多士済々の登壇者たち

 

集会冒頭で上映された『三里塚のイカロス』

管制塔占拠闘争から40年目をむかえた3月25日、連合会館で集会がひらかれた。参加したのは300人ほどだが、わたしをふくめて初老をむかえた元被告たち、三里塚闘争の歴史に興味を持っているという若い人の参加もあった。

◆映画『三里塚のイカロス』に感謝

冒頭に『三里塚のイカロス』が上映された。この映画では、加瀬勉さん(農民活動家)のインタビューをはじめ、第四インターの初期の現地闘争団の活動家、元中核派の三里塚闘争責任者(昨年雪山スキーで逝去)、支援嫁たち、土地買収を担当した公団職員(反対派に自宅を爆破され重傷を負う)に話を聞くかたちで、三里塚闘争の重たい陰の側面に光があてられている。反対同盟の3・8分裂をめぐる内ゲバについても触れられている。あるいは部落の共同体をのこすために、部落決議で移転に応じた辺田部落の支援嫁の自殺も、この映画のモチーフだったという。ちなみに、その女性は筆者の相被告(三月要塞戦)でもある。インタビューはたびたび、離着陸するジェット機の騒音にさえぎられる。観る者に、いやでも三里塚の現実が伝わってくる。まさに三里塚の過去と現在に向き合った、重厚な作品といえるだろう。この映画を撮った監督(代島治彦)とスタッフに感謝したい。

◆反対同盟の柳川秀夫さんの言葉

反対同盟の柳川秀夫さんからは「元被告の皆さんは、三里塚闘争で人生が変わったと思います。たとえ人生が変わっても、こうして会えているのだから、それはそれで納得のいく人生を歩んできたのではないでしょうか」と、自身も納得のいく生き方をつづけたいと語られた。そして三里塚闘争が歩んできた足跡を振り返りながら、「腹いっぱいではなく、腹八分目で生きていく社会、不自由なく持続できる社会に作り変えていく内容があるのではないか。そのための運動を持続していきたい」と提案された。哲学が感じられる話だった。

反対同盟の柳川秀夫代表

 

廃港要求宣言の会の鎌田慧さん(ジャーナリスト)は、当時をふりかえって「第2第3の管制塔占拠をという掛け声はあったが、あれは二度も三度もできるものではなかった。開港にむけた情勢が煮詰まり、反対運動が高揚したところに、ある種の必然性をもってやり遂げられたもので、管制塔占拠をしなくても廃港にできる運動を模索するべきだと感じていた」と語られた。そして持続的に社会のあり方を変えていく運動の質があれば、三里塚闘争の半世紀およぶ歴史は無駄にはならないし、伝えていかなければならないと述べた。

 

まさにその世代をこえた伝承が、木の根ペンションで行われていることが、ビデオで報告された。すなわち、木の根風車あとに造られたプール付きの木の根ペンションが再開され、若者の音楽を中心にイベントが開かれていることだ。その担い手は、現地闘争団のメンバーを親に持つ若者(大森武徳さん)である。幼いころから現地闘争を目にしてきた彼は、自分よりも若い世代にも伝えていきたいと語っていた。大森さんは有機農業をひろめることを、営農のテーマにしているという。

主催者でもある管制塔被告団の平田誠剛さんの挨拶、現地に住んで現闘を継続している山崎宏の第3滑走路計画の解説、清井弁護士からの発言につづいて、支援嫁のひとりである石井紀子さんのメッセージが代読された。

◆三里塚闘争に女性が継続して参加できない側面があった事実

メッセージで印象的だったのは、彼女自身がリブの出張所として三里塚に来たつもりだったが、それはじつに困難な道だった。今回「女性の発言者がいないので」という理由で参加を要請されたが、どうしてほかに女性の参加者がいないのか、と疑問が提起された。もちろん集会に女性参加者はいたが、三里塚闘争には女性が継続して参加できない側面があったのは事実である。このあたりは深く切開されなければならない、日本の社会運動全体の問題であろう。

遺影は、新山幸男さん(右・第四インター)、原勲さん(左・プロ青同)

◆あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった

 

全国で空港反対運動を持続している反空連などの発言のあと、管制塔被告団が壇上に上がった。その後の人生の歩みや現在が語られ、なるほど多士済々の彼らならではの管制塔占拠なのだなと思わせるが、壇上からは「われわれは、あの日各所で闘っていた、みなさんの一部にすぎないのです」という発言があった。そう、あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった。政府と農民の非妥協のたたかいが、最終的にのぼり詰めた先。78年3月の開港阻止闘争そのものが、管制塔占拠という歴史的な勝利をもたらしたのだと思う。

レセプションでは、わたしも三月要塞戦被告団として発言させていただいた。ほかに5・8(岩山大鉄塔破壊にたいする野戦)被告団、2月要塞戦被告団、第8ゲート被告団、第9ゲート被告団からも発言があった。それぞれが戦友会という雰囲気である。この連載でもふれるが、厳寒のなかで闘われた2月要塞戦にくらべて、わたしたちは用意周到な準備(バストイレ・三食付き・二交代でベッド就寝・大量の火炎瓶と鉄筋弾・鉄筋矢など)に加えて、脱出(補給)用のトンネルまであったのだ。

 

そこで、二次会では「3・26で管制塔を破壊したあとに、なぜわれわれは脱出しなかったのか」という議論になった。管制塔が占拠された夜、横堀要塞を包囲していた機動隊は一時的に、大挙して撤退していた。おそらく政府高官や官僚が事件後の視察に来たので、機動隊の警備状態をみせるために、一時撤退したのではないだろうか。しかしわれわれには、トンネルからの撤収は最後の段階まで持ち越された。撤退は議論にすらならなかったのである。

議論にできなかったのは、おそらく管制塔占拠・空港突入が赤ヘル三派(第四インター日本支部・プロ青同=共産主義労働者党・共産同戦旗派主流派)だったから、中核派(4名)はぜったいに要塞からの撤退に反対するだろうと思われる。ここで逮捕者を出さなければ、かれらは開港阻止闘争でまるっきり何もしなかったことになるからだ。事実、彼らは機動隊が突入するや、鉄塔に登って抗戦した(第四インターも1名が鉄塔に残った)。撤退のイニシアチブを反対同盟3幹部も取ろうとはしなかった。管制塔を破壊して開港阻止闘争に勝ったのだから、逃げも隠れもしまいという空気があったのも確かだった。いまこうして闘争記を書けるのも、あのとき逮捕されたからだと考えると、撤退の議論は懐旧をみたす酒の肴なのかもしれないと思う。冒頭に紹介した柳川秀夫さんの言葉ではないが、われわれは三里塚闘争で逮捕され英雄(一部の社会運動だけでの英雄ですが)になったことに、こころから納得しているのだ。

当時のヘルメット姿で物販する元被告たち

▼ 横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)