◆ムエタイ選手の事故
やがて日本へ帰る日も近くなった頃、タイの正月に当たる4月中旬のソンクラーン祭(水掛け祭り)に入る前、選手たちは田舎へ帰る者が多かった。このアナンさんのジムは御夫婦ともタイ南部のスラータニー県出身で、その縁から選手も南部出身者が多いが、そんな頃、アナンさんが「オーム、ターイレーオ!」と言ってきた。
スラータニー県に帰る選手らのトラックバスが事故を起こし、15歳ほどの有望な選手、オームくんが転覆したトラックの荷台から投げ出され頭部を打って亡くなったという。ジムの練習やアナンさん宅で立嶋アッシーと話していた姿を思い出すと、やっぱり可哀想な運命だった。これは誰にでも起こり得る現象が刻々と流れる時間の中で起きたこと。
オームくんは田舎でソンクラーン祭を楽しんで来るつもりだったろう。そしてまた苦しくもムエタイとの戦いに励む。そんな日々がやってくるはずだった。それが突然、人生を打ち切られるのだ。何が因でなぜ果に繋がったのだろう。どこかでちょっとでもタイミングがずれていれば事故など起きなかったか、命は助かったろうに。
そんな感情とは裏腹に「うわっ、俺のせい?」とも思った。黄衣を持ち帰った祟りか。そんなことを指摘されるかと思ったが、アナンさんらは一切そんなことは言わなかった。それは遠慮している空気ではない。元から関連は無いというタイ人思考なのだろう。散々不愉快な思いをさせたのに。
◆続く不吉な出来事
ソンクラーンも過ぎて数日後、チャンリットさんに預けっぱなしの黄衣を放っておくわけにはいかない。帰国に合わせて日本へ送る為、チャンリットさん宅を訪れた。この空港近くの地域に来るとホッとするなあ。初めてタイに来た頃のチャイバダンジムがある馴染んだ土地だし。
出会って間もなく、チャンリットさんは「妻が入院した!」と言う。何、またか。また私のせいで不吉な思いをさせてしまったか。不浄な黄衣はそんな魔力があるのか、「それって、黄衣預かってくれたせい?」なんて聞いてみると、「ハッハッハッハ!関係無いよ。気にするな。前から調子悪かったんだ!」
しかし何でこんなことが続けて起こるのか。単なる偶然にしても何が因で事故や病気の果になるのだろうか。チャンリットさんの奥さんは気管支炎のようで、幸い病状は軽い様子だった。
そんな不浄な黄衣類はチャンリットさんに手伝って貰い、郵便局で貰った箱に詰め、そのまま練馬のお祖母ちゃん家へ自分宛に航空便で送った。その先の祟りは自分が被ろう。
◆最後の儀式
チャンリットさんから新たに「近所の知人の友達が、アントーン県で出家するんだが、その得度式に一緒に行かないか、ハルキも知ってる人だよ!」と誘われて、ほんの2日後、1泊2日で前日の出家祝いパーティーから参加させて貰うことにした。
出家志願者は私の以前の彼女の弟だった。タイ滞在の最後に大波乱である。経緯は省くが、気心知れた一家との再会。これも仏陀の導く縁。ここで徳を積んで修行の足りない自分の厄払いをしておこう。
出家の前夜に行なう大宴会。藤川さんも再出家の際は盛大にやって、ビール大瓶5~6本飲んだとか。最後の晩餐だったのだろう。私の場合はタイに親族はいないし、極秘でやりたかったから前夜祭は無しだった。ネイトさんも外国人として突然の出家で、そんな余裕は無かった。
そんな過去を思い出しながら、高床式の家が建つ部落に着くと、こんな盛大にやるのかと思うほどのスピーカーが置かれ、ディスコになるほどの音楽が掛かるドンチャン騒ぎ。お金の掛かる一大事業に、参列者へは出家に肖る徳を得られる機会を与えるのだろう。
深夜まで騒ぎは続き、部落の各家に大勢が板の間のスペースに泊まり、朝方には陽も昇らぬ暗いうちから大音響の音楽が周囲に鳴り響いた。誰か酔った勢いのイタズラかと思ったが、“寺に向かう準備せよ”という目覚ましだったようだ。出家者は二人で、剃髪は前夜祭の前に終っていたが、白い衣を纏い、二人はそれぞれが仲間に肩車され、親族が囲こみ、列を成して寺に向かった。過去に見た得度式の流れ。寺や地域、寄進によってやり方は違うが、彼らは自分で問答に応え、口移し無しで立派にやり終えた。聞けば出家は7日間だけで、すぐ還俗すると言う。勿体無いなあ。グルークチャイのような試合が迫っている訳でも無いだろうに。
得度式が始まる前までは彼らの傍らに彼女らしき綺麗な女性が付き添っていたから、結婚を控えて、男として一人前になる為の終えておかねばならない成人式のような儀式だったのだろう。彼らの未来が前途洋々であることを願った。
◆旅の終わりに
帰国の日、アナンさんは「またタイに来たらウチに泊まれよ、近いうち新しくジム建てるからな!」と言ってくれた。不愉快な思いをさせたことや長く居候したことなど関係なく、また泊めてくれる気遣いには感謝するのみ。日本から来た選手や私など、毎度空港まで見送ってくれるアナンさん。温かい見送りだった。
帰国は問題なく、送った黄衣以外の蚊帳用傘とバーツ(お鉢)も持って成田空港入国審査も通過。
練馬への帰り道も、タイへ向かう日の朝を思い出した。通り掛かる都立家政駅前商店街の風景も変わらず、比丘として体調崩しながらラオスからノンカイに戻った時も、この道を思い浮かべたのだ。後は何とかここまで帰れると。苦しかったなあ。不安だったなあ。でもここに帰って来れてよかった。そんな想いを持って、お祖母ちゃんのアパートに到着。早速怒られた。
「長いことどこに行っとったんや!」と。家族として一緒に生活していた訳ではないが、タダで泊めて貰っていた上に借金しての旅だったから怒られることは仕方無い。
「金返せ!」とは一度も言われないが(言う人ではないが)、ガタガタ(だらしないと)言われないよう早く返そうと思う。
そして、自分宛に送った航空便はしっかり封を開けられていた。「腐るモンでも入っとったらイカンと思うて!」と言うお祖母ちゃん。同居する叔母が「腐ろうがどうなろうが人の物開けるもんじゃないでしょ!」と怒っていたが、私も「日数掛かるのに腐りやすい物など入れる訳ないだろうよ、それより祟りがあるぞ!」と思ったが、何も言い返さなかった。でも黄衣を見ても、ただの黄色い布切れとしか思わなかったようだ。
◆お礼参り
また戻った荷物ギッシリの三畳間暮らし。そんなある日、藤川さんから手紙が届く。本当に頼みもしないのにやって来るようだ。またセコくバングラディッシュ航空便で6月9日(1995年)朝8時10分成田空港着。春原さんにも連絡したらしく、「春原さんを巻き込まないでくれよ!」と思う。
放っておいてやろうかとも思うが、でも朝早くに成田空港に着いたら腹が減っているだろう。前日の昼過ぎ以降は何も食べていないのだ。私も腹が減っても勝手に飯を食えない苦しさは経験したし、昨年は出家への“お願い参り”としてお世話したが、本当にお世話になったことだし、やっぱり“お礼参り”に行ってやろうかな。
飯を食わせに行かねば。そんな心遣いから当日は朝5時に起きて向かうことにした。手紙を読みながら狭いアパートの三畳間に暮らし、引越しも企てる5月末のある日だった。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」