著者は1968年に高田馬場にある大学に入学、と『一九六九年 混乱と狂騒の時代』の冒頭にある。ベトナム反戦運動のさなか、立川の高校に通っていたというから60年代末を多感な時期に体感したといえよう。そんな著者が週刊誌のトップ屋稼業をはじめた70年代からのエピソードをもとに、昭和の空気を味わうがごとく切りとった小説作品集である。実在の人物をもとにした小説であれば、仮名を用いてもそこはかとなく登場人物の息づかいが感じられ、暴露ものではないと思いつつも「あっ、これは誰それだ!」という興味が先を読ませる。なかなかのエンターテイメントなのだ。
たとえば、表題作「あの人は今」の西丘小百合は南沙織である。おりしも出版社系週刊誌の黎明期で、スクープをねらう芸能記者のうごき、事務所と結託した番組スタッフのうごめき、そしてその結果としての女性歌手のささやかな夢の実現。彼女が沖縄米軍基地および日米地位協定の理不尽さに憤りをもっているのは、わたしのような芸能界門外漢でも知っていることだけに、読んでいてリアルで愉しい。
◆昭和の芸能一家の喜悲劇
その西丘小百合こと南沙織が南田沙織としてブラウン管に登場する「蘇州夜曲」は、福島県いわき市の一家の父親が娘のかおりを歌手デビューさせようと奮闘する、70年代にはよくあった東北と東京の光景ではないか。700万円で戸建ての家が造れた時代に、資産家とはいえ1千万円単位でデビュー資金を要求される。坪3000円の土地担保で融資された4千万円は、すでにレコード大賞の審査員や著名な音楽家たちの懐に渡っているのだ。1億円近くを詐取された父親は、警察に告訴するも娘とカネはもどってこない。芸能界の華やかなステージの裏側に、こんな喜悲劇(せめて喜びもあったとしたい)は山とあったのだろう。我慢という名前の芸能プロデューサーが実刑判決を受けたのが、父親とこの作品にとっては唯一の救いだ。名曲蘇州夜曲が物語の背景にあることがまた、昭和のロマンを伝えてくれる。
「同窓生夫婦」も芸能界デビューを夢みる少女の物語だ。第二の山口百子(=山口百恵)を夢みた少女は、地方の勝ち抜き歌合戦をへて芸能プロに所属することになる。母親を援けたいという動機はしかし、女と駆け落ちをした父親との再会という、やや救いの乏しい現実から出発している。これが作品中に果たされないのは、読者にとっては虚しい。
ともあれ彼女は堀米高校(=堀越学園)に通いながら、同級生のライバルたちと凌ぎを削る。しかるに、凌ぎを削るのは異性関係の足の引っ張り合いというか、スキャンダルであるのは言うまでもない。少女は芸能プロの男とのあいだに出来た子供を堕胎したことを、新人賞をめぐるライバルの同級生にリークされ、賞レースの年末までに華やかなステージから沈んでしまう。救いは彼女を慕って(?)いた中学からの同窓生の男の子だった。おそらく今でも大半の歌手志望者が落ち着く、カラオケスナックを第二のステージにした歌手生活が、彼女のささやかな幸せを受け止めたのだ。喝采。
「マネージャーの悲哀」の麻田美奈子モデルがあるとすれば、大阪から上京した赤貧の母娘と言う設定なので、浅田美代子ではなく麻丘めぐみであろうか。そのアイドル候補に怪我をさせた件(濡れ衣)で母親に土下座させられたマネージャーは、女子大生ブームの新しいアイドルにも身代わりの土下座をさせられた末に、暴露本ライターに行き着く。ベストセラーになったらしく、かれは国道沿いにホルモン店をいとなむ。何というかまぁ、めでたし。
順番は前後するが「消えた芸能レポーター」は喫茶店のボーイから記者(芸能レポーター)になった元受験生が、じつは強姦犯だったというミステリアスな展開だ。作品のなかばからドキュメンタリータッチに感じられる筆致は、この原案が事実だったことを感じさせる。失踪した元強姦犯は樹海の中で死んだのか、それともまだ生きているのか――。
◎[参考動画]南沙織 夜のヒットOPメドレー
▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』では「『季節』を愛読したころ」を寄稿。
高部務〈著〉『あの人は今 昭和芸能界をめぐる小説集』(評者:諸田玲子)