外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。5人目は、波崎事件の富山常喜氏(享年86)。
◆自ら裁判官を直接批判
1963年8月に茨城県波崎町で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で急死した。この一件をめぐり、男性の知人だった当時46歳の富山常喜氏は死亡保険金目当てに男性を青酸化合物で毒殺したとの容疑で検挙され、一貫して無実を訴えながら1976年に最高裁で死刑判決が確定した。しかし、犯行を直接裏づける証拠が何もないばかりか、富山氏が青酸化合物を所持したと示す証拠すら何もなく、長年冤罪の疑いが指摘されてきた。
富山氏は逮捕から40年、死刑確定から数えると27年に及ぶ獄中生活を強いられ、2度の再審請求も実らず、2003年に86歳で無念の獄死を遂げた。そんな富山氏が生前、いかに激しく裁判所と戦っていたのかがわかる文書がある。一審で死刑判決をうけたのち、自ら獄中で書き綴った8万字に及ぶ控訴趣意書である。
たとえば、富山氏はこの控訴趣意書の中で、第一審・水戸地裁土浦支部の田上輝彦裁判長の事実認定をこう批判している。
〈“被告人は、人間が悪賢く“(中略)“気性も凶暴であると悪く評価されるようになり云々”と極め付けているが、田上裁判長は右に極め付けているような事実を、果たして、誰の口から伝聞し得たと言うのであろうか〉
水戸地裁土浦支部の判決は、証拠は何もないのに、単なる思い込みで富山氏を悪人物だと決めつけたような記述が散見された。それを富山氏は見逃さず、このように指摘したのだ。
そして、富山氏が田上裁判長ら水戸地裁土浦支部の裁判官たちに対し、何より強く訴えたかったのがおそらく次の部分だ。
〈最後にもう一言、田上裁判長はなおもここにおいて、「しかして被告人は、現在においても尚、寸点も改悛の情を現わして居らず」としているものであるが、被告人としては、現在まで指摘してきた数々の卑劣な虚構に満ちた判決文の内容もさることながら、その中においても、特にこの部分における非難の言葉ほど被告人のプライドを傷つけられたものはありません。
田上裁判長は、冤の人間に対して、一体、何を、どのように改悛せよというのであろうか。改悛とは何か、それは冤である被告人にとっては全くの無縁のものであり、それの必要なのはむしろ、ここに至ってまで愧知らずな無稽の諸非難を羅列している田上裁判長の方こそ、真摯に、裁判官としての自己の良心に目覚めて悔い改めるべきではあるまいかと思料するものである〉
判決で「反省していない」などと批判され、激怒するというのは冤罪被害者の多くに共通することだ。その思いを自ら文章にまとめ、裁判所に直接訴えたのが富山常喜という人だったのだ。
◆死刑執行への恐怖
裁判所に対し、かくも攻撃的な態度を示していた富山氏だが、親しい人に対しては、別の顔を見せていた。以下は、長年に渡って富山氏を支援していた「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫氏に対し、富山氏が出した手紙の一節だ。
〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います。
建て前ではいくら悟り切ったように取り繕ろおうとも、所詮は弱い人間である以上、今申上げたようなところが嘘偽りのない本音の本音と云えそうです〉(1987年12月29日消印)
日本では、死刑は死刑囚本人に予告することなく執行される。富山氏は気持ちの強い人だったが、死刑と背中合わせで過ごした日々の恐怖感はやはり尋常ではなかったようだ。
◆晩年は病気に苦しでいた
晩年の富山氏は常に病気に苦しんでいた。篠原氏に届けた手紙でも、体調の悪さを訴えることが次第に増えていく。
〈二月は上旬から風邪を引き込んでしまい、とうとう最後まで殆んど寝たきりの状態で終わってしまいました。今年はタチが悪かったのか、私の体調がそれ程衰えてしまっているのか分りませんが、最初のうちは下痢が続き、その次は今まで出たことのない鼻汁が出たり、その間、咳は止まらないわけで、すっかり悩まされてしまいました〉(2001年3月5日消印)
〈毎日のように襲って来る吐き気に鬱陶しい思いをしております。出来るだけ長生きすることが皆様の御尽力に対する私の至上命題ですので、この度びお差入れの中から取り敢えず八月と九月分の牛乳を購入させて頂きました〉(2001年9月1日消印)
〈毎日の呼吸不全状態、胃部の異状な膨満感など尋常ではありませんので、何かもっと精密な器械での検査が欲しいところです〉(2002年7月8日消印)
この頃になると、富山氏は人工透析治療を受けるようになっており、手紙を拘置所職員に代筆してもらうこともあった。そして次の235通目のはがきは、富山氏が生前、篠原氏に送った最後の書簡となった。
〈いつも心づかいありがとうございます。面会、差入と感謝しております。弁護士さんについては、後日元に戻ったときに連絡等する予定です。〉(2002年8月27日消印)
この文章は拘置所職員に代筆してもらったようだが、はがきの表面を見ると、文字が激しく波打っている。富山氏が震える手で、まさに命を削りながら書いたものであることが察せられる。
これ以来、富山氏の体調は急速に悪化した。そして、医療体制が不十分な拘置所内で苦しみ続け、2003年9月3日午前1時48分、86歳で永眠したのである。
◆支援者らは今も雪冤のために活動
病気に苦しみながら、雪冤を目指して戦い抜いた富山氏だが、ついに存命中に雪冤は実現できなかった。しかし、富山氏本人が亡くなって10余年になる今も篠原氏ら支援者たちは再審無罪を目指し、活動を続けている。富山氏の最期は悲劇的だったが、心ある人が望みをつないでいる。
※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここで紹介し切れなかった富山氏の様々な遺筆を紹介している。
【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)
▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。