前回前々回と、新型コロナウイルスに関し、検査数の増加は可能であり、治療薬やワクチンというものは利権構造にまみれやすいということを述べた。

◆その後のワクチンに関する政治の動向

8月、日本政府はイギリスの製薬大手「アストラゼネカ」から6000万人分以上の供給を受けることで基本合意し、うち1500万人分については2021年3月までの供給を目指している(「ワクチン開発に成功した場合、日本に1.2億回分、うち3000万回分は2021年3月までに供給する基本合意」との厚労省資料もある。おそらくファイザー同様6000万人分=1人2回接種で1億2000万回分)。

 

イギリス国内でオックスフォード大学と共同で開発を進めるなか、臨床試験(治験)の被験者の女性1人に副作用が疑われる深刻な症状が確認されたことなどにより、世界各地の臨床試験は9月6日に中断された。だが、安全だと判断されて9月12日以降にイギリスで再開され、10月2日には日本でも再開したと発表された。この「アストラゼネカ」、アメリカのバイオ製薬「ノババックス」と提携する武田薬品工業、第一三共、塩野義製薬、アンジェス、KMバイオロジクスの6社が、ワクチンの生産体制を整備し、厚生労働省はこの6社に対して総額最大約900億円の助成を決定。インフルエンザワクチンを接種しないが、コロナのワクチンについては検討するという人も膨大な数にのぼるだろう。製薬会社にとっては、またとないチャンス。だからこそ、ワクチン関連の報道はチェックし続けたいところだ。

厚生労働省は、10月2日に新型コロナウイルスのワクチンの接種費用を全員無料にする方針を厚生科学審議会の分科会に提示して了承されたことを受け、10月下旬に召集予定の臨時国会にこの無料化の件を含む予防接種法改正案を提出することとなった。

◆「任意」と「強制」

そしてここで、新型コロナウイルスをきかっけとして話題にのぼった、「任意」と「強制」に関し、改めて確認しておきたい。

最近も、航空関連で同様の話題があった。たとえば沖縄の那覇空港や離島8空港では、唾液採取による抗原検査やサーモグラフィーによる体温測定が実施されている。ただし、これらは法令上、任意のため、時間的制約のある人などは協力に応じていない。航空機内などでは、マスク着用をきっかけとしたトラブルが相次ぐ。北海道の釧路空港から関西空港に向かうピーチ・アビエーション機内、北海道の奥尻空港から函館空港に向かう北海道エアシステム(HAC)機内でトラブルとなり、乗客が降ろされている。実際、機内での感染は伝播しにくいという専門家もいる。

接触確認アプリ「COCOA」、ダウンロードも陽性の人の登録も強制ではない。

『Bloomberg』によれば、「香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は1日、700万人余りの香港市民に新型コロナウイルスの無料検査への参加を呼び掛けた。今回の大規模検査は任意だが、希望者の事前登録が低水準にとどまっている」「労働組合の香港金融業職工総会は、中国の方正証券が香港の従業員に政府実施の新型コロナ検査を受けるよう圧力をかけていると批判した」「希望者のみを対象としている検査であり、従業員のニーズと意思に基づき検査を受けるかどうかは自由であるべきだと主張した」とのことだ。

ワクチンもまた、近年の「自己責任論」を振りかざすため、そして国の責任逃れのために、任意のものとして扱われるだろう。

ちなみに、物事を強制すると、刑法上の強要罪(刑法223条)や暴行罪(208条)に該当する可能性があるようだ。

ただし5月、兵庫県加西市の西村和平市長が「新型コロナウイルス感染症対策基金」を立ちあげて予算が立てられ、特別定額給付金を寄付するよう市の約600人の正規職員などに呼びかけられた際のように、任意としながらも強制だと受け取られるような内容だった例もある。

この社会に特有の任意と強制に対するスタンスについては、歴史・哲学、そして自由や基本的人権の文脈でも調べたが、なかなか決定的な背景にたどり着くことはできなかった。そのような特定の1つのものがあるというわけでは、やはりない。

たとえば国土学の専門家である大石久和氏は、『ニッポン放送』で、「日本では日常の利便性が優先されるのに対して、日本以外の国では安全保障が優先されます。これは、『ある約束を全員が守らなければ全員が死んでしまう』という経験、紛争死(紛争による大量虐殺)を繰り返し経験してきた人々と、自然災害で死んでいった日本人の経験の差(違い)によるものです」「日本人はそういう強制を非常に嫌う国民なのです。先ほど話しましたが、日本人には強制されることで命が守られたという経験がないのです。我々はそういう違いを持った国民であり、民族」と言う。

「海外の世界地図をみれば日本列島は端にあり、まさに文化などの吹きだまりであることがわかる」という話を耳にしたことがある。そのようななか、外からくるものをゆるやかに受け入れて独自に「調理」し続けるような性質が、強制や決定よりも任意や合意を優先することも考え得る。

『産経新聞』によれば、「『日本国憲法に国家緊急権が規定されていないことが背景にある』と指摘するのは、大和大の岩田温准教授(政治学)だ」「戦前の大日本帝国憲法には国家緊急権の規定があったが、現行憲法には存在しない。戦争の反省から国家の暴走を防ぐ意識が働いたとされる。このため日本では戦後、大災害など有事の際は個別の法律を新設、改正して対応してきた経緯がある」「岩田氏は『立憲主義の観点から私権制限には慎重な判断が必要』とした上で、『憲法を守るより、国民を守る政治的判断がより重要となる局面はあり得る。これを機に、憲法に例外的な緊急事態条項を設ける議論をすべきだ』と訴える」「一方、『憲法を変えずとも強い措置は可能』との考えを示すのは東京都立大の木村草太教授(憲法)。科学的根拠があって基本的人権に配慮した感染症対策は、現行憲法は禁じていないとし、木村氏は『憲法上の個人の権利と統治機構のルールを守った上で法整備し、行動規制すればいい。改憲論議と結びつけるのは違う』と論じた」とのことだ。

国家・権力をコントロールするための憲法。それは、制限を受けずに自らの意思に従って行動するさまざまな「自由」を保障する。だが、解釈改憲から現在にいたるまでの民主主義や立憲主義が脅かされるような問題が生じ、3・11もあって、私たちは自分の頭で現在・未来のリスクや可能性を考え、判断しなければならない場面が増えたようにすら感じる。そして現在のこの社会の、権力の問題や成熟の度合いに対する疑問をかんがみれば、やはり個人的にはどうせ国家が責任を負うとも考えにくく、ならば強制でなく任意であり続けたほうがよい面は多いのではないかと考えてしまう。とにかくそれ以前の問題が多すぎる。

たとえばスイスでは直接民主制が発展しており、「スイスでは最終的な決定権を握るのは国民だ。それは憲法改正時だけでなく、新法制定時も同じ。スイスの政治制度で最も重要な柱の一つである国民の拒否権「レファレンダム」は政治家にとって厄介で、立法プロセスが複雑になる要因でもある。だが、国民がいつでも拒否権を行使できるからこそ、持続的かつ幅広く支持された解決策が生み出されている」(『SWI』)というような記事もある。

戦後、政治・経済的にアメリカの「51番目の州」となっている日本社会では、到底なしえない。真の独立と民主化を私たちの手で実現させないかぎり。この程度のボリュームで語り尽くせるテーマではないが、この社会では、新型コロナウイルスに関しても、政府の要請をほぼ受け入れてきたのかもしれない。ぬるま湯のなか、運のよさと、現場や個人の志とで乗り切り続けようとしている。

飲食店などが都の「要請に応じない」と問題視するという話題もあった。これは、後日、補償のテーマで引き続き取り上げたい。

次回以降も、あまり話を戻しすぎないようにしつつ、医療従事者の感染、問題の深刻度、併発と原発被害との比較、対策と公衆衛生学、情報開示、補償と財政などについて引き続き、触れたい。そして、原発、台風、コロナなどの問題を総合的に考えた際、導き出される人類の次の生き方についてまで、書き進めていきたいと考えている。

◎新型コロナウイルスの問題から、次の生き方を再考する 〈1〉 〈2〉 〈3〉

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)

フリーライター、労働・女性運動等アクティビスト。月刊『紙の爆弾』10月号「【ALS嘱託殺人事件】日本ALS協会・岸川忠彦さんインタビュー ALS患者に『決断』を迫る社会の圧力」、11月号「『総活躍』の裏で進行した労働者の使い捨て」、『現代用語の基礎知識 増刊NEWS版』に「従軍慰安婦問題」「嫌韓と親韓」など。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他