◆人生特別な日の朝!
朝起きて頭を触って改めて気が付く、やっぱり昨日の出来事は夢ではなかったと。やっぱり本当に髪が無かった現実の朝でした。そんな朝、私が朝起きるのが早いからか、デックワットは昨日の夜は私の部屋には来ませんでした。
◆アナンさんらを迎える!
7時20分頃、比丘の朝食中に部屋の窓から外を覗くと1台の車が止まっており、アナンさんらが到着した様子。最初に降りた高津くんと目が合うと互いが笑顔になる。こんなところまで所属選手でもない私の為に、アナンさん夫妻も来てくれたことには本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。積んできた寄進する料理を運び、和尚さんに挨拶に行ったアナン夫妻。私の手を煩わせない気遣いがあって、案内しなくても場所だけ示せば勝手に行ってくれる、どこの寺でも造りなどすぐ分かる慣れたものでした。
比丘の食事が終る頃、隣の部屋の秘書的存在のケーオさんに呼ばれて履歴調査となりました。このお坊さんは若い一時僧たちのお兄さん的存在。私が初めて寺を訪れた3月に藤川さんを「キヨさ~ん!」と呼んでくれたのがこのケーオさん。
「名前は、出身は、生年月日は、両親の名前は、日本で何してる?」など、得度証明書に書かれる項目と、得度出家者をサンガ(僧組織)に届ける義務がある為の簡単な面接でした。終わって部屋に戻ると、すでに春原さんが来てタバコを吸っていました。
「春原さん朝飯食ってないでしょ、一緒に食いましょう!」とまず、昨日春原さんは和尚さんと会えなかったので和尚さんのもとへ行って紹介すると「朝食まだなら、一緒に食べなさい」と予想どおり言われ、デックワットのいる部屋へ向かい一緒に朝食を摂りました。
「朝の托鉢でサイバーツ(寄進)された食材ですよ、比丘が箸を付けてないものもありますから頂いてください」と言うも春原さんは何も気にせず、どの惣菜も召し上がってくれました。
いつの間にか居なくなっていたアナンさんらは外に食事に行き、部屋に戻ると高津くんも戻って来て、出番まで春原さんと高津くんとお話して待機。9時半になってアナンさんが私らを呼び、いよいよ出陣となりました。
◆人生最後のイベント、得度式!
私にとってこれが人生最後のイベントとなるだろう。今後結婚式などしないし、残るは葬式か。それがあっても自分は見れないが。
クティ内のホー・スワットモン(読経の場)に備えてあった黄衣とバーツ(お鉢)と、式に備える花などの供え物をアナンさんと奥さんと高津くんが持ち、アナンさんを先頭に全員裸足でボート(本堂)へ向かいます。ここに来て、参列者を募らなかったことを悔いました。
「春原さん以外誰も来なくていい」なんて言ってはいけなかった。こんな遠いペッブリーまで、日本の彼らを含め誰も来なかったかもしれないが、過去、タイで知り合った数々の人に出家することを伝えていたらどれぐらい集まっただろうか。私が出家することより徳を積む機会に喜んでいたでしょう。日本人なら「何の祭りか知らないけど酒が飲めるぞ!」といったノリでしょうか。
本堂に入る前に周りを右回りに3周歩きます。三帰依(仏・法・僧へ帰依)を意味するこの3周も、全く分からないまま、ただ小石を踏んでは「痛いなあ、アナンさんゆっくり歩いてよ」と心で呟きながら、“サラサラ”と4人だけの寂しい足音が響き、ようやく3周。ところどころで春原さんのシャッター音が響いていました。
先導してくれる親代わりとなってくれた弁護士の先導者に導かれて経文を唱え本堂に入ります。大きな仏陀像の下にある比丘が座る台座には17僧が待機しており、私が先導者の指示に従って前に進みます。同時にサーラー(葬儀場)では葬式が行なわれており、和尚さんは御挨拶で少々遅れる様子。
少々ざわめきがあった本堂内も、和尚さんが入って来ると空気が変わり、比丘たちも緊張感が増しました。私は先導者の指示のもと和尚さんの前に座り、問答が始まりました。
「すべては口移しでやるからお経は覚えなくてもいい」と言われていたものの、「本当に大丈夫かな」と就職の面接のような緊張感が走ります。そして黄衣とバーツを掲げ、出家願いの経文、やっぱり出て来た高校時代に唱えた「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、サンガン・サラナン・ガッチャーミ(我、佛に帰依し奉る、我、法に帰依し奉る、我、僧に帰依し奉る)」。これだけは口移しでなくても唱えられた三帰依でした。「これは鉢である、これは上衣である、これは重衣である、これは下衣である」を指され、その意味も話されているであろう和尚の言葉。ひとつひとつの問いに分かっていなくても「アーマ・バンテー(仰せのとおりです)」と応える私。
副住職のヨーンさんに導かれ、口元を指差し、経文を唱える言葉を見て聞いて真似して唱えること何十回と続く。順番も意味も覚えていないが式は続き、ある時全員の笑いが起きる。何かウケ狙いを言ったなこの和尚。「戒律だからな、オナニーするなよ」とでも言ったのだろうか、藤川さんもアナンさんも声が響く笑いでした。
何はともあれ一応厳格な儀式は進み、最後に比丘全員によって読経が続きました。
「この言葉も常識もわからんトロい日本人を比丘にして大丈夫か?」と大雑把に言えばこのような審議と採決があり、その全ては無言の満場一致で決まる出来レースで、得度式は終了しました。
◆アナンさんらを見送る!
得度式が終わったのは11時少々過ぎ。サーラーでの葬儀も一時休息に入ったようで、昼食はこちらに移動。今朝まで比丘の後に朝食を摂っていた私は、まだ後手に回っていると、昨日ツーショット撮ったメーオが「もう立場は同じだからこっちに入れ!」とケツを叩いて輪に入れてくれました。昼食は葬儀を出している親族の寄進でワンプラのように多くの惣菜が並んでいます。アナンさんが持って来た食材もどこかに並んでいます。せっかく持って来てくれたものだから私が手を付けたかったところ、アナンさんらのタンブンは充分果たしているので気にする必要はありませんでした。
その後、アナンさんらも他の信者さんとサーラーの脇で昼食に入り、春原さんを一緒の車に誘ってくれてバンコクに帰る時間となりました。
藤川さんは「高津くんもやったらどうや!」と誘うことを忘れない。満更でもなさそうに笑っていた高津くん。「鬱陶しい藤川さんのもとでは止めとけ!」と心で呟く私。
皆がクティの前の車に向かうと私は「俺も帰る!」と駄々こねて泣きだしそう。幼稚園の頃、母親に泣きついて一緒に帰ろうとしたあの幼い頃と同じ胸中。それをしなかったのは、大人だから我慢出来たというものではなく、泣いて駄々こねるなんて恥ずかしいこと出来ないだけでした。「これで立派な大人だ、しっかり学んで来い!」と、ただひたすら応援してくれるアナンさんらに御礼を言って見送るのみ。春原さんには「フィルムは大切に預かっておいてね!」ということだけは忘れない目ざとい私。高津くんはまた来月試合が控えているのに、その気遣いも出来ず、最後は慌しく一同を見送りました。
この後、午後も葬儀は続き、合間を縫って藤川さんの厳しい黄衣纏いの指導が始まります。
※写真は春原俊樹氏(ワールドボクシング=当時)撮影(御本人が写っているもの以外)
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」