今回紹介するのは、港区飯倉地区のランドマーク的建築である“ノアビル”だ。設計を担当した建築家・白井晟一(しらいせいいち)を通じて、この建築の思想に近づいてみよう。
1905年(明治38年)に銅版職人の長男として京都に生まれた白井晟一は12歳で父と死別。姉の嫁ぎ先である日本画家・近藤浩一路に引き取られて暮らすことになる。姉に勧められて進学した京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、哲学を学ぶためドイツに留学。帰国後、近藤浩一路の自邸設計を手伝ったことをきっかけとして建築の道へ入り数々の作品を……と、これが氏の略歴だ。
ちなみに白井晟一は建築士免許を取得していない。1950年(昭和25年)に建築士法が施工された当時、すでに建築家として活躍していた者へは無試験で建築士免許が付与された(たとえば丹下健三はこれにより一級建築士免許を有することになった)のだが、白井晟一はこれを辞退した。制度そのものが気に入らなかったと聞くが、確たることは言えない。
◆アポロ丹下とデュオニソス白井
白井晟一と同世代の建築家として名が挙がるのは(先にもチラっと登場した)丹下健三だ。広島平和記念資料館、東京都庁舎第一本庁舎、代々木第一体育館といった建築を手がけており、日本人としては最も著名な建築家である。その丹下健三の持論展開をきっかけとして、1955年(昭和30年)に建築家の間で論争が巻き起こった。日本の伝統美をいかにして継承するかという課題をめぐり、丹下は、“みやび”や“わび”といった要素の継承を消極的態度であるとして批判し、〈デュオニソス的=縄文的〉な“暗い”ものから、〈アポロ的=弥生的〉な“明るい”ものへと、その伝統継承のありかたを変革することを主張する。
それに対し白井は〈アポロ的=弥生的〉なものではなく、〈デュオニソス的=縄文的〉なものにこそ日本古来の価値を見出せるのだと主張する。これは、ギリシア神話の酒神デュオニソスのうちに示される陶酔的衝動と、太陽神アポロンのうちに示される秩序的衝動との対立を意味している。世界的に見てモダニズム全盛期であった20世紀半ば、丹下の主張はその流れに素直であり白井の論はモダニズムに逆らったものだと言える。
谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』のなかで『西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、古の日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識・美学の特徴だ」と述べたのは1930年代半ば。よりモダニズムが加速した1950年代にこれを主張した白井は、より革命的な態度で建築に挑んでいたと言える。
◆ヤスパースから哲学を学んだ建築の“実存感”
ノアビルを見てもらいたい。ベルリン大学でカール・ヤスパースから哲学を学んだというだけあってか、かなりユニークにその“実存感”をアピールしている。ノアビルは《建築漂流02》で紹介した“霊友会釈迦殿”のすぐ近くに屹立しており、釈迦殿帰りには自然と目にすることになるため「なんかまたヘンなのがいるよ……」と注目必至である。
しかしこれだけ特徴的な建築を完成させるにあたっては、どうしても関係者の協力が必要だ。この点、ノアビルの創業者・長尾剛鶴は建築に造詣が深く、白井晟一氏の設計理念に共鳴して同ビルの設計に際し全てを委ねたというから力強い。1974年(昭和49年)の竣工当時、設計者の夢を叶えたオーナーとして長尾剛鶴は高く評価されたという。余談だが、白井晟一は本の装丁デザインにも関わっており、中央公論社の鳥のイラストは彼の作品だ。これにもちょっと驚いた。
[撮影・文]大宮浩平
▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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