やがて武力をともなう政争が、京の都を覆うようになる。
私兵をたくわえた、武士の発生である。われわれが最初の節でみてきた、奈良の都の政争も軍事力によるものだが、それらは律令制の兵役者の動員が焦点だった。国家の兵を動員しようとした手続きが漏れることで、反乱はいとも簡単に露顕してしまっている。奈良朝の貴族たちは、ほとんど私兵を持っていなかったからだ。
皇族の末裔である源氏と平氏が地方に土地をもとめ、あるいは武装した農民たちが荘園を押し取って地侍となったのが武士である。京都においては上皇の警護役として、北面の武士たちが、律令制下の検非違使庁や弾正台に取って代わっていた。
平安末期の保元・平治の乱をつうじて、まず平氏が中央政界に進出する。平氏の政権掌握は、藤原氏のそれと変わらない。娘を皇后や女御として天皇のもとに送り、外戚となることで実権をふるうものだ。平清盛の次女徳子(建礼門院)は、高倉帝の皇后となって安徳天皇を生んだ。武家の女性といえども、政治に関与できるのは子を産むことに限定されていた。
ところが武士の世となるにつれて、女性の政治への関与が大きくなってくる。男性的な戦乱が女性を表舞台に上(のぼ)せるという、一見して矛盾する現象が起きてくるのだ。あるいは女性たちを律令の位階・身分のくびきから、荒ぶる武士たちの時代が解き放ったというべきであろうか。
中世において際立つ女性政治家といえば、源頼朝とともに「鎌倉殿」と呼ばれ、夫の死後は「尼将軍」と呼ばれた北条政子であろう。彼女の荒々しくも情のある生きざまに、わたしたちは中世女性の逞しさを感じる。
政子が頼朝と恋愛関係になったのは、父の北条時政が京都大番役(警護)に出向いていた時期である。のちに政子は「暗夜をさまよい、雨をしのいであなたの所へまいりました」と、逢瀬の苦労を述懐している。父の反対にもかかわらず、頼朝を一途に想う大恋愛。最後は子(大姫)を宿し、堂々たるデキちゃった婚である。
したがって、気性の烈しい政子は嫉妬も並みではない。夫の頼朝も悪い。こともあろうに、彼女が妊娠中に頼朝は浮気をしていたのだ。相手は亀の前という女性だった。頼朝の側近・伏見広綱が彼女を屋敷に置いているのだという。
これを知った政子は、牧宗親に命じて亀の前が寄宿している伏見広綱の屋敷を打ち壊させた。これに怒った頼朝は、牧宗親の髻を(もとどり)を切るという恥辱を与える。牧宗親は北条時政の後妻の父親である。政子も黙ってはいない。
とうとう事態は、北条家と頼朝の対立にまで発展してしまった。北条時政は一族をひきいて鎌倉から伊豆にひきあげ、政子は伏見広綱を遠江に流罪にしてしまうのだ。武家の棟梁が何人も女性を囲うのは、後継者としての男子を得るための常識的な行為であるから、政子の嫉妬は並はずれていたというべきだろう。
そのいっぽうで政子は、義経を想う靜御前を哀れむなど、やさしい女性としての一面もみせている。静が生んだ男の子を、助命しようとしたのは有名な逸話だ。
頼朝亡き後の政子は、まさに尼将軍にふさわしい活躍だった。わが子で二代将軍の頼家は分別がさだまらない若武者で、きわめて独裁的な執政をおこなった。御家人の反発を抑えるために政子がしのんだ苦労はしかし、鎌倉が第一であってわが子のためにするものではなかった。
◆尼将軍
頼家の失政がつづき、さらに乳母の夫の比企能員を重用するにおよんで、北条氏と二代将軍頼家の対立は頂点にたっした。北条氏は政子の名で兵を起こし、謀叛の動きをみせた比企能員を討伐する。頼家は政子の命で出家させられ、伊豆修善寺に幽閉されたのちに暗殺された。それも政子の意志であっただろうか。
幕府を確固たるものにするために尼将軍政子の戦いは、実家の北条時政をも相手にせざるをえなかった。時政の後妻・牧の方という女性がなかなかの陰謀家で、三代将軍実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍にしようとしたのだ。政子はやむなく弟の義時とともに、父を出家させて伊豆に追放した。だが、わが子実朝は頼家の子・公暁に殺されてしまう。
一族が相撃つ悲劇に苦しむ政子は、後鳥羽上皇に使者をおくり、上皇の皇子を鎌倉将軍として迎えようとする。
ところが、上皇は皇子を下らせる交換条件として、みずからの側室の荘園の地頭の罷免をもとめてきたのだ。この上皇の要求は、征夷大将軍の専権事項をくつがえしかねないものである。ここに、幕府と朝廷は冷戦状態に入った。
承久三年、後鳥羽上皇は京都守護を攻めて挙兵した。義時追討の院宣が発せられたのである。承久の乱である。このとき政子は、御家人たちに頼朝への恩義を言い聞かせ、彼らに鎌倉への忠義をもとめた。『吾妻鏡』にある、政子の演説を掲げておこう。高校生の歴史の史料問題でおなじみの一文だ。
皆、心を一にして奉るべし。これ最期の詞(ことば)なり。
故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより、このかた、官位と云ひ俸禄と云ひ、
その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。
しかるに今 逆臣の讒(ざん)によって、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。
名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)、胤義(たねよし)らを討ち取り、
三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。
ただし、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。
※秀康は藤原秀康、胤義は三浦胤義で、三浦は亡き頼家の妻を娶っていた関係で、在京中に鎌倉に造反した。
政子の檄にしたがった東国の軍勢は、19万騎といわれている。帝の錦旗を前にしてもひるむことなく、軍勢は北陸と美濃(墨俣)で朝廷軍をやぶった。京都は関東勢に蹂躙され、後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。この乱に勝利することによって、鎌倉幕府の権威は全国に達することになったのである。
同時にそれは、天皇制が地に堕ちた時代の始まりである。所領(荘園)と座(専売権)を武士に押し取られた朝廷と公家は困窮し、受領名が勝手に名乗られるなど、天皇の権威は崩壊する。
ところで、承久の変は政子のように武家の棟梁となった人物の夫人であればこそ、果たすことができた女性政治家の壮挙なのかもしれない。それにしても、乱世のはじまりは、女性が家に籠って夫が通ってくるのを待つ受け身の状態から解放した。
女性たちは武器をとることも厭わなかったようだ。前述した二代将軍頼家が、建仁二年に修善寺に幽閉されたとき、警護したのは十五人の女騎だったと記録がのこっている(『日本の中世4』細川諒一)。
時代をくだって新田義貞が鎌倉を攻めたときに、材木座海岸で合戦になっているが、この合戦場跡地から249体の遺骨が発掘され、そのうち76体が女性のものだったと判明している(『骨が語る日本史』鈴木尚、『合戦場の女たち』横山茂彦、情況新書)。南北朝争乱の時期の記録『園太暦』(洞院公賢)にも、山名勢の残存兵は女騎ばかりだというものが残っている。中世は女性の時代だったのかもしれない。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。