◆仏教・砂鉄・蘇我氏の時代
6世紀(500年代)は仏教が伝来し、他方では砂鉄から鉄器が精製される方法が確立した。いわば文化的な革新と技術の進歩に、社会が大きな衝撃をうけた。現代でいえば、IT革命や素材革命が起きたようなものだ。
そのような活力のある時代に、堅塩媛(推古天皇)は第30代敏達天皇の后となった。この時期、仏教を奉じる蘇我氏と、古神道の家柄である物部氏とのあいだに、政権をめぐる暗闘があったのは周知のとおり。その有力豪族である蘇我馬子の姪・堅塩媛が34歳のときに、敏達天皇が崩御してしまう。用明天皇が帝位を継承するも、これも2年後に亡くなる。
そのかん、蘇我氏と物部氏の抗争が勃発して、勝利した蘇我氏が崇峻帝を擁立した。その崇峻帝も、蘇我氏の手によって弑逆される。崇峻天皇は皇統史上ゆいいつ、暗殺された天皇ということになっているが、真相はよくわからない。背後には蘇我氏の政権運営と、それに反発する帝との確執があったとされる。
蘇我馬子の思惑はおそらく、聡明な厩戸皇子を皇太子に、すなわち聖徳太子にすることにあった。蘇我系の帝をいただき、仏教の保護と外交政策を継続する。そんな狙いが、姪の堅塩媛(推古)を即位せしめたのではないか。推古即位ののちに亡くなってしまう日嗣(ひつぎ)の皇子竹田(推古の実子)はおそらく、馬子にとっての本流ではなかっただろう。
◆なぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったか
蘇我氏のバックアップがある、安定した推古政権のもとで、摂政厩戸皇子はその能力を開花させた。十七条憲法、官位十二階など法令の整備、法隆寺の建立、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』を編纂したのがそれである。
しかしながら、待望された厩戸の即位は実現しなかった。推古30年、皇子は49歳で薨去。
ところで馬子と厩戸の影に隠れてみえる推古帝だが、伯父でもある実力者の馬子が葛城県を望んだ時に、私情をはさまない対応でこれを退けている。
それにしてもなぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったのだろうか。崇峻帝のように暗殺されるのを怖れたのか、あるいは摂政という立場で自由に政権を運営したかったのか。それとも、臣下の合議による政権運営という、律令国家の理想がすでに厩戸の政治構想のなかに胚胎していたのか。
もしかしたら推古こそが、馬子と厩戸を使いわけるように君臨した、実力派の女帝だったのかもしれない。「日本書紀」の推古記は、容姿端麗で身のこなしも乱れがなく美しかった、と伝えている。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。