◆沖縄に苛立つ菅長官

7月28日付の本欄「混迷するポスト安倍 ── 菅義偉「中継ぎ」政権への禅譲の可能性」で詳述したとおり、岸田政調会長の存在感なさすぎから急遽、次期総理候補として浮上してきた菅義偉官房長官。彼らしい冷淡かつ傲岸なもの言いが物議をかもしている。

菅義偉官房長官公式HPより

8月3日の定例会見で、こう沖縄を非難したのだ。

「沖縄県が宿泊施設の確保が十分ではない、こうしたことについて、政府から沖縄県に何回となく、そうした確保をすべきであるということを促している」

沖縄でコロナ感染者が増えていることについて、病床が確保されていないことを質問されたさいの答弁。いや、あからさまな沖縄批判である。この怒り風味の喋りのさいに「チッ」と聴こえたのは筆者だけだろうか。気に入らない質問をされたとき、この人がやってしまう、舌打ちの癖だ。

東京新聞の女性記者との例にあるように、自分が攻撃されたと感じるとき(悪意の批判と思い込む)、この人の反応はかなり感情的だ。そして攻撃的になる。

とりわけ沖縄にたいして「(辺野古新基地建設を)粛々と進める」という言葉が物議をかもしたように(安倍総理らが翁長知事=当時の面会を拒否しつづけた時期である)、なんとも冷淡な気がする。

この菅長官の苛立った発言に、玉城知事は、「沖縄も大変だが頑張ってくださいという励ましを頂きながら(宿泊施設確保の準備を)進めてきた。国とやりとりする中できつい要求などはなかった」と語り、菅長官の怒りを意外なこととしている。

沖縄県の糸数統括監も「国が示した数字に基づいて医療機関と調整しながら進めてきた」とし、菅官房長官の発言を「意外な気がした」と述べている。

この人にとって、沖縄それ自体が苛立たしい存在なのかもしれない。何かと政権に盾をつく、日米同盟の「障壁」になるとでも思っているから、無意識に苛立たしさが噴出してしまうのではないか。

◆米軍基地が感染源だった

だがその苛立ちは、お門違いと言うしかない。そもそも沖縄の感染者増大は、米軍基地のアメリカ人たちによるものなのだ。

沖縄は4月30日に1人の新規感染者が出たのを最後に、7月7日まで、ずっと感染者ゼロを保っていたのである。それを破ったのが、米軍関係者の感染なのだ。7月4日のアメリカ独立記念日には県内で大規模なパーティが開かれ、8日には軍属5人の感染が確認され、キャンプ・ハンセンや普天間飛行場、嘉手納基地などの施設で米軍関係者の感染が相次いだ。まさに、沖縄のコロナ禍は米軍基地、および観光施設が対応をせまられる「GoToトラベルキャンペーン」なのである。そしてその推進者こそ、ほかならぬ菅義偉官房長官なのだ。

◆苦労人ならではの「寛容さ」がない人

菅義偉官房長官は、いわば叩き上げの政治家である。父親(農家から満鉄職員──のちに帰農)も苦労の末に町会議員になっているとはいえ、自民党議員にありがちな地盤を継いだ政治家二世ではない。高校卒業後に集団就職で上京し、板橋区の段ボール工場で働いた。上京から二年後、学費の安かった法政大学の夜間部(法学部政治学科)に入学し、卒業後は電設会社に入社している。

その後、母校の就職課の伝手で自民党議員の秘書となり、横浜市議会議員に転出(1987年)。そこから政治家の道を歩みはじめる。昭和で言えば50~60年代のこと、バブル経済が世を騒然とさせていた時代である。細川連立政権で野に下るなど、自民党政治も決して安逸な時代ではなかった。

やがて所属していた宏池会が分裂し、反主流派の堀内派に参画。ポスト小泉(2006年)で掴んだのが、安倍晋三擁立(第一次政権)の原動力というポジションだった(当選4回で総務大臣就任)。麻生政権のもとで番頭役をつとめて、第二次安倍政権を演出し(甘利明・麻生太郎に呼びかけ)、その官房長官に就任する。上述したように、沖縄をはじめとする政権に批判的な部分に対する冷淡さ、あるいは攻撃性が顕著になっていく。苦労人に特有の「寛容さ」あるいは「気遣い」「親和性」がないのは、どうしてなのだろうか。

かつて東京都知事選において、自民党に真っ向から歯をむいた小池百合子知事にたいしては「コロナは東京問題」と言い放つなど、相手のパフォーマンス(小池百合子の連日のテレビ出演による都民への呼びかけ)を凹ませる。じっさいは全国問題であり、政府の主導力が問題になっているにもかかわらず。このように万事が攻撃的、かつ冷淡な対応なのである。

◆果断さが失政につながる可能性

「寛容さ」がない、あるいは「冷淡さ」は「果断さ」と言いなすことも可能だ。この苦労人ならではの「果断さ」は、党内政治のなかでつちかわれたのかもしれない。

安倍政権での2007年、自民党選挙対策総局長に就任した当時、菅は就任早々「私の仕事は首を切ること」と発言し、候補者の大幅な調整を示唆したという。のちの官邸一元支配は、ここに萌芽をみとめることができる。麻生政権では、中川秀直や塩崎恭久ら党内の反麻生派を、硬軟取り混ぜた様々な手段で抑えたといわれている。
第二次安倍政権になると、2013年には郵政民営化の考えにそぐわないとして、日本郵政社長坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任している。同年に発生したアルジェリア人質事件では、防衛省の反対を押し切り、前例のない日本国政府専用機の派遣を行った。2014年5月には、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信を任命したとされる。自らが出演したNHK「クローズアップ現代」の放送内容について、放送後のNHKに官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられた(事実や関与を否定)。

感情をオモテに出さないポーカーフェイス、それ自体が冷淡さを醸し出してしまう裏側には、苦労人ならではの果断さがあるのだといえよう。じつは感情を圧し殺すためにこそ、あの「粛々とした」冷淡さがあるのだと読み解くことができる。しかしその隠された感情が噴出するとき、思わぬ行動に出ることが危惧される。たとえばの話だが、支持層を失いつつある米トランプ政権が選挙パフォーマンスのために対中国強硬策に出るとき、あるいは北朝鮮にたいする何らかの軍事行動に出るとき。危機に弱い安倍総理に代わって、とんでもない強硬策に便乗する「果断さ」を、この政治家は持っていると指摘しておこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

山口県萩市にあるアルミ素材メーカーの工場で働いていた鹿嶋学は2004年10月5日、自暴自棄になり、会社を辞めて東京に向かう途中、広島県廿日市市の路上で見かけた高校2年生・北口聡美さんをレイプしようと考えた。そして聡美さん宅に侵入したが、聡美さんが逃げようとしたために持参したナイフで刺殺。さらに聡美さんの祖母ミチヨさんの背中などを刺して重傷を負わせ、聡美さんの妹で小学6年生のA子さんを追いかけ回し、一生消えないようなトラウマを与えた。

3月4日、広島地裁で開かれた裁判員裁判の第2回公判。鹿嶋はこのような犯行の経緯を打ち明けたのち、犯行後の行動も詳細に語った──。

◆ホームセンターで両手や顔についた血を洗い、服も着替えた

「小さい女の子(A子さんのこと)を追いかけ、追いつけずに追うのをやめた後は原付で再び東京方面に向かいました」

弁護人から犯行後の行動を質問されると、鹿嶋はそう答えた。そして原付を東へ走らせる途中、まずホームセンターに立ち寄ったという。

「ホームセンターに立ち寄ったのは、両手と顔についていた血を洗うためでした。服にも血がついていたので、この時に服も着替えました。血がついていた服はその後、橋の上から川に捨てました」

こうして証拠隠滅を済ませると、鹿嶋は引き続き、野宿を繰り返しながら原付で東京へと向かった。弁護人からその時の気持ちを聞かれ、こう答えている。

「3日間くらいはすごく後悔し、嫌な気持ちになっていました。何も食べずにずっと原付を東へ走らせました」

被告人質問では触れられなかったが、10月だから、野宿は寒かったはずである。それでも鹿嶋は2週間くらいかけ、東京にたどり着いている。東京到着までにそれほどの時間を要したのは、単純に「急ぐ理由がなかったから」だったという。

そして東京到着後、鹿嶋は重大なことに気づく。それは、「東京で何もすることがない」ということだ。

弁護人から「あなたは何のために東京に行ったのですか」と質問され、鹿嶋は「最初は…」と言い、しばらく沈黙した後、こう答えた。

「なんとなく、漠然と東京に行くことだけを考えていたのだと思います」

鹿嶋が東京に行こうと思ったのは、下関市で暮らしていた子供の頃、温泉に入るために自転車で東京から下関に訪ねてきた人物がいたのを思い出したためだった。元々、東京に何か目的があったわけではない。とはいえ、東京到着までに2週間もあったにも関わらず、この間に東京到着後のことを何も考えていないというのは、やはり思考回路に人と違うところがあるのだろう。

未解決事件としてテレビでも取り上げられていた(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロファイル」より)

◆東京で所持金が無くなって「飢え死に」が怖くなり……

「東京では、お金が無くなるまで適当に原付を走らせるなどして過ごしていました」

弁護人から東京到着後の行動を質問されると、鹿嶋はそう答えた。そして所持金が無くなると、不安な思いにとらわれたという。

「お金が無くなり、何も食べられず、5日間くらい過ごして、飢え死にするのではないかと怖くなりました」

そして鹿嶋が選択したのは、実家がある山口県の宇部市に帰ることだった。そのために鹿嶋は、上京前に「餞別」として5万円をあげていた友人に電話し、銀行口座に金を振り込んでもらった。その金によりバスで宇部に帰ったという。ちなみに上京する前、地元にはもう戻らないつもりで携帯電話は川に捨てていたので、友人に電話をかける際はパン屋で電話を借りたという。

当時の新聞では、広島県警は事件発生当初、現場周辺を中心に犯人の足取りを追っていたと報じられている。その間に犯人が野宿を重ねながら原付で上京し、山口の実家にバスで戻っていたなどとは、県警の捜査員たちは当時、想像すらできなかったはずだ。犯人の鹿嶋の行動があまりにも特異で、合理性を欠いていたことは、この事件が13年半も未解決だった要因の1つだろう。

事件が未解決の頃の報道には、今思うと的外れなものも……(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロファイル」より)

◆事件後に就職した会社の社長との思い出を話し、感極まる

宇部に帰った後、鹿嶋は実家で生活し、2004年12月に土木関係の会社に就職した。そして逮捕される2018年4月まで13年余り、この会社に勤め続けている。弁護人から、「なぜ、長く働き続けられたのですか?」と質問され、鹿嶋はこう答えている。

「今の社長は自分と4歳くらいしか離れていない人ですが、自分が車の免許をまだ持っていない頃には、毎日のように帰りにビールを1杯おごってくれました。自分は、ロクに話もせんのに……」

ここまで話すと、鹿嶋は感極まって沈黙したが、嗚咽しながらこう続けた。

「今の社長の親父さんも、自分が免許を取ったら車をタダでくれたりして…その頃、自分はまだ入社して1年くらいしか経っていなかったのに…そういう人たちに出会えたからだと思います」

毎日、仕事の後にビールを1杯おごってくれるくらいの社長はいくらでもいそうだし、車をタダでもらったという話も「処分することが決まっていた古い車」を与えられただけである可能性を感じた。しかし、前回までに触れてきた通り、鹿嶋は少年時代から血のつながらない父親との関係が複雑だったうえ、高校卒業後に就職し、事件直前まで勤めていた会社も「ブラック企業」と呼ばれて仕方のないような会社だった。それゆえに、社長たちの優しさが深く身に染みたのだろう。

こうして鹿嶋は地元宇部で普通の市民として生活し、警察の捜査が及んでくる気配はまったく無いまま、事件から13年半の月日が流れた。この間、「廿日市女子高生殺害事件」は日本全国でも有名な未解決事件の1つとなり、しばしばメディアで取り上げられたが、鹿嶋は事件のことを思い出さないようにしていたという。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆デビュー戦は負ければいい!

石井宏樹(いしい・ひろき/1979年1月16日生)は名門・目黒ジムから生まれた念願のムエタイ殿堂チャンピオン。4度目の挑戦でキックボクシングの聖地から打倒ムエタイを果たした。その因果応報は周りから愛された結果、現在も注目される存在感が続いている。

デビュー戦を控えて藤本コーチの指導を受ける(1996.1.8)

デビュー戦は藤田純にKO勝利(1996.1.28)

15歳の春、高校入学すると同時に目黒ジム入門。デビューが近い1995年暮、当時トレーナーの藤本勲氏が言った。「こいつは天才、ムエタイのチャンピオンになるよ!」

17歳直前、機敏に動く石井宏樹。蹴りが速い。デビュー前から小野寺力のような動き。藤本トレーナーが言う意味が分かる気がした。入門前は何をやっていたのか尋ねてみると、「中学時代は、野球と卓球をやっていました!」と語る。速い球を追うことで反射神経を養ったのだろう。

目黒ジムに入った切っ掛けは、「家が近くて、昔、親父がボクシングやってた影響で、子供の頃に手を引っ張られてガラス張りの目黒ジムまで観に行かされていました。その後、中学に入る頃から太りだしたので高校に入ったタイミングでダイエットがてら入門しました!」

家が近い、お父さんがボクシング経験あり、ガラス張りの目黒ジム、これはもう運命の導きしかない。

そんな頃、「デビュー戦は負ければいい!」という当時の目黒ジム、野口和子代表の声も聞かれた。「この子は今のうちに負けの辛さを味わった方がいい。でも必ず這い上がってくるよ!」と読めたからだった。

1996年1月28日、そのデビュー戦は3ラウンドKO勝利。しかしその後判定で2連敗。周囲からは予想できた試練だが、当の本人にとってはかなり辛いものだったようだ。

日本ライト級チャンピオンベルトを巻いて披露(2000.1.23)

鷹山真吾(尚武会)を倒して日本ライト級王座獲得(2000.1.23)

石井宏樹は後々、「デビュー戦をKO勝利し、このまま連勝街道だと調子に乗っていた矢先に連敗しました。 技術的な反省よりも、完全にプロの世界や人生を舐めていましたね。 鼻っ柱を折られた結果となってプロの世界は辞めようと思いました。

そんな中、当時憧れだった小野寺力先輩に、“辞めるのは簡単だ、もう一度死ぬ気でやってみたら”と声をかけて頂き、その言葉が有難く、絶対諦めないで続けようと決心しました!」と語っていた。

次なる試練はKO率の低さ。

「連敗後は判定勝利が続き、何でも出来るけど一発が無い、“器用貧乏だ”と言われていた時期はとても悩みました。自分には“これ!”といった必殺技は持ってないので、攻防を進める中で今相手が何をやられたら嫌なのか考えながら、そこを突いて行くスタイルで倒して行きました!」

研究を重ねる努力。それは長い年月を要するものだった。

◆ムエタイの壁

判定勝利が続く中、2000年1月23日に日本ライト級王座挑戦。チャンピオンだった鷹山真吾(尚武会)を豪快に倒し、ようやく二つ目のKO勝ち。初のチャンピオンベルトを巻いた。

順調に防衛を重ね、2005年8月22日に国立代々木第2体育館に於いて、念願のタイ国ラジャダムナン系ライト級王座に挑戦。チャンピオンのジャルンチャイ・チョー・ラチャダーゴンには僅差の判定負けで王座奪取は成らず。しかしこの僅差が厄介な壁となるムエタイの難しさ。

2007年7月までに日本ライト級王座は8度防衛まで伸ばした後、スーパーライト級での頂点目指し返上。

2008年3月9日、ラジャダムナン王座再挑戦。階級上げた慣れぬ体格差があったか、チャンピオンのシンマニー・ソー・シーソンポンに判定負け。

更にタイ選手に4連勝(3KO)した後、2010年3月22日には現地、ラジャダムナンスタジアムで3度目の挑戦となるスーパーライト級王座決定戦に出場。ヨードクンポン・F・Aグループに僅差の判定負け。キックルールなら優勢な印象も、ムエタイの壁が立ちはだかる厳しさだった。

「ここで獲らなければ次はもう無いという覚悟と、現地で獲れば本物だという気持ちが強かったので、是が非でも勝ちたかった。ギャンブラーが自分に賭けてくれて、一生懸命応援してくれるのを感じ、武者震いしたのを覚えています!」

石井宏樹は、新日本キックボクシング協会が1999年から2003年迄、年一回行なっていたイベント「Fight to MuaiThai」で4度ラジャダムナンスタジアム出場しており、現地では全くの無名ではなかった。ここでは賭けが成立する存在感が大事。ギャンブラー達は石井宏樹のテクニックを覚えていたのだった。

ラジャダムナンスタジアム初登場は判定負け(2000.12.3)

◆思わぬ試練

善戦したラジャダムナンスタジアムでの挑戦で、2010年7月25日は再挑戦への道が与えられた査定試合で、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームに第2ラウンド、ヒジ打ちで倒され初のノックアウト負け。この結末は誰も予想しない力無く倒れる石井らしくない展開だった。これで石井は終わったと思われたムエタイ殿堂王座への道。

「相手のヒザ蹴りをモロに受け、その瞬間に小腸が破裂していたようです。 お腹は痛い感覚は無かったのですが、試合を続けている中、急激にスタミナも無くなり、ガードを上げる力も薄れて最後はヒジ打ちを貰い倒れてしまいました。 控室に帰っても何故負けたのかも分からず、その後、後楽園ホールを出て、応援して頂いた仲間に挨拶しに向かおうと思った時に、お腹に激痛が走り動けなくなり、そのまま病院に向かい緊急手術となりました。 “もう少し運ばれて来るのが遅かったら死んでいましたよ”と医者に言われました。 まさに九死に一生でした!」

藤本勲会長からは「また挑戦しよう。ラジャダムナンのベルトは俺らの夢だから!」と諦めないでずっとサポートしてくれたことが、気持ちがブレずに突き進めたという。

応援し続けてチャンスをくれた藤本勲会長とのツーショット(2011.10.2)

◆念願のムエタイ王座奪取!

その後3連勝(2KO)し、チャンスは4度びやって来た。2011年10月2日、後楽園ホールでのラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級王座決定戦で、アピサック・K・Tジムと対戦。判定だがノックアウトするより難しいと言われるテクニックで、現地審判団を唸らせ、越えられなかった壁を打ち破る勝利で王座獲得。

「今のままの練習ではタイのチャンピオンには勝てないと思い、初めてラジャダムナン王座に挑戦した時の対戦相手、ジャルンチャイを練習パートナーとして日本に呼んで貰い、二人三脚で4度目の挑戦に挑みました。彼なら僕の癖も知り、日本人がムエタイを破る方法も知っているのではないかという狙いでした。彼の指導で毎日朝晩と練習を積み重ねて行くうちに彼と一緒にいれば必ず勝てると言う確信が持てました!」

この勝利は評価が高かったが、まだ“防衛してこそ真のチャンピオン!”と言われる目黒ジムの掟があった。2012年3月11日、ゲーンファーン・ポー・プアンチョンの挑戦を受け、またも蹴りの技術と戦略で優って判定勝利で初防衛。外国人チャンピオンでは初の快挙だった。

2012年9月15日、プラーイノーイ・ポー・パオイン戦は、パンチで圧倒ノックアウトし2度目の防衛。残された課題は現地スタジアムでの防衛であった。

防衛後のリング上で「次はタイでやります!」とマイクで宣言した石井宏樹だが、プロモーターである伊原信一代表は「いずれ必ず現地で防衛戦やらせるから!」と言う約束の下、あと一回、日本での防衛戦を用意された2013年3月10日、残念ながらエークピカート・モー・クルンテープトンブリーにヒジ打ちを貰ってノックアウト負けで王座を失ってしまった。

4度目の挑戦で技術でアピサックに圧倒、念願のムエタイ王座獲得(2011.10.2)

◆受け継がれる完全燃焼

引退か再起か。石井宏樹はここで「現役はあと3戦!」と標準を定めた。

その最終試合となったのは、2014年2月11日、先輩の小野寺力氏が主催する大田区総合体育館での「NO KICK NO LIFE」興行。WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で、知名度抜群のチャンピオン、ゲーオ・フェテックスとの対戦となった。5ヶ月前には梅野源治も倒されている過去いちばんの強豪。

「小野寺さんに“ゲーオとやるか?”と言って頂いた時は“やります!”と即答しました。 そして目黒スタイルである、引退試合は最強の相手を迎える伝統を受け継ぎ、現役最後の集大成で悔いの残らない試合をする事だけを考え、守りに入らず自分から攻めに行った結果、第2ラウンド、カウンターの左ハイキックで散りました。 もう何もやり残したことはなく、現役生活何一つ悔いが残らず引退することが出来ました!」

最終試合はゲーオに倒される完全燃焼(2014.2.11)

目黒ジムの先輩、飛鳥信也氏から始まった最強相手に完全燃焼の引退試合は確実に継承されていた。

2014年12月14日には引退テンカウントゴングに送られリングを去り、RIKIXの百合ヶ丘支部と大岡山本部ジムで交互にトレーナーを務める日々となった。

引退セレモニーで感謝を述べる(2014.12.14)

多くの縁が繋がって来た結果、2015年2月11日から「NO KICK NO LIFE」興行でのテレビ解説者として起用され、再びファンの注目を浴びる立場で実力発揮(後にKNOCK OUT興行に移行)。

「まさか自分が引退後、解説者になるとは思ってなかったです!」という石井宏樹。

「現役の頃は他人の試合はほとんど見なくて、解説者というお仕事を頂いてから選手の試合をたくさん見て勉強するようになりました。 今でも喋るのは苦手ですが、元々人間観察は好きなので、解説は嫌いな仕事ではないですね!」

石井宏樹は元々頭の回転が速く、スラスラとトークが進む奴。選手の心理を読む分析力も抜群。キックボクシングを続けて来た因果は、今後もテレビ解説以外でも多くのメディアに登場するであろう名チャンピオン、石井宏樹である。

私生活では2008年に支援者の紹介で知り合った彼女と2016年に結婚し息子さんが誕生。やがて物心ついた頃、息子さんの手を引いてジムに通うのだろう。

解説者としてのデビュー戦は堂々たる語り口(2015.2.11)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

『紙の爆弾』9月号が8月7日発売になりました。力の入った記事ばかりですが、私のイチ押しは、岡本萬尋「出て来りゃ地獄へ逆落とし 古関裕而の軍歌を聴く」(連載「ニュースノワール」第64回 特別編)と、昼間たかし「政治屋に売り飛ばされた『表現の自由』の末路」です。

 

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

岡本の連載は、気づくともう64回、近く書籍化の予定です。岡本は元朝日新聞の記者です(また、朝日か。苦笑)。古関裕而は、ご存知の通りNHK朝ドラの『エール』のモデルとなっていますが、これもみなさんご存知『六甲おろし』や『栄冠は君に輝く』などを作曲しています。しかし軍旗はためく時代には数多くの軍歌を作曲し戦意高揚に多大の貢献をしています。準A級戦犯といっていいんじゃないでしょうか。

ここで、私が思い出したことが2つあります。1つは、かつて国民的女優・沢村貞子の生涯を描いた『おていちゃん』(1978年)もNHK朝ドラの1つでしたが、沢村貞子は、古関裕而が軍歌作曲にいそしんでいた頃、演劇運動に没頭し、治安維持法で逮捕・勾留されています。戦中のことですから、私の逮捕・勾留とは全く違って厳しいものだったと想像できます。この公判の場面が『おていちゃん』に出てきました。「私はこれからも文化運動に頑張ります」というようなことを陳述しています。「えーっ、NHKも粋なことをやるもんだ」と感じ入った次第です。『おていちゃん』から40数年経って今後の『エール』の展開がみものです。

もう1つは、『私は貝になりたい』(1958年)という民放テレビドラマです。私と同世代(より以前の世代)の方にはよく知られたドラマです。主人公は、嫌々ながら徴兵された田舎の散髪屋でC級戦犯、上官の命令で捕虜を殺傷しようとして軽傷を負わせたということで、戦後逮捕され死刑判決を受けます。実話から採ったドラマで、非常に衝撃を受けたことを今でも覚えています。2008年に中居正広、仲間由紀江らでリメイクされたので覚えておられる方もおられると思います。この主人公に比べれば、古関裕而の罪は遙かに大きいと言わざるをえません。

昼間の渾身の記事のうち、私が畏れ入ったのは後半の「無礼と陰気に満ちた反ヘイト活動家の実態」の箇所です。昼間たかしとは旧知ですが、正直彼がこういう文章を書くとは思ってもいませんでした(失礼!)。

昼間を有名にしたのは『コミックばかり読まないで』(2005年、イーストプレス)でしょう。これは「長年、マンガやアニメを中心に表現の自由にまつわるルポルタージュを何本も書いてきた」体験をベースにしたものということですが、今では「一時はライフワークとも考えた『表現の自由』というテーマは、何も魅力がないものとしか見えなくなってしまった」といいます。『コミックばかり~』から5年の間に昼間の周辺に何が起きたのでしょうか? ぜひご一読ください。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号より

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

◎目次概要https://www.kaminobakudan.com/

福島第一原発事故で全町避難を強いられた福島県双葉郡浪江町で7月31日、仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」が幕を閉じた。まだ避難指示部分解除前の2016年10月にオープン。避難指示部分解除後の2017年4月には、安倍晋三首相が訪れて「なみえ焼きそば」を食べてみせた。翌8月1日には「道の駅なみえ」が華々しく開業したが、仮設商店街から道の駅に出店する店舗はゼロ。切り捨てられた格好の店舗からは「道の駅に優先的に入れてやるという話だったのに……」と怒りの声があがっている。

8月1日、華々しくオープンした「道の駅なみえ」。しかし、仮設商店街から移った店はゼロだった

◆町長「大いに貢献された」

7月31日夕、浪江町役場横の「まち・なみ・まるしぇ」で、感謝状の贈呈式が行われた。吉田数博町長が10店舗の代表者一人一人に手渡した。

「皆さんが先駆者として仮設商店街に出店いただき、町民の帰還意欲につなげていただいた。大変な御苦労が多かったと思うが、おかげさまで今は160を超える飲食店や工場が町内で再開している。皆様方のご尽力の賜物だ」と吉田町長。休憩ずる場所も無く、食事も買い物も満足に出来なかった浪江町内で、一時帰宅した町民のために営業を続けてきた仮設商店街。関係者のみの小さなセレモニーを経て、ひっそりと幕を閉じた。感謝状には次のように綴られていた。

「あなたは東日本大震災および福島第一原子力発電所の事故により甚大な被害を受けた町の商業機能回復にご協力を賜り、町民の生活環境の向上に大いに貢献されました。よって、その御厚意に対し、心より感謝の意を表します」

2016年10月に盛大にオープンした時とは異なり、取材に訪れた記者は筆者の他に地元紙の2人だけ。テレビカメラは1台も無かった。仮設商店街の目の前にはイオンも出来た。

贈呈式後、取材に応じた吉田町長は「一応、今日を節目にしたい。そうでないとけじめがつかない。道の駅に入りますか、という話もしたが、町内に店を構える人もいるし、高齢だからもう良いよという人もいた。場所代を納める体力が無いという話もあった。運営会社を維持するために売り上げの20から25%を納めていただく必要がある。こういう田舎では高いなという気もするが、全国の道の駅の状況を考慮して率を決めたようだ。仮設商店街から一つのお店も道の駅に入らないのは寂しいですけどね」と話した。

そう、仮設商店街から道の駅に引っ越して営業を続ける店舗はゼロなのだ。「感謝」の言葉が飛び交う一方で、道の駅に受け皿は用意されていなかったのだ。

吉田町長から各店舗に贈られた感謝状。3年半の〝功績〟を称えているが、切り捨てられた格好の店側からは怒りの声もあがっている

◆店舗「切り捨てられた」

浪江町商工会の関係者が怒りをこめて話す。

「道の駅に移って営業を続ける店はゼロ。誰も行きません。『いいたて村の道の駅までい館』と全く同じですね。まあ、同じコンサルタント会社が担当したようですから、そうなるのでしょう。しかし誰がこうしてしまったのだろう。町長なのか議会なのかコンサルタント会社なのか……。様々な利権が絡み合っているのでしょうね。こうなる事で得をしている連中がいるのでしょう。前の町長と今の町長をうまく操った奴がいるんですよ。始める時は『道の駅に優先的に移れる』というふれこみだったが、途中から変わってしまった。だから皆、怒っているんです。感謝状なんか要らねえよって」

ある店舗の関係者は「道の駅を地元の人みんなで作り上げていくという感じじゃ無いですね。なぜ道の駅に出店しなかったのか? 手数料? 場所代? 運営会社に納めるお金が高くて払えないからですよ。いずれは道の駅に入れるという事で、赤字覚悟で営業を始めたのにね…。結局は切り捨てられたんですよ。そういう社会なのだから仕方ないですね」と肩を落とした。「切り捨てられた」という言葉が重い。

別の店舗は「お役御免」という表現を使った。

「そっくりそのまま道の駅に移る事になるのだろうって、私たちもそう思っていたんです。だから赤字でも皆で3年半、一生懸命頑張ってきた。でも、道の駅の説明会に行ってみたら全く話が変わっていた。7月いっぱいで出て行ってください、もう役目は終わったから、と。新しい場所が見つかるまではお貸ししますけどなるべく早く出て行ってください、という事になっていたんです」

「役場も完全に道の駅にシフトしちゃったんですね。結局、道の駅が出来るまでの体の良い〝つなぎ〟だったんだね。だから私たちは〝お役御免〟なんです。本当は今日で出て行かなければいけないんだけど準備が間に合わなかった、ここでしばらく営業を続けます。明日からは家賃と光熱費が発生します。家賃は3万円だったかな。確かに安いけど3万円売り上げるって大変なんですよ。人件費もありますしね」

◆町議「いつまでも甘えるな」

「皆さん、町内の生活環境が全く不十分な時期に創業いただきました。まだイオンも何も無い時期でした」

浪江町産業振興課の担当者は10店舗に感謝しつつ、当初からの予定通りだと繰り返した。

「元々、仮設の商業施設という事で、期限を区切っているという事は承知の上で入居していただいているはずです。未来永劫あそこで営業出来るという事ではありません。『なるべく早く出て行ってください』と、そこまで強烈な言い方をしているかどうかは分かりませんが、7月末をもって機能を終了するという事は以前から伝えています。道の駅と併存する事はありません」

「様々な事情があってしばらく残る場合には、いつまでも家賃無償というわけにもいきません。町内で事業を再開している方々が増えてきている中で、公平性を確保しなければいけないという観点もあります。一つのターニングポイントとして、8月1日以降は一定程度の負担をしていただきます。具体的に終了の時期が迫ると様々なご意見が出るのでしょう。いずれにしても、初めから期限を区切ってのスタートだったのです」

ある町議はさらに厳しい言葉でこう語った。

「今までタダでしょ。いつまでも甘えるなって事ですよ。当たり前じゃないですか。町内で事業を再開した人たちは全員、お金を払ってやってるわけですから。今まで家賃がタダだっただけでも……。これ以上、まだ甘えるの?いつまでも甘えるなって。仮設商店街に町は年間5000万円かけてたんだよ。ここで全員、店を閉めて退去するべきだと思いますよ」

別の町議は「悔し紛れにいろいろと言ってるんでしょ」と相手にしていない。原発避難者の住宅問題と似た構図がここにもあった。

仮設商店街の一角でカフェ「コスモス」を営んできた高野洋子さんは、馬場有前町長(故人)とは保育所からの同級生だという。

「『仮設商店街を始める事になったんだけど、やってくれる人が全然いない。誰かいないかな』って有(たもつ)に相談されてね。それで手を挙げたのよ」

役場近くには立派なホテルが出来た。道の駅の営業も始まった。一方で家屋解体が進み、さら地は増える一方。町立5校も年内には取り壊される。そして仮設商店街も。これが馬場前町長の描いた「町残し」のあるべき姿なのだろうか。

「まち・なみ・まるしぇ」のリーフレット。故・馬場町長は「町にとっての復興のシンボル」と綴っていた

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

誰もがいくばくの不安や、気持ち悪さを共有しているであろう、珍しい光景。それもこの国だけではなく、ほぼ世界すべての国を覆いつくしているCOVID-19(新型コロナウイルス)。

「緊急事態宣言」と、大仰な「戒厳令」もどきが発せられたとき、報道機関は一色に染まり、この疫病への恐怖と備えを煽り立てたのではなかったか。あれは、たった数か月前の光景だった。為政者の愚は使い物にならないマスクの配布に象徴的であった。安倍が「無能」あるいは「有害」であることを、ようやくひとびとが理解したことだけが、この惨禍の副産物か。

いま、ふたたび(いや、あの頃をはるかに凌ぐ)感染者が日々激増している。「接触する人の数を8割減らしてください」と連呼していた声は、どこからも聞こえない。それどころか、国は感染対策をきょう時点で、まったくといってよいほどおこなっていない。毎日感染者は激増するだろう。そして都市部から順に医療は崩壊する。COVID-19(新型コロナウイルス)による死者は春先に比べて、少ないようではあるが、医療機関内の混乱とひっ迫に変わりはない。

たった数か月前の「緊急事態」すら発した人間も、発せられた人間も、あの時のことを忘れてしまったのか。そこまで人間の頭脳は、「記憶」機能を失なったのか。

数か月前を想起できないのであれば、75年前を肉感的な事実として、想像したり、それについて思索を巡らすことなど、望むべくもないのだろうか。

残念ながらわたしの体は、それを許さない。

あの日、広島市内で直撃を受けながら生き永らえ、50歳過ぎに癌で急逝した叔父から聞いた、あまたの逸話。その叔父だけではなく同様にあらかじめ寿命が決まっていたかのように、50過ぎに次々と急逝していった叔父たち。そして高齢とはいえ、100万人に1人の確率でしか発症しない、といわれている珍しい癌に昨年罹患した母。担当医に「被爆との関係が考えられますか?」と聞いたが、「それはわかりません」とのお答えだった。それはそうだろう。お医者さんが簡単に因果関係を断言できるわけではない。

不可思議なのだ。長寿の家系……

ついにその足音はわたし自身に向かっても聞こえてきた。

長寿の家系であったはずの、母方でどうして「癌」が多発するのか。科学的因果関係などこの際関係ないのだ。わたしの記憶には生まれるはるか昔、経験はしていないものの、広島の空に沸き上がった巨大なキノコ雲と、その下で燃え上がった町や、焼かれたたんぱく質の匂いが現実に経験したかのようにように刻み込まれている。

人間はどんどん愚かになってはいないだろうか。記憶や想像力を失ってはいないか。

8月の空は悲しい。

▼田所敏夫(たどころ としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

◆横浜「馬車道駅」周辺──再開発とホームレス

「駅構内で新聞紙や段ボール、私物等を置いて居座ることは、駅をご利用されるお客さまへのご迷惑となるのでおやめください」。このような張り紙が、横浜市みなとみらい線「馬車道駅」構内に野宿する人たちの周辺に貼られたという。

駅周辺には昨今、地下2階、地上32階の超高層の横浜市役所新庁舎が移転したり、タワーマンションが開業したりし、急速に再開発が進んでいるとのこと。そうしたなか「駅にいるホームレスをすぐに追い出してほしい」「ホームレスがいるだけで不安」などの苦情が、6月頃から相次いでよせられていたという。

横浜といえば、82年~83年にかけて地下街、公園などで連続しておきた野宿者襲撃殺人事件が思い起こされる。当時は野宿者、ホームレスではなく「浮浪者」とよばれていた。逮捕された少年たちは、警察の取り調べに「浮浪者のせいで横浜が汚くなる」「横浜をきれいにするためごみを掃除した」などと供述したという。

彼らが、野宿者を「働かない怠け者」から「汚い」「社会のごみ」、更に「虐めていい人」と考え、襲撃のターゲットにしたのは、決して彼ら独自の判断ではないはずだ。彼らを取り巻く大人社会に溢れる「野宿者は社会のゴミ」とみる強烈な差別と偏見を、少年たちが敏感に感じ取り、襲撃行為に及んだのであろう。

◆大阪・釜ヶ崎でも進む弱者排除の動き

「野宿者は社会のゴミ」「町を綺麗にしたい」。こうした誤った見方をする傾向は、大阪維新の「西成特区構想」が進む釜ヶ崎でも確実に進行している。橋下徹元市長の「西成をえこひいきする」発言から始まった西成特区構想は、一方で「(再開発のために、釜ヶ崎の)労働者には遠慮してもらう」との発言でわかるように、この町に長く住む日雇い働者らを排除することを目的としている。そのため真っ先に狙われたのが、長年労働者の唯一の寄り所になっていた「あいりん総合センター」(以下センター)の解体だ。「耐震性に問題がある」として昨年3月末に閉鎖予定だったが、多くの労働者、支援者らの反対で閉鎖されず、その後労働者、支援者らで始めた自主管理は、4月24日、大阪府警と府・市の職員らが暴力的に排除するまで続けられた。

センター東側にも野宿する多数の人が……

西成特区構想は、労働者の寄り場を解体し、労働者・野宿者を暴力的に排除し、そこに出来た広大な跡地を使って新たな「まちづくり」をしようというものだ。

しかし、それは誰のためのまちづくりなのか? 昨今全国で流行する「まちづくり」は誰が主導するかが問題になると、釜ヶ崎に長く関わる島和博氏(大阪市立大人権問題研究センター)は語る。「『まちづくり運動』というとき、市民の『まちづくり運動』なんてありえません。誰が主導権を持って『まちづくり』を行うのかを考えないと、センター撤去で『みんなにとっていいまちづくりをやろうね』とやると、『西成特区構想』みたいなロジックに巻き込まれてしまう」(2019年1月5日シンポジウム「日本一人情のある街、釜ヶ崎が消える?!」)

パレード後、警官(後ろで手を組む作業着姿の男性)指揮のもと、配給物資を待つ労働者

前述したように、釜ヶ崎で進む「まちづくり」は、この町の主人公・日雇い労働者らを排除して進んでいることは明らかだ。時には強制排除など権力による暴力で、時には「町をキレイにしよう」という庶民の「善意」の掛け声で。

後者の一例が、西成特区構想ー「まちづくり」運動と軌を一にして、2014年から始まった「あいりんクリーンロードキャンペーン」である。同年「まちづくり会議」に参画を表明した大阪府警・西成警察署が、監視カメラ増設、官民連携による不法投棄の摘発、露店の摘発、覚せい剤事犯の摘発強化などを含む「5ケ円計画」の一環で始めたものだ。

警察主導のパレードは、町内会や「まちづくり会議」に参加する市民団体、NPOなどが一緒になり、「街をきれいにしよう」と地区内のごみを拾いながら歩き回る。最後に戻った三角公園では、パレードに参加した労働者にペットボトルのお茶の、下着やタオルなど日常用品が配られる。そのため多くの労働者、生活保護する受給者らも多く参加する。私は何度かその場面を直接見ているが、3人づつ並んで労働者を、若い警官が棒で区切って「よし、次の9人(3人3列)!」と号令をかける。間違って飛び出す労働者に「9人いうたやろ!」と怒鳴りつける。生活保護費も年々削られ、下着などなかなか買えなくなった労働者は、怒鳴られながらもじっと耐えるのだ。
 

釜ケ崎の中に出来たおしゃれなホテルが周囲の雰囲気をガラリと変えた。ロビーには若者たちが……

◆「街をきれいに!」と、野宿者を排除するジェントリフィケーション

ドヤのゴミ置き場が不十分だったり、外から車でゴミ捨てにくる人たちがあとをたたなかったり、ゴミ問題は労働者だけの責任ではなかった

「町をきれいにしよう」。異議を唱えようもない、きわめて一般的なスローガン。でもそれを、同じ地域に住み、かつては同じ飯場に寝泊まりし、一緒に働いたかもしれぬ労働者らに叫ばれるとき、道端でうずくまる野宿者らはどんな思いがするであろうか?

「叫びの都市 寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者」(洛北出版)の著者・原口剛氏(神戸大学准教授)は「反ジェントリフィケーション情報センター」の記事で以下のように解説する。

「ある地域がジェントリファイされ『安全で、清潔で、明るい』空間がつくりだされるとき、単に空間だけではなく、人びとの感性も変容する。つまり、資本によって組織された空間からの影響を受け、(資本の立場から見て)『安全で、清潔で、明るい』という感性を内面化してしまう。こうした感性の変容を下地に、地域の再開発を推し進める運動は組織される。釜ヶ崎におけるその例の一つは、『あいりんクリーンロードキャンペーン』という事業であろう。この事業は警察と推進協議会によって主催されており、地元住民、ボランティア、関係団体などが多数参加しているが、参加者は熱心に地区内のゴミを拾っている。おそらく、その根底にあるのは街をキレイにしたいという人びとの『善意』なのであろう。こうした『善意』が動員されつつ、地域全体が消費空間への志向性を高め、不快とされるふるまいは規律、排除されることによってジェントリフィケーションは推し進められていく」。

◆彼らがいかに野宿者を人間扱いしていないか

センターで休む野宿者を、大勢で取り囲み、退去を促す府と市と西成区役所職員(7月31日、稲垣氏撮影の動画より)

釜ヶ崎のセンター周辺の野宿者に対して、大阪府が「立ち退きせよ」と訴えた裁判が9月から始まろうとしている。2月5日、大阪地裁の執行官が、府や市の職員、西成警察を引き連れやってきて、野宿者から氏名などを聞き出し、今回23名を訴えてきた。聞き取りは、訴えるという目的も伝えない姑息なやり方で、しかもわずか1時間たらずで終わったという。野宿者の生死も含め、将来を決めかねない判断にわずか1時間たらず……彼らがいかに野宿者を人間扱いしていないかがわかる。

7月31日午前、市、府、西成区役所職員6人が再び野宿者の調査に来たという。現場に偶然居合わせ、その様子を撮影した釜ケ崎地域合同労組の稲垣氏によれば、府職員が「ここ危ないよ。どいて」と大袈裟に怒鳴って回り、それを受けた区役所職員が「今なら生活保護受けれます」と勧誘していたという。裁判前に一人でも多くの野宿者を減らしたいためだ。

最後に、釜ヶ崎同様、野宿者を強制排除して進められ、先日開業した渋谷「ミヤシタパーク」について、釜ヶ崎の「まちづくり会議」の委員を務める白波瀬達也(桃谷大学准教授)氏がこうつぶやいていた。「新今宮駅周辺も賑わい創出が議論されているけど、この記事のような帰結にならぬよう留意しなければならない。賑わいが悪いわけではない。誰にとっての賑わいなのか、その質が問われている。社会的排除を生まないと都市政策、まちづくりが展開されるべき」。

何を呑気なことを呟いているのだ。あなたも理事を勧める「まちづくり会議」で、センター周辺の野宿者が強制排除されようとしているではないか。足元で火事が起こっているのに「火事を起こさないように気をつけよう」などと言ってないで、一緒に消火活動をやってくれ。「野宿者排除を許すな」と一緒に声をあげてくれ!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

私の人生にとっても、われわれの会社・鹿砦社にとっても最大の事件となった、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件は、15年前の2005年7月12日に起きました。これを神戸地検特別刑事部からリークされ(いや、密通してと言ったほうがいいでしょう)、一面トップで“官製スクープ”の大きな記事を書いたのが、現在朝日新聞大阪本社司法担当キャップ・平賀拓哉記者でした。同日夕刊にも続編記事があり、ここに「平賀拓哉」の署名がありますが、すべて平賀記者が書いたものです。

朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日朝刊

朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日夕刊 「解説」に「平賀拓哉」の署名あり

本年はその事件から15年周年となります。地獄も見ました。そのかん、私や鹿砦社は筆舌に尽くし難いほどの困難な目に遭い、しかし、多くの心ある皆様方のご支援で再起し、出版活動を持続しています。このことについては、節目の年でもあり、『紙の爆弾』5月号(創刊15周年記念号)に「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか」という長文の総括文を執筆し、またこの通信においてもたびたび述べてきました。

そうして、神戸地検と密通し15年前の“官製スクープ”記事を書いた平賀拓哉記者が今や大阪本社司法担当キャップを務めていることが、偶然にも4月1日付けの署名記事で判明し、これも何かの因縁、ぜひとも面談し15年目の気持ちや想いなど聞かねばなるまい、と考えた次第です。その総括文が掲載された『紙の爆弾』5月号を同封して手紙を郵送したのが4月5日でした。なんの音沙汰もありませんでしたが、これは緊急事態宣言が出た直後ということもあり、この対応で慌しいのかと思っていました。

朝日新聞(大阪本社版)2020年4月1日朝刊 「司法担当キャップ平賀拓哉」の署名あり

2020年4月5日付けの手紙

実は10周年の際にも平賀記者に話を聞きたいと思っていたところ、聞いていた携帯の番号は使われておらず、また海外に赴任しているとの情報もあったりで面談できませんでした。

しかし、今は大阪本社で司法担当キャップとして活動されている──私から書籍や資料を入手しインタビューを行い署名記事まで書いたぐらいですから、気安く会って面談してくれると信じていました。

ところが、2度目の「面談申込書」を因縁の7月12日に出し(回答締め切り7月20日)、これも回答ナシ。ようやく3度目の7月21日の「催告書」にて届いたのが責任者名なしのメールでした(別掲画像)。

私たち素人考えでは、署名記事というのは書いた本人が責任を持つということでしょう。みなさん、そうですよね? 私は、当該記事の当事者中の当事者で、書いた本人に面談する権利も資格もあると思いますし、また、当日の朝刊一面トップ、夕刊にも連続して大きく採り上げ署名記事まで書いた本人=平賀記者には私と面談する義務があります。そうではないですか?

同年7月12日付けの「面談申込書」

同年7月21日付けの「催告書」

朝日新聞大阪本社(広報)からの発信責任者不明の非礼なメール

朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日夕刊 平賀記者に渡した書籍の画像あり

その記事と関係のない私以外の者が面談を申し込むのを断るのは理解できますが、平賀記者は、あたかも私たちの理解者顔をし、持っていない書籍や資料を求め、私は、彼が私たちの出版活動を理解して記事にしてくれるものと誤認しタダでそれらを渡しました。それは当該記事(2005年7月12日夕刊)に画像で出ています。私も本当にお人好しですよね(苦笑)。

そうして、運命の2005年7月12日早朝、当日付けの朝日朝刊を見て自分の逮捕を知るという笑い話にもならない物語が始まりました。

その後、192日間もの長期勾留(独居房。うち約3カ月の接見禁止)、勾留中の事務所撤去と事業活動停止、ただ一人踏み止まった編集長の中川以外の全員解雇、第1回公判に神戸地裁の大法廷を埋め尽くしてくれた多くの皆様方、大晦日・正月を酷寒の神戸拘置所で過ごしたこと……走馬灯のように甦ります。こら、平賀さん、少しは私の身にもなってみよ! 私が記事を書かれた当事者中の当事者なら、あなたは私にインタビューし書籍・資料を入手し同日の朝刊、夕刊と連続して大きく採り上げ署名記事まで書いた当事者中の当事者、あなたは私の求めに応じるべきです。そうではないですか? そうでないと、ジャーナリストとして、いや人間として無責任ということになります。「釈迦に説法」かもしれませんが、署名記事というものは、いろんな意味で(無署名記事に比して格段に)重いものです。

平賀記者は、このまま逃げおおせるものと思っているかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。私が『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三(故人。生前は神戸市在住)のように厳しく責任を追及するものとビビッているのでしょうか? 私は平賀記者に私怨・私恨などありませんので、責任を追及するつもりはありません。ただ、15年経った現在の気持ちや想い、疑問点などを訊ねたいだけです。特に幾つか疑問点がありますが、これを解明しないと死んでも死に切れません。

平賀さん、あなたは私と面談し、私の疑問や質問に答える義務があります。あれだけ朝刊・夕刊と連続して大きく採り上げ、署名記事まで書いたのですから当然です。

平賀記者と朝日新聞の非礼な対応を弾劾します。平賀記者は即刻私と面談すべきです。平賀さん、逃げないでください!

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月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

◆このままでは、民族滅亡の危機か

全国の感染者がデイリー1000人を越え、とくにウイルス感染の「密集・密接」が顕著な大都市東京において、いよいよ460人越えの感染者数となった(7月31日)。医療崩壊を怖れるあまり、PCR検査にハードルを課してきた厚労省官僚(医系技官)および国立感染研のテリトリー主義の結果、日本はいよいよウイルス禍のなかで滅亡のきざしを経験しつつある。

このまま加速度的に感染者数が増加するようだと、太平洋戦争のような万骨枯れる事態にもなりかねない。4月の超過死亡率は例年通りだったが、法医学学会のアンケートで保健所と感染研が死後のPCR検査を拒否している実態で触れたとおり、厚労省官僚はウイルス禍による死因を隠している可能性が高いのだ。いずれにしても東京のみならず、大都市圏および沖縄のような観光地においても感染者数は増加の一途である。

◆なぜ観光キャンペーンを中止できないのか

にもかかわらず、わが安倍総理は国会審議および記者会見から逃亡し、半休出勤というチキンハートぶりを顕わにしている。それだけならば、危機管理にからっきし弱い宰相のみじめな姿を見るだけですむのに、余計なことをしでかす。

無為無策をかこちながら、安倍政権は反対意見を押し切って「Go To トラベルキャンペーン」を強行したのである。そして政府の新型コロナウイルス対策分科会では、キャンペーンへの疑義が出されたにもかかわらず、政府は議題にもしなかったという(7月31日)。

いったん決めてしまった政策を変更できない。それは日本が戦前にたどった道を彷彿とさせる。戦争への道を変更できなかった戦前の日本を支配したのは、統帥権を梃子にした軍部の政治支配であり、それをささえる国民の愛国心の熱狂であった。

しかし今日、日本の政界を支配してしまったのはカネによる業界利権、そのもとでの政策の捻じ曲げ。すなわち利権による政治の私物化にほかならない。きわめて私的な理由で、政策変更ができなくなっているのだ。

◆観光業界のドン

「週刊文春」によると、この「Go To トラベルキャンペーン」の推進者である二階俊博自民党幹事長をはじめとする自民党の観光立国調査会の役職者37人が、旅行関連業者(ツーリズム産業共同提案体)から4200万円もの政治献金を受け取っていることがわかっている。

つまり、こういうことだ。国民をウイルス禍にさらす旅行キャンペーン(旅行費の35%補助、15%のクーポン支給)は、旅行業界からの政治献金(限りなく賄賂に近い)への見返りだということなのである。

この「観光立国調査会」という組織は、二階幹事長が最高顧問を務め、会長は二階氏の最側近で知られる林幹雄幹事長代理、事務局長は二階氏と同じ和歌山県選出の鶴保庸介参院議員である。

そして実際に「Go To トラベルキャンペーン」の事業を1895億円で受託したのが、上述の「ツーリズム産業共同提案体」なる団体である。自民党議員に4200万円を寄付したのも、じつはこの団体を構成する観光関連の14団体なのだ。

そもそも二階幹事長は観光立国調査会の最高顧問を務めるばかりか、全国旅行業協会(ANTA)の会長でもある。この全国旅行業協会が、上述した観光関連14団体の中枢を構成するのはいうまでもない。二階幹事長はいわば、旅行業界のドンなのである。またもや利権政治、国民の生命を危機に晒しながら利権を追及するという、超の付く政商ぶりを発揮していると言わざるをえない。

週刊文春の記事から引用しておこう。

「(ツーリズム産業共同提案体)は全国5500社の旅行業者を傘下に収める組織で、そこのトップである二階氏はいわば、”観光族議員”のドン。3月2日にANTAをはじめとする業界関係者が自民党の『観光立国調査会』で、観光業者の経営支援や観光需要の喚起策などを要望したのですが、これに調査会の最高顧問を務める二階氏が『政府に対して、ほとんど命令に近い形で要望したい』と応じた。ここからGo To構想が始まったのです」(自民党関係者)

これこそ、政治の私物化にほかならない。

◆即刻「Go To トラベルキャンペーン」をやめ、全国の旅館とホテルをコロナ待機施設に転用せよ

わたしは政権批判のために、二階幹事長の政治の私物化をやり玉に挙げているのではない。感染者が増加しているさなか、1兆7000万円の使い方を間違っていると、そう言わざるをえないではないか。

現在、入院および療養中の感染者は8000人を超えているのだ。このまま毎日1000人を超える感染者が出るとしたら、数千単位で準備しているという病床は足りなくなる。病院への入院調整が、医療現場にたいへんな煩雑をもたらしているという(東京都医師会会長の会見)。心ある自民党員は、党の統制を怖れずに意見を言うべきである。1兆7000万円もの「Go To トラベルキャンペーン」費用を、政府はただちに待機用宿泊費に転用し、第二波パンデミックに備えるべきであると。


◎[参考動画]GoToトラベル「一旦中止を」野党と専門家が論戦 尾身氏は人の動きを見直す提言の可能性に言及

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

女性史研究において、女性差別の原典とされるのが「古事記」の国生み神話である。しょせんは神話だが、簡単におさらいしておこう。

天地開闢(てんちかいびゃく)のころの高天原の神々には、じつは性別がなかった。男女が生まれるのは、イザナギ(伊耶那岐)とイザナミ(伊耶那美)をふくむ神代七代(かみよななよ)の神々である。

さて、淤能碁呂島(おのごろじま)に宮殿を建てたイザナギとイザナミは、男女の交わりをして、ふたりで国を造ろうとする。ところが、水蛭子(ひるこ)が生まれてしまった。二神が別天津神(最初に生まれた造化の神)に訊いてみると、女のほうから誘ったからだという。

そこで、イザナギが先に声をかけてまぐあい、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま 本州)をはじめとする八つの島が生まれた。イザナギとイザナミは多くの神々を生み出したが、火の神カグツチを出産したときにイザナミが火傷で死んでしまう。

妻の死を悲しんだイザナギは、黄泉の国にイザナミをたずねる。古代の神々の、なんと感情ゆたかで人間臭いことだろう。しかし訪ねてみると、イザナミは変わり果てた姿になっていた。イザナギは雷鳴や風雨に追われて日向の阿波岐原(あわぎはら)まで逃げて、そこで禊ぎを行ない、祓え戸の大神たちが生まれ給う。

神道の基本的な祝詞である「祓詞(はらえことば)」は、その顛末を簡略に記したものだ。

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
(かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ)
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに)
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
(みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち)
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
(もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば)
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
(はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと)
恐み恐みも白す
(かしこみかしこみもまをす)

またこのときに、天照大御神(アマテラスオオミカミ)・月夜見尊(ツキヨミノミコト)・素戔鳴尊(スサノオノミコト)の三貴子も生まれている。

ニニギノミコト(邇邇芸命)は天照大御神の孫にあたり、天孫降臨のヒーローである。この男性神が地上に降り、木花之開姫(コノハナノサクヤヒメ)をめとって海幸彦・山幸彦らをなす。天孫は男性神であり、したがって地上の神話は男の物語になる。女性は太陽であることをやめたのだろうか──そうではない。

◆元明天皇と元正天皇

元明天皇は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹である。

草壁皇子と結婚して皇子(のちに文武天皇)を成したが、皇太子となった草壁が即位しないまま亡くなってしまう。

やがて息子の文武天皇が亡くなると、元明は中継ぎの女帝として即位した。そして平城京への遷都を行なう。執政をたすける右大臣藤原不比等が、最高権力者になった時期である。彼女に中継ぎを強いたのは、大政治家・不比等にほかならないが、彼女が操り人形だったかどうかはわからない。

この時期、国司のもとに郷里制が実施され、律令政治が地方の末端まで行きとどく。徴税と兵役が容易になったのである。元明天皇も各地の国司に詔を発し、荷役に従事する民びとを気遣うよう命じた記録が残っているのだ。

やがて元明天皇が譲位して、娘の元正帝が即位する。元正は結婚経験がなく、独身で即位した初めての女帝である。文武天皇の遺児・首皇子(のちに聖武天皇)がまだ幼かったので、ある意味では母とおなじく「中継ぎ」ということになる。藤原氏の血を引く帝が即位するまで、まだ時間が足りなかったのである。じつはこの連載の核心部分が、この「中継ぎ」とされる二人の女帝なのである。

よく言われることに、古代の女性天皇は中継ぎだったとの評価がある。しかし、すでに見てきたとおり、推古帝おける厩戸皇子(聖徳太子)が即位しなかったのはなぜか? 皇極帝においても、孝徳天皇は難波宮に孤立させられた。あるいは持統帝の後継者と目される草壁皇太子はすぐに即位しようとせず、あるいはなぜか即位しないまま亡くなっている。これらはおそらく、女帝たちの意志と無関係ではないだろう。

そして、保守系の歴史家が無視するか、直視したがらない史実がある。中継ぎの女帝(元正)は、女性天皇(元明)の実の娘なのだ。

元明天皇の夫である草壁皇子が即位しないまま、元明天皇の娘・元正天皇(女系)が即位した史実は、女系天皇反対論者には思いもよらないことであろう。草壁が天皇ではなかったかぎりにおいて、元正帝こそ女系女性天皇なのである。

元明・元正母娘はかならずしも実力派の女帝ではなかったが、古代女帝王朝は花盛りとなる。というのも、つぎの孝謙帝にいたっては立太子ののちに帝位に就き、貴族たちを相手に政争をかまえては、ことごとく勝利のうちに天皇親政を実現するかにみえるのだから──。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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