◆神話のなかの天皇たち

権力闘争をなくすために、実力よりも血統に皇統の根拠がもとめられたこと。そしてそれは天の命令でなければならないがゆえに、ある壮大なフィクションが創られた。皇統が天から下ったという神話である。じっさいに、初期の天皇たちはその大半が『古事記』『日本書紀』にしか記録がない。

古事記

その神話のなかの天皇たちは、どこまでが真実なのだろうか。神話が過去の伝承をなぞり、伝承のなかの大王たちの事績を仮託したものだとしても、歴史学はどこまで史実に迫っているのだろうか。

わが国最古の公式な史書である『古事記』と『日本書紀』は、天武天皇の命で編纂され、持統天皇の末期に完成した。『古事記』は舎人の稗田阿礼という記憶力のすぐれた人物が口述し、太安万侶がそれを筆記した。『日本書紀』は川島皇子ら12人のプロジェクトチームによるもので、舎人親王が最終的に編纂した。

いずれも乙巳の変で焼失した帝記・旧辞という史料を諳んじる稗田阿礼の口述がもとになっているが、『日本書紀』においては豪族の墓記や個人の覚書、百済の文献なども参考にしている。編纂の目的は天皇による国家統一の偉業を讃えるものだ。皇祖を女性にすることで女帝(持統天皇)の正統性を描き、あるいは藤原氏をリスペクトするなどの編纂意図も随所にうかがえる。

神武天皇137歳

神代の記述はこうだ。皇祖とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天原から日向の高千穂に降り、大山祇神(オオヤマツミ)の娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と結婚して、山幸彦=火遠理命(ホオリノミコト)が生まれた。山幸彦が海神の娘である豊玉姫と結婚して生まれたのが、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズミコト)。その四男が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、すなわち神武天皇である。天照大御神から数えて五代目ということになる。神武以降の天皇たちはおそらく、伝承にいろどられた神話のなかの神々とかさなっている。

じつは『記紀』には明らかに、捏造と思われる記述もあるのだ。たとえば歴代天皇がきわめて高齢である点だ。崇神天皇の168歳をトップに、垂仁天皇153歳、神武天皇137歳、孝安天皇137歳、景行天皇137歳、応神天皇130歳と超高齢なのである。

高齢だからといって、その存在自体が捏造というわけではない。崇神天皇には王朝交代説もあり、事実上の初代天皇という説がある実在の天皇だ。応神天皇も朝鮮半島との外交業績や『宋書倭国伝』にある倭王「讃」に比定されるなど、あきらかに実在の天皇である。

実在を証明するには、考古学的な裏付けが必要となるわけだが、架空の人物ではと思われる欠史八代(二代綏靖天皇以下、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇)の各天皇にも、陵(みささぎ)が治定されている。ところがこの治定(じじょう)は、大半が江戸時代に行なわれたものなのだ。それを宮内庁が追認しているにすぎない。天皇の治世と陵の建築年代が、大きくずれていると、研究者たちから指摘されている。

現在の考古学的な知見で埋葬された天皇と陵が一致するのは、奈良王朝の天智・天武・持統陵など数か所にすぎないとされている。調査が期待されるところだが、宮内庁は学術的信頼度について「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」と、治定見直しを拒絶している(『天皇陵論──聖域か文化財か』外池昇、新人物往来社など)。

雄略天皇

天皇陵が考古学的な裏付けにならないとしたら、われわれはどう考えればよいのだろうか。文献史学および考古学的な成果によるものを挙げておこう。文書と遺物である。

たとえば雄略天皇の場合のように、行田市の船山古墳出土の刀剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」とある遺物は、記紀の「若健命(ワカタケルノミコト)」に符合する。

世界でも最大級の古墳である仁徳陵の被葬者、仁徳天皇はどうだろう。『古事記』にはオオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御し、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』にも、仁徳天皇は87年(399年)正月に崩御し、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。平安時代の『延喜式』には仁徳陵が「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟」の規模だと記述されている。敷地が群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が仁徳陵を指していることは間違いない。陵の大きさから、仁徳天皇の実在性は明らかなのである。これで仁徳帝の存在は、陵と文献から証明されたことになる。

◆ねつ造された理由

前述した欠史八代の各天皇は系譜のみの記載であって、事績が伝わっていないことから不在説がつよい。八代とも兄弟相続ではなく父子相続になっていることも、『記紀』が編纂された天武・持統時代の嫡系相続を反映したものと考えられる。あるいは、辛酉の年に天命が改まる1260年に一度の辛酉革命にちなんで、神武天皇の即位を推古9年(辛酉)から1260年前(西暦紀元前660年)にするために、八代を編年したという説もある(那珂通世「上世年紀考」)。

時代が新しくなれば、実在の可能性が高いというわけではない。王朝交代が指摘される継体天皇の前の25代・武烈天皇の場合は、残忍な逸話ばかり記述されている。恋敵を山に追い詰めて殺し、その一族を館ごと焼き殺す。妊婦の腹を裂いて胎児を見る、生爪を剥がして山芋を掘らせるなど、思いつく限りの残虐さが伝わっている。おそらく王朝交代にさいして、悪行を尽くした皇統が断絶したと解釈する歴史思想の反映であろう。したがって、創作された悪逆の天皇と考えられるのだ。

◎《連載》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか〈01〉天皇の誕生

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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