孝謙女帝は、奈良の廬遮那大仏の建立で名高い、聖武天皇の実の娘である。母は藤原氏の光明子(光明皇后)、この方は貧民救済の悲田院で知られる。藤原氏から初めての后だった。

女帝の名は阿倍内親王、生まれながらにして帝になる皇女であった。しかし、彼女の幼少のころから、王朝は政変と疫病で再三にわたって揺れた。

長屋王(天武帝の孫)は光明子立后に反対する反藤原派だったが、厭魅(呪詛の罪)を誣告によって邸を包囲され、自害に追いこまれた。

最大の政敵を排除した藤原不比等の四人の息子たちは、いままさに全盛をきわめようとしていた。ところが、天然痘の流行がその栄華をはばんだ。四人ともあえなく病没してしまうのである。

長屋王事件から十年ほどのち、大和守から太宰の次官に左遷された藤原広嗣が、都の仏教勢力を批判した。

藤原氏一門の衰退に危機感を持ったのであろうか、同時にそれは仏教政策を推し進める聖武帝への批判と映った。追討軍が組織されると、広嗣も隼人の兵をあつめてこれに対抗する。叛乱は鎮圧され、藤原氏に代わって台頭したのが橘氏だった。

しかし、橘諸兄・奈良麻呂父子も、じつは大仏建立反対派だった。彼らも仏教勢力と対立することになる。このような政局の中で、聖武帝が逝去した。女性皇太子だった孝謙が即位して、父の遺業を継ぐことになったのだ。それを援けたのが、藤原の仲麻呂だった。ふたりは従兄妹同士である。男女の関係であったという説もある(女帝が仲麻呂邸田村第にしばしば宿泊)。

いっぽう、貴族たちの政争は終わらなかった。橘奈良麻呂が兵を動かそうとして、事前に鎮圧された。事件関係者はいちばん軽いはずの鞭打ちの刑で、無残にも打ち殺されている。ついで、孝謙女帝と蜜月の時期もあった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、謀反の嫌疑で都を追われて近江に逃れようとするところ、琵琶湖で妻子もろとも殺された。

いずれの反乱も、仏教勢力に対する政争であり、その意味では孝謙女帝の仏教政策に対する批判でもあった。じつはその背景にあったのは、荘園の認可にかかわる律令制の根本問題だったのだ。「天皇はどこからやって来たのか〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体」を参照。

聖武帝は生前、東大寺大仏(および国分寺・国分尼寺)建立のために、墾田永年私財法をみとめていた。荘園からの税収を期待したのである。律令制の根幹である公地公民制の土台を掘り崩してでも、大仏と国分寺の建立が聖武の仏教国家には必要だった。

ところが、孝謙女帝は天平神護元年(765年)に、墾田私有禁止太政官令を発して、荘園を禁止してしまったのだ。孝謙女帝の背後には、太政大臣禅師・法王となった弓削道鏡の存在があった。仲麻呂の乱を機に、孝謙は称徳帝として重祚する。仲麻呂とともに道鏡を批判していた、淳仁帝を廃したのである。これは火種となって、道鏡事件へとつながる。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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