◆一時帰国が頻繁に

藤川さんの四国八十八箇所礼所巡りから日本での活動が増えると当然、支援者も増えていった。陰気臭い仏教話も打ち消してしまうような京都弁丸出しの真面目で笑える説法。人気者にならない訳が無い。人生相談も増えたが、これをマスコミが追いかけ始めたことも当然の成り行きだった。

2003年5月3日、この時期は藤川さんが出版社に唆されて書く運命になった半生記本出版がメインの一時帰国。またも電話とメールで呼び出され、昼前に新宿駅中央線ホーム上で待ち合わせ。もう何度目の一時帰国か。毎度毎度遊びに来るのも布教活動も好きにやればいいが、“その度に御飯をアテにして俺を呼ぶなよ”と思う。

行ってみるとオモロイ坊主を囲む会の江頭紀子さんら、この前の飲み会で会った他2名も一緒に居るではないか。

「ナンだ、また俺来なくてもよかったじゃないか!」と愚痴ると藤川さんは「まあエエやろが!」と毎度の用意周到さ。私が呼ばれる理由の一つは戒律を把握しているからだろう。12時までに昼食のテーブルに着かねばならないという意識が働くからだ。

「連れてくる!」と言っていたとおり、ソムサックさんも初来日。新宿の土の香りが全くしないコンクリートの塊ビルの街並みを見て何と思っただろうか。ソムサックさんは大人しい性格で、「疲れましたか、新宿は人が多くて歩き難いですか?」と聞いても

「マイペンライ(大丈夫)!、マイミーパンハー(問題無い)!」と何の不平も言わず長い距離を歩いてくれたが、新宿をどう感じたか本音を聞きたいところだった。

そして新宿東口駅前から、私が適当に指差した吉野家がありそうな方向に導こうとしたら、もっと品の良い店探そうとするオモロイ坊主を囲む会の面々。これ、初めてムエタイ選手をトレーナーとして招聘したジム関係者に似ていた。“お客様”を持て成そうとしているのだ。

「こいつらただの乞食(比丘=食を乞う者)だ、その辺の吉野家でも思い出横丁でもいいんだ!」と言うも、そんな粗末な扱いする訳にいかない表情。そして時間が迫る中、「タイ時間で考えてくれてもエエで!」と言い出す藤川さん。2時間猶予が出来るが、そんな都合のいい戒律解釈は駄目だろう。それは無視して少々歩いて見つけた定食が揃った小奇麗なお店に入った。

ソムサックさんを連れて新宿を歩いた御一行(2003.5.3)

新宿を歩く異様な二名

◆仏陀の教えは伝わるか

この藤川さんの一時帰国で、「タイでオモロイ坊主になってもうた」が発行され、市ヶ谷辺りのビル一室を借りての出版記念座談会開催。ほぼ同時期に日本上座部仏教協会設立。もうこの頃は、ここに集まった30名程の“群集”には、藤川さんの何年も続けてきた地道な活動の成果が表れていた。

ここでは藤川さんが真の仏教、仏陀が説かれた教えを悩み多き日本人へ伝えていこうとしていた。悩み多き日本人とは誰を指すか。それは私でもあり、同じようにあらゆる地位で働く、ごく普通の日本人。日々何か理不尽なことが起こったり、上手くいかない仕事であったり、苦しい生活事情であったり、そんな中でも幸せとは何か、貧乏でも明るく暮らすアジアの奥地の人々の生き方を説いても都会に住むと気が付き難い、地位を持った人々。誰にも相談できず、自殺者が絶えない日本人。悩みを打ち明けたくても普通、誰もこんな宗教集団には寄り付かないものだが、今後どのように展開するだろうか。

◆新たな野望

この出版を迎えて、“やれやれ終わった”と思ったところで出版社から第2弾を要請された藤川さん。第1弾は自身の半生紀で、荒れた人生から仏陀に惚れ込み出家に至るまでの経緯。第2弾は出家後の話、「比丘藤川清弘が何を見て、何を学んだかを書け!」と言われたもの。タイトルも「オモロイ坊主のアジア托鉢行」に決まり、タイの寺に帰ってから、再び試練のワープロと向き合う執筆に入られた。アジア各地を廻った巡礼話。また苦労しながら支援者に頼り、半年掛けて何とか原稿完成に漕ぎ着け、2004年6月末の出版第2弾での一時帰国。

大井町のホテルに泊まる藤川さん、メール通信は当たり前、ミクシィもこなす(2004.7.7)

この出版に向けて、修行のように日々ワープロに向かって過去の旅話を書いていると、また沸々と新たな野望が沸いてきたという。

「今度は北朝鮮に行こうと思うんや。“北朝鮮にも仏教寺がある”って聞いて、ちゃんと仏教活動が成されておるのか見てみたいんや!」と言う好奇心旺盛さは止まらない。

すでに北朝鮮にルートを持つ知り合いには渡航出来るか相談し、あるルートから行ける見込みだという。「お前も行かんか? 北朝鮮に行ける滅多に無いチャンスやから行って内情を見ておいた方がいいぞ!」と私にも振ってきた。私の不甲斐無い人生を想ってビジネスチャンスを振ってくれたものだったが、何か不穏なムード漂う今迄に無い旅。決心するには覚悟要る話だった。

渋谷にて、黄衣の纏いを直す藤川さん(2004.7.12)

渋谷に似合わぬ黄衣姿、周りからは異様な人物に見られる

◆北朝鮮へ挑む藤川さん

その渡航手続きが進む3ヶ月後、この為の一時帰国。

10月7日に、四ツ谷辺りの公民館らしきビルの一角の八畳ほどの和室を2部屋借り切っての、オモロイ坊主を囲む座談会には、20名あまりが参加されていた。上座には北朝鮮渡航を控えた藤川さんを囲むように支援者が座り、襖を外した後方の部屋には、藤川さんの説法を聴きに来たような一般の人が座っていた。これに加え、NHKが異色な比丘の藤川さんを取材に来ていた。

この座談会では藤川さんを取り巻く支援者達が“先生”と呼んでいたが、藤川さんがこの周囲から祭り上げられた存在のように思えた。

私が違和感を覚え、「何が先生だ、こんなジジィ・・・!」と言ったところで、藤川さんが「お前がいちばんワシの正体知っとるからなあ、ワッハッハッハ!」と高笑いされたが、ここには藤川さんを崇拝して着いて行く信者さんが少々と、“このジジィを利用してやろう”というビジネス戦略を持つ者がやって来たのである。だが、藤川さんはそんなことはしっかり弁えていて、「皆はワシを利用すればエエんや、ワシも皆に助けて貰えたらやりたいこと出来る訳やから!」という持ちつ持たれつ行くことが思惑通りの確信犯。北朝鮮に行く機会を得たのも支援者に導かれてのものだった。

北朝鮮行きの話が人伝に広まれば、そこにマスコミ関係者が集まるのも思惑どおりだっただろう。

ここに参加したのがフォトジャーナリストの久保田弘信さん。藤川さんの北朝鮮行きに同行予定で、彼はアフガニスタンやイラクなどの戦場を取材してきた度胸据わった冒険家。今回、TBS報道特集から指名されたのも当然であった。

私は藤川さんから個人的に誘われていたが主要メンバーではない。

更に10日間ほどの北朝鮮の旅に個人で参加するには35万円ほど掛かるという。高いが何とか払える金額だったが、諸々考えた末、些細な事情であるが参加しないことにした。

この時の一時帰国では、私はこの座談会に呼ばれただけで、藤川さんから一度も“飯食わせろコール”は無かった。それだけ支援者による、空国(入国)から空港(出国)まで賄いが行き届いていたのだろう。あれだけタダ飯食わせに朝から遠出させた藤川さんから連絡が無いのは喜びたいところだが、もう私は必要なくなったかと寂しさすら感じてしまう矛盾した嫉妬心。

さて、藤川さんの見たいもの、試したいことは実現するか、更には報道関係者から要請された、よど号乗っ取り犯との対面も予定される中、藤川さんは久保田氏と翌月、北朝鮮へ向け出発した。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号