しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま

私たちは1970年に京都の大学に入りました。私は同志社大学、もうひとりの編著者・垣沼真一さんは京都大学—–もう50年近くも前の話です。昔話といえば昔話です。燎原の火の如く燃えた70年安保闘争、学園闘争の火は鎮火しつつあったとはいえ、まだくすぶっていた時期でした。特に京都では同大・京大を中心に意気軒昂でした。まだ沖縄が「返還」されていない時期で、沖縄(返還協定調印‐批准)─ 三里塚(成田空港反対闘争。第一次‐二次強制収用)─ 学費値上げ問題などが沸騰し、私たちも精一杯闘いました。

しかし、その後、叛乱の季節は収束し、連合赤軍の銃撃戦‐リンチ殺人、内ゲバなどで暗い時代に向かっていきます。私たちも、大学を離れ生活に追われ、背負った問題に呻吟しつつ生きてきました。そうして、齢を重ね60代後半に入りました。

このかん、私たちは、かつて背負った問題を整理し書き綴っていくことにしました。数年かけて書き綴りました。私たちなりの覚悟で<知られざる真実>も明かし、偽造された歴史に小さいながらも楔を打ったつもりです。

こうした私たちの意気込みに、尊敬する大先輩の矢谷暢一郎さん(元同志社大学学友会委員長、現ニューヨーク州立大学教授)が海の向うから玉稿を寄せてくれました。

A5判、2段組で300ページの堂々たる分厚い本になりました。ここには、私たちが若かった頃に培い、そして闘い、しかし挫折し背負ってきた<負債>が書き綴られています。どうかご一読され、時代は端境期、当時の<空気>を感じ取ってください。

本書第二章の「創作 夕陽の部隊」という短編小説で、私の当時の先輩のS・Kさんは、
「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だといったんだ、だってそうだろう、革命を戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」
と、当時の情況に対し本質を衝いた表現をしています。

60代も後半となり年老いた私たちは、気力、体力も衰え、再びこのような本を作ることはできないでしょう。私たちの最後の<政治的遺書>といってもいいくらいです。ぜひご購読お願いいたします。
  

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』※表紙画像をクリックすればAmazonに飛びます。

遙かなる一九七〇年代‐京都
学生運動解体期の物語と記憶

松岡利康/垣沼真一[編著]
A5判/300ページ/カバー装
定価:本体2800円+税  11月4日発売!
本書は、学生運動解体期の一九七〇年代前半を京都(同志社大学/京都大学)で過ごし
潰滅的に闘った者による渾身の〈政治的遺書〉である。
簒奪者らによる歴史の偽造に抗し、
学生運動解体期=一九七〇年代 ─ 京都の物語と記憶をよみがえらせ
〈知られざる真実〉を書き残す!
[構成]
[特別寄稿]『遙かなる一九七〇年代-京都』の出版にあたって
矢谷暢一郎
第一章 遙かなる一九七〇年代-京都
松岡利康
第二章 [創作]夕陽の部隊
橋田淳
第三章 われわれの内なる〈一九七〇年代〉 甲子園村だより
松岡利康
第四章 七〇年代初頭の京大学生運動--出来事と解釈
熊野寮に抱かれて 
垣沼真一

【おことわり】取次会社などに出荷し、手持ち在庫がなくなりましたので小社へのご注文はお受けできなくなりました。Amazonへご注文をお願いいたします。

ところで、本書は、11月12日(日)に行われる同志社大学学友会倶楽部主催・芝田勝茂さん講演会に間に合わせることを私なりの義務感として刊行を目指しました。もともと本書は数年前から準備してきましたが、芝田さんとの再会が俄然モチベーションをアップさせました。本書には、芝田さんとの学生時代の日々、そして以降40数年のお互いの苦闘が底流になっています。なぜか? その〝回答〟は本書を紐解いていただければ分かるでしょう。人間、こうした具体的な目標なくしては力が入らないようです。3年前の同倶楽部の講演会に上記の矢谷暢一郎さんをアメリカから招きましたが、ここでも何とか矢谷さんの著書の刊行を間に合わせました。本が完成し京都に届いたのは前日でした。

講演会の内容は別掲の通りです。入場は無料、参加者先着100名様に芝田さんの単行本未収録3篇を収めた小冊子を贈呈いたします。関西近郊の方はぜひご参集ください。

11月12日(日)芝田勝茂さん講演会(同志社大学学友会倶楽部主催)

芝田勝茂さん 略歴と著書


◎[参考動画]Rohingya’s Exodus: A special report on Myanmar(Sky News2017年9月13日公開)

10月3日AFP通信は以下のようにビルマにおけるロヒンギャへの国連の視察の様子を伝えた。

〈国連(UN)は2日、ミャンマー政府の招きでイスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)への迫害が問題となっている西部ラカイン(Rakhine)州を視察し、同州におけるロヒンギャの住民の被害は「想像を絶する」と指摘した。 

ラカイン州では8月末、ロヒンギャの武装集団が警察施設を襲撃したことを機に軍が軍事作戦を強化。約50万人ものロヒンギャの住民が隣国バングラデシュに逃れる事態となっている。国民の間で国連や国際NGOはロヒンギャ寄りだと反発が強まるなか、政府はこれまで州内への外国人の立ち入りを厳しく規制してきた。 

外交官や国際NGO職員らを対象に政府が実施した今回の視察ツアーは、国連とミャンマー政府との関係改善を示すものとなった。国連からも3人が参加した。

国連は声明で今回の視察を「前向きな一歩」と評価する一方、「より広範囲に人道支援を行き渡らせることが必要だ」と強調。「人的な被害の規模は想像を絶する」と述べ、「暴力の連鎖」を終わらせるよう求めている。〉(ロヒンギャの被害「想像絶する」 国連、ミャンマー政府の招きで視察)

ビルマの長年にわたる困難、民族問題が最悪に近い形で推移している。近代におけるビルマ政権の成立は、英国の植民地としてのビルマを第二次大戦中に日本軍の「南機関」によって軍事訓練を受けたアウンサン将軍らがバーモウを大統領に就任させ1943年「ビルマ国」の独立を宣言する。しかし「ビルマ国」は満州同様、完全に日本の傀儡政権であったため、日本の敗戦を機にクーデタにより崩壊。現在「ミャンマー」と称している「ビルマ」の建国は1948年とされている。

その建国の父、国民的英雄の娘にして1988年以来軍事政権の弾圧下に置かれていたアウンサンスーチーがビルマの実権を握ったのが2016年3月だった。前年に行われた民政移管後初の選挙でアウンサンスーチーが所属するNLD(国民民主連盟)は8割を超える議席を獲得し圧勝。軍政時代に改正された憲法による規定で大統領には就任できないとの規定から、アウンサンスーチーは「国家顧問」、「外相」、「大統領府大臣」を兼任し、大統領にはティンチョーが就任した。

◆ビルマ軍事政権の民政移管と中国の脅威

アウンサンスーチーの名は国際的に広く知られているが、ティンチョーと聞いて顔が思い浮かぶ読者はどのくらいいるだろうか。現在ビルマ政権は実質的にアウンサンスーチー政権で、ティンチョーは飾り物と言っても過言ではない。20年以上にわたり弾圧を受けてきたNLDであるが、その間に海外に亡命した支持者の間では政治方針をめぐりかなりの論争が巻き起こっていた。NLD海外支部が実質分裂した地域も少なくない。日本に滞在して穏やかに活動していたNLDのメンバーからも、当時深刻な路線問題を聞かされた。

軍事政権が民政移管を決断した理由はいくつもあるが、主として欧米諸国からの経済制裁により、経済の疲弊が著しかったことが挙げられる。1980-90年代には欧米を尻目に、軍事政権に対して突出した援助を行い、ビルマ人からは陰で「犬」と陰口をたたかれ、軽蔑されていた日本は、その後あっという間に中国にその位置をかっさらわれる。中国はビルマに急接近し、多大な経済援助と投資で影響力を高めていった。ビルマ軍事政権にとって中国の影響力の過大な膨張も脅威と受け取られるようになった。

◆軍事政権顔負けの少数民族弾圧を行うアウンサンスーチー

ともかく2016年からアウンサンスーチー民主政権に移行したはずであったが、軍事政権下時代にも顔負けの少数民族への弾圧をアウンサンスーチーは行っている。ビルマにとって民族問題は極めて深刻だ。ビルマ在住の民族は単純に数だけでも100とも130ともいわれる。カレン、シャン、ワ、コーカンなどとは近年も政府軍との武力衝突が起きている。そして仏教徒であるビルマ族によるイスラム教徒ロヒンギャへの襲撃はAFPが伝える通り、隣国バングラディシュに50万人の難民が逃げ出すまで、事態は深刻化している。

ロヒンギャが民族的な集団をさす呼称なのか、宗教文化的な集団を称するものなのかの議論があるが、この地域でロヒンギャ語を使い、イスラム教を信仰している人びとであることは間違いない。そしてロヒンギャと仏教徒衝突、弾圧の歴史は18世紀にまでさかのぼる。根深いと言えば根深い対立と差別に置かれたのがロヒンギャである。


◎[参考動画]Myanmar: Soldiers kill at least four in hunt for border attackers(Al Jazeera English2016年10月12日公開)

◆「人びとの夢」を実現する社会の答えがロヒンギャ「暴虐」だったのか?

100を超える民族が混在する国の行政運営が困難を極めるであろうことは、容易に想像できる。1990年代アウンサンスーチーが自宅軟禁状態で、国際社会から軍事政権に批判が集中していた1998年に私は自宅軟禁中のアウンサンスーチーにインタビューをした。あの時彼女は撮影用のビデオカメラを止め、インタビュー収録が終わったあと、雑談の中で「私の仕事は、人びとの夢を実現することです」とさわやかに語ってくれた。

「人びとの夢」の人びとはビルマ族だけに向けられていたのか? 20年間軍事政権の弾圧で苦しんだあなたの仲間には獄中死や銃殺された人が無数にいることを忘れたか? ユダヤ人のように第二次大戦中に受けた地獄をパレスチナで同様に展開する愚を平然と犯すのか?

アウンサンスーチー、軟禁解除後の初来日は日本財団の招きによるものだった。会場の一聴衆として彼女の話を聞くことは可能だったけれども、足が向かなかった。この来日では安倍晋三や多数の経済人と面談している。

私は過剰な指導力や幻想を抱いているのではない。あなたが主張していた「民族融和」といま行っていることは丸切り逆ではないのか。民族問題の全面解決などとの無茶を期待しはしない。にしてもロヒンギャへの「暴虐」はひどすぎないか。

気のせいだろうか、あなたの目つきは2015年からどんどん濁ってきているように見える。


◎[参考動画]Rohingya crisis, explained(India Today2017年9月13日公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号 望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

黄衣で後楽園ホールへ。異次元の雰囲気(1994年6月27日)

◆アナンさんに相談から!

前年の11月(1993年、藤川さんが再出家した翌月)、私がタイでお世話になっているゲオサムリットジムのアナン会長は、日本の興行に招聘観戦され来日、数日の滞在の後、私と京成線に乗って成田空港へ見送る電車の中で、「俺、タイで出家してみようかと思うんだけど、どう思う?」と相談したことがありました。

アナンさんは「オオ、それはぜひやった方がいい。タイでは社会人として凄く意義あることだ。スラータニーのいい寺紹介するぞ!」といきなりの乗り気。

「いやいや、アナンの家の近くのM&Kやってた藤川のオッサンがペッブリーで再出家したんだけど、そこに誘われているんで行き先は決まっているんだけど」と言うと「藤川ってあの飯屋の? わかった、必ず得度式には出るからその時は言ってくれ」。

応援してくれる仲間が居ることは心強いものでした。

中央線に乗る藤川さん(1994年6月27日)

◆撮る側が撮られる側へ

そして翌年(1994年)3月に寺を見た後の帰国後、もうひとり相談したい人がいました。仕事で知り合い、タイが好きなことから一緒にタイ料理を食べに東京近郊のタイ料理店を何店も回っていた仲であったボクシング雑誌、ワールドボクシングの春原俊樹記者でした。

5月頃、都内も飽きてちょっと郊外の西武新宿線・久米川駅近くにあるタイ料理店に行ったときのことでした。

「俺、タイで出家してみようと思うんですけど、どう思います?」と言うと、春原さんは急に目をランランと輝かせ、「ウン、それはいい、やってやって、俺が得度式の写真撮るから!」。

私は、「実はそれをお願いしようと思ってたところで、撮って貰えますか?他に頼める人はいなくて、撮影が出来る人は春原さんぐらいしかいないのです。」と言うともう乗り気満々。業界仲間で、ある程度タイを知り、撮るコツが分かる人はこの人しかいませんでした。

そこで春原さんは、「よし、それを本にしよう」と言いだし、「ちょっとやめてくれ」と思える早過ぎの展開。

「無理です。今まで何でも三日坊主だった俺で、寺に居るだけので平凡な日々になります」と言っても、「何とかなる、日々細かく日記付けるだけで話題は溜まるし、タイトルはよし、“タイで三日坊主!”にしよう。二日で終わっても三ヶ月続いても“三日坊主”でいい」。

さすが雑誌を作る側の物書きは発想の展開が早い。

私 「来月、先輩僧の藤川さんが日本に来るんですけど、お会いになられますか?」
春原さん 「もちろん会わせてくれ、これで決まりだな。俺はせっかく行くんだからタイの世界チャンピオン取材も兼ねるようにする」
私 「それで、静かに誰にも知られずに出家したいので、誰にも言わないで欲しいんですけど」
春原さん 「えっ、それは無理だな、タイで動くにはどうしても青島律(ムエタイ関係コーディネーター)さんに頼らなければならないし、勝手に別行動なんかしたら、“何か変だぞ”と思われるよ……」

ここは妥協するしかなく、まずは得度式のカメラマンの確保完了。春原さんは「仕事は月の上旬が忙しいからそれを避けてくれ」と言うことから、ほぼ10月下旬の出家を予定しました。

総武線で電車を待つ。駅でこんな姿を見たら、異様な雰囲気でも、タイ人が寄って来て、ひざまずいてワイをし、お布施をする(1994年6月27日)

◆望みどおりいかぬ極秘の出家

6月下旬、藤川さんが予想どおり、安さ優先で選んだバングラデッシュ航空の早朝着でやって来ました。その朝早くに成田空港まで迎えに行くと、藤川さんより年輩の町田さんという知り合いの方が、タイから別便で先に到着し、藤川さんを待っておられた様子。

「何だ、俺来なくてもいいんじゃねえの」と思いながら成田空港で“3人”で朝食を摂り、一緒に池袋までリムジンバスで移動。

そのバスの中で藤川さんが、先日、タムケーウ寺に藤川さんを訪ねて町田さんが3人連れでやってきたときのことを話し出しました。

「その一人は堀田さんも知ってる若い女性やが、誰やと思う?? 教えねーよ! ヘッヘッヘッヘ!!」

その女性は、「先日も堀田さんと会ったらしいけど、“出家することは何も言ってくれなかった”と怒ってたぞ!」と脅かす藤川さん。

「ワシが“堀田さんが出家するときは責任持って連絡するから”と言っておいたぞ!!」と全く余計なことを……。

藤川さんは調子に乗って「コラッ、女たらし、あまり罪を作るなよ、出家しても救われないぞ。ワッハッハッハ!」と高笑い。

「リムジンバスだぞ、静かにしろ!」とイラつく私。

この女性、そんな滅多に会わないタイでの狭いムエタイ業界日本人関連のカメラマンであり、青島律さんとも知り合いでした。また一人、日本人に知られてしまっていた……すでに数日前に!

池袋周辺散策後、私は午後から仕事もあるので、その後は町田さんにお任せしてお先に失礼しました。

町田さんと都内を歩く藤川さん。奇妙なものを見るかのような周囲の視線など気にしない黄衣の藤川さん(1994年6月24日)

◆修行の前哨戦

日を改めて3日後の朝、宿泊している巣鴨のアジア文化会館へ、コンビニで買った朝食用おにぎり、サンドイッチを持って藤川さんを訪ねました。タイのテーラワーダ仏教の比丘が、一般のホテルに泊まることは戒律上難しいところがあります。止むを得ない場合は仕方ありませんが、極力質素な宿を選ばなくてはいけません。そんな条件で選んだのが、泰日経済技術振興協会関連のアジア文化会館ドーミトリーだったようです。

「お前の知り合いでタイ関係やタイに関心がある者に会わせてくれ、これからムエタイ修行に向かう選手でもいい」これが藤川さんの手紙で要求されていたお願い。
私は「立嶋篤史に会いに行きますか?」と言うと、藤川さんは、「おう、そうやそうや、そうしよう。もう一遍会ってみたかったんや」で決定。

その前に行っておきましょう、後楽園ホールへ。平日の昼だったので、何も催し物はありません。後楽園ホール5階は事務所は開いていますが、この階の他のフロアーは誰もいませんでした。

事務員を見つけたとことで「ちょっとホールを覗かせてくれませんか。こちらタイのお坊さんなのですが、おそらくもう二度と来れないのでちょっとだけ見てすぐ帰りますから。」と言うと、「真っ暗だけどいい?」覗くだけならと了解してくださり、入り口のロビー正面の右側客席階段を上がったところで会場内を見渡しました。リングは設置してあり、廊下側の蛍光灯照明が入り込むので、会場内は見渡せました。

「あの赤コーナーが立嶋が立つ位置ですよ」と言うと藤川さんは、「そうか、篤史もこんなところでドツキ合いしとるんか…!」その場に立っていたのは、ほんの1分ほど。迷惑にならぬよう早々に後楽園ホール事務所で御礼を言って後にしました。いろいろな因果応報が始まったこの聖地に、藤川さんも立ってみて欲しかっただけの私のわがままでした。

夕方にかけ京成八千代台駅から徒歩10分(当時)の習志野ジムへ向かいました。「ここでアナンさんに会わなければ藤川さんとも会うこと無かったろうになあ」と思いながら、並んで歩く藤川さんが鬱陶しくも思えた遠い道程。

これからアッシーと会い、もうしばらく鬱陶しいこのオッサンと東京近郊を歩くことになります。お願い参りはなかなか面倒な修行の前哨戦。すべて藤川さんの思惑どおり、カモとなっている私でした。

後楽園ホール。藤川さんが立った位置(撮影は2017年9月24日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

「どんな技でも、どんな相手でも倒せる試合を見せる」と宣言する江幡塁。いつもアグレッシブな展開を見せる江幡ツインズは、パンチや蹴りが強いだけでなく、ブロックし難いタイミングで打つフェイントとスピードが勝機に結び付けています。

江幡塁vsペットサミン(3R)。江幡塁の強い左ハイキックが炸裂

江幡塁vsペットサミン(5R)。ブロックし難いスピードとタイミングで江幡塁の右ハイキックが炸裂

ペットサミンは強打者という情報で、初回から打ち合いにくる可能性があったところ、互いが警戒し、すぐのパンチの距離にはならなかった両者。ローキック、ハイキック、左フックを時折強く繰り出す江幡塁、これらがどんな技でも倒せるという技のひとつであり、あとはタイミング次第で倒せそうな威力は充分。4ラウンドに入ってペットサミンが左ストレートで前進、被弾した江幡塁はやや後退はあったものの立て直しは速く、ラストラウンドはハイキックできたペットサミンをかわして左フックのフルスイングがクリーンヒットしてペットサミンを沈め、ほぼノーカウントでレフェリーがストップするノックアウトでWKBA世界スーパーバンタム級王座2度目の防衛成功。

江幡塁vsペットサミン(5R)。KOとなった江幡塁の強烈な左フック

江幡塁vsペットサミン(5R)。KOの左フックをフルスイング

石原將伍vs高橋亨汰戦は、序盤で高橋の前蹴りが石原のアゴを捉え仰け反らせる攻勢はあったが、しだいに石原のパンチの攻勢が強まる。第2ラウンド終了に近づく中、石原の右ストレートがクリーンヒットし、高橋がダウン。第3ラウンドに入っても石原の攻勢が続き、パンチで3度のダウンを奪ってKO勝利。石原將伍は第10代日本フェザー級チャンピオンとなる。

高橋亨汰vs石原將伍(3R)。2度目のダウンに繋がった石原將伍の右ストレート

緑川創vsポーンパノム戦は、緑川がローキック主体に出方を窺い、徐々に圧力を強める。ボディブローも強烈にローキックも続け、第3ラウンドには一発蹴った右ローキックでポーンパノムは崩れ苦痛の表情で立ち上がれず。緑川は8月の「KNOCK OUT」興行での宮越宗一郎(拳粋会)に判定で敗れて以来の再起戦を勝利で飾る。

緑川創vsポーンパノム。緑川創の重い左ボディブローがヒット

重森陽太vs森下翔陸戦は、第1ラウンドに重森が左ミドルキックでボディに炸裂させ、ダウンを奪う。重森は、しなる蹴りがいつもより少ない印象。決定打が欠いたまま判定へもつれ込むも2点差を開く安定勝利。

森下翔陸vs重森陽太。重森のしなるハイキックが脅威となる

HIROYUKIvs地花デビッド戦は、中盤までHIROYUKIが蹴り中心に主導権を握った展開から第4ラウンドに知花がボディブローでHIROYUKIからダウンを奪う。続行後も立て直せず劣勢の中、左ヒジ打ちを貰ってダウン。立ち上がるも10カウントを許してしまう。たまにやってしまうHIROYUKIの失態、今後に課題が残る一戦。

HIROYUKIにボディブローでダウンを奪った知花デビッド

喜多村誠vsペッダム戦は、喜多村の蹴りのスピードが優り、第3ラウンドに左右フックからアッパーが強烈に入ったあとの追撃連打でペッダムを倒す。

ペッダムvs喜多村誠。重量級パワーで圧勝した喜多村誠のハイキック

内田雅之vs春樹戦は、春樹が2.37kgオーバーで2点減点の制裁を受ける。しかし試合は第1ラウンド途中に偶然のバッティングで内田が試合続行不可能となり、負傷判定が採用され、互角の展開ながら春樹の減点があり、ジャッジ三者とも10-8で内田雅之の負傷判定勝利となる。

泰史vsスターボーン戦は、先月に続き、泰史が積極果敢に攻める攻勢で左ボディブローで仕留める圧勝。日本フライ級王座奪還目指し、ひたすら攻め続ける勢いが好印象を持たれます。

◎MAGNUM.45 / 2017年10月22日(日)後楽園ホール17:00~20:55
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

高橋亨汰vs石原將伍(2R)。最初のダウンを奪った石原將伍の右ストレート

石原將伍の表彰時、八木沼会長も涙を見せた。

◆メインイベント WKBA世界スーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.江幡塁(伊原/55.34kg)
VS
挑戦者5位.ペットサミン・サックピンヨー(タイ/54.6kg)
勝者:江幡塁 / TKO 5R 0:47 / 主審:仲俊光

◆日本フェザー級王座決定戦 5回戦

1位.石原將伍(ビクトリー/57.15kg)vs2位.高橋亨汰(伊原/57.15kg)
勝者:石原將伍 / KO 3R 2:59 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

ポーンパノムvs緑川創。緑川の右ストレートがヒット

ポーンパノムvs緑川創。フィニッシュとなった右ローキック、ダメージがあった上での決定打となりました

ポーンパノムvs緑川創。崩れ落ちたポーンパノム苦痛に歪む表情

◆70.0kg契約 5回戦

緑川創(前・日本ウェルター級C/藤本/70.0kg)
      VS
ポーンパノム・ペットプームムエタイ(タイ/69.1kg)
勝者:緑川創 / KO 3R 1:29 / 10カウント / 主審:桜井一秀

◆59.0kg契約3回戦

重森陽太(前・日本フェザー級C/伊原稲城/58.8kg)
VS
森下翔陸(TOP RUN-55kg級C/CRAZY WOLF/58.0kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0 / 主審:宮沢誠
副審:椎名30-28. 仲30-27. 桜井29-27

◆55.0kg契約 5回戦

日本バンタム級チャンピオン.HIROYUKI(=茂木宏幸/藤本/55.0kg)
       VS
WMC日本バンタム級チャンピオン.知花デビット(エイワスポーツ/54.9kg)
勝者:知花デビット / KO 4R 3:00 / 10カウント / 主審:椎名利一

◆70.0kg契約3回戦

喜多村誠(前・日本ミドル級C/伊原新潟/69.6kg)
      VS
ペッダム・トー・パラーン32(タイ/67.7kg)
勝者:喜多村誠 / KO 3R 1:31 / カウント中のタオル投入による棄権
主審:桜井一秀

◆ライト級3回戦

内田雅之(元・日本フェザー級C/藤本/60.9kg)
    VS
日本ライト級3位.春樹(横須賀太賀/63.8→63.6kg=減点2)

勝者:内田雅之/ 負傷判定3-0 / TD 1R 1:35 / 偶然のバッティングによる内田の負傷/
主審:宮沢誠
副審:椎名、桜井、仲、三者とも10-8

◆51.5kg契約3回戦

泰史(前・日本フライ級C/伊原/51.5kg)
     VS
スターボーン・トー・シリトゥーム(タイ/51.15kg)
勝者:泰史 / KO 1R 1:03 / 10カウント / 主審:仲俊光

他、前座4試合は割愛します。

《取材戦記》

内田雅之vs春樹戦は、試合が前半を超えない第1ラウンド途中での負傷ストップ。プロボクシングでは“負傷引分け”となりますが、キックボクシングでは曖昧な裁定が多く、安易に無効試合になるよりはいい裁定となりました。内田は勝者コールは受けざるを得ないですが、納得いかない結末に早々にリングを降りて行きました。

HIROYUKIは好不調の並が大きく、今回はバンタム級超えの契約ウェイトで収まっており、王座剥奪はありませんが、ボディブローで崩れ落ちるのは残念な姿でした。逆に知花デビッドの強さが光った一戦となりました。

江幡塁はこの日の防衛戦をKOで2度目の防衛成功。12月10日の「KNOCK OUT」出場へ繋ぎ、新日本キックからは、勝次(藤本)と重森陽太(伊原稲城)とともに出場。江幡塁は宮元啓介(橋本)と対戦となり、日本国内に於いての本当の立ち位置が見えてくる試合となり、ファンの期待と評価は高まります。

今日の喜多村誠も勝利後、12月10日はまず藤本ジム興行出場希望をアピールしつつ、「KNOCK OUT」出場を意識する発言、「行く行くは自分も出たいと思っています」ともマイクアピールしています。

石原將伍が新チャンピオン誕生となり、新たなエース格スター候補生誕生。今後も「KNOCK OUT」イベント等に出場の機会が増えれば期待の戦力となります。

「KNOCK OUT」出場のいずれの選手も勝利を掴んで、新日本キックの王道をアピールしたいところでしょう。選手個人の目標は違うところにあるかもしれませんが、貴重な経験を経てホームリングに戻って来て欲しいところです。

新日本キックボクシング協会興行は、11月19日(日)にディファ有明に於いて、「Kick Insist.7」が開催、12月10日(日)に後楽園ホールに於いて、「SOUL IN THE RING.15」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

〈私の人生は、一言でいって、幸せでした。さいたまにいた10年間を省けば、私はいつも色々な方から優しくされ、助けられて生きてきました。そして、さいたまにいた10年間も、人生に後悔や未練を残さない為に、やりたい事を好きなだけ、やってきたので、大変満足しています〉

これは、2008年に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人・小泉毅(54。現在は死刑囚として東京拘置所に収容中)が獄中で綴った計39枚に及ぶ手記の一節だ。これを書いた頃、小泉は裁判中だったが、1、2審共に死刑判決を受けており、そのまま死刑確定するのが確実な状況だった。そんな時期、小泉はなぜ、自分の人生が幸せだったと振り返ったのか。

犯行に及んだ経緯やその時々の考えが詳細に綴られた小泉の獄中手記

それをみる前に、まずは事件の経緯を簡単に振り返っておこう。

◆ 動機は「保健所で殺処分になった愛犬チロの仇討ち」

小泉が旧厚生省の事務次官宅を相次いで襲撃する事件を起こしたのは2008年11月のことだ。まずは17日夜、さいたま市南区の山口剛志さん(当時66)宅に押し入り、山口さんと妻の美和子さん(同61)を包丁で刺殺。続いて翌18日夜、東京都中野区の吉原健二さん(同76)宅に押し入り、1人で自宅にいた吉原さんの妻、靖子さん(同72)の胸などを包丁で刺して重傷を負わせた。

そんな事件は当初、年金制度に不満を持つ人物らによる「テロ」とみられたが、同22日に警視庁本庁に出頭して自首した小泉が明かした犯行動機は誰も予想できないものだった。

「チロちゃんの仇討ちをしたのです」

小泉によると、34年前、自宅で飼っていたチロという犬が野犬と間違われて保健所に連れていかれ、殺処分になったという。小泉はその恨みを晴らすため、犬の殺処分に関して定めた狂犬病予防法を管轄する厚生労働省の元トップを襲撃した――とのことだった。

そんな前代未聞の自白をめぐり、マスコミは当時、「本当にそんな理由で人の命を奪ったのか」と一斉に疑問を投げかけた。インターネット上では、小泉のことを頭のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ。

私はそんな小泉の実像が知りたく、裁判が上告審段階になった頃から東京拘置所に収容中の小泉と面会や手紙のやりとりを重ねた。そうした取材を通じ、小泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるものの、むしろ知的能力は高い人物だと思うようになっていった。

◆ 「仇討ち」に至る経緯と自首の理由

小泉は62年、山口県の柳井市で生まれた。愛犬チロが保健所で殺処分になる悲劇に見舞われたのは、中学入学直前の1974年春のことだった。その後、くしくも保健所の向かいにある県立柳井高校に進学したことが小泉の運命を大きく変えたようだ。

「高校時代の私は毎日、登下校の際に保険所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです。当初、仇討ちの相手と考えたのは政治家でしたが、大学入学後、日本の支配者が政治家ではなく官僚だと知りました。そして50歳まで普通に生き、人生にやり残したことがない状態にしたうえで、厚生事務次官経験者を狙った仇討ちを決行すると決めたのです」

実際に小泉が「仇討ち」を決行したのは46歳の時だ。小泉は当時、勤めていたコンピューター会社を辞め、ネットで株投資をして暮らしていた。計画を前倒ししたきっかけは05年12月、タクシーに接触された事故で左ヒザと右アキレス腱を負傷したことだという。

「私はこのケガにより体力に自信をなくし、『50歳になるまで待てない』と思い、仇討ちの時期を早めたのです」

そして小泉は国立国会図書館で歴代厚生事務次官たちの住所を調べ、その中から「住んでいたアパートから近い」などの理由で選んだ2人の家を襲撃した――。

では、なぜ、小泉は犯行後、自首したのか。小泉は理由をこう語った。

「私はチロちゃんの仇討ちは果たしました。次は裁判で無罪を主張することにより、保健所で苦しみながら殺された何百万、何千万の犬や猫の代弁者となり、“ペット虐殺行政”を批判しようと考えたのです」

小泉は裁判で「私が殺したのは、人間ではなくマモノとザコです」と主張し、無罪判決を求めているが、その狙いは“ペット虐殺行政”を批判することだったのだ。

と言われても、おそらくピンとこない人が少なくないだろう。しかし実をいうと、全国の動物愛護家の中には、この小泉の考えに共感した者が少なくなかったのである。

小泉が憎しみを募らせた柳井市の保健所

支援者たちは署名サイトでも小泉の減刑を求める署名を集めた

◆「小泉さんは革命者」

マスコミは黙殺したが、最高裁の判決が迫った頃、小泉を支援する動物愛護家たちが小泉の減刑を求める署名活動を行っており、集まった署名は1500筆を超えていた。14年6月、最高裁が小泉の上告を棄却し、死刑を事実上確定させた公判にも10人前後の支援者たちが傍聴に来ていたが、誰もが裁判の結果を心底悔しがっていた。

ある女性支援者は涙をポロポロこぼしながら、こう語っていた。

「小泉さんは革命者だと思います。将来、日本にも海外にあるような本格的なペットシェルター(飼い主に捨てられた動物を保護し、新たな飼い主を見つけるための施設)ができたら、私は“コイズミ館”と名づけたいと思います」

小泉はこのように多くの人に愛された。それゆえに、手記で自分の人生を「幸せ」だったと綴ったのだ。

死刑確定後、東京拘置所は小泉の処遇を変え、私は小泉と面会や手紙のやりとりができなくなった。だが、小泉は今も幸せな気持ちで過ごしていると思う。


◎[参考動画]元厚生事務次官ら連続殺傷事件 「ほかにも殺害計画していた」(TOKYO MX 2008年11月24日公開)


◎[参考動画]1990年11月23日にテレビ朝日が報じた元厚生事務次官宅連続襲撃事件(AutumnSnakeArchive2009年2月16日公開)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

曽我逸郎氏のHPより

曽我逸郎氏のHPより

前回取り上げた長野5区曽我逸郎(そが いつろう)候補が残念ながら落選した。当選したのは自民党の宮下一郎氏(91,542票)で、2014年前回の衆議院選挙(91,089票)より得票を少し増やした。曽我逸郎氏は宮下氏に次ぐ2番目で、48,588票を獲得した。宮下氏の得票と比較するとやや開きがあるが、希望の党から立候補した中嶋康介氏が前回の衆議院選挙(46,595票)よりやや減の得票を今回獲得(43,425票)したのに対し、曽我氏はそれを上回る得票を獲得した。

中島氏が前回と比較してやや得票を落としたのは、前回まで連合長野のもとで中島氏を支援していた自治労長野が曽我氏を独自に支援していたことが原因の一つと考えられる。自治労長野が連合長野とは違う候補を支援したのは長野県内ではこの5区だけで異例だった。曽我氏は前回共産党推薦で立候補した水野力夫氏が獲得した28,947票に約2万票上積みしたが、及ばなかった。

◆小選挙区制下の一本化をめぐる苦悩

今回の長野5区は死票率が50%を超えた。相変わらず小選挙区制の酷薄さを感じさせる結果だ。曽我氏の支援者によると、「曽我さんも、中島さんが希望の党ではなく立憲民主党や無所属で出馬していたら、今回の出馬はなかったのではないか」とのことだった。他の支援者は中島氏のマニフェストと希望の党との政策のかい離を指摘していた。

曽我氏のスローガンは「安倍政権、小池新党に立ちはだかる」であり、選挙後に出した曽我氏のコメント「今回の選挙を総括すれば、小池百合子氏にかき回されてしまいました。改憲勢力に対抗する一枚岩をつくり上げることができなかったのは、大変残念です。安倍首相と小池氏とは同類であり、そのどちらの陣営にも伊那谷から一議席を与えてはならなかったのに」(公式サイトより引用)とあるのを読む限り、他の候補者が安倍・小池と距離を置いていれば曽我氏は出馬していなかった可能性は高い。

曽我逸郎氏のHPより

曽我逸郎氏のツイッターより

中島氏は希望の党から立候補していたが、集団的自衛権の閣議決定撤回(公式サイトより)を掲げるなど、希望の党のスタンスより左寄りの立場をとっていたので、選挙区での争点がやや不明瞭となった。中島氏は民主・民進党時代に中川村村長選挙で曽我氏や曽我氏の後継候補(現職:宮下健彦氏)を応援していたこともあり、曽我氏も中島氏も互いに悔いの残る結果となったのではないだろうか。

曽我氏の前述のコメントはこういった背景があってのことだろう。もちろん立候補して主張を訴えることは民主主義社会で正当な行為であり、一本化自体が本来邪道であると筆者は考えている。死票を制度上大量に生み出す小選挙区制自体が不本意ながらの一本化を推進しやすい。このような選挙制度は早急に改革されるべきだ。

◆長野県内 自民・希望両党に逆風

長野1区の民進党前職篠原孝が希望の党の公認を蹴り無所属で立候補して圧勝し、2区では希望の党の下条みつ氏が自民党前職務台俊介(長靴事件で内閣府大臣政務官を辞任)相手に辛うじて勝利した。10月23日放送の地元テレビ局の報道によると下条みつ氏はもともと改憲反対を訴えており、社民・共産支持層が一本化する予定だった。しかし、下条氏が希望の党から立候補したため一本化はご破算となった。下条氏が選挙戦の中、党と自身のマニフェストとかい離があるのに、なぜ希望の党にはいったのかを直接説明する一幕もあった。長野県内では中島氏に限らず、希望の党にたいしてかなり風当りが強かったと言っていい。

◆立憲民主党への警戒

以上、希望の党が長野県内で一様に伸び悩んだことに言及してきたが、一方全国的に大躍進した立憲民主党にも不安がある。ジャーナリストの寺澤有氏に枝野氏の原発事故時の発言を受けて“新党「直ちに影響はない」”と揶揄された(原発事故避難者が枝野氏や福山哲郎氏らに向ける不信感を思えば当然である)立憲民主党だが、野党第1党になったのでその影響力は無視できないものとなった。

立憲民主党のホームページをみると「北朝鮮の核実験・弾道ミサイル発射は極めて深刻な脅威であり、断じて容認できない。北朝鮮を対話のテーブルにつかせるため、国際社会と連携し、北朝鮮への圧力を強める。平和的解決に向け、外交力によって北朝鮮の核・ミサイル放棄を訴え、最後の一人まで拉致問題の解決に取り組む」とあり、自民党と全く方針が変わらないものもある。その点、Twitterや候補者アンケートで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の意図を理解し、圧力強化へ同意しなかった曽我氏のほうが筆者としてはまだ筋が通っていると思う。

さらに危険だと思うのが枝野氏の持論だ。「日本近海の公海上で、日本を守るために展開している米海軍が攻撃された時に助けに行けるのかについて、他国の軍隊が公海上で攻撃されたという面で捉えれば、行使が認められていない集団的自衛権のように見えます。でも、わが国を防衛するために展開している艦船だという点に着目すれば、日米安保条約に基づいて自衛隊と同じ任務を負っているのだから、個別的自衛権として行使することができます」と通販生活の記事で述べているが、ここでは個別的自衛権と集団的自衛権の境が限りなく曖昧になっている。

『私にも話させて』ブログを運営している金光翔氏が以下のように過不足なく適切に要約している。

有田芳生議員のツイッターより

「安倍政権が個別的自衛権では不可能として、集団的自衛権の行使を可能にして対処した案件に関して、枝野は個別的自衛権で対処可能、と強弁しているだけの話としかいいようがない。枝野の個別的自衛権解釈(およびその帰結としての憲法解釈)は、安倍政権の解釈論よりもはるかに強引かつ説得力のないものであって、これこそが立憲主義の破壊であろう」(2017年10月19日、メモ59より引用)

同感だ。立憲民主党が大政翼賛会化し、自壊する日もそう遠くないように思われる。

◆追記:有田芳生参議院議員の曽我氏への言及

支持する・しない、好き・嫌いは自由に発言されてもかまわないし、仕事柄むしろ積極的になされるべきだが、「国会でお会いしましょう」と言う前に、とりあえず鹿砦社特別取材班の取材に答えていただきたいと思う。説明責任を果たさないまま応援されると「逆宣伝」になりかねない。応援は本来自由にやればいいので、自分でも理不尽なことを言っている自覚はあったが、選挙期間中強くそう思った。

◎[関連記事]長野5区、曽我逸郎候補(電通出身・前中川村長)のまっとうな戦争・原発・沖縄観(2017年10月20日)

◎曽我逸郎氏公式サイト http://itsuro-soga.com/

▼山田次郎(やまだ・じろう)
大学卒業後、甲信越地方の中規模都市に居住。ミサイルより熊を恐れる派遣労働者

『NO NUKES voice』13号 望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

2009年に始まった裁判員裁判では、すでに30件を超す死刑判決が宣告されている。その中でも異様さが際立っていたのが、2011年に東京地裁であった裁判員裁判で無実を主張しながら完全黙秘した伊能和夫だ。伊能は2013年に東京高裁の控訴審で無期懲役に減刑され、2015年に最高裁で無期懲役が確定したが、控訴審以降も公判では一言も言葉を発さなかった。

しかし、私が裁判中に面会に訪ねたところ、実際の伊能はむしろ冗舌な男だった──。

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

◆無実の主張は本気?

事件の経緯から振り返っておく。

東京・南青山にあるマンションの1室で、住人の飲食店経営者の男性(同74)が首を刃物で切られ、死んでいるのが見つかったのは2009年11月のある日のことだった。そして翌年1月、警視庁が強盗殺人の容疑で検挙したのが当時59歳の伊能だった。伊能は88年に妻(同36)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

伊能はその後、裁判員裁判で無実を主張しながら死刑判決を受け、控訴審で無期懲役に減刑されたが、公判では一言も言葉を発せず、完全黙秘したというのはすでに述べた通りだ。私がそんな伊能の実像を知りたく、収容先の東京拘置所まで最初に面会に訪ねたのは、伊能が最高裁に上告していた2014年3月のことだった。

伊能はその日、紺色のスウェット上下という姿で面会室に現れた。白い頭髪を短く刈った小柄な人物だった。

お互い椅子に腰かけ、アクリル板越しに向かい合っても、伊能は宙を見たまま視線が定まらず、体をプルプルと震わせていた。顔はやせ、歯が何本も欠けており、眉毛も多くが抜け落ちていた。

「パーキンソン病なんです……」と伊能は言った。面会室での伊能はつぶやくような話し方をするため、声は聞き取りづらいが、その口からは言葉が次々に出てきた。

まず、単刀直入に裁判中の事件の犯人なのか否かを質問したところ、伊能は「全部やってないですから……自分は無罪ですから……」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです……」

「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています……」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いてます……」

私は正直、伊能の無罪主張や裁判批判はピンとこなかった。裁判では、現場マンションの被害者宅室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思いがたかったからだ。

ただ、伊能本人は本気で自分を無実だと思っているようにも感じられた。そこで、まずは手紙で事件の真相を教えてもらえないかと依頼すると、伊能は「1日に1枚か、2枚かなら・・・」と承諾してくれた。これをうけ、私が「では、便せんと封筒を差し入れておきます」と言うと、伊能はこんなことを言ってきたのだった。

「ついでに甘い物を・・・あと、お金も少し・・・今、3千円しかないんで・・・」

正直、金銭の要求に心の中がモヤッとしたが、私は面会を終えると、拘置所1階の売店から伊能に便せん、封筒と共にみかんの缶詰や現金2千円を差し入れた。しかしその後、待てど暮らせど、伊能から届くはずの手紙は届かなかった。

伊能が収容されていた東京拘置所

◆証拠は「全部偽物」

約7カ月後、私は再び伊能の面会に訪ねた。伊能はこの日、刑務官が押す車椅子で面会室に現れた。「体調が悪いんですか?」と聞くと、目は宙を見つめたままだが、「大丈夫。薬、もらってるから」と口元をほころばせた。この日は事件に関する疑問も率直にぶつけたが、伊能はよどみなく答えた。

── 裁判はその後どうですか?

「1審も2審も何もしゃべらんかったから、今は色々書いてます。何もかもが偽物の証拠やから」

── 伊能さんの靴に被害者の血がついていたそうですが?

「あんなのは偽物の証拠ですわ」

── 伊能さんの掌紋が現場で見つかったという話は?

「全部偽物の証拠ですわ」

── 現場近くの防犯カメラには伊能さんの姿が映っていたそうですが……。

「あんなのは全部人間が違うんです。1メートル80センチくらいあったり、1メートル50センチや60センチだったりするんですから」

── 事件直前に伊能さんが包丁を買っていたという話もありますが?

「買うわけない」

つまり伊能によると、有罪証拠は何もかもが捜査当局の捏造だというわけだ。「では、裁判で黙秘した理由は?」と尋ねると、伊能は「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言い切った。本気で自分を無実と思っているのか否かは今も断定しづらいが、罪悪感を覚えていないのは確かだと思えた。

そして面会時間が終了し、私が辞去しようとした時、伊能はこう言ってきた。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か」

さらに「大福餅があったら入れて」と付け加えられ、私はまた心の中がモヤッとしたが、ともかく現金1千円と大福餅、チョコパイを差し入れた。ただ、この日以来、伊能の面会に訪ねる意欲を失った。

◆初めて届いた手紙で「金一ぷう」を催促

伊能から初めて手紙が届いたのは約3カ月後、最高裁が控訴審の無期懲役判決を追認する決定をした今年2月のことだ。それには、再審請求をする意向や、息子や親戚たちが自分の味方になってくれているという真偽不明の話が綴られたうえで「案の定」なことが書かれていた。

〈金一ぷうを、ごかんぱしてください。たとえ1万円でも2万円でも、よろしいのですので。〉(原文ママ。以下同じ)

現金の差し入れを求めてきた伊能の手紙 (修正は筆者)

この図々しさにはあきれたが、手紙の末尾には〈親愛なる片岡様、ごかぞくの、お幸せと、ごけんこうを、心から、お祈りいたします。〉〈近々には、かならずや、片岡様との、ご面会が、ととのうよう心から、お待しております〉などと嘘くさいことが恥ずかしげもなく綴られており、苦笑させられた。殺人犯にこんなことを言うのは気が引けるが、愛嬌のある人物ではあった。

この時も現金1000円を同封し、「服役先が決まったら連絡して欲しい」と書いた手紙を伊能に送ったが、当然のごとく現在まで返事は届かない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

11月16日に対野間易通控訴審判決が言い渡されるM君が、大阪司法記者クラブに記者会見を申し込んだが、会見実施を断られた。M君が記者会見を断られたのはこれが4回目だ。どうもおかしい。詳細な成り行きを見てみよう。

M君が野間易通にツイッター上で、本人が望まない姓名や所属大学の名前をさらされた上に、数々の誹謗中傷を受けた被害を大阪地裁に提訴した裁判は野間に罰金11万円の支払いを命じる判決が下された(5月26日)。

しかし賠償金額の少なさもさることながら、判決文にはM君の受けた被害が妥当評価されておらず納得のいかない点も少なからずあったことから、M君は大阪高裁に控訴した(6月8日)。その高裁判決は11月16日に言い渡される。

そして、偶然にもその日は李信恵が保守速報を訴えた訴訟の判決が言い渡される日でもある。同じ日同じ裁判所の中で、地裁、高裁の違いはあれどM君対野間の判決と李信恵対保守速報の判決が交錯するのだ。

野間は10月18日の朝日新聞や産経新聞でもコメントが掲載されるなど、相変わらず大手メディアにも登場が続いているが、M君事件で敗訴したことへの言及は一切ない。真逆に「M君リンチ事件」やM君の対野間裁判勝訴は鹿砦社以外にはごくわずかな例外(「救援」8月10日号紙上における前田朗氏の「反差別運動における暴力」など)のほかには報じる媒体がない。

極めて不思議な現象ではないか。何か「深い闇」があるのか、誰かが操作しているのか、それとも報道関係者は「M君リンチ事件」をまだ知らないのか。

取材班は1年以上この疑問に長らく直面していたが、過日その実態の一端を明かすことになる出来事が起きた。M君は10月18日に、対野間裁判高裁判決(11月16日)後の記者会見を大阪司法記者クラブに申し込んだ。記者クラブは持ち回りで幹事社が入れ替わる。10月18日の幹事社は共同通信で同社の楡金(にれがね)記者が申し込みに応じている。M君は楡金記者に以下のように記者会見を申し込んでいる。

楡金 共同通信の楡金(にれがね)と申します。
M  お世話になります。Mと申します。記者会見の申し込みをしたいのです。
楡金 どういった内容でしょうか。
M  名誉毀損の裁判の高裁判決です。
楡金 どういった内容の名誉毀損でしょうか。
M  ネット上の誹謗中傷です。
楡金 一審判決はどこかに報道されたり?
M  それはありません。
楡金 そうなんですね。ちなみにどなたに誹謗中傷されたのでしょうか?
M  野間易通という方です。きょうの朝日新聞にこの人のインタビューが載っています。
楡金 そうなんですね。一審の結果はどうだったんでしょうか?
M  私の勝訴でしたが、どちらの主張も聞いていない内容でしたので控訴しました。
楡金 主文はどういった内容だったんですか?
M  11万円の賠償命令です。
楡金 もともとの請求額は?
M  220万円です。
楡金 Mさんご自身はどういったご職業の方でしょうか?
M  大学院生です。
楡金 わかりました。大阪府内?
M  いえ○○大学です。
楡金 ○○大学の大学院生でおいくつでいらっしゃいますか?
M  ○○歳です。
楡金 野間易通さんとはどういった関係だったんですか?
M  私も野間氏もヘイトスピーチに対する抗議運動をしていました。その内部で暴力事件があったという話はお聞きになったことありますね。
楡金 あーはいはい。李信恵さんもかかわっていたやつですか?
M  そうです。その被害者が私です。その事実を昨年私は公表しました。最初は「週刊実話」という雑誌が報じました。そうしたらどういう経緯かわかりませんけど、その日のうち「週刊実話」はネットに訂正記事を出しました。それでは私は困りますから、事実ではないわけですから。それで李信恵さんの謝罪文を公表しました。そうしたら野間さんらが私の実名を出してネットで誹謗中傷をしたのです。
楡金 ネットというのはツイッターかなにか?
M  主にツイッターですね。
楡金 ツイッターですね。承知しました。それではこれから各社にお受けできるかどうか聞いてみますので。
M  ちなみに判決の日は11月16日13時15分です。
楡金 わかりました。判決後に記者会見したいと。
M  そうです。付け加えておきますと、同じ日に李信恵さんが保守速報を訴えていますね。その判決と同日です。
楡金 わかりました。各社に諮ってみまして、場合によっては判決だけ頂いて、囲むって言うことになるかもしれないんですけれども、また結果をお伝えいたしますので連絡先をお願いいたします。
M  はい(電話番号を伝える)
楡金 わかりました。ありがとうございました。ではまたご連絡いたします。
M  ありがとうございます。

午前中に記者会見を申し込んだM君へ午後楡金記者から連絡が入る。

楡金 Mさんでいらっしゃいますか。午前中にご連絡いただきましてありがとうございました。各社に諮ってみたんですけれどもちょっと他の予定との兼ね合いとかもありまして。
M  他の予定とはなんでしょうか。
楡金 各社のあのーそれぞれの判断なので。ごめんなさいそこまで全部把握していないんですけれども。えーっと記者会見として開くっていうのは、ごめんなさいお断りさせていただくんですが。
M  その理由はなんですか。
楡金 各社にご連絡しまして、どうしても記者会見をしたいという判断にはならなかったっていう。
M  だからそれはなぜなのかとお聞きしているのです。
楡金 なぜなのか。そうですね、要望がなかったという以上の理由はないんですが。
M  要望がなかったというのは「小さい事件だから黙っていろ」ということですか。
楡金 そんなことはないんですけれども。
M  ではどういうことですか。
楡金 それぞれの、あのー社さんのご判断ですので。
M  なるほど。その日李信恵さんも判決ですよね。記者会見されるんじゃないですか?
楡金 いや、とくに今のところご連絡は頂いていないんですよ。
M  そうですか。まだ時間がありますからね。
楡金 あーまーそうですね。
M  どちらにしても、記者会見されるのかどうか、直接私は確認しに行きますので。
楡金 あ、わかりました。承知しました。はい、はい。そういうことで当日法廷に行って中には傍聴する記者もいるかもわかりませんが。
M  はい。高裁の84号法廷です。
楡金 もしかしたら判決言い渡し後にお話を聞く記者がいるかもしれませんがよろしくお願いいたします。
M  はいわかりました。
楡金 すみません。ありがとうございました。
M  はい。

午前中には「場合によっては判決だけ頂いて、囲むって言うことになるかもしれないんですけれども」と各社への確認はするものの、興味を示していた楡金記者からの「記者会見お断り」の回答はいかにも歯切れが悪い。注目すべきはM君が初めて会話を交わした楡金記者が「M君リンチ事件」を「あーはいはい。李信恵さんもかかわっていたやつですか?」と認識していることだ。

彼らは知っている。間違いなく「李信恵さんもかかわっていたやつ」を熟知している。

リンチ事件直後のM君の顔(『人権と暴力の深層』より)

大手マスメディアは、たとえそれが「建前」であったとしても事実に対しては「厳正」であってもらわねば困る。しかし新聞、テレビは一切野間や李信恵の「負の部分」を報じない。なぜなのだ?

楡金記者によると李信恵サイドから11月16日記者会見の申し込みはまだなされていないという。万が一「M君リンチ事件」裁判では原告であるM君は無視され、被告である李信恵の裁判には記者会見を開かれれば、完全な「偏向取材(報道)」と断じるほかない。そんなことはないはずだ。大阪司法記者クラブの記者諸君には「報道人」としての良識があるのだから、もうこれ以上の過ちを「報道人」が繰り返しはしまい。

(鹿砦社特別取材班)

『人権と暴力の深層――カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)

『反差別と暴力の正体――暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)

『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

NHK2017衆院選開票速報より

相当昔の話だ。自動車免許を取得するために教習所へ通っているときに、当たり前のようで、いまになれば結構含意のある、自動車操作の際の原則を教わった。運転は「認知―判断―操作の連続だ」との原則である。運転者は周囲の状況を視覚で確認し(認知)、その状況ではどのようにハンドルを切るべきか、速度を上げるか下げるかを脳で瞬時に決定(判断)し、手足でハンドルやアクセル、ブレーキに適切な動きを伝える(操作)する。最近自動車教習所でどのように教えられているのかは不案内だが、当時は教習の初期段階で「認知―判断―操作」を講師は繰り返し受講生に説いていた。

なにを分かり切ったことを。と、繰り返される「認知―判断―操作」が耳障りに感じた記憶がよみがえる。「当たり前ではないですか、そんなこと」とまだ心身発達途上であった若年には響く言葉では決してなかったけれども、それが哲学的だなぁと思いだされたのは、今次の総選挙を総括するにあたり、どうも気が進まない原因をあれこれ思案していた際だ。

◆有権者の欲求が消し去られる小選挙区制間接民主主義

小選挙区制における間接民主主義は「認知―判断―操作」の手順を円滑に操作しえない制度ではないか、現況の惨憺たる有様の根本には構造的、また精神的にこの阻害要因がかなり強く作用しているのではないかとの疑義を私は抱いている。

また視点を変えると有権者が持つ要求や欲求が、それを達成するために手段であるはずの投票行動に繋がってはいないように思われる現象に思い至る。そもそも自身の要求がなんであるのか、自分は何を欲しているのか、自分の生活がどうして苦しいのか、客観的には生活が苦しいのに、「みんなそうだから」と理不尽な生活苦を、受け入れてしまう生理や精神がどうして定着したのか。これらにも重大な注意が払われなければならない。

雇用主が下請けに仕事を投げると、斡旋に入る人間が中間搾取を行い、働く人に本来支払われるべき金額が減らされる。請負の構造が二重三重と増すにつれ中抜きの額が増すから、働いた人が手にする賃金は請負構造が重層であるほど、少ないものになる。

間接民主主義、とりわけこの島国においては小選挙区制が導入されて以来、国政選挙で、有権者の要求、欲求が投票行動により反映される原則的な権利が構造的、精神的に破壊されつくされたのではないか。直近の選挙結果はもちろん重大な関心事である。けれども注視されるべきは、どのみち投票行動によって、要求や欲求が反映されることのない制度の定着により、有権者の精神に本来生理的に宿るはずの、欲求や怒り、不満などがあいまいに消し去られている現状だ。

◆小選挙区制導入で崩れさった「選挙制度の前提」

人は多様であるから個別全員の意見を社会に反映させることはできない。それで代議士制度が誕生し、投票による付託で共通項を政治に反映させる。この制度には合理性が認められる。ただし、制度の有効性は、有権者が100%とはいかなくとも一応の納得で自己の態度や要求、欲求を付託できる投票対象が選択肢として準備されていることが条件とされなければならない。民主主義が至上の制度だと私的には思わないけれども、政治は民主的であることが現行憲法では原則とされているのであるから、その原則は堅持されなければ制度の趣旨は無化される。

そして今回の総選挙に限らず、小選挙区制導入に伴い「選挙制度の前提」は崩れさっていた。2割以下の総得票で7割以上の議席を得られるのが小選挙区制度である。

得票を目指す候補者が次第に「現状肯定派」(原則肯定ではない)によって占められるようになることは当然の成り行きだ。多様な価値観などは切り捨てられ、異議申し立て勢力であった諸党派もその主張を「現状」に近づけ得票を狙う。つまるところ原則的な変化などこの制度の下では、起こりようがないのではないか。

NHK2017衆院選開票速報より

◆制度に並走して有権者の覚醒を抑止するマスメディア

制度に並走しマスメディア権力も有権者の覚醒を抑止する役割を進んで担う。それはきのうきょうに始まったものではない。強制によらずとも戦争を喚起し加担した1930年代の新聞の姿と敗戦をまたいでも、何途切れることなく連綿と続くこの島国のマスメディアの根腐れ的特質でもある。にしても報道自由度ランクで「国境なき記者団」により72位という名誉ある格付けを頂いている客観情勢を、それらに囲まれ日々生活をしている人びとは認識しておくべきだろう。この島国の報道自由度は「顕著な問題」(Noticable problems)に分類されている。

よって、今次の総選挙の結果は単一の選挙結果として分析しても優位な意義がなく、問題をはらむ選挙制度、および情報制限下で連続して行われる国政選挙の結実期に、どのような投票行動が見られたかとの視点から冷徹に眺められるのが妥当であろう。

顕著な傾向としては、「有権者の意識混濁と捻じれた投票行動」を見て取ることができる。現象面での結果には言及しない。偶然であろうか、大型台風の直撃が示唆的に語るべき総論(災害)を提示しているのだから。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

朝の読経

まだ暗い道を進む藤川さん

早くから喜捨の為待つ信者さん

小さい頃からこの習慣が身に付いていく、教育ともなる喜捨

来世に向けて徳を積むおばあさん

 

◆朝の読経とビンタバーツ(托鉢)の準備

翌朝、目覚めたのは4時頃でした。眠れそうにないと思った枕の違う寝床でも一回も起きずに朝を迎えました。静まり返ったクティ内に対し、外には元気に鶏が何羽も鳴いています。田舎らしさというか、お寺らしさというか、自然が作り出す朝の賑わいが心地いい目覚まし時計となりました。

これから読経があるということで藤川さんはホームドーン(儀式用纏い)に黄衣を纏い、クティ内の読経の場に向かいました。揃った比丘は7僧。この寺は和尚さんを含めて8僧というなかなか少ない在住比丘でしたが、これがパンサー(安居期)には若い出家者が30僧ほど増えるという賑やかさだそうで、それぐらいがこの広い敷地の寺らしいと思いました。読経は30分ほど続き、これが終わってゆっくりビンタバーツ(托鉢)の準備に向かいます。

◆比丘と俗人の神聖な触れ合い

藤川さんは黄衣をホームクルム(外出用)に纏い直し、バーツ(鉢)と頭陀袋を持って裸足になって5時30分頃寺を出ました。外はまだ真っ暗。藤川さんの裸足の擦る足音が「サラサラサラ」と静かに響く中、月が明るく照らしていました。その暗闇の中、すぐに現れた信者さん。おひつに入れた湯気が立つ炊き立て御飯をしゃもじで掬ってバーツに入れ、ビニールに入ったオカズを頭陀袋に入れ、ワイ(合掌)をする10秒ほどの儀式が済んで何も言わず静かに立ち去る藤川さん。日本人的感覚では、乞食に食べ物を恵んでやるような行為も、その意味合いが全く違う、正に神聖な瞬間でした。

寺の路地を出て大通りを歩く間にも、次々と信者さんが待つ道の端に止まり、サイバーツ(鉢に寄進するものを入れる行為)を受け先に進みます。また別の路地に入り家の前でテーブルを出して比丘を待つ信者さんもいます。カメラを向けフラッシュを焚くと一瞬驚いた様子も見せつつ、ニコッと笑ってくれる人ばかり。私も緊張の撮影でしたが、皆がおおらかな人達でした。中には「日本人ですか?」と尋ねてくれる人もいて、軽く挨拶しては先に無言で歩く藤川さんを追いかけました。陽が昇り空が明るくなった頃、寺に戻ります。ほぼ1時間ほど歩いた道程でした。結構な運動量であることにも驚くほどでした。

水を溜めた足洗い場で足を洗い部屋に戻りました。正気に返ったように笑顔で「こんなもんです!」と普通の会話に戻り、托鉢の様子を見せ終えた藤川さん。バーツにはかなりの御飯と頭陀袋にも数々のオカズが入っていました。蓮の花を渡した信者さんもいました。それらを一旦比丘の食事の場となる“ホーチャンペーン”と言われる高めの台座に集められ、デックワット(寺小僧)によって食器に移されていきます。

昨夜会った男の子も率先して働いています。比丘の食事となる前に俗人であるデックワットから比丘に再度手渡しがされます。この儀式が無いと比丘は食事をしてはいけません。比丘の朝食の間はデックワットは何もせず待ち、食事後、デックワットが残り物や食器を集めて去り、その場で読経が5分ほど行なわれ終了。

デックワットは集めた残り物やタライにいっぱいある白米と、オカズもまだ手を付けてない袋に入ったもの、それらを持って別室で自分たちの朝食となります。寄進はかなり多かったことを表すほど山盛りありました。私も和尚さんに「一緒に食べなさい」と呼んでくださり、デックワットと一緒に朝食となりました。決して粗末なものではなく、バンコクの屋台やムエタイのジムで食べていたものと同じ。仲間が居れば輪を囲んで食べる楽しさもありました。これって今の日本人にはなかなか無い習慣だと感じるところでした。いや、昔の日本にもあったのです。一家団欒の輪を囲み、同じオカズに箸を付けることに家族の触れ合いや温かみがあるのでした。

「寺には何かある、一般人には無い何かある。これを体験させる為に、タイには軍隊の他に、社会人として常識を覚える通過儀礼として出家制度があるのでは」とおぼろげながら感じるのでした。

慌てて門から出て来てサンダルを脱ぎ捨て喜捨した信者さん

裸足で無言で重くなったバーツと頭陀袋を持って寺に帰る藤川さん

◆外泊理由に使われた私!

わずか24時間に満たない寺滞在でしたが、「俺にも出来るぞ」という安心感を得て、和尚さんに、しっかりワイをして下手なタイ語で御挨拶して寺を後にしました・・・。

となるなずだったのですが、「ワシも行くぞ!」と黄衣を纏って準備していた藤川さん。バンコクにはソーソートー(泰日経済技術振興協会)といったタイ文化と交流を持つ日本人会や、度々お泊りの世話になる旅の中継点の、スクンビット通りの寺があるので、藤川さんは何かと用を作ってはバンコクに向かうこと多いようでした。でも何やら遠出外泊にはあまりいい顔しない和尚さんらしく、私を見送るという丁度いい理由付けにして着いて行こうと思っていたようで、笑ってしまうような何ともセコい藤川さんの考え。これでバスに乗ってバンコクまで一緒。お喋り相手に利用したり、外出理由に利用したり、だんだん藤川さんの思惑が見えてきたような言動。これが今後も続くとはまだ深くは考えていない寺様子見の旅となりました。

ぎこちない挨拶をする私に、藤川さん流に見ると、和尚さんは寛大な心を見せようとしているのか、「いいからもっと気楽に居なさい。出家の時も何も心配しないで気楽に来なさい」という何とも優しい対応でした。

寺を出る前に、この寺の世話人となる、藤川さんの出家の際に親代わりとなってくれた弁護士さんが居ると言うので、この方にも御挨拶に行きました。もうこんな親代わりは慣れっこのようで、弁護士というより小学校の先生のような何も不安の無い普通の優しいオジサンでした。副住職さんにもお会いし、藤川さんが率先して私のこと喋ってしまうので、改めて自己紹介は軽めに、「得度式の際にはお世話になります」とお願いして寺を後にしました。

◆最後の前哨戦に向けて!

私はまたこの寺に来る日までに、やらなければならない問題が山積みでした。経文は覚えなくてもいいと言われてもある程度、得度式の流れを汲んでおかねばなりません。長旅の予算も必要です。住んでいるアパートをどうするかも問題でした。貧乏生活をしている私はそれがいちばん問題で、それらを解決してから寺に向かうことになります。

これで頓挫しないことを誓って一旦帰国となるところ、「6月頃、日本に帰るから東京で宜しく頼むわ」と藤川さんにお願いされてしまう別れ際。何か厄介なお荷物になりそうな嫌な予感を受けながら了解し、アナン会長の居るムエタイジムに戻って数日お世話になってから帰国しました。これから日本で、頼らなければならない幾人かの友人、知人に出家することを伝えなければいけません。その人物とこれから会うことになります。

朝食後は短い読経で締め括ります

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

前の記事を読む »