縁は不思議なものである。会社勤めに嫌気がさして、京都の小さな私立大学の事務職員に転職したわたしは、そこで上野先生と再会をはたすことになる。上野先生に講義を2回だけうけてから10年弱で同じ職場に勤務することになった。上野先生は多忙なので、個人でアシスタントを雇っていた。きびきびした感じの良いわたしと同年齢の女性だった。
学内に上野先生がいないときはその方が連絡役や、郵便物の整理を担当していた。ある時上野先生から「研究室に設置してあるFAXの調子がおかしいので、見に来てくれないか」と事務室に電話があった。わたしは着任してから何度か上野先生と言葉を交わしていたが、学生時代に上野先生の講義で質問したことがある(第1回参照)ことは、話していなかった。
◆「ところで先生、もうお忘れですよね」
具合の悪いFAXの調子をみながら「ところで先生、わたしは学生時代に先生の講義で質問したことがあるんですけど、もうお忘れですよね」と声をかけると「え、そうだったの?どこの大学?」、「関西大学ですよ。大教室の講義で質問させていただきました」、「ああ、そんなことあったっけ…」。どうやら上野先生の記憶の中にわたしの質問は残っていなかったようだ。同じ職場で働くうえではその方が具合は良い。「クソ生意気な職員」と教員から思われて得することなど一つもないのだから。
ところが、それからわずか数年後にわたしや同僚は、上野先生に対して逆鱗せねばならない事態に直面させられる。当時上野先生が所属していた学部には、大学院がなく、大学全体の価値を高める上でも大学院の設置が決定し、教員と職員数名による「大学院設置準備委員会」(正式名称はちょっと違うかもしれない)が発足し、上野先生は教員として、わたしは職員の一人としてその「委員会」に所属していた。新設大学院はどのような修了生輩出を目指すのか、カリキュラム内容はどのようなものにするのか。大学院設置に関して、その方向性から実務までのすべてが「委員会」で議論された。
大学が新しい学部や、大学院を設置するときは、同一もしくは類似分野で先行して学部や大学院を開設している大学を訪問し、先行大学の経験やカリキュラムについて教えてもらう。企業の世界ではあまり一般的ではないけれども、そういった調査・準備活動が大学業界では珍しくなかった。わたしも教務部長とともに幾つもの大学にお邪魔し、薫陶を賜った。「委員」各位の努力の甲斐あって、文部省(現在の文科省)に大学院設置に関する書類を提出する準備も整い、順調に作業は進んでいた。
◆「どうして東大に移られたのですか?」
ところがある日、衝撃的な情報が学内を駆け巡った。次年度から上野先生が東京大学に移るというのだ。上野先生は前述のとおり「大学院設置準備委員会」のメンバーで「委員会」の際も積極的に発言をしていた。順調に行けば次年度から開設される大学院の教員リストの中には、当然上野先生の名前があった。それが開設を控えた時期になっていきなり来年から「東大にいく」と言い出したのだ。
「売れっ子」は、より待遇の良い場所で仕事をしたがるのはわかる。だから大学院設置の話が出たとき、わたしは親しい教員に「上野先生、逃げることないでしょうね?」と聞いたところ「大丈夫。その心配はないよ」と言われていた。わたしはその教員の返答に、要らぬ心配はすまいと、それ以上上野先生の「流出懸念」は忘れていた。でも結局大学にとっては一番困るタイミングで「東大移籍」が行われることになった。
困る理由の一つは「売れっ子」が居なくなることだが、当時最大の問題はそれではなかった。大学院の設置には文部省(現文科省)による教員の資格審査がある。
大学院で論文指導を行うことができる教員を「〇合」(まるごう)、論文指導はできないけれども、論文指導補助と講義は担当できる教員を「合」(ごう)、論文指導は担当できないが講義は担当できる「可」(か)と、学歴(学位)、過去の業績や教歴により、担当教員として申請した教員全員が文部省により、ふるい分けられるのだ。
一定数の「〇合」教員がいないと大学院自体の認可申請がおりない。先に述べたように先行大学を訪問し、開設の際の文部省との折衝を伺うと、新たな大学院設置に関しては、教員の資格審査が、最大の懸念事項になるであろうことは「委員会」の共通認識だった。
本論とはそれるが、一度「〇合」と文科省から認定されると、その分野では評価が下がることはない。だから安定志向で新たな大学院設置を行う大学は、既に「〇合」と認定されている教員(主として国公立大学の定年後、もしくはそれに近い教員)を呼んできて開設するケースも多い。そうすれば教員審査によって大学院の開設が不許可になることはないからだ。
私たちは新たな教員の採用なしに、当時の保有スタッフでの大学院開設を目指していた。しかし、当時の教員スタッフの中には博士号保持者はおろか、修士号保持者も少なかった。訪問先の大学で「おたくの教員、学卒(学部卒業)が多いねー。これは厳しいなー」とコメントされたこともあった。社会的には著名で、実績はあるけれども文部省が「〇合」と認定してくれる確証を持てる人数は少なく、その中に修士号を取得していた上野先生は当然入っていたのだ。「大学院設置準備委員会」メンバーで私たちが「〇合」確定とカウントしていた上野先生が抜ける!急遽補充をしなければ認可を得ることが難しい状況となった。
その後大学執行部や学部の努力により、上野先生に変わる教員の採用を急遽決定し、大学院は開設することができた。しかし私は以下のコメントを忘れない。東大に移った上野先生が新聞のインタビューに答えていた。
「どうして東大に移られたのですか?」
「きまってるじゃない。私立大学の仕事の多さに嫌気がさしたからです」
朝日新聞だったのではないかと記憶するが、このコメントはわたしの神経を逆なでした。前述の上野先生の「東大移籍」劇がその理由ではない。実は上野先生はわたしの勤務していた大学で1991年から1年間ドイツへ公費で研究に出ておられた。著名な先生なので、それは分からないことではない。学外での研究が学生の教育へ還元される効果も期待できる。ところが上野先生は1年間学生への講義を行わず、ドイツで研究に従事していたにもかかわらず、3年もおかず、今度は「メキシコから招聘されているので、1年メキシコに行きたい」と言い出したのだ。その時期と「大学院設置準備委員会」に上野先生が参加していた時期が同じだった。教員には「サバティカル」と呼ばれる1年間の国内外研究期間が与えられる制度があったが、その間、当然講義はできないから、不文律ながら当該学部の希望教員が順番に「サバティカル」を取るのが慣例だった。
上野先生は着任数年で1年のドイツ行きが認められただけでは満足せず、3年とおかずに「メキシコに行きたい」と駄々をこねだしたのだ。古くから在籍している教員や、私たち職員も「やっぱり『売れっ子』はわがままだなぁ」と感じた。
◆人情派の教務部長は泣きながら吼えまくった
「東大移籍」が発覚したとき、当時の教務部長は事務室で、私と飲みながら怒りを隠さなかった。「なにが東大や!ワシらはたしかに小さな田舎大学や。でもこんなに素敵な大学があるか?ワシは心からこの大学を愛しとる。お前もそうやろ?」やや酒癖の悪いけども人情派の教務部長は泣きながらわたしに吼えまくった。「あたりまえや!なにが東大じゃ!所詮最後は権威主義の『東大』で上がりたかった言うことやろ!勝手にせえや!なあ○○さん。ワシはこんなことされたら気が済まん。絶対にこの大学を世界一にしようや。日本一なんてくだらん。世界一や!」○○さんの逆鱗は数時間収まらなかった。「委員会」の末席を汚していたわたしも同様だ。
「どうして東大に移られたのですか?」
「きまってるじゃない。私立大学の仕事の多さに嫌気がさしたからです」
よく言えたものだなぁと呆れた。ただ、怒りの一方、いちまつの寂しさもあった。それは上野先生が学生からの評判が良く、けっして難関大学ではない、田舎のちいさな大学で(大学へはかなり横柄ではあったけれども)、学生の面倒見は感心するほど繊細だったからだ。当時、わたしは教員が評価した学生の成績をコンピューターに入力し、学生に伝える部署に配属されていた。通常、学生の評価(成績)は遅くとも2月中旬には教員から事務室に伝えてもらうことになっていたが、上野先生だけでなく、研究や休暇で海外へ出かける教員が多いのもこの時期だ。
しかし、4年生は3月の卒業を控え、3年生以下も次年度の履修計画に影響するので、教員から成績をもらえないことには学生に伝えることができず、その結果学生に不利益をもたらす懸念を成績担当の事務職員は常に持っていた。いまのように電子メールが普及してない時代にあっては、手紙かFAX,あるいは国際電話でしか、確認が取れないこともあるからだ。
どの国か忘れたけれども上野先生が、海外にお出かけの際に、学生の評価(成績)について国際電話で確認したことがある。履修者数の少ない講義ではあったが、上野先生はすべての学生の到達度と熱心さを把握しており、電話越しにわたしが投げつける質問に、すべて即答してくださった。学生の教育には本当に熱心な方だと感銘を受けた記憶は忘れられない。(つづく)
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。