これほど大規模に報道されているので、今さら口を挟むのが憚られるが、やはり一言言っておかねばならない。関西学院大学と日本大学アメリカンフットボール部の定期戦(5月6日)に発生した、日本大学ディフェンスによる極めて危険なタックルについての問題である。
◎[参考動画]関学大日大戦アメフット反則シーンその1(日刊スポーツ2018/05/14公開)
◆「人殺し」タックルと内田正人監督
この問題につては、大手メディアもかなりの時間や紙面を割き、解説している。識者により多少の違いはあろうが「あのタックルは許されるものではない」との点で見解の一致をみているようだ。その結論に私も異論はない。そして当該危険プレーを行った選手が、個人の判断ではなく、監督、コーチ公認の戦術のもと、「人を殺してしまうかもしれない」タックルがおこなわれていたであろうことにもほぼ間違いないだろう。
日本大学アメリカフットボール部の内田正人監督はくだんの試合以降、姿を見せることなく、どこかに消えてしまった。この行為ひとつを見ても、大学スポーツ部の監督としては失格である。選手のミスではなく、監督が示した規格外のルール違反を説明する義務は内田正人監督にある。私はこの問題が発生して2日後に日大アメリカンフットボール部に、プレーの不正と事後対応の杜撰さを問う内容のメールを送ったが、5月16日現在何の返答もない。
日大フェニックス(アメリカンフットボール部の愛称)は、かつて、東の日大、西の関学といわれ、毎年のように大学日本一を決める甲子園ボールで対戦を続けてきた。篠原監督率いる日大は、伝統的にショットガン攻撃を持ち味に、相手チームの守備をかく乱した。関東での日大一強は揺るぎなかったが、関西では京大が1980年代から台頭し、立命館も続いた。近年関西リーグでは関学と立命館が例年優勝を争っているが、関東では法政、慶応などに大きな力の差がなく、甲子園ボールにも関東の同一チームが2年続けて出場することは珍しい。
◆「こんな時こそ」アドバイスを仰ぎたい危機管理学部学部
さて、問題は日大によるラフプレーだ。日大には長く強かった歴史があるものの、昨年の甲子園ボールで優勝するまでに実に27年のブランクがあった。そしてあえて指摘するが、日大の監督内田正人氏は日大で常任理事を務める人物でもある。その日大に「こんな時こそ」アドバイスを仰ぎたい学部がある。その名は「危機管理学部」である。
同学部の案内には、
〈学祖・山田顕義の理念を受け継ぐ危機管理学部
本学の前身である日本法律学校を創設した学祖・山田顕義は、1844(弘化元)年に現在の山口県萩市に生まれ、14歳で吉田松陰の松下村塾に入門。高杉晋作や伊藤博文をはじめ、維新史に名を残す門下生たちと深く交わり、大きな影響を受けました。後に岩倉使節団の一員となって欧米諸国の先進的な文化を視察した学祖は、軍備拡充よりも教育の普及や法律整備が急務であると確信し、日本を法治国家とするべく近代法の制度設計に邁進。1883(明治16)年から1891(明治24)にかけて司法卿・司法大臣として、明治法典(刑法、刑事・民事訴訟法、民法、商法、裁判所構成法など)の編纂を行い、我が国の“近代法の父”と呼ばれています。
当時、欧米諸国の法律を学ぶことが主流の法学教育に疑問を抱いた学祖は、日本の伝統・慣習・文化を踏まえた法律教育のための学校創立を構想していた宮崎道三郎ら若手法律学者を支援し、自らが所長を務めていた皇典講究所に校舎を借りて、1889(明治22)年に日本法律学校を創立。幕末の日本が外圧にいかに対処すべきかを考え、明治維新後は国際社会で通用する国家建設を進めた学祖は、日本の近代化の過程で直面した安全保障や危機管理のあり方を法学的な観点から模索したものといえるでしょう。危機管理学は新しい学問領域ですが、その意味で日本大学の起源とも関わる、非常に重要な研究分野だといえます。〉
と紹介されているが、吉田松陰、伊藤博文、高杉晋作らは、私の目から見れば民間政権であった江戸幕府に不満を抱き、神話の天皇制を持ち出し、「富国強兵」、「和魂洋才」との掛け声で、ロシアや中国に戦争を仕掛け、朝鮮半島を侵略したもの(あるいはそのイデオローグ)として記憶されている。
日本大学の「危機管理学部」はそういった連中の直系だ、と紹介文は述べている。なるほど現在の教授陣を見れば、
◎安部川元伸 教授
1976年から2013年まで、37年間にわたって公安調査庁に奉職し、その間、現場局において調査事務に携わり、1989年から本庁にて国際情勢、国際テロ情勢等についての情報収集、情報分析業務及び国際渉外業務に従事した。また、2001年の9.11米国同時多発テロ、2008年の洞爺湖サミットに際しては、庁内において、我が国の危機管理情報の収集並びに分析業務で陣頭指揮を執った。これらの経験は何物にも替えがたいものであり、自身の専門性を築き上げる上で大いにプラスになった。
2013年に公安調査庁退官後は、約2年間、日本アイシス・コンサルティング株式会社において、主に日本企業の在外での活動に資する情勢分析資料の作成、危機管理のアドバイス等を担当した。2014年末をもって同社を退職し、2015年4月から日本大学総合科学研究所に教授として所属。
◎勝股秀通 教授
元読売新聞社記者。1983年入社。新潟支局、北海道支社を経て東京社会部に所属。東京地検でリクルート事件を担当、その後警視庁などの担当を経て93年から防衛省・自衛隊を担当。民間人として初めて、防衛大学校総合安全保障研究科(97-99年)を修了、その後、防衛、安全保障問題の専門記者として編集委員、解説部長、論説委員、調査研究本部主任研究員を歴任し、2015年(平成27年)4月から日本大学総合科学研究所教授、16年4月から現職。
◎金山泰介 教授
昭和32年京都市生。昭和55年東京大学法学部卒業後警察庁入庁。内閣安全保障室参事官補、石川県警察本部警務部長、在タイ日本大使館一等書記官、内閣調査官、警視庁公安部参事官等を経て、山梨県警察本部長、中部管区警察学校長、科学警察研究所総務部長、栃木県警察本部長、警察大学校警察政策研究センター所長等を歴任し、平成26年埼玉県警察本部長を最後に退官。平成28年4月より現職。
その間、ハーバード大学客員研究員、一橋大学公共政策大学院客員教授、東京大学公共政策大学院非常勤講師、京都大学公共政策大学院非常勤講師、慶應義塾大学大学院非常勤講師、上智大学法科大学院非常勤講師、埼玉大学大学院客員教授として社会安全政策及び刑事司法・警察行政に関する研究、教育にも従事。
◎河本志朗 教授
1954年山口県生まれ。1976年同志社大学経済学部卒業後、山口県警察官拝命。1991年から外務省出向、1994年から警察庁警備局勤務を経て、1997年から公益財団法人公共政策調査会第二研究室長として、国際テロリズム、テロ対策、危機管理などを研究。2015年4月から日本大学総合科学研究所教授。2016年4月から現職。
と、ここは「内閣調査室」か「防衛庁の諜報部隊か」と勘違いするような経歴の教員が並ぶ。大学の中に「入れてはいけない」ひとの品評会のようなメンツである。だが、常務理事内田正人が危機に瀕している、しかも内田は学内ではNO,2の実力者との評価もある人物だ。「危機管理学部」の出番ではないか。だが「危機管理学部」に限らず、日大当局からは、世間が納得のできる説明や弁明はいまだに行われていない。「危機管理学部」は身内の危機管理ができずに天下国家の危機感理を論じても、信用を得ることはできないであろう。
◆開学以来、支配層の意図が脈々と流れている日大の歴史
しかし、批判を恐れずに書くが日大とは代々このような学風を持った大学なのだ。先に紹介した「学祖・山田顕義の理念を受け継ぐ危機管理学部」で明確なように、日大には支配層の意図が開学以来、脈々と流れている。1960年代には裏口入学や、20億円(!)の使途不明金が問題化し、それまで学生運動がほとんど見られなかった日大でも、大規模な不正解明を目指した運動が起きる。それに対したのは体育会や右翼学生で、校舎の上から重たい石を投下し多数の負傷者を出した。
日大の学生たちは、日大講堂における団体交渉で古田重二良会頭(この呼称も不思議である)らの総退陣を勝ち取るが、後日総理であった佐藤栄作の後ろ盾を得て、日大当局は約束を反故にする。それ以降も日大の基本性格は変わっていない。
そんな学風の日大が「危機管理学部」を備えながら、せっかく27年ぶりに勝ち得た日本一の座を無化するどころか、アメリカンフットボール部、いや日大の存続までが論じられる危機に瀕している。繰り返すがこのような時に役に立たないようでは「危機管理学部」の存在はないだろう。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。