伝説的な映画『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督がそのブログ(2016年9月8日付)で「週刊金曜日『鹿砦社広告問題』に触れて」と題して執筆しておられます。

私たちにとって原監督は雲の上の存在です。こういう形ではありますが採り上げていただいて、ある意味、感慨深いものがあります。

同時に、いってしまえば、たかが広告如きで、原一男ともあろう名監督が不快感を覚えられ、『金曜日』と激しくやり合われている様に驚くと共に忸怩たる想いです。

原監督は今後、『金曜日』に連載されるということですが、その連載と当社の広告が再びがち合うこともあるやと思われます。その際も、いちいち『金曜日』とやり合われるのでしょうか?

くだんの広告は、もう数年前から毎月1度(2度の時期もあったり、毎週文中に出広していた時期もありましたが)定期出広していて、SEALDs解散特集とがち合ったのは偶然で、掲載誌が送られてきて私たちも初めて知り驚いた次第です。

問題になった『週刊金曜日』(2016年8月19日号)表紙と、裏面の鹿砦社広告

田中宏和『SEALDsの真実』(2016年5月26日刊)

もし、SEALDs解散特集とがち合うことが予め判っていたならば、右上の広告は『SEALDsの真実』にしたでしょうし、また掲載をずらして欲しい旨打診があれば、これは契約違反で、私どもが『金曜日』に抗議したことでしょう。

これまで新聞などでは内容を検閲されて広告掲載を拒否されたことは何度かありますが、『金曜日』は比較的自由で拒否されたことはありません。だからといって、内容については私たちなりに考慮し、“金曜日向け”に版下を作成しているつもりです。

当社が7月に刊行した『ヘイトと暴力の連鎖』は、一読されたら判りますが(原監督は当然すでにお読みになっているものと察しますが)、タイトルに「ヘイト」の文字を付けているとはいえ、決して、俗に言う「ヘイト本」ではありません。

私たちは、知人を介して当社に相談があった集団リンチ事件に対して、被害者の大学院生は、弁護士やマスコミなどにも相談しても相手にされず、「反差別」の名の下にこんなことをやったらいかんという素朴な感情から取り組んでいるものです。ネット上では本も読まずに非難の言説が横行しておりますが、全く遺憾です。

『ヘイトと暴力の連鎖』(2016年7月14日刊)

SEALDsにつきましては、当初は「新しい学生運動」という印象で好意的に見ていましたが、徐々に疑問を感じるようになりました。実際に奥田愛基君にも話を聞き(『NO NUKES voice』6号掲載)、次第に否定的になっていきました。これも同誌に書き連ねている通りです。

SEALDsにしろ、リンチ事件を起こした「カウンター」にしろ、バックに「しばき隊」とか「あざらし防衛隊」なる黒百人組的暴力装置を控えて、やっていることには疑問を覚えます。作家の辺見庸が喝破した通りです(が、しばき隊や、SEALDs支持者らからの激しいバッシングに遭い、そのブログ記事は削除に追い込まれました)。「しばき隊」の暴力を象徴しているのが集団リンチ事件です。これでいいのでしょうか? 原監督は、しばき隊やあざらし防衛隊の暴力の実態を知った上で発言されておられるのでしょうか?

原監督には本日(9月9日)、上記の内容で手紙と『ヘイトと暴力の連鎖』等関連出版物を送りました。これらをしっかり読まれ、認識を新たにされることを心より願っています。

▼松岡利康(鹿砦社代表)

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。6人目は、埼玉愛犬家連続殺人事件の風間博子氏(59)。

◆検察側証人が証言した「博子さんは無罪」

埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。主犯格の関根元死刑囚(74)が被害者たちの遺体を細かく解体して燃やし、残骸を山や川に遺棄していた猟奇性が社会を震撼させた。だが、関根死刑囚と共に死刑判決を受けた風間博子氏に冤罪の疑いが指摘されていることは案外知られていない。

風間氏は裁判で、「DV癖のある関根死刑囚に逆らえず、死体の処分には一部関与したが、殺人については一切関与していない」と主張していた。結果、この主張が信用されずに死刑判決が確定したのだが、実は裁判では、風間氏が無実であることを示す有力な証言も飛び出していた。それは、死体の処分などを手伝ったとされる共犯者の男Yの以下のような証言だ。

「私は、博子さんは無罪だと思います。言いたいことは、それだけです」
「人も殺してないのに、なぜ死刑判決が出るの」
「何で博子がここにいんのかですよ、問題は。殺人事件も何もやってないのに何でこの場にいるかですよ」

Yは捜査段階に一連の事件は関根死刑囚と風間氏が共謀して行ったように証言しており、裁判でも検察側の最重要証人とめされる存在だったのだが、逆に風間氏が無実だと証言したのである。この裁判では元々、風間氏を殺害行為と結びつける目ぼしい証拠はYの証言しかなく、本来、風間氏は無罪とされるべきだった。しかし、こうした状況でも当たり前のように死刑判決が出てしまうのが日本の刑事裁判なのである。

風間氏は現在、東京拘置所に死刑囚として収容中だが、今年2月に発売された私の編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、我が子への愛情に満ちた手記を寄稿してくれている。

風間氏が綴った手記の原本26枚

◆愛娘との再会で・・・

風間氏は事件当時、前夫との間にもうけた息子Fさん、関根死刑囚との間にもうけた娘Nさんと一緒に暮らしていた。裁判の1審が行われていた頃、娘のNさんが拘置施設まで面会に来てくれた時のことを手記でこう振り返っている(以下、〈〉内は引用)。

〈面会室のアクリル板のむこうには、逮捕された日には私の膝の上にちょこんと座っていた、あのちっちゃかった幼子が、少女となって座っていました。その時の感動は、とても言葉では表せないほどのものでした。童女から乙女へと成長した娘への愛おしさに鼻の奥はツンと痺れ、私の胸は感激で一杯になりました〉

逮捕から5年余り、1度も会えなかった娘との再会だった。風間氏がまさに万感の思いだったことが伝わってくる。そんな風間氏に対し、Nさんが投げかけた言葉が涙を誘う。

〈訴えかけたくても言葉が出て来なそうな娘に、私は問いかけました。
「Nちゃん。なぁに? どうしたの? なにかあったの?」
必死に泣くまいと我慢していた娘は、涙がポロリとこぼれ落ちたのが合図だったかのごとく、堰を切って話しはじめました。
「ねぇ、お母さん。お母さんは、Nと一緒じゃいやなの? Nはね、お母さんと一緒がいいの。でもね、おばあちゃん達は、お母さんから許可もらったからって、お母さんがいいって言ったからって・・・。Nが『イヤッ!』って何度も何度も、何度も言っても、お母さんの籍からNを抜くって話を、何度も何度も、何度もするの(略)」〉

Nさんの〈おばあちゃん達〉、つまり風間氏の母たちはNさんの将来を思い、風間氏の籍から抜いたほうがいいと考えていたのだが、真意がわからない子供のNさんは風間氏に「お母さんと一緒がいい」と訴えたのだ。

風間氏が収容されている東京拘置所

◆涙の誓い

そんなNさんに対し、風間氏は次のように言って聞かせたという。

〈あのね、Nちゃん。これからお母さんが話すこと、よく聞いて頂戴ね。おばあちゃんやおばさん達は、Nちゃんのこと、きらってなんかいませんよ。今迄も、そして今もズットズット、Nちゃんのこと、とっても大好きでいてくれるわよ(略)おばあちゃん達は、Nちゃんのことが憎くて籍のこととかあれこれ言ってるのではないの。とっても大切で、とっても大事な存在だからこそ、どうすることがNちゃんにとって一番の幸せにつながるのかを、おばあちゃん達なりに一所懸命に考えて言ってくれてたの〉

そして短い面会時間は終わり、〈じゃあ、Nはお母さんと一緒のままでいいのだね!?〉と涙を手で拭き払って言うNさんに対し、風間氏も〈涙でくしゃくしゃの顔のまま、「うん、もちろんよ!!」と答え〉て、2人は別れたという。こうして風間氏は、〈何としても頑張りぬき、娘達の所へ私は還らねばならない!〉と決意を新たにしたのである。

この日から16年、いまだ雪冤を果たせない風間氏だが、現在も子供たちは母の無実を信じ、サポートを続けている。前掲の書「絶望の牢獄から無実を叫ぶ」に収録された風間氏の手記全文には、他にも息子のFさんが判決公判に駆けつけてくれた話など、様々な涙を誘われるエピソードが綴られている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

今回の「SMAP解散騒動」でメンバーと事務所の間で決めた「活動休止」をひっくり返して「活動休止よりも解散したい」と最初に言った香取慎吾が〝解散の戦犯〟のような言われかたをしている。 ただでさえ育ての親の元女性マネージャーがいなくなってことの半年はメンタル的に参っているのに拍車をかけてネットニュースなどで叩かれている現状にへこんでいるようだ。

「新選組!」(2004年NHK)のように香取慎吾は「誠」を貫くか?

「だが、8月13日に放映された『SmaSTATION!!」(テレビ朝日系)を見るかぎり、ふっきれた印象だ。収録もリハーサルから通して明るかった」(テレビ朝日関係者)

それもそのはずで、もはや解散した後、来年からのプランで「ファッション、とりわけ服が大好きなのでアパレルブランドを手がけてみたい」というかねてのからの夢が一歩前進したからだという。

「実は、まだ名前は明かせませんが、大手アパレルメーカーの社長が前から香取が作るTシャツや、彼の膨大な私服を公開した本『服バカ至福本』(2014年)に注目しており、〝タレントをやりながら少しずつ(ブランド展開の)準備しないか〟と香取に声をかけたと伝えられています」(芸能関係者)

香取は、元女性マネージャーが独立を画策した昨年、ひとりだけジャニーズ事務所に残留を決めた木村拓哉との確執にうんざりしておりお互い、収録では目も合わせない状況が続き、さらに解散の戦犯扱いで「芸能界をいつやめてもいい」という精神状態に。

「そこにきて、まだ煙のような状態ながら趣味が仕事に活かせるファッションの仕事の話が舞い込んできた。これは、もう、来年の春あたりに芸能界を引退、そしてアパレルブランドの社長として活躍する〝神田うの〟コースが確立される可能性が大」(同)という話になってきた。

とはいうものの、ジャニーズ事務所との契約は来年の8月いっぱいまで続くわけで、芸能界の仕事もむげにはできない。

「香取は、小学生のときから常に一緒にいる草なぎ剛がひとりだちできるように見守る役割も自覚しているから、そうは簡単に芸能界をやめないんじゃないかな」(放送作家)という声もある。

が、香取は旧知のスタッフによれば「番組の収録のときは、1分でも早く家に帰りたいというのが顔に出ているほど、仕事に疲弊している。ラジオ番組で『眠れない』と吐露していたが、このままいったん芸能界から離れ、リフレッシュしないと本当に体がもたない」(同)という心配の声も。

ブランド名は仮で「SIN5(しんご)」や「香取屋」などがあがっているが、SMAPの曲を一部使う「Shake SHINGO」などはすぐに却下したようだ。

「よほど早くSMAPのことを忘れたいのだろう(笑)。まだ表に出せないことが多いが、裏原宿あたりはけっこうテナントがあいている。香取のショップを拝める日は案外、早いかもね」(同)

走りだしたら香取の集中力はすさまじいのは周知が認めるところ。
「ファンとしては、もういまのしょげた慎吾は見たくない」(OL)という声は強い。あたらしい夢を応援するファンは多い。

まさに「世界にひとつだけの」個性的なブランドが立ち上がろうとしている…のかもしれない。

(伊東北斗)

待望の著が出た。仲がいい古巣の編集者がかかわっているので紹介する。「Mr.都市伝説・関暁夫の都市伝説6」(竹書房)は、AI知能が暴走したら、いったいどうなるかをつぶさに教えてくれる。

この著は、というか都市伝説はじつは会話のネタに詰まったときによく使える。 僕自身は、「怖い噂」というミリオン出版の季刊雑誌でさんざんぱら書かせていただいた。 なので、この手の原稿はネタが豊富だから、ぜひ版元のみなさん、発注してください(と宣伝)。

いちばん最近、耳にする都市伝説は、「自民党系代議士が反原発ライターの住所や電話番号を集めている」というものだ。なんのために? といえば、「テレビやラジオなどのメディアに出さないでおくために」だという。

すでに、反原発のジャーナリストや記者は、確かにテレビの舞台から下ろされつつある。心ある名前のあるライターは言う。「だから反原発の原稿を書くときは匿名にしたほうがいい」と。そして実名に書くとする。すると徐々に干されるというわけだ。

実際、小泉純一郎は反原発を言い始めてからメディアに黙殺された。反原発がライフワークとなった感のある元首相、菅直人はテレビの討論番組ではまっさきに 「外される」リストにあるという。さらに青木理氏も「広告代理店サイドでは、報道番組だとしても難色を示している」とも言われている。いったい、これらの「情報操作」ならびに「権力操作」をしているのは誰か、というのが疑問だ。僕の中でこの答えはとっくに出ている。ここではあえて書かないでおこう。

話をもとに戻せば、この「Mr.都市伝説・関暁夫の都市伝説」が企画として立ち上がったときに、竹書房に僕はいて、最初のプレゼンを編集者が行っている場面を見た。

このとき、数千部が刷られたと思うが、後に何十万部も売る大ヒット作となる。しかししょせん、初刷りは数千部だ。 今度、アマゾンがキンドルを使って書籍、コミック、雑誌を含む和書12万冊、洋書120万冊以上が月980円で読み放題のサービスを始めるという。

こうした「システム」に、ヒット作が埋もれるかと思うと心配だ。 今後、電子書籍がマーケットをリードする時代に入ると、このようなオバケコンテンツは埋もれていくだろう。

無人の車がAIで走行している実験を繰り返している。実際、雪道などでの無人タクシーは便利だろう。だが、無人車が暴走したらどうするのか。もちろん シャブ中かもしれないドライバーがわんさかといる日本で横断歩道を渡るのもごめんだが、いったいぜんたい、AIの運転を信じていいのか。その答え を関氏が明かす。うむ。

さて、私自身の都市伝説のネタは、東南アジアにおけるヤクザのしのぎで、「売れないAV女優が整形して稼いでいる」というものや「裏輸入ルート、金正恩 専用のカンボジア大麻」などが取材してある。くれぐれもオファーを待つ。だがその前に、「実話雑誌」という文化がもうなくなりそうで悲しいが。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして松岡イズム最後の後継者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。5人目は、波崎事件の富山常喜氏(享年86)。

◆自ら裁判官を直接批判

1963年8月に茨城県波崎町で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で急死した。この一件をめぐり、男性の知人だった当時46歳の富山常喜氏は死亡保険金目当てに男性を青酸化合物で毒殺したとの容疑で検挙され、一貫して無実を訴えながら1976年に最高裁で死刑判決が確定した。しかし、犯行を直接裏づける証拠が何もないばかりか、富山氏が青酸化合物を所持したと示す証拠すら何もなく、長年冤罪の疑いが指摘されてきた。

富山氏は逮捕から40年、死刑確定から数えると27年に及ぶ獄中生活を強いられ、2度の再審請求も実らず、2003年に86歳で無念の獄死を遂げた。そんな富山氏が生前、いかに激しく裁判所と戦っていたのかがわかる文書がある。一審で死刑判決をうけたのち、自ら獄中で書き綴った8万字に及ぶ控訴趣意書である。

富山氏が自ら書いた8万字に及ぶ控訴趣意書。支援者が活字化した

たとえば、富山氏はこの控訴趣意書の中で、第一審・水戸地裁土浦支部の田上輝彦裁判長の事実認定をこう批判している。

〈“被告人は、人間が悪賢く“(中略)“気性も凶暴であると悪く評価されるようになり云々”と極め付けているが、田上裁判長は右に極め付けているような事実を、果たして、誰の口から伝聞し得たと言うのであろうか〉

水戸地裁土浦支部の判決は、証拠は何もないのに、単なる思い込みで富山氏を悪人物だと決めつけたような記述が散見された。それを富山氏は見逃さず、このように指摘したのだ。

そして、富山氏が田上裁判長ら水戸地裁土浦支部の裁判官たちに対し、何より強く訴えたかったのがおそらく次の部分だ。

〈最後にもう一言、田上裁判長はなおもここにおいて、「しかして被告人は、現在においても尚、寸点も改悛の情を現わして居らず」としているものであるが、被告人としては、現在まで指摘してきた数々の卑劣な虚構に満ちた判決文の内容もさることながら、その中においても、特にこの部分における非難の言葉ほど被告人のプライドを傷つけられたものはありません。
田上裁判長は、冤の人間に対して、一体、何を、どのように改悛せよというのであろうか。改悛とは何か、それは冤である被告人にとっては全くの無縁のものであり、それの必要なのはむしろ、ここに至ってまで愧知らずな無稽の諸非難を羅列している田上裁判長の方こそ、真摯に、裁判官としての自己の良心に目覚めて悔い改めるべきではあるまいかと思料するものである〉

判決で「反省していない」などと批判され、激怒するというのは冤罪被害者の多くに共通することだ。その思いを自ら文章にまとめ、裁判所に直接訴えたのが富山常喜という人だったのだ。

◆死刑執行への恐怖

裁判所に対し、かくも攻撃的な態度を示していた富山氏だが、親しい人に対しては、別の顔を見せていた。以下は、長年に渡って富山氏を支援していた「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫氏に対し、富山氏が出した手紙の一節だ。

富山氏が生前、篠原氏に出した手紙

〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います。
建て前ではいくら悟り切ったように取り繕ろおうとも、所詮は弱い人間である以上、今申上げたようなところが嘘偽りのない本音の本音と云えそうです〉(1987年12月29日消印)

日本では、死刑は死刑囚本人に予告することなく執行される。富山氏は気持ちの強い人だったが、死刑と背中合わせで過ごした日々の恐怖感はやはり尋常ではなかったようだ。

富山氏が満足な医療も受けられずに獄死した東京拘置所

◆晩年は病気に苦しでいた

晩年の富山氏は常に病気に苦しんでいた。篠原氏に届けた手紙でも、体調の悪さを訴えることが次第に増えていく。

〈二月は上旬から風邪を引き込んでしまい、とうとう最後まで殆んど寝たきりの状態で終わってしまいました。今年はタチが悪かったのか、私の体調がそれ程衰えてしまっているのか分りませんが、最初のうちは下痢が続き、その次は今まで出たことのない鼻汁が出たり、その間、咳は止まらないわけで、すっかり悩まされてしまいました〉(2001年3月5日消印)

〈毎日のように襲って来る吐き気に鬱陶しい思いをしております。出来るだけ長生きすることが皆様の御尽力に対する私の至上命題ですので、この度びお差入れの中から取り敢えず八月と九月分の牛乳を購入させて頂きました〉(2001年9月1日消印)

〈毎日の呼吸不全状態、胃部の異状な膨満感など尋常ではありませんので、何かもっと精密な器械での検査が欲しいところです〉(2002年7月8日消印)

この頃になると、富山氏は人工透析治療を受けるようになっており、手紙を拘置所職員に代筆してもらうこともあった。そして次の235通目のはがきは、富山氏が生前、篠原氏に送った最後の書簡となった。

〈いつも心づかいありがとうございます。面会、差入と感謝しております。弁護士さんについては、後日元に戻ったときに連絡等する予定です。〉(2002年8月27日消印)

この文章は拘置所職員に代筆してもらったようだが、はがきの表面を見ると、文字が激しく波打っている。富山氏が震える手で、まさに命を削りながら書いたものであることが察せられる。

これ以来、富山氏の体調は急速に悪化した。そして、医療体制が不十分な拘置所内で苦しみ続け、2003年9月3日午前1時48分、86歳で永眠したのである。

◆支援者らは今も雪冤のために活動

病気に苦しみながら、雪冤を目指して戦い抜いた富山氏だが、ついに存命中に雪冤は実現できなかった。しかし、富山氏本人が亡くなって10余年になる今も篠原氏ら支援者たちは再審無罪を目指し、活動を続けている。富山氏の最期は悲劇的だったが、心ある人が望みをつないでいる。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここで紹介し切れなかった富山氏の様々な遺筆を紹介している。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

街を歩くと、やたらインドカレーの店を見かけることが増えたと感じるのではないだろうか? 事実、インド料理店の名目でタウンページに登録されている飲食店は’07年の302件から‘14年の1773件と7年間で約6倍に増加(出典:タウンページデータベース)。

◆平野和之氏が指摘するインド料理店乱立と「悪徳ブローカー」の暗躍

その原因として「在日インド人が増えたこと」「日本人のエスニック料理への関心が高まったこと」など、さまざまな言説が語られるが、そもそも根本的な理由は「出店コストの安さ」と指摘するのは経済評論家の平野和之氏だ。

「ラーメン店などは2000万円~3000万円程度かかることもざらですが、インドカレー店は1000万円程度で、居抜きで安くあげれば数百万円程度でも出店できる。その理由は立地です。ラーメン店など、薄利で客の回転が重要な飲食店の場合は1階であることが必須条件ですが、インドカレー店ならば賃料の安い雑居ビルの2階以上や路地裏などでも十分に成立する。また、特殊な調理器具が少なく済むのも大きい。やろうと思えば家庭用の機材でも事足りるため、改装費用も抑えることができるのです」(2016年8月14日付ハーバービジネスオンライン)

どこか怪しいな、と感じていたが、やはりそうだったかと上記の記事で納得させられた。

都会は言うに及ばず、地方都市でも形態の似たインド料理店を目にすることが多くなった。夕食に利用したことはないが、ランチタイムだと日替わりや、各種カレーセットを1000円以下で食すことができ、しかも「ナン」食べ放題が私の入ったことのある、この形態のインド料理店での共通点だ。そして私的経験に限れば、どの店も値段の割には味が良く、ハズレが無かった。よって昼飯時にちょっと刺激が欲しいなという時には、気軽に足が向くようになった。

但し、冒頭記事にもあるように出店時のコストを抑えているのは、店内を見回せば容易に気が付くだろう。テーブル、椅子は高価なものではないし、不思議な内装の店にもしばしば行き当たる。ゾウの置物はわかるとして、インドチックではない東南アジア風の仏画が飾られている横に、ラーマヤナの絵画が並んでいたりする。給仕はたいがい肌の浅黒い女性だ。混雑していない時間に「インドの方ですか」と聞いたら、半数以上はネパール出身者だった。

コンビニチェーン並の増殖力で展開するインド料理店の裏には「コンサルタント」のような業者がいて、店舗展開の指南をしているのだろうと目星はつけていたが、やはり「悪徳ブローカー」が背後で暗躍していると、紹介した記事は指摘している。

そもそも一部のインド人は、華僑に匹敵するほど、国外での事業展開に長けた実績と経験を持っている。労働者として職を探しに外国に出るのではなく、自己資本でそれぞれの地の利を活かしたに商いを展開するインド商人の存在は確固たる地位を得ている。

他方、人口13億人を抱える大国だから、単純労働者として来日を希望する人たちも増加し、東京では江戸川区西葛西周辺に集中してインド人が居住している。東南アジア諸国からの来日者数には及ばないが、在留インド人の数は今後も増加傾向をたどるだろう。

◆根源にあるのはこの国の労働環境問題

さて、問題は激増する「インド料理店」に象徴される、外国人労働者への対応だ。

ついに非正規雇用が4割を超えてしまった日本。4000万人労働者の半数近くは年収300万円以下で生活を強いられながら、「労働三権」(団結権・団体交渉権・団体行動権)という言葉すら知らない「労働者」達が圧倒的多数を占める今日の労働現場。労組はあっても機能しないし、歴史的資産として保持している労働者の基本権が実質的に忘却、無きものにされた「労働市場」に外国人労働者が本格的に来日すればどうなるだろうか。

確実なことは、外国人労働者が日本人より好待遇で働く機会などはあり得ない、ということだ。しかしそれ以前の問題として、日本人労働者の現況が「ボロボロ」である。実はすでに海外からは多数の労働者が「研修生」名義で来日し、その中で予想しうるあらゆる種類の困難が既に発生している。困難を押し付けられるのが弱者である構造は普遍だ。

比較的安価で美味しいインド料理店に入り、「ナン」のおかわりをしながら感じていた、ちょっとした居心地の悪さの遠因は、大袈裟なようだけれども、来日外国人労働者問題(それ以前に日本人の労働環境問題)だったのだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

「クライマーズ・ハイ」などで知られる横山秀夫の原作は、「正義と悪」が必ずしも軸にはならない。立場により「悪が正」となり、また逆もしかり。 ヒットした横山氏の原作を基に、『感染列島』などの瀬々敬久監督と『ザ・マジックアワー』などの佐藤浩市主演で映画化した犯罪ドラマが作られた。

前半と後半で2連作となっているのだが、新聞記者が警察の広報官とことごとく対立する。その内容は、『被疑者を匿名』としたり「誘拐犯人を匿名」としたりする警察側と記者クラブとの攻防を縦軸として、昭和時代の最後の1週間にあたる昭和64年に起きた未解決誘拐事件をオーバーラップさせていく。新たに発生した類似の事件の謎に迫る。県警の広報官を演じる佐藤のほか、綾野剛、榮倉奈々、永瀬正敏、三浦友和ら豪華キャストが集結。

僕は、「記者クラブ」というものが不思議でならない。警察に事件について問うと禅問答のようなやりとりになる。

警察 「あなたは加盟社の記者ですか」
筆者 「いえ、ちがいます。所属はエスエル出版会といいます」
警察 「原則として電話では教えていません」
筆者 「電話では教えないということは、FAXでは事件の概要を教えているということですか」
警察 「いいえ、そうは言い切れません。一般のかたに公開できない情報もあるからです。あなたがどの社に所属しているか、身分を特定しないとわけがわかりませんし」
筆者 「それでは、名刺や書いた記事など一式と社長に身分保障を書いてもらって郵送すれば事件の概要について教えていただけるということでしょうか」
警察 「いいえ、そうとは言っていません。こちらであなたの身分を特定して、公益性があると判断すれば教えるケースがあります。ただし、その結果を 担保しません。われわれとしては」
筆者 「何を言っているかよくわかりません、それでは書類を一式、FAXしますが、ご検討いただきたい」
警察 「送っていただくのはかまいませんが、それで教えるケースが生まれると保証できかねます」

いったい、何を渋っているのだろうか。ここで僕は取材依頼書と名刺、住民票までも送る。そして警察の広報に連絡を入れる。

筆者 「FAXは届きましたか」
警察 「届きましたが、検討はまだしておりません」
筆者 「どういうことでしょうか? FAXを送らせておいて検討しないというというのは、どうすれば教えていただけるのですか」
警察 「ですから、こちらに来ていただいて、事情を説明していただければお教えする可能性はありません」

ここで頭に来て電話を切った。
行かないと話にならないなら、はじめから交渉などしない。
知り合いの新聞記者にとっくに頼んでいる。
ちなみにこのバカ警察は大津警察署だ。
バカも休み休み言えとは警察のためにある言葉だ。

話をもとに戻せば、こうして「現実」を無視して理想の警察の広報官をこの映画では佐藤浩行が演じている。この誘拐事件の行く末はもちろん、警察と 記者クラブとの摩擦や警察内の対立、主人公の娘の行方など怒とうの展開に目がくぎ付けとなるだろう。

だが諸君、誤解することなかれ。こと警察の広報は、バカばかりで話にならぬ。このほか、バカ警察の広報のふざけた対応は山ほどあるが、機会があれば紹介しよう。ただし僕が仲がいい警視庁のエリートの刑事はきちんとしている。一応、フォローしておこう。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして松岡イズム最後の後継者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

脇役ながらキックボクシング興行の要となる存在のタイムキーパーとその相棒のゴング(鐘)にもドラマがありました。その存在に、ファンや興行関係者はどれだけ関心があるでしょうか。

荒木栄氏。カウントをレフェリーに繋ぐことも重要な役割。こんな姿がリングサイドにありました(1991.11.15)

◆ゴングを鳴らし続けた男・荒木栄さん

キックボクシング創生期から長くタイムキーパーを務められた荒木栄(あらきさかえ)というおじさんがいました。いつから始められたか、年齢も古くを詳しく知る方はいないので分かりませんが、関係者によると1969(昭和44)年6月、日本キックボクシング協会が日本武道館で東洋チャンピオンカーニバルを開催した時にはすでにタイムキーパーを務めて居られたようで、多くの試合をゴングとストップウォッチで管理してきたことは確かな存在です。

現在も多くの団体や興行が会場常備のゴングを使用していますが、新日本キックボクシング協会では独自に所有するゴングを毎度の興行で打ち鳴らされていることを、ファンの方で御存知の方はどれぐらい居らっしゃるでしょうか。「言われてみれば新日本は他団体と違う音色だな」と気が付く人は、物事の微々たる変化でも気が付く感性豊かな人かもしれません。

世界でひとつだけの鐘

◆継承されるゴングの音色

今、新日本キックで使われているゴングは2代目で、初代ゴングを複製したものです。甲高い音色で余韻が10秒ほど続く、響きの綺麗なゴングですが、初代と形と素材は全く一緒で、初代よりやや音色が変わったものの、甲高さと余韻は変わらずです。

初代ゴングは「寄贈 アローンジム S 50.12.6」という刻印が入っており、1975年(昭和50年)当時、経緯はわかりませんが、日本キックボクシング協会に加盟していたアローンジムが寄贈したものと思います。毎週TBSで全国放送されていた時代で確認できることは、翌年1月からゴングの音色が変わり、この時から使用されているのではと思います。

その当時もこのゴングを操っていたのは、荒木氏でした。沢村忠氏も現役最後の年にこのゴングの音色を聴いている訳です。その後のキックボクシング低迷期は興行数も減り、ゴングもこだわりなく別物を使われた時期もありましたが、1984年11月、業界復興を目指す統合団体の日本キックボクシング連盟が設立された初回興行から、このゴングも復活しました。おそらく荒木氏が準備したものでしょう。後々このゴングは荒木氏とともにMA日本キックボクシング連盟で活かされました。

左側の赤いスタッフスーツが荒木栄氏。勤続10年以上のスタッフへ感謝状が贈られた日。右側は日豊企画代表でMA日本キック連盟代表だった石川勝将氏(1985.11.22)

◆好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすことも

荒木氏を知る人はこのゴングを“荒木ゴング”と名付け、荒木氏のタイムキーパーに打ち込む熱心さは、レフェリーに繋ぐダウンカウントやラウンド終了の打ち鳴らし連打にも感情がこもり、ゴングと一体化した存在となっていました。決して派手にアクションを起こす訳ではなく、凡戦であってもラウンド終了では淡々と6回ほど打ち鳴らし、盛り上がったラウンドは好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすこともありました。

荒木氏と比較的親しかったのは日本バンタム級チャンピオンになる前からの鴇稔之(目黒)氏でしたが、「鴇くん、重いからゴング預かってよ」歳を重ね体に堪える荒木氏が鴇氏にお願いしたことがある言葉でした。

その荒木氏もまだ若い昭和40年代の頃、試合に没頭して3分経過、後ろから小声で“叫んだ”のは野口修協会会長の奥様、「荒木さん、荒木さん、時間時間、ゴングよ!!」と和子さんが語るエピソードもありました。

その荒木氏も1992年の1月興行を最後に体調を崩され永眠。その後、荒木ゴングを受け継ぐ者は居らず、そのゴングも行方不明状態。でも当時はそんなゴングにこだわりを持つ者は居らず、その後は何の躊躇いもなく後楽園ホールなど、会場常備のゴングを使っていました。

荒木氏の教えを受け継いだ岩上哲明氏(1997.3.9)

◆荒木氏の魂を受け継いだ岩上哲明氏

その後、1995年11月5日、市原臨海体育館での興行で突然復活した荒木ゴング。見つけ出してきたのがやっぱり頼りになる鴇稔之氏。私らは「よくぞ復活してくれた」と思ったものの、その後のタイムキーパーは荒木氏のこだわりを知らない、単に短く淡々と打つ者ばかり。

時代は受け継がれずも、しかし翌年3月、再び団体分裂が起こり、老舗の日本キックボクシング協会が復興。荒木ゴングも古巣へ帰ってきました。タイムキーパーを務めたのは岩上哲明氏で、MA日本キック連盟初期(1984.11~1989.1)の興行会社の日豊企画スタッフだった頃、荒木氏のアシスタントとして指導を受けた人でした。

その当時の岩上氏が就いた頃はまだ16歳で荒木氏の孫のような存在。若く素直な吸収力でその荒木氏の魂を受け継いだかのような見事なタイムキーパーを日本系復興後を務めました。ゴング連打も見事なもので、これこそ日本系の音色。荒木氏の魂が乗り移ったかのような進行でしたが、それも長くは続きませんでした。岩上氏も本業の都合で転勤の為、1999年7月に止むを得ぬ引退。

◆2代目荒木ゴング

更にゴングというものは寿命があるということを当たり前ながら思い知らされたのは、過去何度か支柱が折れての修理はあったものの、亀裂(ヒビ)が強く入り、それも修理で克服しつつ、2007年頃、2度目のヒビ割れで修理しても響きが弱まってしまうほどの重症に陥り、荒木ゴングの引退を迎えるに至りました。それ以前に複製を作っておいたのは、やがてやって来る交代に備えてのものでした。2代目荒木ゴングを最初に使ったのは2004年12月のTITANS.1stからでしたが、この時は臨時で、毎度の興行で登場したのは交代した2007年頃でした。

その2代目荒木ゴングも2013年12月の藤本ジム興行で亀裂が強く入り、響かなくなる重症。修理の結果、亀裂は修復されたものの、業者さんからは「全体に無数の細かいヒビが入っているので、あまり強く叩かないで」という御指導。いずれ2代目ゴングも引退が近いことを覚悟する現状です。ゴングは真鍮で出来ていますが、叩き続ければそういつまでも使えるものではなく、やがて寿命はやってくるものでした。荒木ゴングは“世界でひとつだけの鐘”と言えるほど他では真似できない音色でした。

ルンピニースタジアムで使われる釣鐘式ゴング。これもムエタイの値打ち物

◆「ゴングに触るな!」

「ラウンド終了間際は自軍のコーナー近くで戦った方がいいよ、ゴング鳴ってすぐ休めるから」こんなジョークともとれるアドバイスを鴇氏にしたこともある荒木氏。
「テンカウントゴングはあれぐらいのペース(4秒で1打ぐらい)が余韻と感情がマッチして良いんだよ」ある選手の引退式の後、周囲に語っていた荒木氏。

平成に入ったMA日本キック連盟第二期時代(1989.7~1996.2)、初期の興行会社が撤退した後のアシスタントの梅沢勝氏は「安易にゴングに触ると荒木氏に怒られた」という厳しい面もありました。

時間を見過ごす失態は荒木氏御自身の若手の頃以降は無く、タイムキーパーといえども時間を追うだけではない、ルールを把握し、レフェリーの裁きに対する機転を利かす処置も多くあり、岩上氏にも厳しい指導に移っていったことでしょう。

こんな脇役ながら音で奏でるゴングで、ファンの潜在意識に残る演出を残したのは荒木栄氏だけでしょう。1985年11月22日、初期のMA日本キック連盟で、団体問わず勤続10年以上のスタッフを称える表彰式では、レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)氏、リングアナウンサーの衣笠真寿男氏とともに感謝状が贈られ、リングでの観衆に注目される緊張の瞬間でした。

生涯では計20年以上になるタイムキーパー歴。ゴングとともに白手袋の荒木氏の姿があったタイムキーパー席に、キックボクシングの歴史に残る功労者がいたことを記しておきたいと思います。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

 

Kさんの緻密な分析に、私はほぼ全面的に賛同する。唯一大学入学者の経済的背景は、かつての「日本育英会」が「日本学生支援機構」という名の学生ローン(サラ金並のえげつなさ)会社になったことから、第二種であれば誰でも「貸与」という名の借金を受けることが可能となり、国立大学だけでなく、学費がさらに高い私立大学へも保護者の年収が200万円代の学生も通うことが珍しくなくなった。

非正規雇用の爆発的増大や、家族構成の変化といった社会的要因と、大学側の変化(学費高騰)が歪な形で結びついてしまい、結果として卒業後間もなく「借金の返済」に追いまくられる若者は急増している。気が付いたら400万~500万の借金を背負って大学を卒業していた、という悲劇は、30歳を待たずに自己破産をするという結末を既に産んでいる。

このように学生が大学で「普通に」学べない、「学ばさない」状態に陥れた理由の根源はKさんがご指摘の通り、「教育社会秩序の帝国主義的再編」が進んだことに他ならない。その咎人は枚挙にいとまがないが、とりわけ「小人閑居して不善をなす」を職務規定としているかの如き「文科省」の罪は重い。この連中が大学に押し付けて来る法律、通達、指導は根源に国家による高等教育機関の完全掌握という目的があることは明白ながら、他省庁と比較して「旨み」の少ない「文科省」(旧文部省)官僚の歴史的悪癖と言える。

従前、一応健全な私立大学経営者や国立大学の教員は、文科省のその様な性質を熟知しており、それなりの葛藤や、場合によっては一触即発という事件すら時には起きていた。しかし「一般教育の大綱化」に端を発する、一見大学に「カリキュラム編成上の自由を与える」ように見せかけて、他方では「自己評価自己点検」という全くの愚策を強要し始めた頃から、文科省の「不善」振りは際限が無くなった。国立大学を「法人化」=半民営化し、独自の資金調達を強いたことが、今日の年額54万円という学費の高騰に繋がっている。大学は、とうに「自主」や「自治」の精神など忘却の彼方といった有様であるから、文科省への抵抗など今日は皆無と言って過言ではないだろう。

それだけではない。昨年は東大が事実上の「軍事研究解禁」を宣言し、日本学術会議も「軍事研究」取り扱いの見直し(おそらく詭弁を弄して、「結果解禁」の結論を出すだろう)に着手。既に防衛省は各大学に研究資金をばら撒き始めた。

「科学技術の進歩は不可逆だが、人類の歴史は可逆である」と述べた先人が居た。
現在私たちは、まさに「逆行する歴史」を目の当たりにし、そのただ中に置かれている。その事を顕著に示すのが大学の現状だ。京大の持つ「自由」な学風を一瞬で吹き飛ばす猛烈な台風、中心気圧800ヘクトパスカル、最大風速90m級の化け物台風が接近している。気象庁の発表する天気図には表れないが、文科省が連発する「不善」の集合体がファシストたちの立ち上げる気炎と相まって勢いを増す悪質のエルニーニョとなり、文科省外部秘の「教育行政天気図」は、はっきりと巨大台風接近を示している。

 

巨大台風の接近は京大においては、熊野寮、吉田寮と西部講堂を吹き飛ばし、サークルボックスも跡形もなく消滅する。囲碁や歌舞伎、吹奏楽といった非政治的なサークル以外は台風通過後も再生することはない。勿論IPS研究所は巨大台風にびくともしなかっただけでなく、熊野寮跡地に「遺伝子・万能細胞研究所」を新たに増設することになる。この施設の資金提供には世界中の名のある企業が手を上げたが、結局内閣調査室と防衛省の直系という極めて例外的な研究所が誕生する。

その図は私の錯視だろうか。「バリスト」の肉感と響きが反響に次ぐ反響をもたらす日は可能だろうか。(了)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。4人目は、三崎事件の荒井政男氏(享年82)。

◆手記に滲み出る人柄

荒井政男氏は、1971年12月に神奈川県三崎市で食料品店の一家3人が刺殺された事件が起きた際、現場近くに居合わせたために疑われ、逮捕された。当時44歳で、横浜市や藤沢市で鮮魚店や寿司屋を営んでいたが、この時を境に運命が暗転したのである。

荒井氏は取調べで一度自白したが、裁判では無実を訴えた。実際、荒井氏の衣服に犯人なら浴びているはずの返り血が付着していないことや、現場に残された犯人の靴跡は荒井が履いている靴のサイズと異なることなど、荒井氏を犯人と認めるには矛盾が多かった。しかし荒井氏は1990年に最高裁で死刑確定し、再審請求中の2009年に82歳で獄死した――。

荒井氏は最高裁に上告していた頃、自ら上告趣意書補充書も執筆した

この間、荒井氏が獄中でどのように生きたかが記録された貴重な資料がある。支援団体「荒井政男さん救援会」が発行していた「潮風」という小冊子だ。これには、荒井氏が近況をしたためた手記が毎号掲載されていた。

荒井氏の手記は、いつも様々な人へのお礼や気遣い、ねぎらいが率直な言葉で綴られていた。

〈いつもパンフレットありがとう。救援、冤罪通信、やってないおれを目撃できるか、死刑と人権、ばじとうふうなどありがとう。甲山通信の山田悦子さんの無実勝利の闘いに獄中から熱い応援を送っていますよ。ごましお通信、利明さんの生きざまがわかります。よろしく伝えてね。フォーラム90のパンフは、死刑執行した後藤田正晴への抗議行動報告がびっしり埋まっていますね。とても力強く思いました。もう一人も殺させないようガンバリましょう〉(1993年5月15日記 潮風第12号より)

◆獄窓の鳥が支えだった

荒井氏の手記はこのようにいつも明るく、前向きな内容だった。とはいえ、死刑囚は外部との交流を遮断され、一日の大半を狭い独房で過ごす。その生活がいつ果てるともなく何十年も続く。そんな日々で荒井氏が心の支えにしていたのが、獄窓から見える鳥たちだった。

〈四月二十日ヒヨドリのピーコが、窓辺のしだれ桜の枝に止まって、四〇分近く唄っているのでいつものさえずりと少しちがうなーと思っていたところ、それがピーコのお別れの唄だと分かりました。翌日からヒヨドリ全員(十二羽位の一族)の姿が見られなくなった。どこかの寒い地方へ移動していったのでしょう〉(1994年4月27日記 潮風第16号より)

〈あのヒヨドリのピーコが今年も来てくれました。獄庭の木にとまってピーピーと高い澄んだ唄声を聴かせてくれます。とても心なぐさめられます〉
(1995年11月14日記 潮風第22号)

〈今日もスズメの親子が父さんの窓下に来て、ピイピイと子スズメを鳴かして父さんにエサのパンをくれというのです。けど、父さんはパンを持っていないのです(笑)〉
(1994年5月23日記 潮風第16号より)

〈父さんの窓庭のビワの木の実が鈴なりで黄色く熟して太陽の光に輝いています。何とムクドリの群れがきて半分ほど食べ散らかしていきました。そのおいしそうなうれしそうな姿にニコニコと見とれてしまいました〉(1995年6月17日記 潮風第20号より)

荒井氏は鳥たちと会話でもしているようなことを明るい筆致で綴っている。一見微笑ましい文章だが、鳥たちを心の支えにして途方もない孤独感と闘っていたことが窺える。

荒井氏が獄窓の鳥を心の支えに拘禁生活を送っていた東京拘置所

◆糖尿病で目も不自由に

獄中生活の後半、荒井氏は糖尿病に苦しめられた。しかし、闘病生活のことすらも明るく綴るのが荒井氏流だった。

〈血糖値が一一七でした。こんな数字になったことは近年にないことですから、父さんもやったーと、うれしく思いました。この告知をしてくれた看守氏もびっくりして共に喜んでくれました〉(1994年11月17日記 潮風第18号より)

しかし、併発した網膜症により視力が次第に衰えていくと、手記では、目の状態を嘆く記述が目立つようになる。

〈文庫本文字がすごく見づらくなりました。右目だけで読むのも疲れて視力が落ちたのではないかと思います。医務に診察を申し込みます〉(1994年12月1日記 潮風第18号より)

このように病魔に苦しむ中、荒井氏は強い憤りをあらわにすることもあった。それは、他の死刑囚が刑を執行された時だ。

〈十二月七日に妻と長男が面会にかけつけてくれた意味が一二月一日に(筆者注:他の死刑囚2人が)虐殺されたことについての緊急面会だったことがわかりました。二人も殺されたことは今日のパンフやビラを見て初めてわかった訳です。だからショックが大きいので、眠れませんのでこれを急いで書いています。もう夜中です。紙数も終りです。なんとしても三崎事件の再審を開始したいものです。無実なのに殺されてたまるか〉(1994年12月15日記 潮風第18号より)

無実なのに殺されてたまるか――。この最後の一文に、何物にも代え難い真実の響きを感じるのは、私だけではないはずだ。

◆遺族が受け継いだ雪冤への思い

荒井氏は結局、生きているうちに再審無罪の願いは叶わなかった。2009年9月3日、病気を悪化させ、東京拘置所で82年の生涯を終えたのだ。

しかし、荒井氏が亡くなってわずか25日後の2009年9月28日、今度は娘さんが請求人となり、第2次再審請求を行った。現在も雪冤を目指す戦いは続いている。(了)

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここでは紹介し切れなかった荒井氏の様々な遺筆が紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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