もうすぐ自民党の総裁選挙である(9月20日)。安倍晋三と石破茂の一騎打ちだが、どちらが勝っても変化はないという評価は、しかし現実の政治過程を投げ打った考えではないかと、わたしは思う。少なくとも、安倍のような政治技術主義(目的のためには手段を選ばない)は、石破にはない。その意味で石破に頑張って欲しいと思うのだ。いかに石破茂が軍事オタクの再軍備、核武装検論者であろうと、安倍のようにごまかさずに民主主義の手続きを踏むと考えるからだ。この民主主義の手続きとは、ちゃんと質問には答弁に答える、論点をはぐらかさないという意味である。いずれにしても、どちらが勝っても同じである、という議論はダメだと思う。
たとえば、よりましな政府と体制を選ぶことで、敵(資本主義? 天皇制?)を延命させる。あるいは政権に融和的になるという「左派」の批判は、現実の政治過程を投げやることで、ぎゃくに現状を容認しているのだと、わたしは思う。現在の安倍政治の延長に、それがさらに危険な後継者に引きつがれ、戦争を可能とする安保法制のもとに動き出す。それも本人が知らないうちに、事態が破局にまで突き進む。つまり戦争が起こってしまう可能性があるのだ。
何が言いたいのかというと、昨年の今ごろまでは安倍の「後継者」が防衛省をシビリアンコントロールできなかった稲田朋美だと目されていたからだ。安倍が党規約を変えてまで三選を可能とすることで、その先にもはや石破茂の目はないだろうと思われた。そうすると、当時の朝鮮半島情勢のなかで、共和国(北朝鮮)のミサイルが発射されたとき、そしてそれがSM3(洋上イージスシステム)やパック3(地上迎撃ミサイル――ただし射程は25キロほど)の対応を余儀なくされたとき。そして第二弾を防止するために、ミサイル発射基地を事前に攻撃したら、まちがって戦争が起こるではありませんか、ということなのだ。なぜならば、南スーダン派遣自衛隊の日報問題を掌握できない大臣に、ミサイルが飛び交う瀬戸際での指揮は、とうてい執れないからだ。
◆最終的には、政治の延長である戦争は個人が発動するものなのだ
けっきょく、戦争は個人の指揮による発動である。たとえばヒトラーがいなくても、1930年代のドイツは戦争に活路を求めたであろうと、よく云われる。なぜならば、莫大な賠償金とハイパーインフレによる国民経済の逼迫は、それを打開するための政策的なインパクトを必要としていたからだという。それが国民経済の破綻を外化する欧州制覇、ドイツ民族の生活圏の確保であるはずだからだと。
しかしそれは、ヒトラーのミュンヘン一揆による挫折ののちの鉄鋼資本との提携、国防軍と結んだレームの粛清(突撃隊を皆殺しにした「長いナイフの夜」)など、茨の道ともいえる政治過程を無視している。30年代のドイツは、アドルフ・ヒトラーという個性を抜きに論証することは出来ないのだ。偶然かもしれないが、政治危機にさいして個人が役割りを発揮することがあるのだ。ヒトラーなくして、ドイツの戦争発動はなかったであろう。わが国においても、戦争発動は個人が決断した。そこに逆らえない「空気」があろうと、しかし個人が決めたのだ。
◆安倍の政治センスの良さが危うい
かつて、わが国は軍部の暴走(関東軍の中国戦争)の延長に、アメリカおよび西欧列強との対立に追い込まれた。なし崩し的な日中紛争と対米矛盾を解決するために、近衛文麿と東条英機という、天皇の信任の厚い政権が国家を運営したのだった。近衛も東条も対米戦争慎重派であり、むしろ非戦派だったと多くの証言がある。昭和16年8月に行なわれた若手の官僚と将校のシュミレーション(『昭和16年の敗戦』猪瀬直樹)では、対米戦敗北の結果が出て、東条もその結果に納得していたという。しかるに、国内の海戦への「空気」と情勢(対米交渉)は、東条を立ちどまらせることを許さなかったのである。その「空気」は東条をして、開戦を決断させた。かくのごとく、戦争への道は危うい「空気」と情勢の混乱によるものだといえよう。
安倍とその政権の危うさは、その政治的なセンスの良さ、言い換えれば「政治家としての能力の高さ」にある。この能力の高さとは外見上はパフォーマンスのようなものだが、たとえば、安保法制を自分の肉声で説明できることだった。「敵が味方を攻撃したら、その味方を護ることは、自分を護ることになるのです」「ですから、平和のための法律なのです」と。このあたりのパフォーマンスが、勢いで戦争を始めてしまいそうだと、わたしは危惧する。戦争はつねに「平和」を名目に行なわれる。なにしろ安倍は、文民統制のできない防衛大臣に、後継を託そうとしたのだから――。
なるほど、安保法制は「自然法としての自衛権」を元にしているが、じつはこれは安倍が考えたものではない。自民党の安全保障部会を仕切ってきたのは、ほかならぬ安倍のライバル、石破茂なのである。そこで安倍は「自然法としての自衛権」が憲法九条にも「加筆」されることで、解釈改憲を成文改憲に持ち込めると、自民党の改憲草案を飛び越えて「加憲論」に走った。これは自民党の議論を経ていない。
◆「加憲」が憲法を崩壊させる
そもそも、憲法九条は「国際紛争の解決における武力の否定」である。そこに「ただし、この規定から自衛隊は除外される」とか「自衛権としての自衛隊の保持は排除しない」などと、条文の精神と相容れない条項(加憲)を入れてしまうと、解釈の整合性がとれないのだ。「ただし」とか「しかしながら」とかの逆接を入れると、条文自体に矛盾が生じる。そこで、矛盾した条項を入れるよりも、九条を撤廃して「国防軍(国防省)」の条項を明記したほうが、法の運用が正確になる。政治家の恣意性や情勢の変化に拠らない、誰がやっても間違えのない運用ができる。しかしながら、それらの改憲は国民的な議論をもって行なわれなければならない。これが石破の立場であろう。
こうしてみると、両者の違いは歴然としている。安倍においては、誰にも説明のできない脈絡で「自衛権」が「戦争放棄」と同居し、石破においては「自衛権」が「自衛戦争」に限定されるのだ。ただし、直ちの改憲は望めないはずだ。憲法九条の完全な否定は、国民的な議論が必要となるからだ。それを回避する安倍の「加憲」こそ卑怯な裏口改憲なのである。
総裁選に改憲論が持ち込まれれば、もはや自民党の機関を通じた議論は行なわれないであろう。おそらく安倍は、総裁選挙後に直ちに「改憲法案」を国会に提出して、数を頼んだ改憲になだれ込むはずだ。きわめて危険な水域に入ったというほかはない。心ある自民党員は、石破茂に投票せよ。である。
※安倍と石破の経済政策については次回に詳述したい。そこでも安倍の政治センスが、否応なく発揮されているのは周知のとおり。石破茂の決定的な弱点が、その学者的なセンスと経済オンチにあることも、併せて解説していこう。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
雑誌編集者・フリーライター。著書に『山口組と戦国大名』など多数。