マイナス15℃越えのうえに強風、危険な状態のなかでの競技続行による転倒者続出(スノーボード)。あるいはアメリカのテレビ局の要請で、フィギュアスケートは異例の午前中開催。スキージャンプはヨーロッパ向けに極寒の真夜中開催など、ピョンチャンオリンピックは散々な評判だが、まずは開催されたことに関係者は胸をなで下ろしていることだろう。昨年のいまごろは、開催そのものが危ぶまれていたのだから。
それにしても、今回のオリンピックはオリンピックと政治の別ちがたい関係をあらためて浮き彫りにした。開会式に先立つ南北会談、南北合同チーム(女子アイスホッケー)の結成、そして北朝鮮美女軍団の訪韓。かたや、アメリカの先制攻撃を避けて核ミサイル開発の時間をかせぐ北朝鮮の思惑、オリンピック成功の保障のさきに南北対話・緊張緩和をのぞむ韓国文政権の思惑が手をむすばせた、この大会の序幕は政治ショー以外の何ものでもなかった。
何ごとも政治化するトラブルもあった。スキー男子モーグルの西伸幸がかぶっていた帽子が、旭日旗を思わせるデザインだと現地で批判されて、西はただちに謝罪した。
いっぽう北朝鮮の応援団の統一旗に独島(竹島)があるのは遺憾などと、日本政府(菅官房長官)も政治を持ち込んでいる。ちなみに、旭日旗に似た朝日新聞の社旗は韓国で問題にされたことはないし、統一旗の島の位置は鬱陵(ウルルン)島と竹嶼(チュクト)に見なすことも可能ではないか。どちらも政治的な視野で見るから、目くじらを立てたくなるのだ。
いっぽう、国策的なドーピングで国としての参加を認められなかったロシア選手団は、Olympic Athletes from Russia(OAR)として個人参加している。ドーピング問題とスポーツ界の事情は『紙の爆弾』3月号の片岡亮の記事に詳しいが、その背景にあるのは商業主義にほかならない。オリンピックが後援する企業にとっても競技者にとっても、商売であることを痛いほど思い知らされる。それというのもオリンピックが他の競技大会とはちがって、国策であるからだ。
もともと近代オリンピックは、ロンドンで開かれた第4回で国ごとの参加になるまでは、個人・チーム参加のスポーツ大会だった。開催地は資金難にくるしみ、第2回のパリ大会と第3回のセントルイス大会は、万国博覧会の付属大会にすぎなかった。国(都市)とナショナルオリンピック委員会が主催者になることで、一転して政治的な事業となり、スポーツ大会の頂点をきわめたのである。
1924年のパリ大会を舞台にした映画『炎のランナー』には、競技日をめぐって英仏の駆け引きが行なわれるシーンが登場する。あるいは、有名なフレーズ「参加することに意義がある」と語ったのは、国別となった第4回大会でのことだった。アメリカとイギリスの目にあまる対立を危惧したエチュルバート・タルボット主教が、選手団を前に「勝利よりも参加することが重要だ」と説諭したものだ。
しかし勝利至上主義、国威発揚はとどまるところを知らず、1936年のベルリン大会は文字どおりナチスの躍進、ドイツの国力を世界にしめす大会となった。戦後もそれは変わらず、1964年の東京大会は日本の復興を世界に知らしめるためのものだった。ソ連のアフガン侵攻にたいする制裁としての、モスクワ大会のボイコット。そしてその報復としてのロサンゼルス大会のボイコット。まさにオリンピックの歴史は政治史である。スポーツが戦争の代償行為であると、スポーツ社会学者は説くことがある。なるほどオリンピックは、軍事をもちいない政治なのであろう。
けれども政治の側の意図が顕わになり、その思惑がくつがえることで、結果的に新鮮なこともあった。フィギュアスケート団体戦で世界最高得点を出したエフゲニア・メドベージェワの演技は、ロシア選手という色眼鏡をとって鑑賞すれば、すばらしく新鮮な感じだった。それは彼女の実力によるものだと思われるが、氷上にくり広げられた3分間の演技が一瞬のように感じられるほど見事なものだった。それはしかし個人参加だからこそ、ロシア選手団の一員と見なさないからこそ感じられたのかもしれない。国旗や国家のないオリンピックを観たくなった瞬間である。デジタル鹿砦社通信をご愛読の諸賢におかれては、いかが観戦されていますか?
◎[参考動画]Evgenia Medvedeva establece record mundial en Juegos Olimpicos Pyeongchang 2018
▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。