7月6日早朝から「麻原彰晃死刑執行」のニュースが、列島を襲う大雨情報の中を狙ったかのように散発的に報じられ始めた。オウム真理教関連の死刑確定囚は13人。そのうち実に7人の死刑がこの日正午までに執行された。

オウム真理教関連の死刑確定囚は3月に東京拘置所から、全国の「死刑執行」施設のある拘置所に移送されており、「東京五輪前に一斉執行があるのではないか」と関係者の間では推測されていたが、「東京五輪前」どころか国会会期中で、全国的気象災害が懸念される非日常的天候の中、戦後史最大人数の「同日死刑」が執行された。

◆「人の死を止められなかった」経験から死刑制度を考える

私は「死刑廃止」論者である。

どんな悪党でも、何人殺人を犯そうが、国家による死刑には絶対反対である。理由は簡単だ。「人を殺す」ことは(正当防衛や殺意のない過失致死などを除いて)、絶対にあってはならない「悪行」である、と確信するからだ。この議論になると必ず「じゃあお前の家族や子供が殺されたらどうする?」という問いを投げかけてくる人が多い。私の回答は、

「私はたぶん殺人者に敵意や殺意を抱くだろうが、私的復讐感情を吸収するのが、成熟した法治国家の姿である。私が殺人者を殺せば、復讐感情の連鎖が起こる。『感情』の問題と『法』の問題を混乱させるべきではない」

である。表面的に格好をつけているように聞こえるかもしれないが、私は過去に、「ひとの死を止められなかった」経験がある。それも複数人である。私がもう少し注意深かったら、神経が繊細であったら、忙しくなかったら彼ら・彼女らが命を失うことを止められた可能性がある。つまり私は人の死に積極的に関与したわけではないが、自然死ではない「死」を止めることができたかも知れない立場の人間であった。その経験は私をいまだに「縛って」いる。ときどきに彼ら・彼女らの顔や言葉を思い出す。私は「殺人犯」としての責任はなかったにせよ、彼ら・彼女らの命を「途絶えさせる」ことに関係した責めを負って生きている。

と同時に私は殺意に近い感情を長年抱いている対象者が複数いる。私を「殺そう」と企図した人間や、私を破滅させようと徒党を組んでいた連中である。しかし、私は前述の原則に則って、絶対に怨嗟による「殺人」を犯さない、と決めている。決めているが情念の部分では「憎い」ことに変わりはない。

後先考えずに「殺(や)ろう」と思えば、「殺(や)れた」瞬間はいくらでもあった。が、愚かな私でも社会を学び、世界に接し、法に触れる中で「殺人」には絶対に手を染めてはならない、と確信が持てるようになった。「殺人」は個人による殺意に基づく「殺人」や、権力による法を後ろ盾とした「殺人」(死刑)、さらには国家間の意思による「大規模殺人合戦」(戦争)があり、それらは規模や動機の違いはあれ「人を殺す意思を持った行為」である点においては共通ではないのか。であるならば「公の言い訳」を与えられた大規模殺人合戦(戦争)は、ほぼ「絶対悪」(侵略者に対する抵抗など少数を除き)であるとの結論に至った。

回りくどいようであるが、「戦争」を嫌悪し、忌避するのであれば、「死刑」にも反対せねば理屈が一貫しない(世間では「戦争」も「死刑」も賛成の言説が増えているようである)。極めて簡単な論理なのだが、いまだに「被害者の復讐感情」を過剰評価する、精神性から抜けきることができない日本文化では、まだ「死刑」が存置されている。私は被害者感情を「無視しろ」、「放置しろ」と思ってはいない。私自身、殺意に基づいて「殺され」かけた経験があるので、被害者感情の一端は理解している。だから被害者感情は「死刑」ではない、それこそ国家によるケアーで解決が目指されるべきものであると考える(被害者感情が解消できるか解消できないかは、簡単な問題ではないが)。

ようやく日弁連も「死刑廃止」を遅まきながら方針として打ち出した。繰り返すが理屈は簡単だ。「人殺し」は「悪」なのだ。「人殺し」に対する処罰が「人殺し」であるのは、明白な矛盾であり倒錯だ。

◆オウム真理教はなぜ権力から放置されたのか?

この期に及んだので当時からの疑問を披歴する。オウム真理教はどうしてあそこまで肥大化し武装するまで、権力から放置されたのか? オウム真理教が急成長したのは、新左翼対策に大幅な人員増がなされた公安警察や公安調査庁の人員が余り、彼らが「仕事」を探さなければならない時期であった。新左翼の退潮により「仕事を探していた」はずの公安警察、公安調査庁は、1989年に坂本堤弁護士一家殺人事件を起こし、素人目にも危険性が明らかであったオウム真理教をどうして、監視対象にしなかったのか(公安調査庁に対しては「廃止論」が現実的に議論されていた時期でもあった)。

ヘリコプターや武器材料をロシアから輸入していること、ロシアでも広範な布教活動を行い現地から短波ラジオ放送を行い、マフィアと結びついていたことを、公安警察や公安調査庁は、本当にまったく知らなかったのか。この点がどうしても納得できないし、なによりも不自然である。

同日7人の死刑執行という「国家による暴虐」が行われた日に、他人事としてではなく「死刑」を考えよう。その延長線上に、おぼろげであった輪郭が像を結びだしてきた「戦争」があるのだ。内に向けては「死刑」、外に向けては「戦争」。国家の実像がそこにある。


◎[参考動画]オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(63)ら7人の死刑執行を受けて「ひかりの輪」の上祐史浩代表が会見(ANNnewsCH 2018/07/06公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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