広島市の中心部からそう遠くない住宅街に、独特の存在感を醸し出している建物がある。写真(1)の物件がそれだ。家のようにも倉庫のようにも見えるが、側面と背面には窓が1つもない。そして正面に張り出されたプレートには、こんな気合の入った(?)メッセージがしたためられている。
町内の皆さんへ
長らくお待たせしました。
再開発部の手抜き工事が原因で、心配や迷惑をおかけしましたが、皆さんのご支援のおかげで、未だ原状回復は途中ですが、耐震工事だけは出来ました。
(修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした。)
何卒今後共宜しくお願い申し上げます。
事件番号28ヨ53 A子(※原文は実名)
この建物があるのは広島市南区の段原地区。このあたりは爆心地とは山で隔てられ、原爆による消失を逃れたが、そのために戦後は道路や下水道などの整備が遅れ、以前は狭く入り組んだ道に老朽化した家が軒を連ねていた。しかし70年代初頭から40年余りかけて再開発され、現在は真新しい家が立ち並ぶ、市内屈指の人気住宅街に生まれ変わっている。
そんな中、この建物の持ち主は、広島市が再開発のために家の建物を仮換地に移動させた工事が〈手抜き工事〉だったために損害を負い、〈未だ原状回復は途中〉の状態だと訴えているのだ。それにしても、〈修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした〉とは、何やら物騒な雰囲気だが・・・。
結論から言うと、この建物はずいぶん複雑な事情を抱えているのである。
◆メッセージの主は最高裁で逆転無罪を獲得
筆者がこの建物に関心を持ったのは昨年秋ごろのことだった。実はこの建物、今年初めまでは写真(2)のようなオンボロのたたずまいで、当時は次のようなメッセージをしたためたプレートが掲げられていた。
〈裁判上修理ができることになりましたので、実行しようとしたら逮捕され投獄されました。「無罪」でしたがくり返さない為にももうしばらくお待ちいただくようお願い致します〉
「無罪」とは一体何のことかと調べてみると、このメッセージの主であるA子さん(83)は最高裁で逆転無罪判決を勝ち取ったという稀有な経験の持ち主だとわかった。関連の新聞報道や最高裁判決(http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=37833)によると、事件の経緯は次のようなものだとされていた。
地元で不動産会社を営んでいるA子さんが別の不動産会社の男性社員(当時48)の胸を両手で突いて転倒させ、後頭部に1週間のケガを負わせたとして逮捕されたのは2006年12月のこと。そしてA子さんは傷害罪で起訴され、広島地裁の一審で罰金15万円、広島高裁の二審では暴行罪が適用されて科料9900円を宣告された。しかし、最高裁の上告審では、2009年7月、「正当防衛」だったとするA子さん側の主張が認められ、無罪を宣告されたのだ。
では、なぜ、正当防衛が認められたのか。
最高裁判決によると、冒頭の建物やその敷地は登記上、A子さんの会社と男性の会社が共有していたのだが、A子さんが建設会社に原状回復や改修の工事をさせたところ、被害男性の会社が工事の中止を申し入れ、サッシのガラス10枚を割るなどして妨害。さらに毎日現場にやってきて、作業員などにすごむなどしたため、工事は中止になったという。そして事件当日、被害男性が「立入禁止」の看板を設置しようとしたためにA子さんとトラブルになり、Aさんが暴行に及んだ――。
最高裁は、事件の事実関係を以上のように認定したうえ、被害男性らが「立入禁止」の看板を設置することは〈違法な行為〉で、〈嫌がらせ以外の何物でもない〉と指摘。さらに男性がA子さんに胸を突かれて転倒したのは、大げさに後ろに下がったことや看板を持っていたことからバランスを崩したためである可能性も否定できないとし、A子さんの暴行は「防衛手段として相当性の範囲を超えたものとはいえない」と判断したわけだ。
最高裁の判決をみると、被害男性やその会社が何やらとんでもない悪者のように描かれている。だが、事件のその後を取材したところ、事件の実相は最高裁判決の内容とかなり異なっているのだ。
◆無罪の根拠がことごとく否定された民事訴訟
筆者はまず、A子さん本人に取材を申し込んだのだが、電話口でA子さんは「あれは無罪でも嘘の無罪じゃから。私はおもしろくないんですよ」と最高裁の逆転無罪判決を批判した。そして、「正当防衛もくそもないんよ。私は被爆者で、甲状腺のガンや食道ガンやらやって、手の自由がきかんのじゃけえ、暴力をふるえるわけないでしょう」と被害男性に暴行したこと自体がでっち上げだったかのように訴えた。さらに「要するにヤクザ相手じゃから」と被害男性の会社が暴力団であるかのように言い、「泣き寝入りしたくないけえ、がんばりよるんよ」と被害男性の会社相手に民事訴訟を起こしていると明かしたのだった。
そして結局、取材は断られたのだが、A子さんと夫は被害男性の会社を相手取り、複数の民事訴訟を広島地裁に起こしており、それらの訴訟記録を見たところ、意外な事実がわかった。民事訴訟では、A子さんの暴行を「正当防衛」と認めた最高裁の事実認定を否定するような判決が出ていたのだ。
それは、A子さんが夫と共に2009年、被害男性の会社に嫌がらせ行為をされて損害をこうむったとして、約1億2600万円の損害賠償を求めて広島地裁に起こした訴訟の判決だ。昨年4月に出たその広島地裁の判決は、最高裁が被害男性の会社の人間が建物のサッシのガラス10枚を破損したと認定したことについて、「そのようなことがあったと認める証拠はない」と否定。また、被害男性の会社が改修工事の申し入れを求めたことについては、「その態様は、暴言、脅迫に及ぶなど社会相当性を逸脱するものではない」と違法性も否定した。さらに「被害男性が警察官に虚偽の申告をしたり、公判で虚偽の証言をしたと認めるに足る証拠もない」と判示しており、最高裁がA子さんの暴行を正当防衛だったと認めた根拠はことごとく否定された格好なのだ。
さらに意外だったのは、「暴力団問題」をめぐる事実関係だ。先述したようにA子さんは筆者に対し、被害男性の会社があたかも暴力団であるかのように述べていた。そして民事訴訟でも、同様の主張をしていたのだが、広島地裁の判決は被害男性の会社について、「暴力団と人的関係や取引上の関係を有していることを裏づける証拠はない」と認め、A子さんの主張を否定。それどころか、民事訴訟では、むしろA子さんのほうが暴力団と関係があったことまで明らかになっているのだ。
◆暴力団の構成員も法廷に登場
「A子さんの書かれている(陳述書)内容をお読みしまして、あまりにも事実と反するし、法廷で話をちゃんとしておくべだと私は思ったのです」
民事訴訟の法廷でそう証言したのは、A子さんの依頼により問題の建物の改修工事をしていた建設会社の経営者Bさんだ。
A子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、実は写真(1)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在する。A子さんはこれらの物件について、約2700万円と引き換えに被害男性の会社の共有部分をすべて自分たちのものにすることを求める訴訟も起こしているのだが、この共有物分割事件の訴訟にBさんは証人として出廷したのだ。
A子さんはこの訴訟で、被害男性の会社の人間たちが暴力団関係者で、様々な嫌がらせをされてきたかのように陳述書で訴えていた。それによると、A子さんの依頼で改修工事にあたっていたBさんらは、被害男性の会社の関係者たちに毎日のように脅かされ、恐れをなして工事を投げ出し、逃げ出したとのことだった。Bさんによると、このA子さんの主張が「あまりにも事実に反する」というのだ。
民事訴訟で明らかになったBさんに関する事実関係で何より驚かされたのは、Bさん自身が当時、山口組系の暴力団の構成員だったことだ。Bさんの証言によると、A子さんの仕事を請け負った際、A子さんから被害男性の会社について、「地元の暴力団がらみの地上げ屋で、かなりあくどいことをやっている」と聞かされていたという。しかしBさんはこれに対し、「私は大阪のほうで山口組の関係でしたんで、ああ、そんなことは大丈夫です、と胸をたたいた次第です」というのだ。被害男性の会社は暴力団であるかのように訴えていたA子さんこそが暴力団に仕事を依頼していたのである。
「被害男性の会社の社員たちにヤクザ風の雰囲気はまったくなく、工事をやめてくれないかと小さな声で言ってきたが、無視していました」
そう証言したBさんによると、工事を途中でやめた理由は、被害男性の会社に嫌がらせを受けたからではなく、「被害男性の会社が建物の半分の所有権を有していることがわかり、このまま工事を続けて損害賠償を請求されたら、とんでもないことになる」と思ったからだという。
そしてBさんは、さらに衝撃的な事実を明かしている。A子さんは民事訴訟の中で、2度に分けてBさんの会社に1500万円の工事代金を支払っていたと訴え、Bさんの会社名義の1500万円の領収書のコピーも示していたのだが、Bさんはこの1500万円を「受け取っていません」と言うのだ。
「A子さんの会社からもらった着手金は60万円です。それ以降、250万円か300万円くらいの間だったと思いますが、ちょくちょく頂いていました」(Bさん)
このBさんの証言が事実なら、A子さんの会社がBさんの会社に支払った工事代金はせいぜい300万円から360万円程度か。A子さんがこのことについて、どんな税務処理をしているのかは気になるところだ。
◆異様な雰囲気を醸し出すオンボロな建物
また、先述したようにA子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、写真(1)(2)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在するが、現地で確認したところ、いずれも写真(3)(4)(5)(6)のようにオンボロの建物ばかり。新しい家が立ち並ぶ人気住宅街の中で異様な雰囲気を醸し出している。
A子さんはこれらの物件についても、広島市の仮換地への移転工事が適切ではなかったと主張。夫と共に広島市に対し、約1億8000万円を求める訴訟も起こしているのだが、これらの建物のオンボロぶりを見る限り、すべてが広島市の移転工事のせいだとは思い難いところだ。
A子さんはかなり個性的な生き方をしている人なのは間違いないが、これらの訴訟はいずれも現在、進行中だ。その動向については、今後も折をみて、お伝えしたい。
▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。