ドイツ哲学研究者の三島憲一氏による、非常にわかりやすい元号批判が朝日新聞社の言論サイトWEBRONZA(2019年3月28日付)に掲載されている。
○三島憲一「元号という、上から指定される時代区分は不要」
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019032700004.html
わたしの意見も大方三島氏の見解と重なるので、ご一読をお勧めする。きょうの何時だかに新しい元号が発表されるそうだ。日常生活にとっては混乱の元凶でしかない改元。子供のころに「明治」は大昔だと感じていたが、このままいけば、少なくとも3つの元号の時代をわたしは生きたことになりそうだ。
◆宗教に依拠した時間軸
時間軸は客観的で科学的なもののように、本質は覆い隠されるが、そうではない。西暦にしたところでキリスト教に依拠した「宗教歴」が世界を制覇したものである。西暦は「ニケア会議」などの政治と天文学、宗教の穏やかながらのっぴきならない衝突を数多く経て、今日に至っているのであり、それはイスラム歴、ヒジュラ歴などとて同様である。共通点はいずれも宗教に依拠した時間軸が、生活を規定することだ(だから本質的には「元号」批判者が無意識に西暦を採用することも、厳密には合理性を欠く面があるといえる)。
無意識に生活していても、わたしたちの日常は、一刻一刻が支配者により規定されており、その度合いが露骨であるのか、長時間を経て支配を終えた、いっけん穏やかなものであるのかの違いしかない。
◆中国、韓国、朝鮮も「国家が規定する時間軸」を自国民に強制などしていない
そして、元号は中国(三島氏によればその昔はベトナムに源があるという)が採用していた、王朝ごとに定められた「限られた宿命を持つ時間軸」である。中国は何千年も支配者による「限られた宿命を持つ時間軸」を使ってきたが、いまではもうそんなものはない。中華民国成立から中華人民共和国の定着によりは放棄された。
多くの社会主義諸国は不幸にも個人崇拝や独裁がはびこり、瓦解の憂き目を見たのだが、それでも「元号」のように野蛮で数千年前の支配意識にもとづく「時間軸支配」を制度的に取り入れた国はなかった。国粋主義者の皆さんがお嫌いな中国も韓国も朝鮮も「元号」に相当するような、野蛮な「民衆支配の時間軸」を持ってはいないし、自国民に強制はしていない。
この点、この島国の住民たちの目を覆いたくなるような「後進性」は、アジアだけではなく、世界的に見ても奇異といっていいだろう。もちろん民衆が支配される手段は直接的な「力」ばかりではなく、現在ではあからさまな「権力」であるところのメディアによる貢献がすさまじく大きい。
◆わたしが「元号」を嫌悪する理由
昨年あたりからは、どんな些細な年中行事にも「平成最後の」と枕詞をつけるのが、思考停止した新聞記者やテレビ番組制作者の習慣となっていた。「で、それがどうした?」と聞き返したら、なんとなく「平成最後の」枕詞愛用者はどんな反応を示すか。何人かに試してみた。
「どうしてそんな無意味なフレーズ使うの」と聞くと、揃いもそろって「忙しいのにめんどくさい質問するな」との表情だけが返答として帰ってきた。「こうするのが当たり前なのに、お前は何を馬鹿な質問をしているのだ」といわれいるような侮蔑感を含んだ視線でもあった。
でも、わたしにはわたしなりに「平成最後の」という耳障りな言い回しを嫌悪したり、「元号」を好感しない(嫌悪する)理由がある。
前述のとおり、時間軸の規定は「支配者」によって強制さわれる。近年さすがに「西暦との併用が不便だ」という実用面からの批判が高まっているが、それはそれで一理はあるものの、わたしが「元号」を嫌う理由とは違う。
「時間の規定軸が『支配者』によって行われる」。支配者はこの国の場合時の政権であるが、その根拠となるのは原則として天皇の代替わりだ。天皇の代替わりによってわたしたちの生活時間軸が規定される。この非近代性と反動性、さらには国家神道と密接に結びついた封建制こそが、わたしが「元号」を嫌悪する理由である。
◆基礎的な事実を無視した「天皇神話」に基づいて国家が時間を支配する愚
アキヒトは「戦後70年戦争に巻き込まれることなく」などと、ことあるごとに平和愛好主義者を演じているが、そのアキヒトが退位まじかに訪問した場所をご記憶であろうか。
《京都府を訪問中の天皇、皇后両陛下は(3月)26日、臨時専用列車で奈良県に入り、橿原神宮の神武天皇陵(同県橿原市)を訪問された。計11に上る譲位関連儀式の1つ「神武天皇山陵に親謁(しんえつ)の儀」で、天皇陛下はモーニング姿で祭壇に玉串をささげて拝礼し、4月30日に譲位することをご報告。続いて皇后さまもロングドレスの参拝服で拝礼される。
陛下は(3月)12日、お住まいの皇居・御所で、譲位を報告するため伊勢神宮(三重県伊勢市)や神武天皇陵などに天皇の使い「勅使」を差し向ける「勅使発遣(はっけん)の儀」に臨み、神前で読み上げる「御祭文(ごさいもん)」を託された。15日には各陵で陛下からの奉納品を供え、勅使が譲位を報告する「奉幣(ほうべい)の儀」が行われている。》
(2019年3月26日付産経新聞)
また、3月30日付け産経新聞の記事には、《明治以後初となる譲位儀式にあたり、陛下は即位の儀式にならい、先祖に譲位を報告することをご決断。》との記事もある。
「先祖に譲位を報告することをご決断」したのが天皇自身が、宮内庁の取り巻きかはこの際大きな問題ではない。産経新聞が報道している通り、天皇制は「神武天皇」を初代とする「天皇神話」を、21世紀の今日にいたるも踏襲しており、天皇の代替わりは、その伝統的手法に従い行われている。元号の変更も同様である。
神武天皇は神話の世界の架空の人物である。紀元前660年が神武天皇の即位年とされているけれども、そんな時代に、日本には「国」があったのか。中学生の社会の教科書によれば、土器を作っていた「弥生時代」に相当するのが紀元前660年だ。
こういった基礎的な事実を、無視して「天皇神話」に基づき、大騒ぎしているのが「改元」騒動の正体である。神話に基づいた天皇に時間を支配される……。わたしはまっぴらごめんである。
だから、「よい元号」も「悪い元号」もなければ「よい天皇」も「悪い天皇」も個人としてはないのだ。天皇制それ自身が非科学的な宗教に依拠したものであるのだから、そんなものが残存していることがまずもって恥ずかしい話で、それに付随する一切の諸事は、前提なく破棄されて当たり前である、とわたしは考える。ナンセンスの極(きわみ)である。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。