◆援農という政治工作

膝づめで親しく話をして、酒を酌みかわしながら信頼関係を築いてゆく。そして政治的な課題を共有して、ともに行動計画を練る。そんなのが三里塚における、理想的な「政治工作」というものだったのだろう。まだ二十歳になったばかりのわたしは、現闘キャップが言う「政治工作」という意味があまりよくわからなかった。とは言いながらも、援農をすることで反対同盟農民への「政治工作」を、わたしも果たしていたのだ。三里塚における「政治工作」とまちがいなく、農民たちに恩義を売るという意味だったに違いない。農民たちにとってわたしたち支援学生は、使いやすい労働力だったのである。予期せぬ援農の朝は、こんな感じで始まったものだ。朝もはやくから、現闘小屋の電話がリーンと鳴る。

 

映画『三里塚のイカロス』

「はい、もしもし。○○団結小屋です」
「いま、そっちに学生さん、いるのかい?」
「は?」(現闘のキャップ)
「援農な、頼めないべぇか?」

電話を掛けてくるのは、決まって「おっ母ぁ」である。家父長である当主が掛けてくることは、めったになかった。親父たちは面倒なことはすべて、おっ母たちに任せたものだ。

「どうなんだべ?」
「はぁ……」

 現闘キャップ、ここで寝起きのわたしの顔を見ていますね。
「援農、来てくれない? 学生さんいるんだべ?」
「ええ、ひとりいますけどね」
「頼むわぁ。来させてよ!」

ややあって、現闘のキャップがわたしに問う。
「政治工作、いや援農、行けるかい?」
「は、はぁ」
「頼んだぞ。よろしくね」
「は、はい!」

かくして、その日のわたしの活動が決まったのである。本当は前日の夜まで鉄塔(岩山鉄塔)当番で、今日はオフだったはずなのに。現闘のキャップはクルマの修理に行かなければならないので、わたしが援農をすることになったのだ。こういう緊急呼び出しの援農というのは、きまって待遇が悪い。そもそもボランティアの援農に「待遇」の良し悪しもなかろうと思われるかもしれないが、貧乏学生にとって昼飯と晩御飯の「待遇」はきわめて重要なのである。若い身に三里塚の地は何の楽しみもなく、ひたすら食べることだけが生きがいだった、ような記憶がある。思い返してみると、現闘団が二名ほどの党派で、しかも実働部隊が学生なのに、反対同盟の方針を左右する「政治工作」など行なえるはずもない。援農で恩義を売ってはその恩義をもとに、自分たちのイベント(当時は「総決起集会」などと呼ばれた)に参加してもらう。そんなことだった。

◆ケチだった援農先、豪華だった晩餐

農作業に慣れない学生にとって、援農は大変だった。大変なのは、その対価である食事だった。関西から援農に入った学生が言ったものだ。

「あそこ、昼飯がひどかったやん。サトイモの煮ッころがしだけやろ。なんじゃいこら、で、僕らは納屋で寝てましたよ。ベタベタに疲れてたし」

なんと、昼飯が気に入らなかったから、作業をサボって納屋で寝ていたというのだ。たぶんその時は、援農の人数が多かったのだろう。2~3人しかいない場合は、そうはいかない。朝の9時ごろから始まって、夕方6時を過ぎるまでひたすら働いたものだ。

その代わりに、青年行動隊の若手の農民がその大半だったが、農作業後の食卓は豪勢だった。すきやき・焼き肉・寿司の店屋物、お酒も出て三里塚闘争の将来を語り合いながら、という具合だった。援農土産に「持っていきなさい」と言われて持ち帰る採りたての野菜、とくに真冬のニンジンや大根は美味しかった。シャキッと歯ごたえのあるみずみずしさは、都会のスーパーで買ったものでは味わえない。採りたての野菜が美味しいのだという記憶は、いま市民農園を借りた野菜づくりに生きている。

◆反対同盟の人々

反対同盟の人々についても、印象を記しておこう。東峰部落の石井武さんは、わたしたちの団結小屋の庇護者であるとともに、横堀要塞戦ではわたしの相被告だった。石井という名前は三里塚・芝山地区には多い名前で、例の「731部隊」は石井部隊とも呼ばれていた。石井武さんは731部隊ではなかったが、満州で活躍された関東軍の陸軍将校である。「おれは匪賊を何人××したか知れない」が酒を飲んでの口ぐせだった。元将校だけに、戦略的な視点や戦術的な判断は卓抜だった。

三里塚闘争の軍師といえば、岩沢吉井さんをおいて他にない。ほかならぬ3・26管制塔占拠の作戦立案は、この人が空港建設説明会の混乱のさいに公団事務所から手に入れていた図面がもとになっている。それは地下水道の精緻な見取り図であり、空港の地下構造の全容である。すなわち、空港を裸にしたようなものだったという。この山林の向こうを掘れば、空港中枢に通じるマンホールがあるはずだ、という感じだったらしい(映画「三里塚のイカロス」)。


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

とくに名前は控えますが、戸村一作委員長亡きあと、反対同盟の顔として活躍されたK氏は、そのオモテ向けの顔と、裏側の顔が乖離する人物だった。とは言っても、他の幹部たちのようにウラ金づくりに走ったりしたわけではない。「他の幹部」というワードが気になる方にはI副委員長など、善意でありながら自分の土地をひそかに売ってしまったり、闘争の資金を私的に流用した方々のこととしておきます。

さて、そのK氏は凛とした演説の風情とはまったく逆に、宴席(全国集会の会場係の慰労会)になると、へらへらとした顔になる。若い女性が大好きだったのだ。何かといえば、「こっちに来なさい」と、若い女性活動家に言葉をかけては、身体を押し付けるように、にじり寄る。ああ、見た目は立派な人なんだけど、こういう面があるのだなぁと、わたしはその光景を眺めていたものだ。ただし身体を押し付けようとしても、直接には触れなかったように記憶している。その意味では、けっしてセクハラではなかった。

わたしの相被告で、秋葉哲救対部長は温厚な人格者だった。わたしたちと要塞に立てこもった反対同盟幹部のなかでは唯一煙草を嗜まれない方で、最初の意志統一の会議で「嫌煙権を主張しますぞ」などと、みんなを笑わせたものだ。地下道(脱出用トンネル)では最後までわたしたちと一緒にあり、最後は「上に掘って酸素を入れなさい」と指示してくれた。酸欠寸前だったわれわれは、秋葉さんに生命を救われたと言っても過言ではない。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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