◆空手バカ一代からの運命
松田利彦(1960年1月21日、埼玉県狭山市出身)は高校2年の時、劇画「空手バカ一代」を読んで強い男に憧れ、極真空手を始めようとしたが、近所の貼り紙を見て、比較的自宅に近い添野道場(後の士道館)に入門した。この道場が単なる空手道場ではないことが、松田利彦の運命を変えていった。後にキックボクシング日本人現役チャンピオンとして、プロボクシングの世界王座に挑戦した男は、松田利彦以外には存在しない。
◆チャンピオンに君臨
身体が小さかった松田利彦は先輩から軽いクラスまで階級制があるキックボクシングを勧められ、1978年(昭和53年)1月、正式にキックボクシング部門に移った。同年11月のデビューから反射神経抜群の運動神経で勘も鋭い松田は、先手必勝の勝利を重ね9連勝。フライ級に出現した大天才と期待されていた。
1982年5月、全日本フライ級チャンピオン、高橋宏(東金)と対戦。デビュー前から、「お前を倒すのはこの俺だ!」と目標としていた相手だったが、第1ラウンドに2度のダウンを奪われ大差の判定負け。チャンピオンとの大きな壁は簡単には打ち破れない現実に撥ね返されるも、スランプに陥る松田ではなかった。雪辱に向け動き出しところへ、同年11月、業界が総力を結集して開催された1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場が決まった。周囲は優勝候補の一人として注目する中、初戦にベテランの元・日本フライ級チャンピオン、ミッキー鈴木(目黒)にKO勝利。年を跨いだ1983年1月の準々決勝では得辰男(渡辺)にKO勝利するも右拳骨折する負傷が響き、2月の準決勝で丹代進(東海)に2-1の判定負け。
優勝の夢は消えるも、怪我が癒える頃の同年5月28日には、早くもオープントーナメント52kg級決勝を制したタイガー大久保(北東京キング)と対戦の機会を得て、第2ラウンドKO勝利で事実上のフライ級軽量域最強という立場となった。
しかし、チャンピオンの称号が無い松田に王座奪取のチャンスが与えられた。翌年の1984年1月、新格闘術日本フライ級王座決定戦で松井正夫(千葉)に第2ラウンドKO勝利し王座獲得。それは取って付けたに過ぎない王座ではあったが、低迷するキックボクシング界の分裂が続いた他団体でも価値は似たものだった。
実績を高めた同年5月、WKA世界フライ級チャンピオンに上り詰めていた高橋宏とノンタイトル戦ながら悲願の再戦に漕ぎ付けた。試合は互角に進んだ最終ラウンド終了1秒前に松田が打った左フックでノックダウンを奪うとレフェリーはカウントするが、ゴングに救われたのか救われないのか、ノックダウンは有効か無効か、ノックアウトなのか判定なのか、試合直後は説明も無く裁定が曖昧な判定勝利で終わった。
このモヤモヤした因縁に終止符を打つべく1985年1月3日に再々戦、第4ラウンドに執念のパンチで高橋を倒すKO勝利し、完全決着を付けた。
◆プロボクシングへ
団体分裂が続いたキックボクシング界だったが、この時期、最も大きな転換期に入っていた。前年11月に4団体が統合し設立された日本キックボクシング連盟(後にMA日本)に、士道館は加わっていなかったが、統合団体を設立した石川勝将氏も当時、別団体ながら松田利彦を高く評価していた。
しかし、ここで松田に転機となったのはプロボクシング転向。日本のプロボクシングは確立した組織で分裂は無いこともないが、新組織のIBF日本から士道館へ松田の出場打診が入ってきたのだった。士道館率いる添野義二館長は空手家であり、1969年(昭和44年)にキックボクシングに転身した経歴を持つが故に、他格闘技に臨める体制を持った道場であったことが、たまたまこの時代に生きた松田の運命を導いていた。
パンチにも自信を持つ松田は出場を決意。1986年(昭和61年)8月18日、奈良でのデビュー戦はいきなりIBF日本フライ級王座決定戦。ここで内田幹朗(大阪島田)に5ラウンドKO勝利し、初代チャンピオンとなった。同年暮れの王座戴冠第1戦目は両角浩にノックアウト負けする不覚をとったが、翌年4月19日に両角浩との防衛戦は世界挑戦権を懸けての再戦。2度ノックダウンを奪われる苦戦も見せたが、逆転ノックアウトで初防衛成功。
更には5月14日に後楽園ホールでキックボクシングの試合(APKF興行)に出場。パンチ重視の戦略もナラワット(タイ)に距離を取られ引分けに終わる。そして7月5日には韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦した。さすがに世界の壁は厚く、崔漱煥のパンチはガードを突き破ってくる今迄に無い重さだったという。特攻精神の反撃虚しく第4ラウンドKOに敗れたが、「試合前の国歌吹奏は大舞台に立っている今迄に無い責任感緊張感に武者震いした。」と語っている。
◆キックボクシング一本へ
後に、IBF日本フライ級王座2度目の防衛戦にも敗れ、置き土産のようにベルトを手放しキックボクシング一本へ戻ったが、当然キックボクシング界は松田利彦を待っていた。興行の少ない士道館が、充実した定期興行が続くメジャー団体のマーシャルアーツ(MA)日本キックボクシング連盟に加盟。待ち望まれた松田の参入だった。
1988年(昭和63年)4月2日、両国国技館での初の格闘技の祭典で、松田は過去の実績からいきなり日本フライ級王座決定戦で林田俊彦(花澤)と対戦するも、ボクシングの距離感が染み付いた意外な苦戦での引分け。延長戦でなりふり構わずパンチで圧力を掛けポイントを獲って勝者扱いながら王座を獲得。
林田のローキックを地味にも幾らか貰っており、「蹴りってこんなに痛いものか!」と改めて思ったという松田は再び蹴りの勘を磨き始めた。
しかし、王座獲得後の初戦は格下に手こずる苦戦の判定勝ち。周囲の期待も落ち気味だったが、松田は「俺はまだ終わっていない。冗談じゃねえ!」と奮起。同年7月の初防衛戦では蘇ったような先手を打つ蹴りで神代遼(グレードワン)を圧倒、最後はパンチを的確に打ち込みKO勝利し最強復活の意地を示した。
ラストマッチは1989年(平成元年)7月、第2回目となる格闘技の祭典で、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)とのチャンピオン対決だった。中盤に右フックでダウンを奪いながらもラストラウンドに打ち込まれてロープダウンを奪われ、逆転を許してしまう激戦で判定負けだったが最後の大舞台で名勝負を残した。以前から減量もきつく、バンタム級転向も考えていたものの、この年の春から、MA日本キックボクシング連盟は突然の代表辞任による活動休止が長引く中で、松田は30歳を迎える1990年1月、現役生活に区切りをつけ、引退式を行ないリングを去った。
1995年には士道館の先輩から不足していたキックボクシングのレフェリーを勧められ、新たな分野に挑むことになった。理屈に合わないことが無い限り、勧められれば受けるのが松田利彦。それでマッチメイクされる試合は全て受けて来た前向きさ。その上手くやって当たり前、下手すれば叩かれる難しさがあるレフェリー裁きも、卒なくこなす姿は評判がいい。
◆知られぬ歴史
プロボクシングとプロキックボクシングで日本チャンピオンになった選手は、後にバンタム級で田中小兵太(田中信一/山木)が居る。JBC管轄下の日本タイトルとIBF日本タイトルでは比べるまでもない格差があり、キックボクシングの日本タイトルと呼べるものは乱立の度合いと業界自体の低迷や隆盛で時代の格差はあるが、松田利彦と田中小兵太はMA日本タイトルを獲得。1987年当時では存在価値の低かったIBFも、後に設立されたWBOと共に勢力を伸ばし、JBCが主要4団体として承認する時代となった。あの時代とは比べられないが、キックボクサー松田利彦がプロボクシング世界王座に挑戦した事実は今も語り草となっている。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」