過去のキックボクサーの中で、最も大きい功績を挙げた選手は、藤原敏男氏でしょう。改めてそう思わせるのが、4月30日に代々木上原のファイヤーキングカフェ(Fireking cafe)にて行われた藤原敏男古稀祭で、藤原氏の70才の誕生日を迎えて、更にキックボクシング目白ジム入門して50周年、タイ国ラジャダムナンスタジアム・ライト級王座獲得して40周年という節目を記念しての祝賀会なのでした。
ファンや興行関係者の記憶にいちばん残る存在に対し、よほどの事情が無い限り、参加募集人員から漏れない限り、「行かねば」と集まった人ばかり。
そしてこの日、参加者は会場定員予定数を超える70名。祝辞を述べる代表に選ばれた関係者は、同じキック時代を生きた元・全日本ミドル級チャンピオンの猪狩元秀さん、元・WBA世界Jrフライ級チャンピオンの渡嘉敷勝男さん、K-1チャンピオンで第一人者となった佐竹雅昭さんらが集結。
渡嘉敷さんは「私は空手をやって来た経験から当時の藤原さんの試合もよく観ておりました。」と語り、佐竹雅昭さんは「子供の頃に映画”四角いジャングル”から藤原さんを観る機会が始まり、ニールセンと戦った頃は、放送席に”伝説の人が居る”と思って感動していました。」という、そんな世代の時代に移った選手から、藤原さんの試合をリアルタイムでは見ていない世代まで幅広い中で酒を酌み交わし、戦った者同士が過去の名勝負を熱く語り合ったり、現在の近況を語ったり、皆がそれぞれの人生を歩み、挫けることの無い身体と精神を持つ者同士は、また再会も約束する絆で結ばれた仲間でした。
先月25日には”前夜祭”が行われており、6月と8月にも主催者が替わって地方でも行われる予定という、しつこい程の節目の年の豪勢さ。
藤原敏男氏の御挨拶の言葉には、織田信長の言葉を借り、
「人間の一生は50年、あっという間に過ぎてしまう。悔いの無いように一生懸命やることが大事だ !」と語った後、御自身の人生に触れ、「3月で70才になりました。あと30年、どうやって生きて行こうかと思い(一同笑)、清く正しく美しく、そんな感じで生きて行こうかと思います ! 」
いつもの期待に応える笑いを誘うスピーチでした。
笑いを導く御挨拶は、先月に行われた古稀祭”前夜祭”で述べられたスピーチにもあり、「私の人生で、いちばん夢中になったものは何でしょう。”女”とか”ゴルフ”という声が挙がっていますが、全く当たっておりません(一同笑)。本当は”キック”が最高でした。」と笑いを誘いつつ、「今は走ることもサンドバッグを蹴ることも出来ません。」と自由に歩き回るには困難な日々でも、明るく強い精神力を持つ男のオーラがありました。
足の症状は、現役時代の後遺症で、両足首周辺の疲労骨折とも言える脆くなった数ヶ所の負傷、10本ほどのボルトを打ったり抜いたりの手術を何度か受けている様子で、今は杖をついての歩行となっている毎日です。
藤原氏が獲得したムエタイ・ラジャダムナンスタジアム王座は、わずか3ヶ月足らずで現地防衛戦で奪われていますが、それまでにもランカー以上の選手と幾多の接戦の名勝負を展開し、ギャンブラー(現地観衆)から高い評価を受け、現地でも知名度あるのが藤原敏男氏であり、1997年にはタイでスポーツ記者クラブによるムエタイ殿堂入りするほどの功績。これを越える選手が現れていないことが、現在もその功績を称えられる要因でしょう。
キックボクシング界に於いて、これまでチャンピオンは沢山存在し、幾多の祝勝会は開かれていますが、10年、20年と、節目の年に多くの参加者が集う祝賀会を開くことが出来る選手はどれだけ出現するでしょうか。
今後のキックボクシング界に必要な名選手は、チャンピオンベルトの獲った数ではない、周囲に長く称えられる功績での”藤原敏男超え”なのでしょう。期待できる選手は幾らか存在する中、どうやって輝くか、今後の課題であるかもしれません。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」