埼玉県朝霞市の中学1年生だった少女を誘拐し、2年余り監禁したとして未成年者誘拐や監禁致傷などの罪に問われた千葉大学の学生(休学中)、寺内樺風(かぶ)(25)の判決公判が8月29日、さいたま地裁で開かれたが、寺内が異常な言動を繰り返したため、裁判長の松原里美は判決の宣告を延期した。

寺内被告の裁判が行われているさいたま地裁

このニュースが話題になる中、ネット上には「頭のおかしい演技をして罪を免れようとしている」と決めつけたような意見が飛び交っているが、本当にそうなのだろうか。このニュースを聞き、私が思い出したのは、5年前に広島市で似たような事件を起こした小玉智裕(事件当時20)という男子大学生のことだった――。

◆「植物工場で研究者や労働者にしたい」と女児をさらった男

成城大学の2年生だった小玉は2012年9月、運転免許を取得するために滞在していた広島市で小学6年生の女児をかばんに入れ、タクシーで連れ去ろうとするという前代未聞の事件を起こした。乗ったタクシーの運転手が異常に気づき、通りすがりの社会人野球の選手共に小玉を取り押さえ、警察に通報。女児は保護されたが、この時に負った心の傷は察するに余りある。

小玉はその後、わいせつ目的略取や監禁などの罪で起訴され、懲役3年の刑が確定したが、この事件がわいせつ目的から起こされたという見方に疑問を呈する声は聞こえてこない。しかし、小玉は起訴前の精神鑑定で「広汎性発達障害」だと診断されており、裁判では精神鑑定医が実に興味深い証言をしていたのだ。

その精神鑑定医は岡山県精神科医療センターの医師、来住(きし)由樹。来住は2013年10月、広島地裁で行われた小玉の第一審に証人出廷し、小玉には「広汎性発達障害を基盤とする空想癖」があったと認めたうえで、この空想癖が「犯行に間接的な影響を与えたと考えられる」と証言したのだが、興味深かったのはこの空想壁の内容だ。

来住によると、小玉が事件当時に没入していた空想は2つある。1つ目は、「植物工場を持ちたい」という空想だ。小玉は事件当時、事業計画などの現実的なことを考えず、どんな従業員を持ち、どんな装置で植物工場を運営するかという非現実的なことをひたすら空想していたという。もう1つの空想は、インターネットのチャットの中で「変態紳士」というキャラクターになり切るというもので、「変態紳士」となった小玉は他のチャット参加者と性的な空想のやりとりを繰り返していたという。

このうち、私がより興味深く感じたのは、1つ目の「植物工場を持ちたい」というほうだ。というのも、小玉は公判中、犯行がわいせつ目的だったことを否定し、「植物工場をつくり、女児を研究者や労働者にしようと思った」と主張していた。その主張が精神鑑定でも裏づけられたわけである。

結果的に裁判では、この精神鑑定医の見解が受け入れられず、小玉はわいせつ目的で女児をさらったと認定された。しかし、この裁判を傍聴した私は法廷での小玉の自然体の話しぶりを見る限り、嘘をついているとは思い難かった。小玉は本気で「植物工場」を作り、女児を研究者や労働者として働かせようとしていたとしか思えなかったのだ。

◆ドラマや小説では、頭がおかしいふりをして罪を免れる者もいるが……

さて、ひるがえって、寺内はどうか。寺内は裁判長に職業を聞かれ、「森の妖精」と答えたほか、「私は日本語がわからない」「私はオオタニケンジでございます」「ここはトイレです」などと意味不明な言葉を次々に発したというのだが――。

結論から言うと、私は寺内について、本当にいかれている可能性が高いとみている。私は過去、小玉以外にも精神障害を患った様々な犯罪者を取材してきたが、誰もが本当にいかれており、マモトな思考回路を有しているように思えた者はただの一人もいなかったからだ。

おそらくは罪を免れるために気が狂ったような演技をできるほど「知的な人間」ならば、そもそも精神障害が疑われるような事件など起こさないのではないか。私はそう思うのだ。

ただ、私がこれまで取材した精神障害を患った犯罪者たちは裁判で誰もが完全責任能力を認められ、相応の刑罰を科されている。頭がおかしいふりをすれば、責任能力を否定されて無罪放免になるという話はドラマや小説でたまに見かけるが、現実ではなかなか起こりえないわけである。

それゆえに寺内も完全責任能力を認められ、相応の刑罰を受けるだろうと私は予想しているが、いずれにせよ、この裁判が興味深い事案であることは間違いない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

7月終盤から大学院生M君リンチ事件加害者・李信恵被告(民事訴訟の「被告」なので、以下「李被告」と記載する)による、鹿砦社に対する誹謗中傷、名誉毀損発言が止まりません。

7月27日の李被告による「鹿砦社はクソ」発言に対し私は、日々一所懸命に働いてくれる社員、多くの取引先やライターさんらを抱える会社の代表として到底看過できず、8月2日の本「通信」にて「大学院生リンチ事件加害者・李信恵氏による『鹿砦社はクソ』発言を糾す!」と題し李被告に反論と注意喚起、警告を行いました。
これで鎮まれば私もこれ以上追及するつもりもなかったのですが、これ以後も李被告のツイッターにおける鹿砦社に対する誹謗中傷、名誉毀損発言はいっこうに鎮まりません。

8月17日、同23日、同24日と、鹿砦社と私に対する誹謗中傷、名誉毀損は続き拡大していました。どれにも鹿砦社に対して「クソ」と言っています。いやしくも差別に反対し人権を守るという者が遣う言葉ではありません。

最近では私個人の過去について、全く事実と異なる書き込みまで見られるようになりました。

 

たしかに私は学生時代(遙か昔の1970年代前半)、同志社大学で文学部の自治会委員長を経験したこともあり、「学費値上げ反対闘争」では最後まで抵抗し逮捕もされており、いわゆる「学生運動」の活動家であったことは間違いのないところですが、私は一度も特定党派に所属したことはなくノンセクトでした。当時どこにでも多くいた活動家のひとりにすぎません。ましてや「中核派」や「革マル派」とは、まったく関係がありません。

このあたりのことを〝昔の話〟で一括りにされ、学生運動にかかわっていた人が「中核派」や「革マル派」のどちらかでしかないような決めつけは、その後両派の凄惨な歴史を見ても単なる〝勘違い〟や〝誤解〟〝思い込み〟では済みません。私を「中核派や革マル派」呼ばわりすることも、著しい名誉毀損です。

私はここで「中核派」や「革マル派」の批判を展開しているのではなく、私の学生時代の活動はそのように党派に属したものではなかったという事実を述べているのです。李被告はわからないのか、読む人が読めば「元中核派?革マル派?どっち?」は笑い事では済まされない性質の問題です。この手の書き込みは時間を確認すると深夜が多く、飲酒のためでしょうか。

「在日の普通の女に、ネットや普通の暮らしの中で嫌がらしかできない奴が、革命なんか起こせないよね。爆笑。おいらは普通の自分の暮らしを守りたいし、クソの代理戦争する気もないし」

という文意のわからない(ミスタイプ?)も見られますが、ここでもまた「クソ」という表現が用いられています。李被告を「在日の普通の女」などと思う人は誰ひとりとしていないでしょうが……。また、

 

などと言い募っています。私たちがどのような「嫌がらせ」を行ったというのか、具体的に例示していただきたいものです。さらには「(威力業務)妨害」をやったともツイートしています。私たちがどのような「(威力業務)妨害」をやったというのか、こちらも具体的に例示していただかないといけません。

ここでもう一度私たちの原点を簡単に述べておくほうがいいでしょう。2016年の2~3月に複数筋から、くだんの「大学院生M君リンチ事件」の情報が私たちに寄せられました。驚愕の内容でした。特に事件直後の「M君」の顔写真には強い衝撃を受けました。この写真を見て何も感じない人は人間ではない! と言っていいでしょう。李被告よ、あなたはこの写真を見て人間としてどう感じるのか? あらためて問いかけます。はっきり答えよ! どう感じどう答えるかで、李被告の人間性、つまり彼女が日々語っている、差別に反対し人権を守るという言葉の内実がわかります。

リンチ事件直後のM君の顔

しかし不思議なことに、これほどのひどい事件であるのに、事件から1年以上も経って、私たちは同じ関西に居ながら、まったく事件のことを知らずにいたのです。それは新聞もテレビも小さなメディアも一切「M君リンチ事件」を報道しなかったからです。ひとりの人間に対して、1時間以上複数の人間が一方的に暴力を振るい、それを誰も制止せずにいた光景は、常識的な神経では考えられません。ひどい事件じゃないですか! 最近1972年はじめに起きた「連合赤軍リンチ殺人事件」がドラマ風に報じられました。まさにこれを想起させます。永田洋子と李被告が二重写しされます。永田はみずからは手をくださず命令し死刑判決を受けました。李被告は最初の一発をM君に食らわせたとされ、李被告はこれを否定していますが、万々が一、みずからは手を下さずとも現場の空気を支配し阿吽の呼吸で指示したことで永田と同じです。

社内にカウンターの主要メンバーがいながら、そこまで深く関わっていたことも知りませんでしたが、そこで、この反省もあり、「M君リンチ事件」の真相を解明すべく社内外のメンバーで特別取材班を結成し、継続的に取材を続け、これまでに『ヘイトと暴力の連鎖』『反差別と暴力の正体』『人権と暴力の真相』を出版しました。李被告は「鹿砦社の人は何が面白いのか、お金目当てなのか、ネタなのかわかんないけど」と当事者でありながらトボけたことを書いていますが、私たちの目的は〈「M君リンチ事件」の真相究明と、被害者M君支援によるM君が受けた被害の正当な回復(謝罪、賠償金、治療費等含む)〉です。その作業は現在主として、大阪地裁における民事訴訟で「M君」が李被告を含む5名を相手取った裁判で係争中です(係争中とはいえ、事件の加害者の一部には刑事罰が下っているのですからM君が敗訴することは考えられません)。

一方法廷内では明らかにされない、焦点にはされないけれども重要な事実について、継続的に取材班は動いています。幸いこれまで出版した3冊とも好評で、それなりの反響はありましたが、この事件を扱った本を出版して、利益を上げようなどという思惑はありません。実際に、取材費用などかなりの持ち出しになっています。

私たちはこのかん、これまで明かされることのなかった〈事実〉を積み上げる作業を行っています。驚くべき事実が多数発見されました。その事実の積み重ねにより〈真実〉の姿がはっきりしてきました。そうして、それを出版物にし世に問うことを行っており、これは出版社(人)として正当な言論活動です。

このような取材結果の発表のどこが問題だと李被告は言いたいのでしょうか。私たちは綿密な取材によって得られた〈事実〉に基づいて、事件の実相と背景を探っています。時に直撃取材も敢行してきました。それにより明かされたくない〝恥ずかしい行為〟を暴露された人が少なくないことは知っています。でも待ってください。非難されるべきは〝恥ずかしい行為〟を明かしたことではなく、〝恥ずかし行為〟に手を染めたことではないでしょうか?

李被告は、〝リンチ〟という、人間として〝恥ずかしい行為〟に手を染めたことについて、なにをもってしても被害者M君に心から謝罪し、正当な治療費(まだ1円たりとも払ってはいません!)や慰謝料を支払うべきでしょう。そうではありませんか? 私が言っていることはおかしいですか?

また、李被告は以下のように問題をすり替えようとしています。

 

ここで初めて明かしますが、取材班には女性もいますし、在日コリアンもいます。相手が相手だけに、直接取材は男性スタッフが行っていますが「鹿砦社の男たち」は間違いです。

李被告による鹿砦社、並びに私やライターさんらへの度を越えた誹謗中傷、罵詈雑言発言に何度も反論と警告を発してきましたが、まったく鎮まる様子がなく、このままでは会社としての業務やライターさんらの名誉や仕事にもかかわる領域にまでエスカレートしてきましたので、「当社又は当社関係者が、いつ・どのような『嫌がらせ』や『(威力業務)妨害』を行なったと」と主張するのか、具体的な事例を示すように求め、「『鹿砦社ってほんまクソやなあ』とか『クソ鹿砦社』と表現された根拠」について示すように要求し、そのような李被告の「誹謗中傷、名誉毀損行為につきまして、その撤回と謝罪、今後は同様の行為を繰り返さないという誓約を強く求め」、やむなく8月25日付で代理人弁護士を通して「警告書」を内容証明郵便で李被告に送りました。

 

8月26日に受領したとの記録がありますので、既に李被告は「警告書」を読み、私たちへの対応を検討中と思われます。「警告書」到着後7日以内の回答を求めていますので期限は9月2日となります。回答ない場合や誠意ある態度を見せない場合は、「当社は直ちに法的措置に入らざるを得ない」と書き添えましたが、今までは笑ってすませていたところ、もう笑ってばかりもいられません。冗談ではありません。私も齢を重ねて、余程のことでは怒らなくなりましたが、私にも〈意地〉というものがあります。

李被告が妥当な判断をされるよう求めるとともに、皆様もご注目よろしくお願いします。

最新刊『人権と暴力の深層』カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い(紙の爆弾2017年6月号増刊)

AmazonでKindle版販売開始!『反差別と暴力の正体――暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)

重版出来!『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

毎日新聞2017年8月25日付記事

〈小池百合子東京都知事の側近で、政治団体「日本ファーストの会」を設立した若狭勝衆院議員は8月25日、民進党を離党した長島昭久元副防衛相、松沢成文参院議員(いずれも無所属)と東京都内で会談し、新党結成を視野に政策協議を進めることで一致した。(略)
 若狭氏は年内の新党結成に向け、民進党を離れた細野豪志元環境相とも協議を続けている。今後、この日の3氏に細野氏を交えた協議を行うことも検討する。〉
(毎日新聞2017年8月25日付記事)

まあそんなところでしょう。自民党離党で一度「リフレッシュ」したイメージ作りを狙う連中と、本来野党にいるのが不思議だった長島昭久。これにネオコンの松沢成文と、頭空っぽの細野豪志。彼らは基本政策ですでに「改憲」、「非自民、非民進」で一致しているという。

ところが本コラムでも指摘した通り、「日本ファースト」との名称に方々からクレームがついているという。

(東京スポーツ2017年8月12日付記事)

東京スポーツ2017年8月12日付記事

元在特会会長の桜井からは公開質問状を送り付けられるし、ドクター中松は今年4月に「日本ファースト党」を商標登録していたという(さすが発明家は目の付け所が違う)。

◆小池都知事の本音は違う

こんな乱暴な名前、とは思うが彼らの目指すところを嘘偽りなく冠した名前ではあるので、このまま「日本ファースト(日本第一)」を名乗り続けてほしいものだ。そう確信させるに十分なニュースが伝わってきた。

〈東京都の小池百合子知事は25日の定例記者会見で、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を今年はやめたことについて、「3月に(都慰霊協会主催の)大法要に出席し、関東大震災で犠牲となられたすべての方々への追悼の意を表した」「特別な形での追悼文を提出することは控えさせていただいた」と説明した。
 虐殺の背景には民族差別があり、特別に追悼の辞を述べる意義を見いだせないか、との質問には「民族差別という観点というよりは、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っている」と述べた。
 これに対し、インターネット上では「虐殺は大震災で生き残った人々に対してなされた。震災死と同列に置ける訳がない」「災害にひっくるめるのは、殺害事件をなかったことにすることだ」などと批判する書き込みが相次いだ。〉

(毎日新聞2017年8月25日付記事)

毎日新聞2017年8月25日付記事

要するにこういうことなのだ。追悼文は1970年代から出しているとみられ、主催者によると確かなのは2006年以降、「あの」石原慎太郎でさえ送っていたのだ。小池は関東大震災による朝鮮人虐殺被害者追悼へのメッセージを断った。理由は「民族差別という観点というよりは、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っている」そうだが、本音は違うだろ。

◆たちが悪い小池都知事の物言い

この追悼式は関東大震災の被災者の中でもとりわけ、「流言飛語により虐殺された朝鮮人」の方々を追悼する集会だ。「特別な形での追悼文を提出することは控えさせていただいた」との物言いは、取り立てて乱暴な行為を想起させるものではないが、それだけにたちが悪い。知事が民間行事で挨拶したり、メッセージを送ることは、ごく日常的なことだ。この知事の代替わりをしても、何年も続いていた「虐殺被害者へのメッセージ」を取りやめる経緯は、

〈追悼式が行われる横網町公園内には、73年に民間団体が建立した朝鮮人犠牲者追悼碑があり、現在は都が所有している。そこには「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。
 追悼碑を巡っては、今年三月の都議会一般質問で、古賀俊昭議員(自民)が、碑文にある六千余名という数を「根拠が希薄」とした上で、追悼式の案内状にも「六千余名、虐殺の文言がある」と指摘。「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。
 これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁しており、都側はこの質疑が「方針を見直すきっかけの一つになった」と認めた。また、都側は虐殺者数について「六千人が正しいのか、正しくないのか特定できないというのが都の立場」としている。〉
(東京新聞2017年8月24日付記事)

東京新聞2017年8月24日付記事

歴史修正主義者のお決まりの論法だ。「被害者の人数が正確ではない」から「それほどひどいものではなかった」、「本当は少数しか被害はなかった」、「いやいやそもそもそんな虐殺はなかった」という「数」を盾に取った「史実抹殺策動」だ。

加害者として、被害者の数を少なく見積もる、あるいはなかったものにしようとする意図は、南京大虐殺、沖縄戦における自決の強要などで顕著だ。また被害側としては原爆被害が挙げられよう。広島原爆30-40万人、長崎原爆18-20万人というのが爆発から今日までの犠牲者の総数とされているが、一部の米国人や対立関係にある国の中には犠牲者数を半数程度にしか認めない国がある。さすがに「原爆がなかった」とは言えないけれども、昭和天皇ヒロヒトのように「遺憾なことではあったが戦争中のことであり、やむを得なかった」などという加害者は少なくない。

小池の「民族差別という観点というよりは、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っている」という物言いは、「災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っている。民族差別という観点は重要ではない」との判断にも基づくと理解される。上記のような都議会でのやり取りを受けているので間違いないだろう。

このような「日本ファースト」の本音は今後も続くだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

8月25日にラジオを聴いていると、「きょうから京都市内の小中学校は2学期が始まり……」というニュースの声が聞こえてきた。あれ、夏休みは8月31日まで(私の頭の中では児童・生徒の揺るぎない「権利」として)あったんじゃないか、と思いながら続きのアナウンスを聞いていると、「ゆとり教育解消による、授業時間確保のため、また、教師の業務負担軽減などを狙い」と夏休み短縮の理由が説明されている。

小中学生が大人には太刀打ちできないとわかっていて、こどもの「権利」たる夏休みを10日も奪ってしまうのは、ひどい仕打ちじゃないか!学校嫌いだった自分が児童や生徒の頃にこの「夏休み10日強奪」が行われたら、生徒会に呼び掛けて全学ストライキを打つか(子供にそんなことは現実的ではないですね)、あるいは泣き出していたかもしれない。

産経新聞2017年6月22日付記事

それで驚いてはいけない。2017年6月、静岡県の吉田町は「小学校の夏休みを16日間程度に短縮することを検討している」と発表した。(産経新聞2017年6月22日付記事)やはり理由は京都市の小中学校と同じようらしいが、「16日間の夏休み」は極端にもほどがある。

そもそも「ゆとり教育解消による授業時間確保のため」は現実的な課題ではあろうが、納得のできる理由ではない。なぜならば「ゆとり教育」が導入される前に夏休みは、寒冷地などを除き、おおよそ7月20日から8月31日までの40日が標準だったからである。「ゆとり教育」導入と週休2日制(土曜日も休み)により、授業時間が一時減ったことは間違いない。しかし、週休2日制は学校に限らず、多くの企業、役所ではすでに定着した勤務形態であり、週40時間労働の原則からすれば当然導かれる休日数だ。「ゆとり教育」が見直されたからといって、そのつけを「夏休み短縮」に持ってこられたのでは児童・生徒はたまったものではない。

小中学校の教師だって「労働者」だ。こう言うと「いや、教師は聖職者だ!」と昔から噛みつく人がいるが、それは職務が子供を教育する、という極めて人間形成に深くかかわる重大性を拡大解釈しているだけのことであって、教師を聖職者だと決めつけ、だから基準労働時間以上も無償奉仕に献身的に当たるべきだという論は無茶が過ぎる。さすがに、近年の教師の激務ぶりを見た人の中からそのような声は上がらなくなったけれども、実は教師に過剰労働を強いているのは外ならぬ、文科省や教育委員会である。

私の記憶にある限り、戦後史の中で旧文部省、文科省が担ってきた役割は、戦後10年ほどを除き、ほとんど「害悪」でしかない。小学校から大学に通うお子さんや親戚、お知り合いのいる方であれば分かりだろうけれども、学校の先生の忙しさは尋常ではない。「ゆとり教育」が導入されるときだって、カリキュラムの大きな変更と同時に文部省(当時)から押し付けられる、授業とは直接関係のない雑務の増加により、先生たちの業務量は増加の一途だった。そしてこの国のお役所十八番の「朝令暮改」を地で行く「ゆとり教育」廃止により、振り子は元よりもさらに大きな振幅をはじめ、児童・生徒、教師へかかる負担はさらに荷重になる。

つまり、初等教育(否、中高等教育も)における「教育理念」がこの島国にはないのだ。いつでも行き当たりばかり。世界でも例を見ないほど英語教育に時間をかけていても、大学生のほとんどが英会話を苦手にしている現状。嘘か本当か分からない大昔の歴史(そこで教えられる内容だってコロコロ変わる)には必要以上に時間を割くくせに、近現代史を軽視する歴史教育。論理立てて考え、議論する、批判的に物事を見る科学的姿勢を軽視して、ひたすら「暗記」を前提としたカリキュラム。知識が身につくことはあっても知恵や生き抜く力を支える力が身につくことのない陳腐な教育。一言で言ってしまえばこの島国は戦後の一時期を除き、また、一部の特色のある学校や私立学校を除き、一貫してそのような哲学の「貧しい」教育に終始してきたのである。

そして、その最大の犯人は現文科省、旧文部省だ。連中は現場の教師がどれだけ忙しいか熟知している。ほとんどの公立学校で授業後のクラブ活動の指導にあたる教師は残業手当をもらっておらず、無償奉仕をするという現象は当たり前のようになっているし、夏休み短縮の原因とされる教師の業務過多は、あれこれと押し付けられる「報告書」や「調査」の類の作成に、膨大な時間を割かれるためだ。こういった「報告書」や「調査」の類が教育現場や教育内容の改善につながった例は、私の知る限り「皆無」であり、役所特有の「本来は不要」な本質的(学校であれば「授業」)業務になんら有意義ではない、「無駄な業務」が学校に強いられている結果だ。

そして、学校を企業のように妄想し「学校運営」を「学校経営」とまで言い換えているのが文科省だ。義務教育は営利目的ではないだろうが。違うか。

教師の業務負担軽減は、不要な事務作業を徹底して現場から排除すること。これまでの英語教育の非効率性が証明されているのに、小学校でも英語教育を行うという愚策を止めること。ITCだのなんだのといって、小中学校でもパソコン関係の教育を益々進めようとしているが、パソコンの操作方法などこの時代子供は勝手に覚える。教えるべきは、主としてインターネットという電子世界を扱い、参加するにあたっての危険性や留意事項と有益な使用方法などであろう。

小中学校では「朝礼」があるが、文科省にはそれに加え「暮改」必ず付随する。何の一貫した思想も将来像もない。

「夏休みの短縮」といった愚策は、その象徴であり、矛盾を解決するものでは全くない。考えてみよう。毎年猛暑日が続くこの時期に、近年はエアコンが整備されているとはいえ、小中学校で授業を増やしたら、どうして教師の業務負担軽減になるというのか。子供たちだけではなく、先生にも正当な夏休みを!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

ビエンチャン。メコン河沿いのアート

日本を出る前、「スケジュール的に今回はラオスまで行くのは無理だな」と納得して日本を立った私。ビエンチャンの寺も行きたいが、また次の機会にと思っていました。ところが、ノンカイに行くに当たって「せっかく行くんだからラオスまで足を延ばしましょう」と同行の知人に勧められて、バンコクにも用を残しており、「時間があれば行きましょう」と曖昧にしたものの、ノンカイに着いてからラオスへ行くことを決心。

そんな気にさせたのは、ノンカイに着いてミーチャイター寺から見たメコン河でした。夕景の対岸に手招きされたような、行かないと悔いが残るような、向こうにいい女が居るような、そんな単純な動機でした。そうなるともう時間が足りなくなっていきます。早速翌朝、国境の橋を渡ることになりました。

◆サパーン・ミタパープを渡る

ノンカイに着いたその日に泊まったホテルはノンカイ駅前にあり、その夜、同行の友人が駅前の屋台の連なるひとつの店にビールを買いに行ったところ、店主が日本人男性で「いっしょに飲みませんか」と誘われ、私も同行することになりました。

このお店の主は、この地に移り住んだ波乱万丈の人生がある、大阪弁で気さくに話す年輩のオジさん。こんな偶然の出会いも旅の面白さです。翌日私達がラオスに行くことを話すと、サパーン・ミタパープ(タイ・ラオス友好橋)を渡る手順を丁寧に教えてくれる有難さ。国境越えは緊張あっても難しい関門ではなく、必要な手順を覚えておくだけでした。今は列車も走る橋ですが、1日2往復しかなく、大多数派は専用バスでの国境越えになります。

翌朝出発、タイ側出国手続きを済ませ、橋を渡るだけのマイクロバスに乗り、1kmほどの橋を渡りきるとラオス入国手続きがあり難なく通過。

ノンカイから乗った国境越えバス内

国境越えの真ん中。サパーン・ミタパープ(タイ・ラオス友好橋)から見たメコン河。左がビエンチャン、右がノンカイ

道に迷えば同業者に聞くのが一番

ラオス入国後も、ノンカイのオジさんが言っていた「タラーサーオ市場行きのバス乗り場が入管出た右側にあって、手を振って招く運転手らが居るから」と言っていたとおりに、その方向に絵に描いたように手を振るオッサンがいました。

導かれたその古いバスに急いで乗ると、30分ほど乗っている間に地元の客も少年僧も自然な感じで乗り降りする当たり前の日常。ラオスは右側通行で乗降口も右側であることもタイとは違う異国に来た感じを受けました。

◆トゥクトゥクはオバさんドライバー

タラーサーオ市場に着く直前に、「バスはもう間もなく着くよ、降りたらこっちだよ」と車掌のような振舞いを見せたお兄さん。なんとバスに乗っている時から客引きをしていた油断ならないトゥクトゥクの兄さん。振り切って先を進み、導かれるまま乗ったトゥクトゥクはオバさんドライバー。でもすでに客として荷台席に別のオバさんが乗っており、乗り合いタクシー状況。相場もわからないのでほどほどの100バーツで成立。目的地のホテルまで、この時はタイバーツで払いましたが、タイバーツとラオスキープのレート換算が咄嗟にはできない状況でした。大雑把ですが、100バーツ=約300円=約25000キープ。市場で見た1キログラム10000キープのランブータンは約40バーツ=約120円。「10000キープ」なんて書いてあると何かボッタクられているような錯覚を受けてしまいます。

道に迷いながらホテルまで送ってくれたオバさんドライバー

タラーサーオ市場

市場のランブータンは1kgで10000キープ(約120円)

市場で食べたクイティオ(うどん)

言ったとおりのホテルに辿り着けないオバさんドライバー。こちらも慣れない土地で初めて行くホテル。同じこと何度も聞かれても困る。「客を不安にするなよ」と思うところ、他の運ちゃんに尋ねながらもようやく到着すると、「良く頑張ったね」と、逆に褒め言葉が出てしまいました。

滞在日数も少ないので荷物を置いて早速外出を試み、行き当りばったりながら再びタラーサーオ市場へ向かいました。どの方向に降りたかわからぬまま、雑貨市場に入ると、観光客向け土産物や隣接する生鮮食料品の市場には屋台もあり、そのひとつでクイティオを注文。人懐っこいオバさんたちがニコニコしながら話しかけてくれるところは、首都ではあるが田舎風の穏やかさが安らぎを与えてくれます。そんな穏やかな市場が一気に停電しました。外光が入るのでそんな暗くはないものの、そんな「またか」といった日常茶飯事に笑っている市場の人達。10分ほどで復旧すると拍手が起こる目出度さ。

◆22年ぶりに訪れた寺チェンウェー寺

さて、私がラオスに来た目的のひとつながら、もうその存在は無いかもしれない覚悟をして、チェンウェー寺に行くことにしました。この寺は私が比丘の時、ノンカイのミーチャイター寺の和尚さんに紹介されて、ラオスに来て泊めて頂いた寺でした。

トゥクトゥク運ちゃんにチェンウェー寺まで頼むと、すぐ理解され早速向かいました。存在はしている様子。メコン河に近づくと古い屋敷が立ち並ぶ集落に入り、かすかな記憶にある風景と合致していきました。そして運ちゃんが指差した先に寺があり、チェンウェー寺に到着。

22年ぶりに訪れた寺は以前と変わらず静かで比丘も少なそうな雰囲気。サーラー(講堂=読経の場)の外で掃き掃除をしていたネーン(少年僧)に「和尚さんはいますか?」と尋ねると「今、和尚はいません。」と言われ、葬儀や得度式といった数時間で戻れる様子ではなく、「まさかインドネシアですか?」と尋ねても「わかりません」という回答。

私が昔、比丘としてこの寺に来たことがあると伝えても信じて貰えないのか、些細なことしか掴めない状況でした。当時の若い比丘たちも当然ながら今は全くいない様子。ここで会ったネーンも22年前はまだ生まれていない訳で、昔のことを尋ねるにも限界があり、そもそも私がラオス語無視してのタイ語が通じていないところも多々ありました。

ラオスには行かないと思い、持って来なかった当時の彼らの写真。言葉は通じなくても写真で分かる情報はかなり多かったはず、と悔やんでいる場合ではない。「まだこの寺が存在していることが分かっただけでもよかった」と思って、ネーンに「また近いうち改めて来ます。またお会いしましょう。お元気で!」と言い、寺にもワイ(合掌)してメコン河に向かいました。

22年ぶりのチェンウェー寺の門。外観だけは昔のまんま

チェンウェー寺のサーラー(講堂=読経の場)

◆ビエンチャンのメコン河沿いを歩く

観光地ではないこの寺には興味無かったか、友人は早々に寺を出て先を進んでおり、追いかけつつメコン河沿いを歩き、対岸のノンカイを眺めました。

ビエンチャンのメコン河沿いの道も舗装され、ビアガーデン風レストランもあり、新しいホテルも建ち、かなり変わってしまいました。少々歩けばまた舗装の無い道がありますが、昔の河沿いは河が見えないほど木々が生い茂っているところもあったのです。

メコン河の流れのように、人生の流れも緩やかに変化していて、この旅だけではない、残された人生の時間も迫っていることに気付かされる想い。

そんな教えを授けるようなメコン河を、ノンカイとビエンチャンの両岸から眺めることによって運気を上げるパワースポットとして、「メコン河はまた見に行きたい」と今後もここを目指して来ることでしょう。しかし、「ここはオッサン同士で来るべきではない、夫婦であったり、若い彼女連れて来るべきところでもある」と勝手に心に誓って歩きました。

物思いに耽る時間も勿体無いところ、帰国日は近くて滞在時間は少なくなりつつなる中、出来る範疇でここから更に一般的観光名所へ移って行きました。旅はまだ続きます。

ビエンチャン。対岸はノンカイ、心安らぐ風景

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

1999年の夏から翌2000年にかけてマスコミで大々的に報道され、世間の耳目を集めた本庄保険金殺人事件。2件の保険金殺人と1件の保険金殺人未遂の罪に問われ、2008年に死刑確定した元金融業者の八木茂死刑囚(67)は一貫して無実を訴え、さいたま地裁に再審請求中だ。冤罪の疑いを指摘する声がまださほど多くない事件だが、実は事件現場を訪ねだけでも八木死刑囚に対する死刑判決の有罪認定に疑問を抱かせる事実が散見される――。

◆「人間養豚場」から逃げ出さなかったというストーリーの違和感

確定判決によると、八木死刑囚は95年6月、保険をかけていた元工員の男性(当時45)にトリカブトを摂取させて殺害し、保険金3億円をだまし取った。さらに98年から99年にかけて、やはり保険をかけていた元パチンコ店従業員の男性(同61)と元塗装工の男性(同38)を連日、大量の風邪薬と酒を飲ませ続ける手口で殺害したとされた。八木死刑囚は逮捕以来、一貫して無実を訴えていたが、共犯者とされた愛人女性3人がこれらの容疑をいずれも認めていたことが決め手となり、有罪、死刑とされたのだ。

では、現場で散見される有罪認定に疑問を抱かせる事実とは何か。第一の疑問は、被害者とされる男性たちが暮らしていた家から浮上した。

というのも、この事件が話題になった当初、週刊誌では、八木死刑囚が債務者の男性たちに「人間養豚場」と称するプレハブ建築のような劣悪な住居をあてがい、愛人女性と偽装結婚させて保険に加入させると、まるで真綿を締めるようにアルコール漬けにし、身体を徐々に蝕ませていたように報道されていた。だが、その「人間養豚場」の建物を確認するために現地を訪ねたところ、それが八木死刑囚の愛人女性が営んでいたパブと同じ敷地内にあったのだが、本当に何の変哲もない普通のプレハブ小屋なのだ。

八木死刑囚の裁判でも「被害者」とされる男性たちは生命の危機に瀕するまで八木死刑囚の愛人の営むパブや小料理屋で飲食していたとされるが、彼らは別に「人間養豚場」と呼ばれるプレハブ小屋に閉じ込められていたわけではない。建物を見る限り、男性たちは身の危険を感じればいくらでも逃げれたように思え、裁判で認定されたストーリーはどうもしっくりこないのだ。

「人間養豚場」と呼ばれたプレハブ小屋

◆トリカブト採取現場界隈の人たちの不可解な反応

第二の疑問は、八木死刑囚が凶器のトリカブトを採取した現場とされる長野県・八ヶ岳の美濃戸という場所を訪ねた時に浮上した。共犯者とされる愛人女性の1人によると、八木死刑囚と一緒にトリカブトを採取するために美濃戸を訪ねた際、大量のトリカブトを見つけた八木死刑囚は「俺は美濃戸が気に入った。美濃戸は宝の山だ」などと発言していたそうだ。そしてたしかにこのあたりはトリカブトが多く自生していた。

だが、このあたりで聞き込みをしてみても、八木死刑囚が美濃戸にトリカブトを採取に来たという話を知っている人が誰もいないのだ。八木死刑囚がトリカブトを採取している場面を目撃したという人物が誰もいないとしても、警察が捜査に来ていれば、そういう話は広まりそうなものである。このことには、何とも不可解な思いにさせられた。

ちなみに八木死刑囚が逮捕された当時の報道では、八木死刑囚の「関係各所」からトリカブトが発見されたという報道もあったが、裁判ではデマだったことが明らかになっている。犯行を自白した3人の愛人女性についても、自白内容は過酷な取り調べで植えつけられた「偽りの記憶」であるとする心理学鑑定の結果もあり、八木死刑囚がクロだと示す証拠は意外に乏しい。

再審請求の行く末を注目する価値はあると思う。

八木死刑囚のトリカブトの採取現場とされる美濃戸

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

TBS系バラエティー番組『マツコの知らない世界』(毎週火曜 後8:57)の公式サイトは、番組出演者から預かった資料を紛失したことを報告するとともに、資料の情報提供を呼びかけている。サイトに7月9日までに掲載された「お知らせ」では「2016年10月18日放送の『号外の世界』で、出演者の小林宗之氏からお預かりしていた貴重な資料の一部を、番組の不注意で紛失してしまいました」と報告。

小林近現代資料文庫HPより

すでに、小林氏とは和解しているといい「番組では引き続き、紛失した号外を捜しています」とし、紛失した資料として「明治17年8月30日付東京日日新聞号外(葉書号外)裏表1点ずつ『清佛要件の電報を特に御報申上候』」「昭和16年12月8日付 大阪毎日新聞号外 『ハワイ等奇襲奏功』」「昭和16年12月8日付 名古屋新聞第2号外『ホノルルを大空襲』」など計8点の資料写真を添え、捜索への協力を呼びかけている。

小林氏も自身のサイトで「TBS側に貸出した資料のうち、8点を紛失されるという事件が発生しました」と記し「TBS側により警視庁赤坂署に16年12月5日付で紛失届を提出済ですが、現在に至るまで、資料の返還を受けられておらず、資料も発見されておりません。もし、どこかで発見された場合は、是非ともご一報くださいますようお願いいたします」と呼びかけている。

小林氏とは5月頃に別件で情報提供をも求め、電話をかけた際に上記事件が発生したことは知らされていた。当時はまだ和解には至っておらず、TBSはずいぶんいい加減なことをするものだなと、しばし話し込んだ。

小林氏はこれまでも関西テレビの「ウラマヨ」や、CBCテレビの「ノブナガ」 に出演したことがあり、新聞や雑誌にも多数掲載されている。小林氏の所有する三陸沖地震の新聞資料は極めて貴重で、京都新聞の一面、社会面、28面に一挙に掲載されたこともある。新聞研究家あり、とりわけ号外研究・収集にかける小林氏の熱意は凄まじいいの一言に尽きる。小林氏に電話をかけて「また、珍しいもんを見つけましてねー」と嬉しそうな声が聞こえるときは、新しいコレクションが加わった時だ。国内新聞の資料・号外だけでなく、世界中の新聞の号外を時には人的繋がりで、あるいはオークションで落札することにより、地道に所蔵物を増やしている。

今回貴重な資料を紛失された事件については、TBS側と和解が成立しているものの、感想を聞くと「和解はしましたが、そりゃあ腹が立ちますよ。お金でいくらというものではないですから」と腹の虫がおさまらない様子だ。

それにしても、新聞資料収集・号外収集特集で番組に出演させておいて、その資料を失ってしまうなどということは、全国ネットのテレビ局としては、断じてあってはならないことだ。しかも、8点も行方不明にしてしまったというのだから、番組制作は下請け会社に丸投げしているのだろうが、TBSの信用の根本にかかわる問題だ。研究者・収集家にとってコレクションは何にも代えがたい貴重な分身のようなもので、「失くしてしまってごめんなさい」で済む話ではない。

TBSのガタツキぶりが感じられる事件でもある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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『ガンを越え、めざせ地平線!!』(鹿砦社2001年)

久し振りにいい話です――。

ちょっと前、長年書類置き場兼倉庫にしていたマンションが建て替えられるということになり立ち退きました。その整理の際、すっかり失くなっていたと思っていたスクラップが出てきました。実際、12年前の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧での家宅捜索や、私不在の中での事務所撤去の際に失くなった資料類は数多あります。

スクラップの中に、『ガンを越え、めざせ地平線!!』の記事が出てきました。朝日新聞全国版はじめ多くのメディアに紹介していただき絶賛された本です。本も増刷を重ねました。「鹿砦社らしくない本ですね」などと冗談半分に揶揄されましたが、最も鹿砦社らしい本じゃないか(苦笑)。

著者はエミコ・シール(旧姓・阪口恵美子さん。2001年の記事では旧姓で表記)さん。もう15年余りの前のことで忘れていましたが、8月20日の朝日新聞を開いたら彼女の記事が目に止まりました。

記事を読めば、彼女も生死の境を乗り越え、ずいぶんと苦労されたようです。懐かしい! 生きてられたんだ。さらに挑戦されようとしています。

長いこと所在不明だったスクラップが出てきたのもなにかの因縁だろうか……。
(『ガンを越え、めざせ地平線!!』は品切れです。電子書籍など復刊を検討したいと思います。)

(松岡利康 鹿砦社代表)

朝日新聞2017年8月20日付け朝刊

朝日新聞2001年1月31日付け夕刊

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多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

毎年恒例の山谷夏祭りと、戦後72年が経過して観る慰安婦映画について、お伝えする。

◆運動現場に起こりがちな問題に対し、丁寧に対処する姿勢を山谷にみる

2017年の山谷夏祭りは8月5日(土)と6日(日)、「日雇労働者の権利を奪うな! 白手帳取り上げ反対!」をテーマに開催された。山谷夏祭りでは、「この社会でもっとも貧しい人々、社会の中で搾取抑圧を受け厳しい立場におかれている人々である野宿の仲間たちが中心となって楽しめる祭り」を目指している。

わたしは越年闘争や夏祭り、集会などで幾度か山谷を訪れているが、特にこの夏祭りの笑顔や踊りは印象的だ。5日、あまり長時間の参加がかなわなかったが、スケジュールを確認すると、アルミ缶交換、めし作り、よりあい、めし(ひつまぶし風どんぶり/カレー)、追悼、乾杯、屋台、ステージ演奏(ジンタらムータ・Swing MASA・中川五郎・蟹座・岡大介)、カラオケ、盆踊り(炭坑節・東京音頭・大東京音頭・ドンパン節)など、やはり盛りだくさんの充実した内容となっている。

山谷は労働運動、貧困・格差解消のための運動に携わるわたしたちにとって、現場の1つではあるものの、象徴のような場だ。

白手帳とは日雇労働被保険者手帳のことで、雇用保険法が規定する日雇いや30日以内の短期間の仕事をする人は、まず居住区のハローワークでこの手帳の交付を受けられる(ことになっている)。しかし、建設労働以外の職種では白手帳はほとんど知られていない。建設労働者は本来、全国の現場を渡り歩いているので、大阪・名古屋・横浜などの日雇職安で白手帳を作ることができ、東京・山谷地区での管轄は玉姫および河原町労働出張所である。労働者は賃金の支払いを受ける際、この手帳を提出して会社に印紙を貼ってもらう(日雇労働者を雇用する事業主は印紙の貼付を義務づけられているにもかかわらず、貼らない業者が増えている)。2カ月間で26枚以上印紙が貼られている手帳を持参すれば、ハローワークで求職申し込みをしたうえで仕事が見つからなければ、翌月13日分以上の給付金が受けられる。この給付金は「あぶれ手当」と呼ばれ、仕事を得られなければ、前月の賃金に応じて日に4,100~7,500円が支給される。

全国のハローワークと日雇職安を統括する厚生労働省は、近年、わずかな不正行為を口実に「あぶれ手当」の支給を厳しくしただけでなく、日雇労働者から白手帳を取り上げるという締め付けを強行しようとしている。印紙の枚数が少なくアブレ受給の可能性が低いという理由で日雇雇用保険そのものから脱退させようというのだ。日雇労働者を雇っても印紙を貼らない業者が大多数であるという実態は問題にせず、逆に労働者に印紙を貼れないなら無保険になれと手帳を取り上げる。ただでさえ不安定な日雇労働者の権利を根こそぎ奪おうとする国のこの動きに反対運動が行われている。

また山谷の活動では、撮影や差別・抑圧の問題等にも真正面から取り組んでいる。あらゆる運動において、さまざまな問題がみられるが、それを継続や権力保持のために誰かが握りつぶそうとするさまを10年あまりで数えきれないほど目撃し、耳にもしてきた。そのためにわたしが距離を置いた運動も多くあるが、山谷では、そのような問題に真摯に向かっているという印象をもっている。活動のはじめにハラスメントの問題に対してセーファースペースがあることを伝えたりする習慣があり、今回も撮影や差別・抑圧の問題に関する資料をきちんと配布しているのだ。民主主義を現場から実現しなければ、社会を変えることなどできるはずがない。

9月30日土曜日には、1984年12月22日、天皇主義右翼・金町一家に殺された佐藤満夫監督の遺志を引き継ぎ、日雇全協・山谷争議団の山岡強一さん(87年1月13日に同様に殺された)が完成させた「山谷(やま)──やられたらやりかえせ」がplan-Bにて上映される。これを観ると、山谷の原点や、社会の差別・抑圧・支配構造がよくわかるかもしれない。

◆貴重な「最後の記録」に、1人ひとりの怒り・痛み・哀しみをみる

万愛花さん © 2015 ドキュメンタリー映画舎 人間の手

その前には専修大学にて、「班忠義監督作品特集──日・中・韓を結ぶ25年の記録」の中の「太陽がほしい──『慰安婦』とよばれた中国女性たちの人生の記録」を観ていた。本作は、「チョンおばさんのクニ」「ガイサンシーとその姉妹たち」と戦時性暴力被害を受けた女性たちを取り上げたドキュメンタリー2作を経た班監督が、750名余りの支援を受けて製作した120分の作品だ。

共産党員として拷問を受け、性暴力を受けたうえ、脇毛を抜かれたり銃床で殴られたり軍靴で蹴られたりして全身を骨折した万愛花さん。隊長や日本兵からの性暴力を毎日受け、無理矢理自宅から連行される際に銃床で殴られて左肩に後遺症が残った劉面換さん。隊長や日本兵・清郷隊という傀儡軍隊員などからの性暴力を受け、陰部を切り裂かれたりして精神状態にも悪影響が及んだ郭喜翠さん。ほか、計6?7名を中心とし、当時の具体的な話やエピソードを語ってもらい、その後から現在にいたるまでの苦悩も描いている。彼女たちはその後、心身の健康被害が残っただけでなく、日本兵に協力したものとして差別を受け、貧困に陥り、現在、病院に行くことすらままならない。長い月日を経たものの当時の記憶はみな鮮明で、振り返りながら涙が止まらなくなる。告発しながら舞台で卒倒してしまう人もいた。

▼班忠義(Ban Zhongyi)監督 1958年、撫順市に生まれる。95年、中国人元「慰安婦」を支援する会を発足。99年、ドキュメンタリー映画『チョンおばさんのクニ』(シグロ製作)を監督。07年、ドキュメンタリー映画『ガイサンシーとその姉妹たち』(シグロ製作)を監督。10年、ドキュメンタリー映画『亡命』(シグロ製作)を監督

作品の途中、小さな希望を抱かされるものの、ラストでは多くの女性がすでに亡くなってしまったことが告げられる。わたしは「間に合わなかった」という絶望感を抱かざるをえなかったが、現在の日本に生きる者として、何度でもそこからまた始めなければならない。上映後のトークでも班忠義監督は、「被害者として知っている女性の生存者は、中国全土で8人前後。完全に歴史になった。取材はもうできない。記憶の伝達が難しく、限界がある」と語った。

本作では、戦中戦後の中国の歴史も大変わかりやすく綴られ、37?43年に華北方面で活動した共産党軍(紅軍)である八路軍(はちろぐん)についても触れられる。班監督は現在、日本に住んでいるが、『亡命』という作品も手がけており、トークでも習近平以降の監視が厳しく、撮影や上映もままならない状況についても語った。ゲストの専修大学教授で中国文学・思想史を専門とする土屋昌明先生も、「日本では沖縄以外でありえないほど、中国は厳しい状況。これが法律で決まっている。2016年、映画祭をやろうとしたら、電線を切られ、フィルムを没収され、映画学校が取り潰しになった」という。そして監督は最後に、「大事なのは、歴史をどう残すかということと、関係を築いて他国や人間を理解すること。わたしのようなバカなヤツがたくさん、本当に必要」と締めくくった。

「太陽がほしい」は、1人ひとりの女性の思いがストレートに伝わってきて、胸に突き刺さる。このようなドキュメンタリーは、多くはない。わたしは「チョンおばさんのクニ」「ガイサンシーとその姉妹たち」のDVDを購入した。

この時期、足を運んだり映像によって現場・当時を「生々しく」知ることで、労働者の仲間のこと、戦争のことなど、改めて考えたい。

「太陽がほしい──『慰安婦』とよばれた中国女性たちの人生の記録」

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年、千葉県生まれ。フリーライター、エディター。『紙の爆弾』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『教育と文化』『労働情報』などに寄稿。労働や女性などに関する社会運動に携わる。映画評・監督インタビュー執筆、映画パンフレット制作・寄稿、イベント司会なども手がける。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

 

 

 

前回(7月27日掲載)に引き続き、2014年10月7日に発行された『#安寧通信』vol.0の解析を続ける。関西学院大学教授金明秀に続いての登場は、南ソウル大学日本語科助教授の桜井信栄だ。

◆南ソウル大学日本語科助教授の桜井信栄

「皆さんこんにちは。私は2013年から東京の路上でデモ隊に直接抗議をしてきたほか、ソウル光化門(クァンファムン)で日本の反韓でデモに反対するプラカードデモを続けてきました」
から始まる桜井の文章は、「私自身も『がんばります』という精神で信恵さんの支援を続けていきたいと思います」で結ばれている。桜井信栄といっても、それほどの著名人ではないので、取材班も桜井の名前と人となりについては全く知識がなかったが、取材を進めるうちに、「M君リンチ事件」のあと、ツイッターに「M君」の実名を明かし、誹謗する書き込みを行っていた人物であることが判明した。しかも桜井はこの書きこみの中で、神戸大学木村幹教授を皮肉り、鹿砦社の名前まで持ち出している(桜井のこの書き込みは南ソウル大学で問題化し、南ソウル大学の担当者が神戸大学まで謝罪に訪れたという噂もある)。桜井はいわば、「しばき隊」ソウル支局長といったところか。このように二重加害は国境を越えて行われていたのだ。

桜井信栄=南ソウル大学日本語科助教授のツイッターより

◆龍谷大学法科大学院教授の金尚均(キムサンギュン)

そして「京都朝鮮学校襲撃事件」の原告であり、龍谷大学法科大学院教授の金尚均(キムサンギュン)がコメントを寄せている。ここではっきりと断っておかなければならないが、金尚均は「M君リンチ事件」の隠蔽や二次加害には一切加担していない人物である。自身の子息が通っていた「京都朝鮮学校」が在特会などの、質の悪い団体に襲撃された事件では原告となり、堂々とした闘いの末に勝利(民事訴訟で1200万円を超える損害賠償金)を勝ち取っている人物である。業績も多く学者としての評価も高い。

「京都朝鮮学校襲撃事件」原告である金尚均は原則に立ち返れば、「救援」8月10日号に東京造形大学教授の前田朗が論じたような立場を明確にできる人物ではないか、との期待を込めて紹介したまでである。

 

 

ちなみに、金尚均の文章のあとに「京都朝鮮学校襲撃事件」の解説文が掲載されている。この文章には「あらま」と署名がある。「あらま」は「M君リンチ事件」前はM君と交流があったものの、事件後は一転して加害者側に転じた人物である。

◆李信恵を「パイオニア」と評する野間易通(C.R.A.C)

次頁は本年逝去した泥憲和の「李さん泣くな、一緒に生きよう」が登場。次いで登場の野間易通(C.R.A.C)は、
「この裁判を起こすのに、どれだけの労力と勇気、そして何よりも精神的なタフさが必要だったか。李信恵さんの気持ちを日本人支援者は簡単に「わか」ってはいけない。我々は、裁かれる側でもある。だから、パイオニアを孤立させない」
と殊勝なメッセージを送っているが、野間の人間性を知る取材班としては、この言葉を額面通りには受け止めることはできない。事実、野間はその後「M君」の実名や所属大学をツイッターで晒し、「M君」から民事訴訟を起こされ1審で敗訴。9月から大阪高裁で控訴審が始まる人物である。

野間の寄せた短文の結び「パイオニアは孤立させない」は、これまで在日コリアンとして、様々な生活防衛あるいは、差別に対する攻撃と闘ってきた先人に対して失礼ではないだろうか。李信恵がこの裁判を起こすにあたって、相当な覚悟や嫌がらせを覚悟したことは想像できる。しかし李信恵を「パイオニア」と評するのは、例えば入管闘争、日韓条約反対闘争(日・韓両国における)、指紋押捺拒否の闘い、朝鮮高校卒業生への大学資格を認めさせる闘いなど、緒戦線を闘ってきた先人が眼中にない表現だ。

◆「M君リンチ事件」実行犯の一人「凡」

そして同じ頁の下段には「ぼんさん 凡ドドラジオ」、つまり「M君リンチ事件」実行犯の一人「凡」が登場する。「凡」の文章は短い。
「俺の友達がまた勇気を振り絞った。その隣に立つ以外の選択肢はない」
コリアNGOセンターの金光敏による詩的文章にも通ずるこの一文。注目すべきは主語がないことだ。「俺の友達がまた勇気を振り絞った」、いいだろう。これはだれが読んでも李信恵のことだ。だが、「その隣に立つ以外選択肢はない」のは誰だ?李信恵の友人全員か? それとも、「凡」個人か? そしてなぜ「隣に立つ以外選択肢はない」のだ?

このような細部にこだわるのは、この短い文章が「M君リンチ事件」現場における、「凡」が果たした役回りとそっくりだからである。「凡」の言葉はこう書き換えることができる。
「エル金がMに暴力を振るった。その隣に立つ以外の選択肢はない」

事実事件はそのように進行し、「凡」は長時間にわたる「エル金」が「M君」に振るう暴力をいくらでも制止できたにもかかわらず、積極的制止を行っていない。それどころか「凡」自身も「M君」の顔を殴っている。
これらは、『#安寧通信』vol.1が発行された2カ月ほど後に「M君リンチ事件」が起きたがゆえに、遡り解読を試みているのである。もし事件が起こらければ、単なる「言いがかり」と切り捨てられるかもしれないが、残念ながら事件は起きてしまったのだ。「闇の奥には何があったのか」解き明かす作業は奇異であろうか。

◆安田浩一と西岡研介の態度と行動

続いて登場は安田浩一だ。14行にわたる文章の中で安田は、
「差別と偏見の最前線で、もっとも激しく傷ついてきた信恵さんに、もっともつらい選択肢を強いてしまったんじゃないかという思いが僕にはある。だから僕は、ありったけの支援をしたい。いや、一緒に闘いたい」
と、非常に強いトーンで李信恵への共感と共闘を宣言している。それは結構だ。何度も繰り返すが、相手は在特会などの差別確信犯なのだから。

しかし、だからといって、この裁判を李信恵が闘うことが、ほかの生活や発信、なかんずく「M君リンチ事件」への関与を免罪するものでは全くない。この裁判で李信恵は原告であり、被害者だ。しかし、2か月後には「言葉」だけでなく、「暴力」も伴った長時間の「M君リンチ事件」に李信恵は「加害者」として関与した。そのことは李信恵が「M君」に送った「謝罪文」で明らかだ。あの「謝罪文」は嘘、虚構というなら話は別だが。

安田は取材班田所の電話取材に対して「どうしてこんなことに興味をもつのか」、「運動に分断を持ち込むもの」、「誰が喜ぶか顔が見える」などと「李信恵無謬論」を展開したが、事実の前では無茶が過ぎるのだ。事実に忠実に価値判断ができなければジャーナリストとして(それ以前に人間として)誤った道を選択してしまう。いまそれを体現しているのが安田浩一だ。

 

 

そして、同頁下段に登場は、やはりジャーナリストにして「M君リンチ事件」隠蔽において大きな役割を果たす西岡研介だ。西岡は9行の文章の最後をこう結んでいる。

「だから私は李信恵の闘いを率先して、そして最後まで支援する。これまでにも十分すぎるほど傷ついた彼女を最前線に立たせる――ということに忸怩たる思いを抱えながら」

読者の皆さんはお気づきであろうか。西岡の文末と安田の文章。相談などしたわけではなかろうが、訴えようとしている内容が非常に似通っている。好意的に判断すれば、彼らの立場で李信恵を裁判闘争に向かわせることへの、呵責(かしゃく)を同じ立場の人が感じた、ただそれだけのことかもしれない(たぶんそうだろう)。

問題は、李信恵の裁判支援だけならば結構であった二人の類似性と行動が、「M君リンチ事件」に対する態度でも同様に表出したことだ。そして「ジャーナリスト」として一定以上の知名度のある安田と西岡の行動は、取り返しのつかない「深い沼」へと結果として李信恵を導いてしまう。 (つづく)

(鹿砦社特別取材班)

 

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