予兆の無い天変地異を避けることは出来ない。でも自然災害ですら、事後にはその発生のメカニズムや原因についての「憶測」が専門家によってまことしやかに語られる。曰く「この気圧配置で平地では竜巻が起こりやすいんです」「この地震はプレート型ではなく極めて浅い断層が動いた。その真上であったため震度が大きくなったのだと思われます」などなど。

◆個人とマスメディア間の不健全な条件反射

自然現象の専門家ではない一般人は「ああそうなのか」と自分が解っているのかどうか、それすら理解できない「識者談話」を聞いたり、目にすることで、その解説がどれほど不確であるか、あるいは語られた内容が空疎であるかに関わらず、一応の「納得」を示すという個人とマスメディア間の不健全な条件反射が出来上がっている。

自然災害が発生すると間をおかずにそのメカニズムや原因、さらには被害状況を知りたくなり身近なマスメディアにアクセスする行為はもはや、人間の反射と決めつけてよいほどに固定化している。

◆「歴史」についての感性や視点は多様である

さて、自然災害とは異なり、人間社会が刻んでいた「歴史」についての感性や視点は多様である。公教育では(世界中どの国でも程度の違いはあれ)その国の「勝者」から眺めた歴史しか教示されることはない。数百年前に民衆が画策した政権打倒の試みや、権力者に対する異議申し立ての実力闘争などは、それが現在の社会に地下水脈として続いていようがいまいが公教育からは、「邪史」として排除される運命にある。

逆に一度は途絶え、敗北したかに見えながら、我慢強く復権の日を虎視眈々と狙っている連中の存在感は増すばかりだ。かつて「覇権」を手にした勢力が表舞台に再登場しようと鼻息を荒くしている様子は、少し斜めから社会を眺めれば毎日、そこここにその証左を見つけることが出来る。

◆京都新聞連載コラム「旅する大日本帝国」という名称の薄気味悪さ

ここに紹介する写真は京都新聞の「地域プラス」欄に週2回ほど連載されている「旅する大日本帝国」というコラムだ。文末に「ラップナウ・コレクション(絵はがきより)」とあることから当時の絵葉書を紹介しながら「大日本帝国」時代に起きた出来事を紹介するのが京都新聞の趣旨だと想像される。

これだ。このコラム名称に私は薄気味悪さを直感した。

注視すべきは一見何の悪意も纏わない振る舞いを装ったこのコラムの題名だ。無謀な戦争に突入していったあの時代が「絵葉書」を読み返すといった、ある種無垢で微笑ましくさえある回顧作業の様に紹介される禍々しさ。これこそが2016年現在の日々を蝕んでいる「かつての勝者」が復権を目指して画策する謀略の一例だと感じるのは私の錯覚だろうか。

無謀な戦争に突入して行き、例えようもない惨劇を招いた「連中」は敗戦後も無傷だった。一部の指導者が戦犯として処刑された以外には、軍国主義指導者の大半、軍需で大儲けした財閥、そして関東大震災の際に「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」との流言飛語に多数の朝鮮人を虐殺した市民たちもついぞ反省することはなかった。「大日本帝国」の大元帥にして現人神であった天皇ヒロヒトの罪が全く問われることなく、急に「神」から「人間宣言」を行い「象徴」として自然死を遂げたことが、この欺瞞に満ちた歴史の全てを総括する。

このコラムの題名とそこで紹介されている記事を目にして、特段何も感じないか、「なぜ今、『旅する明治・大正』ではなくこのコラムの題は『旅する大日本帝国』なのか」との捻くれた疑問を持たなければならないところにまで時代の病が進行している。いつかは来るだろう、私の生きているうちだろうか、死んでからだろうかと案じていた時代は既に始まってしまった。

京都新聞の「旅する大日本帝国」7月27日は「大正と大震災編19避難列車」だ。コラムでは、
「関東大震災は一瞬にして首都圏の姿を変えた。上下水道、電気、ガス、道路、橋、堤防などあらゆる都市機能が壊滅的な打撃を受け、東海道、横須賀、中央、東北、山手、総武など鉄道各線にも影響が出た。しかし、比較的早く応急処置を完了し、運転を再開する路線もあり乗車が可能となった駅では、焼け野原から逃れようと大勢の避難民が押し寄せた(後略)」。

引き続き7月28日は「大正と大震災編20火災旋風の脅威」で、
「関東大震災で最大の犠牲者を出した地として、東京市本所区横網町の陸軍本所被覆廠跡が有名だ。約3万8千人が亡くなり、東京全体の死者約7万の半数以上を占めた(後略)」(写真参照)

「旅する大日本帝国」は絵はがきを題材に時代を振り返っているから、この解説文は京都新聞の記者がどこかで調べて書いたものだろう。

歴史を振り返る方法には多彩な手法や視点があろう。個人が幕末の歴史にのめり込んだり、戦国武将の虜になったりするのは全くの自由であるし、また別の人間が「正史」で描かれることがほとんどない「叛史」に入れ込むのも自由だ。

京都新聞は「旅する大日本帝国」で読者にある強制を強いている。それは明治以降(おそらくは敗戦までの時代を)「大日本帝国」の視点から振り返ることを容認することを読者に押し付けているからだ。

このコラムで、これまであからさまな皇国史観が登場したことはない。しかしあくまでも時代を振り返る題材と視点は「大日本帝国」のそれに限定される。繰り返すが歴史の実証的紹介であればなぜ「旅する明治・大正」であっては不具合であったのか。どうして「旅する大日本帝国」でなければならならなかったのか。その回答は読者諸氏の日常のそこここに地雷のように敷設されている。その数はポケモンの数の比ではないだろう。

◎[参考]京都新聞の関連旧連載記事「絵はがきに見る大日本帝国」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

原宿にある「ことりカフェ」にでかけてみた(http://kotoricafe.jp/access)。 今の原宿は、外国からの観光客だらけで韓国語、中国語、ベトナム語などが複雑に入り混じっている。青山六丁目の交差点あたりでは、イスラム風の衣装の人たちが太鼓を叩いて民族音楽を奏でて通りすぎていった。そのような喧噪の中、青山六丁目の信号の近くに、インコやかわいい オウムを店内でじっくり観賞できる「ことりカフェ」に行ってみた。

普段、寝る時間すら削っている身にとっては、インコたちがお互いに毛繕いをしている仲のいい光景すら、癒される。

そして鳥といったときに僕は「池中玄太80キロ」というテレビドラマを思い出す。主演は西田敏行で、写真雑誌の敏腕カメラマンだ。だが彼が本当にカメラに収めたいのは実は鶴。休みになると出かけて鶴を追いかける。そのようなわがままを普通は妻が許さないが、許してくれていた妻が早くに逝去する。そして残された三人の娘とどうやって暮らしているのか、重要なテーマだ。このとき西田が歌った「もしもピアノが弾けたなら」はスマッシュヒットとなった。

それにしても今は猫ブームなのだが、どうしてインコにスポットが当たらないのだろうか。

「やはり、世話がかかるのが一番の理由じゃないか。猫はほおっておいて旅行に行っても餌さえ与えておけば問題がないが、インコは自力では生活できないじゃないか」とペットショップの友人は言う。

なるほど、世話がかかるからかわいいという見方もあるかもしれない。いずれにしても、毎日の煩雑さから抜け出すのに、「ことりカフェ」はいいかもしれない。ここに訪れる外国人カップルたちも、鳥たちに魅せられていた。文化交流のために、日本との橋渡しを「とり」なしてくれているってわけだ。おあとがよろしいようで。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。

2016年8月6日を迎え、私にはまたしても多くの人びとと共有できないだろう、強い怒りと絶望に支配された。8月6日を迎えるにあたり今年は是非ともなされるべき検証があった。5月27日に広島を訪れたバラク・オバマ米国大統領の行動と、そこで発せられたメッセージだ。

就任直後、オバマは「ノーベル平和賞」を授与される。何の実績もないのに「平和賞」が授けられたオバマは「ノーベル平和賞」初の「先物取引オプション」の対象となった。しかしオバマの受賞式での長ったらしいスピーチの中では、

米中枢同時テロの後、世界は米国のもとに集い、アフガニスタンでの私たちの取り組みを支援し続けている。無分別な攻撃を恐れ、自衛の原則を認識したからだ。同じように、(イラク大統領だった)サダム・フセインがクウェートに侵攻したとき、世界は彼と対決しなければならないことを悟った。それは世界の総意であり、正当な理由のない攻撃をすればどうなるか、万人に向けた明確なメッセージとなった」(注:太文字は筆者)

と、「平和賞受賞スピーチで」戦争を行う言い訳を並べるという、前代未明の「好戦的演説」を行い、会場はスピーチ終了後、授賞式の会場は、つかの間静まり返った。

黒人であるオバマが米国大統領に就任したことを、確かに世界は驚きを持って受け止めた。わずか半世紀と少し前の時代には、黒人と白人の同席すらが許されなかった国で、被抑圧者の黒人から最高指導者が出るのは、米国の歴史が200年余りと比較的短く、良くも悪くも表面上の「変化」(決して本質的な変化ではない)には柔軟に対処できる素地を持っているからだろう。その事は「トランプ」という共和党大統領候補を生み出すのと同根の現象である。

そのオバマ。ノーベル平和賞先物取引オプションで最高のレバレッジが付与された「米国大統領」が5月27日広島を訪問した。平和記念資料館を10分ほど「視察」(通常入館者は館内が混雑していなくとも主要部分を見学するのに最低30分は要する)した後、献花をして、17分に及ぶ「演説」を行った。

ここに17分間の演説を引用するのは読者に退屈を強いることになるので、それは控える。ただ、オバマの演説には「原爆投下の責任」、「原爆投下への謝罪」、「被爆者の苦痛への言及」などは一切なかった。修辞に長けたスピーチライターによって用意された、ボーとして聞いていると、なんだか格調高そうに聞こえて、具体的には何も語らない(その点米国のスピーチライターの腕前は安倍のスピーチライターより数段上だ)17分の演説の感想を私なりに一言でまとめれば、「オバマ、いい加減にしろ」だ。

「反省や謝罪の意は要らないから、とにかく広島に来て!」という何のことやらさっぱりわからない「オバマを広島へ」機運は数年前から散見された。そして彼らの望み通り「一切反省や謝罪を述べない」オバマがやって来た。まず驚いたのは平和記念資料館をたった10分で「掛け抜けた」ことだ。最低でも30分と先に書いたが、多くの外国人観光客は通常1時間以上を見学に費やす。

さらに、私にとっては青天の霹靂の図が展開された。「原爆投下を全く反省しない米国大統領」に被爆者の代表が抱かれたのだ。「加害・被害」、「犯罪・贖罪」、「虐殺・そ殺された者」、これらの言葉の意味はこれでもか、これでもかとねじ曲げられ、「贖罪を行っていない加害者に永遠の被害者が抱かれるの図」が何やら、世紀の美談のように新聞紙面を飾った。加害者と被害者の対話無き「似非和解」。この姿は被爆者が永遠に救済されないことを言外に宣言したおぞましい光景だ。

そしてあろうことか8月6日松井一実広島市長は「ヒロシマ平和宣言」の中で、オバマの広島における演説を引用した。

「今年5月、原爆投下国の現役大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は、『私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器を持たない勇気を持たなければならない』と訴えました。それは、被爆者の『こんな思いを他の誰にもさせてはならない』という心からの叫びを受け止め、今なお存在し続ける核兵器の廃絶に立ち向かう『情熱』を、米国をはじめ世界の人びとに示すものでした。そして、あの『絶対悪』を許さないという思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした」

同じニュースを伝える誌面には広島大学名誉教授、葉佐井博巳さん(85)のコメントが紹介されている。「日本政府も被爆者団体も原爆投下への謝罪を求めず、オバマ氏が広島に来ただけで、和解したかのような歓迎ムードが醸成されたと感じた。『家族や友人を殺された被爆者の怒りを忘れたのか』違和感があった」

葉佐井氏の感覚こそが自然ではないか。オバマが仮に広島訪問で原爆投下への謝罪を述べたのであれば松井市長もスピーチ引用の価値があっただろう。だが、どこに「加害者」と「被害者」の和解があるというのだ。繰り返すがオバマは一言も謝罪をしていないではないか。「あの『絶対悪』を許さないという思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした」と松井市長は語ったが、この文章は、巧妙にねじれていて、実は主語がない。あたかも「原爆死者慰霊碑」に刻まれた「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬからから」のように。

間違っている。断じて間違っている。反省と謝罪なきオバマの広島訪問への賛美。その光景を美談に仕立てたがるのが米国メディアであれば、まだ腹の内は解らなくもない。しかし、日本のメディアが揃いも揃って、何故このように卑屈になる必要があるのだ。オバマ広島訪問の茶番を美談に仕立てる「被爆都市」広島市長の感性は犯罪的ですらある。本気であの様子を「和解」や「進歩」の象徴と考えているのか。オバマはノーベル平和賞先物取引オプションだ。要するに似非、疑似餌だ。その疑似餌にこうも安々と騙されて、中には涙を流す人までいる。

広島に来たのだから、せめて人目につかないように布をかけるか、それとは解りにくい容器を準備する程度の配慮があってもよさそうな、「核兵器発射装置」である銀色のスーツケースは、いつも通り常にオバマの至近距離にあったじゃないか。オバマの広島訪問は歴史に「2016年5月27日米国大統領バラク・オバマ広島を訪問」を刻まれるだろう。全くその欺瞞を度外視して。原爆被災の日は年々意味が歪められてゆく。

8月9日午前11時02分──。今日の長崎はどうだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

JR東海傘下の『WEDGE(ウェッジ)』は原発推進団体からよほど金が流れているのか、摩訶不思議な雑誌だ。外交評論家の金子熊夫の原稿で、タイトルは「日印原子力協定は日本の非核主義と両立する」という脱力するようなものだ。

驚くべきことに「日本とインドの原子力協定を後押しする」というコンセプトのもとで、以下の残念な内容が展開されている。つまり金子は「インドが核実験をする」ということと、「日本が原発技術をインドに提供する」ことは別物だと言いたいのだ。

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外交評論家の金子熊夫

 2015年12月半ばに訪印した安倍晋三首相とナレンドラ・モディ印首相との間で、日印の民生用原子力協定を可能にするための二国間原子力協力に関する「原則合意」が成立した。長年この協定の重要性を唱えてきた者として、大変喜ばしいことである。しかし、日本国内では対印協力に対する懸念が繰り返し報道されてきた。世論への配慮からか、政府の締結に向けての歩みは決して早くない。日印原子力協定は、原子力の問題ではない。日本の安全保障、アジア全体の安全保障という、もっとも大きな文脈で捉えられるべき問題であり、細かい技術論で大局的な政治判断が損なわれることがあってはならない。残念ながら、日本人はインドに対する理解が浅い。日本が唯一の戦争被爆国としての立場ばかりを主張するなら、愛想を尽かすのはインドの方だ。日印の協定交渉は、民主党政権時代に始まってから間もなく6年になるが、この間もっとも双方が対立してきたのは、核実験再開時の扱いだった。日本国内では、インドが核実験を行ったら、直ちに対印協力を停止することを協定に明記すべきとの意見が根強い。(中略)
 日本としては、今回安倍首相がニューデリーでの首脳会談で、はっきり「インドが核実験を再び行った場合には、日本からの協力を停止する」と伝えているのであるから、これで十分ではないか。日印協定案を国会が承認する歳に衆参両院が付帯決議を採択して日本の立場を宣明するのも一案だろう。そもそも、インドが核実験を行った場合にどう対応するかというようなことは、協定や条約には本質的になじまない。そのような場合には何よりも必要なのは、日印両国政府が急遽協議することだ。協定や条約の運用について締約国同士が随時緊密に協議することは当然のことで、そのことを原子力協定に明記しておけばよく、それで十分だと筆者は考える。(『WEDGE』2016年4月号)
◎金子熊夫の略歴紹介HP http://www.eeecom.org/old/KKprofile.htm

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おいおい、金子よ! 正気か? 同じことを広島の原爆ドーム前で拡声器を使って真顔で言えるのか。インドが核実験を行う場合、その原子力のメカニズムは、日本からの原発技術供与と関係ないと誰が言えるのか。原発技術と核実験が密接に関係しているのは、小学生でももはや知っている事実である。

(渋谷三七十)

展開に期待がかかった不安のない序盤戦

ローキックを受け続け、テヨンの踏み込みが弱まる展開へ

「勝ったなんて言えないです」テヨンが答えた第一声。
序盤から中盤にかけて重い蹴りが交差する攻防から、そのあとテヨンがどう捌くか、テヨンのローキックがマシアスの動きを止められるか、パンチの連打でKOに導くのか、あるいは反撃を許さず、どう盛り上げるか期待の展開の中、テヨンの蹴り、パンチを受けてもマシアスが勢い衰えませんでした。

逆にマシアスのローキックがテヨンを苦しめていき、テヨンが劣勢に陥るほどの差はないが、マシアスが踏ん張った印象が残る展開でラストラウンドが終了。その直後、テヨンが足を引きずるような効いた様子を見せてしまいました。終了後の動きは採点に関係ないですが、悪い印象を与えかねないので気をつけるべきでしょう。

息子をリング上で抱き上げる撮影も増えた近年、責任感も増す一生もののツーショット

ラウンドマストシステムならテヨンが失ったラウンドは大きかったかもしれない、マシアスの踏ん張りが目立ったところです。テヨンが印象点を掴む連打が勝ちを導いたか、際どい判定でした。

「マシアスに申し訳ない、結果的に自分がベルトを巻いていますが、本当の勝者はマシアスです」と続いて語り、反省は残るテヨンですが、試合は観る側が力こもる見応えがある好ファイトとなりました(マシアス・セブン・ムエタイは同組織元スーパーフェザー級チャンピオン)。

TOMONORIは勝ちに徹し、無理せず距離をとって、シティバの攻めを空回りさせ、シティバに指導しているかのような風にも見える技術の差を見せ、2~3ポイントながらもっと大差を付けたような展開。過去2度失敗したインターナショナル王座挑戦に、「WBCのベルトはどうしても欲しかった」というモチベーションで38歳まで頑張ってきたTOMONORI、もう一段階上のベルトへ踏ん張れるでしょうか。

MOMOTAROは変則的に先手を打つ突進力で完全に主導権を掴み、正攻法で反撃する一戸は後手に回り、巻き返せず。MOMOTAROは初防衛。

3年前に3-0で白神を退けている宮越宗一郎は、互いに地位を上げ、インターナショナル王座を持つ宮越が一歩上位のWBC傘下のチャンピオンの肩書きを持つ同士で再戦。1ラウンドの白神のパンチのラッシュに宮越は一旦仰け反り後退するも、立て直して徐々に打ち合いの強さを発揮して密度濃い展開の中、僅差の判定勝利。

TOMONORIの左フックでシティバがこのあとダウン

◎NJKF 2016.5th / 7月23日(日)ディファ有明17:30~20:55
 主催:NJKF / 認定:WBCムエタイ日本実行委員会

◆WBCムエタイ・インターナショナル・スーパーライト級王座決定戦 5回戦

日本同級C.テヨン(中川勝志/キング/22歳/63.5kg)
.VS
マシアス・セブン・ムエタイ(イタリア/23歳/63.45kg)
勝者:テヨン / 2-1
(主審 篠原弘樹 / 少白竜 49-48. 松田 49-48. 小林 48-49)

先手を打って多彩に攻めるベテランの余裕

◆WBCムエタイ・インターナショナル・フライ級王座決定戦 5回戦

日本同級C.TOMONORI(佐藤友則/OGUNI/38歳/50.7kg)
.VS
シャリー・シティバ(ベラルーシ/34歳/50.55kg)
勝者:TOMONORI / 3-0
(主審 小林利典 / 少白竜 49-47. 松田 49-47. 篠原 50-47)

欲しかったWBCのベルトを巻いて涙。まだ上があるWBCのベルト

◆WBCムエタイ日本フェザー級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.MOMOTARO(OGUNI/26歳/57.1kg)
.VS
WPMF世界Fe級C.一戸総太(WSR・F三ノ輪/29歳/57.0kg)
勝者:MOMOTARO / 3-0
(主審 少白竜 / 小林 50-48. 松田 49-48. 篠原 50-47)

◆WBCムエタイ70.0kg契約3回戦

IN・Sウェルター級C.宮越宗一郎(拳粋会/29歳/70.0kg)
.VS
日本同級C.白神武央(拳之会/28歳/70.0kg)
勝者:宮越宗一郎 / 2-0
(主審 松田利彦 / 小林 29-28. 少白竜 29-29. 篠原 29-28)

MOMOTAROがムエタイ修行の成果を発揮。一戸のリズムを狂わせた

◆WBCムエタイ日本バンタム級挑戦者決定戦 5回戦

1位.前田浩喜(CORE/35歳/53.5kg)
.VS
WPMF世界B級暫定C.林敬明(TSK Japan/32歳/53.45kg)
勝者:林敬明 / KO 1R 3:06 / 主審 篠原弘樹

◆WBCムエタイ日本フライ級王座決定トーナメント準決勝 3回戦

2位.大槻直輝(OGUNI/33歳/50.6kg)
.VS
3位.ローズ達也(ワイルドシーサー沖縄/36歳/50.8kg)
勝者:ローズ達也 / 0-3
(主審 小林利典 / 篠原 27-30. 少白竜 27-29. 松田 27-30)

◆ブランドが光るWBCベルト

WBCのベルトは確かにカッコいいですね。このベルトを目指す選手が増えているのも確かな現象です。価値と共にカッコいいのは他にもありますが、やっぱりWBCのブランドが光るのでしょうか。

初防衛を果たし、更なる上を目指すMOMOTARO、WBC認定式での顔ぶれ

午前から第2回WBCムエタイジュニアリーグが長時間に渡って行なわれた関係から予定通りですが、夕方の部のプロ部門は全6試合、計26ラウンドの長さ。それでも3時間半近く掛かりましたが、全試合の印象が記憶に残る、纏まりとして良い感じの長さでした。とにかくムエタイとして勢力を増した興行が増えています。世界王座となると曖昧な地位となってしまう業界ですが、現在の努力が将来に繋がるのは確かなところ、どの組織が生き残っていくかは誰にもわかりません。

テヨンはNJKF、WBCムエタイ圏内で順調に国内王座を制し、今回インターナショナル王座挑戦となりました。ヨーロッパ強豪という選手を観る度、強豪はタイ選手だけではないことを実感しますが、落胆している場合ではなく、「防衛してこそチャンピオン」を心に留め、次の防衛戦で名誉挽回へ結果を残して欲しいところです。

過去には内容に納得いかなくて、レフェリーの勝者コールを受けない、チャンピオンベルトを巻こうとしない選手もいました。勝者を支持したのは審判で、公正な競技として、観衆の前でその支持を受けてリングを降りなければなりません。そこで礼儀正しく認定セレモニーを受け、チャンピオンベルトを巻いたテヨンは当たり前ながら、立派でカッコよかったと思います。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

映画「ダーク・プレイス」を見た。この原作は、ギリアン・フリンという才能あふれる作家でデビュー作の『KIZU―傷―』は、英国推理作家協会が主宰するCWA賞で2つのダガー賞を受賞、40週間以上もニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに選ばれた。この映画の原作となる「冥暗」は、ニューヨーカー誌の〝批評的選書〟ウィークエンド誌の「この夏で一番の本」、パブリッシャーズ・ウィークリー誌の〝2009年最高の本〟シカゴ・トリビューン紙の「おすすめのフィクション」などに選ばれている。そして続く「ゴーン・ガール」が世界的にヒットする。なんと世界で1500万部も売れているのだ。手元の文庫は、すでに7刷を突破している。

そんなわけで、この「ダーク・プレイス」は、過去に一家惨殺をされて生き残った少女、リビー・デイが、成長し、もはや同情から慈善家たちから寄付がもらえなくなり,弁護士から「働くべきだ」と指摘されるところから物語は始まる。このとき「殺人クラブ」という、謎解きが趣味の集団が賞金を出すから「新犯人捜し」に協力してほしいと頼まれる。

事件当時、『悪魔教』に染まっていた兄が犯人として逮捕されるが、実は事実を掘り起こしていくと、自分が思ってもいない犯人象が浮かび上がってくるのだ。これは、主人公のリビー、兄、リビーの母親という3つの観点から描かれているので、いささかわかりにくい。

そこで、私の小説のほうの師匠、若桜木虔氏がリリースした最新書籍「ミステリー小説を書くコツと裏ワザ」(青春出版社)をもとに分析してみる。この映画はじつにわかりにくかった。原因は何か? それは、回想シーンを使いすぎたからだと僕は想う。

若桜木氏はこう綴る。

「どうしても画期的な冒頭が思いつけない、という理由で、その物語の中でもっとも劇的なシーンを冒頭に持ってくる手法がある。第27回横溝正史ミステリ大賞受賞作『首挽村の殺人』(大村友貴)や、第37回メフィスト賞受賞作の『パラダイス・クローズド』(汀こるもの)のような構成で、つまり同一シーンが作中の肝心な箇所と、冒頭と、二度と亘って出てくることになる。はっきり言って、この手法には賛成できない。物語の時系列が狂うからである。ミステリーに限らず、エンターテインメントでは回想やカットバックを可能な限り避け、エピソードを出来事の順番通りに並べる〝時系列厳守〟が鉄則なのだ。それは、なぜか。時系列に頓着しない,物語が過去と現在をいったりきたりするような作品でも、頭が混乱しないでストーリー展開を追える読者もいないわけではない。だが、頭が混乱して前後関係が把握できなくなる読者も、確実に存在する。また、時系列が狂った作品が大嫌いな選考委員も、一部には存在する。最終選考で時系列の狂いを扱き下ろされて受賞し損なった実例も、いくつかある。そもそも、ミステリーを含むエンターテインメント系の作品は『楽しみのために読む』のであって、知恵を絞って悪戦苦闘しながら読む、という性質のものではない。」

そうなのだ。この映画はたしかに頭を絞らないとなかなか時系列の流れに追いつかない。ただし主演のシャーリーズ・セロンはこの映画のプロデュースも兼務しているが、いい演技をしているし、暗闇をうまく使ったジル・パケ・ブランネール監督(脚本兼任)もなかなかいい演技を引きだしている。難解なパズルを楽しみたい諸兄には、ぜひおすすめしたい映画だ。

◎若桜木虔小説講座 http://prosakka.main.jp/kouza/

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして松岡イズム最後の後継者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

5月15日、朝の5時すぎから2時間半の短い時間、ATMから偽造クレジットカードで18億6千万円が引き出された事件でつぎつぎと出し子が捕まっている。20日にも、福岡県警は、福岡市東区三苫2丁目、トラック運転手立石啓太容疑者(25)を窃盗などの疑いで逮捕。出し子(引き出し役)の一人とみており、容疑を認めた。すでに逮捕されたのは13人以上。少なくとも600人の出し子が1800台のATMから引きだしたと見られている。

拘留されている出し子は、そろそろ拘留期限が切れていくが「逃がさない」と引きだしを指示した「指示役」やオーダー主と警察からのマークで戦々恐々している。

IT犯罪に詳しい作家、影野臣直氏は語る。
「もちろん出し子がどう動くか、黙秘したとしてもまた気がかわり警察に駆け込まないかはきっちりと『指示役』が監視しています。ですが、この事件はだれが頼んだかわからないようになっているはずですから解明は時間がかかる」
たとえば出し子が「Aさんに頼まれてやりました」と言うとする。A氏は警察に呼ばれるが、「クレジットカードは借金のかたにとられました」とたとえば海外にいる人の名前を出していいわけする。その後を追うのは難しいというわけだ。

出し子のひとりと接触した弁護士は言う。
「拘置所から出るなり、いきなりだれかの追尾が始まるのかと思うとぞっとします、と怯えていました」

弁護士はそれ以上の取材にがんとして口を開かない。

この「ATM引きだし事件」は、今後、暴力団がどうやって金をひねりだすか、というモデルケースになりうる点で警察の注目を浴びる。

「逮捕された出し子に山口組系組員がおり、組の関与が指摘されている。暴力団が、暴力から『頭脳犯罪』にシフトしていくという意味で分岐点となる事件です。もしくは、出し子として動いた組員は捨て石で、もっと巨大な詐欺団体が動いているのかも」(ヤクザ雑誌編集者)

いずれにせよ、出し子を警察がマークする時間は短いとの声もある。

元兵庫県警刑事で、飛松実践犯罪捜査研究所所長の飛松五男氏は言う。
「表向き、釈放された出し子に警察は行動確認をきちんと1ヶ月つけると発表するだろうが、行確など、つけてもせいぜい一週間が関の山でしょう。組織対策課も案件が山積していますし、追尾しても末端からわかることは少ない」

さて、拘留がとけた出し子の一人を、週刊誌がつかまえているようだ。
「余計なことを言わせれば捜査が遅れる。今後、防犯カメラを解析したり、出し子たちの経歴を洗ったりと捜査を慎重に進めないといけない。メディアの人たちは出し子たちの身柄をしつように追わないでほしいね」(警察関係者)

とはいうものの、出し子しか手がかりがない以上、そこからしか事実はたぐれない。神経戦が続いてるようだ。

(伊東北斗)

芸能界の闇を暴く震撼の書『芸能界薬物汚染』(鹿砦社薬物問題研究会編)

芸能界の歪んだ「仕組み」を解き明かす!『芸能人はなぜ干されるのか?』

障害者施設で19名が殺された事件が盛んに報道されている。
私が言及する余地もないので、関連して気になったこのニュースを紹介しておこう。

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妊婦の血液から胎児のダウン症などを調べる新出生前診断を受診した人は、検査開始から三年間で3万615人だったとする集計を、各地の病院でつくる研究チームがまとめた。一年目に8千人弱だった受診者は二年目に1万人を超え、三年目は約1万3千人となり、利用が拡大している実態が明らかになった。染色体異常が確定した妊婦の約九割が中絶を選んだ。
(中略)
染色体異常の疑いがある「陽性」と判定されたのは547人。さらにおなかに針を刺す羊水検査に進んで異常が確定したのは417人で、うち94%に当たる394人が人工妊娠中絶を選択した。陽性とされながら、確定診断で異常がなかった「偽陽性」も41人いた。

集計をまとめた昭和大の関沢明彦教授は「検査に伴うカウンセリングの改善など、成果は病院グループで共有している。臨床研究から一般診療に移行するか、今後の在り方を議論すべき段階に来ている」と話した。新出生前診断は、十分に理解しないまま安易に広がると命の選別につながるという指摘もあり、日本医学会が適切なカウンセリング体制があると認定した施設を選び、臨床研究として実施されている。

 <新出生前診断> 妊娠10週以降の早い時期に、妊婦の血液に含まれるDNA断片を解析し、胎児の3種類の染色体異常を高い精度で調べる検査。ダウン症や心臓疾患などを伴う染色体の異常を判定するが、確定診断には羊水検査が必要となる。2013年4月、日本医学会が認定した15の医療機関で臨床研究として始まった。受診できる人は、出産時に35歳以上となる高齢妊娠で、染色体異常のある子どもの妊娠や出産歴などの条件がある。

◎引用元=新出生前診断3万人超 臨床研究3年 染色体異常で中絶394人(東京新聞2016年7月20日)

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ああ、やっぱりそうなったかと少しばかり落胆した。私は「新出生前診断」が開発され、臨床に移される前から、これはとんでもない「優生思想」の産物で、剥き出しの差別ではないかと危惧していた。また「羊水検査」の歴史はそれよりも古いが、母体や胎児への危険があり、かつ妊婦やそのパートナーに「堕胎」の選択を迫ることになることから、かねてより反対の立場だった。

というのは私自身がある若い夫婦から「妊娠したが羊水検査を受けるべきかどうか」という問いを20年程前に投げかけられたことがあり、その機会に一通り自分なりにこの問題については調べて悩むという契機があったからだ。

羊水検査で発見されるのはダウン症を中心とした染色体異常が中心で、胎児が持っている可能性のある疾病のごく一部に過ぎない。しかもダウン症は致命傷ではなく、世間では「障害者」と呼ばれるがそれぞれの個性により、相当程度の差があるものの、多くの人が社会生活を送っている。

目出度く妊娠はしたものの、胎児が「ダウン症」のお子さんであることが判明すれば母親やパートナーが戸惑うことは無理のないことだろう。でも「個性の差」と言い換えることが可能なダウン症のお子さんが生まれたら「不幸」だと考え、その子の将来のためにか(あるいは親が「手間」や「面倒」を煩わしいと思うからか)胎児のうちに「命を絶つ」という選択には納得できない。というのが当時の私の結論であり、その思いは今日まで維持されている。

「羊水検査」より簡便な「新出生前診断」が2013年に導入されてから3万人以上の妊婦が検査を受けたそうだ。病院にもよるが「新出生前診断」は平均20万円ほどで、羊水検査は15万円ほどの費用を要する。

この検査を受けることが出来るのは「出産時に35歳以上となる高齢妊娠で、染色体異常のある子どもの妊娠や出産歴などの条件」があるとされているが、知り合いの産婦人科医に聞いたところ「現場ではそんな厳格に条件を制限してないよ。35歳以下でも検査を受け付けている病院もあるし」とのことだ。

多くの女性が不妊に悩む中、この3年間に「新出生前診断」が行われた結果として、394人の胎児が人工中絶されている。先日の「衝撃的」な事件の被害者は19人だ。人口中絶された胎児の中には「誤診」であった胎児が含まれる可能性も排除できない(紹介した記事中「陽性とされながら、確定診断で異常がなかった『偽陽性』も四十一人いた」と指摘されている通り、専門家の間でもこの検査の精度については議論がある)。

否、ポイントはそこではない。誤診ではなく、ダウン症として生まれてきたらその子は「不幸」なのだろうか。「不幸」と決めつけているのは本人ではなく、直接には「親」や「社会」ではないのか。

人工中絶全体に私は反対の立場ではない。母体の健康状態や妊娠の原因などによっては選択されることのあり得る対処ではあると思う。しかし、「新出生前診断」を受ける対象とされている妊婦やそのパートナーは、「望まない妊娠」をした人ではなく「望まない障害児」が生まれて来ることを懸念する人達や社会ではないだろうか。

敢えて問題提起をしたい。19名の殺人事件は残虐で凄惨なイメージを提供するが、394人の中絶された「胎児」は法に則り、合法的に「生まれて来ることを許されなかった」のだ。だから社会問題化されはしない。数の問題じゃなんだ。耳触りの悪くない「新出生前診断」などを導入するから検査を受ける妊婦が出て来る。そして結果は「堕胎」じゃないか。

私は「新出生前診断」は不要かつ害悪であると考える。生前からの「障害者」に対する偏見が命を奪う。これ以上の差別があるだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ。

絵画を目にする、映画を観る、旅行に出て初めての風景に接する、政治的集まりに参加者の一員となる。各々の場面で「気持ち良く」あるいは「好感」を持つか、逆の感情・感覚に支配されるかは他人に命令や指示・懇願されてもどうなるものでもない。

「好きなモノ」は「好き」なのであり「嫌なモノ」は「嫌い」であることは、少々時間をおいて周辺の理由を探し出せば「論理的」、「客観的」に他者への説明が可能となるが、直感的・反射的に感じる「好感・非好感」は得てして論理の外にある。

だから「これを『綺麗』だと思え」、「このシーンに『感動』しろ」、「この景色は『素晴らしい』と感嘆せよ」と命じられてもそれは無茶な要求だ。さらに「この人間を『好き』になれ」、あるいは「この人間を『嘲笑』え」と言われたってそう感じなければ心は動くものではない。美味と感じない食物を「『旨い』と思え」と言われたって(幼少時の躾は例外として)形成された舌の感覚は簡単には調整が出来ない。それが「個性」だろう。

感性・感覚は、各々の成育歴と、独自に持ち合わせる特質、それに教育や情報が加味され形成されるものだ。この精神構造形成過程を変数に置き換えてみる。成育歴を「X」、独自の特質を「Y」、教育や情報を「Z」と仮定する。「X」×「Y」で個性の原型は形作られる。「X」は多様ではあるが、世代により相当程度の共通因子を包含するので社会的態度を同一化させる要因ともなりうる。「Y」は純粋に各個人が別々に持つ遺伝子情報に基づくものだから多様性を拡大する方向へと働く。

そこに「Z」が加味される。「Z」は「Y」と真逆に社会的態度を同一化させること(順社会的行動)を自然に行うことの出来る人間の育成を目指して情報注入や社会的態度の訓練が行われる。「義務教育」はまさにそれに該当する。

初等教育には(私立学校に進学するあるいは「不登校」になるほかは)「選択」の余地はなく、高等教育進学時にようやく何を学ぶかを選び取ることが出来るようになるが、その年齢に至る頃には教育と情報により、本人がそうと気づかなくともかなりの程度の「人格形成」が進んでいる。

これは全員の画一化が既に進行しているという意味では決してない。しかし人格形成における変数の中で「Z」が占める役割はかなり昔からこの島国では大きな力を持ってきたし、近年さらにその拡大を見せている。「Z」は「Y」を研磨するなり、叩き割るなどして「X」との融合の中で「望ましい社会的態度」だけではなく、個の嗜好領域にまで浸透が進んでいる。

画一化の主犯は教育だけではない。「情報」だって充分に個性を削ぎ落す役割を果たしている。何の防備もなしに降り注がれる情報を浴びていれば「何とはなしに今日の連続で明日が来る」、「10年、20年後も今と似たような生活が続く」かの如き錯覚に陥っても不思議ではない。大手メディアが提供する情報は生活不安を煽る因子を極力排除して、あたかも「経済発展、科学技術進歩の向こうには明るい明日」があるかのような文句をつける気さえ萎えさせるような情報流布に余念がない。

そんなことは真っ赤な嘘だ。10年後、20年後に今よりも安寧で幸多い生活などが成熟する、期待できる要因があれば教えてほしい。拙稿の冒頭で「命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ」と書いた。だが実はそれは今日的には不幸にもアイロニーではないかと感じる。

「嫌でも嫌と言えない」、「皆がそうしているのだから和は乱したくない」程度の同調圧力は今に始まったことではなく、いわばこの国のお家芸ともいえる。今年の干支は猿だが「見ざる、聞かざる、言わざる」という完全に「自我」を捨てることの推奨が格言になるようなお国柄である。

薄意味悪いのは教育や情報の成果によって完成させられた「大人」でさえ徐々に「感性や感覚」を自己抑制する傾向を感じてしまうことにある。上司や権力者だけでなく、ちょっと物言いが強い人の前では二の句が継げない(逆に言えば図々しく態度の大きい人間が幅を利かせる)。そして強い物言いにどこかしら違和感を覚えながらも、結局従ってしまう。服従してしまう。

命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ。だがそれすらが揺るぎだしてはいないだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

あいかわらず無反省の経団連御用達マガジン 『WEDGE(ウェッジ)』3月号に国際環境経済研究所前所長の澤昭裕が病床から書いたというコラムであり、遺稿となった「戦略なき脱原発へ漂流する日本の未来を憂う」を斬ってみる。澤の言論は、あくまで「原発推進」を軸にして進む。澤は原子力事業を一社か二社かに再編した上で、火力や水力も含む包括的合併を提唱する。

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 東芝や日立といった原子力メーカーが進めてきたような、海外電力事業者との連携を契機とした再編も選択肢の一つだ。電力会社と例えば米国電力事業者との間でアライアンスが実現すれば、安全保障上の連携効果も高まる上、閉鎖的な我が国の原発オペレーション能力を海外に効果的に発信していく契機ともなる。若手技術者が「直営技術力」を高めていく絶好の機会ともなろう。(中略)
 海外事業者とファンドを組成して国内の原発資産を購入していくことも考えられるし、先に上記のような「原子力地域連合」を作り、ファンドが出資することも一案だ。こうした再編を進めた場合、特に経営規模の小さい会社にとっては、投資体力や技術人材プールの充実、発電ポートフォリオ拡大による不稼働リスク分散等の効果が期待できる。ただし、原子力の場合、既に地理的な分散やアウトソースが進んでおり、「重複・過剰設備の廃棄による効率化」や「研究開発や人件費等の固定費縮減」までは期待できない。
 また、「全電源停止」が生じリスク分散の意味はない、したがって、「再編はリスクの大きな電源の寄せ集めになる」との指摘もある。また、電力事業の歴史的経緯を考えると、他業種の再編事例をそのまま当てはめることは現実的とは言えない。各社は「政府及び他社に対する経営の自主・独立性」に強い自負を持ち、「地元密着で建設・稼働を進めてきた実績」をレゾンデトールとしてきた。今は苦境にあるとはいえ、送配電の「地域密着の安定収益基盤」を有していることもあり、従来の路線を変えてまで再編に踏み切るほどの危機感を持つ会社は未だ多くはないのではないか。このように各社・単独の能力・体力では状況の打開が難しいことが明らかな一方で、すぐに事業再編が進む地合いも整っていない。「事業者間協力」のあり方としては、会社再編に限らず様々なバリエーションを想定する必要があるし、協力の促進に向けては、漸新的・現実的なアプローチが必要であろう。(戦略なき脱原発へ漂流する日本の未来を憂う『WEDGE』2016年3月号
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故人が病床で書いた遺稿にケチをつけるのはやや気が引けるが、それでも間違いは間違いである。「原発推進のための電力事業の大同団結」などクソ喰らえである。もしも包括的に事業を統合するなら「脱原発のための電力再編」であるべきなのは、当然だ。

真剣に電力のありかたについて考え、病床で新しい電力事業のスタイルについて書いたことは認めよう。しかし澤よ、天国で今一度、電力について考えていただきたい。

(渋谷三七十)

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