◆「満期出所」後、大学へ──薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた

前回までご紹介したような、「教育」の名に値しない高校の「満期出所」=卒後を控え、わたしは愛知県に強い嫌悪を抱いていたので、東京と関西の大学しか受験しなかった。しかもその年の3月(高校の卒後式後)には、数名で執筆した「愛知の管理教育を弾劾する」内容の書籍の発行が決まっていたので、大学に合格しなければ、翌年「卒業証明書」、「成績証明書」の発行が拒否される可能性を考慮していた(「そこまではしないだろう」と読者はお考えかもしれないが、法律など考慮もしない高校教師の狼藉は、その懸念を抱かせるに十分であった)。

二部(夜学)も含め複数の大学から合格通知を得たわたしは、学費などを考慮して、関西の大学への進学を決める。4月1日の入学式を前に、阪急電車の中から目にした桜並木のあでやかさが、忘れられない。桜なんか毎年見ていたはずなのに、「出獄」直後だからだろう。薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた。

◆バブルな新卒2年を経たある日、通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立つ

さて、大学に入ると、時代はバブル真っ最中。キャンパスは浮ついており「夏はテニス。冬はスキー」というサークルが200以上はあっただろう。「大学に入ったら勉強して、世の中の不条理をただしたい」。「時代遅れ」とか「難しいこと言うな」あるいは「お前ひとりがそんなこと考えても仕方がないだろう」と散々揶揄されながらも、「授業料を払って通う刑務所」のごとき「あってはならない」行政悪を強制された身には、浮かれて遊ぶ気にはならなかった。

教職課程を履修するならば、1年時から「日本国憲法」を採ることができたけれども「教育関係機関には絶対勤めない」と確信していたわたしは、当然のごとく、教職課程は履修しなかった。そしてはっきり言えば講義の8割はクダラナイ。語学と体育だけは出席があるので出なければならないけど、科目名と講義内容の乖離。レベルの低さに嫌気がさした。かといって、大学内のいかなるサークルや部活動にも足場がなかったので、いきおいわたしが大学に出かける回数は減っていった。

少数話が通じる相手と、下宿で議論したり酒を飲んだりする時間以外は、読書かアルバイトばかりしていた。やがて卒業が迫ってくる。幸運にもバブルはさらにヒートの度を挙げるばかりで、わたしのような私学の大学生でも、下宿で寝ていたら企業から電話がかかってきた。

「面倒くさない。企業なんかどこに勤めてもどうせ大同小異だろうが。そんなところで俺が持つはずがないじゃないか」いまでいう「自己分析」はしっかりできていた。ただ、親の手前一度は世間に名の知れた企業に就職し「あいつでも就職できるんだ」と安心させてやるもの、子供の宿命と考え、当時就職人気1番と2番の会社から内定を得た(その後何度か転職をしたが「就職試験」で落とされたことは2度だけだ)。

予定通り2年ほど会社に勤務し、予想を超える「企業人」の苦痛さを実感したわたしは、寒い時期のある日通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立ち、10時の文房具屋開店を待ち、便箋と封筒を購入し「辞表」を書き上げて職場へ向かった。

◆転職した京都の名も知らない私立大学で過ごした稀有な時間

その会社を辞め、転職した会社の本社は大阪だったけれども、配属先は東京だった。「数か月したら海外の勤務に就かせる」との担当者の話を信じて就職したのだが、どうも数か月勤務してもその雰囲気はない。この頃出勤の際は独身寮から会社まで新聞を読んで時間を潰すのが、習慣だった。中でも、毎日目が行くのは「求人欄」だ。ある日京都の名も知らない大学が職員を募集する広告を出していた。

その後京都の私立大学に事務職員として採用された。『大暗黒時代の大学』で、ほぼ大学名が特定できるように記述したが、わたしにとってはまったく望外の職場と、職場にとどまらず精神性豊かなひとびとに、濃密に接する稀有な時間がはじまった。

先にわたしは、学生時代に「教育関係機関には絶対勤めない」と考えていたと述べた。その決意は簡単に翻った。簡単に決意を翻す人間と思われても仕方がないだろう。

ただ、結果的ではあるが、わたしはその大学で当時95%以上の日本の大学では、得ることができなかったであろう、生涯の記憶に残る経験をさせていただくことになる。本コラムで報告してきたのと、真逆の世界がそこにあった。

わたし自身は、学生時代に教職員と親しく接した経験はあまりない。ゼミの指導教員とはかなりいろいろな話をしたが、職員さんと話をしたのは数回だろう。だからわたしの「大学職員」という仕事のイメージは「地味で無難な方々が、基本定型業務に従事する」というものだった。これは多くの大学事務職員に対して、誤った像ではなかった。

ところが、わたしが採用された大学は違った。規模が小さいからであろうか、学部事務室がなく、本部機能が集中している事務棟には、講義中も休み時間も、ひっきりなしに学生が入ってくる。しかもカウンターの間から事務机の横にやってきて、先輩職員と話をしている。先輩職員は学生の名前を記憶しているだけではなく、学生の個性や問題まで把握していた。そして多くの学生も職員の名前を知っている。勤務時間中事務室にやってきた学生は、自分の悩み事や世間話を先輩職員とかわしている。いったいこの大学はどうなっているのだろうか?と唖然とさせられた。しばらく過ごすうちに、わたしの職場は「稀有」な理念で設立された大学であり、それが、一定程度当時は残っていたことに気がついた。

◆覚悟を決めて及んだ「暴力」

おおかた大学は「自由」や「理想」のかけらのようなものを、建学の精神としている。が、その多くは死文化し、形骸だけが支配している(今日の大学ほぼすべてがそうであるように)。ところが当時わたしの職場では「理想」の実践がまだ目に見える形で残っていた。学生と教職員の関係。教員と職員の関係。大学の在り方についての議論など、他大学のそれとは大きな違いがあった。

わけても顕著であったのは学生と職員の関係性だろう。採用された当時は諸先輩が学生と友達のように歓談する姿に圧倒され、劣等感を感じたが2年もするとわたしも多くの学生と知り合い、先輩同様に学生たちと毎日のように就業時間が終わると、職場での宴会を楽しむ関係になっていた。

学生との関係性が近くなるということは、単に享楽的な時間を共有することだけを意味するわけではない。下宿している学生が夜間に体調不良になれば助けを求める電話がかかってくるし、思い詰めて「自殺を考えている」という電話も本人や友人から何度もかかってきた。あるいはトラブルに巻き込まれ警察からの連絡であったり、恋人同士の別れ話……。とにかく大学で仕事に従事している時間以外にも、頻繁に学生から電話がかかってくる。恋人同士の別れ話など付き合っていられないから「勝手にせいや」とほおっておくが、「自殺」に関する話や、行方不明などは、すぐに現場に直行しないと取り返しがつかないことになる。

そのようなギリギリの場面で、わたしは学生に何度が暴力を振るったことがある。

落ち込んで、気力をなくしている学生。彼とは普段から付き合いがあって、だからこそ気持ちの吐露にわたしを選んで電話してくれたのだろう。「お前、そんな程度のことで死んどったら、命いくつあっても足りへんぞ!」わたしは怒ったふりをしながら、頭の中は冷静で「ここでは張り手を見舞うしかない」と覚悟を決めて彼の顔を張った。この件で後に「暴行」や「傷害」と問われても後悔すまい、と心に決めてからだ。

3回にわたるこのシリーズの冒頭で、「体罰。一見、理がありそうで生徒・児童に何らかの教育的効果が期待できそうな響きを持つ倒錯。わたしは教育機関におけるあらゆる「体罰」を全面的に否定する。高校・大学の運動部においても同様。わたしがこれまで体験してきた「体罰」は、生徒・児童の不適切行為に対する教師の、やむにやまれぬ選択であったことは一度もない」と書いた。そうだ。体罰などというのは、暴力を振るった大人の弁解・欺瞞で、暴力は暴力でしかないと、いまでも考えている。

だからわたしが彼に振るったのは、「自殺」を止めるためとはいえ、「暴力」であったと思っている(そのときに「暴力」以外に彼を覚醒させる方法を思いつかなかったし、いま振り返っても、同じ状況であれば同じ行動を選択していた)。

また、数百人の学生と学外からの侵入者が、大乱闘を繰り広げた際に、騒動を鎮めるために、泥酔したある卒業生を殴ったこともあった。この折には学生に何人もの重傷者が出ていたので、騒動の鎮静化が第一と考え、1対数百では「ショック」しか方法が浮かばず、大声を上げてある卒業生を殴った(勿論在学中から知り合いの人間だ)。

当然、このときは数百人の目撃者がいる前での「暴力」であり、のちにわたしの行為が問題化されることは覚悟の上であった。

あれらは決して体罰などではない。暴力だ。ただし、わたしが「授業料を払って通う刑務所」で受けた暴力と、あえて違いを弁解するのであれば、わたしは、自分がその後批判されたり、罰を受けようとも構わない覚悟があって、その時には、それしか方法がないと覚悟を決めて暴力に及んだことである。

わたし自身に暴力を振るいたい衝動や動機などはまったくなかった。大学生、あるいは卒業生で、普段から酒を飲むなど一定以上の関係性が成立している「大人と大人」の間での関係が成立したうえでの「暴力」だ。そうであっても人間関係が崩れたり、刑事罰を受ける覚悟はあった。そのくらにい腹をくくらなければ「暴力」の行使に及んではならない、とわたしは考える。(完)

◎「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった(全3回)
〈1〉1980年代、愛知県立高蔵寺高校の暴力教師たち
〈2〉授業料を払いながら通う『刑務所』には「組合」に入っている教師がほとんどいなかった
〈3〉わたしが振るった「暴力」考

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)