話題の最新刊!板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

日芸(日大芸術学部)は日大とは、また別の大学だと言われる。いまでは芸能界やテレビ業界との結びつきを言われることもあるが、その真髄は芸術家志望という華やかさであろう。それ自体がお祭のような日大闘争のなかで、きわだって劇場のごときイメージが芸闘委にはある。その芸闘委を中心とした芸術学部OB会の『思い出そう! 一九六八年を!!』を読んだ。稀代のカリスマ、板坂剛のプロデュース・主筆によるものだ。板坂は冒頭にこう書いている。

「私が探しているのは、自分が遭遇したあの劇的な一時期、若者に活力を与えた“時代”の正体である」わたしはその「正体」は、ほかならぬ日大闘争そのものにあったと思う。

◆発火した68年の記憶

ヘルメットにゲバ棒、長髪にGパン。圧倒的に大量な若者たちの層、おびただしい学生の数は、おそらく彼らが何かを流行らせれば、そのまま大きなブームとなる時代であった。事実、学生運動にかぎらず登山やサーフィン、水上スキーなど、団塊の世代がさまざまなジャンルで小さなブームをつくっては、文化の裾野をひろげた。68年はまたグループサウンズブームの年(全共闘と軌を一に、約一年で終息した)でもあり、いわば発火しやすい年だったのである。当時、小学生だったわたしは、時代が発火しているという記憶だけが鮮明だった。

発火するからには、入れ物が大きくなければならない。板坂も引用している『情況』2009年12月号の特集サブタイトルは、じつに「全共闘運動とは日大闘争のことである」だった。元日大生の座談会やインタビューを編集しながら、わたしはそれまで見聞していた全共闘運動のイメージが激変するのを意識していたものだ。ふつうの学生たちが立ち上がり、右翼学生との命がけの闘いのなか、助けにきてくれたはずの警察(機動隊)が自分たちに暴力を振るう。6月11日の祭の始まりがそれだ。

9.30(団交勝利)以降、あるいは11.22(東大集会)から翌年にかけて、全共闘から70年安保闘争の政治活動家になった日大生も少なくはなかったのを知っている。だが、ほぼ半年のあいだに、ノンポリ学生から全共闘の活動家になり、そしてそのまま普通の学生にもどった人たちの言葉には、当時のままの意識がやどっているようで興味を惹かれた。この本の巻末にも、当時の意識のままの座談会で生身の言葉を拾うことができる。なにしろ、ふだんは活動家っぽくない板坂剛が学生運動の歴史を、座談会の参加者に(けっこう熱っぽく)概説しているのだから──。ほんと、党派のコアな活動家みたいだ。

秋田明大氏(右)と著者(左)(文中より)

山本義隆氏(文中より)

◆東大イベントに殴りこめ

数が質を生み出す原理から、日大生が立ち上がったことで「学園紛争」に火が点いたのは疑いない。同じ時期に東大医学部で処分問題が学生自治会のストライキを生み、その延長に闘争委員会方式の全共闘が誕生した。そして当時の日大全共闘と東大全共闘の位相の落差とでもいうべき「相互の意識」あるいは、愛憎にも似た感じ方もこの本でよくわかった。東大全共闘も主役には違いないのだから、日大への気遣いの足りなさは「御多忙」というしかないと、わたしのような外部の者は思う。

ただし、日大全共闘には不義理な山本義隆氏が情況前社長の大下敦史(元はブント戦旗派)の追悼集会で講演を行なったのは、山本氏が主宰者の一人でもある「10.8山﨑君プロジェクト」のベトナム訪問協力への返礼を兼ねてであって、同プロジェクトに大下の義弟が深く関与していることから、その義弟が主催する追悼イベントに義理で講演したというのがウラの事情である。山﨑博昭君が大阪大手前高校の後輩であることから、山本氏は同窓生に誘われてのプロジェクト参加であったこと。したがって、山本氏はきわめて個人的な義理を尊んだということになる。

それにしても、日大全共闘と東大全共闘には溝があるのだろう。来年の1月に安田講堂を借り切って、元東大生たちがイベントを計画しているという(未公表)。殴りこんでみたらどうだろう。なぜ君たちは東大を解体しなかったのに、記念イベントなんてやるんだと。いますぐ、この赤い象牙の塔を壊そうじゃないかと。なぜならば、いまなお日大生は右翼暴力団の支配に苦しんでいるのだ。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

『情況』編集部。編集者・著述業・Vシネマの脚本など。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社)など多数。

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