3・11からまもなく9年、「復興五輪」と銘打った東京オリ・パラの開催まで1年をきった。国は「復興五輪」で、福島の事故は終わったものしようと企んでいる。そんな中で避難者の存在が消されようとしている。原発事故の被害を無かったものにするためだ。しかし実際は、今も福島や関東など高線量地域から、被ばくを逃れてきた人たちが大勢いる。

そうした避難者らが現在、どんな状況に置かれているかを同通信では追っていく。第1回目は、森松明希子さん(45)です。

森松明希子さん

◆「私は幸運にも避難できたが……」

「2011年の3月11日、金曜日でした。私は家で、生後5ケ月の赤ちゃんをベビーチェアに乗せながら、ゆったりした時間を過ごしていました」。

あの日のことをそう話し出す森松明希子さんは、事故当時、福島県の郡山に夫と3才の息子、生後5ケ月の娘と4人で暮らしていた。事故でマンションが壊れ、夫の勤務する病院へ避難し、1ケ月間不自由な生活を余儀なくされた。

関西出身で、中学校の修学旅行で広島、高校で長崎を訪れており、「被ばく」の意味を知っていた森松さんは、原発が爆発したと知り、原爆でまき散らされた放射能のことを思い出し、遊び盛りの上の子には、外遊びを禁じていた。休日は新潟や山形のありふれた公園で、子供を外にだして遊ばせるためだけに、往復3時間かけて出かけるような生活だった。

事故後10km圏、20km圏へと「屋内待避」が命じられるなか、福島第一原発から60km離れた郡山にも放射能が広がるのは時間の問題だと思っていた。夫の車のガソリンを満タンだったので、いつ逃げるべきなのか、いつ避難指示を政府は出してくれるかと思っていた。

しかし地元のニュースは「通行止めだった道路が開通した」「●●スーパーが再開した」「〇〇病院が通常通りの営業時間に戻った」などばかり。原発が爆発したニュースは、全国一律で報じられる事以上の詳細は、放射線量も放射能汚染から身を守るべきことも伝えられなかった。

地元のローカル局の報道は、原発が爆発したニュースも一瞬画面に映しだされたが、4月に入ると小中学校や幼稚園の入学式・入園式が通常通り行われると報じ始めた。避難は政府の指示に従って、汚染の激しい原発に近いところから順番に、というのが合理的だと考えて順番を待っていたが、一向に被ばくに対する警鐘も注意喚起もなされないなか、子どもたちを一歩も屋外に出さないという生活に極度のストレスが溜まった。

幼稚園が休みになるゴールデン・ウイークに外遊びさせられる場所を求めていた森松さんに、実家の関西にいくことを進めたのは夫だった。両親、親戚らが住む関西に向かったのは、5月の連休だ。そこで初めて関西のローカル局のテレビの情報番組を見た。番組で福島とチェルノブイリの比較をやっていた。福島では知ることのない情報だった。郡山に残る夫と電話で話し合い、避難を決意、そのまま5月の長い連休を使い、母子避難の準備を一気に進めた。

「私は目の前に3才と0才の子どもがいたから、避難を決意できたのかもしれません。あと関西は土地勘もあり、両親や親戚もいたし。子どもが就学していたら、できなかったかもしれない」と森松さんは話し、さらに「私は子どもを守りたい一心で避難した。私の目の前には、守りたい子どもがいる。だから我慢できる。守りたい子どもが目の前にいない夫は、どうやって精神状態を保っているのだろう」と、仕事で福島に残り続ける夫を思いやった。

勤務医の暁史さんは、家族、とりわけ子どもたちとのコミュニケーションをとるために、毎週でも大阪に行きたい思いでいっぱいである。しかし患者の様態が急変することもあり、早め早めに予定を決めるのは難しい。月に一度が精いっぱいの時もある、勤務が終わった金曜日、夜行バスに飛び乗り、朝大阪に着く。土、日を家族と過ごし、日曜日深夜バスで福島に戻り、朝到着したそのまま仕事に就く、ということもしばしばあった。

◆支援が切られ、泣く泣く帰った仲間……

事故後、自主避難者へも住居などに行政の手が差しのべられたが、それも2017年で打ち切られた。森松さんが代表を務める東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (通称サンドリ)は、月1回、避難仲間や支援者が自由に集まり、情報交換したり、とりとめのないおしゃべりをする「イモニカイ」をやっている。そこへ集まるメンバーも最初のころからは随分変わってきたという。避難元に帰った人、福島には戻らないが、実家のある宮城に移った人、関東近郊に移った人など、さまざまだ。

「帰った人の理由はさまざまです。戻らないと離婚させられるという人もいた。一番多いのは、やはり経済的な負担が大きいからだと思います。でもそうしたことは人には言いにくい。こちらも聞きにくい。とにかく泣く泣く本意ではなく帰った人が多くいたことだけは確かです」。

◆メディアに伝えてほしいこと

「メディアの中には、私たちのことを取材してくださるところもあり感謝しています。でも、言いたいことも山ほどあります」と森松さんは話し始めた。

例えば「原発事故」という表現。事故はアクシデント、「それはちょっとしたアクシデントだね」という軽い感じに思われがちだ。チェルノブイリ被害国ではカタストロフィー(大惨事)という。森松さんは、「放射能ばらまき事件」と言うようにしている。今でこそ声を大にして、そのように表現することができるようになってきたが、8年前そう言うと、大バッシングにあったという。「放射脳」と揶揄されたり、「非国民」呼ばわりされたり……。

2つめは、「自主避難者」というメディアがつけた表現に起因すると森松さんは分析する。「自主」は 「自主トレ」などのように一見前向き、主体的に聞こえるし、そういう先入観を植え付ける。または「やらなくてもいいのに、わざわざ自主的にやっている」という印象もある。しかしそのことで、福島が未だに放射能に汚染されている「実態」が隠されてしまう、と森松さんは危惧している。

「私たちは汚染があるから、福島から出て来たのです。『自主』ではなく『自力』避難と言って欲しいくらいです。また、国連の勧告でも指摘されている通り、原発避難者は国内避難民(IDP)に該当します。政府には保護義務があるということ、国際社会から日本という国はどのようにみられているかということを、もっとマスメディアは報じるべきです」。

◆「風化」ではなく、被害事実の矮小化と隠蔽

事故から8年経ち、原発関連や福島の汚染状況などを伝えるメディアが徐々に減っている。こうした傾向は、来年の五輪開催へ向けて一層強まるだろう。人々はそれを「風化」という。しかし森松さんはきっぱりこう言う。

「『風化』ではありません。風化とは、形あるものがなくなっていくこと、時の経過とともに忘れ去られることです。放射能汚染の事実も被害の実相も、放射能が目に見えないことを良いことに被害の実相も認知されていない。つまり風化ではなく、それは単なる事実の矮小化と隠ぺいです」。大阪に避難するまでの2ケ月間、放射能に襲われるという被ばくの恐怖を「肌感覚」で感じてきたからこそ、そう言えるのだという。

「私は『歩く風評被害』といわれた時もあります。でも『風評』ではなく『実害』です。確かに線量は下がったが、放射能は土壌に深く積もったまま。そこに住まわすことを『人体実験だ』『モルモットだ』という人もいる。福島の人たちを差別するなという人もいる。以前に「フレコンの前で子育て、私ムリ」という川柳を作りました。これを読んで辛い人もいるのだからという批判も受けました。ですが、私は、でもこれ以上事実が封じ込められてはいけない、『私はフレコンバッグの前で子育てはしたくない』と誰もが堂々と被ばくを拒否する権利をコトバにできる社会であるべきだと思ったのです」。

原発賠償関西訴訟 第24回口頭弁論は11月21日(木)大阪地裁にて

◆子どもとともに裁判へ

森松さんの頭の中には、泣く泣く戻ったママたちのこと、様々な事情で避難できず福島にとどまった人たちのことが、いつもあるという。お金が欲しいだけなら、個人で訴えることもできるが、福島にとどまった人たちも救われる、そして避難した私たちも含め、すべての被害者が救われるための施策に結びつけたい、そして同じ過ちを繰り返さないで欲しい。

そんな思いから、「避難の権利」を求めて、2013年9月17日、大阪地裁に提訴、「原発賠償関西訴訟原告団」の代表も引き受けた。第一次提訴者数は27世帯80人、森松さんの家族は子ども2人と森松さんと夫の4人が原告となった。現在原告は238人、うち3分の1が子どもだ。

「私たちは、国が『国策』で進め、万が一にも事故を起こさないと公言していた原発から無差別に漏れ出た放射能のことを問題にしています。国策で進めてきたのだから、避難したい人には避難させ、その生活を保障する、そういう制度がつくれればと考えています」と裁判の意義と将来の展望を語ってくれた。

最後に、9月19日、東電の3役員に原発事故の刑事責任を問う裁判で、3人に無罪判決が下されたことについてお聞きした。

「東電は『万が一』といいます。17メートルの津波が来ることがわかっていたなら、万が一でも万が三でも(原発を止めないにしても)やるべきことがあったはずです。実際ちゃんと対策し、被害を免れた原発もあるのですから。ただあの判決を見た人たち、つまり市民社会が、今度はどう本気になって動くか、あるいは世論がどのように喚起するのかが、カギになると思います」。

森松明希子さん

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』21号では「住民や労働者に被ばくを強いる『復興五輪』被害の実態」を寄稿

〈原発なき社会〉を求める雑誌『NO NUKES voice』21号 創刊5周年記念特集 死者たちの福島第一原発事故訴訟

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「チベット亡命政府があるインド北部ダラムサラで3日から続いていた世界の亡命チベット人の代表による特別会議は5日、閉幕した。チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(84)の後継者選出を巡り、主導権を主張する中国に資格はないと拒否し、ダライ・ラマのみに権限があると宣言する決議を採択した。」(10月5日付け共同通信)

このニュースを最も喜んでいるのは、中華人民共和国政権中枢ではないだろうか。別のニュースでは「チベット人がいる限り、ダライ・ラマ制度は維持される」との声明もあったようだ。

84歳になったダライ・ラマ14世、本名テンジン・ギャツォ氏はチベット仏教の最高指導者であるとともに、明確な制度はないものの仏教界の最高指導者的な存在として、世界から尊敬を集めている人物である。チベットはもともと主権国家だったが、中華人民共和国に武力併合された。チベット民族は現在も約600万人が中国領域内に居住しているとされるが、中国は経済成長の過程で、表面上は自治州における民族自治の尊重を装いながら、漢民族以外への文化破壊をますます進行させてきた。ウイグル人の問題が近年日本でも報じられるようになったが、中国国内には指導者はともかく、独立を志向する100万人以上の民族集団として、チベット、ウイグル、内モンゴルが存在している。

ダライ・ラマは中国からの独立ではなく「高度の自治」を求めるにとどめているが、わたしの知る限りチベット人のあいだには「独立」を指向する人が少なくない。チベット問題は長く国際的な人権問題として西欧各国では取り上げられ、日本では右派が中国を攻撃する材料として利用されてきた。日本にはチベット亡命政府の大使館的(主権国家ではないので、パスポートやビザの発行業務は行えないが)存在として「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」がある。

第二次大戦後のアジアの混乱を象徴しているのが、ダライ・ラマであり、チベット人であるといえよう(彼の波乱に満ちた半生は「Kundun 」、「Seven Years in Tibet Little 」など映画化されてもいる)。しかし、今回の「ダライ・ラマ制度維持」の決議には、追い込まれたチベット亡命政府の焦りを感じざるを得ない。なぜならば、中国のチベット併合の理由は「前近代的な宗教国家からの解放」であったのだ。

そのトップがダライ・ラマであるけれども、ダライ・ラマ同様の「活仏」(生まれ変わりによる仏教上の地位)が実は数十人もいるのである。ダライ・ラマに次ぐ地位として、パンチェン・ラマがある。パンチェン・ラマは1995年5月14日に、ダライ・ラマ14世が当時6歳のゲンドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ11世と公式に承認後、5月17日に、両親共々同少年は行方不明となり、「世界で最年少の行方不明者」と話題になった。中国政府が親子ともども誘拐してしまったのだ。

このように出自により仏教上の地位が決まる選出方法を、中国は「前近代的だ」と批判する最重点課題においていたのであるが、残念ながらそれは正しい指摘だったといわねばならないだろう。卑近な例では天皇制と同じである。

ダライ・ラマ14世は、個人として非常に聡明であり、科学的思考に長けた人物である。が、同時にチベットからインドへの亡命前後から、米国への依存が強く、仏教の教えでは説明のつかない、軍事大国、侵略戦争国家=米国を批判できない立場にある。このあたりの矛盾とチベット伝統の仏教文化を継承するのは容易ではないことは理解に難くない。

ただし、わたしの記憶にある限りダライ・ラマ14世はわたしとの非公式な会話の中で、なんども「ダライ・ラマ制度はもはや時代遅れだ。これからの世界に認められる国家は、民主的であらねばならない。だからわたしが最後のダライ・ラマになるはずだよ」と語っていた。そしてチベット亡命政府は2011年選挙によりロブサン・センゲ氏を首相として選出している。

中国国内のチベット人居住区域でも、拝金主義は横行しているという。チベット人が望んだのではなく、中国政府が独裁を維持ずるためには、政府批判を避ける手段として拝金主義というイデオロギー注入を行ったのだ。しかし依然としてチベット人のアイデンティティーから離れないで、伝統的な生活様式を維持しているひとびとが国境を越えてインドに亡命を繰り返していた。ことしに入りインドと中国の緊張関係が高まり中国からインドへの亡命は激減していることだろう。

わたしは民族自決を支持したい。中国共産党という名前の独裁政党は、共産党を名乗りながら、社会主義、共産主義的経済や社会福祉を採用せず、実態は社会主義の「負の側面」=独裁だけを保持した帝国主義政党である(中国共産党が帝国主義政党であることと、日本がかつて中国大陸に筆舌に尽くしがたい侵略を行った事実は、双方とも注視され記憶されねばならない)。このあたりの認識が亡命チベット政府や、ダライ・ラマ14世には不足しているのではないか。

ダライ・ラマ14世は、信者の間では神様に等しい。しかし、仏教に神などはいないのであり、「無根拠な妄信」を戒めているのはほかならぬダライ・ラマ14世だ。

中国の侵略から半世紀以上が経過し、ダライ・ラマ14世も高齢化するなか、亡命している、あるいは中国内に留まっているチベット人の辛酸は察して余りあるが、利敵行為を採用するのはいかがなものか。ダライ・ラマ14世は幸運にも聡明な頭脳の持ち主(彼の政治判断全てを支持しているわけではないが)であったけれども、「民主主義」と「生まれ変わり」はどう考えても両立しない。

確たる解決策もないわたしが、嘴(くちばし)を突っ込む話題ではないのかもしれないが、チベット人には未来志向でいていただきたいと切望する。安倍晋三や櫻井よしこはあなたたちの真の味方ではない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

◆コンビニ店頭から排除され、終わりをつげる暴力&エロ雑誌

 

最終号となった『実話時代』2019年9月号(2019年7月29日三和出版発行)

もう発売は7月末のことになるが、任侠界の専門雑誌である『実話時代』が廃刊した。そのキャッチは「昭和・平成・令和――激動の時代を駆け抜け本誌完結」「侠熱の三十五年忘れえぬ男たちへ捧ぐ」とあり、記事は「名侠剛侠一代絵巻」「渡世の気魄――本誌が照射したヤクザ三十五年物語」などだ。

往時は公称20万部をほこり、風俗広告に頼らない実話雑誌として斯道界に君臨してきた。ヤクザ公認の「業界誌」あるいは「広報誌」として、抗争なき時代の象徴ともいえる雑誌だったが、近年は福岡県で「悪書指定」を受けるなど、警察庁および暴力団追放運動の販売規制に苦しんできた。

コンビニから排除され、置いてくれる小さな駅前書店が開発計画で廃業するなど、おもに販路の問題から廃刊に追い込まれたというのが、関係者の言うところだ。組織による買い取りや定期購読の努力も行われたが、一般のヤクザファンが気軽に買えない環境では、存続は難しかったというべきであろう。

継承式や事始め(12月13日)を招待されるように取材し、抗争事件を扱わない癒着関係が批判されてきたが、最終号(完結号)にみられるように、ヤクザの序列、貫目にしたがった掲載、役職名の正確さは「癒着関係」があって初めて可能なもので、その意味でも役割の大きな雑誌だったといえよう。

コンビニでは、成人雑誌も置かれなくなった。一説には40億円といわれる売り上げが宙に浮き、リストラと転業を余儀なくされる版元も少なくない。暴力とエロの時代が終わりをつげ、それらはネット社会に収れんされていくのだろうか。

◆ヤクザの業態変化

それはともかく、ヤクザ業界はどうなっているのだろうか。20年前には10万人といわれた組織暴力団の人数は、いまや4万人とも5万人ともいわれる。ちょうど半減したわけだが、暴対法および暴排条例によるシノギの狭隘化、合法部門からの排除が進んだ結果とされている。だが、実際には隠れ企業舎弟ともいうべきフロント企業は増えている。というのも、会員誌の『FACTA』や『選択』に掲載される記事の大半は内部告発だが、そこには「記事にならない記事」が水面下にある。

その記事をめぐって金銭が動く、その頂点にヤクザ組織が介在している。あるいは金銭のやり取りに介在しているのが実態なのだ。もはやみかじめ料や用心棒代といった、昭和時代のシノギは激減し、暴力団組織が情報産業化したといえるのではないか。

その意味では、蔓延する「特殊詐欺」も暴力団のシノギの一端といえるのだが、ヤクザ組織は公式には組員が詐欺にかかわることを禁じている。覚せい剤や賭博も禁じている組織が大半だ。博徒が賭博をやらなくなったのは、借金による組織の荒廃。たとえば格が上の親分が、若い組員に「支払いを延ばしてもらえんやろか」と、貫目にそぐわない人間関係が現出するからだという。そもそも賭場よりも、裏カジノなどのほうがわかりやすい。そもそも若いヤクザは博打のやり方を知らない。

◆暴力団の最後の武器とは?

ヤクザの取材が難しくなったのも事実である。ヤクザ取材には二つの方法があって、ひとつは抗争事件の情報が取りやすい末端の組員と仲良くなる。もうひとつは親分と入魂になることで、トップダウンの情報をもらう。後者が前出の「実話時代」であって、親分が優遇してくれるのだから何でもしてもらえる。が、褒め殺し的な記事しか書けない。

末端の組員と仲良くなるのはいいが、親分を介してない関係は、かなりシビアなものになる。取材をおえて記事を書き、雑誌が出たころにファックスが入る。そこには「貴様、殺す!」と書かれてあったりするものだ。わたしはトップダウンの取材方法で、九州の「最悪の暴力団組織」と呼ばれるトップや、Vシネマの脚本を書く関係で広島や四国、山口組の引退親分の回顧録などを執筆した経験がある。

そのなかで、たとえばわたしが親分が滞在するホテルの一室にいると、そこへ現役の大臣から電話がかかってくる。あるいは人気のお笑いタレントが部屋を訪ねてくる。その場でツーショットを撮る。いっしょに会食をするなどの事実。それが政治家とのプライベートなツーショットである場合、その政治家は「誰とでも写真を撮るので、相手が反社だと知らないケースが多い」と言い逃れることが出来るだろうか。講演会の延長で握手したとか、ホテルのロビーでたまたまとかではない、ホテルの一室で親しく会話している写真なのだ。

なるほど、反社会勢力といえども指定暴力団であり、結社の自由の名のもとに結成された団体。つまり、合法的な結社である以上、警察力をもってしても強制的に潰せるわけではない。だが警察が暴力団を潰さない理由は、みずからの権益拡張すなわち、企業や業界団体への暴力団対策要員としての天下り。あるいは防犯団体への天下り先の確保。こうした直接的な利害とともに、政治家と暴力団の癒着をよく知っているからなのだ。それは選挙がらみの集票マシーンとして、政治家が藁をもすがる思いで、ヤクザ組織を頼みにするからにほかならない。

昨年、安倍総理(当時は衆院議員)にかかる選挙スキャンダル。すなわち工藤會系の事業者に選挙妨害を依頼した事件(火炎瓶事件に発展)が、新たな展開をみせながら、肝心の証人(実刑を受けた当事者)が音信不通になるというミステリアスな結末を迎えた。次回はここだけでしか書けないヤクザのエピソード、暴力団と政治家の密通の現場をお伝えしよう。 ※このテーマは、随時掲載します。


◎[参考動画]【山本太郎事務所編集】2018年7月17日内閣委員会「総理とヤクザと避難所と」(山本太郎 2018/8/29公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

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安倍晋三までの62人を全網羅!! 総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』

敬虔な、イスラム教徒のかたと外食をする。想像していただきたい。そして、ご経験のあるかたは、その困難さが理解されるだろう。豚の肉は絶対に口にはできないし、豚のエキスが入っているものもダメだ。原材料に、食べることが許されない材料が「ない」、と確信できない限り食べるもの、入る店は決められない。

一般的な外食のチェーン店はまず無理だ。「日本語がわからないから、適当なところで誤魔化そうか……」空腹で1時間以上、飲食店を物色していると、邪念もわいてくる。しかし、そのかたにとってのイスラム教は、日本人の「葬式仏教」は訳が違うのだ。母国の法律はイスラム教を書き換えたものだ。生活のすべてがイスラム教に依拠している、といっても言い過ぎではない。そんな人を欺くことはできるものではない(敬虔ではなく、比較的緩いイスラム教徒の中には、日本滞在が長くなると、あまり食を気にしなくなり、なかにはビールを飲んで歓談することも平気になったひともいる)。

そのひとが、本当に「大切」にしているもの、は簡単には茶化せないし、茶化してはいけない。繰り返すが「そのひとが本当に大切にしているもの(勘違いで妄信しているものや、演技では断じてない)」にどう接するか、いかに誠実でいられるか、が実は「アナタハナニモノデスカ」に対する、回答との写し鏡ではないだろうか。

「アナタハナニモノデスカ?」

あなたは人間だ。この通信を読んでくださっている読者は、日本語が理解できるひとだ。あなたは、いくぶんかでも、わたし、田所敏夫という名前に、引っ掛かりがあるか、疑っているか、嫌いか、そういった感情をもつひとだろう。

わたしは2019年9月某日。日本の総体を好感せず、あれやこれやと文句を書き並べる、売れないフリーライターだ。日本の総体、なかんずく日本の政治の悪質さ、マスメディアの馬鹿さ加減、庶民のファッショ化(ファッション化ではない)、の悪化に日々「いやだなぁ」と暮らしにくさを、心に刻んでいる。きのうきょうにはじまったことではない。「アナタハナニモノデスカ?」と聞きはしない。内心、そのように問わずに、安心してそのひとの大切にしているもの、の心象的な手触りを、かんじることができる人がどんどん減ってしまって、軽々に本音の話ができない。

この苦しさは、たとえが、ずいぶん的外れかもしれないけれども、敬虔なイスラム教徒の来訪者と、食事をしようと街のなかを歩き回った、あのときのたじろぎよりも、何万倍もたちがわるいく、きもちわるいのだ。あの来訪者の、人格まで知りうるほどの付き合いではなかった。あのひとは、わたしにとって「敬虔なイスラム教徒」と大雑把に決めつけるしかない。その程度の関係性だった。でも空腹はつらかったものの、どこかに「アナタハナニモノデスカ?」と質問したくならない、非日常的な幸いがあった。失礼ながらイスラム教徒のかたとは接して、職場を何年もともにしたことはあったけれども、敬虔なイスラム教徒のかたとの邂逅は、「アナタハナニモノデスカ?」が頭に浮かぶ隙も与えはしなかった。

改憲・原発・死刑・天皇制・自然災害・差別・選挙制度・日本の戦争責任・自民党と公明党・お子さんの教育・受験・学歴・就職活動・雇用形態・組合・残業代不払い・年金・介護・相続・法律……(あるいは「服従と不服従」、「倫理と不倫」、「合法と非合法」、「埋没と非埋没」、「協調と独立」)。

あまた、あなたも直面してきたであろう(するであろう)選択に際して、あなたはどんな基準(ちょっと小難しく言えば思想と哲学)で判断を決めてこられただろうか。判断の積み重ねが、こんにちの「アナタ」を形成し、あなたの人となりを決めているのだと思う。「保守」、「リベラル」、「革新」(死語)、「人権派」、「エコノミスト」、「エコロジスト」。

実際のところ、一部の個性的なひとびとを除いては上記にあげた、概念はほとんど死滅してしまっている。たとえば池上彰、佐藤優、内田樹。そこまで有名ではなくともちょっとした場面で、自分が考えたように、どんな話題にも滑舌よくしゃべるひとたち。あなたは「大昔にジョージ・オーウエルが描いた人物像以下だよ」と囁いてやりたい、軽口ども。「何にでもなれる」つまり「何物でもない」のに、自説を口角泡を飛ばす勢いで、展開しているような偽物。

「アナタハナニモノデスカ?」

人間の内面像があいまいになってはいまいか。わたしの錯視、勘違いか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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「風化」に楔を打ちこむ!季刊『NO NUKES voice』創刊5周年号!

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

一定の国民が支持するNHK受信料反対・モザイク放送化以外は、N国党はある意味でどうでもいいかな(勝手にやってくれ)と思っていたが、立花孝志のこのかんの言動に典型的な「内ゲバの構造」を見た。

税理士で江東区議の二瓶文隆と東京都中央区議の文徳氏親子にたいして「25歳の二瓶文徳はこれからもね、徹底的に叩き続けますから。オレ、奥さん、この子のお母さんも彼女も知ってますよ。徹底的にこいつの人生を僕は潰していきますからね。二瓶親子、特に息子、覚悟しとけ。許さんゾ、ボケ」などと発言する動画をYoutubeにアップしていたのだ。この感情のなかに、深刻な内ゲバの論理が潜んでいるのを、やや遠回りしながら解説していきたい。


◎[参考動画]裏切り者【二瓶文徳】(25才)中央区議会議員をぶっ壊す!(NHKから国民を守る党 総合チャンネル2019年7月3日公開)

◆内ゲバの論理はこえられなかった

かつて高橋和己は「無私だからこそ」、革命運動の内部ゲバルトは生じると、政治運動の崇高性を前提にしていた(内ゲバの論理はこえられるか)。

高橋和己が体感してきたのは、日共50年分裂(所感派と国際派の軍事路線をめぐる対立)における学生組織のリンチである。その後、全共闘運動の自由な組織感、たとえばデートがあるからデモを休むことが、気軽に受け容れられるなど、新しい学生運動への期待が彼の中にはあった。

しかしながら、高橋死後の日本の学生運動は、周知のとおり連合赤軍の同志殺し、中核VS革マル、社青同解放派(革労協)の内内ゲバに至るまで、まさに惨憺たるものだった。このあたりのわたしの体験は、11月に発売される『鹿砦社創業50周年記念出版 一九六九年 混沌と狂騒の時代』にも書いたので、ぜひお読みいただきたい。

その新左翼運動の内ゲバに「私利私欲」はあったと、故荒岱介は『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書)で明らかにしている。それは自治会の利権であり、学生活動家の天下り先としての大学生協の維持をめぐって、他党派を排除する内ゲバの論理があったと。

その意味では「カネと女をめぐる対立」というマスコミの下卑た論評は、半分当たっていたことになる。他党派解体という、世界で類を見ない革命運動の陥穽、あるいは病理というべき政治現象は、他党派を排除することで自派が伸長することを意味する。宗派的で独善的なドグマでありながら、市場原理をそのまま運動に体現した、ある意味ではわかりやすい構造である。

◆内ゲバの動機は「感情」である

しかしながら、内ゲバは人間の感情に根ざしたものでもある。単なる私利私欲ではなく、憎悪に組織された暴力でもあるのだ。仲間を殺された恨みと怒り、等価報復で敵に罪を償わせる報復の論理だ。いや、それだけではない。裏切りという即自的な怒りが、裏切り者を徹底的に叩くことへと向かわせる。この即自的な怒りこそ、内ゲバの血の底流なのだ。最大の敵である政治権力に向かう怒りが、それを掘り崩す「裏切り者」へと向かう。

たとえば李信恵らのM君リンチ事件を思い起こしてほしい。もっとも身近な、したがって裏切りへの応報という論理が通じやすい相手が標的にされた事件だ。そこには内輪のことだから泣き寝入りするだろう、という計算もひそかに働いていたに違いない。身近な、自分たちの言語(掟の了解)が通じる相手にこそ、内ゲバの暴力は向かうのだ。


◎[参考動画]二瓶文徳はこんなに応援してもらってあっさり裏切る政治家です (NHKから国民を守る党 総合チャンネル2019年8月13日公開)

◆勝手にやめたのが気に入らない

9月9日の会見において、N国党の立花孝志代表はこう語ったという。「これが恐喝にあたるんですか。起訴され、罰金刑や執行猶予になれば議員を辞職します。けれども、起訴猶予や不起訴なら戦います。世論で辞めろという声が60%以上なら考えるし、80%なら、辞職を考えます。議員にしがみつくつもりはない」などと。まったくもって、完全に常軌を逸した見解である。記者会見では、こうも語っている。

「脅迫になるかどうかについては警察が動いている。私が今日お願いした弁護士さんは正当防衛みたいなものと言っていた。人が殴ってきたのを殴ったのは正当防衛になる」

そもそも、原因は何だったのだろうか。会見からひろってみた。

―― 党におさめるべきお金を収めなかった?

「はい、彼(文隆氏)は党の仕事をせず、お金で解決しようとしていた。コールセンターのシフトに入らず、金を払って代理にやらせていた。コールセンターの仕事をすることなく、父親は領収書を前に、一生懸命、税理士の仕事をしていた。お父さんの方は政党の監査をする資格をお持ちなんですよ。それに対して現場に行ってやらなきゃいけないのをいかずに、通常15万円かかることを10万円でやる。そういうことをやっている。とにかく、裏側にまわってやりたいと、(文隆氏からの)ツイッターのダイレクトメールによれば、『私は政治資金監査人としては希有な人材と自負しています』と。N国党を辞めたからといって、当選して2カ月後に辞めたからといって、ちょっと怪しい人だなと思っていたところ、お父さんが、最初からN国党にいたくなかったと、のうのうとフェイスブックに書いている。これは国民をばかにしていると思って動画の作成に至った」

事務所番をせずに、勝手に党をやめたことが気に入らないというのだ。党に損害が生じたというのならば、ほかに方法があるではないか。今回の二瓶親子の被害届には、NHKがバックにいるとも立花代表は主張している。

「どうしてNHK職員と二瓶さんと接触しているのか。それが被害届けの提出につながっているのではないか、疑っている。(文隆氏の)事務所に行ったら、机の上にNHKの職員の名刺があった」

この一件で、警視庁は立花代表を書類送検した(10月2日)。「徹底的にこいつの人生を僕は潰していきます」とネットで宣言したのだから、ある意味で当然の措置であろう。

N国党は参院選挙を前に、所属の地方議員から130万円を徴収しようとして、支払わない議員を除名にしている。除名された議員のなかには、とんでもネトウヨ議員(NHKは在日に占められていると主張)もいたことから、立花代表の「英断」ととる向きもないではなかった。しかし、勝手に党をやめたことで腹を立て、恐喝まがいの行動に出る。ここに内ゲバの感情が横溢しているのは明らかだ。いずれにしても、事件の帰趨を見極めたい。


◎[参考動画]【10月4日党首会見】豊田真由子さん、堀江貴文さん、小西ひろゆき議員…すべて話しました。(立花孝志10月4日公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』

サオトー・シットシェフブンタム(撮影:山本有佐)

江幡睦が、10月20日(日)の後楽園ホールで開催される新日本キックボクシング協会MAGNUM.51に於いて、タイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級王座へ4年半ぶり4度目の挑戦が予定されています。

現・チャンピオンは、サオトー・シットシェフブンタム(Saotho Sitchefboonthum)で、今年1月23日に当時のチャンピオン、ゴーンサック・ソー・サータラーに判定勝ちして王座獲得してから、現在まで6連勝中。6月27日にはゴーンサックにヒジ打ちでTKO勝利し返り討ち。江幡睦戦が2度目の防衛戦となります。

サオトー・シットシェフブンタム 
1997年8月16日、バンコク出身(22歳)
現・ラジャダムナンスタジアム・バンタム級チャンピオン 
約120戦をこなし80ほどの勝利(約10のKO)

噂の範疇ですが、サオトーは幼い頃、家が凄く貧乏な暮らしだったという。現在は経済発展著しいタイ国ではあるが、貧富の差はより激しくなった中、そんなハングリー精神は昔からあるムエタイボクサーの本能を持っているだろう。

双子の兄は、サオエーク・シットシェフブンタム。現在、スーパーバンタム級で、元・ラジャダムナンスタジアム・スーパーフライ級チャンピオン。

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レックトレーナーのミットに打ち込むサオトー(撮影:山本有佐)

◆サオトー・シットシェフブンタムインタビュー(9月21日現地 / 聞き手:山本有佐)

── 今回初めての海外遠征で日本での試合ですが、どうですか?

サオトー 日本に行くことが嬉しいです。

── 相手のことは知っていますよね?

サオトー はい。以前、(江幡陸が)シェフブンタムジムに練習に来ていたので知っています。

── その時、相手を見てどんな感じでしたか?

サオトー さほどの印象はないですね。でも、油断だけはしないようにします。

── 特に相手の攻撃で注意することはありますか?

サオトー 全部です。特にパンチと肘です。

前蹴りで相手の動きを止めるサオトー(撮影:山本有佐)

── 首相撲でも組み合ったと思いますが、どうでしたか?

サオトー なかなか強かったです。

── サオトー選手の得意技は何ですか?

サオトー 肘打ちです(右の肘打ちのポーズ)。

── 今回は肘でKOを狙いますか?

サオトー チャンスがあれば狙いたいと思いますが、それはタイミングだと思います。

── 初めてムエタイをしたのは、いつですか?

サオトー 6歳の時、ノンタブリーでしました。

―― 通常体重はどのくらいですか?

サオトー 59キロです。118パウンドでの試合は全く問題ありません。

── 10月の日本は涼しいですが、調整は大丈夫ですか?

サオトー タイで体重は調整して行きます。前日計量なので、試合は全く問題ありません。

── 今まで一番の強敵はだれでしたか?

サオトー ノーンヨットです(2019年8月15日、判定勝ち)

── 最後に日本のファンに一言お願いいます。

サオトー 10月20日は全力で戦います!

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左がサオトー、右が兄のサオエーク(撮影:山本有佐)

サオトーのトレーナーのレック氏は、江幡陸が今年タイ遠征し、シットシェフブンタムジムで練習していたのを見ているので、しっかり対策を立て、相手を想定してシュミレーションしながらミット打ちを指導していた様子。江幡陸にとって過去最強の難敵襲来、厳しい戦いが予想されます。

双子の兄、サオエークは11月1日、「KNOCK OUT」興行に於いて、睦の弟、塁に敗れている小笠原瑛作との対戦が予定されており、江幡兄弟とサオエーク・サオトー兄弟を絡む、興味を引く対戦が増えそうな日本のリングである。
 
WKBA世界バンタム級チャンピオン.江幡睦は1991年1月10日生まれの28歳。2013年3月10日にラジャダムナンスタジアム王座初挑戦も、当時のチャンピオン、マナサック・ピンシンチャイに3-0の判定負け。同年9月16日には江幡ツインズ弟の塁とラジャダムナン王座ダブル挑戦(睦は2度目の挑戦)で、当時のチャンピオン、フォンペット・チューワタナに2-1の判定負け。3度目の挑戦は、2015年3月15日にまたもフォンペット・チューワタナに3-0の判定負けの返り討ちに遭い、ここから4年半、タイのテクニシャン相手に待ち続ける戦いの年月を送った。

長年追い続けたムエタイ最高峰の王座、特に軽量級の50kg台のフライ級からスーパーフェザー級域は、本場タイでの激戦区で、外国人が絡むことが難しい階級であり、最軽量級(105LBS)では今年、吉成名高が二大殿堂制覇を果たしたが、この激戦階級では江幡睦が歴史を変える快挙を達成したいところだろう。更には現地での防衛を果たし、弟・塁との同時チャンピオンや二大殿堂制覇など、ファンが望む終わりなきトーナメントは続くのである。

左が挑戦する江幡睦、右が塁(2018.9.2)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆「満期出所」後、大学へ──薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた

前回までご紹介したような、「教育」の名に値しない高校の「満期出所」=卒後を控え、わたしは愛知県に強い嫌悪を抱いていたので、東京と関西の大学しか受験しなかった。しかもその年の3月(高校の卒後式後)には、数名で執筆した「愛知の管理教育を弾劾する」内容の書籍の発行が決まっていたので、大学に合格しなければ、翌年「卒業証明書」、「成績証明書」の発行が拒否される可能性を考慮していた(「そこまではしないだろう」と読者はお考えかもしれないが、法律など考慮もしない高校教師の狼藉は、その懸念を抱かせるに十分であった)。

二部(夜学)も含め複数の大学から合格通知を得たわたしは、学費などを考慮して、関西の大学への進学を決める。4月1日の入学式を前に、阪急電車の中から目にした桜並木のあでやかさが、忘れられない。桜なんか毎年見ていたはずなのに、「出獄」直後だからだろう。薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた。

◆バブルな新卒2年を経たある日、通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立つ

さて、大学に入ると、時代はバブル真っ最中。キャンパスは浮ついており「夏はテニス。冬はスキー」というサークルが200以上はあっただろう。「大学に入ったら勉強して、世の中の不条理をただしたい」。「時代遅れ」とか「難しいこと言うな」あるいは「お前ひとりがそんなこと考えても仕方がないだろう」と散々揶揄されながらも、「授業料を払って通う刑務所」のごとき「あってはならない」行政悪を強制された身には、浮かれて遊ぶ気にはならなかった。

教職課程を履修するならば、1年時から「日本国憲法」を採ることができたけれども「教育関係機関には絶対勤めない」と確信していたわたしは、当然のごとく、教職課程は履修しなかった。そしてはっきり言えば講義の8割はクダラナイ。語学と体育だけは出席があるので出なければならないけど、科目名と講義内容の乖離。レベルの低さに嫌気がさした。かといって、大学内のいかなるサークルや部活動にも足場がなかったので、いきおいわたしが大学に出かける回数は減っていった。

少数話が通じる相手と、下宿で議論したり酒を飲んだりする時間以外は、読書かアルバイトばかりしていた。やがて卒業が迫ってくる。幸運にもバブルはさらにヒートの度を挙げるばかりで、わたしのような私学の大学生でも、下宿で寝ていたら企業から電話がかかってきた。

「面倒くさない。企業なんかどこに勤めてもどうせ大同小異だろうが。そんなところで俺が持つはずがないじゃないか」いまでいう「自己分析」はしっかりできていた。ただ、親の手前一度は世間に名の知れた企業に就職し「あいつでも就職できるんだ」と安心させてやるもの、子供の宿命と考え、当時就職人気1番と2番の会社から内定を得た(その後何度か転職をしたが「就職試験」で落とされたことは2度だけだ)。

予定通り2年ほど会社に勤務し、予想を超える「企業人」の苦痛さを実感したわたしは、寒い時期のある日通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立ち、10時の文房具屋開店を待ち、便箋と封筒を購入し「辞表」を書き上げて職場へ向かった。

◆転職した京都の名も知らない私立大学で過ごした稀有な時間

その会社を辞め、転職した会社の本社は大阪だったけれども、配属先は東京だった。「数か月したら海外の勤務に就かせる」との担当者の話を信じて就職したのだが、どうも数か月勤務してもその雰囲気はない。この頃出勤の際は独身寮から会社まで新聞を読んで時間を潰すのが、習慣だった。中でも、毎日目が行くのは「求人欄」だ。ある日京都の名も知らない大学が職員を募集する広告を出していた。

その後京都の私立大学に事務職員として採用された。『大暗黒時代の大学』で、ほぼ大学名が特定できるように記述したが、わたしにとってはまったく望外の職場と、職場にとどまらず精神性豊かなひとびとに、濃密に接する稀有な時間がはじまった。

先にわたしは、学生時代に「教育関係機関には絶対勤めない」と考えていたと述べた。その決意は簡単に翻った。簡単に決意を翻す人間と思われても仕方がないだろう。

ただ、結果的ではあるが、わたしはその大学で当時95%以上の日本の大学では、得ることができなかったであろう、生涯の記憶に残る経験をさせていただくことになる。本コラムで報告してきたのと、真逆の世界がそこにあった。

わたし自身は、学生時代に教職員と親しく接した経験はあまりない。ゼミの指導教員とはかなりいろいろな話をしたが、職員さんと話をしたのは数回だろう。だからわたしの「大学職員」という仕事のイメージは「地味で無難な方々が、基本定型業務に従事する」というものだった。これは多くの大学事務職員に対して、誤った像ではなかった。

ところが、わたしが採用された大学は違った。規模が小さいからであろうか、学部事務室がなく、本部機能が集中している事務棟には、講義中も休み時間も、ひっきりなしに学生が入ってくる。しかもカウンターの間から事務机の横にやってきて、先輩職員と話をしている。先輩職員は学生の名前を記憶しているだけではなく、学生の個性や問題まで把握していた。そして多くの学生も職員の名前を知っている。勤務時間中事務室にやってきた学生は、自分の悩み事や世間話を先輩職員とかわしている。いったいこの大学はどうなっているのだろうか?と唖然とさせられた。しばらく過ごすうちに、わたしの職場は「稀有」な理念で設立された大学であり、それが、一定程度当時は残っていたことに気がついた。

◆覚悟を決めて及んだ「暴力」

おおかた大学は「自由」や「理想」のかけらのようなものを、建学の精神としている。が、その多くは死文化し、形骸だけが支配している(今日の大学ほぼすべてがそうであるように)。ところが当時わたしの職場では「理想」の実践がまだ目に見える形で残っていた。学生と教職員の関係。教員と職員の関係。大学の在り方についての議論など、他大学のそれとは大きな違いがあった。

わけても顕著であったのは学生と職員の関係性だろう。採用された当時は諸先輩が学生と友達のように歓談する姿に圧倒され、劣等感を感じたが2年もするとわたしも多くの学生と知り合い、先輩同様に学生たちと毎日のように就業時間が終わると、職場での宴会を楽しむ関係になっていた。

学生との関係性が近くなるということは、単に享楽的な時間を共有することだけを意味するわけではない。下宿している学生が夜間に体調不良になれば助けを求める電話がかかってくるし、思い詰めて「自殺を考えている」という電話も本人や友人から何度もかかってきた。あるいはトラブルに巻き込まれ警察からの連絡であったり、恋人同士の別れ話……。とにかく大学で仕事に従事している時間以外にも、頻繁に学生から電話がかかってくる。恋人同士の別れ話など付き合っていられないから「勝手にせいや」とほおっておくが、「自殺」に関する話や、行方不明などは、すぐに現場に直行しないと取り返しがつかないことになる。

そのようなギリギリの場面で、わたしは学生に何度が暴力を振るったことがある。

落ち込んで、気力をなくしている学生。彼とは普段から付き合いがあって、だからこそ気持ちの吐露にわたしを選んで電話してくれたのだろう。「お前、そんな程度のことで死んどったら、命いくつあっても足りへんぞ!」わたしは怒ったふりをしながら、頭の中は冷静で「ここでは張り手を見舞うしかない」と覚悟を決めて彼の顔を張った。この件で後に「暴行」や「傷害」と問われても後悔すまい、と心に決めてからだ。

3回にわたるこのシリーズの冒頭で、「体罰。一見、理がありそうで生徒・児童に何らかの教育的効果が期待できそうな響きを持つ倒錯。わたしは教育機関におけるあらゆる「体罰」を全面的に否定する。高校・大学の運動部においても同様。わたしがこれまで体験してきた「体罰」は、生徒・児童の不適切行為に対する教師の、やむにやまれぬ選択であったことは一度もない」と書いた。そうだ。体罰などというのは、暴力を振るった大人の弁解・欺瞞で、暴力は暴力でしかないと、いまでも考えている。

だからわたしが彼に振るったのは、「自殺」を止めるためとはいえ、「暴力」であったと思っている(そのときに「暴力」以外に彼を覚醒させる方法を思いつかなかったし、いま振り返っても、同じ状況であれば同じ行動を選択していた)。

また、数百人の学生と学外からの侵入者が、大乱闘を繰り広げた際に、騒動を鎮めるために、泥酔したある卒業生を殴ったこともあった。この折には学生に何人もの重傷者が出ていたので、騒動の鎮静化が第一と考え、1対数百では「ショック」しか方法が浮かばず、大声を上げてある卒業生を殴った(勿論在学中から知り合いの人間だ)。

当然、このときは数百人の目撃者がいる前での「暴力」であり、のちにわたしの行為が問題化されることは覚悟の上であった。

あれらは決して体罰などではない。暴力だ。ただし、わたしが「授業料を払って通う刑務所」で受けた暴力と、あえて違いを弁解するのであれば、わたしは、自分がその後批判されたり、罰を受けようとも構わない覚悟があって、その時には、それしか方法がないと覚悟を決めて暴力に及んだことである。

わたし自身に暴力を振るいたい衝動や動機などはまったくなかった。大学生、あるいは卒業生で、普段から酒を飲むなど一定以上の関係性が成立している「大人と大人」の間での関係が成立したうえでの「暴力」だ。そうであっても人間関係が崩れたり、刑事罰を受ける覚悟はあった。そのくらにい腹をくくらなければ「暴力」の行使に及んではならない、とわたしは考える。(完)

◎「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった(全3回)
〈1〉1980年代、愛知県立高蔵寺高校の暴力教師たち
〈2〉授業料を払いながら通う『刑務所』には「組合」に入っている教師がほとんどいなかった
〈3〉わたしが振るった「暴力」考

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

◆死者が出かねなかったドーハの惨状

ドーハで開かれている世界陸上選手権の女子マラソン(9月27日)で、棄権者が相次いだ。気温は33度。出走68人のうち、じつに4割以上にあたる28人が途中棄権したのである。優勝したチェプンゲティッチ(ケニア)の2時間32分という記録は2007年大阪大会の2時間30分よりも2分遅い歴代最遅記録だった。

英BBCによると、5位だったマズロナク(ベラルーシ)はレース実行に踏み切った国際陸連を批判し、「アスリートに敬意がない。多くのお偉方がここで世界選手権をすることを決めたのだろうが、彼らはおそらく今、涼しい場所で寝ているんだろう」と皮肉ったという。

医療施設がゴールラインの隣に用意され、コース上で人が倒れるたび、選手たちは担架でそこに運び込まれたという。そもそも炎天下でマラソンを行なうこと自体が正気の沙汰ではない。

◆真夜中のレースでこの惨状

いや、このレースは炎天下ではなく、真夜中に行われたのである(午前0時過ぎにスタート)。気温は33度、湿度は73.3%だった。おなじく真夜中に行われた男女50キロ競歩、女子20キロ競歩でも棄権者が多数出た。ロシアメディア「スポルトエクスプレス」によると、22位でゴールしたトロフィモワ(ロシア)は、レース後に「非人道的な環境だった」と語った。自身のインスタグラムで「10キロで少女たちがまるで“死体”のように道路に横たわるのをみた」と惨状を明らかにした。まさに修羅場である。こんなのを“スポーツ”というのだろうか。

けっきょく、日本選手は7位に谷本観月(天満屋)、11位に中野円花(ノーリツ)と2人が完走したが、池満綾乃(鹿児島銀行)は30キロ過ぎに力尽きた。代表コーチを務める武冨豊天満屋監督は「こんな環境では、もう二度と選手を走らせたくない」と言いきった。

この結果をうけて、オリンピック委員会は来年の東京五輪マラソンを見直すのだろうか。いや、スタートを午前6時に繰り上げたばかりで、本気で強行するかまえを崩していない。選手ファーストどころか、アメリカ巨大ネットワーク放送の意向をうけた、買弁オリンピックを強行しようというのだ。

◆オリンピックで死者が続出してもいいのか

これまでに世界陸上で最低の完走率を記録したのは、1991年の世界陸上東京大会男子マラソンである(9月1日開催)。同大会では60選手がレースに出場し、40%に当たる24人が途中棄権した。当日の気象条件は、午前6時のスタート時で気温がすでに26度、湿度は73%と高温多湿のレースとなった。25キロ付近では気温30度を超え、日本のエース格だった中山竹通も途中棄権を余儀なくされている。

来年の東京オリンピックマラソンは、女子が8月2日、男子が8月9日である。今年の同日の気温を調べたところ、2日が35度、9日は36度である。この夏の驚異的な暑さは、いまも焼けた素肌感覚で残っている。このまま来年のレースが強行されたら、死屍累々たる結果は目に見えている。

しかるに、大会組織委員会、東京都、陸連の対策はといえば、打ち水や温度をためにくい舗装路にする、前述のスタート時間の繰り上げなど、抜本的なものはない。当たり前である。室内ではなく暑い東京の夏を走るのだ。

打ち水はいかにも日本人的な風情というか知恵のようにみえるが、熱気をもった水蒸気が選手に襲い掛かるという。湿度を上げるのだからそれも当然かもしれない。そしてスタート時間の繰り上げにも問題がある。

寝ている時と起きている時では、血圧に差があるのだ。寝ている時は最も血圧が下がってるが、そのため朝起きると血圧が急に上昇するという。その状態で、ランニングをすると、ただでさえ血圧が上がっている状態にさらなる負荷がかかり、血栓が血管を塞いでしまう。したがって、脳梗塞や心筋梗塞を起こしやすくなるというのだ。

一般的に突然死が起きやすいのは午前中というデータがあるが、その理由の一つとして血圧の急上昇が挙げられるのだ。ようするに、気温の比較的低い朝のランニングこそ、人間の体に負担をかける。いや、負担どころか死をまねきかねないというのだ。暑さを考慮して繰り上げたスタート時間が、本当に選手の生死を左右しかねないのである。

◆今からでも遅くない、真夏の大会はやめるべきだ

それもこれも繰り返しになるが、アメリカの大手放送ネットワーク資本の事情によるものだ。

周知のとおり、アメリカでは大リーグのワールドシリーズ(プレイオフをふくむ)、アメリカンフットボールのレギュラーシーズンと、秋にスポーツのビックイベントが重なっている。大きなスポーツ大会のない7、8月の視聴率を埋めるために、オリンピックは夏場に開催されるようになったのだ。このままでは巨大資本のための大会に、選手たちが犠牲となるのだ。

1964年の東京オリンピックの記憶がある方は、あの素晴らしい青空のもと、すがすがしい風と共に思い出されるのではないだろうか。テレビ録画で55年前の入場風景をご覧になった方も、透明感のある空気とスポーツ日和を感じられるはずだ。スポーツの秋という言葉を引くまでもなく、真夏にオリンピックをやる愚は犯すべきではない。いまからでも遅くはない。アスリートファーストという言葉が嘘ではないのなら、今回のドーハの惨状に学ぶべきである。


◎[参考動画]【ドーハ2019世界選手権】日本代表発表!新ユニフォーム発表!記者会見 選手コメント(日本陸上競技連盟2019年7月4日公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

創業50周年 タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』10月号絶賛発売中!

「授業料を払いながら通う『刑務所』」に集められた教師たちには特徴があった。新卒教員が極めて多いこと、そして「組合」に入っている教師はほとんどいないことであった。

◆一人だけまともな教師がいた

なんの間違いか「授業料を払いながら通う『刑務所』」に配属された、のちの恩師にO.K先生がいた。O.K.先生は早稲田の政経学部から明治の大学院に進み、橋川文三に師事したインテリだった。彼と初めて言葉を交わしたのは2年生のときだった。わたしがどういうわけか1年生の前で「講話」をするように教師どもから指示を受けたときだった。「講話」というのは朝礼や、それ以外の任意の時間でも高校がその気になれば生徒を集めて、教師が気まぐれな話をすることを指す。

ある時は、役職者の矢野という教師が「本校は教育でいく!『今日行く』、『Today Go』です!」と真顔で語っていたことを思い出した。

そう。新設校の教師はなべて知的水準が低かった。「教育」を「Today Go」と訳す馬鹿に指導されて大学に入るのは、至難であることは理解されやすかろう。

「新設校の常套手段だ! 核になる『生徒づくり』!」O.K先生は幾分ぶっきらぼうにわたしを斜めに見ていたように記憶する。わたしは友人の情報で「一人だけまともな教師がいる」にすがる思いでO.K先生に相談に行ったのだが、彼のフラストレーションも限界に来ていたのだろう。

高校卒業後にO.K先生とは何度も飲んだ「意地悪だったよね。初対面のとき」とわたしはいつも嫌味を繰り返したが、「ゴメン、本当に記憶がないんだ」と深刻そうな表情をするO.K先生とは、彼が不慮の事故で他界するまで親しくお付き合いさせていただいた。

◆威張り方だけは十分仕込まれていたノンポリ「漂白済み」新卒教員たち

新卒教員連中は、勘違い激しく先輩暴力教師の真似をして、どんどん不良教師として成長していった。山口県光市出身で東京理科大卒の数学の教師は、きわめて口下手だった。民間企業では絶対に務まらない域だ。その彼が珍しく身を乗り出すようなことを語ったことがあった。

「みんな、高校に入って、『なんだか自由がない』と思ってるんだと思う。どうしてこういう教育になったかというと、大学や高校が『学園紛争』で荒れた時代があったんだね。そういうことを起こさせないために、こういう教育になっている」

ほおー。愛知県の新任教師研修ではそこまで「本音」が語られているのか、とちょっと驚いた。弾圧は明確な意図と言葉で成立していたのだ。もちろんノンポリで東京理科大に行けるくらいだから、試験の成績は良かったのだろう。しかしこの新任教師は、リアルな「社会」を全く知らなかったし、興味を持ったこともなかったのだ。事程左様にノンポリ「漂白済み」のような教師(22、23才だろう)のくせに、威張り方だけはすでに十分仕込まれていた。

ところがものごとは直線状に進むとは限らない。教師どもの本音を知った同級生の中からは、本腰で教師と非妥協な関係を構築するものがむしろ増えた。わたしはO.K先生に数学新任教師が「本音」を語ったことを、半分笑いながら伝えた。

「笑いごとじゃないんだよ。君らはいいけど、僕は職員会議では完全に孤立している。もう疲れた…」。「授業料を払いながら通う『刑務所』」に勤務していた当時、O.K先生の口癖は「もう疲れた」だった。

◆「真っ当な神経の持ち主」の教員は「登校拒否」となった

O.K先生だけではない。わたしの1年生時担任だった九州出身で夜学を出た苦労人の先生は、学年途中から半分「登校拒否」になってしまった。わたしたちはその先生の「登校拒否」を批判しなかったし、むしろ肯定的にとらえた「真っ当な神経の持ち主」だと。卒業後O.K先生の自動車に苦労人の先生と同乗したことがあった。苦労人の先生は「僕はまっぴらごめんだけど、田所には高蔵寺高校に入ったことを後悔してほしくないな」というようなことを言われた。わたしは少し言葉を荒げた。

「先生は嫌いではないですよ。でもわたしたちの『失われた3年間』は誰がどうやって返してくれるんですか? ご存じですか? 高蔵寺高校は『青春の墓場』と他の高校から比喩されていることを」この発語は今も撤回するつもりはない。いい年をとったが、あの3年間の息苦しさは「教訓」にこそなれ誰も、あがなうことはできはしないのだ。やや過剰な表現を使えば「戦場体験」と似ているかもしれない。時間がたてば忘れられる。そんな類の浅い傷ではない。

◆夕方のTVニュースで映った高蔵寺高校校長、伊藤一太郎の顔

高校を卒業して大学1年のとき、暑い夏の夕方TVの報道番組を見ていたら、どこかで記憶に残っている顔は映っている。あ! 伊藤一太郎じゃないか! 「授業料を払いながら通う『刑務所』」こと愛知県立高蔵寺高校の校長だ。

何が起こったのか? 報道によると校長や事務長がPTA費を流用していたらしい。「ほら見やがれ!」無意識にわたしは叫んでいた。狭い下宿で上半身裸のまま、シャワーを浴びた直後にもかかわらず、再び怒りと興奮で汗が止まらなかった。

「権力」、「暴力」、「保身」の本質とは何か。人間はいかに情けない動物か。わたしは3年間の「授業料を払いながら通う『刑務所』」生活で学んだ。実名で名前をあげた当時の教師どもはまだ健在か。あるいはすでに他界したものもいるかもしれないが。君たちに告げておこう。「あなたたちが冒した罪を、わたしは死ぬまで忘れないし、許さない」と。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

創業50周年 タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』10月号絶賛発売中!

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

ワールドカップの一次リーグでジャパン(日本代表)が世界2位のアイルランドを19対12で破り決勝トーナメント進出への足掛かりを得た。これをメディアはこぞって「奇跡がふたたび」「大番狂わせ」と報道しているが、そうではない。観ていた方はわかると思うが、フィットネスの面でジャパンはアイルランドを圧倒していた。


◎[参考動画]【ラグビーワールドカップ2019ハイライト】日本×アイルランド(DAZN Japan 2019年9月29日公開)

この勝利は勝つべくして勝ったというべきである。そもそも、ラグビーというスポーツに「偶然」は「ラッキー」はない。いや、楕円ボールのラッキーバウンドすらも、練習によって見きわめられた想定内の運動なのである。ラグビーを多少やっていた人間として、ジャパンの強さを解説しておこう。

◆世界にほこるトレーニングの量

もう十数年前になるが、わたしは鹿砦社の松岡社長の紹介で日本ラグビーフットボール協会のA氏(慶応OB)を紹介されたことがある。それが機縁で社会人ラグビー(当時)のプロ化の準備に向けたサイトの運営、テストマッチ(国の代表チームの対戦)や日本選手権の取材などを引き受けていた。

そしてその中で、代表チーム(ジャパン)の個別のトレーニング管理という、きわめて徹底したマネジメントを知って驚いたものだ。代表候補選手に携帯のメーリングシステムを通じて、個人練習(その日に何キロ走ったか、など)を管理するというものだ。そこまでやるのかという、わずかに嫌な印象を持ったものだ。

現在はプロ化(完全ではない)が達成され、代表チームの招集も個別の所属チームに優先するようになったので、スマホで個人トレーニングを管理する必要もなくなったが、それでも激しいトレーニングは世界レベルでもトップではないか。

エディ・ジョーンズヘッドコーチの時代、ボールを使った練習中にホイッスルが鳴ると、数分間走り続ける、選手にとってはうんざりするようなトレーニングが課せられたものだ。80分間走るフィットネスにかけては、世界に敵はいないだろう。

アイルランド戦の勝利は、けっして奇跡ではないのだ。アイルランド選手が動けなくなっているときに、ジャパンの選手たちは体を躍動させていたではないか。そしてリザーブ選手がすぐに試合に順応できる層の厚さも、アイルランドとは好対照だった。

◆日本のラグビー文化の素晴らしさと限界

今回のジャパンの活躍で、にわかラグビーファンが増えるのは悪いことではないが、その反面でラグビーというスポーツ文化への一知半解が従来のラグビーファンの眉を顰めさせることもあるはずだ。

たとえば、テレビでは「サポーター」というサッカー用語をさかんに使っているが、ラグビーのサポーターという意味ならばともかく、個別のチームのサポーターがラグビーに存在するわけではない。よいプレイがあれば相手チームであれ、応援しているチームであれ、拍手で讃えるのがラグビーの観戦マナーである。

サッカーJリーグはファンにサポーターという地位を与えることで、応援で「活躍」する場をあたえた。これは野球にみられる応援文化を、そのまま海外におけるサッカーの応援シーンに合致させたものだ。ラグビーにもプロがあり、南半球のラグビー応援シーンはなかなか派手だ。しかし、大学ラグビーを底辺に構築されてきた日本のラグビー文化は、サッカーのそれを後追いするには異質なものがある。

たとえばアイルランド戦で活躍した福岡啓太選手は、医者を志望しているという。ラグビー選手がプロとしてチームに残る際も、企業のマネージャーとしての立場が必要である。高学歴ゆえに、組織マネージメントや技術者としての役割性を期待されるのだ。

ひるがえって、フリーランスでラグビー解説者やタレント化するほど、ラグビー人気に厚みはない。プロ化のいっそうの推進がどこまで可能なのか。ファンの支援が、サッカー並みに「サポーター」として厚みを持てるのか、これも昔の話で恐縮だが、伊勢丹ラグビー部が解散するときに「おカネがないのなら仕方がないね」で済まされたものだ。ラグビーはエリート社員たちの「余暇」としかみなされなかったのである。

◆ウエイトトレーニングが決め手だった

かつて、早明ラグビー人気を中心に、80年代にはラグビーブームという言葉があった。伏見工業ラグビー部をモデルにしたテレビドラマ「スクールウォーズ」の人気もあって、ラグビー精神のオールフォアワン、ワンフォアオールが人口に膾炙したものだ。その後、早明両校の低迷やJリーグサッカーの隆盛もあって、ブームの去ったラグビーは低迷期に入った。早明に代わって大学ラグビーの王者となった関東学院の生活事故(部員の大麻栽培)による凋落、出発したトップリーグも旧来の社会人ラグビーをリニューアルした以上の印象ではなかった。

ラグビーの変革はやはり、大学ラグビーに表象した。早明ラグビーはラックの早稲田(スピード)モールの明治(圧力)、早稲田の横の展開力に明治の縦の突進という戦術思想に限界がきていた。日本代表もスピードを基本に、日本人に合ったラグビー戦術を採っていたが、世界標準は戦略・戦術の総合力をもとめていた。それをいち早く達成したのは、岩出雅之監督がひきいる帝京大学だった。ウエイトトレーニングの導入で選手の体格・パワーアップに成功。相手をリスペクトするメンタルの高度化によって、規律のある(反則をしない)プレイを徹底した。この戦略は、じつに大学選手権9連覇という偉業を達成した。

そして名門明治がウエイトトレーニングを本格的に導入することで、もともと素材に勝る明治が帝京を破るという流れが、このかんの大学ラグビーである。このような動きと、ジャパンの強化策も同じである。けっきょく、スピード(軽さ)とパワー(重さ)という相反しがちなテーマは、徹底したウエイトトレーニングと走りこむことによってしか得られない。その苦行に、ジャパンは勝ち抜いてきたのである。

かつて、ジャパンはフランス大会においてニュージーランド(オールブラックス)に17対145(ワールドカップ記録)という大敗を余儀なくされていた。ヨーロッパ各国代表とのテストマッチでも100点差ゲームはふつうだった。奇跡ではなく、総合力のアップがジャパンの躍進をささえている。ジャパンのいっそうの活躍を期待したい。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

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