◆藤川さんが四国八十八箇所御遍路の旅で味わったこと!
2001年4月18日、藤川さん(藤川清弘和尚)は一時帰国、再会時に約束のプリペイド式携帯電話を渡すと、予定通り四国鳴門市一番礼所霊山寺へ、八十八箇所御遍路の旅が始まった。ここから約50日間の旅となる。私は一度も同行することは無かったが、後々旅の話を聞くと、札所での理不尽な想いを何度もする旅だったようで、これが今の日本のお寺か、慈悲の念など全く感じない住職が多かったという。
藤川さんは旅の資金はそこそこ持っているが、タイで出家した比丘として、極力戒律を守りながらの旅で、正に比丘(食を乞う者)として、お寺で食事の施しを願い出た時は、「文句言いながら無料うどん券を放り投げて来よった!」とか、また別の寺で「タイの寺で修行しとる藤川と言う者ですが、戒律で一般のホテルなどには泊まれないので、ここで一晩泊めてくださいませんか?」と願い出た時には「寺の外に通夜堂があるからそこで寝ろ!」と無愛想に言われて行って見ると、雨が降ったら水浸しになるような掘っ建て小屋で、夜はまだ少し寒い時期で冷たい床。
それでも寝る準備をしていると警察官が二人やって来て、「お前どこの人間や、不審者が居ると通報があった、パスポートを見せろ!」と怒鳴りつけてくる警察官だったという。
藤川さんも気の強い元・地上げ屋、「ワシは日本人で許可を貰うてここに居るんや、お前なんかにパスポート見せる必要は無い!」と突っ撥ねたという。どうやら「そこで寝ろ!」と言った住職がすぐさま警察に「不審な者が居る!」と通報したようだった。黄色い袈裟を纏い、テーラワーダ仏教の身分証明書もパスポートも持った比丘を、そんな扱いをする住職が、四国八十八箇所の礼所のひとつにあるのか。
更には四国八十八箇所巡りで礼所の僧侶の態度に不愉快な想いをした一般の巡礼者もかなりの数に上るようだ(2001年当時の話)。
一方で藤川さんは、人から施しを受けた物しか食べてはならない戒律を極力守っていたが、日本に居てはそんな話は通用しない。止むを得ず、夜のうちにコンビニエンスストアーの前にタムロする若者に「ワシ、タイで坊主やっとるんやけど、戒律で自分から食べ物を買うたりは出来んのや、すまんけどお金預けるからオニギリとかパンとかでええから買うて来てくれへん?」と頼んだら「あっ、いいですよ~!」と嫌な顔もせず、すぐ買って来てくれたという。
横柄な寺の住職より素直な若者に何度も出会い、親切な振舞いや、「オッちゃん頑張ってな!」と励ましてくれる声掛けには本当に心救われたようだ。
◆手紙が来ない
2002年、年明けぐらいから藤川さんから手紙が来なくなった。“これで縁が切れた”という訳がない。電子メールに替わっただけだった。藤川さんも初期的なノートパソコンを手に入れたようだ。この冬、寒いのに日本に来た時など、しつこいものだった。
携帯電話には留守電が入り、家の固定電話にも留守電が入り「藤川ですう、電話くださあい!」の他、携帯電話メールにも同様の文言、パソコンメールにも同様の文言、ミクシィにまで同じ文言が入っていた。
「これだけやっとけば“知りませんでした”とは言えんやろ!」さすがに元・地上げ屋、やることはしつこい。
◆2003年3月、もう一度タイへ
私が再びタイに渡った目的は、伊達秀騎が始めたジムの様子を見ること、そして2年3ヶ月ぶりに藤川さんが修行するワット・ポムケーウへ訪れてみることなどがあった。
一週間の滞在の拠点は伊達秀騎が運営するイングラムジム。彼は2002年3月に計画どおりムエタイジムを開設していた。
バンコクのスクンビット通り、高架鉄道のプロンポン駅に近いエリアに在り、将来有望な選手も居て、まだ新しく広いジムだが、やがて引っ越さなければならない事情があって、バイクに乗って物件交渉に向かう伊達くんの姿があった。
藤川さんの寺は二度目の訪問なので迷うことなく到着。ジャーナリストの江頭紀子さんも訪れて来て、藤川さんが長年続けられて来られた仏陀の教えを説く活動が、次第にマスコミを巻き込む友達の輪を広げたものと感じた。
藤川さんと再会した途端にいつものマシンガントークが始まり、あるショックな話を聞かされた。
数週間前、我々の古巣のワット・タムケーウのアムヌアイさんが突然、藤川さんを尋ねて来たという。
そこで言われたことは、ワット・タムケーウの和尚さんが交通事故で亡くなったというもの。車で外出する際、寺の世話人が運転する車が誤って横転し、車から投げ出された和尚さんは即死だったらしい。
そこでアムヌアイさんが藤川さんに申し入れたことは「ワット・タムケーウの和尚(住職)になってくれないか?」というものだった。和尚さんの死を悔やみながらも、さすがに断ったという。ビザの更新で外国に頻繁に出る為、寺を守れないのは明白。長く副住職を務めたヨーンさんも還俗した後で、他に長老と言える先輩は居ないアムヌアイさんは人生の決断の時だろうか。
更に藤川さんはやがて本を出版するという。字は汚い、文章は小学生の作文より下手、人様に聞かせられるような人生ではないからと断わり続けるも、出版社、執筆者から励まされ煽てられ続けると書かざるを得なくなって、四国御遍路が終わった辺りから少し書いては諦め、また励まされ、また進んでは旅の為ストップしつつも何とか書き上げ、後は執筆者に丸投げしたという。
「その完成出版に向けて5月にソムサック(仮称)を連れて日本に行くから宜しく!」と丸投げして待つだけの藤川さんは涼しい顔。ソムサックさんは、私が前回この寺に寄った際、泊めて貰った倉庫小屋の軒先の部屋に居た真面目な30代の比丘で、この2003年春には近くの海沿いの小さな掘っ建て小屋のような寺の住職になったという。
藤川さんもこのワット・ポムケーウに来た当初から、ソムサックさんは頼りになる存在で、「今迄でコイツが一番信頼できる坊主なんや!」と言い、「一度、日本に連れていってやりたくて、ワシの支援者らの前でテーラワーダ仏教について喋って貰おうと思うとるんや!」と言い、パスポート取得やビザ申請も進んでいるという。タイで生まれタイで育ち、仏門を中心とした人生のソムサックさんが見る東京の街はどんな風に映るのだろう。
通算4度目となる藤川さんの托鉢も撮影させて貰った。今回はメークロン駅ではない方向で、藤川さんの後を若い比丘が一人着いていた。出家10年を超える長老となって新米比丘を随えて貫禄充分であった。
◆切れるどころか深まる縁
実際はたいした用の無い旅だったが、この寺のクティの屋上で日光浴させて貰い、しっかり日焼けできた。藤川さんが私を誰も居ない屋上に誘ってくれたのは、実はこれが本当の渡タイ目的で、人に見せたくない皮膚疾患を持つ私の身体は強い紫外線によってキレイに治った。あまりやるべきではない手段だが、一気に治したい目的は達成できた旅となった。
ここで出会った江頭紀子さんには帰国後、「オモロイ坊主を囲む会」の飲み会に誘われた。
藤川さんのオモロイ説法にハマるタイプの似た者同士でオモロイ人達だった。これではまだまだ藤川さんとの縁は切れそうにないなあ。更にはこのメンバーを中心に日本上座部仏教協会設立へ向かう2003年春だった。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」