◆私虐めのネタ!

春原さんとの再会となったお昼。藤川さんが今回付き添ってくれている女子大生を「ボクシングの記者やが、マスコミの勉強になるから会うとき!」と誘った。行った先はとげぬき地蔵に向かう途中にある商店街の昨年と同じレストラン。

席に着いた途端、藤川節は始まった。今年は私のことを笑いものにした話が中心。
「こいつな、出家した夜、袈裟の纏い方をいくら教えても不器用で纏えんで、“明日の朝までに纏えるようになれ”って突き放したら、翌朝、托鉢に出る1時間半も前に起きて練習しとったんやで、前の晩は眉吊りあがって、口はへの字になって(そんな顔真似)、今にも泣きそうにメソメソしながら纏う練習しとったわ。ワシ、部屋帰ってから一人で大笑いしとったわ、ワッハッハッハ!」いつもの漫談風の喋りっぷりがオモロく、他人事のように笑えてしまった。

昨年のミャンマーの女学生はすでに帰国された様子だったが、食事中、厨房からインド人風の男性が二人出て来た。「すみません。私達に寄進させてください!」と慣れた日本語で言うゴッツイ男達。どこの国かは忘れたが、やはり東南アジア系仏教徒の留学生だった。

また5千円あまりの負担を掛けさせてしまったが、それが彼らの希望だ。日本に来てタンブンの機会が無い彼らにとって、いきなり黄衣を纏った比丘が現れるとは絶好のチャンス。私自身はタイでたいした修行にはならなかったからより心苦しい気持ちが残る。またも藤川さんの存在で我々が恩恵を受けたが、それぞれが留学生の徳を積む心をしっかり噛み締めていた。

眼力強く語る藤川さん、試合のように打ち合えるのは立嶋篤史のみ(撮影は前年のもの)

小国ジムにて、出家前の藤川さんの店にはよく通ったチャイナロンと再会

◆藤川さんの反省!

今年の藤川さんの東京滞在も、私が一緒に居られる時間はできるだけ付き合い、翌日には池袋にあるキックボクシングの小国ジムに連れて行くと、縁ある仲の再会となった。

私の得度式に参列してくれた高津くんが居た、ノンカイとチェンマイで試合した伊達くんも居た、アナンさんのジムから小国ジムにトレーナーとして招聘されていたチャイナロンも居た。

「高津くん、出家する気になったけえ?」冗談でも目敏い質問。笑って拒否する高津くん。練習見ながら私が「伊達くんは実力有りながらタイトルに絡む大事な試合でコロッと負けたり、ロードワークでうっかり足挫いたり、注意力が足りないのかなあ!」と言うと、「彼こそ、一回出家してみた方がええな、何か熱くなり易い性格みたいやから隙が出来るような気がするしなあ、自分を振り返る時間が必要かもな、1ヶ月ぐらいでええから出家してみればええ!」と私に言うだけだったが、ここでの藤川さんはやたら喋らない存在だった。

そのジムの中で「ハルキ!またやってしもうた!」なんていきなり言い出すから、「“またやってしもうた”って何やったんですか?」と聞くと、この前日の昼食後、皆が別れた後の夕方5時頃、アジア文化会館のロビーに女子大生が、お母さんを連れて再びやって来たという。

「また身になる話でもしたろと思うて話しだして気が付いたら、ロビーの電気も消される閉館間近の夜9時やった!」

女子大生はお母さんにオモロイ坊主の身になる話を聴かせたかったのだろう。私は“このジジィ、やったことの罪深さ分かったんかいな“と少々感心。

巣鴨で再会した春原さんと(前年と似ているが撮影は1995年6月)

◆私の逆襲!

前日の昼食で会った春原さんらとの食後、店も混みだしたのでまた皆で喫茶店に移ってから、藤川さんの放っておけばいつまでも調子に乗って喋る姿に、ついに本音で苦言したくなり、捲くし立てて口撃してしまったのだった。

「藤川さん、笑い話には楽しくていいんですが、どこからか関心無い世間話を延々と聞かされる者の気持ち考えたことありますか?立嶋篤史に何か言えば何か自論が返ってくる。これが会話のキャッチボールですよ。去年の習志野ジムの合宿所(アパート)に泊めて貰った翌朝、15歳の練習生にいきなり人生の生き方みたいな話を1時間ぐらいして、彼はせっかくの休みの日に朝から説教されて、“いつまで続くんだろう”と思ったろうに。

タムケーウ寺では、ある日の夕方6時頃、私に「旅に出る許可貰う為の和尚に渡す文言の書き方教えるからワシの部屋来い!」と言うから行ってみると、そんなもん立ち話で2分程度で終わる話。そこからいつ終わるか分からない説教が世間話に替わって止まることなく12時まで続いた。何も飲まずに、喉渇かなかったですか?私はトイレに一回行かせて貰ったけど、あれ息抜きに部屋の外出ただけですよ。それとノンカイからネイトさんが来た時、硬い椅子に窮屈で暑くて眠れない夜行バスで朝着いたばかりなのに、延々話しだして、私が「ネイトさん、疲れているでしょ、こっちで少し寝たら?」と逃げ道作ってやろうとしたら、「人は寝んでも寝る時にはちゃんと寝とる!」と言ってまた止まらぬ話が続いて、それでもネイトさんは頭いいから対話になっていたけど、人が集中して話しを聴いて居られるのは1時間が限度ですよ。藤川さんが普段、日本語喋る機会が無いから、聴いて貰える相手と会った時が、思いっ切り喋りたいだけの単なるストレス発散でしょ!!」

前列、チャイナロン、高津広行、伊達秀騎、ここから次なる運命が広がるか

的を得ていたか、ほんの数秒だが藤川さんが黙ってしまった。そしてまた「坊主の話は長いほど有難いモンやぞ!」と自論を言い出したから“身勝手なジジィ”と思ったが、この反省を少しは踏まえていながら、“またやってしもうた”らしかった。

「女子大生のお母さんはずっと笑って聴いていましたか?途中からその笑いは愛想笑いになっていませんでしたか?どこからか相槌しか打たなくなりませんでしたか?」と問うと、

「なっとった・・・!」と応えた。

「それは目上の人の話を断ち切って席を立つのは失礼だから我慢しているだけで、もう話に興味無くなって、もう帰りたいという信号ですよ!閉門されるとか、電車の終電とか、何か譲れぬ切っ掛けが無いと話が終わらない、我の強い人はドンと話を断ち切ることも出来ますが、立場の弱い人はそうはいかないんです。これって凄い苦痛なんですよ!!」

長く溜まっていたストレスを発散したのは私の方で、言いたいこと言ってスッキリした。逆に藤川さんの喋り捲る癖が少しは分かる気持ちだった。

◆今後の展開!

この翌日、藤川さんは京都の娘さんのところへ1週間ほど帰り、再び巣鴨に戻られてから私が成田空港へ見送った際、「これで御礼参りは終わった。来年以降は一人で勝手にやってくれ!」と出国手続きへ背中を圧し飛ばしてやったが、後々そんなこと覚えている藤川さんではなかった。

1996年以降も藤川さんは毎年パンサー(安居期)に入る前に御自身の活動の為、日本へやって来た。私は御礼参りも済み、もう縁は切っていいと思うところ、あまりにもしつこく何度も手紙と電話で連絡寄こすので根負けし、成田空港までは行かないが、昼食(12時前)を都内で迎え入れることは多かった。

タイのワット・タムケーウでの様子もいろいろ変化が起こっていた。そして藤川さんに転機もやってきた。1997年3月、ペッブリー県よりややバンコク寄りのサムットソンクラーム県にあるワット・ポムケーウに移籍されたのだった。この時期からまだ先になるが、私もその寺に一度、訪れてみることにした。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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