム級MA日本vs全日本交流戦は引分け(1992年3月21日撮影)

キックボクシングとしてのヨーロッパルールは、顔面へのヒザ蹴りと内股へのローキックが禁止されていました。これは股間に当たる危険性を防ぐ狙いがあったと言われています。更にムエタイルールが重視され始めた頃で、蹴り技が重視される採点に移行されました。キックボクシング系競技の発祥がバラバラで、ルールも多様化は仕方ないところではありました。

◆1996年、「キックボクシングとは、打つ、蹴る、投げる」の野口発言で「投げ技」復活

平成8年(1996年)、今度は 日本系の復興。そこで創始者の野口修氏は復興記者会見で「キックボクシングは、打つ、蹴る、投げる、三拍子揃った競技」と発言。そこで困った顔をしたのが、それまで定期興行を前団体で担ってきた役員たちでした。「投げがあってはシュートボクシングになってしまう」と、何とかムエタイ式に「首相撲からの崩し」に表現を変えました。

日本系が活動を停止した昭和59年(1984年)までは、曖昧な時代で皆忘れがちでしたが投げ技は禁止されていませんでした。野口氏がそれ以来の業界復帰で、創始者として発言に間違いはないのですが、アメリカ路線を主張するブランクある野口氏と現状スタッフの間にギャップがあるのは仕方がないところでした。ただしその後、ムエタイ路線重視のため、1998年5月、伊原信一代表の新日本キックボクシング協会に移る運命を辿ることになりました(野口修氏はWKBA代表を伊原氏に任命するなど親密に友好関係を継続)。

ルンピニースタジアムでのムエタイ試合(選手名不明)(1993年9月撮影)

キックボクシングの流れが大きく変化したルール問題はここからで、これまでは競技の進化のなかで起こったルールの改革でしたが、ここからテレビのお茶の間重視の別イベント競技の影響を受け始めました。5回戦が3回戦に短縮されるルールが各団体で起こり、更に、ヒジ打ち禁止のルールも蔓延。ここで元祖ムエタイルールに顧みる動きもありつつ、どちらも容認する柔軟な形に変わっていきました。今や「ヒジ打ちなんて危ないじゃないですか」と平気で発言し、ヒジ打ち無しルールを選ぶ若い世代の選手もいるという、「キックボクシング競技も大きく変化したものだと諦めざるを得ないのか」と嘆く関係者もいるようです。

◆「ボクシング法」を有するタイの「国技」ムエタイが日本のキック界を変えていく?

こんな私的団体で成り立ってきたキックボクシング系競技に対し、本場タイ国の競技ムエタイは、公的機関が管轄する構築された組織が出来上がっており、1999年に施行された、「ボクシング法」という法律まであって見事な世界の様子です。

ムエタイルールによりワイクルーを舞う江幡睦(2015年3月15日撮影)

タイの格闘技は4つのカテゴリーがあり、1.プロムエタイ、2.プロボクシング、3.学校等主催の格技(アマチュアの範疇)、4.他種競技。上記3つに当てはまらないものは、4になり、スポーツ省傘下の競技委員会により審議され許可を得なければ開催できません。

ムエタイ試合でも公式ルールから外れるヒジ打ち無し、3回戦、ワンデートーナメントなどは、4の扱いになります。試合後、21日を経過しないと次の試合に出場は出来ず、KO負けの場合は30日の経過が必要になります。構築した競技ながら、律儀な日本人からみれば“ルーズなタイ人”と言われるお国柄では、「ルールを守らない、守る認識が無い、何とかなるだろう」などの甘い認識が普通で、主要スタジアムでの試合後、数日後に日本の試合に出場し、バレてタイで出場停止を受ける選手も多いようですが、徐々に、融通利かないルールだという認識は高まっているという声もあります。

日本のキックボクシング界もレフェリングに問題があった過去の経緯から、レフェリー協会なる組織も誕生し、どの興行でも公平に、反則に厳しく、早めのストップも取り入れ、当たり前の改革ながらも進化してきました。昔は、倒れた相手を蹴ったり、明らかな頭突きなどを黙認したり、審判サイドが選手陣営セコンドの抗議に屈したり、優勢な展開も50-50の引き分けだったりと、不可解な裁定も頻繁にあり、審議する機関も無く曖昧な世界でしたが、今ではかなり改善された状況です。

本場ムエタイの組織がレフェリー講習を開催するなどの活動も頻繁に行われ、本場ムエタイの存在が、日本のキックボクシングを率いて、共存共栄が続いています。今後の競技の発展がどう進むのか注目です。

リカ・トーングライセーン(センチャイ)=女人禁制のムエタイも大きく変わり、女子試合も活発に開催(2015年6月28日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち
◎群雄割拠?大同小異?日本のキックボクシング系競技に「王座」が乱立した理由
◎9.27WBCムエタイ戦──強豪たちの本気の対戦がムエタイの権威を高める!
◎倒すか?倒されるか?日本キックボクシング連盟「大和魂シリーズ」vol.4報告

唯一無二の特報を同時多発で怒涛のごとく!『紙の爆弾』!

9月12日(土)、石川県金沢市で安保関連法案(戦争法案)に反対するデモが行われた。
主催したのは、石川県内の若者たちが集まって作った「CHOOSE OUR FUTURE, DON’T LET ‘EM」だ。


[動画]戦争法案に反対するサウンド・パレードin金沢 – 2015.9.12 石川県金沢市(12分11秒)

参加者は250人、金沢で行われた無党派デモとしては過去最大規模の人数だった。普段行なわれているデモの参加者は50~80人程度なので、いつもの3倍以上だ。主催者もこの想定外の人数に驚いていた。
更に言えば、金沢のデモは年齢層もわりと高めなのだが、今回のデモは若者率が高く3割以上が若い人だった。各々が隊列の中でばらけていて行進中は分からなかったものの、デモ解散地にいた若者の多さには正直ビックリした。
今回のデモの若者率が高かったのは、コースが長く高齢者が少なかったというのもあったのだが、やはり普段デモに来ない若者が実際に多く参加していたというシンプルな理由によるものだった。中には隣の富山県から、この若者主催のサウンドデモに参加しに来た若者もいた。これまで集まれる場が無かっただけで、北陸の若者たちも「安全保障関連法案」に関心があり、反対の意思表明をしたいと思っていたのだ。

また、若者を多く集めた要因の一つには「サウンドデモ」という手段を選んだこともあったはずだ。
サウンドカーを使ったデモは金沢では初めてで、「若者デモ」「サウンドカー」「安保法案」というホットなエレメントが揃っていて、マスコミの注目度も高く取材の人数も多かった。
それは取材陣だけに留まらず、街の人々からの注目度も非常に高かった。いつものデモだと街の人たちにスルーされることが少なくないのだが、今回のサウンドデモは手を振ってくれたりする人が多くいた。

これが金沢のデモのフライヤーだ。
「カッコイイなぁ」「オシャレだなぁ」とも思ったが、それよりも何よりも「生活の延長線上にデモが位置づけられているんだ」と、私はまずそんな感想を持った。フライヤーに写っている人物がサウンドカーに乗ってプレイしていたDJで、自分のセンスで作ったそうだ。
クラブミュージックが好きな人が安保法案に反対していることを分かってもらいたくて、フライヤーにデモっぽさを無くしたという。私が感じた「生活の延長線上」というのはそこにあったようだ。

実のところ、サウンドデモはスベる事もあるのだが、金沢では普段のデモより街の反応が良かった。一体、何故だったのだろうか。そんな疑問を、主催者の一人に尋ねてみた。
「地方は特にデモコースが限られるので、わりと通行人にデモへの慣れがあったことが土台かもしれません。そのうえで今までにないサウンドパレードという形態が古くからのデモと180度雰囲気が違ったことが大きな要因でしょう。沿道から見て若い人がガチで多いのも好印象だったと思います。そして事前にデモコース周辺の店に告知に回ったのが大きかったですね。それと金沢は保守的ですが、他の土地と違って文化や芸術への理解があり、わりと進歩的な芸術家やミュージシャンが多いのです。そういう人たちのちからもあったと思います」
「基本的に、SEALDsとか反原連の流れはあると思いますが、僕たち地方の人間としたら『東京のコピー』と取られるのが一番嫌なので、金沢に合う運動形態を常に考え続け、東京をギャフンと言わしてやりたいと思ってるのが一番大きいですね」

今回のデモは、色鮮やかなピンク色をしたバナーが非常にキレイだったし、シュプレヒコールより音楽がメインという印象だったのだが、それも一つのポイントだったのかもしれない。つまりは「怒っていない」こと、怒りの表明の少なさがその答えだったのではないか。
金沢は保守的で、デモで声をあげにくい土地柄だ。それはデモに参加する人だけでなく、それを目撃する街の人も同じで、デモに対する反応さえもしにくい。その点、怒り少なめのサウンドデモには反応がしやすかったのだろう。
もちろん、主催者の方々の気配りやセンス、参加者の真剣な姿、それらが根本にあったから良いデモができたのだ。そこを忘れてはいけない。

「CHOOSE OUR FUTURE, DON’T LET ‘EM(=私たちの未来は私たちが選ぶ、彼らには決めさせない。)」、そのような心強いグループ名の若者たちが金沢で声をあげた。彼らは北陸の希望だ。



[2015年9月12日(土)・石川県]

▼秋山理央(あきやま りお)
1984年、神奈川県生まれ。映像ディレクター/フォトジャーナリスト。
ウェブCM制作会社で働く傍ら、年間100回以上全国各地のデモや抗議を撮影している現場の鬼。
人々の様々な抗議の様子を伝える写真ルポ「理央眼」を『紙の爆弾』(鹿砦社)で、
全国の反原発デモを撮影したフォトエッセイ「ALL STOOD STILL」を『NO NUKES voice』(鹿砦社)にて連載中。
11月21日には全国の路上でヘイト・スピーチと闘うカウンターの姿を追った初写真集『ANTIFA アンティファ ヘイト・スピーチとの闘い 路上の記録』(鹿砦社)が全国書店にて発売決定!

《ウィークリー理央眼》
◎《025》戦争法案に反対する若者たち VOL.19 川越
◎《024》戦争法案に反対する若者たち VOL.18 郡山
◎《023》戦争法案に反対する若者たち VOL.17 弘前
◎《022》戦争法案に反対する若者たち VOL.16 仙台
◎《021》戦争法案に反対する若者たち VOL.15 秋田

「お兄さん、1時間4000円ぽっきり、追加なしで!」
男性が歩けば1度はこんな声をかけられるのが歌舞伎町だ。中にはしつこく客引きを続け、乱闘騒ぎになることもある。しかし、あまりに日常的に当たり前の光景になっていため、誰もそこに驚くことはなかった。これが長く犯罪し放題の入口になっていても、だ。

◆2015年6月歌舞伎町交番の劇的変化──民事から一転、刑事事件対応に強硬化

この執拗な客引きや勧誘は、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」などで規制され、商店会などが防止パトロールに取り組んできたが効果はなし。そこで2013年9月1日、客引き自体を規制する「新宿区公共の場所における客引き行為等の防止に関する条例」が施行された。

これはそれまで規制されていなかった居酒屋やカラオケ店への客引きも含め、客引きそのものを規制するだけでなく、客を待つ「うろつき」「たたずみ」「たむろ」までも禁止した。

しかし、この条例は骨抜きだった。条例には罰則がなく違反しても何もペナルティがない。そのため条例施行の9月1日にもキャッチは横行するという冗談のような光景があった。ただ、キャッチの問題はこれが「ぼったくり被害」への誘いという重要なものだったため、相次ぐぼったくり被害に15年に入り、大きな変化があった。歌舞伎町交番の対応が劇的に変化したのだ。

「特に6月に入って明らかに警察の姿勢に変化がありました」
そう話すのは当のキャッチ男性、佐上俊介(仮名)。29歳でキャリアは6年、高校卒業してしばらくは無職だったが、歌舞伎町の飲食店に務める知人を通じて客引きを始めた。初の就職先がキャッチだったのだ。佐上は当初、問題のないキャバクラ店への客引きが主体だったが、すぐにより稼げる「ぼったくり店」の仕事を引き受けるようになった。
「キャッチの中でも、ぼったくりは受ける人と受けない人がいますが、自分はあまり関係なかったッス」

ぼったくり被害を生むと窓口になったキャッチは恨まれるため、被害者に追われることもあるが、佐上は学生時代にケンカ三昧の日々を送っており、怖い者なしだった。これまでぼったくり店に客を何百人と送ってきた彼だが、いまだ刑事罰を受けたことはない。

「あくまで自分は店に客を紹介するだけ。店とは関係ないッスから」
「前は、ぼったくり被害者が『4000円ぽっきりと聞いたのに、20万円も請求された』とか客が言っても、店は『客が無銭飲食をしてる』って言い張って平行線になってたんスよ」と佐上。

警察は支払いの問題に関しては民事不介入を原則としており、両者の話には入らず、『双方、よく話し合いなさい』という対応までだった。しかし、6月からは客が交番に駆け込むと、被害者をまず新宿署に連れて行き調書をとり、、飲食店に出向く。そして従業員を取り調べとして署に同行させ、最長48時間拘束するようになった。

ぼったくり被害は現在、毎月200件ほどの被害電話が新宿署にあるという。「ぼったくり」の一丁目一番地といわれる「新宿・歌舞伎町」だが、ついに捜査拒否の大義名分、民事不介入をひっくり返し、刑事事件として扱いするようになった。

◆東京五輪を前に浄化作戦が始動?──居酒屋「新宿風物語」事件

東京五輪を前に浄化作戦が再活発したという部分もあるが、目先のきっかけとなったのは2つの事件だ。

昨年12月末、居酒屋「新宿風物語」が「クレジットカードの明細、もしくは領収書があれば返金します」というメッセージをホームページ上に出した。この店はよくある暗いバーで値段の分からない飲み物を飲ませられる、いかにも「ぼったくり」なバーではなく、一見して通常の居酒屋だった。ネットの人気グルメサイトにも掲載されているほどだ。しかし、そのサイトのレビューでは客が「ぼったくり」と被害を報告。ツイッターでも領収書の写真を公開して、その異常な会計を示した。

被害者によると、同店では2時間の飲み放題1800円で客を寄せていたが、2名で入店すると広めのテーブルに案内され、二人なのに「お通し」だけで6人分の計2400円を計上された。さらに5人が座れるテーブルの席料として3780円、週末料金も5人分の3780円、飲み放題も2名のはずが5名分の9000円がチャージされた。本来、別途オーダーしたつまみ代を含め2万7000円ほどの支払いのはずが4万3000円ほど請求されたという。

これが大騒ぎとなって運営していた会社は店を閉店させ返金に応じたが、こうした一般の居酒屋でもぼったくりが横行していたことを警察が見過ごせなくなった。一部の夜遊びしている酔客ではなく、大衆が騒ぎしてメディアでも取り上げられる事件となると警察は本腰を入れるのだ。

新宿区内で焼き鳥屋を営んでいる主人によると「同様の居酒屋は他にもたくさんあった」という。
「お通しや席料と称して本来、不必要な支払いを高額請求するのは常とう手段のようになっていました。いまでも飲み放題の金額が安くても、つまみが異常に高いという店などたくさんあります」

そして、もうひとつ、51万円を請求した「CLUB Cenote(セノーテ)」事件も、ぼったくり取り締まりの引き金となった。被害者はぼったくり店で働かせられ、恐怖のあまり富士山麓の樹海まで逃走するという衝撃の事件だった。[つづく]

(小林俊之+影野臣直)

小林俊之+影野臣直!強力タッグの短期連載ルポ[全8回]
新宿・歌舞伎町ぼったくり裏事情──キャッチ目線で見た「警察の対応変化」
《1》「ぼったくり店」はどうやって生まれるのか?
《2》なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?
《3》メニューに金額明示があれば違法性はない?
《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動?
《5》御一人様51万円「クラブ・セノーテ」事件の衝撃 [近日掲載]
《6》ベテランキャッチが語る「ぼったくり」の世界 [近日掲載]
《7》「ガールキャッチ」復活と増えるプチぼったくり [近日掲載]
《8》警察の弾圧が盛り場の「食物連鎖」を増殖させる [近日掲載]

唯一無二の特報を同時多発で怒涛のごとく!『紙の爆弾』12月号絶賛発売中!

するな戦争!止めろ再稼働!『NO NUKES voice vol.5』創刊1周年記念特別号!

上下院で総選挙が行われたビルマで、NLD(国民民主連盟)の圧勝が伝えられている。NLDを率いるのはアウンサンスーチーさんで、この選挙でNLDが圧倒的勝利を収めれば「実質的な実権者に就く用意はある」と語っている。ビルマの憲法では「外国籍を有する家族を持つ」人は大統領には就任できない(この不思議な条文は軍事独裁政権がアウンサンスーチーさんを排除するためだけに作り上げたものだ)から、彼女自身が大統領になることは今のところ出来ない。NLDの幹部を大統領に据えて、彼女は要職に就く計画だとの情報もある。

◆本当の政権交代は25年前の1990年5月の総選挙で実現したはずだった

それにしても(仮にこの選挙結果が伝えられている通りNLDの政権奪取に繋がれば)ここまでの道程、なんと険しく、長かったことだろう。1988年、母の看病のためにビルマへ戻ったアウンサンスーチーさんに政治参加の意思は希薄だった。しかし民主化勢力の強い要請により同年8月26日、シュレダゴンパゴタで50万人の民衆を前に初めて演説を行う。この伝説的演説は建国の父アウンサン将軍の娘、アウンサンスーチーさんの民主化への合流としてビルマ国内だけでなく、国際社会でも大きく報じられた。

そして迎えた1990年5月の総選挙でNLDは80%を超える議席を獲得する。本当の政権交代は25年前に実現したはずだった。しかし当時の軍事独裁政権は「選挙結果は無効」とし、当選したはずのNLD議員の身柄拘束や逮捕が相次ぐ。アウンサンスーチーさん自身も禁固を含め何度も自宅軟禁を強いられ、一時は外部との接触を一切禁止された時期もあった。

◆1998年、自宅軟禁下のアウンサンスーチーさんへのインタビューを決行した

私とかつての職場の同僚が彼女に会いに出かけたのはまさに、厳しい自宅軟禁が強いられていた1998年だった。軍事政権の独裁に対して欧米などは経済支援を控えていたので、当時の軍事独裁政権を支えていたのは主として日本だった(後にその位置は中国が取って代わることになる)。英国植民地時代に設計されたラングーン(現在は「ヤンゴン」と呼ばれている)の町並みは緑豊かであったが、経済状態の疲弊は一目瞭然だった。かつては大型商店であったろういくつものビルが廃墟となり、また老朽化していたし、外国人向けのホテルはどこもガラガラだった。欧米人の姿を目にすることはほとんどなかった(民政移管後ラングーンの町も様変わりし今では外資の投資が殺到している)。

当時、取材目当ての外国人の入国は厳しく制限されていた。私たちは大学職員だったから「観光ビザ」で入国し、彼女の自宅のあるユニバーシティ・アベニューに設けられた検問所まで歩を進めた。もちろん、いきなりそこへ向かったわけではなく、事前様々綿密に計画を立て、いくつかのパターンを想定してインタビューする場所も彼女の自宅以外の場所も用意していた。

検問所に着くと自動小銃を持った軍人が数人出てきた。責任者と思われる人物が「ここから先へは行けない、引き返せ」と英語で命じてきた。検問所周辺には軍人の他警察の制服を着た人間や私服警官もいたが、厳格なものではなく、広い通りの片側車線だけに検問は置かれていた。その先は比較的裕福な人々が暮らす住宅街でもあるので、住人は顔を確認して素通りできるようにしてあったのだろう。

検問所を守る軍人たちにとっても、こんなに正面を切ってやって来る厄介者はそうそうはいなかったのだろう。俄かに周辺が騒がしくなった。
「この先に住む知人から招待されている。先に行かせてほしい」
私がそう切り返すと、責任者とおぼしき男の口から聞き取れない声が発せられた。それと同時に肌の浅黒い4人の軍人が一斉に自動小銃を構え、銃口を私たちに向けた。
「私はビルマ人ではない。私たちが数日以内に帰国しなければ国際的なマスメディアの多くがその事を報じることになっている。国連にも連絡が入る。それでもよければ撃ってくれ」
たどたどしい英語でそのようなことを叫んだが、既に軍人の指は引き金にかかっている。向かい合う双方の緊張が高まる。

当初の計画では検問所で15分ほどねばり、そこへアウンサンスーチーさんが出て来て、「友人だ」として私たちを自宅に連れて行く。というのが第一案だった。しかし検問所でのやり取りは思ったほど時間が稼げず、思いの外、緊張が高まってしまった。軍人たちもかなり興奮している。撃たれることはないだろうが、これ以上そこに留まれば、身柄拘束の危険性は否定できない。仕方ないので私たちは第一案を放棄し、第二案に切り替えた。

アウンサンスーチーさんは自宅軟禁ではあっても監視付きながらラングーン市内の移動は認められているとの情報を得ていたので、自宅突入が失敗した時はNLDのNO.2であるティン・ウーさんの自宅へ移動し、そこへアウンサンスーチーさんに来てもらうプランだった。

ティン・ウーさんはネ・ウィン軍事独裁政権で大臣を経験するも、独裁政権とたもとを分かち、民主化運動に参加した珍しい経歴を持つ人物で、当時ビルマ国内ではアウンサンスーチーさんに次いで人気のある民主運動家だった。

幸い、ティン・ウーさん宅でアウンサンスーチーさんのインタビューは成功した。インタビュー終了後、しつこく尾行に付きまとわれたが、私たちの身柄が拘束されることはなかった。そして翌日の空港ではいったん出国手続きを終え、搭乗ゲートで待っていたところ、再び空港係員に呼び戻され、鞄の中のあらゆる記録媒体(ビデオテープ、カメラのフィルム、土産に買ったビルマ音楽のカセットテープなど)が没収された。何も策を打っていなければ、せっかくのインタビューも人目に触れることがなく、私たちの取材は記憶の中だけのものになっていた可能性もあった。

しかし、そのような事態を回避するために私たちは「運び屋」を準備していた。私たちより1日早くビルマに入り、観光客然として振る舞う同僚を準備していたのが僥倖だった。彼は気の毒なことにアウンサンスーチーさんのインタビューには立ち会えなかったが、取材を終えた私たちから主たるビデオとカメラのフィルムを受け取ると、その日の便でビルマを出国していたのだ。

そんなスパイごっこのような末に公開できたのが下記の取材映像だ。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/freedom/aungsansuukyi/index.html

◆人々の夢を実現する

もうあれから17年が経過した。インタビューが終わりティン・ウーさん宅で休憩しながら歓談していた時、私は彼女に謝辞を述べた。
「今回はありがとうございました。何の縁もない私たちのお願いを、危険を冒して受け止めてくださり感謝の言葉もありません。私たちの計画は『素人にできるはずがない。夢みたいな話だ』と揶揄されましたが、今日こうやって成功することが出来ました」

そう私が述べると彼女はさらりとこう言ってのけた。
「とんでもありません。『私の仕事は人々の夢を実現する』ことですから」

「人々の夢を実現する」のが仕事。こんなセリフは普通軽々しく吐けるものではないし、不釣り合いな人が発語すれば、聞いている方が興醒めするだろう。しかし彼女の言葉は違った。私はそれまでの人世で感じた事のない不思議な心地よさに包まれた。「ありがとう。アウンサンスーチーさん。必ずインタビューは世界に公開します。何があっても」そう言いながら握手した彼女の掌は細かった。

彼女がビルマに帰国した1988年から27年、選挙で圧勝した1990年から25年、私たちのインタビューを受けてくれた1998年から17年。当初の彼女から変わったように見受けられる発言や行動もないわけではないが「夢を実現する」仕事はいよいよ集大成を迎えつつある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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