「のぞき」、「隠し撮り」は犯罪とされる。それはそうだろう。見てほしいと思わない姿や、他人から勝手に撮影されることは不愉快なことだ(世に「露出狂」という性癖の方がいるが、そういう方は、他人に「みられる」こと、「びっくりさせること」に快感を感じているのであり、「露出狂」の方も「のぞき」や「隠し撮り」は歓迎しないのではないか、とあくまでも推測ではあるが想像する)。

「のぞき」も「隠し撮り」もこっそり行うのが原則だろう。「のぞく」あるいは「隠し撮る」相手にばれてしまったら、怒られるか、逃げられるかしてしまうのだから。その点まったく褒められた行為ではないけれども、まだ「のぞき」や「隠し撮り」には「やましさ」や「慎ましさ」の片鱗が感じられる。翻って以下のメッセージを読者諸氏はどう受け止められるだろうか。

東京、大阪の電車に乗ると年中「テロ特別警戒中」のアナウンスが流れる。あれがけったくそ悪くて、いつも腹が立っていたのだが、先日東京の地下鉄内でこの広告を目にした。

 

「強くなれ、Tokyo」。

「東京メトロは、犯罪などのリスクを想定し、駅のセキュリティ対策を進めています。セキュリティーカメラを駅構内へ増設し。車両内での運用も今秋から開始。」

ただでも監視カメラだらけの「監視(のぞき)」カメラがそこここに設置されているのに、さらに駅にも増設し車内まで撮影するという。地下鉄に乗ったら撮影されることを、東京メトロは広告ではなく利用者一人一人にその可否を問うべきじゃないのか。地下鉄に乗るひとのなかには、あまり人には言いたくない理由で、あるいは知られたくない行き先に行くひともいるだろう。そういう「自由」を侵害されたうえ、勝手に撮影されなければならない法的根拠はあるのだろうか。しかもこの広告には「Go beyond 2020」と訳の分からない英語が書かれている。訳は分からないが「2020」が東京五輪を指すであろうことは間違いない。

東京にお住いの皆さんや通勤通学されている皆さんは、もう日常になっているのでそうはお感じにならないかもしれないが、東京がどんどん監視強化されてゆき、都心が表面上一見「きれい」に変化してゆく様子をここ30年ほど、わたしは薄気味悪く感じており、とくに21世紀に入ってからその勢いは加速度を増しているように思う。だいたい「強くなれ、Tokyo」はそれを読んでいるかもしれない乗客を対象としたメッセージで「もっと監視しますよ」と宣言しているにほかならない。

「2020東京五輪」と題目を唱えれば、土地の不正払い下げは見逃されるし、ボランティアと称する無償労働供与も半強制できる。Dで始まる広告代理店を隠れ蓑にした政府の別働諜報機関は、既に笑いが止まらないほど利益を上げているだろう。天皇の「はとこ」である竹田恆和東京五輪招致委員長は、収賄容疑で起訴されているが、そのことはどういうわけかあまり話題にはならない。「監視カメラ」をどれほど増やしても「贈収賄犯」は見つけられないということか。

 

極端すぎるかもしれないが、檻のない監獄で死活しているようにわたしたちは監視されている。新幹線で東京駅に着くと乗り換え改札口には以前から監視カメラがあった。

いつのころからか知らないけれども、渡り鳥の一群が電線で集団休憩をしているほどに、「これでもか」と「監視カメラ」が設置されている。

カメラの解析度は飛躍的に向上しているし、撮影可能な角度も100数十度はあるのだから、こんなにも監視カメラを並べる必要が果たしてあるのだろうか。

わたしが神経質すぎるのか、Tokyoが「監視したい」欲望のほうが強烈なのか。新幹線改札口天井の監視カメラの列は、刑務所よりも密度が濃く設置されている。

誰が望んで東京五輪は招致されたのだったろう。何が本当の目的で東京五輪は準備されているのだろう。

「強くなれ、Tokyo」

この脅迫的な一語の中にその本質の一端を見る。再度、東京五輪に絶対反対の意を表明する。これ以上加害者に加担してはならない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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『NO NUKES voice』Vol.18 特集 2019年 日本〈脱原発〉の条件

2019年になり、すでに約1ヶ月。これからの1年も、良し悪しは別としてICTをはじめまた様々な新しい技術が登場するのであろうか。

それはメディアとて無縁ではない。インターネットをはじめとするICT技術の発達で世界各地の情報に一瞬でアクセスできるようになった。情報の受け手にすぎなかった一般市民もブログやSNSで情報を発信できるようになった。そして、今までは隠ぺいされ永遠に闇に葬られていたであろう凄惨な事件も、もはや隠し通すことは不可能となった。しばき隊内部で発生し、大手メディアや多くの「リベラリスト」たちが必死で隠そうとしていた「M君リンチ事件」(他称:「しばき隊リンチ事件」)はまさにその一例であり、事件についての説明や事件の実際の音声がネット上に拡散されることになった。

さて近年、AI(人工知能)による文章作成技術の向上に注目が集まっている。2016年に、松原仁・公立はこだて未来大学教授が率いた「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」が、第3回日経「星新一賞」(日本経済新聞社主催)に4作品を応募し、作品の一部が1次審査を通過したことは、記憶に新しい。AIが小説を書くことに目覚めるというストーリーは、色々な意味で印象的であった。

小説だけではない。新聞記事もAIが執筆に加わり始めている。2016年8月13日の日経の夕刊の記事には「ワシントン・ポストがリオネジャネイロ五輪の報道で試合結果やメダル獲得数についての記事をAIによって執筆している」ということが掲載されている。さらには、NTTデータがAI技術の一つである「ディープラーニング技術」を用いた天気予報ニュース原稿の自動生成実験を、2016年9月から4カ月間にわたり実施した。実験の結果、作成されたニュース原稿はおおむね従来の気象と矛盾しないレベルに達していることが明らかとなった。

 

NTTデータ、人工知能を用いたニュース原稿の自動生成に関する実証実験を実施(2017年1月27付け日本経済新聞=NTTデータのプレスリリース)(2019/01/22閲覧)

新聞記事や行政の手続き文章、特許の出願書類などは、伝える内容が明確で文章の典型的なパターンがあるため、機械化が容易と言われる。これらの文章の自動作成は、十分な数のサンプルを集め、そのパターンをAIに学習させれば実現可能だという。

こうなるとジャーナリストや記者は、今まで以上に問題意識を持ち、コンピュータにはできない、より深い調査やフィールドワークをしていくことが重要になる。独特な切り口から報道できる能力が求められよう。単に「平凡な」記事を書くだけではAIに取って代わられる可能性もある。よく官邸や官庁の記者会見で、鋭い質問をするわけでもなく、聞き取ったことを素早くPCに入力しているだけの記者クラブの記者をテレビでよく見かける。あるいは何の疑問もなく警察から提供された情報をそのまま記事にしている記者もいるだろう。他にも、冤罪事件に対して過去の自分たちの報道の過ちを反省せず、「ボー」としているような記者もいるだろう。

このような問題意識が薄くて、深い分析ができない、あるいは分析しようとしない記者はやがてAI記者に取って代われてもおかしくない。先ほど紹介したAIによる文章作成技術とより向上した聞き取り能力(例:Android搭載のスマートフォンに「OK,Google」と呼び掛けるとそれを聞き取る)が組み合わさることによって、大臣や企業経営者などの記者会見においてAI記者がその場で瞬時に記事を作成するというケースは十分想定できる。官邸などでの記者会見では、「うまい汁の吸える」記者クラブで政権や公安当局と癒着して、望月衣塑子記者(東京新聞)のように鋭い質問も投げかけず、ただPCに書き取るだけの記者が多数派を占めているという。そのような記者はAI記者に代筆させれば十分であろう。

テレビでも似たような状況になりつつある。少し前の2018年11月に、中国の国営新華社通信ではAIアナウンサーが登場した。実在のアナウンサーの映像と声を用いて、まるで本物の人間のようなアナウンサーが製作された。このアナウンサーは24時間作動し、疲れることも読み間違えることもないという。中国語と英語に対応している。


◎[参考動画]Xinhua’s first English AI anchor makes debut(New China TV 2018/11/07公開)(2019/01/21閲覧)

このようなAIアナウンサーが普及すれば、単に原稿を読み上げるだけの人間のアナウンサーは居場所がなくなる可能性がある(バラエティー番組が主な職場のアナウンサーにはダメージは少ないかもしれない)。ニュース関係となれば、やはりAIにはできないような現地調査や分析を行う能力が今以上に必要になってくる。しかし、日本全国のニュースキャスターで今の政府や社会情勢に批判的な姿勢を持ち、鋭い分析や報道ができるような者がどれほどいるであろうか。

今度もAIをはじめとしてICT技術はメディアに何らかの影響を与えていくであろう。ネットニュースや個人が書くブログなどの普及によって、人々の情報を得る手段が多様化した。それに伴い、これまで一方的に情報を掌握していたテレビや新聞の優位は揺らいでいった。日本において新聞の年間発行部数は年々、減少している。「天下の朝日」新聞も例外ではない(「天下」といっても所詮はこの島国だけの話だが)。

AI記者・AIアナウンサーの出現という技術的な観点からも、原発事件の追及や安倍極右政権の横暴、文明間の世界秩序の再編という社会・政治的な観点からも、今こそ記者やアナウンサーには強い問題意識と優れた分析・調査能力が必要なはずである。それは公共的な視点だけではなく、彼ら自身の将来に関わる事である。

しかし、大手マスコミをはじめほとんどのメディア(の記者)は今日の社会・政治の危機的状況に対して鈍感である。そして徹底的に腐敗している。冒頭でも触れた「M君リンチ事件」はそれを決定的に証明することになった。彼らは事件を黙殺し、自らの権益を守るために凄惨な暴力も「見て見ぬふりをする」という手をとった。このような利己主義的で非情なジャーナリストなど、「中立的」でドライなAI記者によって職場から駆逐された方がましである。残念ではあるが自浄能力がない主流メディアは、いずれICT技術によってより一層追い詰められていく運命なのかもしれない。

▼Java-1QQ2
京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

『紙の爆弾』3月号本日発売!

25回目のプーチン大統領との首脳会談の結果、安倍総理が事前に明言していた「北方領土問題の解決と平和条約の締結を実現する」という目的は果たされなかった。会談後の共同記者発表ではプーチン大統領はもちろん、安倍首相の口からも領土問題の進展についての言及はいっさいなかった。そればかりか、平和条約についてもプーチン大統領は「双方の国民が受け入れ可能で、支持されるものでなければならない」「双方が受け入れ可能な解決策を見いだすための条件をつくり出すには、長く忍耐を要する作業がこの先にあることを強調したい」と主張するだけで、何ら成果を語らなかったのだ。成果が何もなかったかといえば、ロシア側はそうでもない。

◆経済協力のみ約束させられた

領土問題でなんら進展がなかったいっぽうで、両首脳は新たに日露間の貿易額を今後数年で300億ドル(約3兆2900億円)に増やすことで合意したというのだ。ようするに安倍首相は、さらなる経済協力を強いられただけで、二島返還どころか、平和条約の締結も「時間がかかる」「国民に受け入れられるものでなければいけない」と釘を刺されたのだ。

そもそもロシアにとって日ロ首脳会談は、中国の経済成長に圧倒されその経済的支配下に入るしかない現状を打破するために、日本の経済協力を引き出そうとするものでしかない。その導きの糸として二島返還をちらつかせるのはもとより、前提なしの平和条約を先行させようというのも、ひたすら経済協力のための枕詞にすぎないのだ。資源と兵器産業しか経済的資源のないロシアにとって、ITや通信産業で中国の経済圏に受動的に組み込まれる運命にある。その意味ではロシアも必死だが、日本が約束させられた経済協力のいっぽうで、二島返還すらもおぼつかなくなったのが今回の結果だ。


◎[参考動画]北方領土で進展は?日ロ首脳が共同発表ノーカット1(ANNnewsCH 2019/01/23)

◆領土問題は軍事力ぬきでは解決できない

そもそも領土問題において、軍事的な圧力なしに交渉が成立した歴史はない。たとえば沖縄返還においてすら、核を配備した米軍基地の存続というオプション抜きにはありえなかったのは、現在もなお沖縄県民が基地問題で苦しんでいることに明らかだ。その意味では東西冷戦という冷たい戦争、すなわち日本による駐留費の肩代わりという戦争支援行為こそが、沖縄の返還をもたらしたのだ。

ヒトラーにおけるラインラント(第一次大戦後の非武装地帯)進駐も、日本の仏印進駐(フランス領インドシナへの軍事駐留)も、駐留する軍隊があってこそ、戦争を避けたい側(フランス・イギリス)に許容されたのである。ラインライトも仏印もヒトラーおよび大日本帝国にとって薄氷を踏むような軍事行動だったが、フランスは戦争によって領地をうしなうことを怖れて、軍事進駐を容認したのである。


◎[参考動画]北方領土で進展は?日ロ首脳が共同発表ノーカット2(ANNnewsCH 2019/01/23)

◆共同統治こそ、島嶼紛争の解決策である

だから軍隊を北方領土に派遣しろと言っているのではない。島嶼領土紛争の平和的な解決はおよそ不可能であって、もしも本気で解決したいのなら「共同統治」という形式しかありえないのだ。韓国との竹島もしかり、中国との尖閣諸島も同様である。領土をめぐる外交交渉で他国に折れた政治家は、政権をうしなうだけでは済まない。売国奴としてその生命を奪われかねないと指摘しておこう。それはプーチンにおいても、安倍においても同様なのである。

ところが安倍総理は、あたかも歯舞、色丹の二島返還に向けて前進しているかのように印象づけて「プーチン大統領の考えがよくわかった。双方の理解が深まった」などと、交渉の行き詰まりを糊塗しているのだ。すでに四島一括返還という北方領土返還運動の原則は掘り崩され、日ソ共同宣言時の二島返還すら実現できない趨勢となってきた。25回もの首脳会談を行ないながら、ロシアから経済協力として国民の血税を奪われたうえに、本来の目的である北方領土の返還が絶望的になった今、もはや安倍政権は売国政権というべきではないか。


◎[参考動画]「私とプーチン大統領で終止符」 安倍総理が強調(ANNnewsCH 2019/01/06)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

松岡 あけましておめでとうございます。特別取材班の皆さんにはこのかん、大車輪のご活躍をお願いし、鹿砦社としても前例のない、5冊の書籍にまとめることができました。年頭に当たりこの問題について忌憚のないご意見をお願いいたします。

◆M君原告の控訴審判決で、すべてが見えた

A  昨年M君原告の控訴審判決で、すべてが見えたような気がします。あれはM君勝訴なんで、それは勘違いされたら困るんだけど、明らかに「何かの力」が働いていると。

B  いわゆる「報告事件」というやつですね。最高裁から審議や判決を注視されているという……。

C  どこにも証拠はないから、推測の域を出ませんけど、法律の専門家に聞くと「そうだろう」と見解は一致していますね。

D  俺たちの取材を朝日新聞、大阪司法クラブの連中は、こっぴどく「クレーマー」扱いしたじゃない。あの件を内緒だけど、ベテランの朝日新聞記者や幹部に話したら「なにやってるんだ! うちの記者の間違いです。書きたくなければ書かなければいいけど。『複数回記者会見を開かせない』なんて、傲慢に過ぎるし、明らかに間違い」と異口同音だったよ。朝日新聞の中からでさえね。

A  それ、かなり重要な情報じゃないですか? 書きませんか?

D  いや。朝日新聞も社内統制がますますきついらしいんだ。取材に応じてくれた人たちはあくまでも「匿名」でだよ。

B  日本マスコミの病巣は深いってことですね。

◆2月13日大阪地裁──鹿砦社が李信恵氏を訴えた裁判の判決

松岡 「病巣」といえば2月13日(水)13:10から大阪地裁1010号法廷で、鹿砦社が李信恵氏を訴えた、裁判の判決がようやくあります。この裁判は本当であれば、昨年の6月頃判決のはずだったんですが、裁判の後半になって「反訴したい」と被告・李信恵氏側が突如主張しはじめてようやく判決です。皆さんにも注目してほしいですね。

C  「中核なの? 革マルなの?」、「鹿砦社はクソ」、「死んでほしいと思ってる」から事実のない喫茶店での松岡社長の「威嚇」でっち上げまで。ネット依存症だからか、そういう性格だからかほとんど争いはないんじゃないですか?

松岡 そんなことはありません。法廷ではあれこれ被告側も主張してきました。ともかく13日の判決には注目頂きたいですね。

D  この裁判で鹿砦社が負けることはまずない。というより「負け方」がないからね。請求棄却以外は。でも油断できないよ。M君裁判の判決やマスコミの尋常ならざる対応を見ているとね。何が起きても不思議ではない。

◆2月21日大阪地裁で2つの裁判──李信恵氏が鹿砦社を訴えた裁判と鹿砦社が藤井正美氏を訴えた裁判

A  そのほかにも2月は裁判がありますよね。

松岡 李信恵氏が鹿砦社を訴えた裁判が21日、13:30から、ただしこれは「準備手続き」なので傍聴はできません。同日13:45から1006号法廷で鹿砦社が藤井正美氏を訴えた裁判が1006号法廷で開かれます。

B  同じ日に「被告」と「原告」で法廷のはしごですか。忙しいですね。

C  かえっていいんじゃないですか。何度も裁判所に出向くのも大変ですしね。13:45から1006号法廷で鹿砦社が藤井正美氏を訴えた裁判は傍聴できますから、お時間のある方は足を運んでほしいですね。

D  たぶんだけども、対しばき隊関連の鹿砦社がかかわる係争は、「対藤井訴訟」で一息だと思うんだ。この裁判で一息という意味は、藤井は仕事をするふりをしながらツイッターに励んでいたことが判明した。でもその時点で鹿砦社は藤井が「しばき隊」の構成員だったり、ましてや「M君リンチ事件」の隠ぺいにかかわっていたことは知らなかった。つまり藤井の素行不良は鹿砦社がこの問題に足を踏み入れざるを得なくなったプロローグなんです。だからエピローグも藤井の件でしっかりオトシマエをつけざるを得ない。宿命だね。

◆ネット上では「しばき隊」VS「反しばき隊」という構図が崩れだした

A  「宿命」か……。ところで、ネット上では相変わらず言論ゲバルトが続いているようですね。

B  かつての「しばき隊」、「反しばき隊」という構図も崩れだしていますね。言ってみれば「内ゲバ状態」が双方に起きている。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

D  予想通りだね。双方とももともと確たる思想があっての集まりではないから、そうなるだろうと思ってたよ。だからあえて鹿砦社のツイッターは緊急時以外には動かさない、でしたね、社長?

松岡 そうですね。「ここは!」という時以外論争には足を突っ込まなかったのは正解だったと思います。

B  でも、印象的だったのは香山リカから「どこに送ったのか送り先ちょっと書いてみて」と挑発されたときに、すかさず送付先を書き込んだこと(爆笑)! 自分で「書いてみて」って言っといて、書いてやったら次の日に神原元弁護士から「削除してくれ」って。子供のいたずらだ。

C  ああいう「遊び心」は社長一流ですね。普通書きませんよ。

松岡 そうでしょうか。わたしは「頼まれたから」依頼に応じただけですよ。

A  この感性に至るまでには僕たちもまだまだ修行が必要ですね。

D  ともあれ裁判闘争はあと1年くらいで、1審はいずれも片が付くでしょう。

B  売り上げはどうか知らないけど、この事件にかかわって鹿砦社の知名度は確実にアップしたでしょうね。

C  そうかな? だといいけど。社長、原稿料なんですけど、もう少し何とかならないでしょうか?……

D  社長に代わって俺が答えるよ。君たちみんな原稿料もらってるだろ? 初めて明かすけど、俺は5冊目の原稿料は辞退したんだ。君たちにも「そうしろ」という意味じゃないぜ。俺はこの問題に「仕事」でかかわっているつもりはないんだ。もちろんいままでは正当な原稿料をもらってきたけど、周辺で起きる色々な事を見ていて俺から辞退した。特別取材班は「金儲け」のために取材しているわけじゃないからね。これでいい? 答え。

C  は、はい。

(鹿砦社特別取材班)

M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

去る1月31日、いわゆるスキャンダル雑誌の先駆者で月刊『噂の眞相』(1979年3月創刊。以下略称『噂眞』と記載)編集長、岡留安則さんが亡くなられました。肺がん、享年71歳。「スキャンダリズム」という語を生み出したのも岡留さんでした。

 

2月3日付け朝日新聞

毎号著名人のスキャンダルを満載する雑誌を発行しながら、これほど愛され高評価されたのも岡留さんぐらいで、その後、残念ながら『噂眞』を超える雑誌は出てきていません。『噂眞』休刊(2004年4月号。事実上の廃刊)からしばらくして、わが鹿砦社も、その「スキャンダリズム」を継承せんとして月刊『紙の爆弾』(以下『紙爆』)を創刊(2005年4月)し、もうすぐ14年が経とうとしていますが、発行部数も内容の密度も、まだまだ足下にも及びません。

類似点といえば、両誌とも創刊直後に廃刊の危機に瀕する大事件に遭ったということでしょうか。『噂眞』は創刊から1年後の1980年6月に、いわゆる「皇室ポルノ事件」に遭いました。張本人は、いまや鹿砦社ライターとなった板坂剛さん。皇室に対する不敬記事で、右翼からの総攻撃を受けますが、攻撃は張本人の板坂さんではなく、岡留さんが一身に受けます。それでも偉いのは、印刷してくれる印刷所を探しながら1号も絶やさず毎月発行し続けたことでしょう。なかなかできないことです。

板坂剛の激励広告(『映画芸術』)。下段の府川氏は、この頃から松岡に出版のノウハウを指導。

鹿砦社も、『噂眞』休刊を受けて、多方面からの要請を受け、上記のように、新米の中川志大を編集長に据え、彼がみずから取次会社を回り、新規の取得が難しいといわれる雑誌コードを取り月刊『紙爆』を創刊しました。それから3カ月経った後、警察癒着企業の大手パチスロメーカー「アルゼ」(現「ユニバーサルエンターテインメント」。ジャスダック上場)創業者らからの刑事告訴を受け「名誉毀損」容疑で神戸地検特別刑事部により大弾圧を受けました。大掛かりな家宅捜索、聴取は製本会社や倉庫会社へも及び、取次各社へも調査がありました。私は逮捕され192日間も勾留され鹿砦社も壊滅的打撃を蒙りました。創刊したばかりの『紙爆』も、ライターさんや取引先などの支援で(私が“社会不在”だったこともあり『噂眞』のように月刊発行はできませんでしたが)断続的に発行を継続し現在に至っています。

岡留さんはその後、雑誌の部数も増えるにつれ多くの訴訟攻撃を受け、なかでも作家の和久峻三氏からの刑事告訴によって東京地検特捜部に「名誉毀損」容疑で在宅起訴され有罪判決を受けます。岡留さんがなんで在宅起訴で私が身柄拘束され長期勾留されたのか、いまだに判りません。岡留さんのほうが圧倒的に大物なのに……。

晩年(といってもまだ50代で)岡留さんは、情報が乱れ飛ぶ東京を離れ沖縄に渡り飲み屋を経営しながら執筆活動を行なってきました。まだ50代から60代で、勿体ないといえば勿体ないですし、ある意味、うらやましい転身です。僭越ながら私も、それなりの資金を貯めたら帰郷し、岡留さんのような生活をしたいな、と望んでいましたが、起伏の激しい出版業、少しお金が貯まっても、すぐに出て行きます。

おそらく、岡留さんの死去について、ジャーナリズムや論壇で、安全地帯からあれこれ“解釈”したり、したり顔で講釈を垂れる人が出てくるでしょう。いや、ほとんどそんな人ばかりだと思います。

私たちがやっていることが「ジャーナリズム」だとは思いませんが、岡留さんのように身を挺してスキャンダルや権力、権威に立ち向かうという気概だけは学んだつもりです。そのことで手痛いシッペ返しを受けましたが(苦笑)。今は「苦笑」などと笑って語ることができますが、弾圧直後には、明日銭(あしたがね)にも窮する有様でした。

今のジャーナリズムや論壇で、岡留さんを美化したり持ち上げる人は数多くても、岡留さんが文字通り身を挺して体現した〈スキャンダリズム〉の精神を、わがものとしている人が果たして何人いるでしょうか?

岡留さんが周囲の友人らの出資を受け『噂眞』を創刊した頃、1970年代後半から80年代にかけては、こういう雑誌を出すことの機運があったように想起します。まだ30になるかならないかの時期に、月刊誌を創刊するなど無謀としか言いようがありませんが、この無謀な冒険も若さゆえやれたのでしょうか。今はどうでしょうか?

 

岡留・松岡共著『闘論 スキャンダリズムの眞相』目次

岡留さんとは一度、3日連続で対談をやり、『闘論 スキャンダリズムの眞相』というブックレットとして上梓しました(2001年9月発行)。もう18年余り経ったのかあ……本棚から出して来ました。今では懐かしい想い出となりました。ここで展開した“闘論”の内容と問題点は、今でも継続していると思います。あらためて読み直してみたいと思います。古い本ですが、少し在庫がありますので、みなさんもぜひご購読ください。

岡留さんは、数多くの訴訟を抱えたり刑事事件の被告人となり有罪判決を受けたりしましたが、晩年はみずからの希望で沖縄で悠々自適に暮らし、ある意味で幸せな人生だったと思います。誰もが、望んでもできるわけではありませんし、私もできません。

岡留さんは遺骨を沖縄の海に散骨して欲しいとのこと、綺麗な海で安らかに眠ってください。合掌。

闘論を終えてくつろぐ松岡(左)と岡留さん(当時の新宿の噂眞事務所にて)

岡留・松岡共著『闘論 スキャンダリズムの眞相』(鹿砦社2001年9月発行)

最後に撮ったスパープくん、勉強熱心な比丘だった

◆還俗式に臨む

静まり返ったクティで、9時を回わると和尚さんがホーム・サンカティを纏って現れた。私が自分の部屋から様子を伺っていると、「オーイ、こっち来い!」と笑顔で手招きしている。すぐ和尚さんの前に座り三拝するが、儀式っぽい雰囲気も無く還俗式は始まった。

和尚さんが短いお経を唱え、「私に続いて復唱しろ」と言う。いつまで経っても読経出来ない私だったから最後まで手取り足取りの口移しによる読経となった。

ここから還俗者が一人で願い出る経文で、「シッカン・パンチャッカーミ・キヒティ・マン・タレタ……」と続くが、ここだけは暗記したはずも途中で飛んでしまった。

そして「これで仏門との縁を切るぞ、比丘には戻れないぞ、いいな?」の問いに、「ハイ、いいです!」と応えると、和尚さんは私の肩に掛かっていたサンカティを肩から二の腕側に落とした。

先に捧げた白ワイシャツと腰巻(前もって渡しておいた着る物一式)を授けられ、「よし、着替えて来い!」と指示され、10メートル程ある自分の部屋に戻る。ここで黄衣を解けばもう比丘ではなくなる。まだ黄衣を纏っている今を噛み締めるように我が姿を振り返った。

そして一つずつサンカティを、上衣を下衣を内衣を脱いだ。窓は閉めたが、本来はここで腰巻が必要なのだろう。スッポンポンからパンツを穿いた。白ワイシャツを着た。ズボンを穿いた。ベルトを通した。夢から醒めたようなこの感触。物心ついた頃から30年あまり同じ動作をして来たのだ。忘れる訳は無いが、意外とすんなり手が動く。その手触りが妙に懐かしい。長期入院していたり刑務所に入っていたり、退院や出所の時、私服に着替える時もこんな感じかと思う。着替え終えると再び和尚さんのもとへ向かう。

「今度はこっちに座れ!」と一段低い方を指される。もう俗人側なのだ。和尚さんと同じ立ち位置ではない。

「今後も仏教徒として精進し、仏教発展の為に活動しなさい」という忠告を受け、聖水を掛けられ終了。寺ではカメラを持って歩き回り、比丘として間違った行為だったであろうことも謝った。和尚さんも「マイペンライ(気にするな)!」を繰り返し、相当不信感を持っただろうに最後は優しい和尚さんだった。

最後にペンダント型の仏陀像(お守り)を2個授かり、

「またいつでも遊びに来て泊まっていきなさい!」と言う言葉には涙が出そうになる。

「さあ、行っていいぞ!」と肩を軽くポンポンと叩いて笑顔で送り出してくださった。着替えも含め12~13分。あっけなく終わるのが還俗式である。

最近撮った寺の写真と春原さんから送られていた、特別に和尚さん用にとっておいたカレンダーをプレゼントし、この席を後にした。

手前はネーン(少年僧)で彼も比丘の輪には加われない

◆生まれ変わり

これで自由な身となった。すでに成人しているから新社会人ではないが、男として一人前となっての社会再デビューとなる。

比丘ではなくなった今、予定どおりバンコクに帰らねばならない。前日から持って帰る荷物を纏めていたが、やはりカメラ機材とフィルムが嵩む。更に黄衣もバーツも、ノンカイで使った蚊帳と傘も持って帰るつもりだった。その為、もうひとつカバンが必要だ。さて買いに行こう。靴下を穿き、クティ門で靴を履いて外に出た。靴の履き心地が懐かしい。風を切る心地良さが黄衣とは違って感じる。やっぱり清々しい気分だった。

バイクタクシーを拾って銀座に向かい、雑貨屋入ってカバンを選んでいると、店のオバサンがやたら親切に接客してくれた。白ワイシャツを着ているし、ほんのさっきまで比丘だったことを察したようだ。こういう還俗直後の、新たに社会に旅立つ者に接客できるのは、目出度いものに肖れて嬉しいものらしい。

寺に帰る前、バイクタクシーに乗ってやって来たデーンくんと擦れ違った。「オッ、還俗したんだ!」といった笑顔だった。寺に帰っても何かと残り物を物色しに来る仲間達。

自分が使った毛布や枕なども記念に持って帰りたかったが、さすがに嵩張り過ぎる。これを当てにしている奴も居るから、この辺りはケチらずコップくんやサンくんにあげよう。

コップくんは「これからのカメラマンとしての活躍を願っているよ!」と和尚さんがくれたものと同じタイプの仏陀像をひとつ授けてくれた。

還俗して撮った食事シーン、もうこの輪には加われない

◆最後の御奉仕

昼食時は俗人となった私から仲間達へプラケーン(食事を捧げる)をして、もう身分は彼らより下に戻ったのだと実感する。比丘達のこの輪にはもう加われない寂しさもこみ上げて来た。そして後片付けを手伝って、以前から「仏陀像と写真撮りたい」と言っていた数名の比丘らに声掛けたが、「和尚さんが見てるから」と避ける者が多い。

やっぱり皆から見れば、和尚さんの前で行儀悪いことはしたくないんだなと感じるところだった。でも時間をズラし、和尚さんが席を外した隙を狙って何とか数名を撮ってあげた。

やがて寺を出る頃、私の隣の部屋だったアムヌアイさんにはお別れの挨拶をしておく。

「今迄ありがとうございました。最初に剃髪してくれたことは忘れません。いろいろ御指導ありがとうございました!」と言葉を掛けると、アムヌアイさんも送る側の顔となって、「日本に帰るのか?この寺のこと忘れんなよ、俺もハルキを忘れないからな!」と言葉を掛けてくれて送り出してくれた。学園ドラマのような、門の前に全員が並んで泣きながら手を振るといったシーンは無い。寝て居る者、外の作業に掛かって居る者、「じゃあな!」とだけ言う者。寺とはそんなモンである。

得度式の後、授かった得度証明書

◆寺を後にする

寺を出ればもう俗人というより完全なる一般日本人。重い荷物を抱え、トゥクトゥクを拾おうとするも、バイクタクシー兄ちゃんが「乗れ!」と言う。

「いや、荷物多いから」と言っても「大丈夫だ、乗れ!」で、バランス悪い中、バイクに跨った。ゆっくり走ってくれて、今朝まで托鉢で歩いた道を通り、エアコンバスターミナルへ到着。もうタンブンを受ける身ではないが、タダにしてくれた兄ちゃんに感謝。

着いた途端、出発寸前のバスの扉を開け、バスの若いキレイな女性車掌さんが、
「お兄さん、バンコク行くの?早く乗って!」と叫ぶ。

トランクに荷物を預ける間も無いまま、乗り口の高い段に居た車掌さんが、私の荷物を引っ張る。そのしゃがみ気味のミニスカートから見える太モモが至近距離で目に入ると、私の脳内は爆発寸前。「ウォオオオー!」と妄想が膨らみ、ムクムク股間も膨らみそうになる。

車内で買ったバス券も、サービスのコーラもパー・プラケーンを介する受け渡しも無く車掌さんと直接手が触れ合う。3ヶ月ぶりだなあ女性の肌。渡されたコーラの美味しいこと。開放感の中での爽やかさ。この味は一生忘れられない。

出発直前に乗って左側最前席に座らされたが、右側最前席には品のいい比丘2名が座っていた。年輩の比丘と若い後輩比丘のようだった。私も藤川さんとこのような感じに見えただろうか。私らは低俗な比丘だったが。

バンコクのサイタイマイバスターミナルに向かう中、車窓を眺めながら、「ナコーン・キーリーの女の子に会いに行くの忘れてた」と思い出す。でも還俗直後だし、開放感から羽目を外し過ぎないよう気を付けなければならないと思う。藤川さんから教わった幾多の説教と笑い話は忘れないように活かそうと思うところだった。

朝まではこの仲間と一緒だったが、もう今は違う立場

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

参加者はメッセージや訴えの方法を工夫していた(2019年1月12日草津駅前集会)

 

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会とデモ行進は長蛇の列に(2019年1月12日)

本コラムでたびたびお伝えしてきた、滋賀医大附属病院問題で、近く大きな動きがある。消息筋によると岡本医師による治療を希望する、高リスク前立腺がんに罹患した患者数名と岡本医師がともに、滋賀地裁に「滋賀医大附属病院による『治療妨害』」の撤回をもとめ2月7日仮処分の申し立てを行う。

滋賀医大附属病院は、6月末で岡本医師の治療停止、12月には実質上の追放を宣言しているが、「岡本メソッド」と呼ばれる岡本医師の前立腺がん治療は高リスク前立腺癌でも再発率が5%以下という卓越した結果を残していることから、いまでも全国から岡本医師の治療を希望する患者さんが滋賀医大附属病院には「診察の申し込み」を行っているが、そのほとんどは窓口で門前払いされているという。また現在岡本医師の診察を受けていても、6月末までに手術の予定が間に合わない患者さんもいる。患者の一人は「岡本先生でしか私の前立腺癌の治療はできないと思います。その機会を奪われることは私の命が奪われることと同じです」と訴えている。

 

岡本圭生医師

岡本医師は「目の前にいる私に治療できる患者さんを治療しないことは、人道的に許されません。私が希望するのは『患者さんを治療させよ』ということだけです」と語る。

滋賀医大附属病院をめぐっては、昨年の8月1日に、岡本医師の治療を受けられると思っていたら、泌尿器科の医師による手術が画策されていたことがのちにわかり、心身の損害賠償を求め、4名の患者さんが原告となり民事訴訟が提起されているほか、昨年11月16日には病院のホームページや院内の掲示物に書かれた内容に事実と異なる点がある、として岡本医師が仮処分を申し立てた。

さらに、今年に入って岡本医師の手術を受けた患者さんに対するQOL調査に、本来あってはならない氏名欄が設けられていただけではなく、氏名が当該患者さんではない何者かによって記入されたり、質問への回答が改竄されていた事実が判明。次いで実に1000名に上る患者さんのカルテが不正に閲覧されていたことなどが、次々に明るみになっている(この不正閲覧には院長、泌尿器科医師のほとんど、事務職員もかかわっている)。これら連続する不祥事に対して滋賀医大附属病院は1月31日になり、同病院のホームページに、

との見解を発表したが、当の松末吉隆院長が「不正閲覧」を行っていた本人であるので、このように何の証拠も、検証もされていない文章では説得力がない。

泌尿器科外来で診察を待つ患者さんに聞いたところ「問題があるのは知っていますよ。でもいまさら滋賀でほかの病院に行けないからねぇ。滋賀県の病院は滋賀医大の先生が多いから転院しようにもねぇ」と困った表情で本音を語っていた。

仮処分申し立ての詳細はまだ不明であるが、患者と医師が「治療をさせろ」と裁判所に判断を仰ぐのは、極めて稀な事態であることは間違いないだろう。医師や病院は患者さんがそのような属性の人であれ、目の前の患者に対して(物理的に治療が無理な場合などを除けば)「治療拒否」はできないはずだ。そもそも治療希望者を追い返す国立病院など存在が許されるのであろうか。仮処分の詳細は明らかになり次第、本コラムで引き続きご紹介する。

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

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◎岡本医師のがん治療は希望の星! 救われる命が見捨てられる現実を私たちは許さない! 滋賀医大小線源治療患者会による1・12草津駅前集会とデモ行進報告(2019年1月14日)
◎滋賀医科大学 小線源治療患者会、集中行動を敢行!(2018年12月24日)
◎滋賀医大病院の岡本医師“追放”をめぐる『紙の爆弾』山口正紀レポートの衝撃(2018年12月13日)
◎滋賀医科大学医学部附属病院泌尿器科の河内、成田両医師を訴えた裁判、第二回期日は意外な展開に(2018年11月28日)
◎滋賀医科大学に仮処分の申し立てを行った岡本圭生医師の記者会見詳報(2018年11月18日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

遙か彼方の1972年2月1日、酷寒の京都、その時私は二十歳だった。
「ひとの人生」には、それぞれメモリアル・デーがあろう。まずは誕生日、ひとによっては次が結婚記念日だったり震災の日だったり……するだろう。

私にとっては、1972年2月1日と2005年7月12日だ。後者は私が、のちに「厚労省郵便不正事件」での証拠隠滅で逮捕・失職する大坪弘道検事に率いられた神戸地検特別刑事部に「名誉毀損」容疑で逮捕された日であり、これによって会社は壊滅的打撃を受けた。ここで「前科調書」として思わぬ書類が出てきた。前者1972年2月1日に逮捕された事件の判決文である。時の経過と共に引っ越しなどで紛失していたものだ。72年から33年余りも経っていたが、日本の捜査機関はきちんと保存していて、のちにどこで逮捕されてもすぐに出してくる──日本の捜査機関も侮れないな、と思った次第だ。ちなみに、ポスター貼りでも、警官に見つかって検挙され1日2日留置所に泊められても「前歴」として残るということをプロレス団体の人から聞いたことがある。ここまで日本の捜査機関はやるのか。

1972年2月1日付け京都新聞

逮捕されたのは京都なので裁判が行われたのは京都地裁だ。あらためて読むと、当時の京都地裁の裁判官が、意外にも私たちに同情的で「被告人らは春秋に富む若者であり前科もないことから」(判決文)「懲役3カ月、執行猶予1年」の寛刑であり、被告団10人のうち1人はなんと無罪だった。この1人M・K君は、支援で駆けつけてくれた京都大学工学部のノンセクトのグループに属し黒ヘルメットを被っていたが、逮捕された際に私たちが被っていた赤ヘルメットを無理やり被せられ、これが決め手となって無罪となったのだ。それにしても、このように判決文に「春秋に富む若者であり……」云々という表現、時代を感じさせる。最近ではパソコンに登録した文章をちょこちょこといじった判決文が多い。私たちも検察側も控訴せず決着した。判決は76年12月3日、逮捕からやがて5年が経とうとしていた──。

本年は69年の東大安田講堂攻防戦から50周年ということで、テレビでも当時の映像が流れたが、これに比べれば私たちの闘いは、火炎瓶が飛び交うわけでもなくチャチと言えばチャチなものだったが、私たちは真剣だった。

60年代後半の学園闘争、いわゆる全共闘運動が、機動隊導入によりバリケード解除され収束に向かう中で、1971年、全国の私立大学で次年度からの学費値上げ問題が浮上した。東京では早稲田、関西では同志社、関西大学が中心となった。早稲田、関大は、いつのまにか霧散したが、私たち同志社だけは最後の最後まで身を挺し徹底抗戦することで意志一致した。闘うべき時に闘わずして、みずからの存在価値はないし、たとえ運動や組織が解体させられても徹底抗戦するしかない! 〈革命的敗北主義〉の精神である。

私たちが参考としたのは、60年代後半の明治大学(当局と裏でボス交し収束)と中央大学(白紙撤回)の学費闘争だった。この2つの闘いはよく勉強した。

私たちが拠って立った「全学闘争委員会(全学闘)」と「学友会(全学自治会)」は、60年安保闘争以来ブント直系の運動として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引した流れを汲みつつも、同志社のブントが崩壊して以来、ブント系ノンセクトとして健在だった。歴史の後智恵で、徹底抗戦せず組織や運動を守る手がなかったのか、という意見もあろうが、私たちは、そんなことは緒から考えなかった。明大のように当局とボス交して収束をはかるなど論外だ。闘わずして生き延びた運動や組織は腐敗する。東大安田講堂攻防戦前夜に敵前逃亡した革マル派のように、のちのち後ろ指を差されることはやりたくない。たとえ、たった1人になっても戦い抜けば、それによって必ずや後から続くと信じた──(実際は、多くの逮捕、起訴者を出しガタガタになったところに、闘わなかった輩による運動の成果の簒奪が始まり、政治ゴロの介入を許し、場所的経済的利権を狙った草刈り場となったのだが。どのように運動の成果が簒奪され歴史が歪曲されようが、真に闘ったという事実は真に闘った者が知っている)。

「赤ヘルの学生おのがコート脱ぎ われに着せたり激論の中」(秦孝次郎)

秦氏は当時の理事長(総務部長だったかな?)で近鉄資本(同志社は近鉄が持っていた土地を格安に購入)とのつながりが強かった人で、秋深まった11月のキャンパスで長時間に及んだ大衆団交でドクターストップがかかりつつも大学当局の意志を貫き、学費値上げ、そうして以後相次ぐ値上げを強行し、田辺町移転―大同志社5万人構想実現に向けて走り出すのである。

一時は、ほとんどの学部や女子大までが田辺に移転し、加えて近くに在った立命館広小路キャンパスも予備校に売却し移転、学生で賑わっていた今出川界隈も寂しくなった。いちど私が大学に入学する際に入った近くの喫茶店の女性オーナーに「寂しくなりましたね」と言ったことを思い出す。ところが、近年文系学部が今出川に戻り、当時喧伝された、航空工学部、宇宙工学部を新設したりする大同志社5万人構想も、現在学生数は政策学部、文化情報学部、生命医科学部、スポーツ健康科学部、グローバル・コミュニケーション学部など新たな学部をかなり増やしたり学科を学部に増員・改組させた(当時は6学部)りしたことにより3万人弱(大学院含む)と当時より1万人増えてはいるが、航空工学部、宇宙工学部は頓挫し、田辺町移転―大同志社5万人構想が全くの失政だったことが証明されている。私たちの主張は正しかった。

大学の価値というものは、キャンパスが広いとか、施設が良いとかではない。あの狭い今出川キャンパスで、ランチタイムになれば、どこからか授業を終えた学生が出て来てトランス状態になった光景が忘れられない。

私たちは、団交やストを繰り返したりして学友へ学費値上げの不当性をアピールし続け、年末に入り学生大会で無期限バリケードストライキを決議し決戦態勢に入った。正月もバリスト状態で過ごした。多くの学友の支持もあり、教職員も心ある人たちが多く、さしたる妨害はなかった。問題は、私立大学にとって最大のイベントたる入試である。同志社では毎年2月初めに行われる。日程からして1月下旬から2月5日頃までがリミットだろう。

大学内部にいる、かつて自治会運動などに関わった心ある教職員からの情報が刻々と伝えられる。決戦は〈2月1日〉だ!

私ら決死隊は最後までバリケードに留まり逮捕覚悟で、今出川キャンパスの中心にある明徳館の屋上に拙い砦を作り立て籠もった。

一方、決死隊逮捕の報に、学生会館や近くの寮などに待機した仲間や、先のM君らが、京都市内から学生会館中庭に続々と結集していた。その数約300、ほとんどが同志社の学友だが、M君のように他大学の者もいた。

私たちは裁判が終わったあとに『われわれの革命』という小冊子を発行したが、それによると、──
「封鎖解除(機動隊導入)、明徳館砦死守(四名)不当逮捕
 学生会館中庭で、三百余名抗議集会、再封鎖に向けて、丸太、竹ヤリの突撃隊を先頭に今出川に出立する際、機動隊と正面衝突戦を展開(百二十数名不当検挙、四十三名逮捕、十名起訴、重体数名)」
とある。

この闘いは、東大全共闘はじめ全国の戦闘的な学生による安田講堂攻防戦のような、現代史の本には必ず載るようなものではなく、(東京からすれば)一地方の〈小さな火花〉にすぎなかったが、私たちにとっては、その時に、みずからの立場をどう鮮明にするのかを問うものだった。いわば「単ゲバ」の私たちには迷うことはなかった。「やるしかない!」

「しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま」(橋田淳『夕陽の部隊』)

「6・15」とは60年安保闘争の際、国会前で樺(かんば)美智子さんが機動隊に轢死させられた日、私たちにとって忘れてはならない日として長らく伝えられてきた。かつてこの日には記念の集会やデモがなされていたが、今では国会前で当時の仲間らが集まる程度だ。ちなみに日本共産党にとってこの日は、樺さんがブントに指導された全学連主流派だったという理由で、その歴史には存在しない。

「橋田淳」(仮名)とは、私の当時の“上司”で今は児童文学作家のS・Kさん。もう何十年も過ぎているので「十年の~」ではないが、私たちが、かつてみずから血を流した闘いの中で背負った〈負債〉とは何か? 毎年2月1日になると、自らに問いかけ続けているうちに、〈負債〉を「かへしえぬまま」47年の月日が流れた──。もう私たちは「過激派」でも「極左」(47年前の行動でいまだに性懲りもなく「極左」呼ばわりする輩がいる)でもなく、たまに反原発のデモに行っても「お焼香デモ」だし、学生時代のような元気はないが、それでも、かつて怒りで身を挺して闘った時の志を忘れないようにしたい。かのレーニンが1905年革命(第一革命)の総括で、「武器を取るべきではなかった」という日和見主義的見解に対して「もっと決然と、もっと精力的に、またもっと攻撃的に武器を取るべきであった」(『モスクワ蜂起の教訓』)と言ったことの精神だけは忘れまい。

「俺を倒してから世界を動かせ!!」(明徳館砦に書いた落書き)

当時は「われわれが~」とか「私たちが~」と言っていたが、つまるところ、ここぞという時に「私が」どうするのか、ということだろう。だから逮捕されることが必至のこの闘いには、躊躇する者には無理強いはしなかった。あくまでも、本人の意志に委ねた。平時は格好良い言葉を発していても、いろんな私的な事情で逃げるようなことを恥として私は学費値上げ問題に立ち向かった。当時の全学闘は党派に指導されたものではなく、60年安保闘争以来のブント系の同大学生運動の戦闘性を継承しつつも全員がノンセクトであり、その後はちりじりばらばらになった。党派に属していれば、その党派の指示に従って組合に入ったりするのだろうが、私たちの場合それはなかった。S・Kさんのように苦労して児童文学作家として名を成した人もいれば、U・Mさんのように草創期のコンビニ業界に入り企業活動で名を成した人もいる。私のように斜陽産業の出版界で呻吟している者もいる。それでいいんじゃないだろうか。

私はここ3年ほど、「反差別」運動、いわゆる「カウンター」内で起きた凄惨なリンチ事件の被害者支援と真相究明に関わっている。私の所に辿り着くまで被害者は放置され正当な償いも受けずに「人権」を蔑ろにされてきた。かつて学費値上げに怒りを覚えたのと同様に怒りが込み上げてきた。私の怒りはシンプルだ。悪いことは悪い! 私にとって47年前に学費を値上げと集団リンチ問題に関わることは同じ〈位相〉なのだ。いつまでも怒ることを忘れないでいよう。

加害者側の弁護士(共産党系!)は詰(なじ)る。「極左の悪事」だと。問題の本質はそうではないだろう。何度も言う、悪いことは悪い! くだんの弁護士は言う、「正義は勝つ」と。裁判に勝ったからといって、それが「正義」だとは限らない。歴史の中には、むしろ負けた者や少数派の主張に正義や真実があることのほうが多い。行政訴訟は住民側がほとんど負けるが、住民側にこそ正義や真実があることがほとんどだ。それでもくだんの弁護士は、「正義は勝つ」とでも言うのか!?

最近出会った、フォーク・シンガーの中川五郎さんの歌に『一台のリヤカーが立ち向かう』があり感動した。鹿砦社の新年会でも最後にこれを歌ってくれた。私も歳とってずいぶん丸くなった(と自分では思う)が、なんと言われようが、悪いこと、理不尽なことに怒りを持つことを忘れずに、私は「たったひとり」で時代遅れの古い「リヤカー」に乗って闘い続けたい。

「たたかい続ける人の心を、だれもがわかってるなら、たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」(吉田拓郎のデビュー曲『イメージの歌』)

広島から東京に出て来たばかりの吉田拓郎は、こんな歌を歌っていた。中島みゆきも、
「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』)
と歌っている。

それでも私はこれからも、かつて2005年に逮捕された際に言ったように、「血の一滴、涙の一滴が枯れ果てるまで闘う」だろう。もう初老の域に入った私もやがては老いさらばえるだろう、最後に「人知れず微笑(ほほえ)み」(樺美智子)ながら──。

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』※表紙画像をクリックすればAmazonに飛びます。

*『夕陽の部隊』は、松岡・垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』に再録されています。残部僅少です。お早目にお求めください。

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