『第8回世界盆栽大会 in さいたま』に行ってきた。開催していたのが4月28日から30日までと限定されていたにも関わらず、世界中から「盆栽フリーク」が大挙してやってきて、歩くのも混乱が生じるほどの好評だった。

盆栽は、中国で生まれ、日本へは遣隋使・遣唐使に始まる中国の先進文化導入のプロセスでもたらされたと考えられている。

中唐の詩人、白楽天は、洛陽に構えた住宅につき、その住宅のなかに盆花を暖室に入れるという詩句を挟んで、当時の呼称と冬の激寒からの保護法を観察したとされる。また、鎌倉時代には、『西行物語絵巻』の中で、方丈(僧侶の居住棟)の縁先を飾る盆山(石付き盆栽の呼称)をうつしとどめたことは場所としての寺院、様式としての石付きの二面で、盆栽が登場した由来を雄弁に語っている。

さいたまには「盆栽村」がある。これは、東京から被災して逃れてきた盆栽職人たちが作った村だ。かつて東京の団子坂(文京区千駄木)周辺には、江戸の大名屋敷などの庭造りをしていた植木職人が多く住んでいたとされる。

明治になってから盆栽専門の職人も登場。関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた盆栽業者が、壊滅した東京から離れ、盆栽育成に適した土壌を求めてこの地へ移ることになる。1925年には彼らの自治共同体として大宮盆栽村が生まれ、最盛期の1935年頃には約30の盆栽園が存在した。

 

 

 

 

大宮盆栽村は、いまも名品盆栽の聖地として知られ、日本だけでなく世界から多くの愛好家が訪れている。そうした縁から国際的な大会がさいたまで行われているのだが、今は「BONSAI」は、中国やタイ、ミャンマーやメキシコあたりで爆発的な人気を誇っている。

「盆栽を教えてくれる職人を講師として送って欲しい」という要請が、世界の各国から殺到しているのだ。だから実は「盆栽職人」になりたがる人たちは日本人よりも外国人のほうが多い。

盆栽村にちらばる園に行ってみるといい。外国人たちがさまざまな言語を駆使して、盆栽の手入れをしている。彼らは仕事で生計をたてるのだから必死だ。物見遊山で盆栽を見にきた私たちとはまったく真剣さがちがう。

 

さて、日本の盆栽は、幕末の開港をきっかけとして、世界規模で展開されていた植物探査(プラントハンティング)の波にのり、西欧に運ばれた。しかし、それらの奇異を誇示する姿は、盆栽になじみがなかったことを背景に「自然に反する奇異なもの」という印象をばらまいたようだ。しかし、それから日本では、美術盆栽、自然美盆栽へと向上し、西欧人も関心をしだいにもってきたので、ひとつの文化を形成した。

1964年、東京五輪と1970年の日本万国博覧会に際して来日した世界の人たちは、特設された盆栽水石の名品展を訪れて、帰国した将兵へのみやげ話として盆栽へのあこがれを語った。なお、その自慢げな話しの裏には、自分の国には存在していない日本的な芸術観への開眼が感動とともにこめられていただろうと推測できる。

会場では、盆栽が売られていたが、数十万円もする盆栽がつぎからつぎへと売られていた。

どうも「BONSAI」を世界遺産として登録する動きがあるらしいが、ぜひ実現してほしいし、日本文化が広がるきっかけになれば幸いである。

 

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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検証「未来のための歴史パネル展」の第3回目をお届けする。「みれぱ」共同代表の岡本朝也によるリンチ事件被害者、M君に対する行動については前回触れた通りである。今回は、実際にパネル展を開催するにあたって、岡本が何をしたかをご紹介し、このパネル展そのものの欺瞞性を問う。

◆大学生B君はなぜ「みれぱ」から排除されたのか?

今回の新たな登場人物がB君(仮名)である。2014~2015年当時は、大阪在住の大学生だった。M君リンチ事件については、事件発生当初から先輩格の被害者M君の側に立ち、支援をしてきた人物である。周囲の「大人」たちが運動内部の権力構造に屈服し、M君を裏切る中、年若いB君が良心を捨てず、最後までM君を裏切らなかったことは、醜悪な話だらけのM君リンチ事件に関連する話題の中で、一抹の清涼剤ともいうべきエピソードである。まだこの国には見どころのある若者がいるものだと、取材班も頭の下がる思いだ。鹿砦社は事件直後のM君やB君の窮状を知らず、1年以上も社内に「加害者側」の人間、それも最も悪質な二次加害者の一人を抱えていた(当人以外知らなかったこととはいえ)のだから。

◆「M君の支援をした」ことを理由に、B君を排除した岡本朝也

B君は、自らの勉強、研究の研鑽も兼ねる目的で、「みれぱ」のパネル製作に関わる。そこで「竹島問題」の項目を担当することになったB君は、一所懸命に勉強し、資料も収集し、パネル用の文章を仕上げた。次に紹介するのは、2015年5月5日のB君と岡本のLINEでのやり取りである。画像の中ではM君とB君の実名が挙がっている部分のみ、修正を付している。

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り1-2

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り3-4

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り5-6

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り7-8

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り9-10

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り11-12

岡本朝也(白い吹き出し)とB君(黄緑の吹き出し)のやり取り13-14

 

 

 
画像はあくまでやり取りの一部であるが、もはや説明は不要であろう。岡本は「M君の支援をした」ことを理由に、B君を排除したのである。これよりも前から、岡本は酒席等でB君に対し「パネル展を取るか、Mを取るか、どっちか選べ」などと複数回にわたり詰問していたという。昔、「あそこの家は部落だから、あの子と遊んではいけない」、「あそこの家はチョーセン人だから、あの子とは遊んではいけない」というようなことをわが子に言う不見識な親がいたが、岡本の所業はこれと全く同じものではないか。開始段階でこのような悪意に満ちた排除を行い、それを隠蔽し平然とパネル展開催を繰り返すのが岡本ら「みれぱ」の真の姿だ。「何よりも大事なことは歴史修正主義者と戦うこと」だと「みれぱ」代表者の岡本は言っているが、岡本自身が「リンチ事件隠蔽」、「B君排除の隠蔽」という「歴史修正主義」を率先して実行しているではないか。

「みれぱ」は学術研究の場である。共同代表者二人は研究者であり、顧問には関西学院大学教授の金明秀も名を連ねている。さらに「みれぱ」は自らの「パネル作成のポリシー」においても「学術的記述を目指します」「学術性を優先します」と明記している。

岡本はその学術研究の場である「みれぱ」において、学生であるB君に対し、「大学講師と学生」、「パネル展代表者と一参加者の学生」という権力関係の強弱を背景にした排除を行っている。それも「リンチ事件の隠蔽」という極めて悪質な動機づけによるものだ。岡本のB君に対する「排除」は、研究・教育の場で極めて重大視される「アカデミック・ハラスメント」に該当する。

M君リンチ事件の加害者や二次加害者への「忖度」にいそしみ、被害者M君を支援したことを理由に研究・勉学の機会を求めた学生B君を排除し、なおかつその「不都合な事実」を隠蔽しながらパネル展の開催を続けている。これが「未来のための歴史パネル展」の実態なのである。「みれぱ」は次のようなポリシーを掲げている。

「人権を尊重します」「侵される側、虐げられる側、マイノリティの側の視点を優先します」空念仏とはこのことだ。岡本朝也以下「みれぱ」関係者は暴力を肯定し、自らが実践した「歴史修正主義」をこれまで隠蔽してきたのだ。崇高な理念は結構だが、これでは欺瞞じゃないか。

「リンチ事件被害者M君を支援したこと」を理由とした岡本ら「みれぱ」によるB君排除は、「運動体内部の多数派」による、数と権力を背景とした少数意見の排除、封殺という点で、M君リンチ事件と同根の問題性が極めて色濃く表れている。

これだけでも十二分にふざけた話であるが、「みれぱ」の問題はこれに留まらない。本連載に関して「鹿砦社、潰れたらええな」、「文句あったら言ってこいやあ」とフェイスブックに書き込んだ人物が現れた。「潰れたらええな」と喧嘩を売られて、鹿砦社が黙っていると思っているのか!(つづく)

[追記1]
この件については、従前よりM君に同情的な立場からリンチ事件に関心を寄せている「ウォッチャー」の「将鼓」氏が、4月21日に取材班に先立ち自身のブログで問題提起をされている。併せてお読みいただきたい。
将鼓氏「某事件と”パネル展”」

[追記2]
当初、本特集シリーズは4回シリーズでお届けする予定であったが、本文中にもご紹介したように「鹿砦社、潰れたらええな」などと喧嘩を売る者が登場するような不測の事態が発生したため、急遽シリーズを延長することとなった。

(鹿砦社特別取材班)

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重版出来!『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

5月7日、福井県高浜原発前で「5・7高浜原発動かすな!現地集会」が行われた。新緑の美しい季節、山並みには藤の花の薄紫や、遅咲きの山桜がいたるところに見られる。若狭湾の天候は晴天。絶好の観光日和といいたいところだが、「再稼動抗議行動日和」となった。

 

◆昨年とは明らかに様子が違う高浜原発1、2号機

高浜原発の正面玄関前で抗議

高浜原発周辺には、東京、福井、滋賀、京都、神戸などから大型バスで、また自家用車や自転車で目算500名ほどの人が集まった。高浜原発に近づくと1、2号機の様子が昨年と明らかに違う。足場が組まれ大掛かりな作業が行われている。この日高浜原発の正門は三重のゲートが閉じられ、ご丁寧に新品の鉄条網までが巻かれていたが、地元の人によると、最近平日は1日何10台もトラックが出入りを繰り返し、たいそう慌ただしい様子だという。

大阪高裁の「人間性、論理性皆無」な山下郁夫裁判長により再稼働が認められた3,4号機ではなく、既に稼働40年を超える1、2号機の継続運転を企む関西電力が、もうくたびれ果てて本来ならば廃炉にしなければならない事故・故障必至の老朽原発の「補強工事」を行っているのだ。

取水口付近から見た高浜1、2号機

◆集会、デモ終了まで海上には警備船、上空には福井県警のヘリコプター

海上を警備する船舶

高浜を訪れると、過去すべて悪天候にたたられていたので気が付かなかったのかもしれないが、この日は海上には2隻の警備船、そしてはるか上空には、ゲート前の抗議行動から、集会、集会後のデモ終了まで常に福井県警のヘリコプターが飛んでいた。税金の無駄使いであることを指摘しておく。当然機動隊員は常にデモ隊につきまとう。

◆形ばかりの関電「コミュニケーション課長」

正面ゲートから1キロほど離れた広場から正面ゲートに向かいデモが始まった。この日の警備には若手女性の警察官が多数動員されていたのが印象的だった。若手女性警察官の実地訓練のつもりだろうか。デモ隊が原発正面ゲート前に到着すると、中島晢鴛さん、木原壯林さん、柳田真さんら4名が関西電力、コミュニケーション課長吉田氏へ申し入れを行った。

「コミュニケーション課長」と珍しい、あたかも物わかりの良さそうな肩書の吉田氏は直立不動で瞬きもわずかに、申し入れ書を読み上げる各氏を睨みつけ、文章を手渡す際には形ばかりの深い礼で応じた。しかし、その顔には一切の感情もうかがえない。まったくの無表情、つまり形ばかりの「要請文受け取り」だということは、そばで見ていて、一目瞭然だった。話をする気さえないのであれば「コミュニケーション課長」などという紛らわしい肩書など作るな! 関西電力!

原発正面へ向けデモ出発

◆福井原発訴訟(滋賀)原告団長、辻弁護士が「高浜原発大阪高裁決定」を斬る

正面ゲート前での抗議行動が終わると、高浜町文化会館に移動して全国からの参加者の発言や報告が行われた。そして大阪高裁で福井原発訴訟(滋賀)原告団長の辻義則弁護士が「高浜原発再稼働を進める大阪高裁決定を斬る」と題して、かなり詳細に決定の問題点を解説した。

大阪高裁の決定は要するに、「規制基準」を絶対のものとして持ち上げ、住民側の意見を一切聞き入れない不当極まりない、過去の判例に照らしても逆行・反動以外の何物でもない無茶苦茶な決定であることが解説された。山下郁夫という裁判官は安倍晋三並みの人間のようだ。

◆デモ隊を好意的に迎えてくれる通り沿いの住民たち

集会後は文化会館から高浜駅に向けてのデモだ。このコースは狭い民家の間を通過するのが特徴で、私自身は過去に何度か歩いたことがある。その折には文句をいう人がわずかにいたけれども、窓からデモの様子を眺める人、わざわざ玄関の外に出てきて手を振ってくれる人などが印象的だった。この日は好天も幸いしてか、これまでにもまして好意的に迎えてくれるデモコース沿いの住民が多かった。デモ隊に手を合わせている高齢女性の姿は特に印象深かった。

町を練り歩くデモ隊を好意的に迎えてくれる通り沿いの住民も多かった

◆ふざける小学生たちが教えてくれた安倍晋三ら推進派の幼稚性

そして、デモの解散地点高浜駅に着いた時のことだ。駅前は小さなロータリだが、デモ隊が最後の声を上げている姿を小学生数人が道の逆側で見ていた。小学生は物珍しそうにデモ隊を見ながら「原発反対」とか「原発賛成」と小声でふざけていたが、デモ隊が声を出さなくなると、一斉に「原発賛成!原発賛成!」と大声を出しながら路地の中に駆けていった。

あの小学生たちにとっては原発よりも、大声をあげて道を練り歩くデモ、大人の姿が珍しかったのだろうか。それとも小学校や家庭ですでに「原発」信者に仕立て上げられているのだろうか。

その姿を反転して考えてみると、たとえば大阪高裁の山下郁夫や電力会社の経営陣、原子力規制委員会、さらには経産省、安倍晋三らはつまるところ「小学生」だということを高浜駅前での小学生たちは教えてくれた。そうか。奴らは子どもか。なら怒鳴りつければいいんじゃないか。

◆再稼働反対の行動は「5・12高浜原発動かすな!福井集会」へと続く

なお高浜原発3,4号機再稼働に反対する行動は5月12日まで連続で行われる。8日は高浜町、大飯町、小浜市に申し入れ。9日は若狭町、美浜町、関西原電本部、原子力規制委員会(敦賀)申し入れ。10日は敦賀市、南越前市、越前市申し入れ。11日は池田町、鯖江市申し入れ。そして12日は越前町、福井市へ申し入れのあと「5・12高浜原発動かすな!福井集会」へと合流の予定だ。移動の間毎日各地でデモも行う。参加される方の再稼働阻止に向ける熱意に敬服するばかりだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!『NO NUKES voice』11号!

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

宮沢和史さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

気取らない、威張らない、爽やか。元THE BOOMの宮沢和史さんだ。彼は昨年1年間体調不良で、ステージで歌う活動を「休養」していた。それでも震災後の昨年10月2日熊本で行われた「琉球の風」に駆けつけて「今日だけはどんなことがあっても歌わせてくださいと僕のほうからお願いしました!」と全国のファンには極秘(?)で「島唄」を熱唱してくれた。

一昨年は顔色がさえず、体が辛そうだった。本人曰く「ヘルニアで動くのも苦しい」状態だったそうだ。昨年はずいぶん元気になっていて、ご本人も「だいぶ元気になりましたよ。ステージで歌わないのが休養になったみたいですね」と明るく話してくれた。それでもまだ指のしびれがとれることはないとのことだった。

◆宮沢和史さんが「島唄」に込めた想い

4月1日付朝日新聞デジタルより

4月25日から防衛局による「辺野古の海破壊行動」が激化しているが、それに対するささやかな抗議として、宮沢さんの「島唄」にまつわる逸話をご紹介する。

以下は4月1日付の朝日新聞デジタルに掲載された記事からの抜粋だ。

沖縄の音階と三線(さんしん)を全国に広めた「島唄」。ラブソングのように聞こえる歌に込められた本当の意味は?

「THE BOOM」のボーカリスト、宮沢和史さん(51)は山梨県出身。沖縄音楽の魅力にとりつかれたきっかけは、1989年のデビューから間もない頃、土産にもらった沖縄民謡のカセットテープだった。 「バブルの空気に居心地の悪さを感じて、日本から世界へ発信できる音楽を探していたとき、大地につながりをもつ沖縄民謡に日本の原風景を感じたんです」

90年、アルバムのジャケット撮影のため、初めて沖縄の土を踏む。翌年には沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪れ、ひめゆり学徒隊生存者の話を聞いた。住民を集団自決に追いやったものに対してだけでなく、沖縄戦に無知だった自分自身にも腹が立った。人々が息絶えたガマ(洞窟)の中に自分もいるような恐怖を覚え、資料館の外へ出ると、さとうきびが静かに風に揺れていた。

宮沢さんは振り返る。「牧歌的な光景と、その下で行われた殺戮(さつりく)とのギャップが信じられなかった」伝えなければと思った。自分には音楽がある。「体験を話してくれた方に恥ずかしくない曲を作ろう」。そう考えて一気に書き上げたのが「島唄」だ。

「ウージ(さとうきび)の森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」。単純に恋の始まりと終わりを描いたとも取れる一節は、ガマの中で自決した二人の幼なじみの男女をイメージしているという。「レ」と「ラ」がない琉球音階で作られた曲の中で、このフレーズだけは通常の西洋音階にした。「何が誰がそんな状況に追い込んだのかを思うと、沖縄の音階はつけられなかった。ヤマトの音階にした」

◆今年も9月に熊本「琉球の風」で「島唄」を

私は沖縄の知人から聞いて、「島唄」に込められた意味を知ってはいたけれども、上の記事にある通り、宮沢さんご自身がそのことを語るようになったのは21世紀に入って以降で、それまではメロディー、歌詞ともに卓抜した名曲として世界にも広がっていた。

さて、肝心の「島唄」であるが下記が、ほぼ宮沢さんの意図に近いだろうと思う。巧みの技である。パッパラパーのバブル時代でもこの歌詞には抵抗を感じる人が多くはなかっただろう。しかし表の歌詞を翻せば、これはまがうことなき「反戦歌」だ。しかも琉球(沖縄戦)から、大日本帝国の暴虐を撃つ視点には勇気も要ったに違いない。だから宮沢さんは今も大枠で「島唄」の歌詞を語ることはあるけれども、この時代状況に対する発言は極めて慎重だ。それでいい。彼はこれだけ大きな仕事をやってのけたのだから、「島唄」をクースー(泡盛の古酒の意)のごとく、磨き上げていってほしい。今年も9月には熊本の「琉球の風」で「島唄」を聴くのが楽しみだ。

「島唄」を歌う宮沢さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

沖縄で続く中央政府の暴虐に対して「島唄」の歌詞を送る。

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
(1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い
(サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら
(サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
(でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
(平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ
(サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ
(海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

このまま永遠に夕凪を
(このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

◎[参考動画]島唄 本当の意味(kesigomuify2010年5月22日公開)

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』(「琉球の風」実行委員会=編)

引退会見に白いジャケットを着こんできたフィギュアスケートの浅田真央だが「おしゃれすぎる」「アスリートとしてはかなり洗練されている」との声がアパレル業界からも上がっている。浅田が“趣味”としてスタートさせていたブランド「MaoMao」が本格的に稼働する気配があるのだ。

「浅田のブランドとしては、浅田自身が監修し、コラボしている『浅田真央リカちゃん人形セット』ばかりがクローズアップされているが、すでに数人のデザイナーが着物やトレーナーのデザインを持ち込んでいるとも聞いています。まだ忙しくて対応できていませんが、競技の衣装の作り方やも、大学の卒業式で自らがプロデュースした着物や袴は、『素人の領域を超えている』とアパレル業界でもあまねく知られるところ。あれだけ好感度が高い浅田が乗り出してアイテム数を増やせばひと商売になると、いまは有象無象のアパレル業界者が浅田サイドに営業をかけているという話です」(スポーツジャーナリスト)

現在は眼鏡フレームや小物、フィットウエアなど点数を絞って展開している「MaoMao」。

「だがまだ浅田は本腰を入れていない。本腰を入れればもっと“和”を取り入れて着物や手ぬぐいなどのプロデュースを始めるはず」(同)

浅田の“日本の伝統志向”はかなり強く、祇園のお茶屋『富美代』での懇親会に姉の舞と招待されたり芸妓の京舞に熱心に見入ったりしている。

「ですから、当分はアイスショーやスポーツ番組のキャスターなどをしてすごすのでしょうが、ブランド展開に力を入れる可能性があります。スケート靴に限らず、スポーツシューズで『MAO STYLE』とつけば必ず男女問わず関心を呼ぶはずです」(同)

連日、特別枠をとって引退番組が放映される「国民的人気のアスリート」が展開するブランドを大衆がほおっておくわけがない。

「イチローが引退して野球用品をプロデュースしたらバカ売れするはず。それと同じ論理ですが、こうした話は、海千山千の悪いコーディネーターがお金を持ち逃げしたり、ずさんな経営をして借金したりするケースが多いのもまた事実。あまり事業欲を出してイメージを悪くすることもないでしょう。あいかわらずブランド展開は『趣味の範囲で』我慢しておくのが利口という声もあります」(スケート連盟関係者)

浅田がプロデュースするグッズやウェアがもしアイスショーの会場で販売されれば圧倒的にはけるだろう。また、今なら「サイン入りグッズ」なら飛ぶようにはける。

「金メダルをとった荒川静香も、1年でキャスターや講演にと、だいぶ荒稼ぎをした。浅田はこの1年で相当稼げるはずですよ。でも講演やテレビ出演などでそんな時間がさけるかどうかは心配ですが」(同)という声も。

競技としては、力が落ちて“薄氷を踏む”ような晩年のアスリート生活。だがビジネスでは「滑らない」のが真央流……のようだ。


◎[参考動画]女子フィギュア浅田真央選手が引退会見(2017年4月12日THE PAGEライブ配信)

(伊東北斗)

7日発売『紙の爆弾』6月号!森友、都教委、防衛省、ケイダッシュ等今月も愚直にタブーなし!

 

商業出版の限界を超えた問題作!

 

東京大学のすぐ近くに本郷館という建物があった。日本最古の木造三階建てとして知られたその建物は、かつて下宿として活躍し、その最後まで学者や物書きに愛され続けた名建築だ。風呂なしキッチンなしトイレ共同。わずか3畳のスペースに、オットマン付きのイームズ・ラウンジチェアとB&Oの大型スピーカーを置いて生活していた摩訶不思議な友人を訪ねたことを思い出す。2011年に本郷館が取り壊された時、非常な喪失感とともに私は涙を流した。

二度とこの気持ちを味わうことはしたくない。いつか取り壊されてしまうその前に写真に収めれば、己の精神衛生管理に役立つはずだ。そんな思いでちまちまと古建築を撮影しているのだが、ここではその“古建築アーカイブ”活動の一部を紹介する。第1回は『JR原宿駅木造駅舎』としよう。

◆関東大震災の翌年1924年に竣工

原宿駅が日本鉄道の駅として開業したのは1906年(明治39年)。当時の駅舎は現在のものよりも代々木駅寄りに建てられており、貨物列車の営業も行っていたという。1920年(大正9年)の明治神宮完成、1923年(大正12年)の関東大震災を経て、1924年(大正13年)に改めて建設されたのが現在の駅舎だ。東京都内に現存する木造駅舎としては最も古いものであり、その特徴的な外観は初めて訪れた者の注目を集めること必至である。

ファサード(建物の正面)を含む外壁に用いられているのは、“ハーフティンバー様式”という建築技法で、壁(白色であることが多い)から覗く材木のラインが特徴的だ。イギリスやドイツ、フランスの木造建築に見られる様式だが、特に15世紀から17世紀に建てられたイギリスの住宅に用いられていることが多い。このハーフティンバー様式と、屋根に載った尖塔や時計の装飾とが相まって、原宿駅木造駅舎は“ヨーロッパの田舎町”風の趣を醸している。小ぶりで可愛らしいデザインの建物がものすごい数の乗降者を迎え送り出しているその姿を眺めていると、健気で微笑ましい感じがして面白い。設計したのは鉄道省公務局建築課の長谷川馨。同氏の作品である2代目横浜駅舎にも原宿駅同様の尖塔が付いていたというが、残念ながら取り壊されている(現在の横浜駅は3代目)。

◆この駅舎は残してほしい

2017年6月8日、東京オリンピックが開催される2020年までに原宿駅を改良し、新駅舎を建設するという計画が発表された。降者数に比し原宿駅舎は小さすぎるのだろう。他にも事情があるのかもしれない。しかし改良が進められるにしても取り壊しは避け、なんとか現在の駅舎を残してほしいというのが筆者の願いだ。連続したデザインで新駅舎と接続し、駅としての機能を新駅舎に移すということでも構わない。建築を含む都市の景観はそこに暮らす人々の感性に直接影響するものなのだから、都市計画に従事する人間や建築家はそのことをよく理解し、より真剣に扱ってほしいと思う。

 

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
Facebook : https://m.facebook.com/omiyakohei
twitter : https://twitter.com/OMIYA_KOHEI
Instagram : http://instagram.com/omiya_kohei

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〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!『NO NUKES voice』11号!

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

デビュー30周年を記念しての新曲「わすれ花」(詞=喜多條忠、曲=弦哲也、発売=ユニバーサルミュージック合同会社)のヒット祈願をベテランの演歌歌手・香西かおりが4月18日14時30分から日枝神社(東京都千代田区)で行った。が、お世辞にもスムーズとはいえない取材段取りが目についた。なぜなら囲み取材が一般参拝客も入れる神社というオープンな場所柄、「素人カメラマン」が取材陣に入り混じり、やや混乱したイベントとなったからだ。

演歌歌手・香西かおりが御神前で神主が念入りに祈祷され、おごそかな中で記者ら50名を集めて滞りなく新曲のヒット祈願は進行した。ところが、境内に全員が移動、取材陣が香西を取り囲む中、混乱が始まった。

おみくじを香西が引いてややがっかり顔で「末吉です」と取材陣におみくじを見せているころ、「なになに? 誰が来ているの?」と一般の参拝客が近寄ってきて「こちらにも目線ください」とカメラマンが香西さんに頼む中、一般人もカメラを構えてスタッフに「こっちむいて」と声をかけるとスタッフに「すみません取材なんでちょっと離れていただけますか」と注意されるシーンが相次ぐ。

しかし、参拝への通り道を半分ふさいで邪魔しているのは明らかに香西と取材陣で、「なによ。じゃあ端っこでやりなさいよ」「通れないじゃないの」と中年の婦人が捨て台詞を残して嫌な雰囲気が漂った。とおりすがりの欧米風カップルも「What is happening ?」と怪訝な声を出してカメラを構えて何枚もシャッターを切った。たしかに、この荘厳な雰囲気が、取材陣と素人が混じり、カメラを構えていた異様な雰囲気で興ざめなとなったのは国際的な視点からも否定できなかっただろう。

香西は、日枝神社でのヒット祈願を選んだ理由について囲み会見で、「この神社の近くにあるレストランで昔、アルバイトしたことがあり、縁があるのです。今度の新曲は不器用で生きるのが下手なさみしい女性のせつなさを歌った曲で、大ヒットになる予感がします」と一般人とカメラマンがいっせいにフラッシュをたく中で笑顔でこたえた。

香西は1989年に「雨酒場」でデビュー。「デビュー当時は、曲名にちなんで酒場に雨を降らして1日たたずんでいた記憶があります」というベテランの大御所演歌歌手・香西は、茶道では裏千家の免状、華道は朱生流で修行、日舞は藤扇流名取りで、簿記3級、珠算初段、情報処理検定2級、商業検定2級と、多彩に才能を発揮する淑女でもある。

デビュー30周年用を記念して「香西かおり30周年全曲集~おかげさん~」(ユニバーサルミュージック合同会社合同会社Prime Music 1月25日発売)をリリース。そのパンフには「けして器用ではない生き方かとは思いますが、一生懸命に頑張ります。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。」とあった。

だが、香西は前述のとおり、多彩な才能に恵まれており、不器用どころではない。器用の極地だといえよう。

香西のプロモーションは、素人のカメラを取材陣に混入させて、ミソがついた。 艶やかな振る舞いの香西には目を奪われたが、お世辞ににもスタッフたちの仕切りは「器用」とはいえないものだった。

(伊東北斗)

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商業出版の限界を超えた問題作!

『芸能界薬物汚染 その恐るべき実態』

朝日新聞労働組合が本日主催する「言論の自由を考える5・3集会」

朝日新聞阪神支局襲撃事件から30年が経過した。実感としてあの事件を覚えている人はもうわずかだろう。朝日新聞の記者でさえ。

そう思わざるを得ない事情は、たとえばこの催しものに登場する顔ぶれが示している。朝日新聞労働組合「5・3集会事務局」が主催する「言論の自由を考える5・3集会」だ。

◆むのたけじさんら2012年集会の顔ぶれはしっかりしていたが……

「新聞は民衆の合作だ」と語る故・むのたけじさん(2012年集会)

HPを見ると過去の同集会演者の顔ぶれを2012年までさかのぼって見ることができる。2012年は、むのたけじ(故人)の基調講演に続き、《不信の壁を超えて 3・11後の言論と社会》をテーマにしたパネルディスカッションが行われている。パネラーは斎藤貴男(ジャーナリスト)、林香里(東京大学大学院教授)、マーティン・ファクラー(当時ニューヨークタイムズ東京支局長)、依光隆明(朝日新聞編集委員)の各氏で、コーディネーターは元朝日新聞編集局長の外岡秀俊氏だ。この顔ぶれに大きな違和感は覚えない。依光氏は原発事故後、独走する東京新聞の報道に読者を奪われつつあった朝日新聞の中で「プロメテウスの罠」の執筆に関わった記者でもあり、マーティン・ファクラー氏は報道人でありながら、この国のメディアからは「取材対象」として取り上げられることも多く、問題提起者として適切な人物だろう。斎藤貴男氏も硬派ジャーナリストだ。

◆「なにか言っているが、その実、なにも言っていない」人たちの台頭

だが翌2013年のシンポジウム《対話がきこえない「つながる」社会の中で》あたりから登場するパネラーには疑問が生じる。安田浩一(ジャーナリスト)、開沼博(福島大学特任研究員)、小田嶋隆(コラムニスト)、稲垣えみ子(朝日新聞論説委員)でコーディネーターは津田大介氏だ。朝日新聞労組が取材する「5・3集会」にこの顔ぶれは相応しいだろうか。ご存知ない方のために解説をしておくと開沼博は「福島学」なる新たな学問領域を自ら(勝手に)打ち立て、一見原発事故後の福島を社会科学的に解明している素振りを見せながら、その実事故の被害を矮小化し、学問の名を傘に最近では避難者の死亡原因が「反原発運動」だとまで主張しだしている大罪人だ(開沼の罪については「週刊金曜日」4月14日号、明石昇一郎氏の記事が詳しい)。

若手中堅の社会学者には「何かを言っているのだろうが何を言いたいのかわからない(その実、なにも言っていない)」人間が激増しているが、その「何を言いたいかのかわからない」振りをしながら、巧みに世論を「安全神話」へ誘導する役割を担っているのが開沼だ。原発事故後完全に「いかれた」池田香代子(翻訳家)のように露骨ではないだけに余計にたちが悪い。

2013年集会

◆「M君リンチ事件」隠蔽の主犯格として暗躍した安田浩一の言

そして安田浩一の最近の言動は鹿砦社が出版する書物でお伝えしている通りであるが、とりわけ「M君リンチ事件」隠蔽の主犯格として暗躍が著しい。その安田が「5・3」集会前インタビューで興味深い発言を行っている。在特会についての質問を受けた安田は以下の様に述べている。

――記事化は困難を伴ったのではないでしょうか。

安田 僕は当時から、どうしても記事として取り上げたかったんです。それで新聞社系を含めてあらゆる週刊誌に話を持っていったんですが、すべての媒体に断られた。
 編集者の中では在特会の存在を知っている人もいたし、彼らが醜悪だということも認める。でも、彼らのロジックを誌面に反映させたくない、もっと言うと彼らのカギ括弧を載せると誌面を汚す、誌面で扱うことで何より彼らを認知してしまう、放っておけばいいんだと言われた。「あんなのが社会的な支持を得るわけがないから、放っておけば消えてなくなるんだ」と。
 それは編集者のスタンス、保守・リベラル問わず、口をそろえて同じ事を言ったわけです。僕はそのときまでは、半分同意しつつ、同時に何を逃げているんだろうという思いもやっぱりあったわけですね。だって、現実に目の前に「外国人を叩き出せ」と叫ぶ人間がいて、しかもそれなりの動員力を持ちつつある。社会現象として無視していいのかという思いは僕の中にもあって、悶々としたものを抱えていたわけです。

このインタビューの「在特会」を「M君リンチ事件」に置き換えてみよう。

――「M君リンチ事件」の記事化は困難で、鹿砦社はどうしても記事としてとりあげたかったんです。それで新聞社系を含めてあらゆる週刊誌に話を持って行ったんですが、すべての媒体に断られた。――

歴史は巡るというが、わずか数年で主客転倒している現実には、唖然とする。そしてコーディネーターは茶髪の売れっ子、津田大介。亡き小尻記者はこの人選をどう感じるだろう。

◆古市、田母神、香山リカ──あきれ返るほどの人選の不見識

しかし、凋落はそんなものではない。2014年の同集会のテーマは《戦争なんて知らない ――「断絶」と向き合う》で、パネラーは古市憲寿(社会学者)、西谷文和(フリージャーナリスト)、中田整一(ノンフィクション作家)、田母神俊雄(元航空幕僚長)だ。西谷、中田両氏はしっかりした仕事をしている方だが、古市は先に述べた「何かを言っているのだろうが何を言いたいのかわからない」社会学者の筆頭であり、さらにどうして田母神を呼ぶ理由があるのだ。この集会は朝日新聞労組が企画する、私的な集会であるから誰を呼ぼうが自由だ。よってそれに対する批判も自由が担保される。何たる人選かとあきれ返る。不見識にもほどがある。

2014年集会

2015年集会

2016年集会

それでも止まらない。2015年の《戦後70年 メディアの責任 1億総発信社会で》には、憲法9条2項改憲主義者の高橋源一郎(作家)、御厨貴(東京大学名誉教授)、瀬谷ルミ子(日本紛争予防センター理事長)、西村陽一(朝日新聞取締役編集担当)が並び、コーディネーターは堀潤(ジャーナリスト)が登場。さらに2016年の《デモ×若者 社会は変わるのか》には、最近しばき隊リーダーの感がある、香山リカ(精神科医)と五野井郁夫(高千穂大学経営学部教授)、言説「巧み」な隠れ右翼こと佐藤卓己(京都大学大学院教育学研究科教授)、千葉泰真(SEALDs、明治大学大学院生)のお歴々が……。コーディネーターはまたしても津田大介。

◆労組までもが朝日の真似をすることもあるまいに

そしてきょう行われる《「不信」「萎縮」を乗り越えて》のパネラーは、再度、憲法9条2項改憲主義者の高橋源一郎(明治学院大学教授)、西田亮介(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)、高橋純子(朝日新聞政治部次長)で、コーディネーターは佐藤優のように、何を聞いても知っている、だけれどもあなたの本音はいったい何なの?と質問すると「いい質問ですね」とは答えてくれない、ヌエのような池上彰だ。

そりゃ負けるだろう。改憲論議でも、阪神支局襲撃事件でもこんな連中が論陣を張っているようでは。朝日新聞への幻想と幻滅。労組までもが会社の真似をすることもあるまいに。もう日本国憲法は死んでいる。

鹿砦社代表・松岡と「デジタル鹿砦社通信」管理人が共同して朝日新聞阪神支局襲撃事件の直後に緊急出版した『テロリズムとメディアの危機~朝日新聞阪神支局襲撃事件の真実』。日本図書館協会と全国学校図書館協議会の選定図書にもなった

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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前回の本コラムでご紹介した通り、今回の主人公はこのパネル展実行委員会の共同代表の一人である岡本朝也である(もう一名の代表者、能川元一も関西の「カウンター」運動の参加者だ)。

毎日新聞デジタル版2017年4月20日

◆岡本朝也は関西大、甲南大等の非常勤講師

岡本朝也は、1969年奈良県生まれ。関西大学、甲南大学等で非常勤講師として教壇に立っている。専門は家族社会学。内縁の妻は桃山学院大学社会学部准教授の村上あかねである。

ツイッターでは「るまたん」と名乗っているが、これは仏語の“le matin”(英訳すると“the morning”)を自分の名の「朝也」に当てはめたものであろう。

なお、岡本は「岡本弘二」「岡本交人」という変名を使っていることがある。その理由は岡本に過去、逮捕歴があるためだと思われる。

◆岡本朝也はリンチ事件前までM君と親しかった

岡本はリンチ事件の被害者M君と同様、2013年の初期から関西の「カウンター」に参加していた。ただし岡本は関西の「カウンター」関係者の中では、やや浮いた存在であったようである。M君によると、李信恵や凡ら当時の関西の「カウンター」関係者の中心人物は岡本を一方的に毛嫌いしていたらしい。

特に後にリンチ事件の主犯となるエル金の岡本に対する嫌悪は凄まじく、エル金は岡本のことを、当人のいないところでは「あいつはコミュ障(編集部注:「コミュニケーション障害」の通俗的略称。差別感情に溢れた言い回しである)やから居場所を求めてカウンターに来てるんや」と言い回っていたそうだ。これは岡本が野間易通に対して批判的な意見の持ち主だったことが原因とみられる。ここにも「しばき隊」の歪(いびつ)な構図が見て取れる。

M君はこれら「カウンター」関係者の岡本に対する冷遇には、度々苦言を呈していた(つまり岡本をかばっていた)。このことがM君と加害者らとの確執を深める一因にもなったことは岡本自身も認めている(後詳参照)。
 
また岡本は、2014年4月の凛七星の逮捕においても、他の大多数の「しばき隊」=「カウンター」関係者とは異なる態度をとった。多くの「しばき隊員」が沈黙を決め込んで凛を見捨てた。また後に「M君リンチ事件」を引き起こした凡や李信恵のように、凛の逮捕を好機ととらえ、運動の「ヘゲモニー」掌握に血眼になる連中を横目に、岡本は仲間である凛を見捨てずM君とともに凛の支援をしていた。このようにリンチ事件発生前、岡本はM君とは親しかった。

2014年になると、関西における「カウンター」運動は凡や李信恵の専横がひどくなり、M君や岡本は、独自の路線を模索していたようだ。次のようなやり取りを、「秘密裏」に行っていたことから、当時からいかに「カウンター」内部の風通しが悪かったかを窺い知ることができる。

 

 

◆しばき隊の十八番! 岡本朝也は手のひら返しでM君を裏切った

M君リンチ事件発生後間もない2014年12月20日、作家で法政大学教授の中沢けいが「男組」組長の高橋直輝こと添田充啓とともにわざわざ大阪まで来て、事件の隠蔽工作を行ったことは、『反差別と暴力の正体』第4項および第5項において取材班が詳述した通りである。

このとき、中沢と添田はM君と親しかった凛七星、岡本ともう1名に対し、M君の刑事告訴を阻止するように要請している。そして中沢の要請をただ一人忠実に実行したのが、なんと岡本である。翌21日M君は岡本の求めに応じて面会しているのだがM君はこの時に、中沢らの来阪を岡本の口から聞いたという。同日岡本はM君に「中沢先生もエル金側についた」と伝えている。岡本によると中沢は「私は何があってもエル金を守る」とまで宣言したそうだ。

事件について、M君はあくまで徹底究明の姿勢を崩さなかったためか、年改まって2015年1月17日、岡本は直接にM君に「刑事告訴をするな」と強要している。かつては親しかった岡本の口から、こんなセリフを聞かされたM君の落胆と失望は察するに余りある。

その後、2015年1月29日岡本は言い訳がましく次のようなメッセージをM君に送りつけている。岡本はリンチ事件が起きた背景には「自分にも責任がある」と明言している。しかしその後岡本は、自身が認める「責任」一切とっていない。「責任」という言葉をここまで軽々しく扱う岡本が、日帝の「戦争責任」にも言及したパネル展の代表者なのだ。一般の方には隠蔽されたこういった欺瞞を「茶番」という。

M君は岡本が刑事告訴の断念を強要したことにつき、抗議の意を示しているが、それに対する岡本の回答は大臣並みに立派である(つまり嘘くさいということだ)。岡本はM君に「刑事告訴をするな」と迫ったことに「倫理的に批判されるいわれは全くない」と開き直っている。岡本が堂々とそのように言っているので、M君とのやり取りの一部始終を公開されても岡本に文句はあるまい。ここにご紹介しよう。岡本とM君のやり取りは、岡本の人間性を理解するうえで極めて重要であるので、「私信の公開」云々などというご都合主義的批判を、取材班は一切唾棄することをあらかじめ申し上げておく。

 

 

この後M君と岡本の間に連絡はないが、岡本は2015年5月「エル金は友達祭り」に参加している。

「エル金は友達祭り」とは、2015年5月1日から2日にかけて、「あらい商店」店主(当時)の朴敏用が、M君を精神的に追い詰めることを目的に、多数の「しばき隊」=「カウンター」関係者を扇動し、一斉に「(リンチ事件主犯の)エル金は友達」という書き込みを行った出来事のことである。冒頭述べた通り、岡本とエル金の確執はとくに深かったにもかかわらず、岡本は不思議な人間だ。

リンチ事件が明るみに出てからも、岡本は「あれは喧嘩だった」「レイシストを利することをするな」等と、M君への「セカンドリンチ」に余念がない。もはやいちいち紹介しないので、2016年5月頃の岡本のTwitterなりFacebookなりをご覧いただきたい。

◆岡本朝也は思想的に「うろたえ続けている」ことを白状している

ここまでお読みいただいた読者にはもはや説明するまでもないだろうが、岡本は「運動内部のヒエラルキー」への「忖度」にいそしみ、意思も良心もかなぐり捨てて「運動内部の暴力的権力構造」に媚びへつらっている。そして、身近で起きた暴力事件、それも親しかった被害者M君に刑事告訴の断念を迫って恥じることもない。このような人物を代表者にすえ、そして関係者が皆それを知って平然と展示を開催し続けている。それが「未来のための歴史パネル展」(みれぱ)の実態である。

岡本はM君に向けて「うろたえるだけ」と何度も語っている。そうだ。いい年をして、大学で教鞭を取りながら、責任や論理矛盾にも気が付かない岡本の如き人間は、一人で「うろたえ続けて」いればよいのだ。善人面をして毎日新聞に報じられた岡本はまだ「自分自身」が理解できていない。岡本は三田誠広の「僕って何」をまず読むべきだ。岡本は毎日新聞の記事中、「誰が悪いというのでなく、人類の犯した事実を共有したい」と言っている。そんなことはないだろう。中国への日本侵略に当時の中国人民が責任を有するのか。朝鮮半島の植民地支配に朝鮮半島の人民が責任を負うというのか。岡本の主張はつまるところ、安倍や自民党、改憲勢力の主張と変わりない。何よりも岡本自身が終始思想的にも「うろたえ続けている」ことを白状しているに過ぎない。(続く)

毎日新聞兵庫版2017年4月20日朝刊

(鹿砦社特別取材班)

重版出来!『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

AmazonでKindle版販売開始!『反差別と暴力の正体――暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)

連合HPより

wikipedia「連合」項より

今日はメーデーだ。東京の「連合」(日本労働組合総連合会)系集会には小池都知事がゲストで呼ばれるという。ご同慶の至りである。メーデーは労働者の祭典、戦う意思を確認する日のはずだが、そこにどうして「保守」の小池都知事が呼ばれるのか。いや、振り返れば別におかしなゲストは、これが初めてではない。郵便局をぶっ壊し、ブッシュの進めたアフガニスタン、イラクへの侵略戦争を世界一支援した小泉元首相もこの大会に呼ばれたことがある。

◆1987年の「連合」発足──この国の労働運動が骨抜きにされた一大転換点

そもそも出自からして「連合」は御用組合化が運命づけられていた。元社会党系を支持していた「総評」(日本労働組合総評議会)が、国鉄解体を機にガタガタにされ、民社党を支持していた「同盟」(全日本労働総同盟)と合体をしたのは1987年11月20日のことだった。今日の安倍政権による急速な反動体制の暴走を「小泉・竹中」の新自由主義から、と規定する方が多いが、私は「総評」解体「連合」発足が、この国で労働運動の決定的な骨抜きが行われた一大転換点だと考える。

その仕掛けは労働界内外から行われた。今では野党の共同代表におさまり、あたかも世直しはこの人しかいないと、80年代には予想もしなかった凋落と評価の変わりようのO氏は、中曽根政権下で国鉄潰しに直接手を下した本人である。

◆超A級の戦犯として山岸章

そして超A級の戦犯として山岸章の名前を挙げなければならない。山岸は電電公社(現NTT)の情報通信産業労働組合連合会の委員長でありながら、「総評解体」=「連合設立」をもくろみ暗躍し、「連合」発足後は初代の会長に就任する。そしてめでたくも2000年4月、山岸は勲一等瑞宝章を受勲している。日本における今日的労働組合運動の退潮と腐敗をもたらした山岸の罪は万死に値する。連合会長就任後、山岸はテレビに知識人ズラをして登場しては、労組潰しの立役者として、間抜けな司会者やコメンテーターからおだてられ、いい気になっていた。

当時、豪州出身の私の友人は、「山岸の役割は、ボブ・ホーク(ロバート・ジェイムズ・リー・ホーク、Robert James Lee Hawke)と同じだ」と語っていた。ボブ・ホークは豪州で1983年から1991年まで首相の座にあった自分物だが、彼がオーストラリア労働組合評議会(Australian Council of Trade Union, ACTU)を骨抜きにして、日本の「連合」化させた役割と山岸の役回りがそっくりだと聞いた。もっとも豪州の労組は「連合」とは比較にならない闘争力をまだ保持はしていたが、20世紀後半資本主義国での労働運動解体に一役買った人物という点で二人には共通点が多かった。

連合2016~2017年度パンフレットより

連合2016~2017年度パンフレットより

wikipedia「民進党」項より

◆「連合」が支える民進党の堕落

そして、「連合」が支える民進党の堕落はどうだ。長島昭久が「憲法について執行部と考えが違う」と離党。細野豪志も執行部の憲法改正に関する姿勢に不満がある」として民進党代表代行を辞任した。「民進党執行部の憲法についての考え方」などはどうでもよいのだが、長島も細野も要するに自民党同様の「改憲」がしたい、という人間なのだ。長島はそのタカ派ぶりを昔から隠すことなく、海外派兵推進、憲法改正を口にいていたし(ちなみに長島の大学時代の指導教授は小林節だ)、細野は静岡選出の議員だが、ルポライターの明石昇一郎さんに「原発のことを教えてください」とわざわざ質問をして「ああそうなんですか」と原発の危険性を「理解したフリ」をしていた人間だ。芸能人との不倫写真を撮られたり、どのみち期待する要素が「ゼロ」の人間なので驚くには値しない。

問題は長島、細野のような「廃棄物」が民進党議員の中では決して珍しくはないとうい事態だ。なぜなのか。それは連中の頭の中に理想とする社会像がないからだ。仮にあってもそれは自民党の連中が発想するそれと大差ない。だから民進党は一向に支持率が上がらないし、どんどん勢力が弱体化してゆくのだ。しかもそこに「投票」をちらつかせるのが「御用労組の集合体」連合では、どうしようもない。

じゃあ、だれを選べばいいの?……との質問が当然予想される。私は自公には投票しない。民進党にも入れない。それ以上は言わない。

◆「真っ当な労組」なしに「真っ当な野党」などあり得ない

民進党は一刻も早く解党し、また「連合」も解体すべきだ。少々時間がかかるかもしれないが、「真っ当な労組」がなければ、「真っ当な野党」はあり得ない。労組は組合員と全労働者の利益を追求して、経営者と対峙する本来の役割を取り戻せば良いだけのことだ。非正規雇用が4割に達し、「食えない労働者」が激増する資本主義末期にあって、内部留保を腐るほど貯めこんだ大企業からそれを吐き出させ、労働者にしかるべく分配を要求するのだ。労働運動の役割は経営者のお手伝いではなく、労働者の権利・利益の追求だろう。

民進党HPより

◆「与党案に反対」が野党の旗幟

また、民進党解党後の野党は「自民党の提案には何でも絶対反対」の旗幟(きし)を鮮明にすればよい。民進党が民主党時代にどうして消費税の引き上げなどを言い出したのだ。菅直人元首相が財務官僚に嵌められて妄言を吐き出したのかもしれないが、消費税率上昇が税収の低減を招くことは過去の実績で明らかじゃないか。「消費税亡者」の中には税率を20%に上げないと……など寝言は寝てから言え!と怒鳴りつけたくなるような間抜けな論を平気でのたまう輩がいる。間違っている。彼らが求めるように「経済成長」を数字で確認したいのなら、まず消費税を全廃してみろ。どれだけ消費が喚起され、内需が潤うことか。そして消費税に苦しめられている中小企業や、低所得世帯が喜ぶことか。財源? 東電に無担保で20兆円貸せるんだろう。それを回せばおつりがくるじゃないか。

と、いうのが野党的には当たり前の姿勢だと思うのだが、小池都知事登場にヤジの一つも飛ばさずに拍手しているうちは、すべて望み薄だろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!『NO NUKES voice』11号!

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