挨拶される、呼びかけ人実質的代表の新開純也さん。塩見さんの大学の先輩であり、政治的には赤軍結成時に訣別。その後タカラブネ元社長。松岡と同郷。(2018年3月17日京都)

昨年11月に亡くなった「日本のレーニン」塩見孝也さんの追悼会(正式には「塩見孝也とその時代」)が3月17日、母校・京都大学時計台前のレストランで開かれ約80名が参加しました。

塩見さんの最後の著書となった『革命バカ一代 駐車場日記』(鹿砦社刊)

この前に3月5日に東京の追悼会が開かれ約160名が参加したということです(このレポートは3月23日付けの本「通信」に掲載されていますので、そちらを参照してください)。関西はその半数ですが盛況でした。

私は、赤軍派ではなく、ギリギリまで参加を迷いましたが、塩見さんの最後の著書『革命バカ一代 駐車場日記』を出版し、これを参加者に配布(もちろん無料!)するため参加しました。予想に反し多くの先輩方に歓迎されました。

塩見さんは、1960年代後半の学生運動、70年安保闘争、ベトナム反戦運動の高揚の中で、それまで以上の武装闘争で運動のさらなる爆発を勝ち取ろうと赤軍派を結成しました。中心になったのは京都の学生運動、とりわけ京大、同志社でした。しかし、権力による大弾圧で、私が入学する1970年にはほぼ解体し、一部が、その理論「国際根拠地論」により平壌、アラブに活路を見い出し飛んでいきます。これはよく知られるところです。

同志社では、赤軍派の活動家・望月上史さんが激しい分派闘争の過程で亡くなります。この件では、私が『遙かなる一九七〇年代‐京都』で書いた一文「内ゲバで亡くなった二人の先輩活動家の無念」に対して、赤軍派と対立し監(軟)禁した中央大学ブントのリーダー・神津陽さんから反論と謝罪要求がありました。これを受け、翻って思い返すと、望月さんについて書かれているのは作家・小嵐九三郎さんの『蜂起には至らず』の中の一項だけで、重要な問題でもあり、現在取り組んでいるカウンター大学院生リンチ事件の書籍の編集が一段落したら取材班を作り調査・取材に取り掛かる予定で、来年の50周忌までには報告集として上梓するつもりです。

◆「7・6事件」のこと ── 血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとした塩見さん

当日、久しぶりに会った方もいたりで、偶然に受付をしていた方が、「7・6事件」に参加し、くだんの望月さん死亡前後のことについて話してくれました。

「7・6事件」とは、赤軍派のフラク(当時はまだ赤軍派の結成前)が、明大和泉学舎でのブントの会議を武装襲撃し、さらぎ徳二議長にリンチを加え、瀕死の重傷を負わせ、介入してきた警察に逮捕されたという事件です。この時さらぎ議長は、その前の4・28沖縄闘争で破防法で指名手配されていましたので、権力に売り渡したというわけです。反赤軍派の人たちの怒りは凄まじく、赤軍派フラクが拠点としていた東京医科歯科大学を急襲、約30人ほどを拉致し、神津さんらの拠点・中央大学に連行、5日ほど監禁したということです。その方も殴られ前歯2本を折ったそうです。

中央大学に到着すると、望月さんや塩見さんら幹部4人が捕捉されていたそうです。解放されたら、ともかく西の方角の汽車に乗り逃げたということで、気づいたら靴が片方なくなっていたということでした。望月さんら幹部4人はその後、真夏の暑いさなか20日間も軟禁され、ロープを伝って逃げる際に結核を患い体力が弱っていた望月さんは転落し、その後亡くなります。塩見さんは、血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとするが捕まらなかったということです。知らないことばかりで興味津々でした。

◆〈二つの安保闘争〉を牽引した「関西ブント」

挨拶した方々もほとんどが赤軍派の元幹部ばかりで、やはり「7・6事件」のことがさんざん出てきます。私以降の世代には何がなんだか分からない話です。わずかに私は同じ大学の学生運動の先輩の死ですから、在学中から聞いていましたので関心があります。

当時、同志社大学は「関西ブント」といわれる党派の拠点で、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その強固な戦闘力で全国の学生運動を牽引したことは有名な話です。学生運動の天王山だった69年1月の安田講堂攻防戦において、大学別では広島大学に次いで2番目に逮捕者が多かったことからも分かります。

血気にはやる同志社の学生活動家の多くが赤軍派に流れたといいます。赤軍派に流れなくともシンパとして支え、私が同大に入った頃の雰囲気は、親赤軍赤ヘルノンセクトでした。過激であればあるほど人気があった時代です。

しかし、追悼会には同志社OBの参加がほとんどなく、呼びかけ人や実行委員会の方々は困ったようでした。京大と共に二大拠点だったわけですから、やはり同志社OBの多くの参加を希望されていたようです。私が知る限り、私を含め4人、その中で赤軍系の人はわずか2人でした。私が居た寮は定員20数人の小さな寮でしたが、藤本敏夫さんはじめ多くの活動家を輩出しました。それでも誰一人赤軍派には行かず、例年の学友会倶楽部主催の講演会には多くの動員を行うのですが、塩見さん追悼会には私以外一人も参加しませんでした。

◆塩見さんが「無二の親友」と呼んでいた弁護士の海藤壽夫先生

参加者の中で意外な方が声を掛けてくれました。弁護士の海藤壽夫先生です。挨拶されることはプログラムに記載されていましたので、ご挨拶に伺おうと思っていたところでした。海藤先生は塩見さんと同級生で、生前の塩見さんから「無二の親友」と聞いたことがあります。「私も存じ上げていますよ」と言うと、「なんで知ってるんだ」と返されました。実は、1972年、私が学費値上げ阻止闘争で逮捕・起訴された際に、弁護士に成り立てだった海藤先生が弁護人を受任してくれたのです。全く奇縁です。

私は1970年に京都の同志社大学に入学しました。その少し前に赤軍派メンバーによるハイジャックがあり、同志社の学生も1人いました。70年当時の京都は、バリケード封鎖は解除されていましたが、まだ熱い雰囲気が残っていました。ベストセラーとなった高野悦子著『二十歳の原点』にはこの頃の様子がよく書かれています。沖縄返還も政治日程に上っていましたし、三里塚も空港の「く」の字も見えない時期ですが反対運動が続いていました。また、学内では「田辺町(現在の京田辺市)移転-大同志社5万人構想」(いまだに5万人どころか3万人にも到底及ばず、夢のまた夢です)、このための資本蓄積=学費値上げ問題がささやかれていました。

まだ田舎出の18歳、多くのことがきのうのことのように目に浮かびます。私が学生運動に関わったのは学生時代の5年間にすぎず、党派に入るわけでもなくノンセクトでした。周囲に党派に入る者はほとんどいませんでした。後から考えると、これでよかったと思いますが、75年春、私が同志社を離れる前後から、運動は分裂に分裂を重ね、主流派だった私が属した「全学闘争委員会」(全学闘)と拠点とした寮は少数派に転落し、学友会から放逐、ある時には深夜寮が襲撃され、居合わせた寮生が監禁・リンチされるという事件が起きました(79年)。

70年代前半は、むしろぬるま湯的な、比較的安定した時期で、のちの混乱は予想もしませんでしたが、70年代後半は混乱と分裂の時期だったようです。そうしたことを私は、同期で京大OBで学費決戦では応援に駆けつけてくれた垣沼真一さんと昨秋『遙かなる一九七〇年代‐京都--学生運動解体期の物語と記憶』にまとめ上梓しました。

◆望月さんと一緒に逃げようとしたMさん

追悼会に参加された方々も、いろいろな当時の想い出があるやと察しますが、どのように拙い形ででも語り書き残す時期が来ていると思います。残された時間はあまりありませんから……。

二次会には参加しないつもりでしたが、先の方と意気投合し参加しました。そろそろ佳境に入った頃、望月さんと一緒に逃げようとしたMさんが声を掛けてくれました。私は「きょうはご苦労様でした。いちどゆっくり話を聞かせてください」と言って座を辞しました── 。

〝最年少〟の私の世代でさえ齢60代後半、私たちの時代はすでに黄昏に入っています──。

ありしひの塩見さんと。

※「マイ・センチメンタル・ジャーニー」の〈1〉と〈2〉は私のフェイスブックにアップしていますので、ご関心のある方は下記リンクをご一覧ください。
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈1〉私にとっての〈2月1日〉
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈2〉2月9日、先輩の芝田勝茂さんの講演会に参加しました……
 

【追記】上記の文章を送った後に気づきましたが、くだんの神津陽さんが3月23日の自身のブログで次のように書いておられます。
「リベラシオン社ブログに3・17関西集会での物江克男の発言も出ている。
7・6事件後の中大からの逃亡時に塩見が顔面血だらけの望月を背負いタクシーを停めたとあるので、望月は落下時に頭部に自ら傷を負い指は潰れてなかった事が分かる。松岡は全容を読んで謝罪しろ! まだ許してはないぞ!」
文中で私も書いているように、3・17追悼会には私も出席し物江さんの発言(長い!)も聴きましたが、本件については取材班を設け、調査・取材を重ね、早晩きちんとした形で報告書としてまとめるつもりです。ここまで詰られると私も本気になります。(松岡利康)

70年代はじめの京都の学生運動について書き連ねた『遙かなる一九七〇年代-京都』(松岡利康/垣沼真一編著)